「陸川さん、それ、さすがにやりすぎじゃないですか?」司礼が思わず声を上げた。嬌はは何のこと?という顔で目を上げる。「やりすぎって?だって罰ゲームでしょ?これくらいスリルないと、つまんないじゃん」手首をくるくると回しながら、にこにこと笑っている。無邪気なふりが、逆に腹が立つほどだった。司礼は黙って眉をひそめた。右手は静かに拳を握っている。普段は接点の少ない相手だったが、今日でよくわかった。陸家の令嬢が一番厄介だ――と。「いいわよ」綿が一歩前に出て、嬌の隣に並ぶ。「綿さん、無理に応じることない」司礼が小声で制した。でも綿は、昔から逃げるタイプじゃない。「キスひとつでしょ? 怖がることなんてないじゃない。……別に、初めてじゃないし」軽く眉を上げてそう言う彼女の声には、どこか含みがあった。輝明の目が細くなる。その一言が、胸に刺さる。彼女はいま、誰のことを言った?「綿」低く、押さえつけるような声が飛んでくる。綿はゆっくりと顔を上げて、淡々とした表情で彼を見た。「本気でやるつもりか、嬌ちゃんと」輝明の目はさらに鋭くなり、声も低くなる。「どうしたの、高杉さん。もしかして……私が負けて他の男とキスするの、気になるの?」」綿がうっすらと笑う。「は。お前が誰とキスしようが、俺には関係ない」輝明は口元をきゅっと結び、目の奥は底知れず暗かった。「ただ、お前がみっともなく負けるのを見るのが、正直しんどいだけだ」嬌はそんなやりとりを聞きながら、ちらっと輝明に視線を向けた。最初に彼が綿の名前を呼んだとき、少しドキッとした。まさか……まだ気にしてる? そう思いかけたけれど――その返答で、すぐに安心した。輝明はもう本当に、綿なんかどうでもいいんだ。口元がゆるみ、ふっと笑みがこぼれる。その目には、勝利を確信した光が宿っていた。綿と目が合う。言葉はなかったけれど、それだけで十分だった。ふたりの間に、火花が散る。綿は静かに構えに入り、遠くのホールを見据える。不思議と、心の中は静かだった。どれだけ落ち着いた司礼でも、この空気の重さにはさすがに焦りが滲んでいた。場の空気は修羅場そのもの。息苦しい沈黙が続く中、彼は一歩踏み出した。「綿さんは、少なくとも今はまだあなたの妻
また外れた。「落ち着いて、焦らなくていい」司礼の声が、そっと綿の背中を支える。綿はうなずいて、彼に笑いかけた。その笑顔が目に入った瞬間、輝明の胸の奥が不意にちくりと痛んだ。……なんだ、今のは。けれどすぐに表情を引き締め、思考を無理やり切り替える。いつからだ。自分が綿のことを、こんなふうに気にするようになったのは。今、気にするべきは嬌ちゃんのはずだろ?視線の先では、嬌がボールを鮮やかにカップへ沈めていく。フォームに迷いがなく、ひとつひとつの動作が洗練されている。見慣れているのだろう。長くゴルフをやってきた人間の動きだった。輝明は無理やり意識をそちらに向け、わざとらしく拍手を送る。「嬌ちゃん、さすがだな」嬌は嬉しそうに笑い、輝明に向かって投げキス。「明くん、大好き!」集中していた綿の耳にも、その甘ったるい声は届いていた。思わず、内心でうんざりする。試合が終わる頃、綿がカップインできたのはたったの二球だけだった。嬌はクラブを放り出して水を一口飲み、まるで勝利者のように高らかに言った。「あんたの負けね」「賭けは賭け。ちゃんと受け入れる」綿は手のひらを拭いながら、静かに応じた。輝明はその背を目で追った。まさか、ほんとにキスしに行く気なのか?嬌が彼の腕にしがみついてくる。「明くん、一緒に見に行こ?絶対おもしろいって」輝明は曖昧な笑みすら浮かべられなかった。胸の奥で、ざわつきがどんどん大きくなる。綿がふと顔を上げた先から、ちょうどお茶を運んでいた若い男性スタッフが歩いてきた。見たところ年も近いし、見た目も悪くない。……まあ、あれくらいならキスしても損じゃないかも。そんなことを、ぼんやり考えていた。司礼が歩み寄り、小声で綿に言う。「綿さん、そこまでしなくてもいい。約束なんて、無理に守らなくたっていいときもある」綿は彼に向かって、ふわっと笑った。「でも、これはゲームだし。陸川さんが遊びたいって言うなら、ちゃんと最後まで付き合わなきゃ失礼でしょ?」そう言って、今度は輝明を見た。「高杉さんほど婚約者に優しい人なら、私が約束を破るなんて、絶対許してくれないと思うし」嬌は顎を上げ、得意げな笑みを浮かべていた。「これが勝ち」――その空気を、全身から滲ませな
