26 玲子は匠吾に「お金持ちなのだからせめて新築のマンションで暮らしたい」と要望を伝えた。 それなのに夫から返された返事は『財産を持っているのは祖父や両親であって自分ではない。自分は一介のサラリーマンだからこれ以上の暮らしを望むのであれば 働いてほしい』だった。 豪邸に住み専業主婦になって優雅な暮らしができると思っていたのに 当てのはずれた玲子は落胆するのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 息子と結婚後、玲子が贅沢《リッチ》な生活をしたいというようなことを口走るようになった。 沙代は策略を練り、自分と夫の洋輔はあくまでも二人の結婚には反対であるとの立場をとった。 そしてそのあと、しぶしぶ了承する振りをして玲子に跡継ぎを産めば少しは嫁として認めてやると条件を突き付けていた。 それは、玲子の『お金持ちなのだからせめて新築のマンションで暮らしたい』発言からちょうど3日後のこと。 息子の嫁の姑としてちゃんと諭してやらねばなるまいと…… 沙代は玲子を家に呼びつけた。 「話は匠吾から聞いたわ。 あなたとの結婚をしぶしぶ認めた時にもお話してあったと思うけれども、 跡継ぎを半年以内に妊娠することができればマンションといわず、 土地300坪くらいでそれに見合う戸建てを夫と私からプレゼントするわ。 どう? 玲子さん」 何を言われるのかと戦々恐々として訪れた姑の家で、新築マンション どころではない土地300坪に建てる一戸建てという破格の提案をされ、 天にも昇る気持ちで玲子は家に帰って行った。 釣られた餌にばかり気を取られ、案外難しい注文だということに この時の玲子は気付かずにいた。 玲子が帰った夜のこと、仕事から帰宅した洋輔が開口一番沙代に 問いかけてた。「あの子、どうだった?」「元々心根の卑しい子だから、喰い付き方が半端なかったわよ。 目がキラキラしてたわ。ふふふ」「あとは匠吾の腕の見せ所ということか。大丈夫だろうなぁ? ほんとに匠吾との子ができたら目も当てられないよ」「あなた、止めてっ! そんなおぞましいことを」 夫妻は殊の外真剣だった。 この計画が何らかの形で頓挫した日には、別の復讐を 考えなければならなかったからだ。
27 その日から玲子は子作りをするべく発奮するのだが、対して 夫の匠吾は週末しか相手にしてくれない。 だが妊娠する時はたった一度の夫婦の営みでもするという話も 聞いたことがあり、当初はそんなに焦ってはいなかった。 4か月目に入っても妊娠の兆しはなく、この辺から玲子に焦りが 見え始める。 実は匠吾は軽度ではあるものの不妊と診断を受けていた。 治療次第で子供は授かれるレベルと言われていて、だからこそ 玲子との夫婦生活において、スキンを使わなくてもやり方次第で 妊娠しない方向へもっていけるという根拠があり、家族会議の上での 計画となった。 そんな具合で夫のほうに元々子作りする意志がないものだから 妊娠などするはずもなく、しかし厚顔無恥な玲子も流石にりっぱな家を 買ってもらうために早く妊娠したいなどとは、そこはやはり新婚さん妻で 夫の匠吾には言えなかった。 悶々としていた玲子は、ある日閃いた。 夫と同じ血液型の男を探し、パパになってもらえばいいや、と。 出会い系マッチングアプリで血液型と見た目、学歴などを加味し、 無事? 妊娠し玲子は喜びを噛み締めるのだった。 たまたまこの年からちょうど母子に危険を及ぼす可能性のある羊水からの 採取ではなく母親の血液から簡単にDNA鑑定できるようになっており 天は沙代たちに味方した。 玲子の妊娠7週目を待って玲子にはDNA鑑定であることは伏せ 内臓疾患があると妊娠にリスクが出て来るので検査を受けなさいと 知り合いの病院で血液検査を受けさせた。 念のため匠吾も頬の内側を綿棒で擦るという口腔上皮細胞の採取を行った。 10日後検査結果が簡易書留で送られてきた。 結果は予想通りで匠吾の子ではないと判定が下りたのだった。 正直判定を聞くまで匠吾は内心ドキドキだった。 性交渉をしているからには万が一ということもあったからだ。
