「でもね、明くん、こんなに早く後悔するなんてね。離婚してからどれほど経ったと思ってるの?」美香の声には明らかに責める調子があった。輝明もその皮肉に気づかないわけではなかった。祖母が自分に怒っていることくらい、よくわかっている。綿と離婚した後、誰よりも心を痛めたのは家族だった。特に美香は、ずっと彼を突き放すようにしてきた。「おばあちゃん、そんなに責めないでくださいよ」輝明は恥ずかしそうに顔をそむけた。美香は冷笑し、「やっと分かってるのね。ま、陸川嬌にすっかり騙されてたわけじゃなかっただけマシかしら!」あまりにも辛辣な言葉に、輝明の胸が締め付けられるようだった。「おばあちゃん!」彼は少し強い口調で言い返した。ここへ来たのは心の支えを求めにきたのであって、叱られに来たのではなかった。彼は立ち上がろうとしたが、美香は冷たく言い放った。「出ていきたいなら行きなさい。でもね、出て行ったらもう二度と私には会えないと思いなさいよ」彼の足は思わず止まった。祖母がこう言っているのに、そのまま行けるはずがなかった。室内は薄暗く、テレビの画面がちらちらと居間を照らしていた。輝明は黙って再び祖母のそばに腰を下ろした。美香は彼の頭を軽く叩きながら、「あんたね、自分でせっかくの幸せを台無しにして」「おばあちゃん、俺が悪かったです」輝明は頭を垂れ、「今はただ、綿ちゃんを取り戻したい、それだけなんです。まだチャンスはあるんですか?」「そんなの、あるわけないじゃないの。女が一度離れたら二度と戻らないものよ。それに、綿ちゃんをあれだけ傷つけたのに。諦めなさい」美香は鼻で笑った。彼女は綿が大好きだが、やはり女性の立場からして彼女を傷つけるわけにはいかないと思っていた。「もし私が桜井家の人間だったら、二度と娘をあんたのもとに戻そうなんて思わないわよ。難しいと思いなさい」美香は淡々と告げた。「おばあちゃん、どうか俺を助けてくれませんか?」輝明は、美香をじっと見つめた。こんな無力な気持ちを抱えるのは初めてだった。美香は小さく笑って、「今になって助けてほしいだなんて言うの?離婚しないように何度も言ったとき、あんたは私に何て言った?『俺のことは放っておいて』って」「おばあちゃん、俺が間違ってたんです」彼は再び同じ言葉を繰り返した
男は黒いスーツを着て、その上に黒いコートを羽織っていた。手に持ったタバコの煙が風に乗って漂い、消えていく。通り過ぎる若い女性たちは、何度も彼に視線を向け、急いでチラッと見た後、足早に立ち去っていった。綿は眉をひそめた。その時、彼がちょうど顔を上げ、二人の目が合った。綿は身を翻し、研究所に戻ることにした。いっそのこと、資料でも読み続けていた方がましだと思ったからだ。「綿」後ろから輝明の声が聞こえてきた。綿は聞こえないふりをして、そのまま歩き続けた。「待ってるよ」彼が言った。その言葉に、綿は足を止めざるを得なかった。振り返って輝明を見つめると、彼が本当にここで待ち続けるだろうと確信できた。綿は少し苛立ちながら言った。「あなた、ただ私の日常生活を邪魔してるだけよ」「ごめん」彼はそれだけを静かに口にした。その一言に、綿は思わず笑ってしまった。あれほど「ごめん」など言わなかった彼が、今ではこの「ごめん」を盾にしているようだった。綿が思わず文句を言おうとしたその時、もう一人がこちらに近づいてきた。「明くん、いたんだな」炎が少し驚いた顔で眉を上げ、輝明を見た。綿は額に手を当てた。これはまた面倒な展開だ。陽菜はそれを面白そうに眺め、「あら、バツイチの女もなかなか人気あるんだね」と口元に冷たい笑みを浮かべた。綿は鋭い目つきで陽菜を睨みつけ、皮肉な調子で言った。「残業したいの?望むならいくらでも満たしてあげるわ」陽菜は冷ややかに鼻で笑い、「あら、イライラしちゃったの?バツイチの女なんだし、ムキになることないでしょ?」「バツイチで何が悪いの?あなたより優秀なのは変わらないでしょ。そんな風に他人を噂してたら、舌が腐るわよ?」綿は無表情のまま、冷ややかに言い返した。陽菜が目を細めると、綿は続けて言った。「気をつけなさいよ、背後には悪霊がいるかもしれないわよ。ずっとついてくるかもね」陽菜は一瞬たじろぎ、彼女は特にそういったものが苦手だったのだ。綿がまさに彼女の一番の恐怖心を突いてきたことに、陽菜は耐えきれなかった。「この卑怯者!」陽菜は小声で毒づいた。綿はもう陽菜に構う気も失せていた。陽菜は悔しさを噛み殺しながら、肩の見えない悪霊を払う仕草をし、足早に去っていった。輝明と炎の鋭い視線が自分に
