十月の東京は残暑でまだ汗ばむほど暑く、朝夕だけ秋の気配があり涼しさを感じられた。 内海唯花は朝早く起きると姉家族三人に朝食を作り、戸籍謄本を持ってこっそりと家を出た。 「今日から俺たちは生活費にしろ、家や車のローンにしろ、全部半々で負担することにしよう。出費の全部だからな!お前の妹は俺たちの家に住んでるんだから、彼女にも半分出させろよ。一ヵ月四万なんて雀の涙程度の金じゃ、タダで住んで飲み食いしてるのと同じじゃないか」 これは昨夜姉と義兄が喧嘩している時に、内海唯花が聞こえた義兄の放った言葉だった。 彼女は、姉の家から出ていかなければならなかった。 しかし、姉を安心させるためには結婚するのがただ一つの方法だった。 短期間で結婚しようとしても、男友達すらいない彼女は結城おばあさんの申し出に応えることにした。彼女がなんとなく助けたおばあさんが、なかなか結婚できない自分の孫の結城理仁と結婚してほしいと言ってきたのだった。 二十分後、内海唯花は役所の前で車を降りた。 「内海唯花さん」 車から降りるとすぐ、内海唯花は聞きなれた声が自分を呼ぶのが聞こえた。結城おばあさんだ。 「結城おばあさん」 内海唯花は速足で近づいていき、結城おばあさんのすぐ横に立っている背の高い冷たい雰囲気の男の姿が目に入った。おそらく彼が結婚相手である結城理仁なのだろう。 もっと近づき、内海唯花が結城理仁をよく見てみると、思わず驚いてしまった。 結城おばあさんが言うには孫の結城理仁は、もう三十歳なのに、彼女すら作らないから心配しているらしかった。 だから内海唯花は彼がとても不細工な人なのだと勝手に思い込んでいたのだ。 しかも、聞いたところによると、彼はある大企業の幹部役員で、高給取りらしいのだ。 この時初めて彼に会って、自分が誤解していたことに気づいた。 結城理仁は少し冷たい印象を人に与えたが、とてもハンサムだった。結城おばあさんのそばに立ち、浮かない顔をしていたが、それがかえってクールに見えて、人を近づけない雰囲気を醸し出していた。 目線を少しずらしてみると、近くに駐車してある黒い車はホンダの車で、決して何百万もするような高級車ではなかった。それが内海唯花に結城理仁との距離を近づけされてくれた。 彼女は同級生の友人と一緒に公立星城
「もう決めたことですから、後悔なんてしませんよ」 内海唯花も何日も悩んだうえで決断した。一度決めたからには決して後悔などしないのだ。 結城理仁は彼女のその言葉を聞くと、もう何も言わずに自分が用意してきた書類を出して役所の職員の前に置いた。 内海唯花も同じようにした。 こうして二人は迅速に結婚の手続きを終えた。それは十分にも満たない短い時間だった。 内海唯花が結婚の証明書類を受け取った後、結城理仁はズボンのポケットから準備していた鍵を取り出し唯花に手渡して言った。「俺の家はトキワ・フラワーガーデンにある。祖母から君は星城高校の前に書店を開いていると聞いた。俺の家は君の店からそんなに遠くない。バスで十分ほどで着くだろう」 「車の免許を持っているか?持っているなら車を買おう。頭金は俺が出すから、君は毎月ローンを返せばいい。車があれば通勤に便利だろうからな」 「俺は仕事が忙しい。毎日朝早く夜は遅い。出張に行くこともある。君は自分の事は自分でやってくれ、俺のことは気にしなくていい。必要な金は毎月十日の給料日に君に送金するよ」 「それから、面倒事を避けるために、今は結婚したことは誰にも言わないでくれ」 結城理仁は会社で下に命令するのが習慣になっているのだろう。内海唯花の返事を待たず一連の言葉を吐き捨てていった。 内海唯花は姉が自分のために義兄と喧嘩するのをこれ以上見たくないため喜んでスピード結婚を受け入れた。姉を安心させるために彼女は結婚して姉の家から引っ越す必要があったのだ。これからはルームメイトのような関係でこの男と一緒に過ごすだけでいいのだ。 結城理仁が自分から家の鍵を差し出したので、彼女も遠慮なくそれを受け取った。 「車の免許は持ってますけど、今は車を買う必要はないです。毎日電動バイクで通勤していますし、最近新しいバッテリーに交換したばかりです。乗らないともったいないでしょう」 「あの、結城さん、私たち出費の半分を私も負担する必要がありますか?」 姉夫婦とは情がある関係といえども、義兄は出費の半分を出すように要求してきた。いつも姉のほうが苦労していないのに得をしていると思っているのだろう。 子供の世話をし、買い物に行ってご飯を作り、掃除をするのにどれほど時間がかかるか知りもしないだろう。自分でやったことのない男
