夕月の頬が一気に紅潮する。ボディーソープを押し出す音が響いてきて、夕月の想像は止まらなくなる。涼は今、体のどこを……彼女は慌てて頭を振った。浴室の反響が、彼の声をより艶めかしく響かせる。「何かあったのか?」夕月は熱くなった額を押さえた。頭の中が沸騰してしまいそうだ。かろうじて残った理性で、用件を告げる。「来週、私の友達が帰国するんです。あなたもご存知の、私の元コ・ドライバー、鹿谷伶なんですけど。コロナを貸していただけないでしょうか?」「いいよ。じゃあ、元月光レーシングクラブのオーナーとして、空港まで迎えに行ってもいいかな?」涼は気さくに返事をした。「ええ、もちろん」夕月は微笑んで答えた。その時、涼の小さな悲鳴が耳に響いた。夕月はハッとして、携帯の画面を覗き込んだ。そこには涼の濡れた前髪から水を滴らせた顔が映し出されていた。湯上がりの美形。首筋を伝う水滴の道筋が、妙に色めいて見える。夕月は思わず携帯を取り落としそうになった。「すまん。手が濡れてて、切ろうとしたんだけど」天野の耳にも涼の声が届いてしまう。運転中の天野は前方に視線を向けたまま、「どうした?」と尋ねた。「な、なんでもありません!」夕月は慌てて答える。「あっ!」バシャッという音と共に、携帯が落下する。カメラには鍛え上げられた——太腿が映し出された。水滴が画面を叩き、映像がぼやける。夕月は慌てて目を閉じる。見てはいけない、見てはいけない。慌てた指が画面をあちこち触る。涼は画面上で踊る指を見つめながら、羽毛のように柔らかな声を落とした。「夕月、そんなとこ触っちゃ……」夕月の顔が真っ赤に染まる中、前方の信号が赤に変わった。天野が車を止め、夕月の方を向く。反射的に携帯を背中側に隠す夕月。まるで天野の目の前で、誰かと密会してるみたいじゃないか。自分の行動に気付いた瞬間、恥ずかしさで全身が熱くなった。「桐嶋との話、私に聞かせたくないことでも?」天野の声が妙に重たい。「ち、違います!お兄さんは運転に集中して!」夕月は慌てて首を振る。身を屈めて、天野の視線を遮るように携帯を隠す。恐る恐る画面を覗き込むと、通話は既に切れていた。夕月は大きく息を吐き出し、緊張が解けて体の力が抜けた。
その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
藤宮夕月(ふじみやゆづき)は娘を連れて、急いでホテルに向かった。すでに息子の5歳の誕生日パーティーは始まっていた。橘冬真(たちばなとうま)は息子のそばに寄り添い、ロウソクの暖かな光が子供の幼い顔を照らしていた。悠斗(ゆうと)は小さな手を合わせ、目を閉じて願い事をした。「僕のお願いはね、藤宮楓(いちのせかえで)お姉ちゃんが僕の新しいママになってくれること!」藤宮夕月(ふじみやゆづき)の体が一瞬震えた。外では激しい雨が降っていた。娘とバースデーケーキを濡らさないようにと傘を差し出したが、そのせいで自分の半身はずぶ濡れになっていた。服は冷たい氷のように張り付き、全身を包み込む。「何度言ったらわかるの?『お姉ちゃん』じゃなくて、『楓兄貴(かえであにき)』って呼びな!」藤宮楓は豪快に笑いながら言った。「だってさ、私とお前のパパは親友だぜ~?だからママにはなれないけど、二番目のパパならアリかもな!」彼女の笑い声は個室に響き渡り、周りの友人たちもつられて笑い出した。だが、この場で橘冬真をこんな風にからかえるのは、藤宮楓だけだった。悠斗はキラキラした瞳を瞬かせながら、藤宮楓に向かって愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。「で、悠斗はどうして急に新しいママが欲しくなったんだ?」藤宮楓は悠斗の頬をむぎゅっとつまみながら尋ねた。悠斗は橘冬真をちらりと見て、素早く答えた。「だって、パパは楓兄貴のことが好きなんだもん!」藤宮楓は爆笑した。悠斗をひょいっと膝の上に乗せると、そのまま橘冬真の肩をぐいっと引き寄せて、誇らしげに言った。「悠斗の目はね、ちゃーんと真実を見抜いてるのさ~!」橘冬真は眉をひそめ、周囲の人々に向かって淡々と言った。「子供の言うことだから、気にするな」まるで冗談にすぎないと言わんばかりだった。だが、子供は嘘をつかない。誰もが知っていた。橘冬真と藤宮楓は、幼い頃からの幼馴染だったことを。藤宮楓は昔から男友達の中で育ち、豪快な性格ゆえに橘家の両親からはあまり気に入られていなかった。一方で、藤宮夕月は18歳のとき、藤宮家によって見つけ出され、家の期待を背負って、愛情を胸に抱きながら橘冬真と結婚した。そして、彼の子を産み、育ててきたのだった。個室の中では、みんなが面白がって煽り始