綿が周りを見渡すと、職員たちはすでに興味津々でこちらを見つめていた。まるで見世物のように観察されていることがわかり、彼女は観念して炎に言った。「わかったわ、映画に付き合うから、早く行きましょう」そう言うと、綿は足早に炎のほうへ向かった。この様子に、輝明は焦りを隠せなかった。「何事にも順番ってものがあるだろう?どう考えても俺が先に来たんだから!」と、声を荒げた。炎は彼をちらりと見て、「先に来たってどういうこと?到着した順番って意味?でも昨夜、すでに綿ちゃんと映画の約束をしてたんだけど」「昨夜……?」輝明は一瞬言葉を失った。昨夜、綿はずっと食事をしていて、その後は彼の車に乗っていた。炎はいつメッセージを送ったのだ?帰り道か、それとも家に着いた時か?こんなに遅くなっていたのに、このくそ野郎はまだ綿にメッセージを送っていたのか?輝明は炎を睨みつけ、奥歯を噛みしめながら拳を握った。この男、本気で彼女を口説くつもりなのか?綿は二人の間の火花を感じ取り、すっと炎の腕に自分の腕を絡めると、軽く微笑んで輝明に言った。「高杉さん、怒らないで。あなたが嫉妬するほどの関係ではありませんから」その一言に、輝明は奥歯が軋むほどに悔しさが込み上げた。炎の目の前で自分に「嫉妬する資格もない」と言うとは、明らかに挑発しているのではないか?さらに彼の視線の先では、綿が親しげに炎の腕に手を添えていた。輝明は冷笑し、「俺を怒らせるためだろ?」綿は軽く肩をすくめ、「深読みしすぎよ。本当に映画に行くだけだから、どうぞご自由に」と言い放つと、顔を上げて炎に「行きましょうか?」と尋ねた。炎が軽くうなずき、自分の車の方向を指さすと、輝明は何か言いたげな顔をしていたが、喉に詰まって言葉が出てこなかった。彼は目を細め、心の中でつぶやいた。「映画な、わかった。よし、俺も行くぞ」そう決意すると、輝明もすぐに自分の車に乗り込んだ。綿は車内で炎と一緒にどの映画を観るか話し合っていたが、映画館の地下駐車場に着くと、後ろから誰かがついてきているのに気づいた。振り返ると、そこには堂々と歩いてくる輝明の姿があった。彼は手をポケットに入れたまま、隠れる素振りもなかった。綿は目を細め、何をするつもりかと怪訝に思った。炎も輝明に気づき、二人でエレベーター
「ありがとう」綿は輝明に淡々と微笑んで言った。「PayPayのID教えて。代金を送るから」「俺が奢ったんだよ」彼はそう言い返した。綿はすぐに言い返した。「たかがミルクティーよ。自分で買えるわ、あなたに奢ってもらう必要なんてないわ」「綿、そんなにとげとげしくする必要あるか?ただのミルクティーだろ?」輝明は苛立たしそうに言った。「仮に復縁できないとしても、友達にはなれるだろう?別に敵対しなくてもいいじゃないか?」「むしろ敵同士でいたいくらいよ」綿は淡々と微笑んで言った。輝明は言葉に詰まった。「いいから、QRコードを出して」彼女はさらに言った。どうしてもこのミルクティー代は返したいのだ。ちょうどその時、炎が戻ってきて、「チケット取れたよ。さっそく行こうか?」と声をかけた。綿はうなずいたが、輝明がQRコードを出そうとしないため、もう一杯同じものを注文することにした。「すみません、さっきと同じものをもう一杯、あちらの方にお願いします」そう言って輝明を指さし、綿は炎と共に立ち去った。輝明はその場に取り残され、顔が青ざめるほどの怒りがこみ上げてきた。彼は立ち去ろうかとすら思ったが、思い直してその場に踏みとどまった。祖母の言葉が頭をよぎったのだ。——綿ちゃんを取り戻したいなら、心を込めなさい。輝明は目を閉じ、深く息をついた。「心を込める……か」彼は映画館のカウンターへ向かい、スタッフに「さっき入場した映画の後部座席のチケットを一枚お願いします」と頼んだ。スタッフはすぐにうなずき、「承知しました、高杉様」と微笑んだ。映画館の中。綿と炎は席に座り、綿はミルクティーを飲みながら、玲奈からのメッセージに返信していた。玲奈「え!商崎炎と映画を観に行ってるの!?それに高杉輝明も来てるって?!うわ、まさに修羅場じゃん!私も行きたい!」綿はため息をつきながら思った。玲奈はどこまでも好奇心旺盛で、いつもこんな調子なのだ。綿がちらっと隣を見ると、炎もメッセージを打っていたが、内容は彼女と違って仕事の連絡のようで、真剣な顔つきだった。彼女はふと炎の顔を見つめた。これほど忙しいのに、わざわざ時間を作って映画に付き合ってくれるなんて……綿は一瞬、心の中で彼に感謝を感じつつ、再び玲奈へのメッセージに戻った。
