その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その絵の中で、悲しい表情を浮かべているのは女王だけだった。また一枚の絵が滑り出てきた。クレヨンで描かれた絵には、ピンクのドレスの女王が娘の手を引いて城を出て行く様子が描かれていた。女王の顔には明るい笑顔が溢れている。三枚目の絵を受け取る。そこには娘の手を引く女王が、別の王様と出会う場面が描かれていた。王様の隣には小さな男の子が立ち、王様はダイヤの指輪を手に女王にプロポーズをしている。さらにドアの隙間からサラサラと五枚目の絵が滑り出てきた。新しい王様と家族になった女王と娘。女王の表情には戸惑いの色が浮かんでいる。星来は絵の才能がある。単純な線で描かれた絵なのに、人物の感情が見事に表現されていた。夕月はドアに背を寄せて床に座り込んだ。手には星来が描いた五枚の絵と、『ママになってほしくない』と書かれた紙切れを握っている。夕月の目に熱いものが込み上げ、瞳が潤んでいく。「ママになってほしくない」—— それは新しい家族の中で、また別の子供の母親となり、新たな母としての重荷を背負ってほしくないという願いだった。でも、これだけたくさんの絵を描いてくれたということは、星来が夕月を慕っている証。だからこそ、大切な夕月を傷つけたくないのだ。自分が夕月を困らせる存在になりかねないと気付いた時、星来は真っ先に夕月から距離を置こうとした。この部屋に自分を閉じ込めれば、夕月は同じ轍を踏まずに済むと、そう考えているのだろうか。車椅子の軋む音に振り向くと、凌一が手すりに手を添えて近づいてきていた。「どうして床に座っているんだ?」彼は夕月を見下ろすように問いかけた。夕月は星来から受け取った絵を凌一に差し出した。「星来くん……賢くて、切ない子ですね」凌一は養子の描いた絵に目を落として言った。「好きだからといって、所有する必要はない」夕月を見つめ、率直に語り始めた。「かつて私は間違っていた。君は私の出会った中で最も優秀な学生だった。同時に、一人の女性でもある。温室で大切に育て、夫に守られてこそ、君は輝けると思っていた。しかし現実は、その証明が誤っていたことを教えてくれた。人の心は移ろい易い。誰かに身を委ねる弱者の立場に、自分を置くべきではないのだ」耳に蘇る冬真の怒号。「お前だって下心があったはずだ!
「星来くん」夕月は両手を広げた。「私たちの未来は、自分で決められるの。もう二度と同じ過ちは繰り返さない。あなたの気持ちを裏切らないわ」星来は躊躇いながらも、夕月を見る目には深い愛着と憧れが満ちていた。小さな体が夕月に飛び込み、華奢な腕が首に回される。彼は夕月に母親になってほしくはない。ただ、自由であってほしかった。夕月は凌一の方を向いて言った。「先生の想いも、決して無駄にはしません」本当に愛する人は、相手の幸せが少しでも損なわれることを許せない。たとえ自分の想いを押し殺してでも、その人を自由な風のように解き放ちたいと願う。ただその人が幸せに生き、無数の星々のように輝いているのを見られれば、それだけで十分なのだ。夕月は星来の手を握り、ダイニングルームへ戻った。瑛優は星来が食卓に着いたのを見て、自ら星来の取り皿に料理を取り分けてあげた。夕食後、凌一が切り出した。「私との賭けのことは覚えているかな?残り時間はあと3週間を切っているが」「藤宮テックに対して、いつ動くつもりだ?」夕月は唇の端を上げ、少し考えてから「うーん……あと1、2週間くらいかしら」凌一は静かな眼差しで彼女を見つめた。夕月には確かな計画があるのだろう。その自信に満ちた様子からすると、藤宮テックはすでに彼女の掌の上で踊らされているも同然だ。だが、藤宮盛樹との関係は最悪と言っていい。盛樹が自ら藤宮テックを夕月に譲渡するはずがない。「2週間で完全に掌握できると確信しているのか?」夕月が答える前に、彼女のスマートフォンが鳴った。画面を確認した夕月は、凌一にディスプレイを見せた。斎藤鳴からの着信だった。