開けられた窓から、たくさんの花が部屋の中へと入ってくる。|踊《おどり》りながら|侵入《しんにゅう》するのは|椿《つばき》や|牡丹《ぼたん》、|山茶花《さざんか》など。町中で売られている花だった。
まるで|華 閻李《ホゥア イェンリー》を護るかのように囲う。それはとても幻想的で、子供を|儚《はかな》げに繋ぎ止めていた。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》がそれを手に取れば、柔らかで甘い|蜜《みつ》の香りがした。花びらの表面を|撫《な》で、|眼前《がんぜん》にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》へと視線を送る。
「先生、そもそも|殭屍《キョンシー》とは何なのでしょう?」
最初は遺体を運ぶ為に|用《もち》いられていた。しかしそれは、何の力もない|直人《ただびと》が|考案《こうあん》したことである。力がないからこそ物理的な物で運ぶ。知恵を|絞《しぼ》って作り出した案、それが|殭屍《キョンシー》の始まりとされていた。
彼は、そこから|殭屍《キョンシー》が生まれたのではないかと|推測《すいそく》する。
けれど|爛 春犂《ばく しゅんれい》は首を縦にふるわけでもなければ、横にすら動かさなかった。ふうーと口を閉じて鼻で息をする。
「|直人《ただびと》が始めた事なのは間違いない。しかしそれが|殭屍《キョンシー》というわけではない。死者ではあるが、体という器があっても魂なくては動かぬ者。|殭屍《キョンシー》とは似て非なるものと言われている」
では、亡くなった者がどうやって|殭屍《キョンシー》になるのか。彼は、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の答えを待っているかのようにまっ直ぐ見つめてきた。
子供は、彼の意図する部分を|捉《とら》える。腰をあげて窓|枠《わく》に片肘をつかせ、手のひらの上に|顎《あご》を乗せた。
背中越しに座っている彼へ振り向くことなく、花が舞い続ける景色を|眺《なが》める。
前髪が風に遊
|爛 春犂《ばく しゅんれい》が帰った後、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は|妓楼《ぎろう》の裏手へと向かう。そこは表の華やかさとは裏腹に、雑草が生い茂るだけの荒れ地だった。 建物の壁に背をつけ、服の|口袋《ポケット》から白い何かを取り出す。それは薄汚れた|勾玉《まがたま》だ。それでも気にすることなく、|勾玉《まがたま》を優しく撫でる。 すると、周囲にたくさんの花が落ちてきた。|山茶花《さざんか》や|睡蓮《すいれん》などが、美しい花びらを|伴《ともな》って彼の全身を包み始めたのだ。 彼の姿が見えなくなるまで深く、|濃《こ》い|蜜《みつ》の香りに|包容《ほうよう》される。 しばらくするとそれは|収《おさ》まり、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は再び姿を現した。 けれど花に包まれる前の彼とは違っていた。 幼さを残す顔立ちはそのままだが、|白髪《しらが》の混じっていた黒髪は色素をなくしている。一見すると白のよう。けれど太陽の光が当たった瞬間、美しい|白金《プラチナ》の輝きを放つ。 足元まで届きそうなほどに長い髪は、|蜘蛛《くも》の糸のように細かった。 彼は慣れた様子で髪を払いのけ、落ちている|睡蓮《すいれん》を拾った。それを右の手のひらに乗せ、左手で素早く|印《いん》を結んでいく。「──花びらは耳、|蜜《みつ》は息。花粉は|蜂《はち》を誘い、|蝶《ちょう》を|誘惑《ゆうわく》する。花の役目は我を導くこと」 |空《くう》に描くは術。先ほど|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包んでいた花が、今度は彼の力に囲まれる番だった。「|我《われ》、|先々《せんせん》の主なり。そして|我《わ》が声に答えよ。目を開き、全てを知らせよ!」 彼の中性的な|見目《みめ》に負けぬのは、男性にも女性にも聞こえる声である。どちらともとれる|声音《こわね》は花たちを美しく踊らせた。 まるでそれは妓女のよう。花の正体が女性ならば、世の男たちは虜になっていただろう。 そう思えるほどに美しく、丁寧に踊り続ける花は意思を持つかのように、とある場所へと向かった。 町を出て、河の上流へと進む。途中にあるつり橋では、男たちが魚釣りをしていた。 そこからさらに山の方へと向かう。次第に霧が立ちこめ、どんどん濃くなっていった。それでも花たちは風向きに逆らいながら飛び続ける。 空中を散歩す
