車内はひどく静まり返っていた。 森下ですら、その重苦しい空気が気まずすぎると感じていたが、どう声をかけていいのか分からなかった。 輝明にとって、綿を車に乗せられただけでも十分な成果だった。 だが、乗せた後に何を話すかは考えていなかった。 綿は時間を確認すると、うんざりしたように長いため息をついた。 その様子に、輝明はつい彼女を見てしまった。 彼女の顔には、苛立ちと不快感、そして明らかな不機嫌さが浮かんでいた。 その表情を目にして、輝明の目がかすかに暗く沈んだ。 「そんなに嫌か?そんなに無理をさせてるのか?」 彼の声は低く、少ししゃがれていた。 どこか諦めの混じった無力な響きが滲んでいた。 「私が喜ぶべき?私が快く応じるべき?自分を徹底的に傷つけた元夫に対して、どういう態度を取るのが正解だと思う?」 綿は顔を輝明に向け、その瞳には困惑と疑問が宿っていた。 彼女自身も、どう振る舞うべきかを知りたかった。 けれど、人生は自分で道を探しながら進むしかないものだ。 「綿、俺が嬌と一緒にいたのは、彼女が俺を救ったと思い込んでいたからだ。君も分かるだろう?俺は嬌に感情なんてなかった。別れた後に気づいたんだ。本当に好きだったのは……」 君だ、と言いたかった。 だが、綿はすぐに手を挙げて彼の言葉を遮った。 彼の弁解も、彼の「好きだ」という言葉も、聞きたくなかった。 「嬌に感情があったかどうかは関係ない。あなたが私に与えた傷は、もう消えない」 その傷は心に刻まれた深い痕跡であり、綿はそれを癒すことができなかった。 輝明が嬌のために言い放った一言一言。 嬌をかばうその態度。 彼女はそれを忘れることができなかった。 忘れようとしても、今生ではきっと無理だろう。 たとえそれが誤解から生じたものだとしても。 誤解が輝明を嬌に引き寄せたのだとしても、綿は彼を許せなかった。 輝明が彼女に向ける感情は、常に曖昧で、揺らぎやすいものだった。 彼女は彼にとって、いつでも「いてもいなくてもいい存在」だった。 一緒にいる?まぁ、誰でもいい。 結婚する?まぁ、誰とでも結婚するだろう。 嬌が彼を救ったと思い込んだら、彼はすぐに結婚をや
バタン——一瞬の迷いもなく、ドアが激しく閉められた。 車内は再び静まり返り、薄暗い照明の中、輝明は綿が車を回り込んでバス停に向かう姿をじっと見ていた。 すぐに彼女は携帯を取り出し、楽しげに電話を始めた。 彼の一瞬の出現など、まるで冗談のようで、むしろ彼女を困らせる迷惑な不良のようにさえ見えた。 輝明は膝に垂れ下がる手をきつく握りしめた。無力感が彼の心をじわじわと蝕んでいく。 どうすることもできないのだ。 一度人が完全に失望してしまえば、もうその心を取り戻すのは至難の業である。 「社長、ここで桜井さんを下ろすなんて、最初からしっかり送るべきでしたね」 森下の声には冷たさが滲んでいた。 輝明は苦笑した。 「送る?」そうすればもっと彼俺のことを嫌いになり、心の中で彼俺をますます罵るだけ。さ」 「少し遠くまで運転してくれ」 彼は力を失い、背もたれに体を預けた。 森下が車を少し離れた場所まで運転すると、バス停に立っている綿の姿が見えた。 綿はしばらく待っても車バスが来ず、最後にはバスに乗り込んだ。 輝明は森下に「後を追ってくれ」と命じた。 信号待ちの際、綿が後方に止まる黒いマイバッハに気づいたが、ちらっと見ただけで再び電話相手の玲奈との会話に戻り、完全に無視しているようだった。 バスが路地の入口で停車すると、綿は降りて、別荘への道を歩き始めた。 高級住宅地で、道沿いには街灯が並び、警備員が巡回しているため安全だった。 綿がだんだん遠ざかると、輝明も車から降り、車体に寄りかかって彼女の姿が消えていくのを見つめた。 その視線には複雑な思いが漂っていた。 ピン——携帯が鳴った。 輝明が画面を確認すると、盛晴からのメッセージだった。 「なんか、炎が綿を追いかけているって話を聞いたわよ?」 母にまでこの噂が伝わっているとは…… 輝明は返事をしなかったが、すぐに次のメッセージが届いた。 「息子よ、頑張らないとね。結婚相手を追いかけるのはそんなに簡単なことじゃないのよ。綿の態度は冷たいだろうけど、心が折れそうな時は、以前の綿のことを少しでも考えてみて。そうすれば、今の君がやっていることなんて、全然大したことじゃないって気
