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第4話

作者: 空木林
音瀬は理解した。だが、結婚は遊びではない。彼女は躊躇いながら首を振った。

「必要ないでしょ?ちゃんと桐生様を説得すれば……」

しかし、その言葉は最後まで言えなかった。途中で遮られたのだ。

湊斗の顔色は変わらず、波風一つ立たない声で言った。「条件として、金銭的補償をする」

金銭的補償?音瀬は一瞬呆気に取られ、拒絶の言葉が喉の奥で詰まった。

弟は治療費を待っている。

彼女が桐生家を訪ねたのは、そもそも金のためだった。

彼女の動揺を見て取ると、湊斗はさらに言葉を続けた。「お前が承諾するなら、いくらでもくれてやる」

音瀬は数秒間沈黙し、その後、小さく頷いた。「わかりました、承諾します」

湊斗は視線を落とし、目の奥に潜む冷笑を隠した。

金のために結婚を売り渡す女など、安っぽいものだ。

まあいい。後々、始末するのも簡単だ。

「契約書は用意する。明日の朝、身分証明書を持って、役所で待て」

「はい」

翌朝、音瀬は役所の前で待っていた。

昨夜は一睡もできず、頭がずっとぼんやりしていた。そんな状態のまま、湊斗が現れる。

彼がゆっくりと近づいてくるのを見て、音瀬は必死に微笑んだ。「桐生さん」

しかし、湊斗は彼女に一瞥もくれず、ただ真っ直ぐ中へ進んだ。

「さっさと来い」

「ええ、今行きます」

手続きはすぐに終わった。音瀬は、自分の手に握られた結婚証明書を見つめながら、複雑な心境だった。

生きるために、身体を売り、そして今度は結婚まで売った。

役所の前には二台の車が停まっていた。

湊斗は後ろの車を指し示した。「乗れ。運転手が住居まで送る」

そして、彼自身は前の車に向かった。

「義姉さん」

大塚が音瀬の前に立ち、彼女に一枚のカードを差し出した。「湊斗兄さんからです」

約束はあまりにも早く果たされた。音瀬は拒まず、カードを握りしめた。

心から感謝して、湊斗に向かって言った。「ありがとうございます」

湊斗は振り向くこともなく、取引に過ぎないと言わんばかりだった。

「拓海、こいつには義姉さんなんて呼ばれる資格はない。行くぞ」

しかし、音瀬は運転手と一緒には行かず、住所だけ聞くと彼を帰らせた。

そして彼女が向かったのは青山療養院——自閉症専門の治療施設だった。

ベンテイガの車内で、湊斗は大塚に指示を出した。「菜月のところへ行って、結婚の話は取り消しになったと伝えろ。機嫌を損ねないようにな。欲しいものがあれば全部用意しろ」

「わかった、兄さん」

湊斗のスマートフォンが振動した。消費通知のメッセージだった。

——末尾番号XXXXのクレジットカードで、400万円が支払われました。

カードを渡したばかりで、もうこんな大金を使ったのか!

フン。

……

青山療養院を出た音瀬は、領収書を持っていた。

帳簿を開き、一筆記す。

——XX年X月X日、湊斗さんから400万円の借金。

彼女は最初から彼の金をもらうつもりはなかった。今は返す力がなくても、いつか必ず返すつもりだった。

一つの懸念が解消され、音瀬は深く息をついた。

二日間緊張しっぱなしだったせいか、急に力が抜けて足元がふらついた。背中と額には冷たい汗が滲んでいた。

彼女は実習医として、これが何の症状かよく分かっていた。

あの夜が激しすぎたせいで、ずっと身体のある部分が痛み、まだ出血も続いている。放っておくのはまずいかもしれない。

彼女はすぐに病院へ向かい、婦人科の診察を受けることにした。

……

湊斗は会議中だったが、大塚から電話が入った。

「兄さん!」大塚の声が焦っていた。「菜月さんが倒れた!婚約破棄を伝えた直後、急に気を失ったんだ。今、病院に運んでる!」

「すぐ行く!」

病院にて。

祥子が大げさに泣き喚いていた。「うちの可哀想な娘よ!婚約が破棄されるなんて、こんなの死ぬようなものじゃない!」

「ママ、そんなこと言わないで。桐生社長はもう別の人と結婚したよ」

菜月は涙目で、悲しげに言った。

「私はただ……運がなかったんですよ。桐生社長、見舞いに来てくださってありがとうございます」

湊斗は女の泣き顔が嫌いだった。だが、菜月は彼の最初の女だった。

少しは気を遣う必要があった。

「突然のことだった。彼女と結婚したのは、ただの一時的な措置にすぎない。俺と彼女の間に感情はない。離婚するのは時間の問題だ。お前に約束したことは変わらない。ただ、少し待ってほしい」