──何だろうう。すごく懐かしい香りがする。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は重たい|瞼《まぶた》を無理やり開けた。ズキズキと痛む脳を働かせる。ふと、首から上だけが浮いているという感覚に見舞われた。 なぜだろうかと、視線だけを動かす。「──あ、気がついたかい?」 思いもよらぬ声が頭上から聞こえた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は驚きのあまり、|目眩《めまい》を忘れて起き上がってしまう。当然のように視界がぐらつき、ふらりと横に倒れてしまった。「おっと。急に動いちゃダメだよ」 声の主は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体を支える。 ──え? だ、誰? な、何で僕はこの人の|膝《ひざ》で寝てたの? あれ? でもこの人って…… 恥ずかしさと動揺を隠し、声の主の顔を見た。 |宵闇《よいやみ》のように長い黒髪を三つ編みした男だ。女性の黄色い声が聞こえそうなほどに目鼻立ちは整っている。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》とは違い、健康的な肌色をしていた。体格はよく、服に隠されていようとも、大きな肩幅から見てとれる。「……えっと、町で会ったあの人?」 突然声をかけてきて、|人攫《ひとさら》い顔負けに屋根上の散歩を|促《うなが》した。そしてあっという間に姿を消し、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の心に少しだけ疑問を残した男である。 次第に体を|縛《しば》っていた|目眩《めまい》がなくなっていく。|眼前《がんぜん》の男に手を貸してもらいながゆっくりと起き上がった。「ふふ、うん。そうだよ。あの時の散歩はどうだった? 私は、君と初|逢瀬《おうせ》出来て幸せいっぱいだったけどね」 美しい見目に見合わない言動が飛び交う。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の小さな手を優しく|撫《な》でた。瞳をとろけさせながら微笑み、子供を壊れ物のように扱った。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の放った言葉に小首を傾げる。銀の髪はさらりと流れ、大きな目とともに男を|直視《ちょくし》した。 すると男はうっと言葉を詰まらせ、下を向いてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》がどうしたのと尋ねながら男の顔をのぞけば、彼は視線を|逸《そ》らした。そして天を仰ぎ見、子供の両肩を軽く叩く。 「これぞ、|至福《しふく》の時!」 男の頬には嬉し涙が伝っていた。 しかし|華
自身を軽々と抱き、宙を散歩する|全 思風《チュアン スーファン》の姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。 浮遊する彼の足元を見れば、黒い羽が階段を造っている。それを伝って上へと登る様は、まるで宵闇の王のよう。地上にある町を見ようとしても、既に|豆粒《まめつぶ》状態だ。それほどまでに上空へと進んだ|全 思風《チュアン スーファン》は、歩みを止めていった。 山すら視界に入らなくなると、彼は足元にある黒羽根の階段を一度だけ蹴る。瞬刻、階段は地上に近い場所からパラパラと崩れていった。残ったのは二人が立っている部分だけとなる。「……はあー、風が気持ちいいね」 |全 思風《チュアン スーファン》の長い三つ編みが|靡《なび》く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼の黒髪を目で追い、その姿を焼きつけた。 彼の|顔《かんばせ》は美しさのなかに鋭さがある。それは誰も答えることができない、強い眼差しだ。|烏《からす》の羽のように深く、底が見えない。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の視線に気づいた彼は、顔を近づけてくる。彼の長いまつ毛から影が生まれた。女性のようとまでは言わないが、それでも整った顔立ちをしている。 ──本当に綺麗な人だ。どうして僕にここまでするのかはわからないけど……それでもこの人となら、どこまでも行けるんじゃないかって思えてしまう。 彼の姿勢は気高かった。 それでいて柔らかな笑み。 |端麗《たんれい》で何者も寄せつけないほどに|煌《きら》めく姿に、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は声を失った。「うん? どうしたの?」 ズイッと、微笑みながら|華 閻李《ホゥア イェンリー》へ顔を近づける。よく通る声で語りながら子供の|額《ひたい》に一つ、口づけを落とした。 すると、彼の耳を隠していた髪がふわりと|捲《めく》れていく。形のよい耳ではあったが、先が尖っていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からの熱い視線に気づいた彼は、大人っぽい表情のままに口元へ笑みを浮かべる。そして子供の髪を優しく撫で「幸せだなあ」と、平和な時間を満喫していた。「ふふ、どうしたの? 私の顔に何かついているのかい?」「……あ、あの! ……っ!?」 空気の薄い場所で大きな声を出したせいか、|噎《む》せてしまう。支えてくれている|全 思風《チュアン
