結城おばあさんは内海唯花が孫の好みを聞いてきたので、すぐに夫婦二人に進展があったのだと思った。嬉しそうに孫の数少ない好みを唯花に教えた。孫が普段何色のトランクスを着るのが好きなのかという秘密まで全て彼女に教えてくれた。結城理仁が着ているものはすべてオーダーメイドで、出来上がると家まで届けてくれるのだ。おばあさんはその時に、孫がどんな色のトランクスを着るのが好きなのか観察していたのだ。「唯花ちゃん、理仁が特に好きなものってそんなに多くないの。あなたもそんなに悩まないでいいわ。適当に服を選べばいいのよ。服のサイズはあなたに教えてあげるから」「もし私が買った服を彼が気に入らなかったら?」おばあさんは笑って「あなたの贈り物をしたいというその気持ちが大切でしょ。彼がそれを受け取って着るか着ないかは彼が決めることよ。でも、私は理仁はもらったものを絶対に着ると思うわ」と言った。あの子は思うことを絶対口に出さないところがあるんだよ。おばあさんが彼に買った服を、彼は嫌いな素振りを見せるが、実際はその服を着て会社に行き見せびらかしているのだ。おばあさんは彼の会社のことには一切関わらないが、孫が会社で何をしているのか知りたいと思えばいつでも知ることができるのだ。結城理仁はいつも九条悟の前で、自分に奥さんがいることを自慢している。おばあさんの話を聞いて、内海唯花は新しい服を二着と、ネクタイを二本買うことに決めた。結城理仁の数少ない好みの物は彼女のお財布の状況を見ると、到底プレゼントできるようなものではないからだ。彼女は昔から現実を見て何事も決める性質の人間なのだ。自分にいくら使えるかを先に考えてから、それに見合うものを買う。その実力がないのに見栄を張るようなことは絶対にしない。そう決めてから、昼の忙しい時間帯が過ぎた後、昼食を食べて電動バイクに乗ってショッピングへと出かけて行った。そのついでに姉と甥っ子を家まで送り届けた。「お姉ちゃん、帰った後、たぶん義兄さんがまた喧嘩し始めると思う」彼女たちが忙しくしていた時、姉に夫から電話がかかってきて、どうしてご飯を作っていないのかと詰問していた。彼女は姉が答えるのを聞いて、考えるまでもなく義兄は姉からご主人様のような待遇を受けていることが分かり、腹が立っていた。佐々木唯月は少し黙った後
「義兄さんは、お姉ちゃんと割り勘にするつもりですよね。お姉ちゃんは今仕事をしていないし、家で義兄さんとの子供を世話してます。義兄さんがこんなふうにするなら、じゃあ私の姉は夫がいるのといないのと、何が違うんですか?義兄さんは姉が家で何もしていないっていつも言いますけど、今日確かに姉は何もしてないですかね。あれ、でも姉は半分はしてるはずですよ。少なくとも食材を買ってきて、お米もあらって炊飯器に水も入れて、義兄さんはボタンを押すだけだし、残りの半分をするだけでいいじゃないですか」佐々木俊介は何か言おうと口を開いたが、内海唯花は彼が話す機会を与えず、続けた。「義兄さんは家の中が毎日きれいなのは、箒に足が生えて勝手に床掃除してるとでも思ってるんですか?陽ちゃんはまだ小さいし、おもちゃで遊んだ後は部屋中散らかってるんですよ。陽ちゃんだって自分で片付けはまだできないし。義兄さんはまさか、あのおもちゃたちにも足が生えて、自分で元の場所に戻ってるとでも思ってるんですか?それから、義兄さんが食べたり、飲んだり、使ったりしてるもの、他はさておき、あなたが毎日着替えている汚れた服も、お姉ちゃんが洗ってないっていうんですか?あなたが毎日食べてる三食のご飯も姉が作ったものじゃないって?いっつも姉が今、お金を稼いでなくて収入がないのを煙たがってるけど、もし姉が家でこの家のことを何もしてなかったら、安心して会社で真面目に働くことなんてできませんよね?この家庭はあなたと姉が共同で築き上げていくものでしょう。あなたは外で働いて、姉は家庭を守る。あなたたち二人は、どっちもこの家庭のために努力してるじゃないですか。姉は今働いてお金を稼いでいないからって、この家庭のために何も努力していないとでも思ってるんですか。実際問題、姉はあなたが会社で働くよりも疲れる仕事をしているんですよ。だったら、あなたと姉と立場を入れ替えてみたらどうです?あなたが家で洗濯、食事の準備、子供の世話、部屋の片付けをして、姉に仕事に行ってもらったら?」姉の結婚前の収入も義兄とそこまで変わらないのだ。佐々木俊介は内海唯花に何度も反論しようと試みたが、何も言い返せなかった。しばらくして、彼はばつが悪そうにこう言った。「唯花ちゃん、俺は一言しか言ってないのに、君はこんなにまくし立ててきて、まるで俺が君のお姉さん