夕月は通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。鳴の興奮した声が一同の耳に届いた。「夕月さん、今どちらにいるんですか?素晴らしいニュースがあるんです!」夕月は答えた。「橘凌一博士のお宅にいるわ。斎藤さん、直接会ってお話しする必要があるのかしら?」夕月が橘博士の家にいると聞いた途端、鳴の下心は一気にしぼんでしまった。本来なら夕月を一人で誘い出すつもりだったのだ。「ああ、橘凌一のところですか」鳴の声には隠しきれない残念さが滲んでいた。鳴も凌一に取り入ろうとしなかったわけではない。国家機密プロジェクト
一介の大学教授に過ぎない斎藤鳴が、オームテックの助成研究者の一人でありながら、幹部陣にこれほどの影響力を持っているとは。凌一は静かにスマートフォンを手に取り、部下に指示を送った。「斎藤鳴の一挙手一投足を監視しろ」電話の向こうで鳴は上機嫌で続けた。「お礼をしたいなら、食事でも御馳走してくださいよ」夕月は応じた。「事が成就した暁には、きちんとお礼をさせていただきます。ただ現時点では、不必要な憶測を避けるため、接触は控えめにした方が良いかと」鳴は理解を示した。「もちろんです。買収案件の責任者就任が公になれば、橘社長も目を光らせてくるでしょうからね。くれぐれも慎重に」そう言いながら鳴は憤りを露わにした。「橘冬真のやつ、本当に最低ですよ!悠斗のガキもそうだ。父子でそんな真似を働くなんて、見てるとぶん殴ってやりたくなります!」「では雲上牧場で待ち伏せでもするか」凌一の冷ややかな声が響いた。「!!!」凌一の声に、鳴は猫を前にしたネズミのように首を縮めた。先ほど夕月が凌一の家にいると言っていたのだから、凌一の声が聞こえても不思議ではない。「冬真親子も楓も、斜面を登ってくる時を狙って、思う存分殴ればいい」鳴の足から力が抜けた。単なる虚勢を張っただけだったのに!実際に冬真と対面したら、おとなしく尻尾を巻くに決まっている。「た、橘博士、今夜はとても重要な資料の整理が……」電話越しの斎藤の声が震えていた。「雲上牧場でやればいい。迎えを手配しておく」「で、でも……」凌一の声が氷柱のように耳に突き刺さる。「『はい』とだけ答えればいい」電話越しにもかかわらず、鳴は見えない大きな手に首を締め付けられているような感覚に襲われた。声が震えて言葉にならない。結局、おとなしく凌一に従うしかなかった。「は、はい」夕月は、今頃の斎藤鳴の惨めな様子が目に浮かんだ。凌一の真意は、鳴への警告だということも分かっていた。通話を切ると、凌一が一言。「三流だな」夕月は低い声で呟いた。「必ず報いを受けさせます」凌一は不審に思い、尋ねた。「何かあったのか?」夕月は深いため息をつき、「私の博士論文を盗用されたんです」凌一の切れ長の瞳に、鋭い光が宿った。天野も初耳だった。「どういうことだ?」夕月は自嘲気味に
食事を終えた夕月は、待ちきれないように凌一の書斎へと足を向けた。というより図書館と呼ぶべき空間だった。この邸宅には三層吹き抜けの図書館があり、絶版本の宝庫であり、その多くのデータは機密扱いで、一流大学の教授ですら容易にアクセスできないものばかりだった。夕月は知識の海原に身を委ねたが、瑛優と天野が待っていることもあり、二時間余り読書を楽しんだ後、名残惜しそうに書斎を後にした。雲上牧場、斜面の下方にて:山風が冷たく吹き抜けていく。「パパ、おしっこ!もう我慢できないよ!!」悠斗の声が今にも泣き出しそうだった。家の至宝として大切に育てられてきた御曹司が、こんな窮地に追い込まれるとは。悠斗は斜面に寄りかかったまま、両手を拘束され身動きが取れない。トイレはおろか、ズボンを下ろすことすらできない状態だった。冬真は悠斗の傍らに横たわっていた。アウトドア用のジャケットを着ていても、夜露に濡れた山林の中で気温は急激に下がり、長時間動けない状態が続いて血行が悪くなり、全身が強張り、手足の感覚が鈍くなっていた。冬真は顔を引き締めて深いため息をつき、これも凌一からの試練だと自分に言い聞かせた。