All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

元々、二川家の次女が会社に来たのは、基層から経験を積むため。ただの形だけだと思われていた。どうせ、口だけの話だろう、と。豪門の子供は皆、生まれた時からお金持ち。家の資産もあるし、仕事をすると言っても、ほとんどは見せかけのものにすぎない。しかし、紗雪はプロジェクトマネージャーが知っているそういった人間とは、まるで違っていた。いや、それどころか、彼の認識を根本から覆すほどだった。そもそも、彼女ほど真剣に仕事に向き合う人は滅多にいない。二川家はもともと裕福で、彼女は二川グループでのんびり過ごすこともできたはずだ。だが、紗雪の真剣な姿勢は、彼の目にはっきりと映っていた。それだけではない。彼女は誠実で、人当たりも穏やかだ。そう考えると、プロジェクトマネージャーは紗雪を見る目に、さらに温かみを増した。紗雪は周りがどう思おうと、ただ自分のやるべきことをやるだけだった。彼女の背筋はまっすぐに伸び、古い木のように、ひとりで大きな空を支えていた。その姿を見ると、不思議と安心感を覚える。「じゃあ、君に任せるよ」プロジェクトマネージャーは改めて言い聞かせるように言った。「二川さん、椎名のプロジェクトの重要性は、君が一番よくわかっているはずだ」紗雪は力強く頷き、目には堅い決意の光を宿した。「全力を尽くします」彼女のその決意は、オフィスの他の人々にも伝染した。誰もがこのプロジェクトに十二分の気持ちを込め、紗雪のように真剣に取り組むようになった。前田の件以来、もう誰も紗雪を侮ることはなかった。それどころか、彼女は「分別のある人間」として、一目置かれるようになった。そんな職場の空気の中で、紗雪もまた、落ち着いて仕事に打ち込めた。午後、彼女は整えた資料を持ち、椎名へと向かった。オフィスの皆が彼女を励まし、背中を押してくれた。会社の車に乗り、目的地に着く。そびえ立つ高層ビルを見上げると、周囲には都心部の建築物が立ち並んでいる。その景色を見て、紗雪は改めて、椎名の規模と実力に圧倒された。ずっと前から、この会社が凄いことは知っていた。しかし、こうして実際にその場に足を踏み入れると、また別の畏怖を感じる。紗雪はきゅっと赤い唇を引き結び、心の中で気合を入れた。そして、しっかりと歩みを
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第82話

そうだ、彼女は書類を届けに来たのだ。椎名とのプロジェクトこそが最優先事項であり、他のことは二の次。優先順位を見失ってはいけない。それに、ほんの一瞬の出来事だった。紗雪は、自分が見間違えた可能性があるのではないかと疑った。しかし京弥の顔立ちを、彼女が見間違えることなどあるだろうか?ふと、紗雪の脳裏にあることがよぎった。椎名グループの名は、京弥の「椎名」と同じだ。このことに思い至ると、紗雪は目を細めた。不思議なほど、多くの出来事が偶然とは思えなくなってきた。彼女の記憶の中にあるのは、母の誕生日会での京弥の豪胆な振る舞い、そしてあの本物の玉の瓶。辰琉でさえ大金を積んで手に入れたのが偽物だったことを考えれば、本物の玉の瓶がどれほどの価値を持つのかは想像に難くない。椎名家は確かに裕福だが、それでもあれほどの金額を出すことはそう簡単ではないはず。紗雪は考え込んだまま、15階の会議室へと向かった。もしかしたら、本当に見間違えただけなのかもしれない。だが、次の瞬間。「チン」エレベーターの扉が開いた。紗雪が顔を上げると、彼女の視線はある人物の瞳に吸い込まれた。足が、ぴたりと止まる。エレベーターの外、人々の中心に立つ京弥が、漆黒のスーツ姿で彼女を見つめていた。洗練された装いは、彼の凛々しさと気品をより際立たせている。そして、彼の瞳には熱を帯びた感情が宿り、彼女には到底、読み解けない何かが滲んでいた。「きょ、京弥さん?