クソ不味い!しかも甘いぞ!なんで甘い?まさか彼は塩と砂糖を入れ間違えたのか?佐々木俊介はキッチンに戻り、調味料入れを持ち上げて見てみると、砂糖と塩、そして味の素が同じケースに入っていた。さっき彼が作っている時、絶対に砂糖と塩を入れ間違えたのだ。結婚する前、佐々木俊介は家にいて母親が食事を作ってくれていて、結婚した後は唯月姉妹が作っていたのだ。だから彼は全くと言っていいほど料理を作ることができない。砂糖と塩を間違える人が作り出した料理を食べられるほうがおかしいだろう。そして炊飯器のご飯を見てみると、それは佐々木唯月が水を入れて用意していたものだから、食べることができる。でも、おかずがないのでは、美味しい物を食べ甘やかされてきた佐々木俊介には白米だけを食べることはできないのだ。自分が会社で半日働き、家に帰って熱々の料理を食べることができないことを思い、佐々木俊介は怒りがどっとこみ上げてきた。頭に血が上ったまま部屋まで行き、唯月がベッドの上で携帯をいじっているのを見て、怒りが更に燃え上がった。急ぎ足で彼女のもとへ向かって行き、片手で唯月の携帯を叩き落とすと、髪を引っ張り、そのまま床に引きずり下ろした。そして、彼女に殴る蹴るの暴行を加えた。その時、彼は子供が目を覚まさないように、怒鳴ったりしなかった。佐々木唯月は油断していて、彼に髪を掴まれて床に倒されてしまったのだ。彼女はハッと我に返ると、すぐに彼に抵抗した。佐々木俊介は男でもあるし、先手を取った側だから、唯月がいくら抵抗しても不利な状況だった。佐々木俊介に殴られて顔に青あざができ、鼻が腫れても、唯月は負けを認めようとはしなかった。彼女は以前、同僚から夫婦が殴り合いの喧嘩になった時に、何があっても勝て、負けてはいけないと言っていたのを覚えていた。男に自分は簡単にはいじめられない女なのだと分からせるためなのだと。そうすれば、男を抑え込むことができる。もし負けてしまえば、男のほうは暴力に覚えて癖になってしまうのだ。家庭内暴力は、一度許してしまえば、それは永遠に繰り返されることになる。佐々木俊介がまた拳を振り下ろして、彼女が激痛を感じている時でも必死に彼のその手を掴み、腕を思い切り噛み付いた。力いっぱいに噛み付かれて俊介は叫び声を上げ、もう片方の手で彼女の髪の毛を引っ張った
佐々木唯月は包丁を握りしめ彼を追いかけた。佐々木俊介は唯月が、まさかここまでやるとは思っていなかった。結婚してから、彼女はいつも優しく思いやりがあった。ここしばらくの間、彼がいつも彼女を怒鳴っても、あまりにひどい場合を除いて、彼女が怒って彼と喧嘩をすることなどなかった。今回彼が手を出すと、彼女は狂人のようになってしまった。彼に殴り返してきただけでなく、包丁まで持ち出してきた。佐々木俊介は家を出て、外に逃げていった。佐々木唯月も引き続き、包丁を握り彼を追いかけて行った。夫婦二人は追いつ追われつで、下の階まで走っていった。この騒ぎが同じコミュニティに暮らす人たちをとても驚かせた。唯月が包丁を持って佐々木俊介を五つの通りを過ぎるまで追いかけ、疲れて動けなくやってようやく息を切らせて道端に座り込んだ。佐々木俊介も疲れていた。彼女とかなり距離を取って座った。彼の両親と姉が急いで駆けつけ、彼らを見た時、佐々木俊介はどれほど辛い思いをしたことか。佐々木家の父親と母親は自分の可愛い息子が狼狽しきった様子で、両頬が大きく腫れ上がっているのを見て、死ぬほど怒り狂った。姉のほうは服のそでをまくり上げて、怒鳴った。「このクソ女、うちの弟に手を出しやがって、殴り殺してやろうか!」母親は息子の様子に心を痛めて涙を流し、佐々木唯月を怒鳴りつけた。「息子に何か恨みでもあるのか?うちの息子をこんなひどい有様にして、前言ったでしょ、彼女の両親が死んでから誰もちゃんと教育する人がいなかったのよ。彼女はがさつで嫁には相応しくないって。それでも結婚するって言うんだもの。あなたは一人の立派な大人の男性よ。たった一人の女にすら勝てないなんて。いつも私たちの前では彼女に教育してやるんだなんて大きな態度を取っておいて、今の自分の状況を見てごらんなさいな」佐々木家の母親は当時、家族全員が唯月に早く嫁いで来いと願っていたことなど忘れてしまっていた。その時、唯月の収入がとても高かったからだ。それが今は彼女を嫌って相手にしていない。佐々木家の父親は「うちの息子をここまで育て上げた俺ですら殴ろうとはしないのに、唯月の奴、酷すぎるぞ。彼女は今どこにいるんだ、父さんが行ってお前の敵をとってやろう。あいつが降参するまで、こてんぱんに叩きのめしてやるから。お前の