藤宮楓は振り返り、橘冬真にいたずらっぽく舌を出した。「夕月、また勘違いしてるわ、今すぐ説明してくるね!」「説明することなんてないさ。彼女が敏感すぎるだけだ」橘冬真は淡々とした表情で、藤宮夕月が置いていった半分の誕生日ケーキをちらっと見て、眉を少しひそめた。橘冬真の言葉で、周りの人々は皆、安心したように息をついた。藤宮夕月は腹を立てて出て行っただけで、何も大したことじゃない。他の人たちは口々に同調した。「夕月はただ気が立っていただけ、冬真が帰ったらすぐに宥めればいいさ」「そうだよ、夕月が本当に冬真と離婚するなんて、あり得ない。誰でも知ってるよ、夕月は冬真のために命がけで子供を産んだんだから」「もしかしたら、外に出た瞬間に後悔して戻ってくるかもね!」「さあさあ、ケーキを食べよう!冬真が帰ったら、夕月はすぐに家の前で待っているだろうね!」橘冬真は眉を緩め、藤宮夕月が怯えて、何も言わずに自分を気遣って立つ姿を想像できた。悠斗は美味しそうに、藤宮楓が持ってきたケーキを食べている。クリームが口の中に広がり、舌がしびれるような感覚がするが、彼は気にしなかった。ママはもう自分のことを気にしない。なんて素晴らしいことだろう。誕生日の宴が終わり、橘冬真は車の中で目を閉じて休んでいた。窓から差し込む光と影が、彼の顔を明滅させていた。「パパ!体がかゆい!」悠斗は小さな猫のように低い声で訴えた。橘冬真は目を開け、頭上のライトを点けた。そこには悠斗の赤くなった顔があり、彼は体を掻きながら呼吸が荒くなっていた。「悠斗!」橘冬真はすぐに悠斗の手を押さえ、彼の首に赤い発疹が広がっているのを見た。悠斗はアレルギー反応を起こしている。橘冬真の表情は相変わらず冷徹だったが、すぐにスマートフォンを取り出して、藤宮夕月に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼が話そうとしたその時、電話越しに聞こえてきたのは、「おかけになった電話は現在使われておりません」橘冬真の細長い瞳に冷たい怒りが湧き上がった。子供がアレルギーを起こしているのに、藤宮夕月は無視しているのか?「運転手、速くしろ。藤宮家へ戻れ!」彼は悠斗を抱えて家に戻った。玄関を見やると、そこはいつも通りではなく、藤宮夕月が待っているはずの場所に誰もいなかった。佐
橘冬真はスコットランドエッグを食べたいと言ったが、実際は佐藤さんに藤宮夕月に連絡を取らせるためだった。彼はすでに藤宮夕月に逃げ道を作っている。「奥様は、もう帰らないと言ってます」「くっ…くっ…!」橘冬真はコーヒーをむせて、咳き込んだ。抑えきれずに咳が止まらない。佐藤さんは何かを察した。「橘様と奥様、喧嘩でもされたんですか?」「余計なことを言うな!」男は低い声で一喝し、レストランの中の温度が急激に下がった。佐藤さんは首をすくめて、それ以上何も言えなかった。橘冬真は手にしたマグカップをぎゅっと握りしめた。藤宮夕月が帰らないなんてあり得ない。今頃、彼女は会社に送る愛情たっぷりのお弁当を準備しているはずだ。以前は、藤宮夕月が彼を怒らせると、昼食を自分で会社に届けに来て、和解を求めてきたものだ。美優は食卓の前に座り、朝食を見て目を輝かせた。「わぁ!ピータンチキン粥だ!」美優はピータンチキン粥が大好きだが、悠斗はピータンを見ると吐き気を催す。藤宮家では、藤宮夕月が粥を作ることはほとんどない。橘冬真と悠斗は粥が嫌いだからだ。藤宮大奥様も言っていた、それは貧しい人たちが食べるものだと。貧しい家では米が足りないから粥を作るのだ。藤宮家では、三食きちんとした栄養バランスを取ることが重要だ。藤宮夕月が、たとえ彼女が作る粥に栄養があって、子どもたちに食べさせれば消化を助けると思っても、それでもピータン、鶏肉、青菜を入れると、藤宮家の人々からは「ゴミみたいだ」と笑われ、気持ち悪いと言われてしまう。