「はい」返事は実にあっさりしていた。 輝明と森下は目を合わせ、二人して思わず笑った。 森下の「はい」には、まるで迷いがなかった。 「社長、会社では僕たちにはとても親切ですし、嬌さんにも優しくしていましたよ。でも、桜井さんに対してだけは……本当に罪深いです」 森下がまた付け加えた。 彼はどうやらすべての優しさを他の人に与えて、唯一綿には何も与えていなかったようだ。輝明は眉をひそめ、自分がしたことの数々が頭をよぎった。 確かに、彼は綿を遠ざけ、自分の家族とも思わなかったようだ。 なぜ、なぜ綿には一片の優しさすら惜しんだのだろう? あの時、嬌が命を救ってくれたとはいえ、それが理由で綿を傷つけてもいいわけではない。 彼はまるで狂っていた。何もかもがおかしくなっていた…… 自分のしてきたことを振り返ると、綿が許してくれないどころか、自分でも自分を許せない。 「社長、もし僕が桜井さんの家族だったら、跪いて頼みますよ。どうか桜井さんを解放してくださいって」 森下は冗談めかして言った。 彼は綿をあまりにも傷つけた。誰が自分の大切な娘を、こんな男に託したいと思うだろうか。 輝明は三秒ほど黙り、口を開いた。 「実際に、桜井さんの家族にはもうそう言われたよ」 綿を諦めるようにと。綿のことを諦めきれない輝明に対し、彼女の家族は綿の悪い面ばかりを言っていた。 実際に悪いのは自分なのに。 「桜井さんの家族の気持ちもわかりますよ。社長と彼女が一緒だったこの三年間、彼女は社長のために家族と絶縁しました。けれども、社長は一度も桜井さんの家族を訪ねたことがありませんよね…」 森下はそこまで言うと、口を噤んだ。 輝明の脳裏には、まるで映像が流れるかのように過去が蘇ってきた。 結婚した最初の年、綿が「パパの誕生日に一緒に帰らない?ずっと帰れていなくて、結婚する時に喧嘩したから、二人で顔を見せれば、パパも安心してくれると思うの」と言っていた。 けれども当時の彼は、「結婚するつもりはなかったのに、どうしても結婚したいと言ってきた綿」の存在に苦しんでいて、彼女の言葉に耳を貸さなかった。 その後、天河の誕生日の日、彼が家に物を取りに戻ると、綿は家にいて、実家には帰っていな
綿は家に帰り、シャワーを浴びてからベッドに横になった。 すぐに玲奈にメッセージを送り、今日の出来事について愚痴をこぼした。 綿「ありえない、本当にありえない。二人の男が私をまるで物みたいに奪い合っているのよ。私は綿よ、人間であって、物じゃないの!!それに輝明、しつこい男はかっこ悪いって知らないの?遅れてきた愛なんて雑草より価値がないって、わからないの?本当にわからないの!?」 次々と送られる疑問符のメッセージが、彼女の怒りを完璧に表現していた。 玲奈は化粧を落としながら、メッセージを見て笑いをこらえながら返信した。 「ついに綿の春が来たんじゃない?」 綿「もし春がこんな感じなら、いっそ来ない方がいいわ!」 玲奈「そうはいかないよ。人の一生で春夏秋冬を避けることはできないんだから。綿ちゃん、嫌なことは全部終わったんだよ。これから訪れるのは春だけ」 綿は玲奈のメッセージを見て、少し複雑な表情を浮かべた。 玲奈からさらにメッセージが来た。 「研究所に入ったってことは、もう海外には行けないんじゃない?」 綿はため息をついた。 研究所に入った以上、海外に行くなんて考えられなかった。祖母もまだ病院にいるし、今出国するのは無責任すぎる。 それでも、研究が進み、研究所に自分が必要でなくなった時は、やっぱり海外を考えるかもしれない。 新しい知識を身に付け、さらに自分の経歴に箔をつけるために。 彼女は今でも十分に優秀だったが、履歴がさらに豊かになることを恐れる人などいない。 綿「またその時に考えるわ」 玲奈「いいわよ、どうせ『またその時』って言うのは、心が揺れてる証拠よ!でも、親友として言わせてもらうわ。あのクズ野郎、輝明を徹底的に懲らしめてやりなさい!」 綿は口元に笑みを浮かべた。 これこそ、玲奈の口調だった。 玲奈と輝明はそもそも犬猿の仲だったからだ。 綿は「おやすみ」とメッセージを送ると、携帯をオフにした。 ベッドに横たわると、今日の輝明が自分を廊下の奥まで引っ張って行った時のことが頭をよぎった。 ——「綿、俺の前で君は怖いのか?君は俺が傷つけるとでも思ってるのか?」 彼は彼女を傷つけた回数が一度や二度ではないことを忘れたのだろうか。
