All Chapters of 彼女が世界を離れたあとで: Chapter 21 - Chapter 30

30 Chapters

第21話

尚真は、意を決してもう一度メッセージを送ろうとした。だが——すでに向音にブロックされていることに気づいた。胸の奥に、じわじわと重い苦しみが広がっていく。こんなにも時間が経ったのに、彼女からの反応は、まるで凍てついたように動かない。「宿主様、この世界に降り立ってから半年が経過しました。攻略対象・向音の好感度は現在31%。初期値より9ポイント低下しています」システムの無機質な報告に、尚真はただ酒を呷って答えた。「分かってる」苦い酒が口元から溢れても、拭う気にもならなかった。鈍く痺れる心の痛みが、すべての感覚を押し潰していた。「もう一度だけ、彼女の家に行こう」ようやく自分を奮い立たせた尚真は、車を走らせ、向音のアパートの前に到着した。だがそこで出迎えたのは、ちょうど旅行から帰ってきたばかりの彼女と梨乃の姿だった。大きな荷物を抱える二人に近づき、思わず声をかけた。「手伝おうか?」「いりません。どうも」梨乃はひとことだけ言い捨て、尚真に視線すら向けなかった。向音も、ただ冷ややかに一瞥をくれただけだった。「何しに来たの?」「なんで、俺の連絡先をブロックしたのかが分からない」尚真は困惑した声で続けた。「お前に迷惑をかけた覚えはない。無理に連絡したわけでもない。ただ、ちゃんと話がしたかった。それだけなのに、それもダメなのか?」彼女の答えは、簡潔で明快だった。「ダメよ」荷物をすべて部屋に運び入れたあと、彼女は扉の前に立ち、尚真に向き直った。友人と話すときの柔らかな笑顔とは裏腹に、尚真に向けられる表情には一片の温度もなかった。「あなたを歓迎していない。ここは、あなたの居場所じゃない。過去は過去。もう終わったの。だから——もうこれ以上、私の人生に踏み込まないで」そして、彼のそばに歩み寄り、誰にも聞こえない声でそっと囁いた。「それに、私たちはもう離婚したのよ」離婚。その二文字が尚真の胸をえぐった。目がにわかに揺らぎ、苦しげに唇が動いた。「向音、俺、後悔してるんだ。もう一度やり直せないかな?この世界でなら、また結婚だってできる。だから——」「それ以上、言わないで」彼の言葉を、彼女は手のひらで遮った。「私たちは終わったのよ。尚真——帰って」彼女はそれきり、一度も振り返らずに去っていった。ドアが閉まる重い
Read more

第22話

時は流れ、日々が淡々と過ぎていった。尚真の率いる会社は少しずつ規模を広げ、今や北城の市場でも確かな地位を築くようになっていた。彼は相変わらず多忙な日々を送っていた。何人もの家政婦を雇ったが、どれも気に入らず、最後にはあの橘原家の御曹司自らが、慣れない手つきで料理を学び始めたのだった。レシピを片手に、手探りで鍋を握る日々。それでも、いざ完成した料理は意外なほど美味しく仕上がった。彩りも香りも申し分ない、そんな食卓を目の前にして彼が最初に思ったのは——「これを、向音に見せたい」だった。ウキウキと写真を撮り、彼女に送信した直後、尚真の顔は一気に曇った。思い出してしまったのだ。かつて、向音も同じように、自分に何度も料理を見せていたことを。けれど、あの頃の彼は無関心を装い、時には苛立ちすら見せていた。胸の奥がひどく痛んだ。そして案の定、スマホの画面に届いたのは——「うん」彼女からの、無機質な一言だけだった。これで98回目。履歴を辿れば、どんなメッセージを送っても、彼女の返事は常に冷淡だった。「うん」「いいんじゃない」「好きにして」吹き出しに並ぶ、自分の長文と彼女の短文。それを眺めるだけで、自分がどれほど滑稽か思い知らされた。こんなにも、言葉ひとつで人は傷つくのかと、ようやく気づいたのだった。彼はスマホを乱暴に投げ、テーブルの料理にも手をつける気になれなかった。さっきまでの高揚感は、たった一文字で完全に吹き飛んだ。これは、自業自得なのか?たぶん、そうなのだろう。尚真は、今まさに向音がかつて辿った苦しみの道を、自ら歩いている。攻略進度は半分を超えたが、残された時間はすでにその半分にも満たなかった。額には汗がじっとりと滲んだ。このままでは、本当に死んでしまう。十年も自分を愛してくれたはずなのに、どうして彼女は、少しも「哀れんで」くれないのか?分からない。翌日。祖母河のそばの公園。人の往来が絶えないなか、向音は小さなスツールを広げ、絵を描く準備をしていた。スケッチに色を加えようとしたそのとき、強く視線を感じて、ふと顔を上げた。「あなた、絵を買い占めたんでしょ?」黒いロングコートの男がゆっくりと近づいてきて、低くかすれた声で答えた。「俺だよ」「余計なことしないで」「向音、
Read more