特に悠斗のためにピータンを入れずに鶏肉と青菜だけで粥を作った時、悠斗はそれをゴミ箱に捨て、藤宮夕月は二度と粥を作ることはなくなった。彼女は悠斗に、食べ物を無駄にしてはいけないと教えていた。悠斗は怒って彼女に訴えた。「これは豚に食べさせるものだ!どうして僕に食べさせるの!ママはやっぱり田舎から来たんだな!」藤宮夕月は胸が詰まる思いがし、ふと我に返ると、美優はすでにチキン粥を食べ終えていた。美優は満腹でげっぷをし、きれいに舐めたお椀を見つめながら、まだ少し食べ足りないような表情を浮かべた。「祖母の家に来ると、ピータンチキン粥が食べられるんだね?」藤宮夕月は彼女に言った。「これからは、食べたいものを食べよう。他の人
電話の向こう側で、男性はすでに電話を切っていた。藤宮夕月は車に戻り、アクセルを踏み込んで車を駐車場から飛び出させた。彼女は気づかなかったが、黒いスポーツカーが影のように彼女を追いかけていた。道路の両側の景色が急速に後ろに流れ、銀色のボルボはアスファルトの上を雷のように駆け抜けた。藤宮夕月は真っ黒な瞳を前方に据え、こんなに速く車を運転するのは久しぶりだった。メーターの針と共に、アドレナリンが頂点に達した。彼女は三台の目立つ色のスポーツカーを追い抜き、その車に乗っていた人々は叫び声を上げた。「うわっ!あれは誰だ?」別のスポーツカーに乗っていた人物が、Bluetoothイヤホンを使って部下に指示した。「この車のナンバーを調べろ」改造されたスポーツカーが次々に藤宮夕月に置いていかれ、カーブでも彼女のスピードは落ちることなく、カーブを駆け抜けた。数人の遊び人たちのイヤホンに声が響いた。「調べた、これは藤宮家の車だ!」誰かが疑問を口にした。「藤宮家?運転しているのは藤宮夕月か?」「藤宮夕月がこんなにすごいのか?彼女、前に俺たちとレースした時、手を隠していたのか?」銀色のボルボは山道をぐるぐると登っていき、後ろには黒いフェラーリ一台が追いかけていた。桐嶋涼は唇を引き上げ、前髪が眉の上にかかっていた。彼はかつて意気揚々とした藤宮夕月を見たことがあった。彼女は若き天才で、14歳で花橋大学の天才クラスに入り、3年間連続でIMO競技で金メダルを獲得、19歳でFASCを受験して、レーサーの免許を取得後、世界ラリー選手権でトップ10に入った。彼女の人生は順風満帆で、常に花束と拍手が伴っていた。しかし、博士推薦をもらってからの3年目に、彼女は退学を選び、夫を支え、子育てに専念する道を選んだ。そして、豪門の専業主婦となった。それ以来、彼女の車にはチャイルドシートが置かれ、彼女の時速は70キロを超えることはなかった。タイヤが地面をこすり、耳障りな音を立て、白い煙が上がり、藤宮夕月の車は突然止まった。桐嶋涼のフェラーリはそのまま前を走り抜け、彼は後部ミラーから、藤宮夕月が路肩に止まったボルボをちらりと見ることができた。藤宮夕月は携帯電話の画面をスライドさせ、車のオーディオから美優のクラス担任の声が聞こえてきた
藤宮楓が紙袋をぶら下げ、カスタムバイクから降り立つ。警備員がヨガパンツ姿の女性を目に焼き付けようとするように凝視していた。「やっほー」緩やかに揺れるロングヘアを無造作になびかせながら駆け込み、彼女は幼稚園へ滑り込んだ。事前に調べ尽くした悠斗のクラスで主任保育士を見つけると、にっこり笑みを浮かべて近づいた。「橘悠斗くんにワックスボトルキャンディを届けに来たんです。皆に大人気だって聞きましたけど」保育士が警戒の眼差しで彼女を見下ろす。「あなたが持たせたんですか?」「ええ、友達が最高級のハチミツワックスで作ってるのよ」楓が得意げに語りかけた瞬間、「この人殺しが!!」怒声が背後の空間を切り裂く。振り返った楓の頬に、火のついたような平手打ちが飛んできた。「何するのよ!?」「お前こそ何してんだ!!」楓は黙って耐えるタイプじゃない。血の味を舌で舐めながら、複数の母親たちに飛びかかっていった。降園時間、藤宮夕月が美優を迎えに来ると、娘が目を輝かせながら楓の惨状を再現していた。「楓お姉ちゃんがバタバタしてたの!悠斗くんが助けようとしたら、美優がズルズル引きずったの!」鼻青々の楓は悠斗を連れ、早退届を提出していた。