「いくらなんでも、お前はまだ高杉家の嫁なんだぞ。お前がどうでもよくても、こっちは体面があるんだよ」輝明は眉をひそめ、奥歯をかみしめながら吐き捨てた。もしこんな騒ぎが祖母の耳にでも入ったら、離婚の話がもう隠し通せなくなる。だから、こんな茶番が自分の目の前で起こるのを絶対に許さなかった。正式に離婚するまでは、綿にはちゃんとしてもらわなければならなかった。「高杉さんは婚約者と堂々とイチャイチャしても平気なのに、私がキスしたら『恥』なんですね?」綿の声には、一歩も引かない鋭さがあった。輝明の喉がぴくりと動く。陰のある眼差しで綿を見つめたまま、彼女の手を強く握った。低く押さえた声で言う。「今、俺はお前に引き下がる機会をやってるんだ。わかってるよな?」まさか本当にあの男にキスするつもりなのか――ありえない。そのはずなのに、心が落ち着かない。そんな輝明の心の揺れを見透かしたように、綿はふわりと微笑んだ。その笑みには、色気と挑発が混ざっていた。「『機会』じゃなくて、『動揺してる』の間違いじゃない?」口元をゆるめて、艶やかな瞳でじっと彼を見つめる。図星を突かれたような苛立ちが、輝明の表情に走った。喉が上下し、視線が冷たく凍りついていく。「俺たちはもう離婚するんだ。……まだ俺がお前のこと気にしてるなんて妄想するな!」その一言に、綿の心臓が跳ねた。あの日、彼に言われたあの言葉がよみがえる。――俺がお前を愛するなんて妄想するな!そして今日、同じような声色でまた突きつけられた。――まだ俺がお前のこと気にしてるなんて妄想するな!輝明は彼女の手を振り払って、無表情のまま言い放った。「メディアに嗅ぎつけられて、おばあさんの耳に入ってもいいなら好きにしろ。……せめて、お前の『お見合い相手』の気持ちくらいは考えてやれよ」綿は唇を軽く噛んだ。目を逸らさず、鼻先がわずかに赤くなる。しばらくの沈黙のあと、小さな声でぽつりとつぶやいた。「……そうね」そのひと言で、輝明の胸が一瞬詰まった。「そうね」って、何が?綿は視線を司礼に向けた。その目には、どこか申し訳なさが滲んでいる。「司礼さん……さっきは、ごめんね」「いいよ、気にしないで」司礼はすぐに遮るように言った。穏やかで、優しかった。その時
ある瞬間、輝明は何かを説明しようとしたようだった。扉の外から、韓井司礼が「綿ちゃん、スマホ見つかった?」と声をかけた。輝明の指が引っかかり、下を向いた。嬌が見上げ、不思議そうな目をしていた。何をしているのか。綿が入ってくるのを見て、手を離したのか、と。「見つかったよ、行こう」綿は微笑んで、司礼の後についていった。嬌は輝明が心ここにあらずだと察し、ゲームを続ける気力を失った。「行こう」彼女は立ち上がり、不満そうな顔で外に出た。輝明はその気持ちに気づき、後を追いかけた。「嬌ちゃん」嬌はムカついて彼を押しのけ、目には深い恨みが浮かんでいた。二人の世界がめちゃくちゃになった。綿に出会ってから、輝明の視線はずっとそっちに向けられていた。綿が入ってくるのを見てすぐに手を離した。些細な行動でも、それが本心から来ていることがよくわかった。嬌は輝明が好きだったが、何度も譲歩してきた。だが、彼女にも限界がある。輝明は無視されていることに気づき、淡々と言った。「運転手に送ってもらうようにするよ」彼女は足を止め、彼を見つめて問いかけた。「送ってもらった後はどうするの?元妻のところに行くの?」彼女は怒っていた。慰めることすらしないのか?運転手に送らせるなんて、どういうつもりなのか?と。輝明は眉をひそめ、声を低くして叫んだ。「嬌!」「輝明、あんたの心には私がいるの?」嬌の目は一瞬で赤くなり、涙がぽろぽろとこぼれた。周囲の人々が好奇心からこっちを見つめ、高杉輝明と陸川嬌だと気づいて、ひそひそ話を始めた。輝明はただ疲れていた。「もうやめろ、送っていくよ」彼女の手を取った。嬌はすぐに手を振りほどき、失望の目で見つめ、一方的に電話をかけた。「お兄ちゃん、ゴルフ場にいるの。すぐに迎えに来て!」彼はその場に立ち尽くした。午後の日差しがまぶしく、目を開けていられないほどだったが、心には陰がかかっていた。嬌は歩きながら、次第にペースを落とした。この男に対して、どうしでも厳しくできなかった。それでまだ、輝明が追ってくるのを期待していた。もう一度慰めくれれば、その怒りはすぐに収まるだろうと思った。嬌は唇をかみしめ、心の中で静かにカウントダウンを始めた。3…2…その瞬間、腕をつかまれ、温かい胸に抱
