太陽が陰り、雲に隠されていく。晴れてはいるものの、どこか不安になる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はその不安を言葉にはせず、男と向かい合っていた。 近くには気を失っている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》がいる。けれどその場にいる誰一人として、彼を起こそうとはしなかった。 この事態を引き起こしたともされる|爛 春犂《ばく しゅんれい》はため息をついている。 それでも起こさない方が静かだと、二人は無視を決めこんでいた。 部屋の中に新しい机を用意し、その上に小ぶりの|茶杯《ちゃはい》をふたつ置く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、ゆっくりと茶杯へと緑茶を注いでいった。真向かいに座る|爛 春犂《ばく しゅんれい》が飲んだのを確認し、本題へと入る。「──|爛《ばく》先生、先ほど言った事は本当なんですか?」 |対峙《たいじ》している男は、彼が前までいた所の先生を務めていた。今もそれは健在で、側で伸びている|黄 沐阳《コウ ムーヤン》の師に近い存在でもある。けれど彼と伸びている男は相性が悪いようで、顔を合わせる度に|喧嘩《けんか》になっていたのだ。 ──まあ僕も|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は嫌いではあるけどさ。|爛《ばく》先生みたいに、明らかな敵意は見せたりはしないかな。 これには、から笑いしか出なかった。それでも今しなくてはならないことは何だったかと、大きく深呼吸して気持ちを切り替える。「それで先生、厄介な事とは何でしょう?」「……お前は先月……|黄家《こうけ》を出る前、こやつと共に行った場所を覚えておるか?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は|黄 沐阳《コウ ムーヤン》を指差した。 「あ、はい。確か…&h
開けられた窓から、たくさんの花が部屋の中へと入ってくる。|踊《おどり》りながら|侵入《しんにゅう》するのは|椿《つばき》や|牡丹《ぼたん》、|山茶花《さざんか》など。町中で売られている花だった。 まるで|華 閻李《ホゥア イェンリー》を護るかのように囲う。それはとても幻想的で、子供を|儚《はかな》げに繋ぎ止めていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》がそれを手に取れば、柔らかで甘い|蜜《みつ》の香りがした。花びらの表面を|撫《な》で、|眼前《がんぜん》にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと視線を送る。「先生、そもそも|殭屍《キョンシー》とは何なのでしょう?」 最初は遺体を運ぶ為に|用《もち》いられていた。しかしそれは、何の力もない|直人《ただびと》が|考案《こうあん》したことである。力がないからこそ物理的な物で運ぶ。知恵を|絞《しぼ》って作り出した案、それが|殭屍《キョンシー》の始まりとされていた。 彼は、そこから|殭屍《キョンシー》が生まれたのではないかと|推測《すいそく》する。 けれど|爛 春犂《ばく しゅんれい》は首を縦にふるわけでもなければ、横にすら動かさなかった。ふうーと口を閉じて鼻で息をする。「|直人《ただびと》が始めた事なのは間違いない。しかしそれが|殭屍《キョンシー》というわけではない。死者ではあるが、体という器があっても魂なくては動かぬ者。|殭屍《キョンシー》とは似て非なるものと言われている」 では、亡くなった者がどうやって|殭屍《キョンシー》になるのか。彼は、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の答えを待っているかのようにまっ直ぐ見つめてきた。 子供は、彼の意図する部分を|捉《とら》える。腰をあげて窓|枠《わく》に片肘をつかせ、手のひらの上に|顎《あご》を乗せた。 背中越しに座っている彼へ振り向くことなく、花が舞い続ける景色を|眺《なが》める。 前髪が風に遊