綿は後ろの車を完全に無視し、自分の車を発進させた。 しかし、輝明の車はすぐに追いかけてきた。 綿は何度か車線を変えて彼を撒こうとしたが、彼はぴたりと後ろにつけて離れなかった。 二台の車が道路上で何かを争うかのように走る様子は、周囲の通行人の注目を集めていた。 綿の運転は大胆そのもので、元々レーシングを嗜む彼女にとってスピードと技術は得意分野だ。 一方、輝明は周囲の目を気にしながら慎重に運転していたが、決して彼女の車から離れることはなかった。 研究所の門に到着すると、綿は車を降りて後ろの輝明の車を振り返った。 彼女は片手を上げ、輝明に向かって親指を立てたあと、くるりと指を下げる仕草を見せた。 「弱すぎるわね」その一言を態度で表した綿は、満足げに手を振り、軽やかに研究所の中へ消えていった。 輝明は車内で顔を曇らせた。 彼女に煽られたことが悔しかったのもあるが、それ以上に、この道中でどれだけ車の排気ガスを吸わされたかを思い出して苛立ちが募る。 「わざと彼女に勝たせてやっただけだ」 彼はそう自分に言い聞かせたが、綿が本気で自分を「弱すぎる」と見下していることに気づき、さらに腹が立った。 だが、この出来事で彼はまた新たに綿を知ることになった。 彼女の運転技術がこれほどまでに優れているとは思いもしなかった。 ここ数年、彼女はただ「おとなしい優等生」に見えていた。 彼が愚かだったのだ。 綿が鮮やかな紫のスポーツカーを持っている時点で、彼女が車を愛し、操る術を知っていることを察するべきだった。 普通の女性なら、あそこまで車を改造し、目を引くデザインにすることはない。 ピン—— 森下からメッセージが届いた。 「社長、お忙しいですか?真一が会社に来ていて、会いたいそうです」 輝明は眉を上げつつ、研究所の門の中に入っていく綿をもう一度見た。 十分だ。 彼女の前で存在感を示しただけで、今日は目的を果たしたようなものだ。 綿は研究所に入ると、タイムカードを打刻しながら、明るい笑顔で同僚たちに挨拶した。 すると、誰かが声を上げた。 「小所長!新人が来たよ!」 綿は祖母の後を継いで研究所に入り、正式に所長に昇進していたため、皆か
女は顔を上げ、腕を組み、綿を高慢な目つきで見下ろした。 「どうして私が教えなきゃいけないの?」 綿は薄く笑みを浮かべながら、冷静に答えた。 「私は桜井綿。この研究所の院長。そして現在、SH2Nプロジェクトを指揮している。君が私の研究所で偉そうに人を叱りつけている以上、所長である私が君に名乗るよう求めるのは当然の権利よ」 女は「ふーん」と気の抜けた声を出し、語尾をわざと長く引っ張った。 そして、綿を上から下までじっくりと眺め回したあと、あっさりと言い放った。 「あなたが桜井綿なのね」 綿は目を細め、首を少し傾けた。 自分が綿であることに驚いているのか、それとも失望しているのか。 「まぁ、大したことないわね」 綿「……」 研究室の他の人たちもその女を見つめて、唖然としていた。 一体何者だ?こんなに横柄な態度を取れる人間がいるのか?たとえ山田徹の娘だとしても、こんなに傲慢には振舞えないはずだ。それに、彼女はまだそうじゃない! 「これが綿の顔が『大したことない』って?いやいや、むしろ圧倒的に勝ってるだろ」 そう心の中で突っ込む研究員たちの声が聞こえてきそうだった。 綿は「ここでは話にならない」と思い、提案した。 「私のオフィスで話そう」 「いいわよ」彼女は微笑みながら、大股で前を歩いていった。 綿「?」 なんという態度。まるで自分の家に帰ってきたような振る舞いだ。 まるで、綿がその家の使用人であるかのようだ。 後ろにいた研究員たちも小声で不満を漏らし始めた。 「あの女、何者なんだ?態度がでかすぎる」 「そうだよな。この研究所にこんな厄介者がいるなら、仕事なんてやってられない。」 綿は振り返り、手を軽く下げて静かにするよう合図を送った。 「落ち着いて。感情的になる必要はない」 ここは綿が指揮を取る研究所だ。 誰がどれだけ横柄な態度を取ろうと、最終的には彼女の許可が必要になる。 オフィスの前に到着すると、その女は当然のようにドアを開けようとした。 しかし、指紋認証システムに引っかかり、何度試してもドアが開かない。 綿はその様子を見ながら眉を上げた。 開けたいなら、道を譲らなければならない。
綿が22歳の時の自分を思い返すと、目の前の陽菜以上に生意気だったかもしれない。 彼女がさらに何かを尋ねようとした矢先、パソコンの画面に未読メールの通知が表示された。 すぐにメールを開くと、差出人は徹だった。 「綿さん、こんにちは。本日、ある女の子が君の研究所に報告に行く予定だ。 これから彼女は君の部下として働くことになる。君の指示に従わせてくれ。 この子は私の親戚の娘で、とても賢い。ただ、少し気性が荒い。 彼女は海外で薬学研究を専攻しており、実力はある。 君がうまく関係を処理してくれると信じているし、彼女が君の頼もしい右腕になることを願っている。ああ、ちなみに、もし彼女が怒り出したり、勝手に辞めると言ったら、放っておいていい。挽き留める必要はない。ただ、彼女の性格を考えると、辞めるどころか、君と対抗し続けるだろう。どうするかは君に任せるよ」綿「……」 親戚の娘。 