だが悠斗が耳元でずっと唸り声を上げ続けるものだから、冬真はいらだちを覚えていた。普段から子供と過ごす時間など少なかった。悠斗という子は本当に分かっていない。この五年間、夕月は一体どんな教育をしてきたのか。先ほど冬真が斜面の上を呼んでみたが、誰も見張りはいないようだった。冬真は上方を見上げた。時間が経つほど、ここに人が来る可能性は低くなる。思い切って片手で悠斗を抱え上げ、まず悠斗を上に連れて行こうと考えた。その後で人を呼んで楓を助けに来ればいい。結局楓は足首を捻り、尻と太腿まで怪我している。この虚弱な二人を連れて脱出するのを想像すると、冬真は面倒くさく感じた。元々、弱者が大嫌いだった。冬真は片手で体を支え上げた。斜面を這い上がったその時、漆黒の森の中に幾つかの懐中電灯の光が揺らめくのが見えた。急いで身を屈め、斜面の下に身を隠す。「声を出すな」悠斗に小声で言い聞かせた。悠斗は小さな唇を尖らせ、顔を真っ赤にして我慢している。斎藤鳴は凌一の部下に連れられ、斜面の縁まで来ていた。部下が鳴に言い渡す。「今夜は
「と、冬……」首に巻き付いている細長い生き物の正体に気付いた!目を見開いても、その全容は闇に溶けて見えない。窒息しそうな恐怖に、声を出すことすら困難になっていく。「うっ!」両足から力が抜け、その場に気を失った。斜面の上方には監視カメラが設置されていることに気付いた冬真は、熟考の末、悠斗を連れて斜面の下に戻った。翌朝早く、冬真は悠斗と楓を病院に連れて行った。斜面の下には虫が異常に多く、冬真の顔と首には何カ所も虫刺されの腫れが出来ていた。服の襟元から虫が入り込み、胸元まで刺されていた。悠斗も全身が発疹だらけになっていた。楓の状態は更に酷かった。斜面の下で気を失っている間に、まぶたを虫に刺され腫れ上がり、目を開けることすらできなくなっていた。楓は自分が盲目になったと思い込み、冬真と悠斗の鼓膜が破れそうな悲鳴を上げた。ベッドにうつ伏せになった楓の尻と太腿に、看護師が薬を塗っている。楓が延々と悲鳴を上げ続けるものだから、看護師は何度も目を白黒させていた。「藤宮楓さんでしょうか?」後ろから女性の声がした。楓は振り向いたものの、薬を塗られたまぶたが開かず、誰が来たのかわからなかった。「え?そうですけど、あなたは?」「雲合署の者です。通報を受け、傷害未遂の証拠も掴んでいます。事情聴取にご協力願えますか」数日後、桜都国際空港:夕月は瑛優の小さな手を握り、到着ロビーの柵の後ろで首を長くして待っていた。「ママ、鹿谷さんってどんな人?」「人ごみの中で一番かっこよくて素敵な人よ。ママの親友なの!」天野と涼は母娘の後ろに立っていた。涼は大あくびをする。今は朝の7時、鹿谷を出迎えるため、まだ暗いうちから起きてきたのだ。空港の旅客たちは、二人のイケメンに足を止めて視線を送っていた。天野はマスクをしていた。人目を引くのは好まないが、長身で逞しい体格、生地の下から浮かび上がる筋肉の輪郭は、否が応でも目を引いてしまう。涼に至っては言うまでもない。際立つ容姿に、八十歳のお年寄りから三歳の子供まで、性別関係なく彼の方を振り返った。「元社員のことを随分気にかけているんだな」天野が感慨深げに言った。涼の視線は夕月から離れない。「俺が気にかけているのは、君の妹だけさ」率直に言い放つ。鹿谷がどんな顔をして
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さんばかりの鋭さだった。「夕月の隣に立てるのは、この俺だけだ
