All Chapters of 冬空に燃え尽きた恋: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

写真の端には、ぽつんと立つ早絵の姿が映り込んでいた。すべてを見届けていたのだ。それは瑞樹の最後の希望を、容赦なく踏み潰した。彼女の目の前で起きたことを、今さらどうやって言い逃れできるっていうんだ。自分の嘘は完璧に隠せていると思っていた。千鶴に心を動かしたことなんて一度もなかった。あのとき彼女を選んだのも、ただ早絵に似ていたからだ。ここ最近、無意識に見過ごしていた違和感の数々が、頭の中で次々に浮かび上がってきた。早絵が千鶴との関係に気づいたのは、加瀬家での食事の日だったのか、それともそれより前だったのか?気づいてから今日まで、どれだけ苦しい思いをしてきたんだ。あれほど愛していたのに。絶対に悲しませないって、あんなに誓ったのに。一体いつから、こんなふうに変わってしまった?目元が赤く染まり、視界が滲んでいく。早絵との最初の子どもは、七ヶ月で心音が止まり、中絶するしかなかった。理由はわかっている。瑞樹母が送ってきた安胎薬のせいだ。早絵は最初、飲むのを嫌がっていた。それを自分が、母さんのためだと言い聞かせて、無理に飲ませたのだった。子どもを失って、早絵は生きる気力すら失った。でも、間違いを認める勇気が持てなかった。早絵に責められるのが怖かった。そのあと四年間、早絵は六回も体外受精に挑戦した。そのたびに、瑞樹の罪悪感は深くなり、心は押し潰されていった。家の中に充満する薬の匂いに、どんどん息苦しさを感じるようになっていた。瑞樹母の繰り返される言葉に、いつしか心のどこかで卑怯な考えが芽生えていた。子どもさえできれば、すべてうまくいく。だから、母が千鶴を連れてきたとき、何も考えずに受け入れてしまった。千鶴の中に、若い頃の早絵の生き生きとした姿を重ねた。罪悪感を忘れさせてくれるその存在に、溺れてしまった。早絵がまた体外受精に失敗したら、そのときこそ養子を迎えようと提案するつもりだった。千鶴との子どもを養子として連れ帰り、欠けたものを埋めようとしていた。でも、気づかれていなかったからといって、起きていないことにはならない。十三歳で弟を育て上げた早絵が、耐えて耐えて、何も言わないような女であるはずがなかった。隠し事なんて、いつかは燃え広がる。早絵が離れていくのは、遅かれ早かれ決まっていた
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第12話

「そんなはずない。早絵が俺にそんなこと、するわけない」瑞樹は呟くように言った。あんなに優しい早絵が、彼にこんな仕打ちをするなんて、信じられなかった。昨日の午前、早絵が差し出してきた書類の中身。考えるだけで恐ろしかった。諦めきれず、瑞樹は早絵の主治医に電話をかけた。「ご存じなかったんですか?奥様は昨日の午前、お一人で中絶手術を受けにいらっしゃいましたよ」瑞樹の目が血走り、声は掠れていた。「……それで……何か言ってましたか」「いえ、特には。ただ手術の前に、こう聞かれました。赤ちゃん、痛いですかと」医師は少し言い淀みながら続けた。「奥様は、前回の流産の原因が漢方薬の誤飲だということ……ご存じないようでした」瑞樹は椅子に崩れ落ち、口の中に広がる鉄の味に気づいた。隣にいた瑞樹母の顔も、見るからに青ざめていた。「あんた、なんて女と結婚したの。あれは加瀬家の子なのよ、それを勝手に堕ろすなんて!」「瑞樹、言っとくけど、あの女が子どもいらないって言うなら、千鶴の子は……」言いかけたその瞬間、瑞樹の冷たく憎しみに満ちた視線が母を射抜いた。「な、何?あんた……まさか私を恨んでるの?」「恨んじゃダメかよ」瑞樹は母を憎んでいた。千鶴も、自分自身も。瑞樹母は目を潤ませ、受け入れられないとばかりに顔を歪めた。「あんたに私を恨む資格なんてない。産んで育てたのは私よ!千鶴ちゃんを受け入れたのもあんた自身じゃない。