佐々木唯月は冷ややかに笑った。「彼がどうしても割り勘にするって言うから、彼が言った通りにやっただけよ。彼が怒ったからって私に手を出してもいいわけなの。あなたたち彼のあんな姿を見て心を痛めてるけど、私が彼にボコボコにされたのが見えないわけ?あなたたちの息子は両親がいて、産んで育ててくれたのよね。まさか私には私を産んで育ててくれた親がいないとでも?そうよ、私の両親は亡くなったわ。でも、親がいない孤児だからって、あなたたちにいじめられて殴られる筋合いなんかないわよ。あなたたち一人ずつ?それともまとめて?どうでもいいからかかってきなさいよ。今まで言えなかった事を今日全部吐き出すわ。私と一緒にいたくないなら、直接言いなさいよ。家庭内暴力をするつもり?私はそう簡単にやられたりしないわ!あんたたちまだ私をいじめて殴ろうって言うなら、死んでもおまえらを地獄に引きずり下ろしてやる!佐々木俊介、前に言ったわよね。私を殴ろうっていうなら、その場で私を殴り殺さないかぎり、寝ない方が身の為だってね。寝ている隙に私があんたをズタズタに切り刻んでやるんだから!」唯月は凶悪な目つきで佐々木一家を睨みつけた。彼らが彼女に手を出そうものなら、彼女は共に滅びる覚悟なのだ!佐々木家の面々「......」「こんの気性の荒いクソ女が、理屈が通じなくて手の付けようがないよ!」佐々木家の父親は唯月を罵ると、息子に向かって言った。「俊介、行こう。私たちと一緒に家に帰ろう」佐々木俊介も今日の唯月にとても驚いていた。知り合ってから今まで、12年は経っているが、彼は彼女がこんなに反骨精神を持っているとは知らなかった。唯月の凶悪な様子を思い出して、俊介は両足をガタガタと震わせていた。そして両親と姉と一緒に帰って行った。同時に会社に連絡し、数日間休みを取った。彼は家でゆっくりと傷を癒さないといけないからだ。佐々木家の姉は車で来ていた。一家四人は車に乗ると、姉は「俊介、彼女と離婚しちゃいなさいよ。陽くんの親権を取って、あんな女は捨ててしまいましょう。そうなればあの女はまだ偉そうにしていられるかしらね」と言った。佐々木俊介は口元の血を拭うと、両親に向かって言った。「あの女と離婚することになったら、父さんと母さんは陽の面倒を見てくれる?」「父さんと母さんは私の子の世話
佐々木俊介は家族が知っていても、彼を責めないのを見て言った。「唯月は子供の出産の後、だんだん太っていったもんだから嫌いになったんだ。莉奈は人の気持ちが分かる子だし、若くてきれいだ。彼女に対する愛こそ本物の愛だと感じるんだよ」佐々木家の母親は「相手はあなたの身分や地位、収入に惹きつけられたのよ。以前のように普通のサラリーマンだったら、誰があなたを好きになるの?」と急所をずばりと言い当てた。「唯月は確かにちょっと凶暴であなたをこんな有様にしちゃったけど、まじめな話、彼女は結婚して長年、あなたのお世話をしっかりしていたわ。あの家もきれいに片付けてるしね。苦労を耐え忍んで暮らして、家事をこなせる人だわ。あの女性は唯月には及ばないわ」佐々木母は確かに息子を贔屓しているが、唯月への評価は的を射ている。「良い妻と結婚しなくちゃ。俊介、あなたが外でどう遊ぼうが、母さんは何も言わないわ。でもね、あのお嬢さんと結婚したいと思うなら、絶対に慎重になりなさいよ。将来後悔したくなかったらね」多くの男が離婚して浮気相手を妻として迎えた後、こんなはずじゃなかったと後悔するのだ。母親は実際は息子の現状に非常に満足していた。だから、息子が愛人を娶って幸せになれず報いを受けるのは望んでいなかった。しかし姉はこう言った。「唯月のどこが良いって言うの?俊介がこんな目に遭ったんだから、私たち家族はこんな嫁を許しちゃダメよ。俊介、お姉ちゃんはあなたと莉奈ちゃんのことを応援してるからね。