|爛 春犂《ばく しゅんれい》が帰った後、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|妓楼《ぎろう》の裏手へと向かう。そこは表の華やかさとは裏腹に、雑草が生い茂るだけの荒れ地だった。 建物の壁に背をつけ、服の|口袋《ポケット》から白い何かを取り出す。それは薄汚れた|勾玉《まがたま》だ。それでも気にすることなく、|勾玉《まがたま》を優しく撫でる。 すると、周囲にたくさんの花が落ちてきた。|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》などが、美しい花びらを|伴《ともな》って彼の全身を包み始めたのだ。 彼の姿が見えなくなるまで深く、|濃《こ》い|蜜《みつ》の香りに|包容《ほうよう》される。 しばらくするとそれは|収《おさ》まり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は再び姿を現した。 けれど花に包まれる前の彼とは違っていた。 幼さを残す顔立ちはそのままだが、|白髪《しらが》の混じっていた黒髪は色素をなくしている。一見すると白のよう。けれど太陽の光が当たった瞬間、美しい|白金《プラチナ》の輝きを放つ。 足元まで届きそうなほどに長い髪は、|蜘蛛《くも》の糸のように細かった。 彼は慣れた様子で髪を払いのけ、落ちている|睡蓮《すいれん》を拾った。それを右の手のひらに乗せ、左手で素早く|印《いん》を結んでいく。「──花びらは耳、|蜜《みつ》は息。花粉は|蜂《はち》を誘い、|蝶《ちょう》を|誘惑《ゆうわく》する。花の役目は我を導くこと」 |空《くう》に描くは術。先ほど|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包んでいた花が、今度は彼の力に囲まれる番だった。「|我《われ》、|先々《せんせん》の主なり。そして|我《わ》が声に答えよ。目を開き、全てを知らせよ!」 彼の中性的な|見目《みめ》に負けぬのは、男性にも女性にも聞こえる声である。どちらともとれる|声音《こわね》は花たちを美しく踊らせた。 まるでそれは妓女のよう。花の正体が女性ならば、世の男たちは虜になっていただろう。 そう思えるほどに美しく、丁寧に踊り続ける花は意思を持つかのように、とある場所へと向かった。 町を出て、河の上流へと進む。途中にあるつり橋では、男たちが魚釣りをしていた。 そこからさらに山の方へと向かう。次第に霧が立ちこめ、どんどん濃くなっていった。それでも花たちは風向きに逆らいながら飛び続ける。 空中を散歩す
──何だろうう。すごく懐かしい香りがする。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は重たい|瞼《まぶた》を無理やり開けた。ズキズキと痛む脳を働かせる。ふと、首から上だけが浮いているという感覚に見舞われた。 なぜだろうかと、視線だけを動かす。「──あ、気がついたかい?」 思いもよらぬ声が頭上から聞こえた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は驚きのあまり、|目眩《めまい》を忘れて起き上がってしまう。当然のように視界がぐらつき、ふらりと横に倒れてしまった。「おっと。急に動いちゃダメだよ」 声の主は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体を支える。 ──え? だ、誰? な、何で僕はこの人の|膝《ひざ》で寝てたの? あれ? でもこの人って…… 恥ずかしさと動揺を隠し、声の主の顔を見た。 |宵闇《よいやみ》のように長い黒髪を三つ編みした男だ。女性の黄色い声が聞こえそうなほどに目鼻立ちは整っている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とは違い、健康的な肌色をしていた。体格はよく、服に隠されていようとも、大きな肩幅から見てとれる。「……えっと、町で会ったあの人?」 突然声をかけてきて、|人攫《ひとさら》い顔負けに屋根上の散歩を|促《うなが》した。そしてあっという間に姿を消し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心に少しだけ疑問を残した男である。 次第に体を|縛《しば》っていた|目眩《めまい》がなくなっていく。|眼前《がんぜん》の男に手を貸してもらいながゆっくりと起き上がった。「ふふ、うん。そうだよ。あの時の散歩はどうだった? 私は、君と初|逢瀬《おうせ》出来て幸せいっぱいだったけどね」 美しい見目に見合わない言動が飛び交う。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を優しく|撫《な》でた。瞳をとろけさせながら微笑み、子供を壊れ物のように扱った。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の放った言葉に小首を傾げる。銀の髪はさらりと流れ、大きな目とともに男を|直視《ちょくし》した。 すると男はうっと言葉を詰まらせ、下を向いてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》がどうしたのと尋ねながら男の顔をのぞけば、彼は視線を|逸《そ》らした。そして天を仰ぎ見、子供の両肩を軽く叩く。 「これぞ、|至福《しふく》の時!」 男の頬には嬉し涙が伝っていた。 しかし|華