ほかの子どもたちのママたちは皆、楓のことを知っていて、彼女に向かって口うるさく文句を言っていた。美優には何を言っているのかよく分からなかったが、ただ嫌な言葉ばかり並べているのは感じ取れた。チャイルドシートに座った美優が窓の外を指差す。「ママ、おうちに帰るの?」夕月は静かに頷いた。「今日が最後の『橘邸』よ」「お帰りなさい、奥様、お嬢様!」佐藤さんは藤宮夕月を見ると、心からほっとした。藤宮夕月は橘邸を出て一晩を過ごしただけで、橘邸の家政婦たちはほとんど我慢できなくなっていた。藤宮夕月は言った。「私は美優と一緒に少し荷物を片付けてきます」佐藤さんは深く考えず、ただ一言、「楓さんが家にいらっしゃいますよ」と注意を促した。藤宮夕月は美優の手を引いてリビングに入ると、そこで藤宮楓が誰かを罵っているのが聞こえた。「このクソデブども、あんな奴らと同じ土俵に立つつもりはない!もし本当に手を出したら、奴らの内臓を全部ぶちまけてやる!ああ、冬真、少し優しくしてよ!」藤宮楓はソファに座り、橘冬真が綿棒
凌一は既に天野から視線を外していた。「ご自由に」そして夕月に向き直り、穏やかな眼差しを向ける。「星来を助けてくれて、ありがとう」「違います。星来くんが私を助けてくれたんです」夕月は首を振った。星来は夕月の手を握り、自分の胸を叩いてから、スマートウォッチを指差した。夕月はすぐに星来の言いたいことを理解した。自分が夕月を守ると、そう言いたかったのだ。「今日の星来くん、とっても勇敢だったわね」夕月は優しく微笑んだ。「星来くん!チューしていい?」瑛優が星来に抱きついた。星来が嫌がる様子を見せなかったので、瑛優は星来の頬にキスをした。夕月も膝をついて、星来の頭に軽くキスを落とした。星来の頬が薔薇色に染まり、漆黒の瞳には無数の星が瞬いているようだった。先ほどキャンプ場に戻った時、夕月は瑛優に星来とキノコ採りをしていた時の出来事を話していた。瑛優は話を聞いて、悠斗と一戦交えたい気持ちでいっぱいになった。でも、悠斗が今夜斜面で野宿すると聞いて、学校で会った時に、拳を見せながらじっくり話し合おうと決めた。天野は凌一の様子を観察していた。氷のような眼鏡の奥で、凌一の瞳が夕月と星来を見つめる時、不思議な優しさを帯びていた。「橘博士、息子さんのお母さんを探してみては?」天野の言葉に、食事の準備をしていた使用人が続けた。「坊ちゃまは藤宮さんと本当に仲が良いですから、藤宮さんがお母様になってくだされば……」この屋敷で働く使用人たちは、夕月が以前凌一の甥の嫁だったことを知っていた。しかし橘家の人々との接点は少なく、ただ夕月が書斎に出入りを許され、星来が彼女との触れ合いを嫌がらない様子を見て、父子にとって特別な存在なのだと感じていた。その言葉が空気を切り裂いた途端、星来の様子が一変した。瑛優に抱きしめられていた星来が突然身をよじり始め、瑛優は慌てて腕を解いた。星来は後ずさりし、夕月を見上げた瞳が一瞬で赤く染まる。そして踵を返すと、自室へと駆け出した。「星来くん!」夕月の呼びかけに、星来の足取りはさらに速くなった。「申し訳ございません」使用人は自分の失言に気付き、深く頭を下げた。「下がれ」凌一の声が冷たく響く。夕月と瑛優が星来の走り去った方を見つめているのを見て、「放っておけ。食事にしよう
その時、天野は緊張した警戒犬のように身を固くしていた。夕月は車内に滑り込むと、優しい声で「星来くん、抱っこしていい?」と囁きかけた。まだ眠そうな星来は、夕月の方へふわりと身を寄せた。彼女の胸元に倒れ込むように身を預け、夕月は慎重に車から抱き出した。星来は夕月の肩に顔を埋めた。柔らかな甘い香りが鼻をくすぐる。半眼を閉じながら、夕月の温もりに甘えるように、小さな腕が自然と彼女の首に回された。出迎えた使用人たちは、星来を抱く夕月の姿に目を見開いた。人見知りの激しい星来は、誰とも身体的な接触を持とうとしない。最も親しい凌一でさえ、時には話しかけても相手にされないほどだった。夕月に抱かれている星来を見て、自閉症が改善に向かっているのだろうかと、使用人たちは驚きを隠せなかった。「坊ちゃまがお眠りのようですが、私が抱かせていただきましょうか?」使用人が一歩前に出て声をかけた。夕月は首を振った。