秋年は輝明が知らないことを察し、すぐにスマホを取り出した。早々にスクリーンショットを撮っておいたのだ。それで、輝明に向かって読んだ。「韓井司礼、父と共に桜井家を訪問。高杉輝明と桜井綿はすでに離婚しているという噂が浮上!」輝明は眉をひそめ、彼の顔に視線を向けた。秋年は咳払いをし、次のニュースのタイトルを続けた。「韓井司礼と韓井社長が桜井家を訪問、韓井司礼と桜井綿の結婚が間近に迫る!」このニュースを読み上げると、秋年自身も少し不安を感じた。このメディアはよくもこんな記事を書けるものだ。写真一枚で、あとは全部創作か?結婚が間近なんて、あり得るのか、と。静かに輝明を見た。個室の中はもともと暗かったが、その存在感だけで十分に冷たく、誰も近づくことができなかった。このニュースを聞いた後、さらに冷たい雰囲気が漂っていた。「三つ目、えっと……」秋年は鼻先をかすりながら、輝明に視線を向け、「続けるか?」奥歯をかみしめながら言った。「続けろ」この無責任なメディアが何を報じているのか見てやる!桜井綿と離婚したって?!「三つ目は……」秋年は口を尖らせ、小声でぶつぶつとつぶやいた。「高杉社長、不倫発覚!陸川嬌と三生の愛を誓う……」読み終わると、ちょっと隣に移動し、スマホをしまった。輝明は秋年を睨み、ますます深く目を細めた。そのスマホを叩きつけたい気持ちでいっぱいだった。「高杉さ、最初の二つはデタラメが含まれているけど、この三つ目は、えっと……」秋年は口を尖らせた。これが言えるのか、と。これは確かに本当のことだろうって、秋年は思った。輝明は顔を冷たくしながらスマホを取り出し、各種エンタメアプリをチェックした。掲示板にあるのは、嬌との話ではなく、綿と司礼の話だった。ネットユーザーたちは口々にコメントを寄せていた。「二人ともお似合いだね!」「本当に高杉輝明と離婚したの?いつも高杉輝明が桜井綿に対して冷たかったから、離婚して正解だね!美女は自分を大切にしなきゃ!」「同感!美女は自分を大切にして、韓井社長こそが本命の相手だよ!」輝明はスマホを握りしめ、すぐに森下に電話をかけた。「すぐに、ネット上の俺の離婚に関するニュースを全部削除しろ」「はい、社長」電話を切った後、輝明は考え、ラインで友人にメッセージを
再び会っても、彼女は何事もなかったかのようにニコニコしながら「明くん」と呼んできた。そんなことを思い出すと、心がざわつき、無数の蟻が這い回るようで落ち着かなかった。「桜井さんと韓井が婚約したら、俺も披露宴に呼んでくれるかな」と秋年は顎を撫でながら、イライラさせるような表情で言った。「お前と桜井の結婚式には呼ばれなかったからな!それにしても、本当にかわいそうだ。お前と結婚しても認められず、結婚式すらなかったんだから!」輝明の心はすでに乱れていた。秋年が老僧のように横でしきりに話すのを聞いていると、ますます苛立ちが募った。そしてスーツのジャケットを手に取り、立ち上がって外に向かった。秋年はすぐに反応し、「おい、どこへ行くんだ?」と叫んだが、答えはなかった。輝明がバーを出ると、森下がネット上の綿のニュースを処理していた。「高杉社長、桜井さんと韓井さんのニュースはどうしますか?」と森下が振り返って尋ねた。彼はネクタイを引っ張りながらその言葉を聞き、目を上げた。車内の明かりは暗く、酒の香りが漂う中、彼の目には浅いまつ毛の影が覆っていた。「何て言った?」と再び森下に尋ねた。森下は自分の問題を意識せず、もう一度繰り返した。「桜井さんと……」「桜井さん?」とすぐにその言葉を遮り、冷たい雰囲気が漂った。森下は自分のどこが間違っているのか分からなかった。輝明は冷ややかに笑い、「森下、俺と桜井綿はまだ離婚していないのに、もう呼び方を変えたのか?」以前は「奥様」や「奥さん」と呼んでいたのに、今は「桜井さん」か?相手の不機嫌を察知し、森下は自分を弁護した。「社長、それは……陸川さんがそう言ってくれと言ったんです」嬌のことを聞くと、心は沈んだ。車内は一瞬で静まり返った。森下は気まずく社長の様子を見守り、言葉を飲み込んだ。輝明は椅子に体を預け、喉が上下に動き、一瞬の沈黙が流れた。森下が尋ねた。「社長、どこに行きますか?」彼は目を上げ、森下を見て、急に尋ねた。「あの日、お祖母様が別荘に行くように知らせたのは君だったのか?」森下は一瞬固まった。何か言いたそうに口を開けたが、「どうだ?」と輝明が眉をひそめた。黙ってうなずいた。輝明は息を呑み、拳を握りしめた。「森下!」あの日、綿が知らせたと誤解し
「今日は本当にありがとうね。途中で少しトラブルがあったが、韓井さん、どうかお許しください」 桜井家の門前で、綿は申し訳なさそうに言った。 司礼は車のそばにもたれ、軽く眉を上げて、何気ない表情で言った。「楽しんでくれたなら、それでいいよ。そんなことは大した問題じゃないさ」 綿は微笑み、目を細めた。「ありがとう」 「とんでもないよ。関係ない人に心を乱されないようにね」と司礼は言った。 綿はうなずいた。「ええ。また会いましょう」 司礼もうなずき、車に乗って去っていった。 綿はその場に立ち尽くし、司礼の車が見えなくなるまで見送っていた。そして、ようやく腕を振って家に帰ろうとした。 こんな紳士で優雅な男性に出会えるなんて、珍しいことだ。でも、自分なんかには到底釣り合わなかった。家に戻ろうとしたその時、背後から聞き覚えのある声がした。