病室に入り、音瀬はベッドのそばに腰を下ろした。伸一は笑顔で問いかけた。「音瀬ちゃん、準備はどうだ?荷物はまとめたのか?」何の準備?まだ荷造りしなきゃいけないのか?音瀬は一瞬固まり、何も答えられなかった。伸一はすぐに異変に気づき、「なんだ、湊斗は君に話してなかったのか?あのバカめ!やっぱり適当に流したな!」実は、伸一の古い友人がもうすぐ誕生日を迎えるのだが、本人は行けないため、湊斗と音瀬に代わりに行かせようとしていたのだ。伸一の気持ちは善意からだった。この歳にもなれば、二人の間に問題があることくらい見抜ける。だからこそ、どうにかして二人の距離を縮めようと考えたのだ。「音瀬ちゃん、じいちゃんの話を聞いてくれ」伸一は二人のことを心から案じていた。「湊斗は人に指図されるのを嫌う性格だが、君らはもう夫婦なんだ。ちゃんと気持ちを育てて、うまくやっていかないといけないだろ?」「はい」音瀬には反論の余地がなく、ただ従うしかなかった。「いい子だ」伸一は満足そうに笑い、「音瀬ちゃん、湊斗のことを頼んだぞ」病室を出た音瀬は、眉をきつく寄せた。実習停止の件があってから、彼女は湊斗と顔を合わせたくもなかった。しかし、伸一の気持ちを無視することもできなかった。幼い頃から、誰にも大切にされなかった彼女にとって、伸一の優しさはかけがえのないものだった。だからこそ、彼のために行くことを決めた。実習はすでに停止されているから、休みを取る必要もない。だが、誕生日のお祝いに行くのだから、何か贈り物を用意しないといけない。高価なものを買う余裕はない。でも、せめて気持ちを込めた贈り物を。ちょうど時間もあったので、音瀬は千乗寺へ向かった……夜になり、音瀬は寮に戻って荷物をまとめ、湊斗に電話をかけたが、予想通り出なかった。だが幸い、伸一が住所を教えてくれていた。翌朝早く、音瀬はバスに乗り、名盤山へと向かった。道中、雨が降り出し、どんどん激しくなっていった。音瀬が目的地に着く頃には、土砂降りの雨になっていた。バスを降りると、音瀬は再び湊斗に電話をかけた。車内でスマホを手に取った湊斗は、チラリと画面を見た。フン。たった一音、それだけで軽蔑と侮蔑がはっきりと伝わる。そのまま画面を伏せ、完全に無視した。
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