うまく暮らしていけるかなんて、一緒に生活し始めてからようやく分かるものよ。誰にも分からないでしょ?結婚する当初だって唯月は教養もあるし、礼儀正しかったでしょう。その時、誰も彼女がまさか包丁を持って、街中を俊介を追い回すなんて思ってもみなかったじゃない。あの子が俊介をどんな姿にした?」佐々木家の親二人は何も言わなかった。「俊介、数日は家に戻らないで。お金もあの子にあげちゃダメよ。彼女に謝ったりしないで、彼女から先に過ちを認めて謝罪されるのよ。今度こんなことは絶対しないと約束させてから戻りなさい」姉は「今離婚しないとしても、彼女を調子に乗らせてはいけないわ。さもないと、あなたは家庭内での立場が落ちちゃうわ。大の男は家庭内でも外でも上に立たなくちゃ。女になめられちゃダメなんだって」とアドバイ
「じゃあ、お願いするわね」牧野明凛は笑った。「私たちの仲でしょ、ずっとあなたが店を閉めてくれてたんだから、あなたに損させちゃってたじゃん。今日は私の番、そうすれば私もスッキリだしね」内海唯花も親友に遠慮せず、買った服を持って親友に挨拶し、店を後にした。彼女は車のドアを開け、服を助手席に置くと、結城理仁にこう言った。「先に帰ってて、電動バイクで食材買いに行ってくるから。お米を炊く準備ができるなら、先にお米を洗って炊いといてね。できないなら、私が帰ってからやるわ」結城理仁は彼女の電動バイクを見て言った。「君の新車は?」「今日家を出るのが遅くなったから、渋滞に巻き込まれるのが嫌で電動バイクで来たの」内海唯花はヘルメットを被ると「じゃ、行くわね」と言った。結城理仁が何か言うのを待たず、彼女は電動バイクに跨り走り去ってしまった。結城理仁「......」彼女はたまにそそっかしくて、彼の落ち着いた性格とは正反対だった。そして助手席に置いてある袋を見て、それを手に取り中身を出して見てみた。すると、中には紳士服が入っていたので、彼は眉間にしわを寄せた。彼女は一体どこのオス馬の骨に服を買ってやったのだ?服のサイズを確認し、自分のサイズと同じだと気づいた。しかも全部黒で、まさか彼に買ったのではないだろうな?そう思い、結城理仁はさっきの不愉快さが跡形もなく消え去った。牧野明凛が店から出て来て、彼は彼女に会釈した。それを挨拶代わりにして車を走らせて行った。彼が去った後、金城琉生がちょうどやって来た。牧野明凛は自分の従弟を見て驚き、手を伸ばして従弟の顎に生えた髭を引っ張って言った。「琉生、しばらく見ないうちに、なんでこんな髭伸ばしてるのよ?これ、もう剃ったほうがいいんじゃない。まだ若いんだから、髭なんて生やさないでよ、年取って見えるわよ。あなたもしかして最近めっちゃ忙しくて疲れてるんじゃない?なんか全体的に憔悴しきって元気がないわよ。若者だから張り切って頑張るのはいいけど、限度ってものがあるんだからね。健康じゃないと何もできないでしょ、体を大切にしなきゃ」「大丈夫だよ。ただ仕事がちょっと忙しだけだから」金城琉生は実際は内海唯花のために髭を伸ばしているのだ。その髭もそんなに長く伸びているわけではないが、普段彼の顔はスッキリときれ
牧野明凛はそう言った後、従弟をいぶかしそうに見つめ尋ねた。「琉生、なんでこんなこと聞くのよ?金城琉生はもちろん自分が内海唯花に密かな恋心を抱いていて、彼女が離婚するのを期待しているとは言えず、でたらめを言った。「ただ唯花姉さんの心配してるだけだよ。それ以外の何でもないってば。唯花さんはあんなに優秀な女性なんだ、もし旦那さんが彼女を好きにならないなら、早めに離婚するのも良いと思ってさ。彼女のよさを良く理解してる男性を見つければ幸せになれるに決まってるよ。「それはそうよ。唯花はとっても良い子なんだから、私は結城さんが唯花のことを愛するようになるって思うわ。もしかしたら唯花が彼を好きになるより、彼のほうが先に唯花のことを好きになっちゃうかもよ」牧野明凛は親友が幸せな日々を過ごしていくことを望んでいるのだ。金城琉生はそれを聞いて気が塞いだ。従姉にも彼が内海唯花に片思いしているなんて告白できないし。従姉がそれを母親に言うのが怖いのだ。彼が内海唯花より年下なのは言うまでもなく、内海唯花が既婚者だからだ。もし彼女が離婚したとしても、彼の母親はすぐには彼女を受け入れてはくれないだろう。