どうしてここにいるの?」先に声を発したのは紗雪だった。京弥が椎名にいる。それは本当にただの偶然なのか?それとも、彼と椎名の社長には、何かしらの繋がりが?紗雪の目には、探るような色が浮かぶ。その意図を察したのか、京弥の瞳が一瞬だけ暗く揺れた。そして彼は、周囲の者たちに無言の視線を送る。傍らにいた匠が、素早く社内チャットにメッセージを打ち込んだ。【ボスの正体をバラすな】京弥の趣味は妻とのロールプレイ。優秀な部下であれば、それに無条件で協力するのが当然である。人々の間を抜け、京弥はゆっくりと紗雪の前に立つ。そして、冷静な声で説明を始めた。「うちの会社と椎名は、多少の取引がある。だから、形だけの顔出しに来ただけだよ」
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第83話

紗雪は特に何も言わなかった。会社の人々がこちらを見ているのを感じ取り、それ以上話を続けることはしなかった。「じゃあ、仕事を頑張って。私はこれを渡さないといけないから」そう言って、手に持っていた書類を軽く掲げ、届け物があることを示した。京弥は目の前の彼女をじっと見つめた。普段の奔放な雰囲気とは異なり、今日はどこか真剣な表情をしている。「分かった、頑張って」彼は何気ない様子で言った。「さっちゃんなら、何をやってもうまくいくさ」紗雪は彼の深い瞳と視線が交わると、なぜか含みのある言葉に聞こえた。だが、はっきりとした意味は分からない。「椎名」という名前の件。紗雪は少し俯き、長いまつげが思考を隠すように影を落とした。まあ、京弥の家がどれだけ裕福だろうと、おそらく本家ではなく分家に過ぎないだろう。椎名の実権を握る、あの伝説の椎名さん。そんな頂点の存在に、自分のような普通の人間が関われるはずがない。そう考えると、さっきまでの不安もすっと消えた。単に、自分で勝手に怖がっていただけなのだろう。「うん、頑張るよ」考えがまとまると、紗雪の京弥を見る目には、先ほどまでの警戒心がいくらか和らいでいた。彼をすり抜けるようにして会議室へと向かった。紗雪は、初版の企画書のフレームワークを椎名のプロジェクト責任者に手渡した。彼は書類を受け取ると、淡々とした口調で言った。「はい、確かに受け取りました。結果が出たらまたお知らせします」だがしばらく経って、誰かが責任者の耳元で何かを囁いた。すると、彼の態度が一変した。突然立ち上がり、紗雪をじっと見つめると、声のトーンが明らかに二段階ほど上がった。「二川さん、企画の展開プランについて簡単に説明していただけますか?上層部に詳細を報告するので」紗雪はわずかに眉を上げ、すぐに悟った。ここにいるビジネスマンたちは、皆商売の場数を踏んできた人間だ。そんな彼らが、この責任者の態度の変化を理解できないはずがない。紗雪自身も、何が起こったのかは分からなかったが、周囲の視線を受けても微動だにしなかった。むしろ落ち着いた口調で、堂々と説明を始めた。周囲の反応は様々だった。驚きの表情を浮かべる者、羨望の眼差しを向ける者、嫉妬を滲ませる者。だが、
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第84話

その言葉に、周囲の人々は皆納得したようだった。紗雪を見る目にも、さらに一層の賞賛が加わる。どうやら、今回のプロジェクトで二川グループには十分な勝算があるようだ。派遣された代表者も、言動にしっかりとした節度が感じられる。紗雪は人々の視線に気づいたが、ただ微笑みながら軽く頷いた。彼女はビジネスの世界がいかに冷酷かを知っている。落ち目になると追い討ちをかけられる。ここにいる人々とは、表面的な関係を維持できればそれでいい。礼儀を守り、敵を作らず、無用な争いを避けることが肝心だ。会議室を出ると、外で京弥が待っていた。「もう終わった?」「うん、後はもう帰るだけ」京弥は自然な仕草で紗雪のバッグを受け取った。