61 花はその日の夜、今回の件で祖父の家を訪ねた。「私という逸材を一日何もさせず会社から給料を支給させている 今の上司の方針をどう思う? おじいちゃん。 たぶん普通は長い物には巻かれろで黙っているしかないと思うけど、 経営者一族の端くれとして、こんな悪習はなくした方がいいと 思うんだけど……」 「よう言うた。花の言う通りだ。 会社の人件費を無駄にしておるな。 ひとまず今の部署の担当が辞めるまでその忙しい部署の事務補佐として 部署替えをさせようかな。 花の今の上司は次の異動でどこぞの閑職に飛ばそう。 まぁ我が社に閑職などあってはならないんだがね。 下請けにでも飛ばすか! はははっ……。 今夜中に現場の部署の上に連絡をして、明日からはそこに花の席を 作ってもらうことにしよう。 花が仕事熱心で儂もうれしいよ。 花のような頼もしい身内がいておじいちゃんも将来が楽しみだ」「おじいちゃん、私の話をちゃんと親身になって聞いてくれて ありがとうございました。私、仕事頑張るわ」 次の日花が出社すると、すでに現場監督の数名が居並ぶ場所のほど良い場所に 花のデスクが運ばれていた。 時間外? 朝早くにこの机を運んで移動させてくれた人に 花はちょっぴり申し訳ない気持ちになるのだった。 それにしても祖父の力が絶大だということを改めて知る花なのだった。 初めて使った伝家の宝刀は思った以上に強力だった。 折角貰ったチャ~ンス、おじいちゃん、自分のため一族のため…… 仕事頑張るからね。 その日新しい上司に挨拶をし現場監督をしている社員にも次々と挨拶を 済ませ、花は仕事に取り掛かった。 この部署の事務仕事は次から次へと休む暇もないぐらい有り、 やりがいのあるものだった。
62 実際に業務に付いてみると現場監督は50人近くいて現場ごとの現場監督はその現場規模によりけりで、大きい現場になると3人だったり5人だったりという具合のようであった。 その時々で仕事が増えたり減ったりするため、ひとまず常時の体制は3人の正社員とパート社員数名、派遣社員2名で業務を回しているようだった。 所長と呼ばれることもある現場監督の仕事は多岐に渡るらしい。 それらは外回りと言われる現場の視察であったり接待であったりと現場事務所が立ち上がると超多忙なのだとか。・施主の要望があると施主への接待として、暑気払いだの安全大会だの 上棟式だの慰労会だの頻繁にそのようなイベントがあり飲み会・忙しい現場だと、作業所内スタッフとの懇親や慰労という名の飲み会 ・設計事務所への接待……での飲み会・自社の幹部とのつきあいでの飲み会・所長だと下請けさんからも声が掛かり飲み会など、飲み会の機会が半端なく多いのだと諸々、接待の相手先を、派遣の遠野さんから聞いて少しオオバーかもしれないけれど私は気絶しそうになった。『肝臓やられて、長生きできなさそう』というのが私の感想である。 独身の間はいいけど、メンヘラな奥さん貰っちゃったら、たぶん速攻離婚案件だよね。『独身、奥さん、離婚』 自分が思考した3つのワードにチクっと胸に痛みを感じた。『亭主元気で留守がいい』が性に合ってる女性なら旦那さんにいいよねぇ~。 例えば、自分に明確に生涯通してやりたいことのある人ならば。 これ一筋と思えるような仕事や趣味がなく、いつも旦那さんとLoveLoveしてたい女性はだめだろうなぁ~。
63一週間過ぎた辺りで派遣社員の遠野理子や小暮ゆきと一緒に昼休憩を過ごしたり できる仲になれ、社内の人間関係や彼女たちのことなども知ることができた。 遠野は24才、小暮は25才とどちらも花より若いのに どうして派遣社員なのか? というようなことも分かった。 うちの上司からも若いので正社員になればと打診はあったらしいのだが、 ふたり共に将来の夢があって敢えて派遣という形態を取っているのだとか。 遠野理子ちゃんは小説家になりたいらしく、そう決心したのは 10才の頃と聞いてびっくりした。 