「おばあちゃん、頼りにしてるよ」 内海唯花は適当に答えた。 結城理仁は血の繋がった孫で、彼女はただの義理の孫娘だ。結城おばあさんがいくら良い人だといっても、夫婦間で喧嘩した時に結城家が彼女の味方になるだろうか。 内海唯花は絶対に信じなかった。 例えば彼女の姉の義父母を例に挙げればわかりやすい。 結婚前、姉の義父母は姉にとても親切で、彼らの娘も嫉妬してしまうほどだった。 しかし、結婚したとたん豹変したのだ。毎回姉夫婦間でいざこざがあった時、姉の義母は決まって姉を妻としての役目を果たしていないと責めていた。 つまり、自分の息子は永遠に内の者で、嫁は永遠に外の者なのだ。 「仕事に行くのでしょうから、おばあちゃんは邪魔しないことにするわね。今夜理仁くんにあなたを迎えに行かせるわ。一緒に晩ご飯を食べましょう」 「おばあちゃん、うちの店は夜遅くに閉店するの。たぶん夜ご飯を食べに行くのはちょっと都合が悪いわ。週末はどうかな?」 週末は学校が休みだ。本屋というのは学校があるからこそやっていけるもので、休みになると全く商売にならなくなる。店を開ける必要がなくなって彼女はようやく時間がとれるのだ。 「それもいいわね」 結城おばあさんは優しく言った。「じゃあ、週末にまたね。いってらっしゃい」 おばあさんは自分から電話を終わらせた。 内海唯花は今すぐ店に行くのではなく、先に親友の牧野明凛にメッセージを送った。彼女は高校生たちが下校する前に店に戻るつもりだった。 人生の一大イベントを終え、彼女は姉に一言伝えてから引越しなければならなかった。 十数分が経った。 内海唯花は姉の家に戻ってきた。 義兄はすでに仕事に行って家にはおらず、姉がベランダで服を干していた。妹が帰ってきたのを見て、心配して尋ねた。「唯花ちゃん、なんでもう帰ってきたの?今日お店開けないの?」 「ちょっと用事があるから後で行くの、陽ちゃんは起きてないの?」 佐々木陽は内海唯花の二歳になったばかりの甥っ子で、まさにやんちゃな年頃だった。 「まだよ、陽が起きてたらこんなに静かなわけないでしょう」 内海唯花は姉が洗濯物を干すのを一緒に手伝い、昨晩の話になった。 「唯花ちゃん、あの人はあなたを追い出したいわけじゃないのよ。彼ストレスが大きいみたい
「お姉ちゃんもさっき言ったでしょ、あれは彼の結婚前の財産であって、私は一円も出していないのよ。不動産権利書に私の名前を加えるなんて無理な話よ。もう言わないでね」 手続きをして、結城理仁が家の鍵を渡してくれたおかげで、彼女はすぐにでも引越しできるのだ。住む場所の問題が解決しただけでも有難い話だ。 彼女は絶対に結城理仁に自分の名前を権利書に加えてほしいなんて言うつもりはなかった。彼がもし自分からそうすると言ってきたら、彼女はそれを断るつもりもなかった。夫婦である以上、一生覚悟を決めて過ごすのだから。 佐々木唯月もああ言ったものの、妹が自分で努力するタイプでお金に貪欲な人ではないことをわかっていた。それでこの問題に関してはもう悩まなかった。一通り姉の尋問が終わった後、内海唯花はやっと姉の家から引っ越すことに成功した。 姉は彼女をトキワ・ガーデンまで送ろうとしたが、ちょうど甥っ子の佐々木陽が目を覚まし泣いて母親を探した。 「お姉ちゃん、早く陽ちゃんの面倒を見てやって。私の荷物はそんなに多くないから、一人でも大丈夫よ」 佐々木唯月は子供にご飯を食べさせたら、昼ご飯の用意もしなくてはいけなかった。夫が昼休みに帰ってきて食事の用意ができていなかったら、彼女に家で何もしていない、食事の用意すらまともにできないと怒るのだ。 だからこう言うしかなかった。「じゃあ、気をつけて行ってね。昼ご飯あなたの旦那さんも一緒に食べに来る?」 「お姉ちゃん、昼は店に戻らなくちゃいけないから遠慮しとくね。夫は仕事が忙しいの、午後は出張に行くって言ってたし、もうちょっと経ってからまたお姉ちゃんに紹介するわね」 内海唯花はそう嘘をついた。 彼女は結城理仁のことを全く知らなかったが、結城おばあさんは彼が忙しいと言っていた。毎日朝早く出て夜遅くに帰ってくる。時には出張に行かなければならず、半月近く帰ってこないそうだ。彼女は彼がいつ時間があるかわからなかった。だから姉に約束したくてもできないのだ。適当に言って信用を裏切るようなことはしたくなかった。 「今日結婚手続きをしたばかりなのに、出張に行くの?」 佐々木唯月は妹の旦那が妹に優しくないのではと思った。 「ただ手続きしただけ、結婚式もあげてないのよ。彼が出張に行くのは仕方ないことよ。なるだけお金を稼いだほうがい