「賢い」とのことだが? 綿は目の前の陽菜をちらりと見上げた。 そして、メールの中にあった「少し気性が荒い」という部分に視線を戻す。 少し? いや、これは「少しなんてもんじゃない。ほとんど「叩かれないと気づかない」レベルでは? 「関係を処理して、頼もしい右腕に……か」 メールの中の一言一句が、息苦しくなるほど重く感じられた。 綿はため息をつき、陽菜に目を戻した。 彼女は相変わらず腕を組み、上から目線で綿を見下ろしている。 その目には、生意気と嫌悪感がありありと浮かんでいた。 綿は内心、少し腹が立った。 自分は研究所の院長だというのに、いったい何を不屑に思っているのか。 「私は院長よ」綿は冷静に言った。 「知ってる」陽菜はあっさりと答えた。 「なら、少しは態度を改めてもいいんじゃない?」綿は冷たい声で促した。 陽菜は無関心に肩をすくめ、両手を広げて言った。 「私、何か悪いことした?」 綿は笑みを浮かべながら、皮肉交じりに言った。 「自分がこの研究所に来た時から、威圧的すぎるとは思わないの?」 「これが私の性格だから」陽菜は即答した。 「家でもずっとこんな感じだし」 「でもここは研究所であって、あなたの家じゃないの!」 綿
「私を脅しているの?」陽菜はすぐに立ち上がった。綿は両手を机に置き、じっと陽菜を見つめた。「やっと気づいたの?」その通り、綿は彼女を脅しているのだ。彼女が辞めるならそれに越したことはない。こんな問題児に付き合うつもりなど毛頭ないのだから。陽菜は苛立ち、歯をきしませて綿を睨んだ。両手は自然に拳を握り、最後には冷笑しながら言った。「報告しに行けばいいんでしょ、行けば!」人事部に行くのは当然のことだ。少なくとも給料振込のために口座番号を登録しなくてはならないのだから。陽菜は無理に笑みを浮かべ、胸を張って立ち上がり、綿と対峙することも面倒そうに踵を返した。出て行く直前に振り返り、わざとらしく言った。「これから一緒に仕事をするんだから、所長にはよろしく頼むわ」この一言で、綿の頭の中がカッと熱くなった。「一緒に仕事をする」?こんな挑発的な言葉があるだろうか。思わず拳を握りかけたが、綿はすぐに深呼吸し、冷静さを取り戻した。「怒らない、怒らない…」と心で唱え、胸に手を当てて落ち着きを取り戻そうとした。すぐさま綿は椅子に座り直し、徹のチャット画面を開いて、急いでメッセージを打ち始めた。綿「これは山田さんのどういう親戚ですか?本当に生意気ですよ。初日から研究所に最初から威嚇するような態度を見せてきました!」自分が所長でありながら、こんな空から降ってきたような新人に威嚇をくらうなんて、誰にも知られたくないことだ。SH2Nプロジェクトは、彼女がいなければ一歩も進まないのに。数秒後、徹からすぐに返信が来た。「やっと連絡が来たか」綿はそのメッセージを見て、少し困惑した。どういう意味だ?徹「二人がぶつかるのは予想していたよ。研究所の人間からもすぐ連絡が来た。彼女、初日から威張り散らしているそうだな」なるほど、徹はすべて把握していたのだ。綿はため息をつき、再びメッセージを打ち込んだ。綿「すべてご存知で、わざわざこんな悪魔を送り込んで私を困らせたんですね。ひどいですよ」徹「わかった、今夜食事をご馳走しよう。埋め合わせだ」綿「いいえ、愚痴を言っただけですから」徹「いやいや、ぜひご馳走させてくれ。今夜、よろしく」綿は少し苦笑し、携帯を置いた。その時、またメッセージが届いた。
やはり宴会の場では、一杯くらいお酒を飲んだ方が楽しいものだ。 綿もそう思い、少しぐらいならとグラスを手に取った。玲奈と軽く乾杯して一杯飲むと、続けて二杯目、三杯目と手が伸びてしまった。 「もう一杯」綿はすでに三杯飲み終えていた。 その様子を見た玲奈は、少し後悔の念を抱いた。 こんなことなら、ジュースのままでよかったのに…… その頃、電話を終えて戻ってきた輝明は、綿がバーでバーテンダーにお酒を注文している姿を目にした。 一方で、玲奈はアシスタントに呼ばれ、サービススタッフに「綿にお酒を出さないで」と伝えてから、後方へと向かっていった。 実際、綿は酔っ払っていたわけではない。ただ、少しお酒に対する食欲が増して、もう少し飲みたい気分だっただけだ。 しかし、玲奈が止めたのなら、これ以上飲むつもりはない。 綿は椅子に座りながら退屈そうにくるくると回っていた。 毎日こんな風に飲んで食べてばかりだったら、きっと飽きてしまうわね。 「桜井さん、お水です」 バーテンダーが水のグラスを差し出した。その隣の席には、いつの間にか一人の男性が腰を下ろしていた。 綿はちらりと横目で見たが、そこにいたのは見たくもない顔だったので、すぐに目を閉じて無視を決め込んだ。 