二度ほど部屋を行ったり来たりした後、天野に電話をかけた。「はい」不機嫌そうな天野の声。そこへ涼の切迫した声が飛び込む。「義兄さん!すぐに瑛優を迎えに行ってくれ!やっと再会できた昔の恋人と二人きりにしてやれよ!来週エキシビション出場なんだ。夕月の体のことだけは気にかけてる。今夜だけは好きにさせてやって、明日からは節制だ!」その言葉を吐き出しながら、涼は自分の心臓が締め付けられるような痛みを感じていた。電話の向こうで、スポーツジムにいる天野の深いブルーのドライシャツは、汗で濃い色に染まっていた。短く刈り込んだ髪も汗で湿り、ハリネズミの針のように一本一本が立っている。薄い唇を引き締め、胸が大きく上下する。濡れたシャツが胸板にぴったりと張り付き、逞しい胸筋の起伏が浮き彫りになっていた。片手に携帯、もう片方の手には20キロのダンベルを握っている。今、涼が目の前にいたら、躊躇なくこのダンベルを頭に叩き込んでやるところだった。「誰が義兄さんだ、このっ!」天野は罵声を飲み込んだ。「今は違和感があるだろうけど」涼は真面目な声で言う。「何度も呼んでたら慣れてくるさ」「命が惜しくないのか?」天野は冷たく言い放つ。涼は話を戻した。「瑛優を連れに行かないなら、俺が行くぞ。でも拳が止まらなくなるかもしれない。鹿谷のヤツを刑務所送りにしてぇとこだが……夕月が悲しむからな。そんなことはできない」涼の切ない独白を聞きながら、天野はこめかみが痛くなってきた。もう我慢の限界だ。思い切って打ち明けることにした。「鹿谷は女だ。夕月の親友なんだよ、バカ野郎!お前の名義のレーシングクラブに所属してた時も、ちゃんと確認し――」天野の荒々しい声に、涼の長い睫毛が跳ね上がった。脳が二秒ほど停止する。我に返って、震える声で尋ねる。「鹿谷は……女?」天野の「ああ」という返事を待つ間もなく、「今から性転換手術、間に合うかな?」「……」天野の口角が上がり、鋭い光が目に宿る。冷ややかに言い放つ。「言った通りにしろよ」一瞬にして死にかけていた涼に生気が戻る。「夕月の心の中のナンバー2の座は、絶対にお前には渡さないからな!」電話が切れ、天野の頭上に疑問符が浮かぶ。携帯を置き、バーベルを持ち上げて激しいトレーニングを再開する。桐
夕月が手を差し伸べ、桜都へ連れて来てくれた。夕月と比べれば、自分の才能なんて取るに足らない。桜都での最初の一年、夕月は自分の奨学金で鹿谷の生活を支えてくれた。月光レーシングクラブにスカウトされた夕月は、マネージャーに鹿谷をコ・ドライバーとして推薦してくれた。ヴィンセントたちは高給で雇われた海外エンジニアで、最初は全く意思疎通ができなかったのに。夕月はずっと手を繋いで、共に走り続けてくれた。二人が別々の道を選んだとき、夕月は貯金のほとんどを鹿谷の留学費用に注ぎ込んでくれた。「14歳の時、橘凌一先生が桜都に連れて来てくれた時のこと。一番高価な服を着せられて、輸入文具を使わせてもらって。専用車に、高級マンション。でも先生は私を甘やかすためじゃなく、余計な労働や社交から解放して、勉強に集中させるためにそうしてくれたの。今20歳の私も、あなたにそんな生活をさせてあげたかった。M国の中心都市、メトロ・ベイの高級住宅街のマンションで、最高の学校に通わせて、衣食住全てを最高のものに。伶、もっと高く、もっと遠くまで羽ばたいてほしかったの」夕月の言葉を、鹿谷は今でも鮮明に覚えていた。夕月の肩に頭を預けながら、「君の言う通り、いろんな分野を学んだよ。でも研究者には向いてないって分かって、芸術とデザイン、鑑定の道に進んだんだ。君が学費という重荷を支えてくれたから、僕は自信を持って夢に向かえた。夕月、僕のブランドがメゾン・コレクションに出られて、桜国風ジュエリーがM国の映画界で引っ張りだこになった。君の支えがなければ、頂点には立てなかった。僕をより良い自分に導いてくれたんだ。今度は僕が、君をより輝かせる番だよ!」耳まで真っ赤になりながら、長年心に秘めていた言葉を、やっと口にすることができた。夕月の胸の中で熱い何かが溢れ出す。両手で鹿谷のほんのり桜色に染まった頬を包み込むように触れながら、「ええ、今度は私が、あなたの期待に応える番ね」と静かに答えた。「瑛優ちゃん、鹿谷が家にいて迷惑じゃない?」寝室で瑛優がスマートウォッチに届いた涼からのボイスメッセージを再生する。録音ボタンを押して、甘い声で返信する。「涼おじさん、私は全然平気だよ。鹿谷さんもくつろいでるの。さっきなんてママの料理食べて、感動して泣き