第23話

尚真は、そのとき完全に打ちひしがれていた。唇が小刻みに震え、和解の言葉を探しても、何を言っても虚しいだけだった。青白い顔で息を荒げている彼を見て、向音はもう絵を描く気にもなれなかった。キャンバスと道具を無言で片づけると、表情ひとつ変えず、彼の傍らを通り過ぎていった。「警告:攻略対象・向音の好感度が30%に低下しました。ご注意ください」ようやく現実に意識が戻ったその瞬間、頭の中に響く警報音が、彼にさらなる打撃を与えた。そこへ重ねるように、遥香の鋭い声が脳内を貫いた。「だから言ったでしょ、尚真。あなたなんか、絶対に向音には許されないって!そんな身勝手で愚かなあんたは、最初から物語の世界の中で消されて当然なのよ!」彼女の声は嘲笑に満ちていた。「どうせあんたが死んでも、向音は一滴も涙なんて流さないわ。私が保証する。皆が知ってるのよ、あのときあんたが何をしたかって。彼女を車に乗せて、それから、あの男たちに——」「やめろッ!!!!」怒声が辺りに響いた。尚真の叫びに、周囲の人々はぎょっとして立ち止まり、異様な視線を向けた。 中には怯えながらスマホを取り出し、通報しようとする女性の姿まであった。いたたまれなくなった彼は、その場から逃げ出すしかなかった。まただ。また同じだった。向音の前に立つたび、彼は決まって「敗者」として立ち去ることになる。昔の向音は、そんな人じゃなかった。彼女はまるで、何の変哲もないが芯の強い緑の草のようで、いつのまにか、冷え切った彼の心の中に根を張り、枝を伸ばし、葉を広げていった。誰かに無条件で大切にされるなんて、彼は信じていなかった。でも、いつも笑顔を絶やさない少女を前に、17歳の彼の心は確かに揺らいでいた。どれほど試しても、彼女の澄んだ目は、それらすべてを打ち砕いてきた。彼女が純粋であればあるほど、自分の汚さが際立っていった。あの日の出来事は、確かに「試し」のつもりだった。まさか、本当に彼女が車に乗るとは思っていなかった。その先に起きたことは、彼だけが知っている。彼女が無防備に自分を信じ、全てを投げ出して愛してくれたことは事実だった。なのに、若き日の尚真は、彼女に対する「罪悪感」とともに、妙な安堵さえ抱いていた。「これで、彼女はずっと俺のそばにいる」その思考に自ら驚きなが
Read more