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の案内によって|辿《たど》り着いたのは、|黄家《こうけ》の屋敷だった。そこは庭も、|敷地《しきち》すらも広大であった。 屋敷の門には二人の男がおり、彼らは暇そうにあくびをかいている。どうやら彼らは門番のようで、腰に剣をぶら下げていた。そんな二人は突然空から現れた|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちに驚く。「……お、お前たち、何者だ!?」 二人の門番は即座に剣を構えた。「おや? 何者って……私はともかく|小猫《シャオマオ》の方は、少し前までこの家に住んでいたんだ。君たちは、それすら忘れてしまったと言うのかい?」 二人の門番の問いに答えるのは|華 閻李《ホゥア イェンリー》ではない。|全 思風《チュアン スーファン》だ。彼は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、記憶力がないのかと悪態をつく。 すると子供が彼の服を軽く引っ張った。銀の前髪を|退《ど》かし、愛らしい見目を彼へ向ける。「|思《スー》、しょうがないよ。ここの人たちは皆、僕の素顔を知らないから」 |妓楼《ぎろう》にいた|華 閻李《ホゥア イェンリー》の元へやってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら、素顔を知らなかった。唯一知っているのは|黄族《きぞく》にして、|黄家《こうけ》の跡取り息子の|黄 沐阳《コウ ムーヤン》だけである。「|黄 沐阳《コウ ムーヤン》は、たまたま僕の素顔を知ったってだけ、だけどね」 その結果として、しつこくつきまとわれてしまったのだと苦く語った。「……そうか。そんな事があったんだね? ああ、君の素顔はとても可愛いからね。どんな男だって落としてしまうだろう。もちろん、この私もね」 人目も|憚《はばか》らず彼は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の細腰を抱く。けれど……「男を落としてどうするの? 楽しくもないよ?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は素で返した。 |全 思風《チュアン スーファン》の表情は一瞬だけ固まる。 それでも|咳払《せきばら》いで誤魔化し、放置されている門番たちへと視線を走らせた。子供へ向けている、|慈愛《じあい》に満ちた眼差しは消えている。 代わりに、鋭く尖った漆黒の瞳が門番たちを襲った。 二人の門番はヒッと、短い悲鳴をあげる。けれど負けん気があるようで、怯えながらも剣を持ったまま彼へと立ち向かった。
|華 閻李《ホゥア イェンリー》を優しく抱きしめ、一人ぼっちに|してしまった《・・・・・・》ことが間違いだったと|訴《うった》える。何度も小柄な子供に向かって、ごめんと謝り続けた。 その男らしい大きな背中と優しくて暖かな腕が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|困惑《こんわく》へと誘う。 子供はどうしたものかと、眉根に弱った感情を乗せていた。 |閉口《へいこう》などと思ってはいないのだろう。むしろ心配してくれて嬉しいのだと|囁《ささや》き、彼の背中に両手を伸ばした。「君は、本当に優しいね」 子供に抱きつく両腕の力が、より強まる。 門番の前で見せた、強気で、誰も寄せつけない気高さ。|飄々《ひょうひょう》としていて掴みどころのない男。それらが嘘のように|全 思風《チュアン スーファン》の全身は弱々しく、|震《ふる》えた。「……えっと、入り口にある|彼岸花《ひがんばな》は番犬みたいなものなんだ」 あぐね続けるわけにもいかないからと、唇が動いた。少しだけ戸惑い、話題を切り替える。 彼は腕を離した。子供の話に耳を傾け、興味深く、|彼岸花《ひがんばな》を凝視する。「番犬? 確かに毒があるけど。ああ……そうか。毒がある花を置いておけば、誰も寄りつかなくなるからね」「うん。僕は自由な時間が欲しかったから、|彼岸花《ひがんばな》を盾にしておいたんだ」 苦笑いしながら彼岸花について伝えた。 |彼岸花《ひがんばな》は美しい。けれど|球根《きゅうこん》部分に毒を持っていた。|彼岸花《ひがんばな》に詳しくない者は、花そのものに毒があると思うのだろう。 その心理を利用して、部屋の入り口へと置いているのだと語った。