「大丈夫です。頭は少し覚醒してきましたが、体がまだ眠たいみたいなの」星来の背中を優しく撫でながら、「もう少し、このまま抱かせてあげましょう」天野に抱かれてリビングに入った瑛優は、大きくあくびをして完全に目を覚ました。夕月は星来をソファに座らせ、ウェットティッシュで顔と手を丁寧に拭い始めた。かがんだ姿勢で、墨のような黒髪が滝のように垂れ、その仕草は限りなく優しく、指先から手のひらまでが暖かだった。星来の瞳は完璧なアーモンド形で、黒真珠のような漆黒の瞳が目全体の四分の三を占め、白目はほんの僅かしか見えなかった。その瞳で夕月をじっと見つめながら、無意識に手を伸ばし、夕月の髪に触れようとする。「凌一様がいらっしゃいました」使用人の声が響く。星来は夢から覚めたように、慌てて手を引っ込めた。振り返ると、電動車椅子に座った凌一が近づいてきていた。ベージュのカジュアルスーツを着こなし、縁なしメガネの奥の瞳は冷たく光っていた。夕月はずっと思っていた。凌一は白が似合う人だと。まるでこの世の穢れが寄り付かないかのように。まるで聳え立つ雪山のように、清らかで、畏怖の念を抱かずにはいられない存在。凌一は天野を一瞥した。自分の領域に侵入者を見つけたような眼差しだった。黒いコートを纏った天野は、中の黒シャツが逞しい筋肉で起
夕月の頬が一気に紅潮する。ボディーソープを押し出す音が響いてきて、夕月の想像は止まらなくなる。涼は今、体のどこを……彼女は慌てて頭を振った。浴室の反響が、彼の声をより艶めかしく響かせる。「何かあったのか?」夕月は熱くなった額を押さえた。頭の中が沸騰してしまいそうだ。かろうじて残った理性で、用件を告げる。「来週、私の友達が帰国するんです。あなたもご存知の、私の元コ・ドライバー、鹿谷伶なんですけど。コロナを貸していただけないでしょうか?」「いいよ。じゃあ、元月光レーシングクラブのオーナーとして、空港まで迎えに行ってもいいかな?」涼は気さくに返事をした。「ええ、もちろん」夕月は微笑んで答えた。その時、涼の小さな悲鳴が耳に響いた。夕月はハッとして、携帯の画面を覗き込んだ。そこには涼の濡れた前髪から水を滴らせた顔が映し出されていた。湯上がりの美形。首筋を伝う水滴の道筋が、妙に色めいて見える。夕月は思わず携帯を取り落としそうになった。「すまん。手が濡れてて、切ろうとしたんだけど」天野の耳にも涼の声が届いてしまう。運転中の天野は前方に視線を向けたまま、「どうした?」と尋ねた。「な、なんでもありません!」夕月は慌てて答える。「あっ!」バシャッという音と共に、携帯が落下する。カメラには鍛え上げられた——太腿が映し出された。水滴が画面を叩き、映像がぼやける。夕月は慌てて目を閉じる。見てはいけない、見てはいけない。慌てた指が画面をあちこち触る。涼は画面上で踊る指を見つめながら、羽毛のように柔らかな声を落とした。「夕月、そんなとこ触っちゃ……」夕月の顔が真っ赤に染まる中、前方の信号が赤に変わった。天野が車を止め、夕月の方を向く。反射的に携帯を背中側に隠す夕月。まるで天野の目の前で、誰かと密会してるみたいじゃないか。自分の行動に気付いた瞬間、恥ずかしさで全身が熱くなった。「桐嶋との話、私に聞かせたくないことでも?」天野の声が妙に重たい。「ち、違います!お兄さんは運転に集中して!」夕月は慌てて首を振る。身を屈めて、天野の視線を遮るように携帯を隠す。恐る恐る画面を覗き込むと、通話は既に切れていた。夕月は大きく息を吐き出し、緊張が解けて体の力が抜けた。
「ぎゃああっ!!」楓は悲鳴を上げながら転がり落ち、土埃と砂を口いっぱいに含んだ。低木の生い茂る斜面の下で、ロープに縛られたまま宙づりになっている。凌一の部下がロープをしっかりと固定し、両手を縛られた楓はもう這い上がれない状態となった。部下は大小二つの安全ロープを冬真と悠斗に手渡し、各自装着するよう促した。「凌一様がおっしゃるには、加害者が被害者と同じ目に遭わなければ、何が許されて何が許されないのか、本当の意味では分からないそうです。さらに、お子様の教育が不十分だったため、凌一様ご自身が人としての道を教えてくださるとか」冬真は無表情のまま、悠斗の襟首を掴んで斜面を滑り降り始めた。「うっ、うっ……パパ!怖いよ!」