「綿」 その声は少ししゃがれていたが、まるで温かさを含んでいるようで、綿の心に火を灯すようだった。綿はすぐに振り返り、遠くに停まっている黒いマイバッハを見た。輝明が車の前にもたれかかり、深い目で見つめていた。 先ほど司礼との別れに夢中で、この場所に誰かがいることに気づかなかった。 どうしてここにいるの? 綿の表情はすぐに曇り、少し不機嫌そうに見えた。 輝明はその顔色の変化を見逃さず、喉が上下に動いながら、目つきを冷たくした。 彼と会って、そんなに嫌なのか? さっき司礼の前では、あんなに楽しそうに笑っていたのに。 「何か用ですか?」綿の声はとても平静で、まるで見知らぬ人に話しかけるかのようだった。 彼の耳には、その言葉がまるで他人との会話のように聞こえた。 輝明は綿を見つめ、黒い目は深くなった、口を開かずにただ見つめ続けた。 いつからだろう、こうやって見ることすらも贅沢に感じるようになったのは。 綿はその視線にさらされて、体中がむずむずと不快になった。 以前はあんなに自分を見たがらなかったのに、今こうして見つめてくるのはどういうことだろう?「高杉さん、用がないなら私は帰るわ」綿の声は少し明るくなった。 輝明は喉が上下に動いた、帰ると言ったことでようやく口を開いた。「あの男といつ知り合ったんだ?」 綿は
何これ、酔っぱらって暴れに来たのか、と、綿は思った。唇を軽く噛みしめ、見上げた。その瞳はどこか暗かった。「これは私のプライバシーよ。答えなくてもいいでしょう?」彼を押しのけようとしたが、腕を壁に押さえつけされた。「高杉輝明、これ以上やったら警察を呼ぶわよ!」綿は強い口調で言った。「うん、呼べばいいさ」彼女を睨み、その目には何かが燃え上がるような光があった。結婚している最中だし、綿に何かしたわけでもなかった。警察がどう対応するか見てやりたかった。綿はその顔を見つめながら心が痛んだ。愛されてないことを知っていた。何度も質問するのは、離婚がまだ成立していないのに他の男とイチャイチャするのが許せないだけだった。これは、輝明のプライドを傷つけることだった。綿は鼻をすすり、彼を睨んで笑顔を浮かべながら言った。「そうよ。司礼が好きになったの」輝明の体が一瞬硬直した。「離婚が成立したら、司礼と付き合うつもりよ」彼女は続けた。「私は人を見る目がないから、これは父が見つけてくれた相手。私は満足しているわ」その言葉に輝明の目には怒りが宿っていた。人を見る目がないと言ったが、それは彼を批判していることだった。「私たちが離婚したら、あなたもすぐに陸川と結婚するんでしょう?それもいいわね」綿は再び彼を見つめた。二人の目が合ったとき、彼女の目は赤くなっていた。この言葉を出すのがどれほど苦しいかきっと知らなかった。彼女は自分が思ったほど冷酷ではないことを認めざるを得なかった。この男を長い間愛してきた。簡単にその愛を捨てることはできなかった。時間がかかることだ。「この三年間、まるでゴムのバンドのようだったね。あなたは陸川に向かって突っ走り、私は引き留めようとしたけれど、うまくいかなかった。結果的に自分だけが痛んだわ」綿は苦笑しながら続けた。「手を離した後、本当に楽になったのよ」綿は顔を上げた。彼の体が少し動き、街灯の光がその顔に当たった。彼女の目には涙が光っていた。綿は下唇を噛みしめ、愛してきたこの顔をじーと見つめた。手を伸ばし、もう一度彼の温もりを感じたかったが、手を止めた。彼は自分に触れられるのが嫌いだからだ。輝明の瞳孔が縮まり、その手が止まるのを見て、胸が苦しくなった。綿は微笑み、涙が一滴流れ落
株価が下落しても、輝明はこれほど悩まない。でも綿を不快にさせたことだけは、いつまでも気にしてしまう。こんなに早く諦めるとは思わなかった。輝明は淡々と言った。「ずっと一人の人を好きでいるのは、面倒なことを引き起こすだけだ」エレベーターのドアが開いたが、輝明は外をぼんやりと見つめ、動こうとはしなかった。秋年は彼が何を考えているのか分からず戸惑った。躊躇しているのか、それともエレベーターから出たら本当に綿を諦めると決めてしまうのか。もし今振り返れば、後悔して引き返すこともできる。だがここを出たら、もう本当に綿を手放す決意を固めたことになるのだろうか。秋年はあえて声をかけなかった。エレベーターのドアは開閉を繰り返していた。不思議なことに、その間誰一人としてエレベーターに乗ってこなかった。誰かが乗り込んできて綿のいる階を押したら、輝明は後悔して戻ってしまったかもしれない。しかし、それも起きなかった……輝明は俯いてため息をつき、目を閉じた。そしてゆっくりと顔を上げ、静かに外へ一歩を踏み出した。秋年は、その瞬間自分の心が沈んでいくのを感じた。これで、本当に綿と輝明は終わりを迎えたのだろうか。綿が輝明を七年間も激しく愛してきたが、最後はこうして幕を閉じたのだ。