仕事はいつでも片付けられる。でも、綿と映画を観る時間は限られているから。炎は綿の顔を見つめ、その瞳にはまっすぐな思いが浮かんでいた。心から、ただ一緒に映画を観たいという気持ちが伝わってきた。綿はなぜか胸がきゅっとなり、微笑んで「ありがとう、炎くん」と言った。自分が大切にされていると感じたからだ。「何がありがとうなの?」炎が不思議そうに尋ねる。「ううん、ただ、映画を観ることが、ただの映画じゃないって思えるから」それは二人の良い関係を確かめられる時間でもあった。炎も微笑んで「じゃあ、ひとつ聞いてもいい?」と言った。綿はうなずいた。「明くんと、映画を観たことってある?」映画のスクリーンが明るくなり、二人の顔が淡く照らされる。綿は彼を見つめ、少し考え、「大学の頃に何回かね」と答えた。「誘ったのはどっち?」炎が尋ねる。「もちろん私よ。あの人、自分からは絶対に誘ってこないもの、傲慢な人だから」綿は笑いながらミルクティーを一口飲んだ。「いや、違うかも」と綿は続け、「たぶん、ただ私のことを好きじゃなかったんだと思う」もし本当に好きなら、何をしてでも会いたくなるはずだから。炎はそんな綿をじっと見つめ、切なさが胸に湧き上がってきた。綿が輝明を好きだったことを笑う気持ちは全くなく、むしろその勇敢さを尊敬していた。彼女は本当に……何て勇気があるのだろう、と。相手は輝明だ。一体どれだけの人が、彼に近づこうと本気で思えるだろうか?多くの人は遠くから見つめるだけだろう。でも綿は違った。好きになり、行動に移し、そして彼を手に入れたのだ。「俺も君みたいになりたいな」炎は静かに口にした。綿は驚いて顔を上げた。「え?」「どんなことがあっても諦めず、君を手に入れるんだ」炎は綿の耳元で小さな声で囁いた。綿は微笑んで「それで私みたいに傷つくことになるの?」と返した。「俺は傷つくのなんて怖くないさ。恋愛なんて、得ることもあれば失うこともある。努力して得られた結果なら、たとえ失敗しても後悔はしないよ」炎は腕を組んで答えた。なぜか、そんな炎からは少年のようなまっすぐなエネルギーが感じられた。まるで世の中をまだよく知らない純粋な子供のように。白紙みたいな人だ。「炎くんって本当に子供っぽいわね」綿は小声で茶化
綿は炎をじっと見つめ、この問いについて少し真剣に考えた。「そうは思ってなかったよ」と彼女は答えた。本当だった。まだ輝明と結婚する前、彼女はM基地で幾度も命がけの戦いを経験してきた。たかが血まみれの男で怖気づくような自分ではない。綿はふと考えた。この人生で本当に怖いものは何なのだろうか?以前は、輝明が自分を愛してくれないこと、そして彼が結婚を拒むことが何よりも怖かった。でも今は、家族に何かが起こることや、自分が幸せを手に入れられないことの方がよほど怖い。人は、苦い経験を経てようやく成長するものなのかもしれない。「そうだよ、君は怖がらない。だから、ますます君のことが好きなんだ」炎は綿の耳元で優しく囁いた。綿は微笑んだ。「でも、炎くん。私は君の親友の元妻よ」「それが何だっていうんだ」「友情はどうするの?」綿は不思議そうに尋ねた。「友情と恋愛は別物だよ」炎はあっさりと言い放った。綿は、もし炎が本当に彼女を口説くつもりなら、輝明と対立する覚悟をしなくてはいけないことを理解していた。輝明は、些細な妥協すら許さない人だからだ。「さあ、映画を観ましょう」綿は微笑んで話題を切り替えた。炎も「うん」と応え、二人は再びスクリーンに目を向けた。コメディ映画は軽快で、綿も笑えるシーンに思わず声を出して笑ってしまった。こうしてリラックスして過ごすのは久しぶりだと感じた。この数年間、自分を追い詰めるばかりで、もうすっかり疲れ果ててしまっていた。あの頃に戻りたいかと聞かれたら、今の自分ならはっきり「戻らない」と答えるだろう。戻らない。絶対戻らない。面白いシーンで、二人は顔を見合わせ、自然に笑いながらその場面について話していた。ところが、綿はふと、後ろの席から誰かが椅子を蹴っていることに気づいた。特に、炎に近づいたときにだけ蹴られるような気がした。最初は子供か何かかと思って気にしていなかったが、今度は炎の椅子まで蹴られるのを感じ、二人は思わず振り返った。その瞬間、スクリーンが少し明るくなり、後ろの席に座る男の険しい顔が浮かび上がった。綿は一瞬言葉を失った。炎も眉をひそめ、「明くん?」と驚いた声をあげた。彼は映画に入っていないはずだったし、二人はいつの間に入ってきたのか全く気づいていなかった。