悠斗は冬真にしがみつき、泣き叫ぶ。「男なら泣くな!しっかりしろ!」男の怒鳴り声が響いた。帰り道、天野の視線が夕月の顔から離れないことに気付いた。夕月は思わず頬に手を当てた。「何か、顔に付いてる?」斜面から転げ落ちた時に何か付いたのかもしれない。天野は視線を逸らし、深いため息を漏らした。「凌一さんのことを、どう思う?」「先生は私にとても良くしてくださいます。大きな木のような存在で、仰ぎ見るような方なのに、私たちを守ってくださる」夕月は柔らかな声で答えた。「守ってるのは、お前だけだ」天野の呟きは低く、かすかだった。折しも強い風が吹き、木々のざわめきに言葉が消されていった。「え?今なんて?」夕月は聞き返した。そこへ私服の警備員が近づいてきた。「藤宮さん」恭しく一礼して、「星来お坊ちゃまを守ってくださったお礼に、先生が夕食にご招待したいとのことですが、本日はお時間よろしいでしょうか」天野は眉間に皺を寄せた。凌一からの誘いは、断れるような性質のものではないことを、彼は知っていた。「夕食の後、先生の書斎で資料を見せていただきたいのですが」夕月は遠慮がちに切り出した。凌一の書斎には、ネットや大学の資料室では見つからない極秘資料が数多く保管されているはずだった。部下は即座に頷いた。凌一から、夕月のどんな要望にも応えるよう指示されていたのだ。「もちろんです。先生も喜んでお迎えするはずです」その時、桐嶋家では涼が一本の電話を受けていた。夕月と星来の今日の出来事を部下から聞きな
冬真はスマホを取り戻したものの、グループの返信は見向きもしなかった。楓が痛めつけられる動画を見た仲間たちの反応など、今はどうでもよかった。右手でスマホを握り締める指に力が入る。三十発の竹刀を食らった左手の平は、まだ肉が痙攣するように疼いていた。手の平に溜まった血を誰も拭おうとしない。救護班は目の前にいるのに、誰一人として傷の手当てをしようとはしなかった。「満足か?」冷ややかな声を投げかける。答えを待たずに続けた。「権力を笠に着るとは」夕月は軽く笑い声を立てた。「私には後ろ盾がある。あなたには?」端正な眉を綺麗な弧を描き、白い素肌に笑みが深まる。「これからは尻尾を巻いて大人しくしていた方がいいわよ」夕月は深く息を吸い込んだ。新鮮な空気が肺を満たし、全身に心地よさが広がる。冬真は眉間に皺を寄せ、何か言い返そうとした瞬間、夕月が感慨深げに呟いた。「これが愛される側の特権なのね。守られ、庇護される感覚……体の中の血が、肉が、狂おしいほど生きているのを感じる」再び冬真を見つめる夕月の瞳は、清流のように澄んでいた。「あなたは私の夫だったのに、こんな感覚を一度も味わえなかった」自嘲的な笑みを浮かべる夕月を見つめ、冬真の呼吸が乱れた。五十回の竹刀が振り下ろされ、楓は地面に伏したまま身動きひとつできなかった。盛樹は息を切らしながら、自分の手のひらにも竹刀で切り裂かれた傷が残っていた。周りには橘凌一の部下たちが立ち並び、盛樹は楓を罵ることしかできず、他の誰一人にも文句を言えなかった。さっき目にした凌一の夕月への甘やかしぶりが、まだ脳裏に焼き付いていた。盛樹は目を細め、夕月を見る目つきが僅かに変化した。悠斗の頬には涙の跡が残り、今は鼻水を拭ってくれる人さえいなかった。「楓兄貴、大丈夫?まだ生きてる?」悠斗が恐る恐る首を伸ばして尋ねた。冬真が医療スタッフに指示を出す。「楓を担架に乗せろ!」しかし医療スタッフは動かず、その視線の先を追うと、凌一の部下が楓の体にロープを巻き付けているところだった。「何をする気だ?」冬真が問い詰めた。部下は冷ややかに答えた。「凌一様のご指示で、楓様と悠斗様には今晩、この斜面で野宿していただきます」冬真の呼吸が荒くなる。「悠斗はまだ五歳だぞ。一人でここに置くなんて、危険