そして今度は輝明が一人を愛する辛さを思い知ったものの、結果は何も得られなかった。秋年は心底親友を気の毒に思った。「酒でも飲むか?俺が付き合う」秋年が提案した。輝明は首を振った。「胃が痛いんだ」秋年はそれが本当かどうか分からず、輝明の顔をじっと見つめた。少し考えたあと、輝明が静かに言った。「大丈夫だよ。これから病院へ行って祖母に会ってくる。ありがとう、秋年」そう言うと、輝明は一人で病院の方へ歩き出した。秋年は彼が気になる様子で、「明くん、病院まで送ってやろうか?」と声をかけた。輝明は振り返らず、「大丈夫だ。近いから」と冷たい声で答えた。秋年が後を追おうとすると、輝明は振り返って言った。「自分の仕事を片付けてこい。俺は一人で大丈夫だ」その言葉を最後に、輝明は秋年の視界から消えていった。冷たい風が吹きすさぶ中、街の雰囲気も冷たく澄んでいた。しかし、それ以上に冷え切っているのは輝明の心だった。彼は、これまでの人生が順調に進んでいるように
綿は言葉を終えると、そのまま席に戻った。炎と秋年は何かを話しているようだったが、雰囲気はどこか重たかった。席についた綿は何も言わずに、黙々と料理を食べ始めた。しばらくして、輝明も席に戻ってきた。だが、彼は椅子に座らず、秋年に向かって言った。「秋年、行こう」秋年は驚いたように彼を見た。「え?もう食べないのか?」輝明は軽くうなずき、低い声で答えた。「会社の仕事があるからな。もしくは、俺だけ先に行くか?」秋年は綿を見た。綿と輝明は、一緒に席を外したばかりだったため、何かあったのではないかと気になった。秋年は周囲の空気を読むのが得意だ。輝明と綿のどちらも妙に落ち着いているように見えるが、こうした過剰な平静さは作られたものだとすぐに察した。結局、彼は深く考えずにうなずいた。「じゃあ、俺も一緒に行くよ」輝明は炎に視線を向け、少しの間だけその場に立ち尽くしていた。そして軽くうなずくと、足早に席を後にした。秋年もその後を追いかけ、二人で店を出ていった。炎は眉をひそめながら、二人が離れていく姿を見送った。先ほど、輝明と綿が何を話していたのか気になって仕方がない。炎は綿に尋ねた。「大丈夫かい?何かあった?」綿は無表情でフォークを手に取り、軽く笑った。「私たちに何があるの?ただの他人同士よ」綿の声には冷たさが感じられた。その後、彼女はワインボトルを手に取り、炎に向かって言った。「一杯どう?」炎は一瞬迷ったが、結局うなずいた。「車で来たけど、運転手を呼べばいい。君が飲みたいなら、俺も付き合うよ」彼女の気持ちを尊重するような態度だった。綿はグラスを炎に手渡し、軽くグラスを合わせた。炎は真剣な眼差しで綿を見つめた。「綿ちゃん、どんな状況であっても、俺は君が幸せでいることを願っているよ」もし彼の気持ちは綿を困られたのなら、諦めてもいいのだ。彼の真剣な言葉を聞いて、綿は短くうなずいたが、何も言わなかった。炎はグラスを一気に空けた。エレベーターの中、沈黙が続いていた。輝明はスマホを手に持ち、森下にメッセージを送っているように見えたが、実際には何も打ち込んでいなかった。ただ、忙しいふりをしていただけだ。秋年は彼の手に触れ、問いかけた。「何があったんだ?さっき桜井と何を話した?それでいきなり店
助けてくれたからじゃない、ずっと前から愛していた。でも、それに気付かなかったんだ。「じゃあ、こんな言葉を聞いたことがある?」綿は彼を見つめ、微笑を浮かべながら言った。「本当に誰かを好きなら、その人を自由にしてあげるべきだって」「君は3年間も俺に執着した。なら、俺が3年間執着してはいけない理由がどこにある?」輝明は即座に反論した。綿は唇を噛みしめながら答えた。「私が執着したのは3年だけじゃないわ」彼女の声が少し震えた。「7年だ。たったそれだけの時間でさえ、一度も報われなかった。あなたはどれくらい執着し続けるつもりなの?」彼女の静かな問いかけに、輝明は何も答えられなかった。そうだ、綿は3年間どころではなく、高校1年の時から今まで、7年という歳月を彼に捧げていたのだ。彼女こそが、青春そのものを犠牲にした人だった。綿の声が再び響いた。「お互いを解放して。お願いだから」その言葉に込められた切実さを目の当たりにした輝明は、一瞬言葉を失った。彼女が自分に対してこんな目で見つめるのは初めてだった。以前の彼女がこの目で彼を見つめるときは、彼に何かをしてほしい、そばにいてほしいという願いを込めていた。しかし今、彼女の瞳からは一つのメッセージだけが伝わってきた。「お互いを解放してほしい。どうかお願い」そして、彼女はその願いに「お願いだから」という言葉を添えた。それは輝明にとって最大の衝撃だった。彼は深く息を吸い込んで尋ねた。「本当に、俺に解放してほしいのか?」