「本当ですか?」祥子は泣き止み、目を輝かせた。「桐生様、まさか菜月を騙しているわけじゃないでしょうね?」

湊斗は疑われることを好まなかった。たとえそれが菜月の母親であっても。

「俺を疑うのか?」

「信じます!」

菜月は湊斗の袖をぎゅっと掴み、涙を拭った。「私は信じています」

その言葉に、湊斗の表情が和らいだ。

彼の大切な女が、傷ついてしまった。

すべて、音瀬のせいだ。彼女のせいで、菜月が悲しむことになったのだ。

「ゆっくり休め。余計なことは考えるな」

「うん、言う通りにしますね」

菜月を落ち着かせると、湊斗はすぐに会社へ戻ろうとした。

だが、病院のロビーを通り過ぎた時、ふと見覚えのある姿が目に入った。

あれは、池田音瀬?

彼女が白波町に行かず、ここに来た理由は何だ?湊斗は無意識に彼女の後を追った。

音瀬が入ったのは、一つの診察室だった。湊斗が上を見上げると、扉に掛かっているプレートが目に入る——婦人科!

湊斗の顔色が一瞬で暗くなった。彼女を待つことにした。

半時間後、音瀬は顔色を悪くしながら、壁に手をつき、ゆっくりと診察室から出てきた。

音瀬は驚いた。「なんでここに?」

湊斗は答えず、代わりに問い返した。「お前、婦人科になんの用だ?」

「私のことですよ」音瀬は目をそらして、「あなたと関係ないでしょ」

その瞬間、診察室の扉が開いた。中から看護師がカルテを手に持って、彼女を呼んだ。

「池田さん、診察記録を忘れてますよ!」

「あ、ありがとうございます!」

音瀬が手を伸ばした、その時。湊斗の手が、彼女よりも早くカルテを奪い取った。

音瀬は驚いて跳び上がるように彼の手を掴んだ。「返して!見ないで!」

「お前の思い通りになるとでも?」

身長差を活かして、湊斗は軽々とカルテを開いた。音瀬は、泣きそうな顔でそれを取り返そうとした。

「あなたに何の権利があるの?見ないでよ!」

しかし、湊斗はすでに目を通していた。

彼の顔は一瞬にして暗くなり、まるで鍋底のように黒く沈んだ。信じられないという表情で、低く冷ややかな声を発した。「お前、これは何の傷だ?」

音瀬は羞恥で目を閉じ、顔から血の気が引いていった。

看護師が呆れたように口を挟んだ。「あなた、彼氏なのに知らないんですか?ひどいですよねぇ。自分だけ気持ちよくなって、彼女は三度の裂傷ですよ?何針も縫ったんですよ。もう少し労わってあげなさいよ」

看護師は背を向けながら、ぼそっと呟いた。「経験ないなら、高難度のプレイなんてやるもんじゃないわよ……」

湊斗は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。三度の裂傷?縫合?高難度のプレイ?

どれだけ激しくやったって言うんだ!

彼はこんな女と結婚したのか!

結婚したばかりなのに、もうこんなに堂々と浮気するとは!

彼女のせいで、菜月が悲しんだというのに!

「池田、お前の厚顔無恥ぶりは想像を超えてるな!呆れたぞ!」

湊斗は彼女の手を強く掴み、そのまま引きずるように歩き出した。

力が強すぎて、音瀬は痛みに顔をしかめた。「どこへ連れて行くんです?」

「じいさんのところだ!」

湊斗の頭の中は、怒りで真っ赤だった。

「お前の本性をじいさんに見せてやる!こんな尻軽な女が、どうやって桐生家に入り込んだのか、じいさんに説明してもらおうじゃないか!」

音瀬は申し訳なさと、言いようのない無力感でいっぱいだった。

彼に伝えたかった。結婚を望んだのは私じゃない。彼の方でしょう?