映画の面白い場面も、もう笑う気になれなかった。手にしたミルクティーも、甘さが感じられない。ただ妙に苛立つばかりだ。綿が後ろを振り返ると、輝明がじっと彼女を見つめていた。彼は映画を観るためではなく、完全に監視するつもりでここに来ていた。この男は本当に奇妙だ。以前、何度も一緒に映画を観たいと誘っても「忙しい」「映画は好きじゃない」と言って断っていたくせに。今になって、彼女が他の人と観ていると知るや、わざわざ追いかけてきたのだ。綿は彼の存在に気を取られないようにしたが、彼の視線があまりにも熱く、落ち着かない。とうとう、綿は席を立ち、そのまま映画館を出て行った。「あ、綿!」炎も慌てて立ち上がり、後を追った。輝明も二人が出るのを見て、仕方なく後を追いかけた。エレベーターの前、綿の左右に炎と輝明が立ち、一歩も譲らない態勢だ。綿は心底うんざりした。「ねえ、二人とも……」門番みたいにそこに立たないでくれる?内心では、もうどうしようもない気持ちが膨らんでいた。「せっかくの映画を邪魔されてしまったよ」炎は少し不満そうに言った。綿は輝明を横目で見やり、嫌悪感を隠そうともせずに言った。「高杉さん、ずいぶん暇そうですね?」「すごく暇だ」彼は素っ気なく返し、無愛想な表情のままで冷ややかな目を向けた。「前はすごく忙しそうにしていたのに、どうして急に暇になったんですか?残業はもう必要ないんですか?会議は?出張もないんですか?」これらの言葉は、かつて彼が彼女の誘いを断る時に使っていた口実そのものだった。輝明は言葉に詰まり、答えられなかった。炎がすかさず、「へえ、明くんってそんなに忙しかったんだ。奥さんが誘っても残業や会議を優先するなんて、すごいね。俺だったら、どんなに忙しくても、妻のためならすぐに帰るけどな」と、さらっと茶化した。輝明は冷ややかな目で炎を睨みつけ、まるで刃のような視線を投げかけたが、炎は全く意に介さず、さらに茶っ気を込めて続けた。「お姉さん、人って本当に比べるとがっかりしちゃいうよね。俺みたいに礼儀正しい人は奥さんすらいないのに、彼みたいに不愛想な人が結婚して一度離婚まで経験してるなんて!本当に、同じ過ちを繰り返しちゃいけないよ!」輝明の顔は、限界まで黒ずみ、その存在感が怒りでみなぎってい
エレベーターのドアが開き、綿が炎を呼び入れたその瞬間、輝明は自分の負けを認めざるを得なかった。自分がしたことは、ただ綿の気を引きたいがために、ピエロのように無様な姿をさらしていただけだと痛感した。綿には、彼に気を向ける時間など一秒もなかった。輝明は彼女の横顔を見つめ、エレベーターのボタンを押すその指先に目をやった。心の中で問いかける——もし今、外に立っているのが自分なら、彼女は同じようにドアを押さえて待ってくれるだろうか?きっと答えはわかっている。——いや、きっと待たない。炎がエレベーターに乗り込んだ瞬間、輝明は思わず苦笑した。綿はそんな彼に一瞥もくれなかった。この瞬間、彼は初めて、その心の痛みと無力感を理解した。綿は何度も、同じ気持ちを味わってきたのだろう。特に嬌と自分が同じ場にいたとき、きっと彼女も同じように傷ついていたはずだ。だから今、自分には騒ぎ立てる資格などない。ただ我慢するしかなかった。「映画も観れなかったし、これから食事でもどうだい?」炎はため息をつき、少し残念そうに綿に提案した。「いや、今日はもうやめておくわ。疲れたから帰る」綿は淡々と答えた。これ以上、二人と一緒にいるのも疲れた。自分は遊び道具ではないのだ。「でも、俺が誘ったんだからね。ちゃんと楽しんでもらえなかったのは俺の責任だよ。近くに美味しい店があるんだ。食べ終わったらすぐ送っていくから、どうかな?」炎が懇願するように尋ねた。綿は時計を見て、申し訳なさそうに断った。「ありがとう、炎くん。でも、もう本当にいいの」「怒ってるんじゃないの?」炎は気になって聞いた。「本当に怒ってないわ。私、そんなに小さい人間じゃないから」綿は少し困った顔で答えた。「じゃあ、一緒に食事しようよ」炎はそれでも諦めなかった。綿はただ黙って炎を見つめた。彼は、彼女が疲れ切っているのをわかっているのだろうか?彼女がこの場から早く立ち去りたいと思っているのを、感じ取れているのだろうか?炎も彼女の表情からそれを読み取り、ようやく言葉を飲み込み、それ以上は強引に誘わなかった。エレベーターが1階に到着すると、綿は無言で早足に出ていった。炎は彼女を見送ろうとしたが、彼女が振り返り、「二人とも、ついてこないで」と言うのが聞こえた。そう言い残して、彼
やはり宴会の場では、一杯くらいお酒を飲んだ方が楽しいものだ。 綿もそう思い、少しぐらいならとグラスを手に取った。玲奈と軽く乾杯して一杯飲むと、続けて二杯目、三杯目と手が伸びてしまった。 「もう一杯」綿はすでに三杯飲み終えていた。 その様子を見た玲奈は、少し後悔の念を抱いた。 こんなことなら、ジュースのままでよかったのに…… その頃、電話を終えて戻ってきた輝明は、綿がバーでバーテンダーにお酒を注文している姿を目にした。 一方で、玲奈はアシスタントに呼ばれ、サービススタッフに「綿にお酒を出さないで」と伝えてから、後方へと向かっていった。 実際、綿は酔っ払っていたわけではない。ただ、少しお酒に対する食欲が増して、もう少し飲みたい気分だっただけだ。 しかし、玲奈が止めたのなら、これ以上飲むつもりはない。 綿は椅子に座りながら退屈そうにくるくると回っていた。 