|全 思風《チュアン スーファン》の笑みは崩れることを知らない。いつまでも見つめては、ふふっと口元を|綻《ほころ》ばせた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の長く美しい髪を|一房《ひとふさ》指に絡め、くるくると巻いていく。けれど引っ張るわけでもなく、ただ、|眺《なが》めた。するりとほどけていく細い髪を視線だけで追いかける。 「ねえ|小猫《シャオマオ》、|龍脈《りゅうみゃく》などの目に見えぬもというのは、どうやって感じ取れるのか。それを知っているかい?」 |妖《あや》しく|煌《きら》めく銀の髪から手を離し、幼い眼差しに問うた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は迷うことなく首を横にふり、知らないと口にする。「正直な話、私もそれは知らないんだ。空気と同じで見えやしないからね。だけど、これだけは言える」 彼の声が、一気に駆け上がった。隣にいる美しい銀髪の少年を、黒く深い瞳で|注視《ちゅうし》する。「あの村に出た|殭屍《キョンシー》は、確かに君たちが倒した。直後に|龍脈《りゅうみゃく》や|地脈《ちみゃく》も確認してみたけど、正常だった。それは間違いないよ」 まるで見ていたような言い草だ。そして嘘、|偽《いつわ》りといったものはないと言わんばかりに|撃実《げきじつ》な言葉を放つ。 驚きを瞳に乗せる|華 閻李《ホゥア イェンリー》を凝視し、ふふっと子供っぽく笑ってみせた。 これには|華 閻李《ホゥア イェンリー》も|警戒心《けいかいしん》を解くしかなかったようで、肩から苦笑いをする。けれどすぐに笑顔を消し、何もない|空虚《くうきょ》な天井を見上げた。「……そうなると、どうしてまた|殭屍《キョンシー》が現れたのかな? 村人が、なぜ|殭屍《キョンシー》になってしまったのか。それの謎が残るんだよね。僕にはわからない事だらけだよ」
陽が昇りきらぬ早朝、ふたりは|黄家《こうけ》の屋敷を出た。そして陸路にて夔山《きざん》へと向かって歩き出す。 目的地である|夔山《きざん》への道は、陸路と河の二つがあった。けれど河は今日に限って水位が足らず、船を出せないのだと断られてしまう。結果として陸路を選ぶしかなかった。 華やかな町を出てすぐに見えたのは河である。この河は町中に流れているものと同じで、遠くに|聳《そび》える山まで続いていた。 地は草原とはいかないでも、雑草がたくさん生えている。道はかろうじて整備されているようで、砂がひっそりと散らばっていた。道中にはポツポツと家が建っており、畑などもある。「──今日は、とってもいい風が吹いているね」 日中の風をその身に受けながら、|全 思風《チュアン スーファン》は微笑む。長い髪を三つ編みにした姿は、高い身長も相まって人目を惹いた。 行き交う人々が彼の美しい見目に見惚れていく。なかには、頬を赤らめながら彼を凝望する女性もいた。 視線に気づいた彼は女性に微笑みを向ける。けれど隣を歩く|華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を抱き「安心して。君以上に可愛い子はいないから」と、女性に見せつけるように囁いた。 これには女性だけでなく、近くの一軒家に住む者たちまでほうけてしまう。「……僕、男なんだけど?」 近いから離れてと、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は彼を押し退けた。 されど彼は、体格のよい男である。どれだけ力をこめてもびくともしなかった。それどころか、彼に抱きよせられてしまう。「私の事が嫌いかい? 私は|小猫《シャオマオ》の事、大好きなんだけどね」「……いや、好きとか嫌いとかの問題ではないよ?」
