64「私ぃ、ここに派遣で来る前は、実はホステスをしてたんですけどその頃からお店で自分の着る衣装には拘りがあって、それでデザインに興味が沸くようになったんですよね。 ンでなんとなぁ~くだけど、ドレスのデザインしてみたいなって思うようになって、専門のスクールに入学してちまちまっと勉強したりしていて……。 で、そんな時に、そこのお店のオーナーがBarのお店を出店するっていう話を聞きつけて……よくよく話を聞いてみると一部屋余るので物置にでもしようかなっていうことになっているらしく、そこで私、突然閃いちゃったの。 間借りしてデザインした衣装を陳列させてもらえないだろうかって。 クラブからお客様をお連れしてホステスさんたちもそのお店に来るわけだから、彼女たちに衣装見てもらって気に入ったらレンタルなり購入なりしてもらえば仕事になるんじゃないかって思ったんです」「へぇ~、すごい。 デザイナーの夢がそんな形で実現するなんてすごいわぁ~。 小暮さんって何か持ってる人なのね。 じゃあその時はここを辞めちゃうんだ?」「パートに変えてもらって働ければっていうことも考えてるのでその時は上司に相談してみようかなって思ってます」「二足の草鞋が上手くいくといいわね。 遠野さんも本が出せるといいわね。 私、ふたりのこと応援するわ。がんばっ」「「ありがとうございます」」
65 現場の事務を主力として担っている3人の社員たちは皆既婚の男性たちで 資格持ちだ。 体力と半端ない根性があれば今すぐにでも内勤をやめて現場で働けそうな人 たちで、それぞれ家庭の事情や体力の問題で現場の第一線から外れ、内勤へと 替わった者たちばかりなんだそうだ。 当面私が担当に付く現場監督は相馬綺世《そうまあやせ》。 年は30才、現場監督としてはかなり年若い部類になるみたい。 お昼の休憩時間は相変わらず派遣やパートさんたちと一緒に昼食を摂って いて、日によって会話するメンバーは違っているけれど、馴染んでくると よく訊かれるようになったのが相馬綺世さんのことだった。 確かに彼は独特の雰囲気のある人ではあるけれど、どうしてこんなに 皆彼に興味津々なのだろう? と私の中でそっちの興味が沸いた頃、 遠野さんと小暮さんとの3人で昼食後のコーヒータイムになった時のこと……。 まさに同じような質問がふたりから飛んできたのだ。 「相馬さんとのお仕事やりやすいですか?」 「うん、気さくで親切だし指示も的確なので相馬さんの担当になれて 良かったって思ってるわ」「「気さくなんですか?!」」 「ええ、やっぱり補佐する立場からすると仕事を指示してくる人が 話しにくいとやりにくいと思うのですごく助かってる」 「「へぇ~、意外」」 ふたりが口を揃えて同じことを言ったので私の方こそ意外だった。 「えーっ、ちょっと待ってぇ~。 相馬さんのこと、どんなふうに思ってるの……っていうか どんなふうに見えてるのかな?」 私が問うと、ふたりは顔を見合わせてどちらが先に私の質問に答えようかと、譲り合うのだった。 そして結局遠野さんか先に口火を切った。
66「これは私の見た感じの印象からなんですけど、一見爽やかで優しい雰囲気なので話しやすいのかなぁ~っていうイメージがあったんですけど、不思議な話……実際彼の前に出ると金縛りにでもかかったのかと思うほど上手く話せないんですよね。 こんな経験初めてで自分でそんな自分に吃驚ですよ。 仕事上の接点もほとんどないのでどうしようもないっていうか、親しくなって話をしてみたいって思ってるのにぜんぜん距離を詰められなくて、私の中ではどんどん雲の上の人になってしまってますねー。 それで彼の仕事を補佐する派遣の人が超絶羨ましかったんですけど……」 「私の前任者のことかしら?」「そうです、2人いました」 そう説明してくれたのは小暮さんだった。 遠野さんは相馬さんに淡い好意を持っているのかもしれないなと思った。 続けてまたまた小暮さんが語ってくれた。「相馬さんってそうですね。 結構話好きな面もあるようで、気さくっていうのはそうなのかもしれませんよね。 ふわふわっとしていて、マシュマロのようにポワワンってしていて、決してキツイところもないですし……う~んと、あっそうそう、少し掴みどころのないところがあるっていうのかな。 本人は決して意図的にそういう雰囲気を女子にいいように見られようとかっていう気持ちから計算して出しているわけではないんでしょうけど、この掴みどころのなさが、なかなか異性に対して吸引力半端ないんでしょうね~」 この話に乗っかかる形で今度は遠野さんが話を引き継いだ。「不思議なのは彼が自分とは別の誰かと話しているのを聞いていて『あっ、楽しそうだな。私も相馬さんとあんなふうに楽しく話せるようになりたい』って思うのに実際彼を目の前にすると楽しく話すっていうのが難しくて……」「そういうのって仕事なり趣味なりで同じ時間を過ごさないと難しいかもね。 私がもう少し相馬さんと親しくなれたらランチタイムに彼を呼んでみる?」「「わぁ~い!」」