自身を軽々と抱き、宙を散歩する|全 思風《チュアン スーファン》の姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。 浮遊する彼の足元を見れば、黒い羽が階段を造っている。それを伝って上へと登る様は、まるで宵闇の王のよう。地上にある町を見ようとしても、既に|豆粒《まめつぶ》状態だ。それほどまでに上空へと進んだ|全 思風《チュアン スーファン》は、歩みを止めていった。 山すら視界に入らなくなると、彼は足元にある黒羽根の階段を一度だけ蹴る。瞬刻、階段は地上に近い場所からパラパラと崩れていった。残ったのは二人が立っている部分だけとなる。「……はあー、風が気持ちいいね」 |全 思風《チュアン スーファン》の長い三つ編みが|靡《なび》く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の黒髪を目で追い、その姿を焼きつけた。 彼の|顔《かんばせ》は美しさのなかに鋭さがある。それは誰も答えることができない、強い眼差しだ。|烏《からす》の羽のように深く、底が見えない。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の視線に気づいた彼は、顔を近づけてくる。彼の長いまつ毛から影が生まれた。女性のようとまでは言わないが、それでも整った顔立ちをしている。 ──本当に綺麗な人だ。どうして僕にここまでするのかはわからないけど……それでもこの人となら、どこまでも行けるんじゃないかって思えてしまう。 彼の姿勢は気高かった。 それでいて柔らかな笑み。 |端麗《たんれい》で何者も寄せつけないほどに|煌《きら》めく姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。「うん? どうしたの?」 ズイッと、微笑みながら|華 閻李《ホゥア イェンリー》へ顔を近づける。よく通る声で語りながら子供の|額《ひたい》に一つ、口づけを落とした。 すると、彼の耳を隠していた髪がふわりと|捲《めく》れていく。形のよい耳ではあったが、先が尖っていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からの熱い視線に気づいた彼は、大人っぽい表情のままに口元へ笑みを浮かべる。そして子供の髪を優しく撫で「幸せだなあ」と、平和な時間を満喫していた。「ふふ、どうしたの? 私の顔に何かついているのかい?」「……あ、あの! ……っ!?」 空気の薄い場所で大きな声を出したせいか、|噎《む》せてしまう。支えてくれている|全 思風《チュアン
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の案内によって|辿《たど》り着いたのは、|黄家《こうけ》の屋敷だった。そこは庭も、|敷地《しきち》すらも広大であった。 屋敷の門には二人の男がおり、彼らは暇そうにあくびをかいている。どうやら彼らは門番のようで、腰に剣をぶら下げていた。そんな二人は突然空から現れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちに驚く。「……お、お前たち、何者だ!?」 二人の門番は即座に剣を構えた。「おや? 何者って……私はともかく|小猫《シャオマオ》の方は、少し前までこの家に住んでいたんだ。君たちは、それすら忘れてしまったと言うのかい?」 二人の門番の問いに答えるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、記憶力がないのかと悪態をつく。 すると子供が彼の服を軽く引っ張った。銀の前髪を|退《ど》かし、愛らしい見目を彼へ向ける。「|思《スー》、しょうがないよ。ここの人たちは皆、僕の素顔を知らないから」 |妓楼《ぎろう》にいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へやってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら、素顔を知らなかった。唯一知っているのは|黄族《きぞく》にして、|黄家《こうけ》の跡取り息子の|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だけである。「|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、たまたま僕の素顔を知ったってだけ、だけどね」 その結果として、しつこくつきまとわれてしまったのだと苦く語った。「……そうか。そんな事があったんだね? ああ、君の素顔はとても可愛いからね。どんな男だって落としてしまうだろう。