毎日こんな風に飲んで食べてばかりだったら、きっと飽きてしまうわね。 「桜井さん、お水です」 バーテンダーが水のグラスを差し出した。その隣の席には、いつの間にか一人の男性が腰を下ろしていた。 綿はちらりと横目で見たが、そこにいたのは見たくもない顔だったので、すぐに目を閉じて無視を決め込んだ。 見なければ存在しないも同然。 「何杯飲んだんだ?」 彼が声をかけた。その声は低く、酒を飲んだせいか少しかすれていた。 綿は目を開けて彼の顔を見た。黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイを合わせた姿はきちんとしていて、その引き締まった腰が印象的だった。 ――輝明、この人はいつだってスタイルがいい。服を着ればスリムに見え、脱げば筋肉質な体つきが露わになる。大学時代、彼はバスケットボール部の主力選手だった。その活躍ぶりは群を抜いていた。 大学卒業後、彼と結婚してからは、週末に姿を見かけない時は大抵ジムにいるか、朝ランニングをしているかのどちらかだった。規則正しい生活を送る人だった。 輝明は、綿がぼんやりと自分を見つめ、何も言わないのを見て、不快感を隠せなかった。 数秒間の沈黙の後、彼は不満げに口を開いた。 「綿、俺と話すのがそんなに嫌か?友人として座って話すくらいのこと、してくれてもいいだろう?」 「私はも
「大スターと財閥の御曹司、これって完璧な組み合わせじゃない?韓国ドラマだとこういうのよくあるよね。例えば、大スターとボディガード、大スターと家政婦のイケメン息子、大スターと……」 綿の話が盛り上がりかけたところで、玲奈が呆れた視線を送り、それをピシャリと遮った。 綿はヘヘっと笑い、「冗談だよ」と言いながら続けた。 「実際、あなたが岩段みたいな地位のある人と一緒になるのは望んでないの」綿は秋年の姿に視線を送った。 彼のような人は、玲奈を十分に支える時間を持つことができない。 玲奈の仕事はもともと多忙を極める。さらに秋年の仕事も忙しければ、二人は一年のうちに数えるほどしか会えなくなるだろう。 そして、もっと重要なのは、二人の「ファン」の存在だった。 玲奈には多くのファンがいて、秋年にも同様に、社交界の令嬢や職場のパートナーといったファンがいる。 二人は一見すると似合いそうだが、違いも多く、一緒にいることで生じる問題は片手では数え切れない。 「綿ちゃん、私はもともと岩段と付き合うつもりなんてないわよ。だから、そんなこと心配しないで」玲奈は穏やかに言いながら、遠くで友人と談笑する秋年に一瞥を送った。 彼女のその一言に、綿は少し肩の力が抜けた。 彼女の結婚生活がすでにめちゃくちゃだったため、玲奈まで同じ道を歩んでほしくなかったのだ。 今は安定したキャリアがあるのだから、それを優先した方がいい。 「綿ちゃん」 玲奈が静かに名前を呼んだ。 綿が顔を上げると、玲奈が真剣な目で尋ねた。 「もしかして、高杉に傷つけられたことがトラウマになってる?」 綿は一瞬黙り込んだ。 「トラウマになっていない」と言えば嘘になる。でも、「完全にトラウマ」かと聞かれると、それも違う気がする。 たかが一人の男のせいで、一生引きずるような傷を負うなんて、そんなことは許せない。 「違うわ」綿は真剣に答えた。「私はただ、女って本当に大変だと思うの。いつも一番深く愛してしまうのが女だから。私が願っているのは、すべての女が恋の渦に巻き込まれることなく、適切な時に愛し、そして相手が自分を愛していないと分かった時には、自分をすり減らさずに関係を清算する勇気を持つこと」 女は水。 幼い頃、母
綿は手にしていたグラスを一瞬止め、軽くため息をついた。 「やらなきゃいけないことがたくさんあるから、少しずつ片付けていくしかないよ。おばあちゃんの状態を考えたら、私が研究所を引き継がないと、おばあちゃんはゆっくり療養なんてできないだろうし。それに、職場のことはどうせ父がまだ元気だから大丈夫」 「昨夜、おばあちゃんの腕が動かないのを見た時、本当に辛かった」玲奈は心から千恵子を心配していた。「おばあちゃん、普段はあんなに強い人なのに。自分の腕が思うように動かないなんて、どうやって耐えてるんだろう?」 綿も同じ気持ちで、千恵子への思いに胸が締め付けられていた。 心が痛むのは、千恵子の腕の不調そのものではなかった。 事件が起きてから今日まで、千恵子は最初の夜に一度だけ涙を流したきり、それ以降は一切泣かず、愚痴ひとつ言わず、負の感情を表に出したことがなかった。 まるで何事もなかったかのように振る舞う彼女の姿が、逆に恐ろしく思えるほどだった。 千恵子は確かに強い人だが、果たしてそこまで強くいられるものなのか。 