そうなんだぁ~、思わず自分は10才の頃何になりたかったかなぁ~と 振り返るも何もない。とほほ。 投稿サイトに掲載していて、コンテストに応募したりしているらしい。 受賞して大きな有名所から出版するのが夢なんだって。「出版したら、絶対本買うわぁ~」「もう絶対、掛居さんには一番に連絡しますよ 」「サインもお願いね」「もちろんっすよ」 小暮ゆきちゃんの夢はファッションデザイナーで、週一で専門のスクールに 通っているらしい。「デザイナーってどうやったらプロになれるの?」 「選択肢はいくつかあると思いますが、私はそっちのほうの専門学校も 出てませんしどこかと契約してもらうっていうのは難しい気がしていて…… 悩ましいなって思ってたんですけど、実はBarのお店の物置スペースを 間借りして来春から仕事GOする予定なんですよっ」「えーっ、それってラッキー? なことよね。 できればお話聞きたいなぁ~」「すこぉ~し、長くなるかも……だけどいいですか?」 「「勿論、もちろんっ……」」 私と遠野さんは一緒にハモって答えた。
64「私ぃ、ここに派遣で来る前は、実はホステスをしてたんですけどその頃からお店で自分の着る衣装には拘りがあって、それでデザインに興味が沸くようになったんですよね。 ンでなんとなぁ~くだけど、ドレスのデザインしてみたいなって思うようになって、専門のスクールに入学してちまちまっと勉強したりしていて……。 で、そんな時に、そこのお店のオーナーがBarのお店を出店するっていう話を聞きつけて……よくよく話を聞いてみると一部屋余るので物置にでもしようかなっていうことになっているらしく、そこで私、突然閃いちゃったの。 間借りしてデザインした衣装を陳列させてもらえないだろうかって。 クラブからお客様をお連れしてホステスさんたちもそのお店に来るわけだから、彼女たちに衣装見てもらって気に入ったらレンタルなり購入なりしてもらえば仕事になるんじゃないかって思ったんです」「へぇ~、すごい。 デザイナーの夢がそんな形で実現するなんてすごいわぁ~。 小暮さんって何か持ってる人なのね。 じゃあその時はここを辞めちゃうんだ?」「パートに変えてもらって働ければっていうことも考えてるのでその時は上司に相談してみようかなって思ってます」「二足の草鞋が上手くいくといいわね。 遠野さんも本が出せるといいわね。 私、ふたりのこと応援するわ。がんばっ」「「ありがとうございます」」
65 現場の事務を主力として担っている3人の社員たちは皆既婚の男性たちで 資格持ちだ。 体力と半端ない根性があれば今すぐにでも内勤をやめて現場で働けそうな人 たちで、それぞれ家庭の事情や体力の問題で現場の第一線から外れ、内勤へと 替わった者たちばかりなんだそうだ。 当面私が担当に付く現場監督は相馬綺世《そうまあやせ》。 年は30才、現場監督としてはかなり年若い部類になるみたい。 お昼の休憩時間は相変わらず派遣やパートさんたちと一緒に昼食を摂って いて、日によって会話するメンバーは違っているけれど、馴染んでくると よく訊かれるようになったのが相馬綺世さんのことだった。 確かに彼は独特の雰囲気のある人ではあるけれど、どうしてこんなに 皆彼に興味津々なのだろう? と私の中でそっちの興味が沸いた頃、 遠野さんと小暮さんとの3人で昼食後のコーヒータイムになった時のこと……。 まさに同じような質問がふたりから飛んできたのだ。 「相馬さんとのお仕事やりやすいですか?」 「うん、気さくで親切だし指示も的確なので相馬さんの担当になれて 良かったって思ってるわ」「「気さくなんですか?!」」 「ええ、やっぱり補佐する立場からすると仕事を指示してくる人が 話しにくいとやりにくいと思うのですごく助かってる」 「「へぇ~、意外」」 ふたりが口を揃えて同じことを言ったので私の方こそ意外だった。 「えーっ、ちょっと待ってぇ~。 相馬さんのこと、どんなふうに思ってるの……っていうか どんなふうに見えてるのかな?」 私が問うと、ふたりは顔を見合わせてどちらが先に私の質問に答えようかと、譲り合うのだった。 そして結局遠野さんか先に口火を切った。