第24話

「尚真、あなたがまだ諦めきれないのは分かってる。でも、私たちはもう、終わったのよ」川沿いの長椅子に並んで座り、二人はときおり水面すれすれを飛ぶ、名前も知らない白い鳥を無言で見つめていた。淡い色のセーターに身を包み、肩に流れる栗色の巻き髪。彼女の姿にはどこか優雅で穏やかな雰囲気があったが、その口調は冷たく揺るぎなかった。「あなた、本当に私を愛してるわけじゃない。ただの執着よ。元の世界に戻って、橘原家の御曹司として生きればいいじゃない」「向音、君は分かってない。君がいない世界なんて、俺にとっては意味がないんだ」尚真は彼女に視線を向け、その目には久しく見られなかった深い想いが滲んでいた。「君さえ望むなら……何度でも、やり直せる」けれど、彼女は静かに首を傾げ、問い返した。「分かってないのは……本当に私のほうなの?私は、あなたの世界で十年も過ごしたのよ。なのに、今になってやっと「私が大事だった」って言うの?」その一言が、彼の目に宿っていた優しさをすっと奪い去った。「あなたが私にしてきたこと、私はずっと忘れてない。今日ここに来た理由はもうはっきり伝えたはずよ。尚真、お願いだから戻って。私はここであなたに会いたくない。私たちは最初から、同じ世界の人間じゃなかった」彼女はそう言い終えると、立ち上がって歩き出した。尚真はその場でしばらく呆然と座っていたが、やがて強く唇を噛んだ。「違うんだ……そんなはずない」心の中でそう叫びながら、彼はようやく立ち上がった。償うと決めた。命すらも賭けて、変わると誓った。その想いがいつか彼女に届くと信じて、彼は立ち上がり、彼女のあとを追った。けれど彼女はすでに信号を渡り終え、反対側の道へと歩いていた。焦った彼は、信号が赤に変わるのも気にせず、彼女のもとへ駆け出した。「物語の世界」では、すべてが彼のために動いた。どんな危険もどんな障害も彼に傷ひとつ負わせることはなかった。けれど、ここは「現実世界」だった。彼の目は、向こう岸にいる向音だけを追っていた。自分の周囲で猛スピードで近づいてくる車の存在に、まったく気づいていなかった。「——ッ!」鈍く、重い音が辺りに響いた。一瞬、身体がふわりと浮き上がり——次の瞬間、地面に叩きつけられるような激痛が襲った。目の前が真っ赤に染まり、意識が急速に
Read more

第25話

尚真は、北城市の病院へ緊急搬送された。必死の救命措置の末、なんとか危険な状態から脱したものの、数本の肋骨が折れており、完治には長い時間が必要だった。その間、入院手続きから薬の受け取り、署名まで、すべてを向音が引き受けていた。同情心からだったのかもしれない。彼女はこの数日間、昏睡状態の尚真をずっと看病していた。医師から「ご関係は?」と問われたとき、彼女はただ一言、「友人です」とだけ答えた。本当は関わりたくなかった。けれど、この見知らぬ世界で、たった一人きりで生きようとする彼の姿に、かつての自分を重ねてしまったのだった。数日前のあの場面を思い出すたびに、胸の奥が微かに震えた。向音は、悔しげに呟いた。「まったく……突っ走ってばかり。ここが自分の世界だとでも思ってるのかしら」医療スタッフの懸命な治療のかいあって、尚真はようやく四日目の午後に意識を取り戻した。うっすらと目を開けたとき、システムが「好感度+2%」と告げるのが聞こえた。燃え尽きていた彼の心に、再び灯がともる。病室のドアが開き、お粥とおかずを持った向音が入ってきたとき、彼は目を疑った。「ずっと、そばにいてくれたの?」「死にたいなら、元の世界で勝手に死になさい。こっちで死なないで」口から出るのはとげのある言葉ばかり。けれど手際よくテーブルを整える姿は、どこか温かかった。彼女は淡い味のお粥をそっと置いた。尚真が体を起こそうとした瞬間、痛みに顔を歪めた。「動かないで!肋骨が何本も折れてるのよ。せっかく繋いでもらったのに、またズレたらどうするの」彼女は彼の額を軽くこつんと叩き、急かさないように合図する。そんな彼女の姿を、尚真は目を細めて見つめていた。そのまなざしの熱さに気づいた彼女は、思わず目を逸らした。「そんな目で見ないでくれる?」「だって、見足りないんだもん」彼は頬をゆるめて嬉しそうに笑った。「目が覚めて、君の顔が見える。それだけで、すごく幸せなんだ」そんな言葉を彼の口から聞かされた瞬間、向音は発狂しそうだった。表情には出さなかったが、心の中では必死に願っていた。「お願いだから、早く元に戻って」彼は今、いったい何を考えているの?「向音、命を助けてもらったから、俺、君に一生を捧げたい」彼の言葉に、彼女はゾッとするほど鳥肌が立った。「いったいど
Read more