紗雪は一瞬だけ動きを止めたが、特に何も言わなかった。無料で荷物を持ってくれるなら、それに越したことはない。ふと周囲を見回すと、立っているのは京弥ただ一人だった。他の人々は皆それぞれの仕事に戻り、彼のために空間を作っている。その光景を見て、紗雪は少し不思議に思った。改めて、目の前の京弥をじっくり観察する。この顔立ちなら、もし二川グループに来たら、好奇心で周りに人が集まりそうなものだけど……椎名ではそんな様子はまったくない。会社の管理がしっかりしているということなのか。紗雪の視線に気づいた京弥は、どこかおかしそうに微笑んだ。「どうした?そんなに真剣に俺の顔を見て」「イケメンだからね」思わず口をついて出た言葉に、次の瞬間、自分でも驚いた。顔がじんわりと熱くなり、頬に薄紅が差す。何言ってるんだ。京弥は喉の奥から低い笑い声を漏らした。思わず右手を握り、薄い唇に当てる。明らかに機嫌がいい。角で様子を見ていた匠は、その笑顔に驚愕した。この人は、本当に彼が知ってる社長か?普段、会議で一度でも機嫌のいい顔を見るのは至難の業だ。もしミスをすれば、徹底的に叱責されるのが常。これはもう奇跡レベルの光景だ。視線を横にずらし、匠は紗雪をじっと見た。なるほど、原因は彼女にあるらしい。紗雪は京弥の笑顔に、思わず心臓が跳ねた。彼はまさに「高嶺の花」。その笑みは、まるで雪が溶けるように柔らかく、普段の冷静な雰囲気とはまるで違っていた。「知ってる、俺がイケメ
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第85話

もともと、紗雪は特に気にしていなかった。どうせ京弥の周囲には十分なスペースが空けられているし、注目を集めるようなことでもない。しかし、その言葉が口をついた瞬間、彼女は初めて気づいた。周囲が、無数の目が自分たちを凝視している。「特にないね。もう聞かないで」この場から、一刻も早く逃げ出したい。その頃、匠の周りでは、社員たちが小声でひそひそと話していた。「ちょ、あの人って、もしかして椎名奥様?」「確実にそうだろ!社長自ら料理を作るなんて、もう確定じゃん!」「いやいや、うちの社長が料理できるとか、ありえる?」「マジかよ……ずっと絶対に手の届かない存在だと思ってたのに。いや、やっぱり手の届かない存在だったわ。だって彼女も女神レベルだよね」「てかさ、神様は社長にどの才能を与えなかったわけ?」表向きは仕事をしているフリをしながら、実際は全員が目と耳を総動員させて、紗雪と京弥の動向を見守っていた。紗雪はその視線の圧に耐えられず、落ち着かない。それに気づいた京弥は、ゆっくりと視線を上げ、周囲を鋭く見渡した。無言の警告。次の瞬間、社員たちは一斉に視線を逸らし、何事もなかったかのようにモニターに集中する。終わった。彼らの脳裏には、ただその一言だけがよぎる。紗雪は京弥の視線の動きには気づかず、ただため息をついた。「先に帰るね。仕事が残ってるから」「駐車場まで送るよ」紗雪は断ろうとしたが、京弥がじっと見つめてくる。そのまっすぐな眼差しに、なぜか「いらない」と言えなかった。まあ、彼も特に用事があるわけじゃないし......そう考え、結局うなずいた。二人は並んでエレベーターへと向かう。彼らが去った後、社員たちはようやく息をついた。社長は、女性に興味がないじゃなかった。ただ、本当に好きな人に出会ってなかっただけ。二川さんに対するあの優しさ、見たことないレベルだった。匠もまた、心の中で密かに感慨を抱いた。二人の後ろ姿、見れば見るほどお似合いだ。並んで歩く姿は、どちらも気圧されることなく、二川さんの雰囲気すらも社長に見劣りしない。「散った散った。もう仕事に戻れ。今日のことは他言無用だ」そう言いながら、匠は重要なことを思い出した。「社長はチャットでしっかりと通達
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第86話