それとも、彼女の感情は誰にも見せないところで消化され、彼女自身がそれを家族には見せまいとしているだけなのだろうか。 綿はそんなことを考えたくなかった。 だからこそ、彼女は全力で千恵子の研究所を運営していこうと決めていた。 「玲奈、私にはどうすることもできない」綿は玲奈に向かってそう言った。 彼女には家族のために何かをしなければならない。社会のため、そして自分自身のために、前に進む必要がある。 長い道のりを一歩ずつ進み、霧を切り開いていかなければならないのだ。 玲奈は綿の手をそっと握りしめ、彼女を思いやる気持ちを込めた。 前半生がどれだけ幸せだったか、後半の道のりがどれだけ険しくなるのか。 心の中で玲奈は綿を「馬鹿だ」と思わずにはいられなかった。 ――自分をこんなに追い込んでしまって。 彼女はもともと優秀な医師になれたはずだし、輝明と幸せな家庭を築いて「高杉夫人」になれたはずなのに。 玲奈は綿のために、運命の不公平さを恨めしく思った。 「玲奈、恋愛について考えたことある?」 綿は突然尋ねた。 玲奈は即座に首を振った。「仕事が安定してるとはいえ、
「岩段さん、森川さん、写真を一緒に撮らせてもらえませんか?」 一人の来客が近寄り、控えめに尋ねてきた。 二人は笑顔でうなずき、「ええ、どうぞ」と応じた。 このような宴会に参加できるのは、地位のある人ばかりだ。写真撮影を求められるのも当然だろう。 綿は二人が写真撮影に応じている間に、目立たない場所に移動して一人の時間を楽しむことにした。 今日この場に来た目的は、主に秋年の気持ちを観察するためだ。 玲奈は大らかで鈍感な性格なので、誰かが彼女を好きでも、相手がストレートに「好きだ」と言わない限り気づかないだろう。 その頃、輝明と炎は、綿が一人で座ったのを見て、明らかに何かアクションを起こしたそうな様子を見せていた。 綿には二つの視線が自分に向けられているのが分かった。それはまるで火を灯したように熱いもので、他の誰の視線とも違った。 少しだけ首を動かして振り返ると、案の定、輝明と炎がそれぞれ酒を片手にこちらを見つめていた。 綿はそんな視線が好きではなかった。まるで自分が獲物として狙われているようで不快だった。 彼女は獲物にされるよりも、むしろ狩人となって自分の獲物を探したいタイプだった。 そこで、綿は会場を見回して「獲物」を探し始めた。 しかし、会場を一周してみても、結局一番目を引くのはあの三人だった。 ――雲城四大家族の三人の後継者、輝明、秋年、そして炎。 こういった宴会には通常、陸川家も招かれるが、今日は易の姿がなかった。 綿はそれが、嬌と輝明の不和が原因だろうと考えた。陸川家もメンツを潰されることを恐れているのかもしれない。 輝明のような男が嬌に振り回されていると知られたら、彼の評判を傷つけるだけだ。 「高杉社長」突然、女性の声が輝明を呼んだ。 綿はその声に反応して、何気なくそちらを見た。 彼女はその女性を知っていた。30歳ほどで、輝明より少し年上だ。 彼女は昔から輝明を評価し、彼を狙いたいと思っていたが、年上であることを気にして、行動に移せずにいた。 綿が彼女を知っているのは大学時代の出来事からだ。当時、その女性が大学の正門で輝明を訪ねてきたのを目撃したことがあった。 その時、友人たちが冗談を言って、「輝明、年上の女性にスポンサー
秋年は足を踏み鳴らしながら苛立ちを隠せなかった。 二人はそんな彼をじっと見つめるだけで、何も言わなかった。 秋年は複雑な眼差しを浮かべる。 「恋愛なんて、抑えられるものじゃない。ただ、好きだと思ったら進むだけだ」炎は輝明に視線を向けながら続けた。「綿が明くんの元妻だというのは事実だけど、その前に彼女は桜井綿なんだ」 だから、彼には綿を口説く権利がある。 輝明の友人だからといって、綿を好きになってはいけないという理屈はどこにもない。 「じゃあ、俺たちの関係はどうなる?」秋年は問題の核心を突くように、真正面から問いかけた。 次の瞬間、輝明が静かに言った。「俺は気にしない」 秋年はその言葉に頭を抱えそうになった。 ――気にしないだと?そんなはずがない!輝明ほど感情を内に秘める男はいない。彼ほど気にする人間はいないのに、ただ言わないだけだ。 「炎、お前の言う通りだ。確かに彼女は俺の元妻であり、それ以前に桜井綿だ」だから、炎が綿を狙うのは構わない、と輝明は淡々と言い放った。彼は全然怒っていない。だが、秋年の言ったように、彼ら三人の関係はどうなるのか――これは避けられない難問だ。 「公平に競争しよう」輝明は炎を見つめながら、眉をひそめた。 秋年はその言葉に驚愕した。 ――本当に公平に競争なんてできるのか? 「じゃあ、俺たちの間でプライベートの集まりとか、今後もできるのか?」秋年は冷たい口調で尋ねた。 彼はどちらの友人も失いたくなかった。