見なければ存在しないも同然。 「何杯飲んだんだ?」 彼が声をかけた。その声は低く、酒を飲んだせいか少しかすれていた。 綿は目を開けて彼の顔を見た。黒いスーツに白いシャツ、黒いネクタイを合わせた姿はきちんとしていて、その引き締まった腰が印象的だった。 ――輝明、この人はいつだってスタイルがいい。服を着ればスリムに見え、脱げば筋肉質な体つきが露わになる。大学時代、彼はバスケットボール部の主力選手だった。その活躍ぶりは群を抜いていた。 大学卒業後、彼と結婚してからは、週末に姿を見かけない時は大抵ジムにいるか、朝ランニングをしているかのどちらかだった。規則正しい生活を送る人だった。 輝明は、綿がぼんやりと自分を見つめ、何も言わないのを見て、不快感を隠せなかった。 数秒間の沈黙の後、彼は不満げに口を開いた。 「綿、俺と話すのがそんなに嫌か?友人として座って話すくらいのこと、してくれてもいいだろう?」 「私はも
「大スターと財閥の御曹司、これって完璧な組み合わせじゃない?韓国ドラマだとこういうのよくあるよね。例えば、大スターとボディガード、大スターと家政婦のイケメン息子、大スターと……」 綿の話が盛り上がりかけたところで、玲奈が呆れた視線を送り、それをピシャリと遮った。 綿はヘヘっと笑い、「冗談だよ」と言いながら続けた。 「実際、あなたが岩段みたいな地位のある人と一緒になるのは望んでないの」綿は秋年の姿に視線を送った。 彼のような人は、玲奈を十分に支える時間を持つことができない。 玲奈の仕事はもともと多忙を極める。さらに秋年の仕事も忙しければ、二人は一年のうちに数えるほどしか会えなくなるだろう。 そして、もっと重要なのは、二人の「ファン」の存在だった。 玲奈には多くのファンがいて、秋年にも同様に、社交界の令嬢や職場のパートナーといったファンがいる。 二人は一見すると似合いそうだが、違いも多く、一緒にいることで生じる問題は片手では数え切れない。 「綿ちゃん、私はもともと岩段と付き合うつもりなんてないわよ。だから、そんなこと心配しないで」玲奈は穏やかに言いながら、遠くで友人と談笑する秋年に一瞥を送った。 彼女のその一言に、綿は少し肩の力が抜けた。 彼女の結婚生活がすでにめちゃくちゃだったため、玲奈まで同じ道を歩んでほしくなかったのだ。 今は安定したキャリアがあるのだから、それを優先した方がいい。 「綿ちゃん」 玲奈が静かに名前を呼んだ。 綿が顔を上げると、玲奈が真剣な目で尋ねた。 「もしかして、高杉に傷つけられたことがトラウマになってる?」 綿は一瞬黙り込んだ。 「トラウマになっていない」と言えば嘘になる。でも、「完全にトラウマ」かと聞かれると、それも違う気がする。 たかが一人の男のせいで、一生引きずるような傷を負うなんて、そんなことは許せない。 「違うわ」綿は真剣に答えた。「私はただ、女って本当に大変だと思うの。いつも一番深く愛してしまうのが女だから。私が願っているのは、すべての女が恋の渦に巻き込まれることなく、適切な時に愛し、そして相手が自分を愛していないと分かった時には、自分をすり減らさずに関係を清算する勇気を持つこと」 女は水。 幼い頃、母
綿は手にしていたグラスを一瞬止め、軽くため息をついた。 「やらなきゃいけないことがたくさんあるから、少しずつ片付けていくしかないよ。おばあちゃんの状態を考えたら、私が研究所を引き継がないと、おばあちゃんはゆっくり療養なんてできないだろうし。それに、職場のことはどうせ父がまだ元気だから大丈夫」 「昨夜、おばあちゃんの腕が動かないのを見た時、本当に辛かった」玲奈は心から千恵子を心配していた。「おばあちゃん、普段はあんなに強い人なのに。自分の腕が思うように動かないなんて、どうやって耐えてるんだろう?」 綿も同じ気持ちで、千恵子への思いに胸が締め付けられていた。 心が痛むのは、千恵子の腕の不調そのものではなかった。 事件が起きてから今日まで、千恵子は最初の夜に一度だけ涙を流したきり、それ以降は一切泣かず、愚痴ひとつ言わず、負の感情を表に出したことがなかった。 まるで何事もなかったかのように振る舞う彼女の姿が、逆に恐ろしく思えるほどだった。 千恵子は確かに強い人だが、果たしてそこまで強くいられるものなのか。 それとも、彼女の感情は誰にも見せないところで消化され、彼女自身がそれを家族には見せまいとしているだけなのだろうか。 綿はそんなことを考えたくなかった。 だからこそ、彼女は全力で千恵子の研究所を運営していこうと決めていた。 「玲奈、私にはどうすることもできない」綿は玲奈に向かってそう言った。 