子どもを堕ろすなら、もう私の息子じゃないと思いなさい!」そう言い捨てて、瑞樹母はそのまま背を向けた。瑞樹はしばらく呆然としたまま動けず、ようやく我に返って病院の監視映像を取り寄せさせた。映像が届いても、開くまでに何分もかかった。見るのが怖かった。そして、再生ボタンを押した瞬間、全身が震え出した。映像には、早絵の姿がはっきりと映っていた。そして自分の姿も。昨日の午後、瑞樹は腹の調子が悪いという千鶴を病院に連れて行っていた。千鶴にはこう言った。お前と赤ちゃんは俺が守ると。そのとき、すぐ近くに早絵がいた。彼女はたった今、自分の子どもを失ったばかりだったのに。瑞樹の目は真っ赤に腫れ、喉の奥から嗚咽が漏れた。彼はその映像を何度も繰り返し再生した。壁に寄りかかってようやく立っている早絵の姿
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第13話

瑞樹はふらつきながら駆け寄り、そのまま彼女を抱きしめた。「俺を捨てないでくれ、頼む……」「瑞樹兄ちゃん、私があなたを捨てるわけないでしょ?」千鶴の声が、頭から冷水をぶっかけたように彼を現実に引き戻した。「おばさんから、ずっと部屋にこもってるって聞いて、すごく心配してたの……きゃっ!」言葉を最後まで言わせる前に、瑞樹が彼女の首を掴んだ。殺気を帯びた目は、今にも肉を裂き骨を砕きそうな勢いだった。「よくも来れたな!」「早絵が気づいたの、お前が何か言ったからだろ!」瑞樹母が慌てて駆け込んで、必死に彼を引き離そうとした。「やめなさい!千鶴ちゃんはあんたの子を身ごもってるのよ!」力ずくでも離れず、瑞樹母は錯乱寸前だった。「殺したところで、早絵が戻ってくるわけ?」その一言が、瑞樹からすべての力を奪った。手が自然と離れた。千鶴は恐怖で力が抜け、床に崩れ落ちて呼吸を整えた。「瑞樹兄ちゃん、信じて、私は本当に何もしてないの」「あなたの心の中にはずっと姉さんだけだって、わかってる。私、子どもを産めるだけで十分で、それ以上のことなんて望んだことない」「携帯見せろ」千鶴は泣きながらも落ち着いた様子でスマホを差し出した。ここに来る前に、早絵の連絡先は削除済みだった。履歴も何も残っていない。「早絵姉さんと何かを争おうなんて、思ったこと一度もないのに……」「出ていけ」瑞樹母が堪えきれず口を挟んだ。「出て行ったのは早絵の方よ。いい加減にしなさい。千鶴ちゃんだって何も劣ってないじゃない。しばらくうちで預かるから、頭冷やして考え直しなさい。ちゃんと式を挙げてあげないと、子どもが可哀想よ」「出てけ。これ以上、俺たちの家を汚すな」怒り心頭の瑞樹母は、千鶴の腕を引っ張って出ていこうとした。千鶴は一度振り返った。瑞樹は再びテーブルの前に座り、エコー写真と小さな収納箱をじっと見つめていた。彼女の口元がわずかに歪んだ。五年の結婚生活で、命を二つ奪い、ひとりを傷つけた。彼が背負ったのは血の代償。早絵が戻ることなど、最初から叶うはずもなかった。でも自分には瑞樹母がついている。加瀬家の奥様の座は、いずれ自分のものになる。屋敷は再び静寂に包まれた。瑞樹は機械のようにスマホを取り出し、何度目かわからないメッ
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第14話

瑞樹母と瑞樹父は若い頃からの恋人同士で、有名な模範夫婦だった。だが、画面に映る映像の中で、いつも妻に従順だったはずの瑞樹父が、若い女の肩を抱いていた。女は二十歳そこそこ。笑った顔は、若い頃の瑞樹母に驚くほどよく似ていた。瑞樹母は勢いよくリビングに飛び込み、瑞樹父の頬を思い切り平手打ちした。顔面は真っ青で、涙が止まらなかった。「どうしてこんなことができるの?答えてよ!」「お前が始めたことだろ?千鶴を息子に与えたのはお前じゃないか。俺はまだマシだ。少なくとも、お前をママと呼ぶ子どもなんて作っちゃいない」瑞樹父はイライラした様子で、すがりついてくる妻を振りほどき、そのまま出ていった。