十分に状況把握ができるまでは、金城琉生は自分の気持ちをしっかりと隠しておいて、誰かに知られないようにしているのだ。夕日が西の空に沈み、黒の帳が人々が暮らす大地に降りる。夜がこうして静かに訪れた。トキワ・フラワーガーデンにて。内海唯花はキッチンで忙しくしていた。キッチンから時折香る美味しそうな匂いにつられて、結城理仁がキッチンの入口までやってきた。彼は手伝いをしようと思っていたが、内海唯花がご馳走する側なんだから自分一人でやると言って、彼には休んでてもらったのだ。それで彼はやることがなく、リビングでテレビを見ていたが、特に面白くないと思い、妻が料理を作る様子を見ているほうが面白いと思って来たのだった。内海唯花の賢く優しい様子に、結城理仁は彼女から目を離さずじっと見つめて、ますます柔らかい目つきになった。彼自身がそれに気づいていないだけで、ただ内海唯花の良いところはたくさんあると思っていた。「内海さん」結城理仁はあることを思い出し、突然彼女を呼んだ。唯花は頭を彼のほうへ向けて目線を送り、引き続き料理に取り掛かって尋ねた。「結城さん、なにかある
内海唯花はすぐに部屋の中へ突入した。佐々木俊介はすでに我に返り、矢の如く部屋の中へと飛び込んでいった。そして成瀬莉奈の上に馬乗りになっていた唯月を蹴り飛ばした。部屋の中に突入した内海唯花は相当に怒りを爆発させて、彼女も一発蹴りをお見舞いした。空手を習っていた内海唯花は、あの内海陸の不良たちとやり合った時も優勢に立っていた。そんな彼女が唯月を蹴飛ばした佐々木俊介に力いっぱい蹴りを食らわせたのだから、彼も床に倒れ込んでしまった。「お姉ちゃん」内海唯花は姉のところまで行き、彼女を抱き起した。佐々木俊介も素早く床から起き上がり、急いで成瀬莉奈を支えて起き上がらせ、唯月姉妹二人に怒声を浴びせた。「唯月、てめえら何やってんだ?」唯月は成瀬莉奈に殴りかかって息を切らせながら、夫の怒声を聞いていた。そして彼女の怒りはまたふつふつと沸き上がり、彼女も怒鳴り散らした。「俊介、こんなことして許されるとでも思ってんの?私はあんたのために仕事を辞めて、家庭を守り、子供を産み育ててきたのよ。それなのにあんたは私を裏切って、こんなアバズレの泥棒猫なんかと一緒にいたくせに、私に何をしてるか聞くわけ?私は今最低な人間を懲らしめているのよ!」そう言って、彼女はまた突進していった。佐々木俊介は成瀬莉奈の前に立ちはだかり、成瀬莉奈にもう暴力を振るわせないというばかりに、唯月と揉み合った。そして口で罵った。「唯月、もうやめろ!言っておくがな、俺はかなり前からお前のことなんて愛していなかったんだよ。お前に嫌悪感を抱くようになってかなり経つ。今の自分の姿を見てみろよ。醜い所帯染みたババアになりやがって。大学まで出たってのに教養はねえのか、羞恥心はどこへやった!」唯月は怒りで笑いが込み上げてきた。彼女は成瀬莉奈を殴ることができないので、重たい一発を佐々木俊介の顔面に食らわせた。「私のこのおばさんの姿はあんたのせいでしょ。あんたこそ、大学まで行ったのに、恥も知らないわけ?その女も大学まで行って、倫理観や道徳心は学ばなかったの?なんでもかんでも学があるだのなんだのの責任にしてんじゃないわよ。世界中の教養ある人たちを汚すのはやめな」佐々木俊介はビンタを食らって、そのままお返しの一発を繰り出そうとしたが、内海唯花が急いで姉を引っ張り、彼のその手は虚空を切った。「あんた
「こんな遅くに、一体誰だよ?」佐々木俊介はぶつくさと言いながら、機嫌の悪そうな顔をしてドアを開けに行った。彼がドアを開けると、ドアの前に太った人影が見え、彼は驚いてしまった。少し信じられないといった様子だった。唯月が本当にここまで来た!彼女はどうして彼がここにいると知っているのだ?夫婦二人は目を合わせた。佐々木唯月は上半身裸の彼を見て、頭の中で彼らの過去十数年に渡る付き合いを考えていた。なるほど、男が女性を裏切るのはあっという間で、すごく簡単なことなのだな。佐々木俊介は我に返ると、すぐに顔を暗く曇らせ、唯月に詰問を始めた。「なんでここにいる?陽は?こんな夜遅くに家で陽の面倒も見ずに、こんなとこまでやって来て……」「俊介、誰なの?あんなに力強くドアをノックしちゃって」佐々木俊介が唯月を責めている途中に、成瀬莉奈がゆったりと現れた。