28 玲子は妊娠9週目に入ったところで匠吾と共に沙代洋輔夫妻に 呼びつけられた。 出産まではまだ随分と日があるものの約束通り家と土地の話を されるのだろうと義両親に呼ばれた玲子はウキウキだった。 反して匠吾はこんなクソのような女のために花との未来を奪われたのかと 思うと今更ながらに憤懣やるかたない気持ちになるのだった。 そして、そんな玲子を待っていたのは罵倒と慰謝料請求だった。 リビングに設けてある応接コーナーに若夫婦が座ると 後から義両親が対面に座り話し合いとなった。 「玲子さん、あなたやってくれたわね。あなたのくだらない戯言《ザレゴト》で花ちゃんとうちの匠吾との仲を平気でぶち壊したあなただもの、流石よねぇ~」「えっ……」 話がどこへ向かおうとしているのか分からず固まる玲子だった。「DNA検査って知ってるわよね?」「はい」 DNA検査という単語を出され玲子は焦った。 自分の子は疑われているのだろうかと。 検査を勧められたらどうやって切り抜けようか、などと頭の中は そのことでいっぱいになった。 しかし切り抜け方など焦って考える必要などなかった。「これ、検査報告書見てご覧なさい」 渡された書類を見ると夫の匠吾とは親子関係がほぼ0に近いと 書かれてあるのだ。 だけど何故? 自分はDNA検査などしていない。 夫の匠吾だってそんな検査したことなど聞いてない。 何がなにやら分からぬまま❔マークを顔に貼り付けていると 沙代からフォローが入った。 「この間の病院での血縁検査で分かったのよ。 あなたには黙ってたけど……あれって今年からできた新しい方法での DNA検査だったのよ。 あなた不貞を働き、その上托卵する気だったでしょ。 犯罪よ、これって。 慰謝料300万円請求の上、離婚を要求します。 さっさと離婚しないと慰謝料を500万円に増額するわ」
29 玲子は突然のことに隣の匠吾を振り返った。 匠吾は玲子を一瞥することもなく険しい顔で前方を見ているだけだった。 「あなた、ごめんなさい。 お義母さんから早く孫を生みなさいと言われてプレッシャーだったの。 それで……」 「うちの母親が欲しかったのは俺の子だよ。 誰か顔も知らない他所の男の子を欲しがる人間なんていないだろ。 プレッシャーだなんてどの口が言うんだろう。 リッチな暮らしがしたいばかりに勝手にプレッシャー感じてただけだろ? 2、3日猶予を与えるから出て行って。 お金はご両親に建て替えてもらうか、どこかで借りてでも支払うように」* 玲子はひとり、自宅に返された。 匠吾は玲子が家を出て行くまでは両親の部屋で過ごすことにしていた。 そして玲子の実家へも報告書は送られており、すべからく当初の予定通り 沙代たちの計画は準備万端完了したのだった。 玲子は離婚届を置いて迎えに来た両親に連れられて帰って行った。 部屋に残された緑色の紙を匠吾はビリビリに破き、ゴミ箱に捨てた。 次回何かで戸籍を見るまではその実、結婚歴などなかったことを 玲子が知ることはないだろう。『ご愁傷さっま』と匠吾は呟いた。 玲子が愚かだったため復讐に1年も掛からず済んでしまった。* 沙代と洋輔は玲子から巻き上げた慰謝料300万円を持って 再度の謝罪をするために父の自宅を訪れた。 総帥の茂は言った。 「ご苦労様」と。 匠吾しかり沙代も洋輔も元来今回のように人を貶めたりすることのできない人間でこれでやるべき仕事が終わったかと思うとほっとするのだった。 そしてこの後3人は(祖)父や掛居家から離れた土地へと引っ越しして行った。