この利益優先の世の中で、心を許せる友人を二人も持つのは貴重なことだったからだ。 「俺たちがどうなろうと、秋年、お前には関係ないことだ」炎は秋年を見つめながらきっぱりと言った。 秋年は眉をひそめ、内心でますます苛立ちを募らせた。 ――もう勝手にやってくれ! その時、綿と玲奈が後方から姿を現した。 玲奈は新しいドレスに着替え、より端正で優雅な雰囲気をまとっていた。 秋年は、もう二人のやり取りに付き合う気を失い、迷わず玲奈の元へ向かった。 「いいね、さっきのよりずっと似合ってる」秋年は玲奈を褒めた。 玲奈は薄く微笑み、「ありがとうございます、社長。社長が気に入ってくれるならそれでいいです」と、どこか作
「綿、もう一回呼んでよ」炎は綿の後ろをついて歩きながら、どこか甘えるような口調で言った。 綿は彼を鋭く睨みつけ、「私は子供っぽい男は好きじゃないの」ときっぱり言い放った。 ――甘えたって無駄よ、甘えるだけ無駄なの。 炎はため息をつき、「綿、あんまりストレートすぎるのもどうかと思うよ」とぼやいた。 綿は彼に笑顔を向け、「じゃあ、ストレートじゃない子を探せば?」 「それは無理。だって、綿じゃない」炎は眉を上げ、得意げに口元を引き上げてみせた。 綿は一瞥しただけで、何も言わずにそのまま玲奈の元へ向かった。 少し離れたところで、秋年は炎のあまりにも露骨なアプローチを見て、皮肉たっぷりに呟いた。「くだらない奴だな」 その隣で、輝明の顔は明らかに黒ずんでいた。 ――自分の親友が元妻を口説く様子を見せつけられる気持ち、分かるか? ――ふざけるな、なんてこった。 しかも最悪なことに、炎は綿をからかい終わった後、平然と戻ってきて、輝明に声をかけてきた。 「明くん、来てたのか」 炎は秋年の隣に座り、手に取ったグラスを揺らした。 輝明は目を細め、どんなトーンで話せばいいか分からずに黙り込んだ。 秋年は二人の間に漂う緊張感を感じ取り、内心で溜め息をついた。 ――ほらな、親友の元妻を好きになっちゃダメだって言っただろ。 ――結局巻き込まれるのは俺なんだよ! 秋年は咳払いをして、二人の妙な関係には関わらないよう、静かに輝明の右側へ移動した。 これで輝明と炎が正面から向き合える。 と思いきや、炎はまたしても酒を取りに行った後、秋年の右側に戻ってきて座った。 「明くん、俺が綿をアプローチしても、怒ったりしないよね?」 その一言に、秋年は心の中で叫んだ。 ――俺、二人の遊び道具か何かですか? ――そもそも、その質問失礼だと思わないのか? 輝明は冷たい視線を炎に向け、手にしたグラスを握りしめた。 秋年は、輝明が爆発しそうだと察し、すぐに間に入ろうとしたが、その時輝明が静かに笑った。「怒るわけないだろ」 秋年は目を丸くした。 ――聞き間違いか?輝明が「怒らない」って? ――あんなに大らかな男だったっけ? 輝明は視線を前方に向け
綿の装いは至ってシンプルだった。 体のラインを美しく見せる黒いタイトなワンピースに身を包み、会場に入るとコートを脱いでサービススタッフに預けた。 炎は綿の姿を見た瞬間、口元に微笑みを浮かべた。 秋年はその様子を目にし、幽かに視線を送りながら頭を押さえた。 ――まったく恋愛ボケめ。 「綿!」炎は綿に歩み寄り、親しげに声をかけた。 「炎くん」綿は軽くうなずいて挨拶した。 「何か飲む?」 炎が尋ねると、綿はすぐに首を振った。 「いらないわ。昨晩どれだけ飲んだか、あなた知ってるでしょう?」 炎は彼女の言葉に微笑みを浮かべた。 ――昨晩の酔った綿。思い出すだけで可愛い。 特に心に残っているのは、綿が彼を送り出す時の光景だった。 「運転気を付けてね!絶対にゆっくり運転して!無事に家に着かなかったら、それは私たちの間接的な殺人だからね!」 車の窓を絶対に閉じさせずに言い続ける綿。 炎は仕方なく、「運転手がいるから、俺は後部座席だよ」と説明すると、ようやく綿は目をこすりながら落ち着いて彼を見送った。 このことを綿に話すつもりはない。彼女が知ったら、きっと恥ずかしくて彼とまともに話せなくなるだろう。 今の綿はまるで小さな女王のように堂々としているが、酔っ払うと幼い子供のように無邪気で特別に愛らしい。 「私はこれにするわ」綿はレモネードを手に取った。 「随分あっさりしてるな」炎は炭酸水や何かもう少し華やかな飲み物を選ぶと思っていたので意外そうに言った。 「今日は私の大スターさんを守るために来たの」綿は小声で炎に告げた。 「どういうこと?ここはこんなに安全なのに、何を守る必要があるんだ?むしろ俺が君を守ってあげようか?」炎は柔らかく微笑み、綿を見つめた。 おだてても無駄よ、この年下くん。綿は唇を尖らせ、彼の軽い誘いをかわした。 「岩段秋年がどうもおかしいの」綿は正直に炎に話した。 炎は腕を組み、「秋年が森川さんに対して、ってこと?」と確認するように聞いた。 「そう」綿はうなずいた。 やっぱり自分が惚れた女だ、と炎は思わずそう思った。――彼女が指摘する通り、確かに秋年は玲奈に対して普通ではない。 炎自身も同じように感じていた。