鹿谷は返す言葉もなく黙り込んだ。夜になって、夕月は鹿谷の好物ばかりを並べた食卓を用意した。それを見た途端、鹿谷の目に熱いものが込み上げてきた。夕月の隣に座り、角煮を頬張りながら、舌まで飲み込みそうなほど夢中で食べた。飢えた獣のように大口で食べる鹿谷の姿に、瑛優が目を丸くして見入っているのに気づき、途端に頬が赤くなった。「瑛優ちゃん、ごめん」瑛優は首を振った。「私だけじゃなかったんだ。ママのご飯、超おいしいよね!鹿谷さん、いっぱい食べてね!」以前、橘家では大奥様が夕月に冬真と子供たちの三食の世話を任せていた。でも冬真と悠斗はいつも夕月の料理に文句をつけていた。悠斗は夕月の料理しか口に合わなかったのに、毎回「ママの料理、我慢して食べてる」なんて言っていたっけ。「悠斗、そんなに嫌なら無理して食べなくてもいいのよ」と瑛優が諭したことがあった。「面目を立ててやってるだけだよ」瑛優には分かっていた。悠斗は大奥様の影響を受けているのだと。橘家の跡取りとして、本当に好きなものを誰にも悟られてはいけないのだ。そうやって夕月を鍛え上げ、より優れた名家の妻になってもらおうという魂胆なのだろう。でも、一度心に刺さった棘は、たとえ抜いたとしても、その傷跡は消えることはない。たとえママに至らない部分があったとしても、瑛優にはママを傷つけたくなかった。それに、瑛優にとって毎日ママの手料理が食べられることは、この上ない幸せだったのだから。夕月は鹿谷が美味しそうに食べる姿を見て、安堵の表情を浮かべた。本当は美味しい家庭料理なのに、橘家での7年間で自分の腕を疑うようになっていたのだ。鹿谷はご飯を一杯平らげると、もう一杯おかわりした。夕月の作った四品の料理と味噌汁は、三人でキレイに平らげた。食事の後、鹿谷と瑛優は食器洗いを担当し、二人で生ゴミを捨てに階下まで降りた。夕月が温かい白湯を三杯用意してキッチンから出てくると、鹿谷は自分のスーツケースから書類の束を取り出し、テーブルの上に置いた。「夕月、これ見てもらえるかな。問題なければサインをお願いしたいんだ」夕月は書類の一枚を手に取り、最初のページに目を通すと首を傾げた。「株式譲渡契約書……?」鹿谷は頷く。「僕が今持っているものは、全部夕月からもらったようなものだから。本
女の駆け引きだろうと高を括っていた。そんな手練手管には慣れていたはずだった。だがLunaの欲しがっていたスーパーカーをオークションに出しても、彼女は姿を現さなかった。あの鐘山でのレース、もしかしたら興奮の生んだ幻だったのではないかとさえ思い始めていた。そして今、Lunaが再び姿を現すという。「国際レースでLunaが現れたら、絶対に見失うな」冬真は音声メッセージを送る。内なる衝動が抑えきれない。あのヘルメットの下の素顔を、この目で確かめてやる!漆黒のコロナが路面すれすれに疾走していく。助手席に座る鹿谷は、ハンドルを握る夕月の横顔を見つめていた。夕月の表情には、懐かしい笑みが浮かんでいる。まるで5年前、いや、もっと昔の日々に戻ったかのようだった。五年もの空白があったというのに、再会した今、少しの違和感も感じない。まるで心が離れ離れになったことなど、一度もなかったかのように。「ターボの音が少し荒いね。今夜、整備室で徹底的にチェックするよ」「ええ、私も付き合うわ」夕月の隣にいると自然と言葉が溢れ出てくる。「僕が戻ってきたから、エキシビションに出る気になったの?」夕月は真っ直ぐ前を見つめたまま、澄んだ瞳を輝かせた。「伶、どんなタイミングでも、新たな一歩を踏み出すのに遅すぎることはないの。レースの世界に戻ろうって決めた時、真っ先に共有したいって思ったのは、あなただった」その言葉に、鹿谷の耳まで熱くなる。「プロレーサーとして、本格的に復帰するつもり?」「ええ」夕月はハンドルをしっかりと握り締めた。「今度は、もうLunaという仮面の下に隠れたりしない。世界中に知らしめるわ。Lunaの本名は——藤宮夕月だって!」天野はSUVを運転し、後部座席には涼と瑛優が座っていた。涼は運転席と助手席のシートの背もたれに両手を掛け、車の流れの中に消えていくコロナを食い入るように見つめていた。「もっと近づけよ!追いつくんだ!天野さん、俺の女神が若造と一緒にあの車に!」天野の額に青筋が浮かび上がった。「窓から放り出すぞ、それでもいいのか?」天野は怒りを押し殺しながら声を荒げた。瑛優が隣にいるというのに。「瑛優ちゃんの前でそんな下劣な話するな!」涼は瑛優の方を向いた。「ねぇ、ママは本当に鹿谷のことが好きなの?」