紗雪はそんな人だった。道中、彼女の視線は一度も京弥の方を向かなかった。京弥は紗雪が上の空なのに気づき、不思議そうに尋ねた。「さっちゃんはさっき、俺のことをイケメンって言ってたよな?」「なのに、ずっと俺の方を見もしない」その言葉を聞いて、紗雪の耳たぶに薄紅が差した。さっき椎名での気まずい場面が思い出される。そもそも、あれはただの口から出まかせだったのに、なんで何度も蒸し返されなきゃいけないのか。紗雪は怨念を込めた眼差しを京弥に向けた。「いくらカッコよくても、もう寝た仲でしょ。もう見飽きたの」ふてくされたように、適当に言い放った。すると、京弥の足がぴたりと止まり、無表情のまま紗雪をじっと見つめた。紗雪はまだ気づかず、そのまま前へと歩を進める。心の中では、彼がしつこくあの恥ずかしい話題を持ち出すことに、密かに苛立っていた。車の前に着いたとき、紗雪はようやく隣にいたはずの人物がついてきていないことに気がついた。不思議に思いながら振り返ると、京弥が少し離れたところに立っていた。「なに?送るって言ったのに、ここまで来て、もう送る気ないの?」「送るのが嫌なら、バッグだけ返して」早く会社に戻らなければならないのに、ここで時間を無駄にするわけにはいかない。紗雪は不満げに京弥を見た。だが、彼の目に潜む危険な光には気づかなかった。まるで鋭い鷹のような視線が、彼女に釘付けられている。次の瞬間、京弥は素早く紗雪の元へ歩み寄り、彼女の手から鍵を奪った。そのまま車のドアを開けると、彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、後部座席へ押し込むようにして乗せた。紗雪がようやく状況を把握したときには、すでに京弥に後部座席へ押し倒されていた。「ちょ、何するのよ!私、会社に戻らなきゃいけないんだけど!」彼を押し返そうとするが、びくともしない。京弥は邪気を含んだ微笑みを浮かべ、彼女の耳元で囁く。「さっちゃん、俺のこと、もう見飽きたって?」低くセクシーな声が、まるで引っ掛けるように彼女の心をくすぐる。「怒ったの?本当のこと言うのもダメなの?」紗雪は真剣な顔で京弥を見上げた。「もちろん、いいさ」男は冷たく笑った。紗雪が「じゃあ早くどいてよ」と言う間もなく、次の瞬間、驚きの声が漏れた。「
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第87話

京弥は息継ぎの合間にその言葉を囁いた。言い終わるや否や、紗雪が反応する前に、大きな手がそっと彼女の瞳を覆う。次の瞬間、再び身を屈めた京弥が唇を奪いにくる。紗雪が一息つく間もなく、その呼吸はまたしても奪われた。後部座席の中、絡み合う二つの影が途切れることなく揺れる。......二川グループ。紗雪が戻ってくると、デスクの隣にいた同僚がすぐに駆け寄ってきた。椎名の様子を聞こうとしたが、目に飛び込んできたのは紗雪の腫れた唇。「紗雪!?」同僚は驚愕し、思わず声を上げた。「どうしたの、その唇!?めちゃくちゃ腫れてるけど……!」彼女は丸顔で、普段からおしゃべり好きだが、仕事には真面目な性格。それに、よくお菓子を分けてくれる優しい子だった。紗雪も彼女に対して好感を持っていた。唇をそっと指でなぞると、触れただけでズキズキと痛む。紗雪の瞳が一瞬だけ陰ると、何でもないように言った。「大丈夫よ。犬に噛まれただけ」その言葉を聞いた同僚は、一瞬返す言葉を失った。だが次の瞬間、目をキラキラさせながら、少し意味深な笑みを浮かべた。「ふ~ん?でも、紗雪ってすごく美人だし、きっと彼氏もめっちゃイケメンなんでしょ?」紗雪の眉がピクリと動く。「彼氏?ただの狂犬よ、狂犬!!」怒ったように語気を強めると、同僚はくすくすと笑い出した。「紗雪がこんなにムキになるなんて珍しい~。いつも仕事一本なのに!」紗雪は言葉に詰まり、思わず黙り込んだ。そう、だったのか?でも、以前は彼女だって自由だったはずだ。