【本日、芸能界の最新ニュース玲:森川奈が正式に岩段グループの全ブランドアンバサダーに就任!森川玲奈は岩段グループ全線のアンバサダーを務める初の女性芸能人に】 【森川玲奈と岩段秋年が契約締結、二人のツーショットが話題に。数日前から二人の恋愛報道が浮上していた】 【森川玲奈の生写真が公開、美しすぎる!】【森川玲奈と岩段秋年はお似合い】 これらのトピックが次々とトレンド入りし、玲奈と秋年は一躍その日の中心人物となった。 玲奈は今日、白のオートクチュールのドレスを着用し、背中と胸元を大胆に露出させ、髪を緩やかに巻いて背中に流し、全身で魅惑を体現していた。 彼女がステージを降りる際、秋年は自分のジャケットを脱いで彼女の肩にそっとかけた。この行動がきっかけで「森川玲奈と岩段秋年は絶妙の相性」というトピックが生まれ、多くのファンが「もし二人が交際しているなら応援する」とコメントを寄せた。 一方で、昨日話題になった南方信との熱愛報道には、双方のファンが激しく反対していた。 しかし玲奈自身は、南方信との件が彼女のチームの介入なしで早々に沈静化したことに驚いていた。一体誰が手を回したのかは分からないが、南方信側が動いた可能性も考えられる。 夜、フラワーホテルで。豪華なレセプションパーティが開催されていた。 玲奈はより控えめなドレスに着替えて登場していた。それというのも、秋年から「男が多い場だから、服を変えたほうがいい」と言われたからだ。 契約を交わした以上、秋年はもはや彼女の「スポンサー様」である。服を変えるどころか、秋年が望むなら彼女自身を変えなければならないのだ。 玲奈は素直に従い、別のドレスに着替えた後、その姿を写真に収めて秋年に送った。 玲奈「ボス、これでどう?」 秋年「うん」 そのそっけない返信に玲奈は内心舌打ちをした。 「なんだその態度は。『うん』って何よ」 一方、大ホールでは秋年がバーカウンターに寄りかかり、酒を片手にスマホを見つめていた。 画面には玲奈の写真が映っており、彼女からのメッセージが表示されている。 彼は無意識に微笑みを浮かべていた。 「何その顔。恋に落ちたの?」耳元で炎の声が響いた。 秋年は顔を上げ、すぐにスマホをしまいながら「何だ
「何それ?」玲奈は綿の話に首を傾げた。何のことかよく分からず、ぽかんとしている。 「結婚したばかりの頃、誕生日に一緒にショッピングモールへ行って、絵を描いたことがあったの。その時、彼は最初から最後まで全然乗り気じゃなくてね。その絵を壁に飾ったけど、彼は一度も目を留めなかった。離婚の日にその絵を捨てたんだけど、今日……」 綿はふと輝明が持っていた絵を思い出した。 精巧なものではなかったが、決して下手ではない。 彼はいつもそうだ。何も学ばなくても何でもそれなりにできる人間だ。 「で、それで?」玲奈は目を瞬かせながら催促した。もっと聞きたいのだ。こういう男の後悔話は大好物らしい。 「もしかして、その絵を拾ってきたんじゃないの?」玲奈は目を輝かせ、興味津々だ。 綿は首を横に振った。「それはないよ」 「彼、自分でまたあの場所に行って、同じ絵を描いたんだ」 その一言に玲奈は驚きを隠せなかった。 捨てられた絵を拾ってくるだけでも十分な誠意だと思っていたのに、まさか自分で描き直すなんて。 驚きつつも、玲奈は不満げに尋ねた。「忙しいとか、短気だとか言ってたのに、今さら時間も忍耐力もあるんだ?何それ、どんな心変わり?」 綿は肩をすくめ、窓の外に目を向けた。 車が絶え間なく行き交う街の景色を見つめながら、胸の奥に何とも言えない気持ちが広がっていた。 「もしかして心が揺れてるんじゃない?」玲奈は心配そうに尋ねた。 「そんなわけないじゃない」綿は眉をひそめ、きっぱりと否定した。 「でも、何だか思い詰めてるように見える」 綿はすぐに首を振った。彼女は心を動かされてなんかいない。ただ、過去の自分を思い出してしまうのだ。それがただただ馬鹿らしく思えて仕方がない。 「綿ちゃん、彼はこれからもずっとあなたに付きまとうだろうね」玲奈は言った。 綿もそれを分かっていた。 「どうすれば諦めてくれるのかね」玲奈は考え込むように言った。 その言葉に綿は微笑み、「母が言うには、彼氏がいるふりをしろって」 「いいじゃん、それなら商崎炎がぴったりだね。彼、悪くないじゃない?」 玲奈はそう提案したが、綿は舌打ちをした。 「どうしてあの男のいる階層から選ばなきゃいけないの?たとえ