「lunaも出場する?」清水は初耳だった。「どこからその情報を?」と疑わしげに夕月を見る。だが、すぐに得心がいった。きっと鹿谷から聞いたのだろう。あれほど親密な関係なら、レースに詳しくなくても、lunaの動向くらいは知っているはずだ。lunaの出場を知り、ヴィンセントの闘志が燃え上がる。「Lunaが復帰?まさか」彼は早速、その情報を同僚たちに伝えた。「思い知らせてやる。彼女の成功は我々のおかげだってことを!我々の支援なしじゃ、Lunaなんて何の価値もない!」ヴィンセントは興奮した様子で鹿谷に詰め寄った。「月光レーシングクラブのオーナーに庇護されて、我々以上の最強チームでも作れない限り、エキシビションマッチで好成績なんて取れるはずがない」別のエンジニアも続けた。「今や世界中で我々に匹敵するチームなんてない!アマチュアでLunaを叩き潰してやる!覚悟しておけよ、鹿谷!」鹿谷の目が赤く潤み、まんまるな頬が怒りで薄紅色に染まっていく。この傲慢な外国人たちの態度に、言葉を失っていた。そんな中、夕月の涼やかな声が耳元で響いた。「楽しみにしていましょう。あまりに惨めな負け方にならないことを祈ってますわ」夕月は淡い微笑みを浮かべながら、冷たい手を鹿谷の温かい頬に優しく添えた。「少し冷やしてあげる。さあ、帰りましょう」涼は二人の親密な様子を横目で見ながら、思わず舌打ちをした。腕を組んだまま、エンジニアたちには目もくれずにいた。月光レーシングクラブ解散後、かつてLunaを支えたチームメンバーは各社から引く手数多で、いずれも破格の待遇で迎えられた。ヴィンセントなどは元チーフエンジニアの経験を活かし、自叙伝まで出版。月光レーシングでの日々を詳細に綴っていた。さらにはLunaのエンジニアという経歴を活かし、大学で動力学の客員教授までこなしている。涼のマネージャーに見出されスカウトされた彼らは、Lunaの名声に便乗する形で、一気に出世街道を駆け上がった。成り上がりの傲慢さを露わにしていた連中だ。だが、風船も膨らみすぎれば内側から破裂する。清水秘書は腕を組んで歩み去る夕月と鹿谷の後ろ姿を見つめながら、スマートフォンを取り出した。その瞬間を写真に収める。涼は振り返り、清水に意味深な視線を送った。
清水の言葉が終わらないうちに、鹿谷は言い放った。「僕は橘グループが嫌いです。僕の会社は絶対に橘グループとは取引しません」「何か誤解があるのでは?」清水は困惑した様子で、夕月の方を見やり、何かを悟ったように続けた。「もしかして藤宮さんから、弊社の悪い噂でも?誤解なさらないでください。藤宮さんは弊社のことを理解していませんし、社長とも関係が悪化しています。社長は高額な報酬をお約束して、藤宮楓様のレース指導をお願いしたいと……」「お断りします」鹿谷は警戒するように清水を見据え、夕月の肩にぴったりと顎を乗せた。「僕はluna一筋です」「鹿谷、いい話を断る理由はないだろう?」月光レーシングクラブの元エンジニアの一人、ヴィンセントが歩み寄ってきた。鹿谷の表情が曇る。「アマチュアドライバーを世界大会に出場させるなんて、恥ずかしくないんですか?」ヴィンセントは両手を広げ、「ただのエキシビションレースだよ」と軽く受け流した。夕月は清水と鹿谷のやり取りから状況を把握し、「楓が国際レースに出場するの?」清水は得意げに夕月に告げた。