66「これは私の見た感じの印象からなんですけど、一見爽やかで優しい雰囲気なので話しやすいのかなぁ~っていうイメージがあったんですけど、不思議な話……実際彼の前に出ると金縛りにでもかかったのかと思うほど上手く話せないんですよね。 こんな経験初めてで自分でそんな自分に吃驚ですよ。 仕事上の接点もほとんどないのでどうしようもないっていうか、親しくなって話をしてみたいって思ってるのにぜんぜん距離を詰められなくて、私の中ではどんどん雲の上の人になってしまってますねー。 それで彼の仕事を補佐する派遣の人が超絶羨ましかったんですけど……」 「私の前任者のことかしら?」「そうです、2人いました」 そう説明してくれたのは小暮さんだった。 遠野さんは相馬さんに淡い好意を持っているのかもしれないなと思った。 続けてまたまた小暮さんが語ってくれた。「相馬さんってそうですね。 結構話好きな面もあるようで、気さくっていうのはそうなのかもしれませんよね。 ふわふわっとしていて、マシュマロのようにポワワンってしていて、決してキツイところもないですし……う~んと、あっそうそう、少し掴みどころのないところがあるっていうのかな。 本人は決して意図的にそういう雰囲気を女子にいいように見られようとかっていう気持ちから計算して出しているわけではないんでしょうけど、この掴みどころのなさが、なかなか異性に対して吸引力半端ないんでしょうね~」 この話に乗っかかる形で今度は遠野さんが話を引き継いだ。「不思議なのは彼が自分とは別の誰かと話しているのを聞いていて『あっ、楽しそうだな。私も相馬さんとあんなふうに楽しく話せるようになりたい』って思うのに実際彼を目の前にすると楽しく話すっていうのが難しくて……」「そういうのって仕事なり趣味なりで同じ時間を過ごさないと難しいかもね。 私がもう少し相馬さんと親しくなれたらランチタイムに彼を呼んでみる?」「「わぁ~い!」」
67 「花さんがいてくれて話やすく話題を振ってもらえたら、相馬さんと話しやすくなるかも。遠野さんとその日を楽しみにしてますね」「あっ、でも掛居さん、私は別に相馬さんの彼女になろうとかっていうそういう野望は持ってませんので。 あくまでも目標は楽しくお話することです」「遠野さんの気持ちわかる。 私もそんな感じなので」「え――っ、そうなの? 相馬さんのこと2人とも狙ってないんだ」 ふたりの気持ちを聞いてガッカリしたのかほっとしたのか、自分でもよく分からない混線したような心持ちになった。 何故か? 責任のあるキューピット役になってカップルがまとまった時の喜びを味わうのか、はたまた失恋した時に慰めるという大役を担うのか……、カップルがまとまった時の喜びを味わうというようなことはまぁ、僭越過ぎるというものだけど、気軽に会話できる雰囲気を作ってあげて自分もみんなと楽しい時間を共有することになるのか……。 おっとっと、勇み足は控えなくちゃね。 あれこれ考え込んでいると「ここだけの話なんですけど……」と遠野さんから小声で話掛けられた。 「実は掛居さんの前任者というか、相馬さんの仕事を補佐してた前任者が2人いたんですけど2人とも1年足らずで辞めてるんですよね。 それを見ていて相馬さんの彼女になろうとするのは無謀ではなかろうかと思うわけですよ」「2人は相馬さんに振られて辞めたの?」 そう私が訊くと遠野さんと小暮さんの2人が首を横に振り「そこがどうなのか、神のみぞ知るというか、分かんないんですよー。だけど、なんとなくだけど……派遣の人たちが振られたのかなぁーって感じはしますけどね。 どちらも派遣で決められた期日まで勤めず家庭の事情ということで前倒しして辞めちゃってますから」『1人だけならまだしも2人続けてなので周りは掛居さんのこと、興味深々だと思いますよー』と、遠野も小暮も心の中で同じ想いを持っていたが、そこは……そこまでは言えないというか、言わずにいたのだった。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。