もちろん、この私もね」 人目も|憚《はばか》らず彼は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の細腰を抱く。けれど……「男を落としてどうするの? 楽しくもないよ?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は素で返した。 |全 思風《チュアン スーファン》の表情は一瞬だけ固まる。 それでも|咳払《せきばら》いで誤魔化し、放置されている門番たちへと視線を走らせた。子供へ向けている、|慈愛《じあい》に満ちた眼差しは消えている。 代わりに、鋭く尖った漆黒の瞳が門番たちを襲った。 二人の門番はヒッと、短い悲鳴をあげる。けれど負けん気があるようで、怯えながらも剣を持ったまま彼へと立ち向かった。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》を優しく抱きしめ、一人ぼっちに|してしまった《・・・・・・》ことが間違いだったと|訴《うった》える。何度も小柄な子供に向かって、ごめんと謝り続けた。 その男らしい大きな背中と優しくて暖かな腕が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|困惑《こんわく》へと誘う。 子供はどうしたものかと、眉根に弱った感情を乗せていた。 |閉口《へいこう》などと思ってはいないのだろう。むしろ心配してくれて嬉しいのだと|囁《ささや》き、彼の背中に両手を伸ばした。「君は、本当に優しいね」 子供に抱きつく両腕の力が、より強まる。 門番の前で見せた、強気で、誰も寄せつけない気高さ。|飄々《ひょうひょう》としていて掴みどころのない男。それらが嘘のように|全 思風《チュアン スーファン》の全身は弱々しく、|震《ふる》えた。「……えっと、入り口にある|彼岸花《ひがんばな》は番犬みたいなものなんだ」 あぐね続けるわけにもいかないからと、唇が動いた。少しだけ戸惑い、話題を切り替える。 彼は腕を離した。子供の話に耳を傾け、興味深く、|彼岸花《ひがんばな》を凝視する。「番犬? 確かに毒があるけど。ああ……そうか。毒がある花を置いておけば、誰も寄りつかなくなるからね」「うん。僕は自由な時間が欲しかったから、|彼岸花《ひがんばな》を盾にしておいたんだ」 苦笑いしながら彼岸花について伝えた。 |彼岸花《ひがんばな》は美しい。けれど|球根《きゅうこん》部分に毒を持っていた。|彼岸花《ひがんばな》に詳しくない者は、花そのものに毒があると思うのだろう。 その心理を利用して、部屋の入り口へと置いているのだと語った。
|全 思風《チュアン スーファン》の笑みは崩れることを知らない。いつまでも見つめては、ふふっと口元を|綻《ほころ》ばせた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の長く美しい髪を|一房《ひとふさ》指に絡め、くるくると巻いていく。けれど引っ張るわけでもなく、ただ、|眺《なが》めた。するりとほどけていく細い髪を視線だけで追いかける。 「ねえ|小猫《シャオマオ》、|龍脈《りゅうみゃく》などの目に見えぬもというのは、どうやって感じ取れるのか。それを知っているかい?」 |妖《あや》しく|煌《きら》めく銀の髪から手を離し、幼い眼差しに問うた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は迷うことなく首を横にふり、知らないと口にする。「正直な話、私もそれは知らないんだ。空気と同じで見えやしないからね。だけど、これだけは言える」 彼の声が、一気に駆け上がった。隣にいる美しい銀髪の少年を、黒く深い瞳で|注視《ちゅうし》する。「あの村に出た|殭屍《キョンシー》は、確かに君たちが倒した。直後に|龍脈《りゅうみゃく》や|地脈《ちみゃく》も確認してみたけど、正常だった。それは間違いないよ」 まるで見ていたような言い草だ。そして嘘、|偽《いつわ》りといったものはないと言わんばかりに|撃実《げきじつ》な言葉を放つ。 驚きを瞳に乗せる|華 閻李《ホゥア イェンリー》を凝視し、ふふっと子供っぽく笑ってみせた。 これには|華 閻李《ホゥア イェンリー》も|警戒心《けいかいしん》を解くしかなかったようで、肩から苦笑いをする。けれどすぐに笑顔を消し、何もない|空虚《くうきょ》な天井を見上げた。「……そうなると、どうしてまた|殭屍《キョンシー》が現れたのかな? 村人が、なぜ|殭屍《キョンシー》になってしまったのか。それの謎が残るんだよね。僕にはわからない事だらけだよ」