彼女には家族のために何かをしなければならない。社会のため、そして自分自身のために、前に進む必要がある。 長い道のりを一歩ずつ進み、霧を切り開いていかなければならないのだ。 玲奈は綿の手をそっと握りしめ、彼女を思いやる気持ちを込めた。 前半生がどれだけ幸せだったか、後半の道のりがどれだけ険しくなるのか。 心の中で玲奈は綿を「馬鹿だ」と思わずにはいられなかった。 ――自分をこんなに追い込んでしまって。 彼女はもともと優秀な医師になれたはずだし、輝明と幸せな家庭を築いて「高杉夫人」になれたはずなのに。 玲奈は綿のために、運命の不公平さを恨めしく思った。 「玲奈、恋愛について考えたことある?」 綿は突然尋ねた。 玲奈は即座に首を振った。「仕事が安定してるとはいえ、
「岩段さん、森川さん、写真を一緒に撮らせてもらえませんか?」 一人の来客が近寄り、控えめに尋ねてきた。 二人は笑顔でうなずき、「ええ、どうぞ」と応じた。 このような宴会に参加できるのは、地位のある人ばかりだ。写真撮影を求められるのも当然だろう。 綿は二人が写真撮影に応じている間に、目立たない場所に移動して一人の時間を楽しむことにした。 今日この場に来た目的は、主に秋年の気持ちを観察するためだ。 玲奈は大らかで鈍感な性格なので、誰かが彼女を好きでも、相手がストレートに「好きだ」と言わない限り気づかないだろう。 その頃、輝明と炎は、綿が一人で座ったのを見て、明らかに何かアクションを起こしたそうな様子を見せていた。 綿には二つの視線が自分に向けられているのが分かった。それはまるで火を灯したように熱いもので、他の誰の視線とも違った。 少しだけ首を動かして振り返ると、案の定、輝明と炎がそれぞれ酒を片手にこちらを見つめていた。 綿はそんな視線が好きではなかった。まるで自分が獲物として狙われているようで不快だった。 彼女は獲物にされるよりも、むしろ狩人となって自分の獲物を探したいタイプだった。 そこで、綿は会場を見回して「獲物」を探し始めた。 しかし、会場を一周してみても、結局一番目を引くのはあの三人だった。 ――雲城四大家族の三人の後継者、輝明、秋年、そして炎。 こういった宴会には通常、陸川家も招かれるが、今日は易の姿がなかった。 綿はそれが、嬌と輝明の不和が原因だろうと考えた。陸川家もメンツを潰されることを恐れているのかもしれない。 輝明のような男が嬌に振り回されていると知られたら、彼の評判を傷つけるだけだ。 「高杉社長」突然、女性の声が輝明を呼んだ。 綿はその声に反応して、何気なくそちらを見た。 彼女はその女性を知っていた。30歳ほどで、輝明より少し年上だ。 彼女は昔から輝明を評価し、彼を狙いたいと思っていたが、年上であることを気にして、行動に移せずにいた。 綿が彼女を知っているのは大学時代の出来事からだ。当時、その女性が大学の正門で輝明を訪ねてきたのを目撃したことがあった。 その時、友人たちが冗談を言って、「輝明、年上の女性にスポンサー
秋年は足を踏み鳴らしながら苛立ちを隠せなかった。 二人はそんな彼をじっと見つめるだけで、何も言わなかった。 秋年は複雑な眼差しを浮かべる。 「恋愛なんて、抑えられるものじゃない。ただ、好きだと思ったら進むだけだ」炎は輝明に視線を向けながら続けた。「綿が明くんの元妻だというのは事実だけど、その前に彼女は桜井綿なんだ」 だから、彼には綿を口説く権利がある。 輝明の友人だからといって、綿を好きになってはいけないという理屈はどこにもない。 「じゃあ、俺たちの関係はどうなる?」秋年は問題の核心を突くように、真正面から問いかけた。 次の瞬間、輝明が静かに言った。「俺は気にしない」 秋年はその言葉に頭を抱えそうになった。 ――気にしないだと?そんなはずがない!輝明ほど感情を内に秘める男はいない。彼ほど気にする人間はいないのに、ただ言わないだけだ。 「炎、お前の言う通りだ。確かに彼女は俺の元妻であり、それ以前に桜井綿だ」だから、炎が綿を狙うのは構わない、と輝明は淡々と言い放った。彼は全然怒っていない。だが、秋年の言ったように、彼ら三人の関係はどうなるのか――これは避けられない難問だ。 「公平に競争しよう」輝明は炎を見つめながら、眉をひそめた。 秋年はその言葉に驚愕した。 ――本当に公平に競争なんてできるのか? 「じゃあ、俺たちの間でプライベートの集まりとか、今後もできるのか?」秋年は冷たい口調で尋ねた。 彼はどちらの友人も失いたくなかった。この利益優先の世の中で、心を許せる友人を二人も持つのは貴重なことだったからだ。 「俺たちがどうなろうと、秋年、お前には関係ないことだ」炎は秋年を見つめながらきっぱりと言った。 秋年は眉をひそめ、内心でますます苛立ちを募らせた。 ――もう勝手にやってくれ! その時、綿と玲奈が後方から姿を現した。 玲奈は新しいドレスに着替え、より端正で優雅な雰囲気をまとっていた。 秋年は、もう二人のやり取りに付き合う気を失い、迷わず玲奈の元へ向かった。 「いいね、さっきのよりずっと似合ってる」秋年は玲奈を褒めた。 玲奈は薄く微笑み、「ありがとうございます、社長。社長が気に入ってくれるならそれでいいです」と、どこか作