彼女はパジャマ姿で、髪は適当におろしていた。二人がさっきまで激しく愛し合っていたのか、彼女は見た感じ艶っぽい色気を出していて、首にはその痕がくっきりと残っていた。この状況を見れば、馬鹿でも何があったのかわかるだろう。「この泥棒猫!」佐々木唯月は彼女のふくよかな体で、ドアを塞いで立っていた佐々木俊介を押しのけ、電光石火の如く部屋の中へ押し入ると、瞬く間に成瀬莉奈の前に立ちはだかった。そして、成瀬莉奈のロングヘアを掴んで引っ張った。手を挙げ――パンパンパンッ立て続けに成瀬莉奈の顔に四回ビンタを食らわせた。その動作は速く、本当に一瞬の出来事だった。その行動には少しの躊躇いもなかった。「きゃあぁぁぁぁ――」成瀬莉奈は大声で叫んだ。「夫の世話をすると言っておきながら、この卑しい女、あなたの言ったお世話ってこういう意味のお世話だったのね。夫には私という妻がいるのよ。あんたなんかの世話がいると思う?このアバズレ、殺してやる!」佐々木唯月は怒鳴り声を上げながら、成瀬莉奈を引っ掻き殴った。成瀬莉奈はそれに抵抗しようとしてみたが、佐々木唯月に先手を取られて、彼女のその抵抗など唯月にとっては微々たるものだった。佐々木唯月の力は強い。彼女は成瀬莉奈を床へ押し倒すと、彼女の上に馬乗りになって、また何度もビンタを繰り返した。その音はまるで爆竹を鳴らすかのように、パンパンパンッ
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
結城理仁は玄関の鍵をかけた後、内海唯花の手を引き、歩きながら言った。「友達に調べてもらった。君の義兄はマニフィークホテルという神崎グループ傘下のホテルにいるらしい。俺は結城グループで働いていて、この二つの会社は犬猿の仲だから、神崎グループの社員に俺だとばれては困る。それで黒ペンで書いたんだよ。これなら、俺だって気づかれないだろう」内海唯花は彼の顔に描かれた先天母斑を何度も見た。切迫した状況の中で、彼はこのような細かいところにも考えが回るようだ。このように細かいところまで考えが及ぶ人だから、結城グループという大企業でエリートをやれるわけだ。内海唯花は今おばあさんが言っていたことを信じられた。おばあさんは当初、彼女の前で結城理仁のことをべた褒めする時に言っていた。結城理仁はとても細かいところに気がつく人間だと。当然、彼が心から優しくしようと思った時に、彼のその細かい気配りが至る所でお目見えするのだ。「後で帰ってきたら、水と石鹸でしっかり洗ってね」内海唯花は本屋兼文房具店を営んでいるから、皮膚についたペンのインクの落とし方をよくわかっているのだ。正直に言うと結城理仁は帰ってきたら、内海唯花に顔についているインクを落としてもらいたいと思った。その言葉が口元まで来て、彼はまたそれを吞み込んでしまった。そんなことを言う勇気がなくて、口に出せなかった。そんなことではおばあさんから「あんたその口はなんのために付いているのよ?言いたいことははっきり言いなさい!」と言われることだろう。九条悟なんかは「ボス、怖がらずに堂々と口にするんだ!」と言うはずだ。内海唯花夫婦と清水のほうは急いで行動を開始していた。一方、成瀬莉奈のほうはというと、佐々木唯月からの電話を切った後、浴室のドアをノックしに行った。佐々木俊介がドアを開けると、彼女はその中に入っていった。暫くしてから、二人は浴室から出てきた。彼女は佐々木俊介に抱きかかえられて出てきた。その美しい顔には恥じらいの色がにじみ出ていて、バカでも彼らが浴室の中で何をしたのか想像に難くない。キングサイズベッドに横になり、佐々木俊介の胸に抱かれた成瀬莉奈は突然口を開いた。「俊介、言うのを忘れてたけど、さっき奥さんから電話がかかってきて、さっさと家に戻って来いって怒鳴り散らしていたわよ。私が
