朝倉向音(あさくら・しおん)は車を路肩に停めると、家の使用人に電話をかけて食事の片づけを指示した。「でも奥様、せっかくお作りになったお料理を……」桧山忠信(ひやま・ただのぶ)の戸惑いを、彼女は淡々と断ち切った。「大丈夫、全部処分して」車を降りて近づこうとしたそのとき、橘原尚真(たちはら・しょうま)の口からぽつりとこぼれた。「遥香、もっと早く君に出会えていたら……」その言葉に、白石遥香(しらいし・はるか)は頬を赤らめた。「橘原社長、そんなこと言わないでください。だって、まだ向音さんがそばにいるじゃないですか」「向音……」尚真はわずかに意識を取り戻したようだったが、その瞳はまだ焦点を結んでいない。「ふっ、実は向音ってさ、汚れてるんだ。君、知らないだろ?俺はあいつを愛してる。でも、俺、潔癖なんだよ。あいつは……」そこで彼は言葉を飲み込んだ。「君みたいに綺麗じゃない」遥香は向音の存在に気づいたようで、わざとらしく甘えた声を重ねる。「やだあ、橘原社長ったら酔ってるんですよ、もう、何言ってるんですか」「酔ってないさ。俺が言ってるのは全部、本当のことだ」彼は、すぐ後ろに向音が立っているとは気づかぬまま、ふらついた足取りでまだ喋り続けていた。「彼女の気持ち、何度も試したんだ。身体は汚れてた。でも、心は違う。今でも、俺のこと……愛してるんだ」今でも俺のこと、愛してるんだよ、あいつ」まだ何かを語っていたが、それ以降の言葉はもう向音の耳には届かなかった。彼女は全身の力で感情を抑え、黙って遥香の前に歩み出て尚真を引き取った。「向音さん……」遥香はにこりと笑い、わざとらしい無邪気さで言った。「さっきのこと、私、ぜーんぜん聞いてませんからね。食事の席で、橘原社長がいっぱいお酒飲んで私をかばってくれて……私、もう大丈夫って言ったのに、どうしてもって……」彼女は向音をまっすぐに見つめながら言う。「橘原社長みたいな人、向音さん、ちゃんと大事にしてあげてくださいね」向音は言葉を返さず、ただ尚真を黙って車へと運び込んだ。遥香と違う、向音の淡い香りに気づいたのか、尚真の瞳がわずかに澄み渡った。「向音、来てくれたんだ。今日は結婚記念日……だよな……」「いいの。ただの記念日だもの。何年に祝っても同じでし
続きを読む