動く死体である|殭屍《キョンシー》は、彼らの行く手を阻んだ。それは一体や二体だけではない。次々と現れては群がっていった。 まるで、先へは通さないと言わんばかりに道を塞いでいく。「……ど、どうして|殭屍《キョンシー》がここに!? ここから|夔山《きざん》へは、※五|公里《こうり》はあるはずなのに!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の瞳は不安で押し潰されていった。定まらぬ視線が|殭屍《キョンシー》たちを見張る。|全 思風《チュアン スーファン》に抱かれた体は震え、美しく輝く髪が汗で濡れていった。 そんな子供を抱きしめている彼は、静かに|殭屍《キョンシー》たちを黙視する。「|殭屍《キョンシー》はどこにでも現れる。そんなに珍しくはないんだ。それなのに……|小猫《シャオマオ》、本当にどうしたの?」 子供は震え続けていた。瞳を揺らしながら「どうして、どうして」と、嘆いている。 「|小猫《シャオマオ》、いったいどうし……っ!?」 |全 思風《チュアン スーファン》が声をかけた最中、子供の様子が豹変した。 音もなく立ち上がり、裸足のまま荷台から降りてしまう。彼が静止しようとしても、その声すら耳に入らぬようだった。ふらふらとしたおぼつかぬ足取りで、|殭屍《キョンシー》の群れの前に立つ。「|小猫《シャオマオ》! 何をしているんだ!?」 彼はいつになく慌てふためいた。視点が定まらぬ|華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を掴み、急いで己の背中に隠す。軽率な行動を取る少年を叱ることはなかったものの、舌打ちで苛立ちを表していた。 そのとき、|華 閻李《ホゥア イェンリー》が顔を上げる。眉根は下がり、瞳は|憂《うれ》いている。かさついている小さな唇はピリッと、僅かな音をたてて開いた。
|全 思風《チュアン スーファン》は堂々と正面から|妓楼《ぎろう》の中へと|侵入《しんにゅう》した。普通ならばその時点で誰かが姿を現し、彼へ敵意や攻撃を向けてくるものなのだが……「静かだ」 彼の足音のみが|響《ひび》く。それでも|全 思風《チュアン スーファン》の手には剣が握られていた。 周囲を見渡せば|朱《あか》の|絨毯《じゅうたん》や柱、壁までもが|深紅《しんく》に染まっている。天井には異国の地から取り寄せたであろう|枝形吊灯《シャンデリア》が|眩《まぶ》しく輝いていた。「ああ、本当につまらない」 顔を下に向かせながら、そう、|呟《つぶや》く。三つ編みにした長い黒髪がゆらりと揺れた。それを気にする様子すらなく、ただ|朱《しゅ》の階段を登っていく。 そんな彼の周囲には人の姿をした者たちがたくさんいた。 女は白い|漢服《かんふく》を着、美しい|簪《かんざし》を頭につけている。子供は男女問わず着飾ってはおらず、質素な|漢服《かんふく》を着ていた。男たちは青や水色などの|漢服《かんふく》を着用している。 けれど彼ら、彼女たちは、うんともすんとも言わなかった。黒目の部分は消え、どこを見ているのかわからない白目だけを見開いている。 |瞬《まばた》きすらしない。 呼吸もない。 不気味そのものの、人らしき存在たちだった。「……ああ、これは考えてなかった。|小猫《シャオマオ》の事で頭がいっぱいになっていたな」 そこは予想していなかったなあ、と大笑いする。 剣を|一振《ひとふり》し、道を|塞《ふさ》ぐ者たちを|風圧《ふうあつ》で吹き飛ばした。飛ばされた者たちは壁や柱に体を打ちつける。けれど痛みを感じないようで、小さな|唸《
|全 思風《チュアン スーファン》は自らの鼻を疑った。 彼は死者と生者、そのどちらもを嗅ぎわける能力に自信を持っている。それは間違えるはずがないという絶対的な自信であった。 ──私は|冥界《めいかい》の王だ。その私を|騙《だま》せる者など、そうそういないはず。その私をここまでコケにした奴、か。会ってみたいものだ。 そして殺してしまいたい。そう願った。背景にあるものが何にせよ、大切な子を奪われたのである。|冥界《めいかい》やこことは違う世界のことよりも、それが一番許せなかった。 「……|爛 春犂《ばく しゅんれい》、もしもあんたの言う通りなら、私たちは何を相手にしている? そして、何に馬鹿にされた?」 死者を|統《す》べる王としての怒りは凄まじく、周囲に|強烈《きょうれつ》な突風を|撒《ま》き散らす。 笑う唇の裏にあるのは|静寂《せいじゃく》という名の|怒涛《どとう》。|漆黒《しっこく》を詰めた瞳は|燦々《さんさん》と燃え盛る|焔《ほのお》となった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は彼の変化に驚きを隠せないのだろう。恐怖とは違う、凍えるまでに|冷淡《れいたん》な表情を見せられグッと拳を握った。額から流れる汗は|妓楼《ぎろう》に集まる人々に対するものではない。|全 思風《チュアン スーファン》という人物への警戒の現れだった。 それでも今だけは頼もしい味方である。唯一正常かつ、目的をともにする者であるのだと、|全 思風《チュアン スーファン》に口を酸っぱくして伝えた。「……ああ、そうだったね。私たちの目的はそれだった」 |全 思風《チュアン スーファン》の瞳は|徐々《じょじょ》に落ち着きを取り戻していく。ふーと深呼吸をし、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見やった。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は心の底から肩を落としている。&n