結城理仁は何事もなかったかのように言った。「会議を続けよう」 彼に一番近いところに座っているのは従弟で、結城家の二番目の坊ちゃんである結城辰巳だった。 結城辰巳は近寄ってきて小声で尋ねた。「兄さん、ばあちゃんが話してる内容が聞こえちゃったんだけどさ、兄さん本当に唯花とかいう人と結婚したのか?」 結城理仁は鋭い視線を彼に向けた。 結城辰巳は鼻をこすり、姿勢を正して座り直した。これ以上は聞けないと判断したようだった。 しかし、兄に対してこの上なく同情した。 彼ら結城家は政略結婚で地位を固める必要は全くないのだが、それにしても兄とその嫁は身分が違いすぎるのだ。ただおばあさんが気に入っているので、内海唯花という女性と結婚させられたのだから、兄が甚だ可哀想だ。 結城辰巳は再び強い同情心を兄に送ってやった。 彼自身は長男でなくてよかった。もし長男に生まれていたらそのおばあさんの命の恩人と結婚させられていただろう。 内海唯花はこの事について何も知らなかった。彼女は新居がどこにあるのかはっきりした後、荷物を持って家に到着した。 玄関のドアを開けて家に入ると、部屋が非常に広いことに気づいた。彼女の姉の家よりも大きく、内装もとても豪華なものだった。 荷物を下ろして内海唯花は家の中を見て回った。これはこれからは彼女のものでもあるのだ。 リビングが二つに部屋が四つ、キッチンと浴室トイレが二つ、ベランダも二箇所あった。そのどれもがとても広々とした空間で、内海唯花はこの家は少なくとも200平方メートル以上あるだろうと見積もった。 ただ家具は少なかった。リビングに大きなソファとテーブル、それからワインセラー。四つある部屋のうち二つだけにベッドとクローゼットが置いてあり、残り二つの部屋には何もなかった。 マスタールームはベッドルームとウォーキングクローゼットルーム、書斎、ユニットバスがそれぞれあるのだが、非常に広かった。リビングと張るくらいの広さだ。 この部屋は結城理仁の部屋だろう。 内海唯花はもう一つのベッドが置いてある部屋を選んだ。ベランダがあり、日当たり良好でマスタールームのすぐ隣にある。部屋が別々であれば、お互いにプライベートな空間を保つことができるだろう。 結婚したとはいえ、内海唯花は結城理仁に対して本物の夫婦関係を求め
内海唯花は笑って言った。「あなたの従兄は彼女がいるじゃない。彼を紹介してどうするのよ?結婚手続きはもう終わったんだから、後悔しても遅いでしょ。ただこのことは秘密にしてちょうだい、お姉ちゃんが本当のことを知ったら悲しむから」 牧野明凛「......」 彼女の親友は、とても勇ましい人だ。 「小説の中の女主人公はいつも大金持ちとスピード婚するけど、唯花、あなたの結婚相手もそうなの?」 そう言い終わると、内海唯花は親友をつつき、笑って言った。「うちの店にある小説、あなた何回読んだのよ?夢なんか見ないでよね。そんな簡単に玉の輿に乗れるわけないでしょ。お金持ちがそこらへんに転がってると思ってる?」 牧野明凛は親友につつかれた場所をさすり、彼女が言っていることはその通りだと思った。彼女はかすかにため息をついた後、また尋ねた。「あなたの旦那さんが買った家はどこにあるの?」 「トキワ・フラワーガーデンよ」 「あら、良い場所じゃないの。あそこの環境は良いし、交通も便利だしさ。この店からもそんなに遠くないし。旦那さんはどの会社で働いてるの?東京で家を買えるくらいだし、トキワ・フラワーガーデンはお金持ちが買えるのよ、旦那さんの収入はきっと高いに決まってるわ。毎月のローンはいくら?あなたもローンのお金を出す必要があるの?」 「唯花、もしあなたもローンを払う必要があるなら、不動産権利書にあなたの名前も付け加えなきゃ。じゃないと損しちゃうでしょ。こう言うのはあまり聞こえがよくないけど、もしあなたたちが喧嘩でもして離婚することになったら、その家は彼のものだし、あなたには家の権利がなくなるのよ」 内海唯花は親友の瞳を見つめ言った。「あなたの考えって私の姉とほぼ一緒よね。家は彼が一括で購入したから、ローンを返済する必要ないのよ。私は一円も出してないわ、不動産権利書に私の名前を加えるなんてできないわよ」 牧野明凛は「夫婦間の仲が良いなら、まあ問題はないんだけど」と言った。 内海唯花はふと思い出した。彼女の姉が住んでいる家は義兄が結婚する前に購入したもので、今も毎月ローンの返済をしていた。内装の費用は姉がお金を出したのだが、不動産権利書には姉の名前は書いていなかった。唯花は義兄がいつも姉に金を使うだけで、能力がないと責めていることを思い、心配になった。 日を
結城理仁はロールスロイスに乗ると、低い声で指示を出した。「俺が新しく買ったあのホンダの車を運転して来てくれ」 あれは妻を騙すために買った車だ。その妻の名前は何と言ったっけ? 「そうだ、あの嫁の名前は何といったか?」 結城理仁は結婚証明書類を取り出して確認するのも面倒くさかったのだ。いや、あれはおばあさんに見せた時に手渡したままだった。どのみち彼は、あの書類を持っていなかった。 ボディーガード「......若奥様のお名前は内海唯花様です。今年二十五歳だそうです。若旦那様覚えていてくださいね」 彼らの坊ちゃんの記憶力は特に優れていたのだが、覚えたくない人の名前はどうやっても覚えられないようだった。 特に女性は毎日会っていて坊ちゃんは誰が誰なのか覚えられないだろう。 