早絵には幼い頃から旅に出たいという夢があった。両親の突然の死によって、その夢は十九年間も封印されたままだった。皮肉なことに、それを拾い直せたのは、すべてを捨ててからだった。出発して最初の一ヶ月、彼女はかつて憧れていた街で静かに体を癒やした。そして偶然にも、大学時代の先輩である有澤結城(ありさわ ゆうき)と再会した。土地勘もなく、体調も万全ではなかった彼女にとって、結城の助けは大きかった。早絵は人の感情には敏感だった。結城の視線に友情以上の想いが混じっていることに気づいたとき、彼女は迷わず次の街へ向かった。五年間の結婚生活も、すべてが無駄だったわけじゃない。少なくとも今の早絵は、金銭に悩む必要がなかった。瑞樹が毎日ネットに載せている謝罪の言葉。彼女が見なくても、旅先では必ず誰かが話題にしてくる。食事中、隣の席の二人組の女性がまた彼の話を始めた。「今の加瀬社長、自分の失敗も全部ネットに晒して、批判されるままにしてるよね」「不倫はもちろんダメだけど、なんかちょっとわかる気もするんだよね」「あのとき奥さんが流産して中絶したのは、彼の故意じゃなくて、ただの不運だったんでしょ子どもが欲しいって思うのは普通のことだし、しかも家族のプレッシャーも相当だったみたいだしね。それ以外のところでは、本当に奥さんにすごく優しかったんだよね」「正直バレたのが一番の問題でしょ。バレなきゃ奥さんは今もずっと幸せでいられたかもしれないのに」「私は、奥さんがいずれ許す気がするな。だって加瀬さん以上に彼女を大事にしてくれる人なんて、そうそう見つからないでしょ」……早絵はその会話を最後まで聞きながら、麺の最後の一口を静かに啜った。立ち上がったとき、ちょうどその二人と目が合った。二人は何か言いかけたが、言葉にできなかった。早絵は微笑んで言った。「安心して、私の心はもう十分に強くなってるから」そう言い残して、彼女は会計を済ませて店を出た。別に、瑞樹に完璧な愛を求めていたわけじゃない。ただ、瑞樹が誓った言葉を、彼女はたまたま信じてしまっただけ。それが守れないなら、もういらない。彼女は子どもを諦め、携帯を置き、離婚届まで送った。一切の余地を残さず立ち去ったのに、それでも誰かは「彼女はきっと戻ってくる」と思っている。
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