「弊社は国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一社でして、藤宮楓様がエキシビションレースに出場されます」「楓様の好成績のため、社長は月光レーシングクラブのエンジニアとメカニックを高額で引き抜きました」と清水は夕月に自慢げに説明する。清水は笑みを浮かべ続ける。「藤宮さんはご存知ないかもしれませんが、鹿谷さんは伝説のレーサー、lunaのコ・ドライバーでした。非常に優秀な方なんです。社長は破格の条件を用意していますので、藤宮さんもどうか鹿谷さんのチャンスを邪魔しないでいただけますか」「虎の威を借る狐ね」夕月の一言で、清水の得意げな表情が凍りついた。鹿谷はヴィンセントに向き直った。「アマチュアがエキシビション枠を奪うってことは、プロの出場機会を潰すということですよ!レース界全体が、アマチュアを推す橘社長に不満を感じています。あなたたちまで笑い者に、軽蔑の的になるんですよ!」ヴィンセントは力強く言い放った。「楓様を表彰台の三位以内に導けば、業界全体が私たちの実力を認めることになる!鹿谷くん!この五年間、私たちはずっとlunaの影に覆われてきた。lunaは引退し、月光レーシングクラブも解
涼の全身から血の気が引き、手足が氷のように冷たくなる。この世界はもう終わりか。あんなに大きなベッドなのに、どうして三人目の余地がないんだ!!喉元に何かが詰まったように、痛みを帯びた喉仏が震える。夕月は涼の目が赤く潤んでいるのに気付いた。「桐嶋さん、大丈夫?」「何でもない」男は首を振る。声が掠れている。「君が幸せなら、それでいい」夕月の頭上には疑問符が浮かぶ。「変な人」鹿谷は夕月の腰に回した腕に力を込めながら、その肩に顎を乗せてそっと囁いた。涼は両手を強く握り締める。こんな屈辱は生まれて初めてだ!ママっ子のくせに、夕月の寵愛を笠に着て、自分の評判を貶めようとしている!涼が反論しようとした矢先――夕月は優しく鹿谷の頬に触れた。「先に帰りましょう。10時間のフライトで疲れているでしょう?お風呂に入って、ゆっくり休んで」涼は雷に打たれたかのように凍りついた。その表情は濡れた子犬のよう。もし頭に耳があったなら、すでに垂れ下がっているに違いない。いいさ、鹿谷を可愛がれば良い。暗がりで独り傷を舐め、嫉妬に狂い、歪んで、蛆虫のように這いずり回るのは、この自分だけで十分だ。涼から立ち昇る怨念に、鹿谷は夕月の背中にぴったりと身を寄せた。「うん!」鹿谷は夕月のウールコートに頬を擦りつける。5年の歳月を経ても、二人の親密さは変わらない。まるで離れていなかったかのように。寄り添うことで、5年間空っぽだった心が、やっと満たされるのを感じた。「あれ、鹿谷じゃないか?」「同じ便だったのに気付かなかったの?」到着ロビーの向こうで、大きな荷物を山積みにしたカートを押す外国人たちが立っていた。彼らは鹿谷を長い間観察し、その腕の中の夕月を訝しげに見つめていた。これまで誰とも、こんなに親密な様子を見せたことのない鹿谷だったから。橘社長の秘書、清水も彼らと一緒にいた。清水は彼らの視線を追い、夕月が「男性」に抱きしめられているのを見て、思わず息を飲んだ。夕月の目の前には涼と天野が立っているのに、夕月を抱きしめているこの若い男性に、特に反応を示さない。もしかして、夕月の親戚だろうか?清水秘書は慌ててスマートフォンを取り出し、冬真に連絡を入れながら尋ねた。「あの若い男性をご存知ですか?」外国人
鹿谷は涼の刺すような視線に気付き、小さな心臓が震えた。誰だろう、この人。どこかで見た顔のような。飛行機を降りたばかりなのに、なぜか敵に出くわしてしまったような。瑛優は軽やかにキャリーバッグを押し、ツルツルした床の上を駆けてくる。涼の鋭い眼差しに怯えた鹿谷は、思わず夕月の後ろに身を隠した。人見知りの激しい鹿谷は人との接触が苦手で、特に異性の視線を避けていた。髪を短く切り、中性的な服装を好んでからは、異性の視線を感じることも少なくなった。たまに視線を感じても、整った容姿への好意的なものばかりだった。天野は素っ気なく頷いて「久しぶり」と挨拶した。