瞳が虚ろになった|華 閻李《ホゥア イェンリー》に、何度も呼びかけた。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》はうんともすんとも言わない。「──|小猫《シャオマオ》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の肩を揺さぶった。 その時である。周囲から|人《・》の気配が消えた。それは文字通り人が、である。屋台を前にして並ぶもの、食べ物を売る者も、しっかりと目の前にいた。けれど彼らからは、|人《・》としての気配がなくなっていた。 ──どういうことだ? 直前まで、普通に人間の気配で溢れていたはずだ。「……いったいどうなって……|小猫《シャオマオ》!?」 考える暇もなく|華 閻李《ホゥア イェンリー》を含む、食品市場にいる者たちが一斉に動きだす。どの人間も|華 閻李《ホゥア イェンリー》と同じく、瞳に光を宿していなかった。そして誰もが体のどこかしらに鎖をつけている。 そんな人たちは食べ物すら放置して、街の北へと歩きだした。「し、|小猫《シャオマオ》!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》を腕を掴み、行動を阻止しようとする。けれど凄まじい人混みのせいで手を離してしまった。 |全 思風《チュアン スーファン》は喉の奥から叫ぶ。|華 閻李《ホゥア イェンリー》を呼び続けながら邪魔をする人々をかき分けていった。 けれどおかしなことに、近づくどころか遠ざかっていく。|華 閻李《ホゥア イェンリー》の姿すら見えなくなるほどに人が増えていっているのだ。おそらく住宅街や|周桑《しゅうそう》など、蘇錫市(そしゃくし)の住人のほどんどが、鎖の言いなりになってしまっているのだろう。 女や子供はもちろん、性別や年齢関係なく集まっていた。「……っ!?」
|華 閻李《ホゥア イェンリー》を包む|彼岸花《ひがんばな》は、少しずつ光を失っていく。根元から枯れ始め、花びらや雄しべたちがハラハラと崩れ落ちていった。けれど床につく前に消えていき、まるで幻でも見ているかのような錯覚に陥る。 同時に、白虎の前肢にあった|血晶石《けっしょうせき》が跡形もなく消滅するのを確認した。「──|全 思風《チュアン スーファン》よ。|閻李《イェンリー》はいったい何をした?」 なんとも言えぬ不思議な現象の場に居合わせた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が問う。彼は全ての術を解除し、眠る|華 閻李《ホゥア イェンリー》につき従う|全 思風《チュアン スーファン》の肩に触れた。 「……正直な話、私にもわからない。だけど白虎の|殭屍《キョンシー》化を阻止し、|血晶石《けっしょうせき》そのものを消し去ったのは、間違いなく|小猫《シャオマオ》だ」 本人の意識かどうかは別として、と語り加える。|爛 春犂《ばく しゅんれい》の手を軽く払い、感情のない瞳で凝視した。けれどすぐに興味の対象から外す。 「どんな理由があるにせよ、|小猫《シャオマオ》が浄化した事に変わりはない」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》に冷めた瞳を向けた。それは他言するなという証でもあった。「……安心せい、|全 思風《チュアン スーファン》殿。このような事、言いふらしはせぬ。言ったところで誰も信じてはくれまいて」「話が早くて助かるよ」 |全 思風《チュアン スーファン》の直前までの全てを敵視するような眼差しは消える。笑顔を浮かべ、暗黙の了解として、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と握手を交わした。 しかしどちらも心の内を見せるようなことはしない。どちらかというと探りあっていた。笑顔で
|華 閻李《ホゥア イェンリー》の背中から|彼岸花《ひがんばな》が生まれた。淡く、蛍のように優しく、それでいて、暖かい光をまとっている。「……っ|小猫《シャオマオ》!?」 いとおしい子へ腕を伸ばして助けようとした。けれど眩しくて直視できない。 |全 思風《チュアン スーファン》も、少し離れた場所にいる|爛 春犂《ばく しゅんれい》ですら両目を閉じてしまうほどだ。 それでも彼は諦めることなく、手探りで|華 閻李《ホゥア イェンリー》の居場所を見つける。子供の細腕を引っ張り、己の胸元へと押し戻した。「|小猫《シャオマオ》!」 未だ、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の背中に浮き出ている|彼岸花《ひがんばな》を睨む。