30 良かったのか悪かったのか……ほどなくして、玲子は自然流産してしまった。 玲子は自分の今回の不遇を浅はかなことをしてしまった自分のせいだと考えていて、沙代や匠吾たちの思惑には幸か不幸か気付かなかった。 そして今回だけに留まらず不運がずっと付いて回る可能性があることにも とんと頭が回らなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 流産のあと、身体が回復すると玲子は近所にあるコンビニで働き出した。 そしてコンビニで働きながら就職活動も開始した。 開始した時期ももうすぐ4月という時期で良かったのかもしれない。 公益財団法人緑の協会というところで契約社員だったからか就職はすぐに決まり、コンビニも申し出てから1か月ちゃんと勤めて辞めることになった。 公園や動物園の受付や案内、イベント運営、施設の広報、ブログ掲載のための記事や画像撮影そして事務一般というのがそこでの割り振られた仕事で、それは何でも屋的で職員の勤怠管理、支払い関連の経理など、座ってする仕事だけでもなく立ち歩いたり座ったりとバランスの良い仕事だった。 5年は長いと感じたが5年契約社員で勤めれば正社員になれるらしいのも魅力のひとつだ。 そんなわけで玲子は『採用が決まりました。来てもらえませんか』との連絡を受け、即座に『ありがとうございます。行きます』と返事をしたのだった。 職場の雰囲気はすごく良かったし、仕事も思っていた通りいろんなことをさせてもらえて楽しく長く続けられそうだと思っていた……のに。 入社して10日ほどして支部長から個室に呼ばれ突然の解雇を言い渡されてしまった。
31 「仕事も意欲的に取り組んでもらっていて言いにくいんだけど 辞めてもらうことになりました。できれば今すぐにでも」「どうしてですか?」 「圧力がかかりました。 あなた、誰かに恨みをかっていませんか? 普通は恨みをかっていたとしても、新しい就職先を解雇されるって ことまではないでしょうけどね。 あなたが恨みをかった相手はおそらく大物なのでしょう。 私が言えるのはこの辺《あたり》までです」 恨み、恨みといえば掛居花と向阪匠吾の仲を引き裂いたことくらいしか 思いつかない。 でも結局匠吾は私と結婚したんだよ……結局自分の不貞のせいで 離縁されてしまったけれども。 犯人は掛居花なのか? だけど会社を辞めさせられるほどの大物だというのなら、 私が匠吾と結婚した時に邪魔するのじゃない? 結婚は阻止しなかったのに会社へは行けなくするって……なんか 変じゃない? いくら考えても玲子には恨みをかってるという人物を特定することが できなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 次はバイトもせずに就職を探すだけに時間を使って過ごし、早々に 前回に負けず劣らず働き甲斐のある事務仕事を見付けた。 しかしこの時もやはり仕事についてすぐに圧力がかかり、仕事を 継続することは叶わなかった。 もう誰かの見えない力のせいでちゃんとした会社には就職できないと 落胆したものの、よくよく考えてみればコンビニでバイトしていた時には 横槍はなかったはず。 そこでしばらく就職活動を断念してバイトで食いつなごうと 玲子は自分の生活の有り方を切り替えることにした。 前回1か月余り働かせてもらったコンビニに連絡を入れると ぜひにと請われ、少し気恥ずかしくもあったが、そこは割り切って 働くことにした。 他のバイトの人とも上手く連携が取れて仕事は順調にいった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして半月ほどした頃、週に何度かコンビニ弁当を買って帰る男性《ひと》から玲子はメモ付きの名刺を貰う。