「ああ、わかった」 結城理仁は一声言った。 ボディーガードは彼のその話しぶりから、次も新しく来た嫁の名前を覚えていないだろうことが読み取れた。 結城理仁は内海唯花のことを考えるのはここまでにして、椅子にもたれかかり、目を閉じてリラックスして体と心を休めることにした。 スカイロイヤルホテル東京からトキワ・フラワーガーデンまでは十分ほどだった。 高級車はトキワ・フラワーガーデンの入口で止め、結城理仁は自らあのホンダ車を運転して自分の家まで運転していった。 新妻の名前は覚えられないくせに、自分が買った家は覚えられるのだ。 すぐに自分の家の玄関に着いた。ドアの外に見慣れた自分のスリッパを見つけた。これは彼のスリッパじゃないか? どうして外に出されている? 当然内海唯花の仕業に決まっている! 結城理仁の目つきは冷たくなり、整った顔がこわばった。本来はあの祖母を助けてくれた女性にとても感謝していたのだが、祖母が彼女をベタ褒めし、彼と結婚するように仕向けられて彼は内海唯花に対して好感はなくしてしまっていた。 内海唯花の腹の内は分からないと思っていた。 最終的にはおばあさんの言うとおりに内海唯花と結婚したわけだが、おばあさんにはこう伝えてある。結婚した後は彼の正体は隠したまま、内海唯花の人柄を観察し、内海唯花が結婚するに値する人物であるなら、本当の夫婦として一生を共にすると。 もし彼が内海唯花が何かを企んでいるような腹黒女であると判断したなら、彼
結城理仁は自分のスタイルに気をつけていたから、暴飲暴食して太るのは許せないのだ。 ダイエットして体重を落とすのは大変だ。 内海唯花は微笑んで言った。「結城さんはスタイルが良いですよね」 「じゃあ、私は部屋に戻って寝ますね」 結城理仁はそれにひと言返事をした。 「おやすみなさい」 内海唯花は彼におやすみの挨拶をすると、後ろを向いて部屋へと戻ろうとした。 「待て、内海、内海唯花」 結城理仁は彼女を呼び止めた。 内海唯花は振り向いて尋ねた。「何か用ですか?」 結城理仁は彼女を見てこう言った。「今後はパジャマのまま出てこないでくれ」 彼女はパジャマの下に下着をつけていなかった。彼は目が良いので見ていいもの悪いもの全てが見えてしまうのだ。 彼らは夫婦だから彼が見るのはいいとして、万が一誰か他の人だったら? 彼はなんといっても自分の妻の体が他の男に見られるのは嫌なのだ。 内海唯花は顔を赤くし、急いで自分の部屋に戻ると、バンッと音をたててドアを閉めた。 結城理仁「......」 彼は気まずいとは思っていなかったが、彼女のほうは恥ずかしかったらしい。 少し座ってから、結城理仁は自分の部屋に戻った。この家は臨時で購入したもので、高級な内装がしてある家だ。ただすぐに住める部屋ならどこでも良かったのだ。 しかし、あまりに忙しくて彼の部屋も片付けられていなかった。 彼は内海唯花が物分りが良いことにはとても満足した。ずうずうしくも彼と同じ部屋で寝ようとはしなかったからだ。 さらに彼に夫としての責任も要求してこなかった。 それからの残りの夜は、夫婦二人何のいざこざもなく過ごせた。 次の日、内海唯花はいつもどおりに朝六時に起床した。 これまで、彼女は朝起きるとまず朝食を用意して、家の片付けをしていた。時間に余裕がある時は、姉を手伝って洗濯物を干していた。彼女が姉の家に住んでいた数年は家政婦のようなことをしていたと言ってもいい。ただ姉の負担を減らしたいがためにしていたことだったのだが、義兄の目にはやって当然のことだと映っていたのだろう。彼女を家政婦同然と見て使っていたのだ。 この日起きて、まだ見慣れない部屋を見回し、頭の中の記憶部屋で整理して内海唯花は一言つぶやいた。「私ったら、寝ぼけちゃってるわ、まだ
たとえ名義上の夫婦でも、結婚を秘密にしているのは東隼翔も面白くないと思った。結城理仁は友人二人がからかってくるのを聞きながら、それ以上は話さず、引き続き食べていた。そしてすぐにお腹いっぱいになった。「俺はばあちゃんのカフェで座ってるから、二人はゆっくり食べてくれ」箸を置いて、ティッシュで口元を拭くと、結城理仁は立ち上がり、そこから離れようとした。「俺らも腹いっぱいになったし、一緒に行くよ」東隼翔と九条悟も箸を置き、結城理仁と一緒に隣にあるカフェ・ルナカルドへと行くことにした。ボディーガードたちもすでに食事を終えていて、自分たちの主人が店から出ていこうとするのを見て、何も言わず立ち上がり主人を守るようにそっと外へと向かって行った。女主人に気づかれないように。女主人は金城家のお坊ちゃんと食事をしている。金城坊ちゃんは彼らの主人と顔を合わせたことがある。だから女主人には気づかれてはいけないのだ。もしそうなれば主人の正体がばれてしまうから。東隼翔はお会計に行った。九条悟は彼が会計を終わるのを待って一緒に外に出た。