バイクを乗り回し、遊び回り、無邪気に笑っていた頃があったはず。同僚は彼女の沈黙に気づいたのか、それ以上は何も言わず、机の上にいくつかお菓子を置いた。「はい、これ。じゃあ私はちょっと水汲んでくるね」「うん、ありがとう」机の上には、紗雪が好きな味のお菓子が並んでいた。そのやり取りを、少し離れたところから林檎が見ていた。彼女の目は嫉妬と憎悪に満ちていた。紗雪さえいなければ、彼女の人生は順調だったのに。俊介がいた頃、林檎は部門内で特別待遇を受けていた。仕事の配分も軽く、楽をしながら同じ給料をもらえていたのだ。それどころか、俊介は彼女を課長にすると約束していた。給料も上がり、もっ
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第88話

紗雪は、その人物に目を向けた。ちらりと見ただけだったが、どこかで見た記憶がある。確か、前田と一緒に買い物していた女性……名前は浅井林檎だったはず。その瞬間、俊介があの日、自分に向けていたいやらしい視線が脳裏に蘇り、紗雪は胃の奥がひっくり返るような不快感を覚えた。すぐに視線を逸らしながら、心の中で考えを巡らせる。もしかして、林檎は前田の仇討ちでもするつもり?そんなの笑わせる。どうしようもないクズ男なのに、そんな人間を本気で気にかけるやつがいるとは。でも、考えてみれば納得できる話だった。どうせ彼らは、互いに利用し合っていただけなのだろう。紗雪は肩をすくめ、特に気に留めることなく仕事を続けた。プロジェクトマネージャーがオフィスに来たとき、紗雪は最後のエンターキーを押し、ファイルを保存した。「二川さん、ちょっとオフィスに来てくれる?」「はい、すぐ行きます」紗雪は立ち上がり、マネージャーの後についてオフィスへ向かった。ドアが閉まると同時に、林檎の表情が一変した。「クソ女め」心の中で毒づくと、その顔には隠しようのない憎悪が滲み出る。なるほどね。今度はマネージャーに取り入ったってわけか。どうりで俊介を追い出せたわけだ。「チッ……自分は不正な手段でのし上がったくせに、俊介を切り捨てるなんて、どの口が言うのよ」しばらくして、もうすぐ退勤時間になろうとしていたが、紗雪とマネージャーはまだオフィスから出てこなかった。林檎は焦れたように席を立ち、コーヒーを取りに行くふりをしながら、紗雪のデスクへ向かう。遠目で確認すると、彼女のパソコンがロックされていない。その事実に気づいた瞬間、林檎の胸が高鳴った。紗雪が会議で話していたプラン、まだ形になっていなかったはず。もし林檎が先に形にしたら、それはこっちの手柄になる。昇進も、給与アップも、全部浅井林檎のものにできる。そうなれば、俊介に頼る必要なんてない!林檎の目に欲望の光が宿る。そして、抑えきれない衝動に駆られ、そっと手を伸ばそうとした、そのとき。「何してるの?」鋭い声が響いた。振り向くと、丸顔の同僚・円(まどか)が険しい表情でこちらを睨んでいた。「そこ、紗雪のデスクでしょ?何か用があるなら、本人に直接聞いてみたら
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第89話

「紗雪、信じて!私は本当に椎名のプロジェクトに興味なんてないし、紗雪が成功すれば私も嬉しいんだよ、本当だから!」円の必死な訴えに、紗雪はじっと彼女を見つめた。赤い唇を引き結びながら、真剣な表情で円の肩をぽんと叩く。「円、心配しないで。気持ちはちゃんと分かってる」「こんなに長く一緒に働いてるんだ、あなたがどんな人かくらい、私にはちゃんと分かってるよ」その言葉に、円は潤んだ瞳で紗雪を見つめた。彼女は職場では誰にでも優しく、頼まれればすぐに手を貸すような性格だった。ウォーターサーバーの水を替えたり、プリントアウトを手伝ったり、ちょっとしたことでも皆が彼女を頼っていた。だが、ある時オフィスで物がなくなった際、真っ先に疑われたのは彼女だった。