触ろうとしても透けてしまい、剥ぎ取ることすら不可能であった。 それでもうつ伏せになっている|華 閻李《ホゥア イェンリー》の喉で脈を測る。トクン、トクンと、弱いが脈はあった。 目映いばかりに煌めく花は背から頭上へと移動する。両腕に包まれている白い仔猫の姿をした|神獣《しんじゅう》は、苦しそうに鳴いていた。「……はあー」 |全 思風《チュアン スーファン》のため息は、場を落ち着かせていく。|華 閻李《ホゥア イェンリー》を|床《ベッド》まで運び、安心の吐息を溢した。結界を維持したままの|爛 春犂《ばく しゅんれい》に目配せし、疲れと心配からくる汗を拭う。 再び|華 閻李《ホゥア イェンリー》を黙視した。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の瞳を隠すのは長いまつ毛で、ときおり苦痛に蝕まれるように濡れる。それは涙で、|全 思風《チュアン スーファン》は何度も雫を己の指先で拭いた。 ──白虎の身体に浮かんでいた青白い血管が薄れていっている
|爛 春犂《ばく しゅんれい》を加え、二人は蘇錫市(そしゃくし)で起きている出来事を再度話し合う。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は窓際に。 |全 思風《チュアン スーファン》はそんな子供にピッタリとくっつくように、隣へと座ってきた。 そして、情報を持ってきた|爛 春犂《ばく しゅんれい》は二人の前に腰を落ち着けている。 彼ら三人の中心には机があり、茶杯の中には緑茶が入っていた。おやつとして胡麻団子が置かれており、三人は各々で好きな物を選んで食す。そんななか、|華 閻李《ホゥア イェンリー》だけが他の二人よりもたくさん食べていた。「ねえ|小猫《シャオマオ》、さっきあんなに食べてたよね? まだ食べるつもりなのかい?」 胡麻団子を何個も頬張る|華 閻李《ホゥア イェンリー》に、|全 思風《チュアン スーファン》は顔を引きつかせながら問うた。 頬についた胡麻を取ってあげると、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は無邪気に「ありがとう」と言って微笑む。 ──んん! 可愛い! 愛くるしい見目の|華 閻李《ホゥア イェンリー》に幸せを覚え、満面の笑みになった。「──こほんっ!」 緩い現場を見かねた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が、わざとらしい咳払いをする。しまりのない表情をする|全 思風《チュアン スーファン》を睨み、淡々と話を進めた。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》が持ってきた話は、以下の通りである。 [|國《くに》中で白服の男たちが目撃されている] [目撃された場所では|殭屍《キョンシー》が出現し、最悪街や村が滅んでしまう。この蘇錫市(そしゃくし)でも白服の男たちの目撃情報があり、何らかの形で関わっている可能性がある] [|殭屍《キョンシー
太陽が真上に差しかかった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》たちは昼食をとっていた。 辛さが決め手の|麻婆豆腐《マーボードウフ》、高級食材であるフカヒレを使用したスープ。肉汁たっぷりの|包子《パオズ》、卵とニラの色合いが美しい食べ物などもある。箸休めには、ほうれん草の唐辛子炒めもあった。食後のおやつとして月餅、杏仁豆腐なども置かれている。 それらはざっと十人前ほどはあった。「うわあ、美味しそう……ねえ、本当にこれ食べていいの!?」 数々の料理を前にして両目を輝かせる。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は大きな瞳いっぱいに食べ物を映し、頭上を確認した。「うん、いいよ。私も多少食べるけど、|小猫《シャオマオ》は遠慮なくいっちゃって!」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が見上げた先にいるのは|全 思風《チュアン スーファン》である。彼は我がことのように喜びながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》へとご飯を勧めた。 そんな二人は何とも奇妙な姿勢をとっている。どちらも座ってはいた。しかし|華 閻李《ホゥア イェンリー》は床にではなく、|全 思風《チュアン スーファン》の膝上にである。 |全 思風《チュアン スーファン》はがに股になりながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を乗せていた。 そんな彼の頬は絶賛綻び中で、しまりのない笑顔をしている。その姿はまるで、普段は強面だが小動物を愛でる時だけは優しくなるような……何とも言えない緩み具合だった。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の方は、それを当たり前として受け入れている様子。大きくて逞しい彼を椅子代わりに、満面の笑みで箸を走らせていた。 数分後、ものの見事に全てを平らげる。最後に残った杏仁豆腐すらもペロリとお腹の中へと入れた。「&h