76 友人の星野から電話で聞いた話では今回のパーティーは商社に勤める 柿谷さんからの紹介らしかった。 柿谷さんも私たちと同じ大学だったけれどグループが違っていた人だ。 在学中に少し親しくしていたみたいで、たまたま最近繁華街で出会って 立ち話もなんだからとお茶して近況を話し合ってるうちに……ということ らしい。 学生時代からの友人星野は自分とは違い堅実にずっと同じ職場で 頑張っている。 医科大で正社員として勤務している。 昨今大学の事務員というのもほとんどが時給の契約社員とか 日給の派遣社員がほとんどらしいから流石新卒で入社して頑張ってるだけ あるよね、星野は。 私も当初は正規雇用の銀行員だったのにさ、なんでこうなっちゃったん だろうなんて思う日もあったわ。 でも伴侶を見付けるなら大手企業への派遣入社も悪くはないよね。 実際、私は研究員のエリート捕まえたもん。 ここはひとつ星野が良い男性《ひと》と出会えるよう協力を惜しまない つもり。星野ぉ~、あんたいい友だち持ったね~。 ◇ ◇ ◇ ◇ 金曜日の夜に彼女から再度連絡があり、私たちが参加するのは レセプションパーティーで開催時間は17:00からと聞く。 ホテルのチェックインの時間に合わせて行くことに決めた。 夜は少し肌寒くなるかもしれないからとふたりともスプリングコートを 羽織って行くことにしたのでフォーマルなドレスの見せあいっこは ホテルにチェックインしてからになった。 星野はほどよいマキシ丈でウエストにゴムが入っているネイビー色の シンプルだけど華やかさも併せ持つドレス。 ハイネックマキシドレスで襟元のビジューがパールでドレスと相まって 彼女の印象に華やかさをプラスしている。 「星野、いいじゃない、そのドレスと襟元のパールのネックレス、 むちゃくちゃいいわ。きっといい男性《ひと》見つかるね」 「ふふっ、サンキュー。そう言ってもらうと心丈夫だわ」 私はというと、今回クローゼットを覗いて黒のにするか今着ている ペールブルーにするか迷ったけれど、透明感があって袖がシースルーの透け たレース生地になっている清楚系デザインの丈短めドレスにした。 私もネックレスはパールだ。 ふたりでしばし、互いのドレスを褒め合いパーティーに向
75 婚約も終え半年先を見据えた結婚の話も決まりほっと一息ついた魚谷は、仕事も勤めて丸4年になり、たまに緊張する場面もあるものの、普段はこなれた動作で仕事を片付けていて精神的にも物理的にも暇の1文字が頭を掠めるようになるのだった。 婚約者の雨宮も仕事に追われ忙しそうである。 ただの恋人同士だった時には会わないでいると不安でしようがなかったものだが、双六《すごろく》でいうと、まだ盤上にはいるものの、ゴールに到達したも同然。 それゆえ、魚谷はほどよく余裕でいられた。 ……とそんな折に、婚活している学生時代の友人から『お願いがあるのぉ~』と電話が掛かってきた。 東京でセレブリティ《celebrity 》たちが集う豪華パーティーがあるので一緒に付き合ってほしいというものだった。 その週は雨宮との約束がなかったため、保護者の気分と著名人などが集うパーティーというものに今まで縁のなかった魚谷はそういう人たちに会えることにも少し興味があり、二つ返事でOKした。 新大阪駅からなら東京まで新幹線で2時間30分と少し……といったところだろうか。一泊すれば楽勝だ。 誘われた後で、本当に一般人の自分たちが名士や著名人が参加するパーティーという名の集いにそんなに簡単に参加できるものなんだろうかと気になり、ちょっと調べてみた。 真の富裕層などが集うところへは、簡単に参加できないらしいということが わかった。 ……ということは、友人が行くところはどんな人たちの集まりだというのだろう? 小金持ちくらいの集いかもしれないなと魚谷は思った。