「綿、もう一回呼んでよ」炎は綿の後ろをついて歩きながら、どこか甘えるような口調で言った。 綿は彼を鋭く睨みつけ、「私は子供っぽい男は好きじゃないの」ときっぱり言い放った。 ――甘えたって無駄よ、甘えるだけ無駄なの。 炎はため息をつき、「綿、あんまりストレートすぎるのもどうかと思うよ」とぼやいた。 綿は彼に笑顔を向け、「じゃあ、ストレートじゃない子を探せば?」 「それは無理。だって、綿じゃない」炎は眉を上げ、得意げに口元を引き上げてみせた。 綿は一瞥しただけで、何も言わずにそのまま玲奈の元へ向かった。 少し離れたところで、秋年は炎のあまりにも露骨なアプローチを見て、皮肉たっぷりに呟いた。「くだらない奴だな」 その隣で、輝明の顔は明らかに黒ずんでいた。 ――自分の親友が元妻を口説く様子を見せつけられる気持ち、分かるか? ――ふざけるな、なんてこった。 しかも最悪なことに、炎は綿をからかい終わった後、平然と戻ってきて、輝明に声をかけてきた。 「明くん、来てたのか」 炎は秋年の隣に座り、手に取ったグラスを揺らした。 輝明は目を細め、どんなトーンで話せばいいか分からずに黙り込んだ。 秋年は二人の間に漂う緊張感を感じ取り、内心で溜め息をついた。 ――ほらな、親友の元妻を好きになっちゃダメだって言っただろ。 ――結局巻き込まれるのは俺なんだよ! 秋年は咳払いをして、二人の妙な関係には関わらないよう、静かに輝明の右側へ移動した。 これで輝明と炎が正面から向き合える。 と思いきや、炎はまたしても酒を取りに行った後、秋年の右側に戻ってきて座った。 「明くん、俺が綿をアプローチしても、怒ったりしないよね?」 その一言に、秋年は心の中で叫んだ。 ――俺、二人の遊び道具か何かですか? ――そもそも、その質問失礼だと思わないのか? 輝明は冷たい視線を炎に向け、手にしたグラスを握りしめた。 秋年は、輝明が爆発しそうだと察し、すぐに間に入ろうとしたが、その時輝明が静かに笑った。「怒るわけないだろ」 秋年は目を丸くした。 ――聞き間違いか?輝明が「怒らない」って? ――あんなに大らかな男だったっけ? 輝明は視線を前方に向け
綿の装いは至ってシンプルだった。 体のラインを美しく見せる黒いタイトなワンピースに身を包み、会場に入るとコートを脱いでサービススタッフに預けた。 炎は綿の姿を見た瞬間、口元に微笑みを浮かべた。 秋年はその様子を目にし、幽かに視線を送りながら頭を押さえた。 ――まったく恋愛ボケめ。 「綿!」炎は綿に歩み寄り、親しげに声をかけた。 「炎くん」綿は軽くうなずいて挨拶した。 「何か飲む?」 炎が尋ねると、綿はすぐに首を振った。 「いらないわ。昨晩どれだけ飲んだか、あなた知ってるでしょう?」 炎は彼女の言葉に微笑みを浮かべた。 ――昨晩の酔った綿。思い出すだけで可愛い。 特に心に残っているのは、綿が彼を送り出す時の光景だった。 「運転気を付けてね!絶対にゆっくり運転して!無事に家に着かなかったら、それは私たちの間接的な殺人だからね!」 車の窓を絶対に閉じさせずに言い続ける綿。 炎は仕方なく、「運転手がいるから、俺は後部座席だよ」と説明すると、ようやく綿は目をこすりながら落ち着いて彼を見送った。 このことを綿に話すつもりはない。彼女が知ったら、きっと恥ずかしくて彼とまともに話せなくなるだろう。 今の綿はまるで小さな女王のように堂々としているが、酔っ払うと幼い子供のように無邪気で特別に愛らしい。 「私はこれにするわ」綿はレモネードを手に取った。 「随分あっさりしてるな」炎は炭酸水や何かもう少し華やかな飲み物を選ぶと思っていたので意外そうに言った。 「今日は私の大スターさんを守るために来たの」綿は小声で炎に告げた。 「どういうこと?ここはこんなに安全なのに、何を守る必要があるんだ?むしろ俺が君を守ってあげようか?」炎は柔らかく微笑み、綿を見つめた。 おだてても無駄よ、この年下くん。綿は唇を尖らせ、彼の軽い誘いをかわした。 「岩段秋年がどうもおかしいの」綿は正直に炎に話した。 炎は腕を組み、「秋年が森川さんに対して、ってこと?」と確認するように聞いた。 「そう」綿はうなずいた。 やっぱり自分が惚れた女だ、と炎は思わずそう思った。――彼女が指摘する通り、確かに秋年は玲奈に対して普通ではない。 炎自身も同じように感じていた。