彼女の目に一片の未練を見たいと願ったが、そこには何もなかった。綿は静かに頷いた。その仕草には一切の迷いがなかった。彼女の心の中では、すでに「高杉輝明」というページが完全に閉じられていた。誰もが同じ場所に留まることはできない。綿は前に進み続け、輝明だけが取り残されていた。彼は彼女の目に浮かぶ確固たる意思を見て、全てを悟った。頭を垂れ、力なく笑みを浮かべた。この7年間、彼は無駄に過ごしてしまった。そしてついに、彼女を失ったのだ。「分かった」そう口にする輝明の声は、やけに乾いていた。綿は瞼を軽く震わせ、彼の「分かった」という言葉をはっきりと聞き取った。「分かった、分かった……」輝明はその言葉を繰り返し、声に出
輝明は水を一口飲み、冷静な視線を綿に向けた。綿は食事に集中しているように見えたが、その表情には無関心さが漂っている。だが、輝明には分かっていた。綿はバタフライと非常に親しい間柄だ。彼には到底理解できなかった。どうして綿がバタフライのような人物と知り合いなのか。綿は彼の視線に気づき、不快感を覚えた。ナイフとフォークを静かに置き、無表情で言った。「お手洗いに行ってくるわ。みんなで話してて」そう言って立ち上がり、スマホを見ながら席を離れた。残された三人は彼女が視界から消えるまで無言で見送り、ようやく目線を戻した。秋年はため息をついた。「なあ、明くん。俺たちここにいるの、やめないか?酒が飲みたいなら、俺がバーに付き合うよ」この修羅場のような状況に巻き込まれるのは本当に疲れる。特に秋年にとって、二人の親友が一人の女性を巡って争う姿を見るのはつらかった。彼はどちらの肩を持つべきか分からなかった。輝明の肩を持つとすれば、彼が過去に綿を傷つけた事実があり、彼女が今は彼に興味を持たないのも当然だ。一方で、炎の肩を持つとすれば、彼が選んだ相手がよりによって輝明の元妻だというのも、また微妙だ。感情の問題は理屈では解決できない。こんなに悩むくらいなら、二人とも引き離して、もう綿と会わないようにした方がいい。面倒を解決できないなら、いっそのこと面倒を避けよう。それが秋年の本音だった。輝明は何も答えず、グラスの酒を飲み干すと席を立った。「……どこに行くつもりだ?」秋年は困惑しながら彼の背中を見つめた。輝明は無言でトイレの方向へ向かった。綿はその廊下で壁にもたれかかりながらスマホをいじっていた。実際にはトイレに行くつもりなどなく、単に静かに過ごせる場所を探しただけだった。輝明がこちらに向かってくるのを見て、綿は女洗面所へ入ろうとした。「綿」彼の声が背後から響いたが、彼女は立ち止まらない。しかし、輝明は彼女の腕を掴んだ。綿は冷たい目で彼を見つめた。その視線には「もういい加減にして」と言わんばかりの冷淡さがあった。彼女が避けているのに、どうして追いかけてくるのか。まさか今すぐ家に帰れと強制するつもりなの?輝明は彼女の視線を受け、そこに込められた拒絶の意志を痛感した。彼は
綿は思わずくすっと笑った。この人、ますます小犬みたいになってきたなと思いながら、牛肉を切って口に運ぼうとした瞬間、ふと視線の先に見覚えのある顔を見つけた。炎も綿の視線を追うようにそちらを見る。輝明と秋年だ。綿は目を細めた。まさかわざとここに来たのでは?昼間に炎と電話していたとき、ちょうど輝明も近くにいたからだ。輝明と秋年の顔にも驚きの色が浮かんでいた。特に秋年は、驚きだけでなく少し呆れた表情をしていた。この状況にまた巻き込まれるとは、彼もついていない。修羅場だ、まったく。綿は黙って牛肉を噛みしめながら、輝明を冷ややかな目で見つめた。輝明も綿を見つめ返し、数秒後、彼はそのまま彼女のテーブルに向かって歩いてきた。炎も立ち上がり、自然に挨拶をした。「明くん、秋年」綿は心の中で申し訳ない気持ちを覚えた。炎が勇敢なのはわかっているが、彼がこの選択をした時点で、彼の友人関係に亀裂が入る可能性があることも承知していただろう。彼女と未来を築けるかどうかもわからないのに、彼はリスクを取ったのだ。「偶然だな。一緒に食事してもいいか?」輝明はそう言いながら、綿の隣の椅子を勝手に引いて座った。綿も炎も何も言わないうちに、彼はすでに座り、そのまま秋年を見て言った。「秋年、座れよ」秋年はため息をついた。まったく、またか。こういう場面に巻き込まれるのは本当にしんどい。座らないと輝明の顔を潰すことになるが、座ると炎の顔を潰すことになる。秋年は本当に外に出て電話に出たいと思った。たとえ会社で何か問題が起きたと言われてもいい。しかし、会社には何の問題もなく、彼は逃げられなかった。炎はそんな秋年の困惑を察し、笑顔で言った。「秋年、一緒に座って食べよう。賑やかな方がいいだろう」秋年は渋々席に着いた。輝明は綿の隣に、秋年は炎の隣に座る形となった。ウェイターが注文を取りに来たとき、秋年は冗談を言いながら場を和ませようとした。「炎のおごりか?」「もちろん。俺が出すよ」炎は軽く頷いた。綿は目を伏せて静かに食事を続けた。輝明が彼女のためにワインを注ぎ、「飲む?」と聞いたが、綿は首を横に振った。輝明はそれ以上何も言わず、自らワインを飲み始めた。どうせ運転するのは秋年だから、彼が飲んでも問題ない。その姿を横目で見ながら、綿は微か