第26話

数か月にわたる丁寧な療養の末、尚真の体はようやく元気を取り戻した。その間、彼は病院から個人療養所へと静かに移り、向音は何度か見舞いに訪れたものの、いつも数言交わすと足早に去っていった。おかしな話だが、彼が買い取った数点の絵画が、思いがけず海外のネット上で話題となった。「一体どんな理由があって、匿名の資産家が高額で彼女の作品を購入したのか」と、多くの人が驚きと興味を口にした。そのタイミングを逃さず、梨乃は背中を押すように提案した。「今のうちに、手元の作品をまとめて展覧会を開こうよ。いい機会だし、名前も売れるかもしれないよ!」向音は不安げに尋ねた。「でも、本当に誰か来てくれるかな?」イベント企画を専門とする梨乃は、心強く笑って励ます。「バカね、向音。もっと自分に自信持ちなさいって!」そして迎えた展覧会当日。ようやく回復した尚真は、どうしても足を運びたいと言って聞かなかった。北城の高級美術ホールに、彼は一般の来場者たちに紛れて、絵画の前で静かに足を止めていった。ちなみにこの展覧会、話を聞いた尚真が即断で会場を買い切ったという。その豪胆さに、場数を踏んだ梨乃ですら舌を巻いた。「向音、あんたの元ダンナ、ちょっと良すぎない?」尚真が現れると、柔らかく目尻を下げて笑みを浮かべた。「向音、君の絵は、君自身と同じくらい美しいよ」彼の真っ直ぐで熱い視線に、向音は目を逸らして、そっけなく答えた。「ありがとう」冷淡な彼女の反応とは裏腹に、目の前の男は明らかに昔とは違っていた。その優しさと柔らかさは、かつての毒舌で冷徹な尚真とはまるで別人だった。あの事故で性格まで変わってしまったのでは?と、思わず疑ってしまうほどに。展覧会は大成功を収め、「無名の女性画家」の名は少しずつ世間に知れ渡っていった。向音の人生には、かつてなかったような新しい色が差し込み始めていた。彼女の心には、自由な風が吹いていた。だが、ただ一つ、煩わしい問題があるとすれば。それは、尚真の想いまで一緒に回復してしまったことだった。彼はまた彼女へのアプローチを再開した。メディアを利用し、展覧会当日のツーショット写真を意図的に拡散。世間の注目は、「温和な美女画家」と「上場企業の若手社長」という、どこか甘い空気を漂わせる二人に集中した。インタビューでは、意図的に含みを持たせた言
Read more

第27話

一日、また一日……時は容赦なく過ぎ、また新しい年が明けた。システムとの「約定の時」まで、残された時間はあと一年。新年のカウントダウンの鐘の音が、尚真の耳には死神の足音のように響いていた。もう、時間はほとんど残されていない。これほど長く生きてきて、自分の心はとっくに静まり返っていると思っていた。だが、システムが突きつけた冷酷な宣告に、男の心はとうとう崩れ去った。「なぜだ!なぜなんだ!!」怒りに震えながら、彼は部屋の中の物を手当たり次第に投げつけ、ネクタイを引きちぎるようにして、虚空に叫んだ。「どうして、彼女は愛してないって言っただけで、本当に終わってしまうんだ!なぜなんだよっ!」荒々しい怒声は、やがて嗚咽へと変わっていく。男の胸には、深い悔しさと未練だけが残っていた。「もう全部やった……やれることは全部やったのに、どうして、彼女は……」システムは何も答えない。除夜の鐘が鳴り響く新年の夜。けれどこの部屋では、尚真ただ一人、静かに涙をこぼしていた。一方その頃、向音はアパートで梨乃とビデオ通話をしていた。何度も引き止められたものの、最終的には梨乃も年末年始の帰省を諦めるしかなかった。「向音、私がいない間はちゃんと自分を大事にするのよ!年明けの8日目には戻るから、お土産たくさん持ってくね!それと、あのヤバいやつが来ても、絶対ドアを開けちゃダメだからね、いい?!」向音は押し切られるようにうなずき、ふたりはしばらく他愛ない話をして電話を切った。アパートには彼女ひとりだけ。けれど不思議と、孤独を感じることはなかった。ちょうどそのとき、梨乃の言葉を思い出した瞬間、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、プレゼントを抱えた男が立っていた。外は小雪が舞い、尚真のまつげには氷の結晶が宿っていた。吐く息が白く、その姿はどこか儚げで哀れだった。「向音、新年おめでとう」彼はそう言って、静かに尋ねた。「中に、入ってもいい?」彼女は唇を噛みしめ、ほんの少しの間を置いてから身を引いた。「どうぞ」ふたりは1階のリビングで向き合った。しばらく沈黙のあと、尚真はようやく切り出した。「向音、俺の時間は、もうあまり残ってない」「知ってるわ」彼女は静かにお茶をすすぎながら答えた。「でも、それはあなたが選んだことでしょう?」目の
Read more