歩きながら小声で話した。「隼翔、今日理仁のやつ、なんかおかしいと思わないか?いや、店に着いた時にはいつも通りだったろ。表情だってあんなに冷たくなかったしさ」結城理仁が落ち着いていて、冷たく厳しい感じの人だというのは誰もが知っている。しかしプライベートで友人たちと付き合う時には、ある程度その冷たさは消え、友人に対しては和らいだ表情を見せる。「あいつがトイレから戻って来て、ちょっとおかしくなったよな」九条悟は突然足を止め、後ろを振り向いて中へと進み言った。「ちょっとトイレに行って、あいつに何があったのか確認してくる」東隼翔は彼を引き留め、外に向かって歩き出すと、笑って言った。「あいつが何か見てたとしても、もう時間が経ってるんだから、今行ってそれが見られると思うか?理仁はずっとあんな感じだ。お前の考えすぎだよ」東隼翔は誰かが、あるいは何かが結城理仁の顔色を一瞬にして変えることはできないと思っていた。結城理仁は落ち着き払っていて、たとえ山崩れが起きても顔色を変えやしないだろう。「考えすぎじゃないよ。あいつは絶対に何かに出くわして、突然冷たくなったんだ」九条悟は本当に興味津々で、結城理仁が一体トイレで
結城理仁は自分の席に戻ると、平常心を保っていた。注文した料理が運ばれてきて彼は食べ始めた。友人二人がどんな話をしても、彼は一向に黙ったまま何も話さなかった。頭の中には内海唯花が笑顔で金城琉生に料理を分けていた様子が浮かんでいた。「理仁、なんかお前今日変だぞ」東隼翔は料理を一口食べた後、向かいに座っている結城理仁を見ながら言った。「なんでずっと食べるばっかで、一言もしゃべらないんだ?」九条悟もそれを聞いて頷いた。結城理仁は淡々と「腹が減ってるんだ」と言った。朝食食べたくもないおにぎりを食べたが量は多くなかったので、彼は本当にお腹がすいていた。もちろん、機嫌が良くないのは言うまでもない。気分がすぐれないので、彼はひたすら食べ続けた。彼女が金城琉生に自分の料理をあげるのを彼は別に羨ましいわけではない。彼もそうしてほしいとでも?彼がヤキモチを焼くとでも思ってるのか?彼は以前言ったが、ヤキモチなど焼かない人間だ。ネチネチしたものなんて好きじゃない!彼ら夫婦はもともとルームメイトとして日々暮らしているだけだ。それに契約書にもサインして、プライベートなことはどちらもお互いに干渉したりしない。彼女が契約期間中に次の相手を見つけたいと思ったとして、金城琉生と同居して不倫などしない限り、彼は見て見ぬふりをするつもりだ。結城理仁は心の内で自分に言い聞かせていた。しかし、彼の頭の中には、やはりさっきの内海唯花と金城琉生が楽しそうに笑っておしゃべりしている光景が浮かんできた。親友二人はどちらも結城理仁がおばあさんからグチグチ言われて、それに耐えきれず結局おばあさんの命の恩人と結婚したことを知っていた。彼からお腹が空いていると聞いて、九条悟はからかって尋ねた。「君は奥さんがいるだろ?どうして腹が減るんだよ。今朝は何も美味しい物を作ってくれなかったのか?」これまで会社で彼に会った時には、毎回妻が彼と一緒に朝食を食べようと誘ってくると言っていた。結城理仁はいつも妻がいる人間なんだと自慢しキラキラした顔をしていたじゃないか。九条悟は手を伸ばし、結城理仁がこの日着ていた服を引っ張って言った。「妻がいる人間が、どうして自分で買った服を着ているんだよ」結城理仁は冷たい表情になり、九条悟の手を叩いて払うと、冷ややかな声で言った。「俺と彼女は
少し迷って彼は結局食卓に座り、再びその袋の結びを解いて、食べる気のなかったおにぎりを黙々と食べ始めた。内海唯花と生活するようになって、彼も少し普通の人の暮らしをするようになったと言わざるを得ない。今までの彼だったら普段食べることのない、多くの食べ物を口にするようになった。朝食を食べ終わると、結城理仁はベランダに行き、ハンモックチェアに腰掛け彼女が育てている草花を観賞した。十一時頃までそこに居続け、九条悟からの催促の電話を受け取り、彼はようやく部屋に戻って服を着替え出かけて行った。内海唯花が姉の家に行っているので、結城理仁は夫婦二人がばったり出くわすこともないと思い、ホンダ車には乗らずいつもと同じようにあの高級車ロールスロイスを運転していった。ボディーガードが乗った数台の車に送られて威勢よくビストロ・アルヴァへと向かって行った。付近まで来ると、車を祖母のカフェの前に駐車し、歩いてレストランへと向かった。そうすることであまり目立つことはない。結城理仁がレストランに到着した時、東隼翔と九条悟はすでに来ていて、彼に手招きしていた。彼はボディーガードを引き連れて中に入っていった。ボディーガードたちは三人のすぐ隣の席に座った。こうすれば近くで主人を守ることができるし、友人たちとの食事の邪魔をすることもない。東隼翔と九条悟の誘いだからこそ、結城家の坊ちゃんをここまで来させることができるのだ。