理由を尋ねると、返ってきた答えは彼女の想像を超えていた。「誰とでも仲が良いから、盗む機会も多かったんじゃない?」その瞬間、円は人の悪意というものを初めて実感した。それでも彼女は、自分の優しさを捨てなかった。だからこそ、紗雪が何のためらいもなく自分を信じてくれたことが、意外だったし、何よりも嬉しかった。こんなにも無条件で自分を信じてくれる人がいるなんて。それも、出会って間もない相手なのに。「……っ」円の目から涙が溢れそうになったのを見て、紗雪は戸惑い、慌ててティッシュを取ると、そっと彼女の涙を拭った。「ちょ、ちょっと、何で泣くの?そんなに悲しむことないでしょ?」「私、ちゃんと信じてるって言ったじゃん」紗雪は訳が分からず眉をひそめるが、円はただ首を振る。瞳に光る涙を拭いながら、小さく微笑んだ。「ううん。私ってこういうのにすぐ感動しちゃうタイプなんだから」「紗雪に疑われてなかったって分かっただけで、嬉しくて……」紗雪は彼女の様子を見て、一瞬目を伏せた。誰にでも言いたくないことの一つや二つはある。ならば、無理に聞き出すこともない。「まあ、心配しなくていいよ。この件については、私にも考えがあるから」そう言うと、円は大きく頷いた。「紗雪、本当に気をつけて。浅井は、絶対に良からぬことを企んでるよ!」紗雪の目がわずかに細められる。返事はしなかったが、その顔には確かな警戒心が宿っていた。「そういえば……」円はふと思い出して尋ねる。
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第90話

翌日。紗雪が会社に到着した。自分のデスクに向かうと、林檎の席のあたりから、何かを探るような視線が送られてくるのに気づいた。紗雪は気にしていないふりをし、唇の端をわずかに持ち上げる。パソコンを起動し、何事もなかったかのように席につくと、林檎の視線も少し落ち着いたようだった。その頃、林檎はUSBメモリのデータを確認していた。そこにあるのは、紗雪が作成した企画案だった。「見てなさいよ。この資料を少し手直しすれば、全部私のものよ」林檎の頭の中には完璧な計画ができあがっていた。「午後の会議でこの企画を発表すれば、二川紗雪がどうやって対抗するのか見ものだわ」「大勢の前で発表したら、プロジェクトマネージャーだって彼女を庇いきれないでしょうね!」円は林檎の視線を感じ取り、椅子をくるっと回して紗雪の方へ向き直った。小声で話しかける。「紗雪、なんか浅井の様子、おかしくない?」「どうして?」紗雪は知らないふりをする。「いや……なんていうか、ずっと紗雪のことを見てる気がするんだよね」紗雪は軽く肩をすくめた。「目は彼女のものだから、好きなだけ見ればいいよ」「他人の自由を制限することなんて、できないでしょ?」円は納得したように頷く。「まあ、それもそうだね!紗雪ってすごく綺麗だから、羨ましがってるんじゃない?」紗雪は苦笑しながら、ふと話題を変えた。「仕事に集中しましょう。この前、マネージャーに急かされてた報告書、もうまとめたの?」「あっ、やばっ!」円は小さく悲鳴を上げる。「言われるまで忘れてた!早く仕上げなきゃ!」そう言って、慌てて自分の席に戻っていった。円が去ると、紗雪の笑顔はすっと消えた。彼女は朝から気づいていた。パソコンが誰かに触られていたことに。そして、それをやったのが誰なのかも、考えるまでもなかった。きっと林檎は、午後の会議でこの企画を発表するつもりなのだろう。いいでしょう。やる気なら、こっちも付き合ってやるわ。紗雪の目に冷たい光が宿る。高いところへと持ち上げられてから落ちるのが一番痛い。その瞬間を、しっかりと見せてもらうわ。午前中、林檎はずっと興奮していた。彼女は企画案のデータを少し変更し、数字をいくつか書き換えただけで、他の部分はほぼそのままコ
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