綿は軽く咳き込み、手に持っていた水で喉を詰まらせそうになった。最近、周りの人たちはやたらとバタフライの話題を持ち出してくる。話す側は飽きないのかもしれないが、聞かされる方はもう十分だ。炎は綿が咳き込む様子を見て慌ててティッシュを差し出したが、綿は首を横に振り、軽く鼻をすすりながら言った。「バタフライってそんなに優秀なの?どうしてみんな揃いも揃ってバタフライを招きたいの?」「君はバタフライと知り合いじゃないか。それに君とバタフライのニュースも見たよ」炎は軽く咳払いをした。綿「……」どうやら炎がなぜ自分を食事に誘い、花まで贈ってきたのか、その理由が分かってきた。「ということは、商崎さんも?」綿は首を傾げながら炎を見つめ、ストレートに話してくれるよう促した。炎は少し戸惑いながらも、話題がいつの間にかバタフライに移ってしまったことに気づいた。「いやいや、綿、君を食事に誘ったのはバタフライの件で何か頼みたかったからじゃない。君に引き合わせてもらう必要なんてないよ。実はもう自分で連絡を取っているんだ」炎は急いで説明した。綿に誤解されたくなかったのだ。本当にバタフライのためではなく、単純に忙しい仕事の合間を縫って会いたかっただけだ。彼は普段からこういう正直な性格なので、曲がったことは嫌いだ。だからこそ、誤解があればすぐに解きたいと思っていた。綿は炎の言葉から、その意図を読み取った。確かにバタフライの件で頼りたいわけではないようだったが、綿は彼をからかうように言った。「本当に違うの?もしあなたが頼みたいなら、私は喜んで引き合わせてあげるけど」炎はすぐに首を振った。「本当に必要ない」さすがは商崎家の後継者である彼。彼の人脈をもってすれば、バタフライに連絡を取るくらい簡単なことだ。ただし、バタフライを引き抜くとなると話は別だ。さらに、今日耳にした話では、高杉グループも宝飾業界への進出を目指しているらしい。もしかすると、輝明もバタフライを狙っているのかもしれない。もし複数の企業がバタフライを狙い始めたら、彼女の商業価値はさらに高騰し、最終的には単なる価格の問題ではなくなる。それは彼らがバタフライを選ぶのではなく、バタフライが彼らを選ぶ状況になるのだ。「この間、ソウシジュエリーの展示会に行ったけ
陽菜から再びメッセージが届いていた。内容はまたしてもバタフライについての話だった。彼女がバタフライを好きなことは綿も知っていたので、その話題をしつこく追及されることについて、特に気にしてはいなかった。ただし、陽菜がもし挑発的な態度を取るようなら、話は別だった。陽菜【やっぱり信じられない。本当にバタフライと知り合い?それともあの時、体裁を保つためにそう言っただけなんじゃないの?】綿【私にそんな必要があると思う?あなたみたいに、面子がそんなに大事だと思ってるわけじゃないわ】少し考えた後、綿はもう一通メッセージを送った。綿【そのうち、バタフライの回帰作を手に入れたら、見せてあげるわね、小娘】「小娘」という言葉を見た瞬間、陽菜の顔は途端に曇った。綿の目には、彼女が「小娘」にしか映っていないということだろうか?綿はそのままスマホを閉じた。すると炎が口を開いた。「仕事の環境、うまくいってる?噂では、誰かが君にちょっかいを出してるらしいけど」綿は彼を見上げた。こんなことまで知っているのか?「商崎さん、もしかして研究所にスパイでも送り込んでるんじゃない?」彼女は首を傾げて彼を見つめ、興味津々な様子だった。炎は軽く咳払いをし、真剣な表情で答えた。「そんなことするわけないだろう。俺は正直者だよ。知りたいことがあれば、君に直接電話して聞くに決まってる。わざわざ隠れて調べるなんて、そんなことしたら君に嫌われちゃうだろ?」綿は口を尖らせながら炎を睨んだ。確かに、この人はそういう分別がある。ただ、この男はいつも調子がいいので、どこまで本気でどこまで冗談なのか、彼女には全く分からないのだ。車内で綿は大きなあくびをし、頬杖をつきながら窓の外を眺めた。「好きにすればいいけど、私があなたを好きかどうかは、私が決めるわ」彼女はわざとそんなことを言って炎を傷つけようとしたわけではなかった。炎が本当にいい人だということは分かっていたし、できる限り傷つけたくはない。ただ、自分にはもう人を愛する余裕がないということも、はっきりと自覚していた。そしてもう一つ。炎と輝明が良い友人関係にあることも、綿の心を重くしていた。もし彼女のせいで二人が争うことになれば、それは二人以上に、綿自身が一番笑われることになるだろう。彼女は自分が笑いもの