32 『4月になってあなたの顔を見なくなり、寂しく思っていました。 今回職場復帰したのを知りうれしく思います。 よろしければ一度食事をご一緒していただけませんか。 連絡をいただければうれしいです』と記されていた。 どうしようか、と玲子は考えた。 これといった特徴のない男だったからだ。 就職活動はしばらく中止していたのでバイトのない時間は暇ではある。 たぶん1、2度デートしたら『さよなら』だと思うけど、ちょっと美味しいものをご馳走してもらおうという軽いノリでその田野浩司《たのこうじ》という男との食事を楽しむことにした玲子だった。 夜ごはんに行ったりドライブをしたりと思ってたよりも楽しい時間を過ごせたことでデートは2度までで終わらなかった。 何と言ってもリッチな食事が無料で食べられるのは正規雇用で就職できない玲子にとって大きな魅力だった。 そして数回デートする中で大きな収穫があった。 田野もその父親もサラリーマンだが父方の祖父が今だ健在で資産家らしいということが分かってきて、祖父亡きあと父親にその遺産がいくがもう少しすると生前贈与で孫の田野に幾ばくかのまとまったお金が贈与されることになっていると聞く。 人の良さそうな田野を見ていると結婚後も大事にしてくれそうに見える。 彼ならお給料も全部妻になった自分に管理させてくれそうな気がする。 恋人には物足りないが夫として考えると申し分のない人じゃないか。 相手は元々玲子を気に入っているのだから玲子さえその気になれば……なんのことはない、事は順調にそして素早く進んだ。 交際2か月で婚約をし、それからしばらくして入籍をと考えていた矢先に玲子にまたもや暗雲が立ち込めた。 例の圧力という名の横やりが入ったのだ。
33 田野はこう言った。「玲子ちゃんを守れなくてごめん。 両親は元より祖父から結婚するなら絶縁すると言われた。 生前贈与の話もなくなるだろう。 それでもいいっていうことなら、絶縁して俺は玲子ちゃんと結婚してもいいかなって思ってる……けど、一文無しの俺なんて玲子ちゃんヤだろ?」 田野は最初のデートではその気のなさそうな素振りだった玲子が祖父からの生前贈与の話、遺産の話など口にしてからコロリと態度を変えたことをちゃんと見抜いていた。「私たちの結婚に賛同してくださってたのに今になって反対と言うようになったのは何が原因なのかなぁ?」「玲子ちゃんが婚約者のいる男を好きになり、ないことないことを婚約者女性に嘘を吹き込んでふたりの仲を裂いたってことらしいよ」「私は嘘なんてついてない。 相手の女性のメンタルが弱すぎて婚約者と上手くいかなくなっただけのことなのに、酷いわ。 私だけを悪者にして。 今までも就職を2度も邪魔されてるの。 ね、その横槍を入れてきてるのは誰なのか分かる? 知ってるなら教えて」「今玲子ちゃんが話したメンタルの弱い女性の婚約者って向阪っていう性の人では?」「えっ、何で知ってるの?」「俺も知らずにいて、祖父と父親の話を小耳に挟んで知ったんだけど、ごめん、肝心のところは話が聞けてなくて……」「分かった、いろいろ教えてくれてありがとう。 田野さんにこれ以上迷惑かけられないから私は身をひくわ。 じゃあ、そういうことで」 玲子は田野にこれっほっちの未練も残さず、カフェから出て行った。『参ったなぁ~』 自分は絶縁してでも玲子と一緒になってもいいと清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白したというのに、あの女はあまりにも分かりやすい態度であっさりと自分の前から去って行ったのだ。いっそ清々しいくらいの体で。 自分の後ろにあるもの(お金)で彼女の心を射止められたのかもしれないとは思っていたものの、こうもあからさまな態度を取られ未練がなくなったのはよかったかもしれない。 だが、そう思いつつもなんだかもやっと胸が痛むのを田野は止められなかった。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。