結城理仁たちの選んだ席は静かな端の方の席だった。「理仁、注文どうぞ」東隼翔はメニューを結城理仁の前に置いた。結城理仁はそのメニューは置いたまま淡々と言った。「よく来ていた店だぞ、店長にいつものと言えばいい」「他のを試してみないのか?」九条悟がその言葉を受け取りこう言った。「彼はこだわりがあるから、他の料理にしたら食べられないかもしれないぞ。俺もいつものにしようっと」東隼翔は友人二人がいつもの料理を注文すると言ったので、店員を呼んで三人の料理を書いて渡した。「ちょっとお手洗いに」結城理仁は立ち上がって行った。ボディーガードが一人立ち上がり彼について行った。彼らはここで主人が何か都合の悪い状況になるかもしれないと心配しているわけではなく、彼に女性が付き纏うのを心配しているのだ。結城家の御曹司はまるで大きな移動式の磁
「隼翔が明日いつもの店で食事しようって言ってきたぞ。あいつ、毎回俺たちを誘う時はいつもビストロ・アルヴァに行くよな。確かにあの店の料理は最高だけど、隣が結城おばあさんがオーナーのルナカルドじゃなきゃなぁ。あのカフェでお茶でも飲んでリラックスできるってのに、さすがにあそこには行きたくないだろ」「あそこは俺たちが以前よくたむろしていた店だから、隼翔は昔からの情に厚いやつだな」以前、彼らがお互い今の立場にある前のこと。結城理仁がまだ社会経験を積んでいる途中、社長にも就任していない頃、自分の結城家の子息という身分を人に知られるのが好きではなかった。三人の親友たちはそれでよくこの中レベルのレストランで食事をしていた。カフェ・ルナカルドはここでは一番大きく高級なカフェだ。その周辺はアパレルにしろレストランにしろ比較的高級な店が多い。もしそれらの店のレベルが低ければ、ルナカルドに来る客の集客につながらないからだ。この高級カフェに来る客は普通、エリート揃いだ。このエリートたちは常に自分に対してお金は惜しまず使っている。カフェでお茶をした後はよく周辺にあるグルメを満喫したり、服を買ったりする。だから、この繁華街はカフェ・ルナカルドを中心にして中高級の消費エリアとなっているのだ。「行くか?」「ご馳走してくれるっていうなら、もちろん喜んで行くさ」結城理仁は珍しく笑顔を見せた。彼と九条悟、そして東隼翔の友情は厚く固い。東隼翔が食事に誘ってくれて彼がその誘いに乗るのはまた別の話で、主に家にいて内海唯花と顔を合わせるのが気まずいから、彼女と一緒にいる時間をなるべく減らすためだった。「じゃあ、俺も行こうっと。せっかくの週末なんだし、やっぱり羽を伸ばさなくっちゃな。食後は君のばあちゃんが経営しているカフェでだらだらしてさ、夜は海辺にバーベキューでもしに行くか?」結城理仁は断った。バーベキューに行くくらいなら、ゴルフに行ったほうがましだ。九条悟はぶつくさと暫く呟いてから去っていった。彼がいなくなってから、結城理仁は祖母に電話をかけた。「理仁、唯花ちゃんから何か連絡あった?」「うん」結城理仁は声を低くして言った。「ばあちゃん、もう年も取ったし記憶力が悪くなってるんだろうから、もう一度言っておくよ。俺はもうばあちゃんの希望を叶えて内海さ
結城理仁は淡々と言った。「伊集院善は確かに腕っぷしは大したことないだろうが、彼ら伊集院家はA市において結城家と同様トップの名家なんだ。安全のために彼が何人かのボディーガードを連れているのも別にお前だって今になって知ったわけじゃないだろう。なんでそんなに驚く必要があるんだ。お前もああいう光景に憧れるってんなら、毎日ボディーガードを十人くらい侍らせたらどうだ」九条悟はボディーガードを連れなくても、自身の護身術で十分だ。しかも、ほとんどの人は彼の正体を知らないので、もしボディーガードを侍らせていたら余計に人目を引いてしまうだろう。二人は仕事の話をしていて、そこへアシスタントがドアをノックして入ってきた。「社長、コーヒーをお持ちしました」アシスタントはできたてのコーヒーを持って来て、さっと結城理仁の前に置いた。アシスタントが退室した後、九条悟は親友兼上司をからかって言った。「昼は会社から飛び出して奥さんとイチャイチャしといて、午後は元気がなくなったのか。二杯くらい飲んどけよ、な」結城理仁は暗い表情になった。何がいちゃつくだ。彼は内海唯花との間にまたギャップが生じたと感じているというのに。彼女が彼を会社まで迎えに来たのを嬉しく思っておらず、彼女もまた何も言わないし怒りもしない。結城理仁は彼女が今後、二度と結城グループまで彼を迎えに来ることはないとはっきり断言できる。「なんだ?顔色が良くないぞ。まさか夫婦喧嘩でもしちゃったのか?見たとこ奥さんの性格は良さそうだけど」理屈が通じない相手というわけではない。結城理仁は暫くの間黙っていて、いくら待ってもその原因を口にはしなかった。九条悟の口は堅いと言えば堅いほうだが、噂が好きな男だ。彼は九条悟がいろんなことを知りすぎて、ある日酔った勢いで全て暴露してしまわないか心配なのだ。しかし、彼はまた九条悟から内海唯花との、このなかなか先に進まない硬直した状況を打破する方法を聞きたいとも思っていた。それで、彼はこう答えた。「もしかしたら、少し、彼女を傷つけてしまったかもしれない」九条悟の瞳がキラリと光り、立て続けに質問した。「どんなふうに?聞かせてくれよ」結城理仁は机の下で悟の足をひと蹴りした。九条悟は彼に蹴られて、ケラケラと笑って言った。「中途半端にしか教えてくれないって、理仁、そ