瑞樹母は泣きながら震えていた。「私たち、結婚して四十三年よ。ずっと連れ添ってきたのに、私が何をしたっていうの?あの人の良心はどこに消えたのよ!」「じゃあ早絵は?あの子が何をしたっていうの?」瑞樹の目には、狂気が滲んでいた。刃が自分に刺さって初めて、人は痛みを知る。母親もそうだった。そして自分も、同じだった。誰にも幸せを語る資格なんてなかった。瑞樹母はソファに崩れ落ち、しばらく呆然としたまま千鶴を睨みつけ、怒鳴り声を上げた。「出てけ!全員出てけえええ!」手の届くものを片っ端から投げつけた。「あんたらみんな同じ、ロクなもんじゃない!」瑞樹は無言で背を向けた。玄関を出た直後、千鶴が涙に濡れた顔で追いかけてきた。「瑞樹兄ちゃん、私と赤ちゃんどうなるの?怖いよ」瑞樹の足が止まった。すべての元凶ではない。千鶴にも罪はあるが、死をもって償うべきことではない。子どもには何の罪もない。八ヶ月間、本気で楽しみにしていたのも事実だった。「金は送る。あとはお前の好きにしろ」「やだ、やだよ」千鶴は彼の服の裾を掴んだ。「私は本気であなたを愛してる。時々でいいから、私と赤ちゃんに会いに来てくれるだけでいいの。お願い」瑞樹は眉をひそめ、拒もうとしたそのとき、スマホの着信音が鳴った。家からの電話だった。「加瀬様、奥様からお荷物が届いております」瑞樹は全身を震わせ、歓喜に呑まれ、他のことなどすべて頭から吹き飛んだ。彼はすぐに千鶴の手を振り払い、車を飛ばして家へと向かった。後ろで千鶴がよろめき、なんと
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第15話

妊娠写真を送ってきたのは、千鶴だった。バラ園に早絵を誘ったのも、千鶴だった。夜中に千鶴と会っていたことも、早絵は全部知っていた。あの日、加瀬家で起きたすべての出来事も、早絵は黙って見ていたのだ。ここ数日、自分が見過ごしてきた細かい違和感が、今になって一つひとつ脳裏に蘇ってくる。早絵が瑞樹母をブロックした直前、彼女は「卵も産めないで」などと平気で口にしていた。でもそのときの自分は、早絵が見ていないと思って放置した。波風立てるよりマシだと、逃げた。そのくせ後になって、早絵が母をブロックしたことに文句を言った。瑞樹は胸元をきつく掴み、張り裂けるような痛みに呼吸すらままならなかった。ひとつ、またひとつ。もし立場が逆だったら、きっと自分はとっくに壊れていた。あの毎日を、彼女がどうやって耐え抜いていたのか想像するのも怖かった。そのとき早絵のお腹には、自分との子どもがいた。それなのに……自分は、いったい何をしていた?早絵が背負った苦しみは、すべて自分が与えたものだった。スマホが鳴った。画面に表示された名前は千鶴だった。瑞樹の目に血が滲んだ。よくも早絵に電話をかけられるな。「瑞樹なんてとっくにあんたに飽きてるのに、どの面下げて戻ってきたの?」「中絶一回、流産一回、どっちの子どもも彼のせいで死んだのに、それでも戻ってくるとか、ほんと哀れすぎて笑えるわ」「あんた、また誰かの命が失われなきゃ、瑞樹がもうあんたを愛してないって気づけないの?」「あ、違うか。四年かけてやっと一人授かったのに、それも流産。これから先はもう無理だもんね?まさか私の子のベビーシッターでもやるつもり?」その言葉ひとつひとつが、早絵の心に深く刃を突き立てていた。瑞樹の呼吸は荒くなる。もし今、電話を聞いていたのが早絵だったら、彼女はどんな顔をしていただろう。「なんで黙ってるの?」千鶴は数秒沈黙のあと、鼻で笑った。「今さら恥でも感じた?まあいいけど。私の息子にママって呼ばせてあげようか。夢の続き見られてよかったじゃない」「芳野、てめぇいい加減にしろ」瑞樹は歯ぎしりしながら怒りに震えた。電話の向こうが急に静まり返り、数秒の沈黙の後、千鶴が震える声で話し始めた。「瑞樹兄ちゃん、違うの……そうじゃないの……最初に罵