74 そして次に就いた大手ハウスメーカーでも魚谷は過去の経験を何ら生かす ことなく、同じようなことをやらかして辞めざるを得なくなり追われるよう にして辞職した。 こちら大手ハウスメーカーの事務兼務付きの受付嬢の面接を受けた時から 魚谷はこんどこそこの会社で将来の夫となるべき男性《ひと》をGet するのだとの強い意志を持って臨んでいたこともあり、社内のイベントごと は欠かさず参加し続けた。 そしてそれが功を奏したのか、入社して1年経つ頃には社内のエリート を恋人に持つことに成功した。 大手ハウスメーカーでは雇用時にキャリア籍とノンキャリア籍という 具合にどちらかに選別され雇用される。 これは退職するまで能力がいかに高かろうと変わらないのであった。 抜け目のない魚谷が選んだ相手は住宅総合研究所という部署に所属する 東大卒のエリートだった。 ノンキャリア籍組とは給与が300万以上も違うと言われ 『専業主婦になれる』と魚谷は至極ご満悦であった。 ただ、研究室に閉じこもり建材成分などの分析研究をする仕事柄も 相まって、地味な性格が少し気になるところではあった。……とはいうものの、その恋人雨宮洋平とは順調に交際が続き、付き合って 3年が過ぎた頃両家で顔合わせもし正式な婚約を交わした。 周囲にふたりの交際は公認だったが、婚約した話は結婚をいつ頃にするか 決めてからにしようということで周囲にはまだ発表していないような 状況だった。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
70 登録している派遣会社からここ建築関係の企業に派遣されてきた29才という 中途半端な年齢の槇村笙子《まきむらしょうこ》が、どのような経緯でここに 流れ着いたのか。大学の単位不足が原因で留年してしまい、上手く就活に乗れず、 派遣社員として働いてきた。 これまで正規雇用の仕事も何度か面接にトライしてきたものの、 採用までには至らず。 三居建設(株)に入社する前の勤務先は居心地がよくて7年勤めた。 そちらは周りの男性たちがほとんど既婚者ばかりで出会いもなく 結婚の予定もないという状況で、あと1年もすれば30の大台に乗りそうな 勢いに焦りを持ち始めた頃、ちょうどよかったと言うべきかなんと言うべきか、 親切でやさしくしてくれた上司が異動になってしまい、新しい上司がやってきた。 そしてその上司とあとひとり、隣の課である工営二課の臨時社員のおばさまが 自分のいる工営一課に異動になった。 自分はその新しい上司とは何気に反りが合わず冷たくされ、また二回りは離れ ていそうな臨時社員おばさま、森悦子女子とは別々の課だった時には良好な関係 だったのだが同じ課になった途端、自分に冷たい態度をとるようになり、そのよ うな状況の中彼女は新しく異動で来たその上司とすぐに懇意になった……いや、 取り入ったというべきか! 自分はそれまで課に1人しかいない女性ということで周囲から甘やかされていた のだけれど、それは異動でいなくなった上司が可愛がってくれていたからなんだ とあとから思い知った。 新しくきた上司が自分に冷たいとそれまでやさしかった周囲が同じようによそよそしくなっていくのが手にとるように分かったからだ。 だって、自分は皆に何もしてない、今まで通り。 ただ上司に可愛がられなくなっただけ。 人間不信に陥りそうだった。 それですっぱりとその住宅サービス(株)を辞めることにした。 するとすぐに派遣会社から三居建設(株)を紹介され 『こちらの会社は将来正規雇用の道もあるので槇原さんどうでしょうか、 いいと思いますよ』 と勧められたのをきっかけにこちらに転職したのだった。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。