第28話

五年のうちに、向音の好感度を100%にする——本当は、それが彼の計画だった。けれど現実はあまりにも残酷で、尚真は、もはや打ちひしがれるばかりだった。向音は自分の置かれた状況を誰よりも理解しているはずなのに、彼に対して一片の好意すら示そうとしなかった。男はベッドに横たわりながら、惰性のように仕事を処理していた。けれど心の奥では、寒々とした寂しさが少しずつ広がっていくばかりだった。体調の悪化に伴い、業務をこなす力さえも薄れていく。彼はついに主な仕事をすべて助手に任せ、自らに「空白の時間」を与えることにした。時は静かに、だが確実に過ぎていく。カウントダウンという罰は、彼の頭上に吊るされたダモクレスの剣のように、じりじりと命を削っていた。気がつけば、残された時間はもう半年しかなかった。かつて衝動的に飛び込んできたこの世界。けれど彼が望んだものは、とうとう手に入らなかった。今ではもう、向音の好感度を得ようと焦ることもなくなった。ただ——「せめて、もう一度だけでも会えたら、それでいい」一日一日が、彼女に会える「最後の一日」になっていくのだから。ある朝、通りを歩いていた彼は、路傍のゴミ箱からかすかな鳴き声を聞いた。覗いてみると、そこには濡れて汚れ切った小さな子猫が震えていた。尚真はわずかに眉を動かし、静かに猫を抱き上げると、彼女にメッセージを送った。【子猫を拾った。迎えに来てくれないか】彼は、彼女が猫好きだったことを忘れていなかった。向音の胸には複雑な思いが交錯していたが、それでも彼女はすぐに現れた。遠くから、猫を抱きしめて立つあの人の姿を見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなった気がした。「汚れてるのに、気にならないの?」彼は首を横に振った。「病院で診てもらおう」二人は言葉を交わすこともなく、静かに動物病院へ向かった。医師の丁寧な診察とケアにより、猫はふわふわの白猫へと生まれ変わった。その身体を向音の胸にすり寄せ、か細く鳴いた。病院の前で、彼女は言った。「あなたが飼えば?」彼は小さく笑った。「自分のことさえ手に負えないのに、猫まで構っていられないよ。猫が好きなんでしょ?だったら、そばにいてもらえばいいじゃない」数日ぶりに再会した尚真は、どこか吹っ切れたような表情をしていた。悟った者のような静けさを纏い、ただひとつ、彼
Read more