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第16話

瑞樹の体がぐらりと揺れ、本能的に手を放した。真っ赤な血が頭から流れ出し、顔の半分を真っ赤に染めた。千鶴は恐怖で足元が崩れ、這うように逃げ出そうとした。だが、すぐに腕を掴まれて引き戻された。逃げられないと悟った千鶴は、開き直るように声を張った。「あなた、早絵の子ども二人も殺して、それでもまだ三人目まで殺すつもり?!」瑞樹の体がその場に固まったように動かなくなった。千鶴はもう抵抗もせず、顔を上げて冷たい笑みを浮かべた。「どうしたの、瑞樹?」「早絵に捨てられてから、やっと気づいたの?彼女がどれだけ大事だったかって」「でも、もう遅いんだよ」瑞樹の頭から流れ続ける血が、青白い顔に不気味なコントラストを作っていた。彼の目は虚ろで、足元はふらつきながら外へ出ていく。ドアが閉まりきる前に、千鶴はすぐさま鍵をかけた。スマホに通知が表示された。千鶴が瑞樹母に追い出され、早絵が失踪したというニュースが同時にトレンド入りしていた。つまり、早絵は戻ってきていなかった。千鶴は腹部の痛みに顔を歪め、慌てて救急へ電話をかけた。この子さえ無事に生まれれば、まだ逆転のチャンスはある。そう信じて。加瀬家。戻ってきた瑞樹は、再びベビールームに閉じこもった。この部屋にいる限り、まだ何かが繋がっているような気がした。でもこの部屋のすべてが、彼が自分の子を殺し、早絵の愛を壊した証拠でもあった。血がポタポタと机の上に落ちた。瑞樹は慌てて服で拭き取ったが、どんどん増えて拭ききれない。焦りと不安だけが募っていく。「早絵、お願いだから……」「もう限界なんだ、俺、これ以上耐えられない」「チャンスをくれよ。一度でいい……」瑞樹が崩れるように床に膝をつき、嗚咽が喉を震わせた。脳裏に浮かぶのは、出会った頃の早絵。「早絵、なんでそんなに機嫌直しやすいの?蒸しエビ餃子一つで笑顔になってさ」そのとき早絵は、微笑んでいたけど、目は真剣だった。「私がすぐ機嫌直すのは、まだあなたを愛してるから」「でも、もし愛がなくなったらね。たとえ目の前で死んでも、私は一瞥すらくれないよ」あの言葉が、現実になった。彼女はきっぱりと去り、もう戻ってくることはない。スマホの着信が鳴り響く。発信者は隼人。瑞樹は
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第17話

隼人の肩がびくりと震えた。「俺は……姉ちゃんのためにやったんだ」「体外受精を四年も続けてて、身体もボロボロだった。お前の母のプレッシャーもひどくて、姉ちゃんが潰れるんじゃないかって、怖かったんだよ」「千鶴の子どもを引き取れば、家の人間も黙るし、姉ちゃんも楽になれるって……」瑞樹の拳が隼人の顔面に炸裂し、続けて蹴り飛ばした。手加減など一切なかった。何発も、何発も、肉に沈む音が鳴り続け、ようやく動きが止まった。「姉ちゃんのため?それとも、お前自身のためだろ?」「俺は当然……」瑞樹は鼻で笑った。「俺が資金出してやって、いい思いしてたよな。姉ちゃんのことを俺に黙ってたのも、機嫌取って、もっと支援してもらおうとしたんだろ?」「隼人、お前、自分に聞いてみろよ。お前の姉ちゃんがそんなやり方、望むと思うか?」心の奥に押し込んでいた打算を言い当てられて、隼人の顔から血の気が引いた。早絵がそんなこと、許すはずがなかった。だからこそ、あんなに苦労して瑞樹と一緒に、姉ちゃんに隠し続けたのだ。「早絵は妊娠してた。でも、中絶した。子どもはもういない」「それと、最初の子どもが死産になったのは俺の母さんが渡した安胎薬のせいだった」隼人は稲妻に打たれたような顔をして、唇をわななかせるだけで何も言えなかった。「今のお前の姿がすべてだよ。自業自得だ」その言葉は、隼人に向けたものだったが、同時に自分自身に突き刺す刃でもあった。「早絵に見捨てられたら、お前はただの捨て犬だ」「そんなはず……ない、姉ちゃんは……」「たとえ早絵が戻ってきても、千鶴の子どもを見るたびに思い出すんだ。