太陽が真上に差しかかった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは昼食をとっていた。 辛さが決め手の|麻婆豆腐《マーボードウフ》、高級食材であるフカヒレを使用したスープ。肉汁たっぷりの|包子《パオズ》、卵とニラの色合いが美しい食べ物などもある。箸休めには、ほうれん草の唐辛子炒めもあった。食後のおやつとして月餅、杏仁豆腐なども置かれている。 それらはざっと十人前ほどはあった。「うわあ、美味しそう……ねえ、本当にこれ食べていいの!?」 数々の料理を前にして両目を輝かせる。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は大きな瞳いっぱいに食べ物を映し、頭上を確認した。「うん、いいよ。私も多少食べるけど、|小猫《シャオマオ》は遠慮なくいっちゃって!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が見上げた先にいるのは|全 思風《チュアン スーファン》である。彼は我がことのように喜びながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》へとご飯を勧めた。 そんな二人は何とも奇妙な姿勢をとっている。どちらも座ってはいた。しかし|華 閻李《ホゥア イェンリー》は床にではなく、|全 思風《チュアン スーファン》の膝上にである。 |全 思風《チュアン スーファン》はがに股になりながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を乗せていた。 そんな彼の頬は絶賛綻び中で、しまりのない笑顔をしている。その姿はまるで、普段は強面だが小動物を愛でる時だけは優しくなるような……何とも言えない緩み具合だった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の方は、それを当たり前として受け入れている様子。大きくて逞しい彼を椅子代わりに、満面の笑みで箸を走らせていた。 数分後、ものの見事に全てを平らげる。最後に残った杏仁豆腐すらもペロリとお腹の中へと入れた。「&h
そよそよと、窓から冬の風が入る。寒気とまではいかないが、それでも冬という季節の風は身を縮ませるほどには体温を奪っていった。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は丸くなる。しばらくすると、もぞもぞと動いた。 ──何だろう、暖かい。 眠気を無理やり吹き飛ばし、静かに両目を開けた。「……ふみゅ?」 寝ぼけ眼なまま、体を起こす。眠たい目をこすり、ふあーとあくびをかいた。上半身だけで背伸びする。 外を見れば陽は高く昇っており、部屋の中に光が差しこんでいた。 ──あれ? ここ、どこだろう? 確か砂地で数人と対峙した。その後の記憶があやふやであり、なぜ布団で寝ているのか。それすら疑問となっていた。 小首を傾げ、|床《ベッド》から降りる。裸足で板敷の床を歩けば、ある者たちが目に止まった。部屋の隅で、二匹の動物がすやすやと寝ている。一匹は|蝙蝠《こうもり》の躑躅(ツツジ)、もう一匹は白い毛並みの仔猫だった。 仔猫は身体を丸め、躑躅(ツツジ)は野生を忘れたかのようにお腹を出して寝ていた。 その姿に|華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬は緩む。近づいて躑躅(ツツジ)のお腹を撫で、白猫へは恐る恐る腕を伸ばした。「うわ、もふもふだあ……」 仔猫は疲れが溜まっているのか、嫌がる素振りすら見せずに深い眠りに入っている。そんな仔猫の毛はお日様のように暖かく、とてもふわふわとしていた。 ふと、仔猫の前肢に赤い塊があったことを思い出す。仔猫の眠りを妨げぬよう、ごめんねと云いながら両前肢を探った。「&hel
白い毛並みの仔猫は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の腕から逃れようと必死だ。けれど体力がほとんど残っていないようで、すぐにぐったりしてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は急いで宿屋へ戻ろうと踵を返した。 直後、後ろから青い漢服に身を包んだ数人が近づいてくる。彼らは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を囲うようにして、腰にさげている剣を抜いた。「……え? な、何!?」 大勢の大人に囲まれた|華 閻李《ホゥア イェンリー》だったが、驚くふりをしながら彼らを観察する。 ──肩と胸の部分に金色の|刺繍《ししゅう》。それに青い服……この人たちって、どこかの貴族の使用人ってところかな。 そんな人たちがなぜ寄ってたかって、見ず知らずの自分を囲うのか。|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそれだけが疑問だった。