やってみろ、という無言の威圧が漂う。冬真は息を飲んだ。氷のような声で言う。「楓はもう反省してる。実の妹なんだろう。これ以上いじめるな」傍らに立っていた深遠が、突然冬真からスマホを奪い取った。「動画一つ送るのにグズグズして!」このまま放っておけば、また凌一の怒りを買うことは目に見えていた。両手を潰されでもしたら、明日の取締役会に出られなくなる。凌一の意向なら従うしかない。深遠は即座に送信ボタンを押した。「おじさま!お願い、送らないで!」楓の声は力なく響いた。「冬真さん」夕月が言う。「楓のその目つき、本当に反省してると思います?まあ、近視がそんなにひどいとは知りませんでしたけど」冬真は楓を見やった。その瞳の奥に潜む憎悪と残虐性が見えた。夕月を八つ裂きにしても、その怨念は消えそうにない。「昔は大人しくしていたわ。だって私が橘家の奥様だったから。でも、あなたが彼女と暗い関係を続けているのを見るのも吐き気がした。今度は、あなたの愛しい楓が私を害そうとする。我慢できるわけないでしょう?誰もがあなたみたいに脳みそを欠落させているわけじゃないのよ」「私と楓は何も……」冬真は眉間に深いしわを寄せた。「私に心も金も向けない男なんて、何の価値があるの?」その一言で、冬真の喉は完全に塞がれた。夕月は楓に向き直った。「まだ私に何か吐き出したいことがあるなら、どうぞ。ねえ、神様が人を滅ぼす時は、まず狂気を与えるって言うでしょう?」地面に這いつくばった楓は、蛆虫のように首を持ち上げ、目を血走らせて夕月を睨みつけた。『桜都会グループ』に投稿された折檻動画。御曹司たちは一様に沈黙した。「マジかよ……楓、酷い目に遭ってるな」盛樹に叩かれる様子は、目を覆いたくなるほどだった。謝罪の言葉を聞き終えた彼らは、事態の深刻さを一瞬で理解した。「橘家の国宝級天才の息子って、確か五歳だろ?楓、なんで子供に手を出すんだよ。あの人の子供に手を出すなんて正気か?」「え?マジで聞き違いじゃないよな?楓、お前二十五だろ?実の姉に石投げるとか……」御曹司たちは、すぐにプライベートで連絡を取り合い始めた。「この動画、冬真が投稿したんだよな。元奥さんの仕返しってことか?」「間違いない。楓のやったことで、冬真も完全に
「冬真、スマホを出せ」凌一の命令に、冬真は不本意ながらも従うしかなかった。部下が冬真の横に立ち、『桜都会グループ』というLINEグループが開かれているのを確認する。冬真は機械的な動きでスマホを掲げ、カメラを楓に向けた。彫刻のように整った顔立ちは、冷たく硬直していた。夕月の一手は、獲物を仕留める猟師のように的確だった。楓の弱みを完璧に突いている。「バシッ!」「ぎゃああああっ!」楓は激痛に耐えながら、必死に顔を隠す。撮らないで。撮られたくない。御曹司たちの前で必死に築き上げてきたイメージが、こんな惨めな姿で完全に崩れ去ってしまう。私服警備員が凌一に代わって命じた。「楓様、夕月様と星来坊ちゃまにお詫びを」楓は地面の雑草を掴み、爪の間に土が詰まるのも構わず握り締めた。顔を上げると、歯を食いしばり、真っ赤な顔に首筋の血管が浮き出ていた。謝るものか。夕月のこの策略になんか乗ってたまるか。「きゃっ!」また一発、竹刀が振り下ろされる。謝罪の言葉を発しない限り、もう一人の警備員は数を進めない。尻を打つ竹刀の回数は止まったままだ。「二十五、二十五、二十五……」盛樹が一発打つたびに、数を数える警備員は「二十五」を繰り返す。盛樹は腕が疲れ始め、叫んだ。「早く謝れ!」「うぅ!」楓は悲鳴を上げながら、「夕月姉さん!ごめんなさい!私が間違ってました!頭が変になって……石を投げたりして……冬真の恨みを晴らしたかっただけで、本気で傷つける気なんてなかったんです!お姉さん、どうか許してください!」「なんだか、謝り方が違うわね」夕月は冷静に言い放った。「楓様、もう一度お願いします」警備員が促す。もう一人の警備員は三十まで数えていたが、また二十五に戻した。冬真も撮影のやり直しを余儀なくされる。「どう謝ればいいの!」楓は憤然と叫んだ。「早く言え!このままじゃ尾てい骨を折るまで叩くぞ!」盛樹は怒鳴り声を上げた。楓は眉間に深いしわを寄せ、気を失いそうになっていた。従わない限り、盛樹の竹刀は止まることを知らない。楓は汗と泥にまみれた顔を歪ませ、口を大きく開けて絶叫した。その表情は苦痛で醜く歪んでいた。かすれた声で「星来くん、ごめんなさい……危害を加えるつもりじゃ……」「夕月姉さん