綿が研究所に戻ると、陽菜は入口で待っていた。綿は彼女に一瞥をくれただけで、特に感情を示さず淡々としていた。陽菜が声をかけた。「ねぇ、私に何か言うことがあったんじゃないの?」綿は笑みを浮かべながら答えた。「何を言う必要があるの?私の行動予定や、誰と会ったかを報告しなきゃいけないの?」陽菜はじっと綿を見つめ、不機嫌そうな表情を浮かべていた。バタフライに関して、彼女が何も話してくれないことがどうにも納得がいかなかった。陽菜の中では、綿が自分の前でバタフライの話題を避けたのは、自分を馬鹿にしているのではないかという怒りが膨らんでいた。「あんた、バタフライを知ってたんだろ?なんで今まで黙ってたの?」陽菜の声には苛立ちが滲んでいた。綿のせいで自分がジュエリー展示会で恥をかかされたと思ったからだ。綿は微笑みながら、冷たく言い放った。「バタフライだけじゃないわよ。段田綿だって知ってるし、いろんな人と知り合いよ。それも全部報告しなきゃいけない?」陽菜は眉をひそめた。段田綿?あの段田綿って、もしかして「神医」と呼ばれる段田綿のこと?陽菜が焦りの色を濃くしていた中、綿は無言で彼女を押しのけ、研究所の中へと足を進めた。陽菜は慌てて追いかけた。綿はどうしてこの伝説の二人と知り合いなの?気になってしょうがない。その姿はどうにも必死すぎて、綿にとってはただの煩わしい存在でしかなかった。綿は立ち止まり、振り返って冷たい目で陽菜を見つめた。「もしこれ以上追いかけて研究所の業務を邪魔するなら、陽菜、あなたを解雇するしかないわね。分かってるでしょう?うちの研究所は、あなた一人いなくても困らないのよ」その言葉には怒りが滲んでいて、彼女の決意が見え隠れしていた。陽菜はこれ以上彼女を邪魔したら、絶対に首にしてやると決めた。徹がいても関係ないのだ。陽菜は思わず足を止め、綿を見つめた。彼女の目には少しばかりの悔しさが宿っていた。綿は軽く鼻を鳴らし、研究室へと消えていった。陽菜は柏花草の研究に従事することができず、研究室のドアを閉めるのを見送ることしかできなかった。綿は携帯をポケットにしまい、後ろを振り返って陽菜を一瞥するのを忘れなかった。夜。綿が研究所を出ると、入口で炎が待っていた。彼の手には真紅の
綿は視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。「じゃあ、少しだけ?」その一言に、炎は喜びを隠せなかった。「いいね!じゃあ、夜に迎えに行くよ」「大丈夫。車で来てるから、場所だけ教えてくれれば自分で行くわ」綿は髪を耳にかけるように後ろに巻き、ふともう一度輝明に視線を向けた。二人の目がばっちりと合う。綿はにっこり微笑んでみせ、あたかも「挨拶」をしたかのようだった。輝明「……」これは挑発か?他の男と電話で話しながら、彼に向かって笑顔を見せるなんて、完全に彼を馬鹿にしている。彼の顔は冷たく硬直し、その場で車を路肩に停めて綿に問い詰めたい衝動に駆られた。だが、彼女が今日口にした言葉を思い出すと、余計な言葉を飲み込むしかなかった。綿は電話を切った。しばらくして、車内の沈黙を破ったのは輝明だった。「……炎?」「そうよ」 綿は特に隠すつもりもなく答えた。「いいお店を見つけたから、一緒に食べようって誘われたの」「それで、承諾したんだな」輝明の声には抑えた苛立ちが滲んでいた。綿はスマホに視線を戻しながら淡々と言った。「炎は誠実だもの。もし可能性があるなら、試してみたいわ。結局のところ、人は前を向いて生きていかなきゃいけない。あなたも同じよ」その言葉には明確なメッセージが込められていた。「結局、俺に諦めろって言いたいんだろう?」「その通りよ。分かってくれるなら助かるわ」綿は軽く頷き、さらにこう付け加えた。「疲れているようだけど、頭の回転はまだ速いのね」その皮肉交じりの称賛に、輝明は冷笑を漏らした。「相変わらず根に持つ性格だよな」綿は何も言わなかった。「君は俺のことを少しも理解してくれない。俺だって被害者なんだぞ」まるで自分の悲哀を訴えかけるような口調だった。綿は冷静に一言だけ返した。「そうね。私はあなたを理解できないし、あなたも私を理解できない」彼女の目はどこか熱を帯び、言葉には揺るぎない誠実さが込められていた。「以前こう言ったはずよ。『私たちがこの問題を乗り越えられないのは、自分が被害者でないからだ』って。ほら、今のあなたもそうでしょう。自分が傷ついたと思った瞬間から、私のことを小さなことで騒ぐ人間だと感じるようになった。でも結局のところ、あなたの心の中に引っか