「──そこの子供! その猫を渡せ!」 剣の切っ先を|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向け、数人が砂を踏みつける。「猫って……この仔猫の事?」 腕の中にいる仔猫を注視した。仔猫はぐったりとしており、息も絶え絶えである。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からすれば、仔猫も目の前にいる男たちも、全く知らない者たちであった。けれど仔猫の様子を見ているうちに、放っておくことなどできないと決意する。 仔猫を抱く腕に力をこめ、男たちを睨んだ。そして聞き分けのない子供を演じていく。「い、嫌だ! 僕はこの仔猫の事気に入ったんだ。僕が飼う!」 駄々をこねるだけこねながらも、少しずつ後ろへと下がっていった。「猫、飼いたいもん! 僕、猫好きだもん! ぜーったいに、渡さないからね!」 あかんべーと、普段の|華 閻李《ホゥア イェンリー》からは想像もできないような我が儘ぶりを発揮。地団駄を踏みながら仔猫を抱きしめ、飼うの一点張りに尽きた。 けれど男たちは子供の我が儘ごときにつき合ってはいられないと、剣を容赦なく|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと振り下ろす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は寸でのところで剣による攻撃を回避し、我が儘な子供を演じながら砂浜を逃げ回った。 剣が背に迫れば、泣くふりをしながらしゃがむ。男たちが手を伸ばせば身を低くして彼らの背後に回避し、軽く蹴りを入れた。男たちが倒れていく瞬間を狙い、彼らの肩や背中などを使って側にある木に登っていく。
「とりあえず、私は情報収集してくるよ。|小猫《シャオマオ》は宿屋に戻っていてくれ」 体重を感じさせない様子で|櫓《やぐら》から飛び降りていく。瞬間、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の眼前を彼の長い黒髪が横切った。「宿屋!? え!? 僕、どこにあるか知らないんだけど!?」 |櫓《やぐら》の中から|全 思風《チュアン スーファン》を見下ろし、困惑した声で質問する。すると彼は「ああ」と、頭を掻いた。「仕立て屋さんがあっただろう? あの通りに[|旅宿庵《りょしゅくあん》]ってところがあるんだ。緑色の看板だからすぐにわかるよ。そこで待ってておくれ!」 腰にかけてある剣を手にし、地面に突き立てる。するとそこから灰色の煙が現れ、|蝙蝠《こうもり》の姿に変わっていった。 蝙蝠をむんずと掴み、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のいる|櫓《やぐら》へと投げる。「わわ、|躑躅《ツツジ》ちゃんを投げないでよ! って、ちょっと|思《スー》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の説教もむなしく、|全 思風《チュアン スーファン》は既にこの場から姿を消していた。 彼の行動力に感心し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|櫓《やぐら》から降りていく。頭の上に|蝙蝠《こうもり》の|躑躅《ツツジ》を乗せ、言われた通りの場所へと歩んだ。 ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆ 仕立て屋がある|周桑《しゅうそう》区へ到着した|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、緑色の看板の家を探す。しばらくすると頭上にいる躑躅(ツツジ)が、ペチペチと羽で叩いてきた。『キュイ』と、かわいらしい鳴き声と一緒に、とある家へと羽を向ける。「あ、あった! ここが|旅宿庵《りょしゅくあん》だね。確かに緑色の看板だ」 小麦色の外装と、|朱《しゅ》の屋
「綺麗過ぎる? えっと|小猫《シャオマオ》、妓女なんだから化粧はするんじゃ?」 化粧は女性を変える。美しく、それでいて気品もある。それが化粧の魅力でもあった。 二人は女性ではないゆえに、化粧について詳しくはない。けれど女性が化粧を好むということは知っていた。 |全 思風《チュアン スーファン》は、それについて何らおかしいところはない。きれいなのはいけないことなのかと、困惑気味に眉をへの字にした。「これは|姐姐《ねえさん》に聞いたんだけど、女性は着飾る生き物らしいよ。全員がそうとは限らないけど……綺麗にすれば見栄えもよくなって、男性からの求婚も増えるんだってさ」 女の人の考えることはわからないよねと、彼の腕の中で考える。フグのように頬を膨らませ、あーでもないこーでもないとぶつくさ呟いた。 