楓は一瞬固まった。「……父が?なぜここに?」「私どもから盛樹様に雲上牧場までお越しいただくようご連絡いたしました。悠斗お坊ちゃまも社長も父親から懲らしめを受けました。楓さんも当然、お父様からの指導を受けていただかねばなりません」部下は淡々と答えた。 会話の最中、藤宮盛樹が姿を現した。夕月も驚いていた。凌一の行動力は驚異的だった。事件発生からわずか三十分足らずで、星来の危機を把握し、即座に処罰を下したのだ。盛樹は息を切らして現場に駆けつけ、まさに冬真が竹刀で打たれる場面に遭遇した。竹刀に付着した血を目にした途端、全身が震えた。呼び出しを受けた道中で、凌一の部下から楓が星来を斜面から突き落としたと聞かされていた。その一報で、盛樹の顔から血の気が引いた。凌一の部下が近づいてくると、楓の姿が見当たらない盛樹は震える声で尋ねた。「私の……娘は、まだ生きているのでしょうか」部下は新しい竹刀を盛樹に差し出した。「楓様は夕月様と星来坊ちゃまを斜面から落とした首謀者です。盛樹様、楓様の平手を五十回、お願いいたします」斜面の下で這いつくばっていた楓は、その言葉に青ざめた。冬真の手のひらは三十回で血が滲むほどだった。五十回も打たれれば、自分の手は廃人同然になってしまう。「私の手はレースに使うんです!来週のレースに出場するのに……この手に何かあったら困ります!」国際レース大会・桜都ステージのスポンサーの一人である冬真の計らいで、楓はエキシビションマッチの出場枠を得ていたのだった。盛樹は自分の娘が勉強嫌いで、いつも男たちと兄弟のように付き合っていることを分かっていた。それでも、そんな生き方で少しばかりの成果を上げていた。どんな順位であれ、エキシビションマッチに出場すれば、楓は桜都で名が売れる。そう考えていた盛樹は、凌一の部下に向かって苦渋の表情を浮かべた。娘のレース人生を断つわけにはいかなかった。「手の平以外では……ダメでしょうか」「他の部位でも構いません」部下は即答した。盛樹は楓に向かって歩み寄った。「この馬鹿者!どこを打たれるか、自分で選べ!」楓は暫し考え込んだ後、不本意そうに自分の後ろを振り返った。「ズボン、厚いし……お尻なら」厚手のパンツを履いていることを確認しながら言った。凌一が出て
痛い!左手が痺れて感覚がなくなっていた。竹刀を握る冬真の手に力が入った。息子を打った手のひらが、自分も痛みを感じているかのように疼いた。だが凌一の前では、後継者としての威厳を示さねばならない。「星来くんを実の兄弟のように大切にするんだ。わかったか?二度と仲たがいをしているところを見たくない」返ってくるのは、悠斗の嗚咽だけだった。これで凌一の怒りも収まったはずだ——冬真がそう思った矢先。タブレットに目を向けると、凌一の声が響いた。「子を教えざるは親の過ち。冬真、三十発」「私が、ですか?」冬真は声を失った。深く息を吸い込んでから、冬真は部下に竹刀を差し出した。「叔父上、ご指示の通りに」恭しく頭を下げる。「待て。もうすぐ父上が到着する」凌一の声には焦りのかけらもない。冬真の表情が凍りついた。その場にいた全員が、予想だにしない展開に息を呑んだ。しばらくすると、先生の一人が林の向こうで何か光るものに気付いた。まるで誰かが鏡を掲げて歩いているかのような、まばゆい輝きだった。その光る物体が近づくにつれ、先生たちや救護班の面々は、スーツを着こなした坊主頭の男性であることが分かった。小走りでやって来たその中年の男性こそ、橘冬真の父、橘深遠だった。深遠の後ろには秘書、そして斎藤鳴を含む数人の保護者が続いていた。鳴は天野と冬真が戻って来ないことを不審に思い、他の保護者とともに様子を見に来たのだ。途中、林の中をぐるぐると歩き回り、明らかに道に迷っている様子の深遠と出くわした鳴は、何か重大な事態が起きているに違いないと直感した。他の保護者たちと共に、好奇心に駆られるままついて来たのだった。深遠はハンカチを取り出し、ピカピカの頭を拭うと、タブレットの前に立った。兄である立場ながら、弟の凌一に対して並々ならぬ敬意を示す。「凌一、来る途中で星来くんが危険な目に遭ったと聞いた。もし本当に悠斗くんが関わっているというのなら、あの小僧を決して許すわけにはいかん」悠斗は再び体を震わせた。左手を叩かれたばかりなのに、今度は右手まで叩かれるのだろうか。凌一が静かに告げた。「お前の孫は、既に息子が躾けた。今度は、お前が息子を躾ける番だ」凌一が言い終わると同時に、部下が竹刀を深遠の前に差し出した。「平手を三