【本日、芸能界の最新ニュース玲:森川奈が正式に岩段グループの全ブランドアンバサダーに就任!森川玲奈は岩段グループ全線のアンバサダーを務める初の女性芸能人に】 【森川玲奈と岩段秋年が契約締結、二人のツーショットが話題に。数日前から二人の恋愛報道が浮上していた】 【森川玲奈の生写真が公開、美しすぎる!】【森川玲奈と岩段秋年はお似合い】 これらのトピックが次々とトレンド入りし、玲奈と秋年は一躍その日の中心人物となった。 玲奈は今日、白のオートクチュールのドレスを着用し、背中と胸元を大胆に露出させ、髪を緩やかに巻いて背中に流し、全身で魅惑を体現していた。 彼女がステージを降りる際、秋年は自分のジャケットを脱いで彼女の肩にそっとかけた。この行動がきっかけで「森川玲奈と岩段秋年は絶妙の相性」というトピックが生まれ、多くのファンが「もし二人が交際しているなら応援する」とコメントを寄せた。 一方で、昨日話題になった南方信との熱愛報道には、双方のファンが激しく反対していた。 しかし玲奈自身は、南方信との件が彼女のチームの介入なしで早々に沈静化したことに驚いていた。一体誰が手を回したのかは分からないが、南方信側が動いた可能性も考えられる。 夜、フラワーホテルで。豪華なレセプションパーティが開催されていた。 玲奈はより控えめなドレスに着替えて登場していた。それというのも、秋年から「男が多い場だから、服を変えたほうがいい」と言われたからだ。 契約を交わした以上、秋年はもはや彼女の「スポンサー様」である。服を変えるどころか、秋年が望むなら彼女自身を変えなければならないのだ。 玲奈は素直に従い、別のドレスに着替えた後、その姿を写真に収めて秋年に送った。 玲奈「ボス、これでどう?」 秋年「うん」 そのそっけない返信に玲奈は内心舌打ちをした。 「なんだその態度は。『うん』って何よ」 一方、大ホールでは秋年がバーカウンターに寄りかかり、酒を片手にスマホを見つめていた。 画面には玲奈の写真が映っており、彼女からのメッセージが表示されている。 彼は無意識に微笑みを浮かべていた。 「何その顔。恋に落ちたの?」耳元で炎の声が響いた。 秋年は顔を上げ、すぐにスマホをしまいながら「何だ
「何それ?」玲奈は綿の話に首を傾げた。何のことかよく分からず、ぽかんとしている。 「結婚したばかりの頃、誕生日に一緒にショッピングモールへ行って、絵を描いたことがあったの。その時、彼は最初から最後まで全然乗り気じゃなくてね。その絵を壁に飾ったけど、彼は一度も目を留めなかった。離婚の日にその絵を捨てたんだけど、今日……」 綿はふと輝明が持っていた絵を思い出した。 精巧なものではなかったが、決して下手ではない。 彼はいつもそうだ。何も学ばなくても何でもそれなりにできる人間だ。 「で、それで?」玲奈は目を瞬かせながら催促した。もっと聞きたいのだ。こういう男の後悔話は大好物らしい。 「もしかして、その絵を拾ってきたんじゃないの?」玲奈は目を輝かせ、興味津々だ。 綿は首を横に振った。「それはないよ」 「彼、自分でまたあの場所に行って、同じ絵を描いたんだ」 その一言に玲奈は驚きを隠せなかった。 捨てられた絵を拾ってくるだけでも十分な誠意だと思っていたのに、まさか自分で描き直すなんて。 驚きつつも、玲奈は不満げに尋ねた。「忙しいとか、短気だとか言ってたのに、今さら時間も忍耐力もあるんだ?何それ、どんな心変わり?」 綿は肩をすくめ、窓の外に目を向けた。 車が絶え間なく行き交う街の景色を見つめながら、胸の奥に何とも言えない気持ちが広がっていた。 「もしかして心が揺れてるんじゃない?」玲奈は心配そうに尋ねた。 「そんなわけないじゃない」綿は眉をひそめ、きっぱりと否定した。 「でも、何だか思い詰めてるように見える」 綿はすぐに首を振った。彼女は心を動かされてなんかいない。ただ、過去の自分を思い出してしまうのだ。それがただただ馬鹿らしく思えて仕方がない。 「綿ちゃん、彼はこれからもずっとあなたに付きまとうだろうね」玲奈は言った。 綿もそれを分かっていた。 「どうすれば諦めてくれるのかね」玲奈は考え込むように言った。 その言葉に綿は微笑み、「母が言うには、彼氏がいるふりをしろって」 「いいじゃん、それなら商崎炎がぴったりだね。彼、悪くないじゃない?」 玲奈はそう提案したが、綿は舌打ちをした。 「どうしてあの男のいる階層から選ばなきゃいけないの?たとえ