第29話

尚真は、あの「1%」の意味について、アパートでひとり考え込んでいた。それは心が揺れた証だったのか、それとも哀れみに過ぎなかったのか。ほんの少しのぬくもりか、それともただの同情か——けれど最後には、すべてを酒で流し込むことにした。考えるのは、もうやめようと。もともと弱っていた彼の身体は、一瓶の強い酒にすぐさま屈し、病院に運び込まれる羽目となった。目を覚ましたとき、彼は淡い期待を抱いていたけれど、向音の姿はそこになかった。その頃、向音は自宅で梨乃と一緒に次回の個展の構想を練っていた。尚真のことなど、まるで頭にない様子だった。白猫という新しい家族も加わり、日常は少しずつ明るさを取り戻していた。前回の個展が話題を呼び、いまや新たな企業からのスポンサーオファーも舞い込んでいる。聞けば、相手は若き実業家。向音は身なりを整え、指定されたカフェへと向かった。現れた青年を見て、向音は内心で思わず感心する。今どきの起業家って、こんなに若くて有能なのね。彼は二十五歳にして、すでに自分の会社を立ち上げていた。話し合いは非常にスムーズに進み、契約書にサインを交わして立ち上がった、その瞬間——鋭い音を伴って、一発の平手打ちが飛んできた。「お前ら、何してるんだ!」振り返ると、そこには尚真の陰鬱な顔があった。彼は力任せに向音の腕を引き寄せ、敵意むき出しの目で青年を睨みつける。「尚真!?」向音は驚きのあまり声を上げた。「仕事中なのが見えないの?何してるのよ、恥ずかしい!」彼女は顔をしかめながら青年に頭を下げた。「ごめんなさい、こちら私の知人でして。悪気があったわけではないんです」相手の青年は柔らかく笑って言った。「大丈夫ですよ。お話もまとまりましたし、私はこれで失礼しますね」「ごめん、俺、すごく飲んで、病院に運ばれて……君が来てくれなかったのがつらくて」尚真は言い淀みながらつぶやいた。「ただ、君が他の男といるのを見て、頭に血がのぼって……っ」そして、わざとらしく強がったように言った。「投資なんて、どうでもいい。君が望むなら、俺の会社、全部だってあげる!」「私たち、もう何の関係もないってこと、まだわからないの?」向音の頭は、怒りと疲労でズキズキと痛み出す。「あなたの会社なんていらない。私が欲しいのは、あなたが私の前から消えてくれる
Read more

第30話

尚真は、もう二度と向音の前に顔を出す資格はないと感じていた。彼の身体は日を追うごとに衰弱していった。あの日の一件で、向音の好感度はさらに10%も下がり、今や彼に残されたのは、わずか10%の好感だけだった。今になってようやく彼は理解した。「攻略者」として彼のもとにやって来た向音が、どれほど長い間、怯えながら任務をこなしてきたのか。自分の命が、たったひとりの他人の感情に左右される世界。任務が失敗すれば、彼女は死ぬ。それなのに、任務を完了しても彼女は立ち去らず、彼のそばに残ることを選んだ——それだけで、彼女の愛は十分すぎるほど証明されていたのだ。それ以上、何を「試す」必要があったのだろう?最初から最後まで、彼が彼女を裏切っていた。彼は、彼女に許される資格などない。万念が灰となり、尚真は静かにシステムへと問いかけた。「あと、どれくらい時間が残っている?俺が死んだら、この『物語の世界』の人間たちも死ぬのか?」そう言えば、遥香の声を聞くのは久しぶりだった。彼は知らなかった。今まさに、遥香はシステムからの罰——電気ショックに苦しめられていたことを。秘密を漏洩し、物語の主人公に「自我」を芽生えさせたこと——その責任は、免れられない。システムからの肯定的な返答を聞いたとき、尚真は、ふっと肩の力を抜いた。「そうか。それなら、もういい」彼は会社の経営からも手を引き、すべてを助手に任せることにした。そのやつれた姿を見て、若い助手の少年は涙を流した。「社長、どうしちゃったんですか?」尚真は苦笑しながら少年の頭を軽く叩き、残された力を振り絞って遺言書の作成に取りかかった。時間は刻一刻と迫っていた。やがて、また新しい年が訪れようとしていた。正月まで、あと数日。そのとき、向音は一本の見知らぬ電話を受けた。「朝倉さん、橘原社長の容態が非常に悪化しています。彼の最後の願いは、もう一度あなたと一緒に海を見ることです。最後に、彼に会っていただけませんか?」その声を聞いて、向音は長い沈黙の末、静かに頷いた。この日が、ついに来たのだ。冷たい冬の海は、黒く渦を巻き、どこまでも果てが見えない。刺すような風がふたりの頬を容赦なく叩きつける。彼女は無言で、彼が乗った車椅子を海岸沿いに押していた。その瞳には、もう一片の温度も残っ
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status