食事を終えた後、佐々木唯月は家に帰って休むと言った。午前中ずっと仕事探しをしていて、とても疲れていたのだ。仕事も見つからなかったし、それにショックも受けていた。家に帰ったら、もう少し自分の要求を低くして履歴書を書かなければならなかった。それで仕事が見つかるかやってみよう。「お姉ちゃん、家まで送るよ」妹に言われて佐々木唯月は妹の夫を見た。結城理仁はタイミングよく言った。「義姉さん、私は会社に戻ります」「ええ、気をつけてね」佐々木唯月はそう彼に言い、彼が去った後、まだ寝ている息子を抱き上げて妹の車に乗った。「結城さんが昼ご飯を食べる時間がそんなにないなら、会社までご飯を届けてあげたらいいわ。わざわざここまで来てまた行くのは昼休憩ができなくなるから」「わかった」内海唯花は車を出した。彼女はもう二度と結城グループには行かない。この言葉は言わなかった。姉に叱られるからだ。姉は明らかに妹の夫を気に入り認めていた。結城理仁が会社に戻った頃にはもう仕事開始の時間になっていた。エレベーターを出てすぐアシスタントの一人が彼を見て恭しく言った。「結城社長、九条さんがお待ちですよ」結城理仁は頷き、どっしりとした歩みでオフィスへと向かった。それと同時にそのアシスタントに「コーヒーを頼む。何も入れないでくれ」と言った。彼はブラックコーヒーを好む。彼はそれを聞いてすぐ反応して言った。「社長は午後、コーヒーをお飲みにならないのでは?」結城理仁は普通、朝一杯のコーヒーを飲めば、一日中目は冴えている。もし午後にまた一杯飲めば、夜はもう寝られなくなるのだ。だから、彼は午後にはコーヒーを飲まない。結城理仁が何も答えなかったので、アシスタントはそれ以上は何も言えなかった。理仁がオフィスに入った後、彼は急いでコーヒーを入れに行った。ドアを開けて入ると、九条悟が望遠鏡を持って窓から何かを見ているようだった。結城理仁は顔を曇らせ、大股で彼に近づくとその望遠鏡を奪い取った。「勝手に俺の物に触るな」「なんだ、なんだ、落ち着かない様子だな」九条悟はからかって言った。「君がデスクの上に置きっぱなしにしてたから、ちょっと借りて外を見てただけだよ」二人はデスクの前に座り、結城理仁は望遠鏡を置いた。「昼、奥様は来たか?」「悟、お前は
彼とは、まったく話ができない。内海唯花はこれ以上何も言わず、ただ大人しく助手席に座って黙って、外の景色を眺めた。店に戻ると、佐々木唯月も戻ってきた。「お姉ちゃん」内海唯花は車を降り、姉を呼んだ。佐々木唯月は振り向いて、妹夫婦を見ると、ふっくらした顔に笑顔を浮かべながら聞いた。「結城さんとどこへ行ってきたの?」「一緒にご飯を食べるために、会社まで迎えに行ったのよ。お姉ちゃんは?仕事が見つかった?」結城理仁も車を降りると、佐々木唯月に挨拶した。佐々木唯月は笑って彼に会釈し、妹が仕事について聞くと、顔色を曇らせた。彼女は力なく首を横に振って言った。「まだよ。履歴書いっぱい出したけど、まだ返事がないか、そのまま断られるかの二択ね」途中で少し言い淀んで、また口を開けた。「私に2歳の子供がいるのを知って、子供がまだ小さいから、手を焼くことが多くて、絶対仕事に集中できないって言い張ったの。本当にムカつく。子供がいる母親が仕事に専念できないって誰が言ったのよ。子供の世話をする人がいて、私はちゃんと仕事をこなせるって言っても、相手は全く聞く耳を持たなかったの。いつから子持ちの女性が就職するのに差別されるようになったの?」佐々木唯月は午前中ずっと就活していたが、疲れた体とお腹が空いた以外、何も得られなかった。佐々木俊介と離婚したらまともに生活できるかという夫の家族に罵られた言葉を思わず思い出した。これは三年間のブランクだった。取柄がない以上、彼女が好きなように会社を選べるわけじゃなく、会社に選ばれる状態なのだ。また経理部長の仕事ができると思っていたが、今の状況からみると、どんな仕事も関係なく、仕事がもらえるだけで幸運だということだ。「お姉ちゃん、大丈夫だよ、焦らずゆっくり探せばいいの。きっといい仕事が見つかるから」内海唯花は姉を慰めながら、彼女の腕を組んで店に入った。「先にご飯を食べて、休憩して、午後になったらまた探しに行こう。ネットで履歴書を出してみてもいいと思うよ。面接のお知らせが来たらまた出かけるの」「ネットにも出したのよ、でも面接の連絡はいまいちなの」職場復帰に自信を持っていた佐々木唯月は、午前の成果のなさのせいで、急に自信がなくなってきた。もしかしたら、経理の仕事だけではなく、他の仕事も視野に入れ