内海唯花はそう言いながら自分のキーケースから一本の鍵を取り出して結城理仁に手渡した。「これはお姉ちゃんの家の鍵よ」結城理仁の黒い瞳が瞬いた。佐々木俊介が接待だったことを彼は知っていた。彼が九条悟に佐々木俊介の不倫の証拠を集めさせた時、噂好きの九条悟はその証拠を提出した後、どうもまだ百点満点とは思えず、納得がいかなかったので、裏でこっそりと佐々木俊介を監視していたのだ。それで、佐々木俊介が会社を出てからの一挙一動は、九条悟にすべて把握されていたのだった。夜、結城理仁が内海唯花に付き合って海辺に行っている時、隙を見て九条悟にメッセージを送り、チャンスを狙って裏で佐々木俊介と成瀬莉奈の関係がもっと進むように手を回していたのだ。佐々木俊介が完全に家庭と結婚生活を裏切っていることを実証するために。佐々木唯月が離婚を切り出す時、倫理的観点からも優位に立つことができる。今佐々木俊介と成瀬莉奈は一緒にいる。これは彼ら二人が自然の成り行きでそうなったことなのか、それとも結城理仁の裏工作による結果なのだろうか?結城理仁はすぐにはその答えを出せなかった。しかし、どちらにしても結果は同じだ。「君は彼らがどこのホテルにいるかわかる?」「お姉ちゃんが教えてくれないの。私には来るなって」内海唯花はどうしようもなかった。姉に彼女の助けが必要な時に、姉のほうは彼女を遠ざけ、自分でどうにかしようとしている。「俺のあの情報通な友人に連絡して、調べてもらうよ」「こんな夜中に……」「問題ない。いつかあいつにご馳走してやればいいから」それなら九条悟に一日休暇をあげれば済む話だ。「内海さん、出かけないで、ここでちょっと待ってて。それから、君の車の鍵を一緒に渡してくれ、清水さんに起きてもらって、義姉さんの家に行って陽君の面倒をお願いするから。俺は君と一緒に君の姉さんのところに行く」結城理仁はそう内海唯花に言うと、彼女が車の鍵を取り出すのを待って、それを受け取り家の中に入っていった。清水の部屋のドアをノックする時、彼は九条悟にも電話をかけた。九条悟は夜更かしをするのが好きなので、遅くに寝て朝も遅くに起きる。なにか面白いことがあれば、早めに会社に出勤してくるのだが、それがなければ、彼は結城理仁よりも遅く出勤してくる。結城理仁から電話がかか
彼女が息子の世話をしなければならないと知っていて送ってきたのだ。この時間は確かに息子を一人で家に残し、ホテルまで行って浮気現場を押さえることなどできない。妹に電話しようか?佐々木唯月は悩んでいた。こんな時間に妹にお願いする?少し躊躇った後、唯月はこれは佐々木俊介の浮気現場を押さえるチャンスで彼女に有利になるのではないかと思った。それで、彼女は内海唯花に電話をかけた。内海唯花はビール二本飲んで熟睡してしまい、結城理仁に抱きかかえられて家まで連れて帰ってもらうほどで、電話に気づかなかった。佐々木唯月が電話をかけてきて、唯花の携帯が何度も鳴っていた。そして、ようやく彼女は夢の世界から現実世界へと戻ってきた。携帯を掴み、彼女は誰からの着信か確認することなく電話に出た。「もしもし、どなたですか」「唯花、私よ、お姉ちゃんよ」「お姉ちゃん、どうしたの?」ようやく我に返った内海唯花は姉が今日クズ夫に離婚を叩きつけると言っていたことを思い出した。それで夫婦が喧嘩したのだと勘違いし、眠気が一気に吹っ飛んだ。勢いよくベッドから起き上がると急いで尋ねた。「お姉ちゃん、どうしたの?まさか佐々木俊介の奴がまた暴力を振るってきた?」「あいつ家に帰ってきてないの。接待があるって言ってて、夜遅くにしか帰れないって。だけど、もうすぐ一時よ、それでもまだ帰ってきてないの。だから、私、あいつに電話をかけたのよ。それで電話に出たのは、あの成瀬莉奈って女だったわ。あの人たち今一緒にホテルに泊まってる」「お姉ちゃん、あいつらの浮気現場を押さえに行きたいのね?」やはり実の妹、内海唯花はすぐに姉の考えを見抜いた。「泥棒を捕まえるためには足跡を、浮気現場を押さえるには二人でいるところを確かめよって言うものね。どちらにせよ現場を取り押さえれば、私も胸を張って離婚を叩きつけられるわ」「お姉ちゃん、あいつらがどこにいるかわかる?」「わかるわ。成瀬って女、相当調子に乗ってるみたいよ。ホテルの住所を私に送ってきたの。唯花、私がホテルに行ってくる。あなたはうちに来て陽を見ていてくれないかしら。私が出かけてる間に陽が起きて私がいないと驚いて泣いちゃうから」「お姉ちゃん、私も一緒に行く」「大丈夫よ」「お姉ちゃん、あいつらは二人で、お姉ちゃんは一人で行