そよそよと、窓から冬の風が入る。寒気とまではいかないが、それでも冬という季節の風は身を縮ませるほどには体温を奪っていった。「…………」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は丸くなる。しばらくすると、もぞもぞと動いた。 ──何だろう、暖かい。 眠気を無理やり吹き飛ばし、静かに両目を開けた。「……ふみゅ?」 寝ぼけ眼なまま、体を起こす。眠たい目をこすり、ふあーとあくびをかいた。上半身だけで背伸びする。 外を見れば陽は高く昇っており、部屋の中に光が差しこんでいた。 ──あれ? ここ、どこだろう? 確か砂地で数人と対峙した。その後の記憶があやふやであり、なぜ布団で寝ているのか。それすら疑問となっていた。 小首を傾げ、|床《ベッド》から降りる。裸足で板敷の床を歩けば、ある者たちが目に止まった。部屋の隅で、二匹の動物がすやすやと寝ている。一匹は|蝙蝠《こうもり》の躑躅(ツツジ)、もう一匹は白い毛並みの仔猫だった。 仔猫は身体を丸め、躑躅(ツツジ)は野生を忘れたかのようにお腹を出して寝ていた。 その姿に|華 閻李《ホゥア イェンリー》の頬は緩む。近づいて躑躅(ツツジ)のお腹を撫で、白猫へは恐る恐る腕を伸ばした。「うわ、もふもふだあ……」 仔猫は疲れが溜まっているのか、嫌がる素振りすら見せずに深い眠りに入っている。そんな仔猫の毛はお日様のように暖かく、とてもふわふわとしていた。 ふと、仔猫の前肢に赤い塊があったことを思い出す。仔猫の眠りを妨げぬよう、ごめんねと云いながら両前肢を探った。「&hel
白い毛並みの仔猫は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の腕から逃れようと必死だ。けれど体力がほとんど残っていないようで、すぐにぐったりしてしまう。|華 閻李《ホゥア イェンリー》は急いで宿屋へ戻ろうと踵を返した。 直後、後ろから青い漢服に身を包んだ数人が近づいてくる。彼らは|華 閻李《ホゥア イェンリー》を囲うようにして、腰にさげている剣を抜いた。「……え? な、何!?」 大勢の大人に囲まれた|華 閻李《ホゥア イェンリー》だったが、驚くふりをしながら彼らを観察する。 ──肩と胸の部分に金色の|刺繍《ししゅう》。それに青い服……この人たちって、どこかの貴族の使用人ってところかな。 そんな人たちがなぜ寄ってたかって、見ず知らずの自分を囲うのか。|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそれだけが疑問だった。「──そこの子供! その猫を渡せ!」 剣の切っ先を|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと向け、数人が砂を踏みつける。「猫って……この仔猫の事?」 腕の中にいる仔猫を注視した。仔猫はぐったりとしており、息も絶え絶えである。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》からすれば、仔猫も目の前にいる男たちも、全く知らない者たちであった。けれど仔猫の様子を見ているうちに、放っておくことなどできないと決意する。 仔猫を抱く腕に力をこめ、男たちを睨んだ。そして聞き分けのない子供を演じていく。「い、嫌だ! 僕はこの仔猫の事気に入ったんだ。僕が飼う!」 駄々をこねるだけこねながらも、少しずつ後ろへと下がっていった。「猫、飼いたいもん! 僕、猫好きだもん! ぜーったいに、渡さないからね!」 あかんべーと、普段の|華 閻李《ホゥア イェンリー》からは想像もできないような我が儘ぶりを発揮。地団駄を踏みながら仔猫を抱きしめ、飼うの一点張りに尽きた。 けれど男たちは子供の我が儘ごときにつき合ってはいられないと、剣を容赦なく|華 閻李《ホゥア イェンリー》へと振り下ろす。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は寸でのところで剣による攻撃を回避し、我が儘な子供を演じながら砂浜を逃げ回った。 剣が背に迫れば、泣くふりをしながらしゃがむ。男たちが手を伸ばせば身を低くして彼らの背後に回避し、軽く蹴りを入れた。男たちが倒れていく瞬間を狙い、彼らの肩や背中などを使って側にある木に登っていく。