67 「花さんがいてくれて話やすく話題を振ってもらえたら、相馬さんと話しやすくなるかも。遠野さんとその日を楽しみにしてますね」「あっ、でも掛居さん、私は別に相馬さんの彼女になろうとかっていうそういう野望は持ってませんので。 あくまでも目標は楽しくお話することです」「遠野さんの気持ちわかる。 私もそんな感じなので」「え――っ、そうなの? 相馬さんのこと2人とも狙ってないんだ」 ふたりの気持ちを聞いてガッカリしたのかほっとしたのか、自分でもよく分からない混線したような心持ちになった。 何故か? 責任のあるキューピット役になってカップルがまとまった時の喜びを味わうのか、はたまた失恋した時に慰めるという大役を担うのか……、カップルがまとまった時の喜びを味わうというようなことはまぁ、僭越過ぎるというものだけど、気軽に会話できる雰囲気を作ってあげて自分もみんなと楽しい時間を共有することになるのか……。 おっとっと、勇み足は控えなくちゃね。 あれこれ考え込んでいると「ここだけの話なんですけど……」と遠野さんから小声で話掛けられた。 「実は掛居さんの前任者というか、相馬さんの仕事を補佐してた前任者が2人いたんですけど2人とも1年足らずで辞めてるんですよね。 それを見ていて相馬さんの彼女になろうとするのは無謀ではなかろうかと思うわけですよ」「2人は相馬さんに振られて辞めたの?」 そう私が訊くと遠野さんと小暮さんの2人が首を横に振り「そこがどうなのか、神のみぞ知るというか、分かんないんですよー。だけど、なんとなくだけど……派遣の人たちが振られたのかなぁーって感じはしますけどね。 どちらも派遣で決められた期日まで勤めず家庭の事情ということで前倒しして辞めちゃってますから」『1人だけならまだしも2人続けてなので周りは掛居さんのこと、興味深々だと思いますよー』と、遠野も小暮も心の中で同じ想いを持っていたが、そこは……そこまでは言えないというか、言わずにいたのだった。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
70 登録している派遣会社からここ建築関係の企業に派遣されてきた29才という 中途半端な年齢の槇村笙子《まきむらしょうこ》が、どのような経緯でここに 流れ着いたのか。大学の単位不足が原因で留年してしまい、上手く就活に乗れず、 派遣社員として働いてきた。 これまで正規雇用の仕事も何度か面接にトライしてきたものの、 採用までには至らず。 三居建設(株)に入社する前の勤務先は居心地がよくて7年勤めた。 そちらは周りの男性たちがほとんど既婚者ばかりで出会いもなく 結婚の予定もないという状況で、あと1年もすれば30の大台に乗りそうな 勢いに焦りを持ち始めた頃、ちょうどよかったと言うべきかなんと言うべきか、 親切でやさしくしてくれた上司が異動になってしまい、新しい上司がやってきた。 そしてその上司とあとひとり、隣の課である工営二課の臨時社員のおばさまが 自分のいる工営一課に異動になった。 自分はその新しい上司とは何気に反りが合わず冷たくされ、また二回りは離れ ていそうな臨時社員おばさま、森悦子女子とは別々の課だった時には良好な関係 だったのだが同じ課になった途端、自分に冷たい態度をとるようになり、そのよ うな状況の中彼女は新しく異動で来たその上司とすぐに懇意になった……いや、 取り入ったというべきか! 自分はそれまで課に1人しかいない女性ということで周囲から甘やかされていた のだけれど、それは異動でいなくなった上司が可愛がってくれていたからなんだ とあとから思い知った。 新しくきた上司が自分に冷たいとそれまでやさしかった周囲が同じようによそよそしくなっていくのが手にとるように分かったからだ。 だって、自分は皆に何もしてない、今まで通り。 ただ上司に可愛がられなくなっただけ。 人間不信に陥りそうだった。 それですっぱりとその住宅サービス(株)を辞めることにした。 するとすぐに派遣会社から三居建設(株)を紹介され 『こちらの会社は将来正規雇用の道もあるので槇原さんどうでしょうか、 いいと思いますよ』 と勧められたのをきっかけにこちらに転職したのだった。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。