しばらくすると|全 思風《チュアン スーファン》に鼻先をつままれ、ジタバタとする。「|思《スー》!」「ふふ、ごめんごめん」 湿っぽい潮の香が飛ぶなか、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を床へと下ろした。「……話を戻すけど、あの遺体は綺麗過ぎると思うんだよね。これは僕の勘でしかないけど」 |櫓《やぐら》は少しばかり高い位置にある。そのせいか、風の影響を受けやすかった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の長く伸びた銀髪が、さらさらと揺れる。髪を押さえながら運河を見つめた。「あの遺体がどこから来たのか。それだけでも、ハッキリしたかな」 確信めいたものを瞳に乗せ、|櫓《やぐら》の柱へ|凭《もた》れかかる。切れ長の目をした|全 思風《チュアン スーファン》を見、どういう意味かわかるかと問うた。けれど彼はお手上げだ
|華 閻李《ホゥア イェンリー》と|全 思風《チュアン スーファン》の二人は、死体があがったとされる|幸鶏湖《こうちょうこ》地区へ来ていた。 |幸鶏湖《こうちょうこ》地区は街の玄関口でもある食品市場から、まっすぐ北へ進んだ先にある。途中の脇道には職人たちの住む|周桑《しゅうそう》区があるが、そこには行かずにひたすら直進。その先には|周桑《しゅうそう》区や住宅街とは違い、華やかな町並みが広がっていた。 |朱《あか》の屋根や柱が建ち並ぶ区域で、寺院や|櫓《やぐら》が多く建てられている。それ以外にも|妓楼《ぎろう》があり、他地区と比べて一貫性がなかった。 寺院の近くでは|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》なども売られており、花びらが舞っている。「──着いたよ。ここが、|幸鶏湖《こうちょうこ》区だ」 ほら。あそこを見てと、ある場所を指差す。|全 思風《チュアン スーファン》が示したのは、比較的大きな寺だった。 金の屋根に|朱《あか》色の外壁と柱の、美しい寺である。前後左右、東西南北を四つの|櫓《やぐら》で囲み、さらに高く伸びたたくさんの木々が出入り口以外を隠してしまっていた。「この寺は[|百日譚寺《ひゃくにちたんじ》]っていう名前でね、四方にある|櫓《やぐら》から寺を見張る仕組みになっているんだ」 顎をくいっとさせ、古めかしい作りの|櫓《やぐら》を見てと言う。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はいわれるがままに|櫓《やぐら》を凝視した。ただ、木でできている以外特にこれといった変わった様子は見受けられない。 けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、とあることに疑問を持った。小首をかしげ、大きな瞳で見つめる。「……何で、寺を見張る必要があるの?」「うん、いい質問だね」
枌洋(へきよう)の村から数里ほど北東へ進むと、大きな街が見えた。そこは蘇錫市(そしゃくし)と呼ばれている都である。 蘇錫市(そしゃくし)は別名、水の都と呼ばれていた。 その別名の通り街へ入れば、そこかしこから潮の香りが漂ってくる。魚介の匂いも混じり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》のお腹の虫が騒いだ。 見上げた空は蒼く、海はそれに負けないほどに水面が輝いて見える。|朱《あか》の建物は少なく、黄土色の建造物が多かった。 耳を澄まさずとも聞こえてくるのは人々の活気ある声、犬や鳥の鳴き声である。 街の中を流れる運河の両脇には建物がひしめき、その多くは飲食店だ。そこから脇道に逸れれば、織物工房や鍛治屋などが建ち並んでいる。 そこから奥へと進むと橋があった。橋を渡った先は一般家屋のある住宅街だ。よく見れば、住宅街と職人たちの住む地区を結ぶ道は一つではなかった。赤い橋が等間隔に作られており、どこからでも互いの地域を行き来できるようになっている。「あ、これ藤の花だ」 一部の橋には紫の花が絡みついていた。寒い冬の季節にしては珍しく咲いているなと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は楽しそうに花を観察する。「|小猫《シャオマオ》、こっちだよ」「あ、うん」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とともに街に訪れた青年、|全 思風《チュアン スーファン》が手招きをした。彼は一度住宅街まで進み、東側にある橋を渡って職人たちの住む地域へと足を伸ばす。「あれ? 服屋さんって、そっちなの?」 なぜ、わざわざ住宅街へ向かったのか。それを問いかけた。「私の知っている店は、少々入り組んだ場所にあってね。