お前も、俺も、何をしたのかを」隼人の顔は死人のように青ざめ、使用人に引きずられるようにして屋敷の外へ追い出された。満身創痍で、ふらつきながら自宅に戻った。玄関前でふと立ち止まり、あの日タクシーの中から自分を見た早絵の目を思い出した。心臓が潰れるほど強く脈打つ。隼人はよろめきながら家の中に飛び込み、あの日の夜の監視映像を必死に探した。映像を見つけた瞬間、心が奈落へ落ちていった。自分と瑞樹が家に入った直後、早絵もすぐにあとを追って入ってきていた。彼がわざと地下室で時間を稼いでいたあいだ、早絵はリビングに立ち尽くしたまま、ただ黙って
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第18話

隼人は点滴の針を引き抜き、ふらつく足取りで産科の入院フロアへ向かった。病棟をくまなく探し回った末、ようやくエレベーター前で千鶴を見つけた。「千鶴」顔中傷だらけの彼を千鶴はしばらくじっと見つめたのち、ようやく誰かを思い出したように目を見開いた。お腹をかばいながら数歩後ずさりして、「なにその顔、どうしたの?」「義兄さんが機嫌悪くてさ、八つ当たりされたんだ。お前は?そろそろ産まれそう?」隼人は彼女の腹に目を落とし、急に声のトーンを落とした。「義兄さんの怒りもそのうち収まるよ。だってこれは加瀬家のたったひとりの子どもなんだから、放っておくはずないって」「千鶴、お前と義兄さんのこと、俺はずっと裏で支えてきた。今、姉ちゃんはいないし、義兄さんに俺のこと弁護してくれるのは、お前しかいないんだ」千鶴はようやく口元をほころばせた。「ちゃんと空気読めるなら、私も恩は忘れないよ」「どこ行くとこだったの?」「十七階でエコー検査があるの」「ひとつ上の階か?」隼人はエレベーターの方にちらりと目をやった。「エレベーターまだみたいだし、俺が付き添ってやろうか。ちゃんと恩に感じてくれよ?」千鶴は特に疑うこともなく、手を差し出した。隼人は千鶴を支えながら階段の方へ向かい、ゆっくりと上へ登っていった。「義兄さんが言ってたよ。お前が子ども産んだら、遠くにやって、子どもは姉ちゃんのもとで育てるって。ママって呼ばせて、実子と変わらないようにするってさ」「でもさ、金で雇われたただの産む道具が、姉ちゃんのモノに手出そうだなんて、調子に乗りすぎだろ」隼人の声は、どんどん冷たくなっていった。千鶴の背筋に寒気が走った。「なにそれ、どういう意味?あんた、私が加瀬家の跡継ぎをお腹に抱えてるってわかってる?下手なことしたら、ただじゃ済まないから」「隼人、痛い!やめて、放して!」彼の手は千鶴の腕を締め上げ、今にも骨を折る勢いだった。「た、す……ぎゃっ!」隼人が腕を振り払うと、千鶴の身体は階段を転がり落ち、踊り場に叩きつけられた。大量の血が瞬時に流れ出し、床を真っ赤に染めた。「痛い……赤ちゃん……」千鶴は動けなかった。あまりの痛みに呼吸さえできず、声も出せなかった。千鶴は隼人を見上げながら、涙混じりに懇願した。「お願い……
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第19話

【早絵、君を傷つけた奴らはみんな報いを受けた。だからお願いだ、戻ってきてくれ。君が望むことなら、俺は何だってするから】この投稿が出た瞬間、ネット上の憶測はすべて確信に変わった。社長職を解任されるのも、もはや時間の問題だった。高木は何か言おうと口を開いたが、結局何も言えず、机の上に置かれていた広報対応の資料をそっと持ち帰った。最後に瑞樹を一瞥し、深く息を吐いた。こうなるとわかってたなら、最初から何もするべきじゃなかったんだ。今の瑞樹にとって、早絵以外のすべてはどうでもよかった。ネットでは彼への誹謗中傷が飛び交い、【永遠に愛を失え】【地獄に落ちろ】といった呪詛めいた言葉までが並んだ。彼は自虐するようにコメントを一つ一つ遡りながら、早絵に関する手がかりを必死に探そうとしていた。