鹿谷も軽く頷き返すだけで、挨拶を済ませた。夕月の兄については、長身で胸板が厚いという印象以外、特に記憶に残っていない。「こちらは桐嶋さん。月光レーシングクラブのオーナーよ」と夕月が紹介する。鹿谷は驚いた様子で、夕月の耳元に顔を寄せ、「てっきりオーナーは、おじさんかと思ってました」と囁いた。涼は奥歯をギリギリと噛みしめ、額に青筋が浮かんだ。生意気な小僧め。目の前で夕月に密着しやがって。「挑発のつもりか」低い声が喉の奥から漏れる。涼は鋭い視線で鹿谷を射抜くように見つめ、手を差し出した。「はじめまして」氷のような声が響く。鹿谷は夕月の腕にしがみついたまま、涼との握手を避け、小さく頷くだけだった。涼の黒い瞳は、厚い氷に覆われた湖面のように冷たく光る。「伶は人見知りで、男性との接触が苦手なの」夕月が説明する。言葉が終わらないうちに、涼の威圧的な雰囲気に怯えた鹿谷は首を縮め、夕月の後ろに隠れるように身を寄せた。自然な仕草で夕月の細い腰に腕を回す。夕月に抱きつくことで、安心感を得られるかのように。涼の目に宿った氷のような冷気が、一瞬にして砕け散った!殺人のプロに相談したいものだ。左手から切り落とすべきか、右手からか。そして夕月は、鹿谷のこんな親密な接触を全く嫌がる様子もない。なるほど、こういうタイプが好みとはな!!涼は深いため息をつく。生まれ変わりたい!か弱くて無力そうな子犬のような態度で、夕月の母性本能を刺激するわけか。涼は心の中で、自分の勝算を計算し直していた。鹿谷は見ていた。涼の敵意と軽蔑に満ちた目が、突如として底意地の悪い光を放つのを。「へぇ、まるで母親にべったりな子供のよ
涼は侮蔑的に嗤った。「ふん、誰かの心が砕ける音が聞こえたようだが」その冷たく傲慢な声で言い放つと、天野の顔を窺った。てっきり天野も自分と同じように顔を曇らせているだろうと思った。だが意外なことに、腕を組んだまま二人を見つめる天野の深い瞳には、穏やかな光が宿っていた。涼の顔が引きつる。苦い思いをしているのは、この自分だけというのか。地面に落ちて砕けた心は、まさか自分のものだったとは!ふん、さすがは天野少尉、こんな場面でも冷静沈着を装うとはな。「きっと今頃、鹿谷の顔面を殴りつけたい衝動と戦っているんだろう」涼は天野の表情を読み取ろうとする。「夕月のためだけに、必死に理性を保っているのさ」深いため息をつく。天野を見習わなければ。度量がなくては、どうして夕月の心の中で二番目の座を射止められようか!?「私も鹿谷さんにチューしたい!」夕月が美味しそうにキスをするのを見た瑛優が、待ちきれない様子で声を上げた。夕月は瑛優を抱き上げ、瑛優は鹿谷の頬に何度もキスをした。鹿谷の潤んだ瞳は首筋まで真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに「君の娘さん?」と尋ねる。夕月は頷いて「うん、藤宮瑛優よ。瑛優って呼んでね」鹿谷は優しい眼差しで瑛優を抱きしめ、夕月は二人を腕の中に包み込んだ。涼は息が詰まりそうになった。まるで高空から墜落する傷ついた白鶴のように、整った顔が雪のように蒼白になる。「何で飛び出さないんだ?」涼はもう我慢できなかった。「何のために?」天野は首を傾げる。「お前が殺して、俺が死体処理する!」涼は既に天野の獄中生活まで想定していた。まさに一石二鳥、ライバルを二人まとめて片付けられる。天野の目に軽蔑の色が浮かぶ。涼の鹿谷への敵意を感じ取り、諭すように言った。「久しぶりの再会を邪魔するな」「お前、兄貴なのに、人前でイチャつかせるのを放っておくのか?!」涼は目を見開いた。「イチャつくのが何か問題でもあるのか?夕月は随分会えていなかったんだぞ」天野は平然と返す。涼は天野を見つめ直す。まるで初めて会った人を見るかのように。「天野少尉、もうNo.2の座を諦めているとは」天野は眉をひそめた。「は?」涼の口から飛び出したのは一体何だ?涼は鹿谷に暗い視線を向ける。その眼差しは鹿谷を刺し殺さんばかりの鋭さだった。「夕月の隣に立てるのは、この俺だけだ