職人たちの住む地区……[|周桑《しゅうそう》]って言うんだけど、あそこは人が多い。加えて、これから行く店は住宅街からの方が近いんだ」 |周桑《しゅうそう》区は人通りがもっとも多いため、一歩進むだけでも一苦労する。目的地の服屋は住宅街側から橋を渡った目の前にあり、行きやすいのだと説明をした。「へえ……|思《スー》、この街に詳しいの?」「いいや、その服屋だけだよ。私のこの服も、その服屋で作ってもらったんだ」 少しだけはにかみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取って歩き始める。 ──何か、今の|思《スー》。ちょっと寂しそうに見えた。気のせいかな? 少しばかりの不
いくつもの|灯籠《とうろう》が吊らされている回廊があった。宵闇の中を照らす明かりは、微風が吹いただけでも揺れてしまう。星空と月が浮かぶ空は|鉄紺《てつこん》色で、灯籠がなければ何も見えぬほどに暗かった。 そんな暗闇の時刻、|朱《あか》色で埋め尽くされた豪華絢爛な建物がある。 ここは|禿《とく》王朝の首都[|燐万蛇《リンマンジャ》]にある、唯一無二の王宮だ。たくさんの|殿舎《でんしゃ》が並び、奥へ進むほどきらびやかさが増していく。 そして、ひっそりと佇むことすら叶わぬ宮の奥深く。|朱《あか》とは違う、|瑠璃瓦《るりがわら》の屋根の建物があった。屋根の両端には金色龍が置かれている。それら以外は他の建物と何ら変わらなかった──「──どういう事なの!?」 瑠璃瓦の優しい色とは裏腹に、部屋の中では怒号が飛び交っている。「話が違うじゃない!」 声の主は怒鳴りながら、周囲の物へと当たり散らしていた。机の上にある巻物は落ち、花瓶は割れてしまっている。大胆なまでに机の足を蹴り、その場にひっくり返した。 ひとしきり暴れた後に残るのは荒い呼吸のみ。ふーふーと、理性すら|喪《うしな》ったかのように荒かった。 そんな声の主は、黒髪を頭の上で結い上げている。|玉金《ぎょくきん》の|簪《かんざし》をし、|翡翠《ひすい》の宝石か嵌め込まれた髪留めをしていた。 すっと伸びた鼻に、整った目鼻立ち。細く長い指は白く、とても美しい女性である。 |桔梗《ききょう》色の|桾《くん》、その上に|黒紅《くろべに》の|衫《さん》を着ていた。|衫《さん》は胸元から足にかけて、美しい白蛇の|刺繍《ししゅう》が施されている。 女性は服を翻しながら扉に向かって巻物を投げた。 扉には一人の男が立っている。黒い官僚服を着、怯えた様子で体を震わせていた。「……わ、わかりません。偵察者によると、枌洋(へきよう)の村での実験は失敗。村人が姿を消したとの事です」 村を|殭屍《キョンシー》畑にし、こことは違う世界への扉とする。死した村人たちなどどうでもよく、結果が出
廃屋の近くにある河に訪れた二人は、さっそく魚を捕り始めた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は長い髪を頭上でお団子にし、瑞々しいまでの首を晒けだす。ボロボロの漢服の上着を脱ぎ、肌着だけになった。 服が濡れぬよう、両端を持って、きゃっきゃっと喜ぶ。頭の上に乗っている|蝙蝠《コウモリ》とともに、無邪気な笑顔で遊び尽くした。 そんな|華 閻李《ホゥア イェンリー》の若い肌は水を弾いていった。透明なようで銀色の髪、それが太陽の光を受けて|梔子《くちなし》色に染まる。 普段は長い髪で隠れている白くて滑らかな首筋に、|水飛沫《みずしぶき》がついた。「……っ!?」 それが汗のように見えたのだろうか。側で魚釣りをしていた|全 思風《チュアン スーファン》の喉が激しく鳴った。唾を飲みこみ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の首をじっと見つめている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の視線に気づき、|蝙蝠《こうもり》とともに首を傾げた。 |全 思風《チュアン スーファン》はかつてないほどに慌てふためく。弾みで足を滑らせ、尻もちをついてしまった。 残念なことに、彼の不幸はまだ続く。河底に両手をついた瞬間、|蟹《かに》に指を挟まれた。蟹を振り払おうとした時に河の中を泳いでいた魚に触れ、滑って顔から水の中へと飛びこんでしまう。以降も、河は彼にとって鬼門だと云わんばかりの不幸が重なっていった。 ようやく終わった頃には、彼の身なりは見れたものではなかった。三つ編みにしていたはずの髪は、ほどけてしまっている。凛々しく涼しげな眉や瞳は情けなく泣き崩れてしまった。 あまりにも普段とかけ離れている。そんな彼の一面を知り、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は口をポカンと開けた。「……|思《スー》にとって、河は不幸しか