佐々木唯月の頭の中は一瞬にして真っ白になった。まさか電話に成瀬莉奈が出るとは思っていなかったのだ。すぐに、彼女は携帯を耳から離し、通話の内容を録音し始めた。義弟が友人に頼んで佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれたのだが、彼女にそれは佐々木俊介が精神的な浮気をしている証明であるだけで、二人は実際には体の関係になってはいないと教えてくれていたのだ。この時、あのクズ男と女狐はきっと一緒にいるはずだから、佐々木唯月は録音しようと思い立ったのだ。「あなたは誰?」彼女のその沈黙は電話の向こうの成瀬莉奈をつけ上がらせるのに十分だった。唯月は台本にあるかのように話を進めることにした。佐々木俊介が浮気をしていると知った後、彼女が天地を揺るがすほど大騒ぎすれば、佐々木俊介はそれに嫌気をさして、息子のことなど、どうでもよくなり、彼女と離婚すると言うことだろう。もし彼女が泣きも喚きもしなければ、佐々木俊介たちは彼女が離婚を望んでいると思い、逆に彼女を引き留めて、時間稼ぎをするだろう。「私は俊介の秘書の成瀬莉奈ですけど、そういうあなたはどちら様?」成瀬莉奈はわかっていてわざとそう聞き返した。「私が誰かですって?私は彼の妻ですけど!俊介はどこ?あんた達今どこにいるの、何をしているのよ。俊介を電話に出させて!」佐々木唯月はそう言いながら喚きだした。聞いた人に彼女がとても怒っていると思わせるような様子だった。彼女のその怒りが成瀬莉奈を勝った気にさせた。成瀬莉奈は電話を切らず、ただこう言った。「言ったでしょ、俊介は今シャワーを浴びてるって。そんなに早く出てこないわよ。俊介はあなたに、今夜は接待があるって言わなかった?私は彼の秘書だもの、もちろん彼と一緒に接待に行ったのよ。私たち、お酒を飲んだから、車の運転ができなかったの。俊介がホテルの部屋をとってくれて、お酒が抜けたら帰る予定だったの。まさか奥さんがこんな夜更けに電話して探りを入れてくるなんてね」成瀬莉奈のその最後に放った言葉は、どうも嫌味が含まれている。「運転代行がたくさんあるでしょ。呼べばすぐ来て家まで送ってくれるんじゃないの?どうしてわざわざホテルに泊まる必要があるの。あんた達、私に隠して何かやったんじゃないでしょうね。成瀬とか言ったわね、あんた、言いなさい!正直にいいなさいよ
思い立ったが吉日。結城理仁は今まさに内海唯花の部屋にいる。簡単にこそこそと引き出しや棚の中を探すことができる。暫くの間、彼女が隠すであろう場所を探し回ったが、彼女の分の契約書は見つからなかった。彼女は一体どこになおしているんだ?結城理仁はドレッサーの前に立ち、ドレッサーを見つめ自分があと探していないのはどこだろうと考えていた。すべての引き出しは、もう開けて探してみた。最後に、彼はテーブルの上に置かれた髪飾りの絵が描かれた紙に視線を落とした。彼はその紙を手に取った。内海唯花のスケッチはとても綺麗だった。彼女は髪飾りの絵を描いてどうするつもりなのだろうか?結城理仁は内海唯花が髪飾りのスケッチをしてどうするつもりなのかわからなかった。彼がその紙を裏返してみると、その面はまさに彼が今探している契約書だった。彼女はなんと契約書の紙の裏面にスケッチをしていたのだ。だから彼が引き出しや棚を探しても、どうしても契約書が見つからないわけだ。結城理仁は内海唯花の契約書を折りたたみ、ポケットの中に押し込んだ。そして、ベッドのところまで歩き、端に腰かけて唯花の寝顔を暫くの間見つめ、手を伸ばし彼女の頬を軽くつねった。すると、口角を上げ不敵な笑みを浮かべた。「内海唯花、君は一生、この俺だけのものだ!」おばあさんがもしこの場にいたら、彼に一発お見舞いすることだろう。なにが自分から妻を好きにならないだ。今こっそり契約書を探しているのは一体どこのどいつだ?結城理仁は内海唯花の契約書を盗むのに成功した後、上機嫌で彼の部屋に戻っていった。そして、自分の分の契約書を取り出し、ライターを持ってトイレに身を潜めると、二人分の契約書に火をつけ燃やしてしまった。そしてその燃えカスをトイレにきれいさっぱり流してしまった。内海唯花が時間を巻き戻す能力がない限り、一生あの契約書を見つけることができなくなった。……佐々木唯月が目を覚ました時、すでに夜中の十二時だった。彼女はまだお風呂に入っていなかった。本当は息子をあやして寝かしつけてから、起き上がって風呂に入るつもりだったのだが、自分も一緒に寝てしまったのだ。目が覚めてようやく自分がまだお風呂に入っていないことを思い出した。彼女は起き上がり、まずは部屋を出て玄関を確認しに行き、まだ内