朝から晩まで画面をスクロールし続けても、何ひとつ得るものはなかった。その度に、瑞樹の絶望は深まっていった。隼人の前であえて千鶴の子どものことを話したのは、計算のうちだった。ほんのわずかな希望にすがっていたのだ。もし早絵が唯一心を寄せる家族が危機に陥れば、きっと戻ってきてくれるかもしれない。そう思っていた。だが、彼女は戻らなかった。早絵を取り戻すために、今の自分にできることがもう何も思い浮かばなかった。彼は再びいくつかの投稿を更新した。【早絵、二人で女の子を養子に迎えよう。君が教えて、俺が甘やかす。そんな家族になれたら、素敵だろ?】【子どもがいなくてもいい。君と一緒に歳を重ねられるなら、それだけで十分なんだ】【君のいない毎日は、地獄のように苦しい】小さなベビールームは、今や瑞樹を閉じ込める牢獄と化していた。あの投稿を皮切りに、瑞樹は毎日欠かさずSNSを更新した。届くはずのない希望に、ただすがるように。「ちょっと、芳野さん!ダメです、そこは……!」叫び声とともに千鶴が部屋に乱入し、収納ボックスを掴んで床に叩きつけた。瑞樹の表情が、にわかに凍りついた。彼は千鶴の腕をつかみ、無理やり部屋の外へ引きずり出し、使用人たちに押しつけた。「こいつをもう一度この部屋に入れたら、お前ら全員クビだ」瑞樹はすぐさま部屋に戻り、床に転がっていた注射器を一つひとつ丁寧に収納ボックスへと片付けていった。千鶴は使用人
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第20話

「加瀬さん?」瑞樹はそれを受け取り、しばらく黙ったまま見つめていたが、ようやく震える手で封を切った。中には離婚届が入っていた。この数日間、早絵が出ていく朝に自分にサインさせた書類のことを、瑞樹は一度も思い返せなかった。思い返すのが怖かった。けれど、避けていた現実はとうとう目の前に突きつけられ、彼の心を完全に打ち砕いた。千鶴は離婚届を見て、堪えきれずに声を上げて笑った。「瑞樹、彼女はもうあなたなんかいらないってさ。自業自得ね!」「どう落ちぶれていくか、楽しみにしてるわ」千鶴の言葉なんて耳に入らず、瑞樹はただ呆然と離婚届を見つめ続けた。千鶴はそれ以上ここにいても無意味だと悟り、くるりと背を向けた。あの早絵に似ているその顔が、瑞樹との出会いをもたらしたが、今はそれが嘲笑と非難の的になっていた。「彼女が芳野千鶴?捨てられたんだな。不倫女なんてそんなもんよね」「子どもも流れたって?因果応報だわ」「赤ちゃんだけがかわいそう。あんな女のところに生まれたばっかりに……」その言葉に、千鶴は足を止めた。胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。無意識に手が腹に触れた。赤ちゃんはなんの罪もないのに、自分の腹の中にいたというだけで、生きるチャンスすら奪われた。千鶴はスマホを取り出し、早絵とのトーク画面を開いた。履歴は全部消していたはずなのに、彼女が送った一つ一つの言葉がまるで目の前に浮かび上がるようだった。この一年、彼女はまるで目覚めることのない悪夢を見ていたようだった。夢の中の自分は、醜く、意地悪で、誰からも嫌われる存在だった。彼女は震える指で文字を打ち込んだ。【ごめんなさい】しかし、相手からの返信はなかった。どれだけ後悔しても、もうやり直せる機会は残されていなかった。千鶴はその場にしゃがみ込み、堪えきれずに声を上げて泣き崩れた。ベビールームの中。瑞樹は離婚届を破り捨てようと何度も思った。だが、結局どうしても手が出せなかった。そこに並んで記された自分と早絵の名前。それが今、ふたりのもっとも近い距離だった。瑞樹は毎日のようにSNSを更新し、何度も何度も、自分の過ちを謝り続けた。すべてのフォロワーに、自分のしたことを包み隠さず話し、あとはただ、早絵に関する何かの手がかりが見つかる
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