「そういえば、話したいことがあるの」内海唯花は話題を変えた。彼女の相変わらずのはつらつとした声を聞いて、結城理仁は彼女がさっきの沈黙に何の不満も抱いてないことがわかった。彼女のその怒りのない様子に、なぜだか結城理仁はもやもやした。「なんだ?」「おばあちゃんが週末の二日間うちに泊まりたいって言ってたわ。先に結城さんの許可を得るように頼まれたの。おばあちゃんの実の孫だから、同意しないわけじゃないでしょ」結城おばあさんは夫婦の邪魔になるのを恐れているに違いない。それはおばあさんの考えすぎだ。そもそも夫婦の邪魔になるわけがない、本当の夫婦じゃあるまいし。二人は昼間各々の仕事をしている。夜になると、二人とも自分の部屋で寝るのだ。用事がある時だけ少し会話を交わすようなもので、普段一緒に世間話をしながら暇をつぶすこともあまりないのだ。前に、スピード婚をするうえで、この婚姻はただルームメイトと一緒に同じ屋根の下で生活するようなものに過ぎないと思っていた。今は本当にその通りになっていた。内海唯花は確かに結城理仁に少し好感を抱いてこの先のことを期待していたが、ただ自分が迎えに来るだけで、彼を沈黙させるほど不愉快にさせるのに気がついて、彼女はその好感が生まれそうな芽を摘んだ。やはり契約書の通りに暮らしたほうがいい。五か月後、また独身に戻るまでだ。結城理仁は確かに祖母に来てほしくないのだ。おばあさんはずる賢い狐のように、よく孫たちに罠を仕掛けてくる。おばあさんは彼と内海唯花がただ夫婦のふりをしているだけだとを知っていたのだ。もし家に来たら、使える手を全部使って二人を同じベッドに送ろうとするに違いない。「週末でもそれぞれやることがあるだろう、ばあちゃんと一緒にいる時間はあまりないと思うけど。うちに来るより実家にいた方がいい、父さんと母さんはすでに退職してるから、ずっとばあちゃんの傍にいられるんだ」結城理仁の話を聞きながら、内海唯花は首を傾げ、彼を見つめた。どうりで、おばあさんは絶対彼の同意を得る必要があると、勝手に決めちゃいけないと何回も注意してきたわけだ。この人は本当に祖母に来てほしくないのだ。「おばあちゃんに泊まりに来てほしくないの?長くいるわけじゃないし、二日間だけよ。来ても午後に着くっておばあちゃ
カフェで結城理仁を待っている内海唯花は、何も注文せず座っているのはよくないと思って、テイクアウトでミルクティーを二杯注文した。ドアの近くの席に腰をかけていたので、結城理仁の車が出てくるとすぐにわかった。彼女はミルクティーを持ち、店を出た。顔に自然と笑みが浮んで、結城理仁に手を振った。車が彼女の前まで走ってきて、ちょうど止まった。内海唯花は助手席のドアを開け、車に乗り込んだ。彼女がしっかりシートベルトを締めると、結城理仁は再び車を走らせた。「どうしてマスク付けてるの?しかも黒いの」内海唯花はさりげなく聞いた。結城理仁は何も言わずマスクを外した。もう会社から離れて、誰かに見られることを心配しなくてもいいからだ。彼本人を直接見たことがある人はそう多くないが、気をつけるのに越したことはない。結城理仁はそれについて何も言わなかったが、内海唯花はそれ以上詮索せず、話題を変えた。「ミルクティー飲む?結城さんの分も買ったんだよ。私は先に飲むね、飲み終わったら私が代わって運転するわ。そうしたら、結城さんも飲めるでしょ」「ありがとう、でも俺はいらないよ」結城理仁は今までミルクティーを飲んだことがないのだ。「じゃ、帰って明凛にあげる。彼女はミルクティーがとても好きなの。毎日の午後、テイクアウトで何種類かお菓子とミルクティーを頼んでいるんだ」「女の子の方はミルクティーが好きかもしれないな。俺は飲まないし、好きもなれないんだ」内海唯花はミルクティーを飲みながら返事した。「私もあまり飲まないよ。飲み過ぎると体に良くないからね」明凛がミルクティーを頼む時、彼女はいつもフルーツジュースを注文するのだ。「今日はどうして俺を迎えに来たんだ?」結城理仁は優しく落ち着いた声で聞いた。「来る前に電話ぐらい寄越したら?もし会社にいなかったら、無駄足になるよ」今日の予定で、ちょうど昼に彼が会社にいたのは幸いだ。いつもなら、この時間になると、彼はほとんど会社にいないのだ。「昼ご飯の時間でも商談するの?」結城理仁はうんと返事した。「大体のビジネスは食事しながら商談をするから」内海唯花は頷いた。「じゃ、今度は電話をかけることにする。サプライズして喜ばせようと思ったけど、逆にびっくりさせたね、ごめんなさい。お姉ちゃんが仕事を探し