しかも、形だけの契約結婚だったはず。お互い干渉しない、すぐに離婚する、そういう約束だったのに。

でも、湊斗には大きな恩がある。もういい、彼がどうしようと勝手にさせればいい。

病室に着くと、湊斗は勢いよく扉を開け、音瀬を中へと突き飛ばした。

「さあ、自分の口でじいさんに言え。お前がどんな女なのか!」

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    墓の件は、こうして決まった。それだけではなく、祐樹は風水師を呼び、最適な日取りと時刻まで決めた。その日、空は澄み渡り、そよ風が心地よく吹いていた。陽介と梨香が、音瀬に付き添っていた。墓地に着くと、すでに祐樹が待っていた。音瀬は一瞬、驚いたが、すぐに視線をそらした。梨香は眉をひそめ、陽介を睨みつけた。「何であいつがいるの?」「さあ?僕が知るわけねぇだろ」陽介は平然としらばっくれた。「音瀬」冷たい態度を取られても、祐樹はまったく気にした様子がなかった。「おばさんを見送るために来た。もし知らなかったならともかく、知ってて来なかったら、僕の良心が許さない」梨香は即座に言い返した。「あなたに良心なんてあったっけ?」「梨香」音瀬が梨香の腕をそっと引き、首を横に振った。梨香は口を尖らせたが、それ以上は何も言わなかった。音瀬は祐樹を見つめた。「来てくれて、ありがとう」今日は母親を埋葬する日だ。彼女は母の墓前で争うようなことをしたくなかった。祐樹は少し驚いたように微笑んだ。「礼には及ばない」当然のことだ。その言葉は、心の中で静かに呟いた。埋葬の儀式は、滞りなく進んでいった。音瀬は墓石の前に膝をつき、声を殺して涙を流した。梨香はそっと隣に寄り添った。背後では。陽介は祐樹を一瞥し、「何で彼女に言わなかった?」と問いかけた。墓地の手配をしたのは、祐樹だった。祐樹の視線は、一瞬たりとも音瀬から離れなかった。「必要ない。僕は彼女を感動させるためにやったわけじゃない。人生は長い。これから先、僕が彼女にしたすべてのことを知らせるなんて、面倒なだけだろ?」チッ。陽介は歯が浮くような気分になった。続けて言った。「音ちゃんが僕に送った金、一旦あんたに回すわ」金?祐樹は意外そうに眉を寄せた。陽介は鼻で笑った。「あんた、音ちゃんの性格知らねぇのか?タダなんて絶対受け取らねぇよ。だから、僕が限界まで安く見積もって、『原価だ』って言ったら、やっと納得したんだ」祐樹はその言葉を聞くと、ますます胸が締めつけられる思いだった。「こんな生活、長くは続けさせない」……たとえ原価とはいえ、音瀬にとっては大金だった。今のバイト代だけでは、とても払いきれない。となれば、湊斗が渡した

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第39話

    目の前にいる男の端正な顔には、陰りが差し、不機嫌さが滲み出ていた。だが、怒りを爆発させることはなかった。彼女がまだ怒っているのは、結局ブレスレットのことだ。男として、そして当事者として、彼の対応がまずかったのは事実だった。湊斗は口を開いた。「ブレスレットのことは、俺が悪かった。だけど、お前も勘違いしてる。元々、お前に渡すつもりだったんだ」声は大きくないが、プライドは保ったまま。音瀬は一瞬、驚いた。何で今さらそんな話を?しかも、説明してる?謝ってる?「え……何て?」信じられなかった。すると、湊斗の表情が一変した。「聞こえなかったなら、もういい!」一度説明するだけでも限界だったのに、この女はもう一度言わせるつもりか?スケッチブックなんか、もうどうでもいい。さっきまでの好奇心は、今の怒りに完全にかき消された。「拓海、行くぞ!」「えっ、兄さん」彼らが去ると、すぐに梨香が音瀬のそばに寄ってきた。彼女は音瀬の手にあるスケッチブックをちらりと見て、「ああ、それね。確か、あなたの子供の頃の遊び相手を描いてたやつ?」「うん」音瀬は頷いた。ずっと昔の話だった。二人は荷物を運びながら、話を続けた。梨香は聞いた。「それから何年も経つけど、結局会ってないの?」「会ってない」「まあ」梨香は笑いながら言った。「もし会ってても、お互い気づかなかったかもね。大人になってもあんまり変わらない人もいるけど、子供の頃と比べたら全然違うしね」それも一理ある。音瀬は同意して、「うん、そういう縁だったってことだよね」と呟いた。そう言いながら、スケッチブックを荷物の中にしまい、話を終わらせた。「音ちゃん!」梨香は音瀬を追いかけながら、「ねえねえ、それよりさ、あなたと桐生って結局どういう関係?彼、あなたのこと好きなんじゃないの?」ぷっ!音瀬は大げさに目を翻し、「考えすぎ。彼には好きな人がいるよ。それも、めちゃくちゃ好きなやつ」と言い捨てた。……さて、音瀬にはもう一つ大きな問題が残っていた。――母の遥の遺骨をどうするか。いつまでも梨香の家に置いておくわけにはいかない。しかし、墓地を買うのは簡単なことではなかった。値段が高いのはもちろん、色々な決まりも多い。音瀬は若い上に、金もなかった。

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第38話

    「音ちゃん」梨香が音瀬を肘でつつき、そっと囁いた。「あなたのこと、呼んでるんじゃない?」音瀬はようやく顔を上げ、そちらを見た。二人のすぐそばを、銀色のパガーニがゆったりと並走していた。まるで散歩でもするかのようなスピードで。彼女が顔を覗かせた瞬間、車が静かに止まり、大塚がドアを開けて降りてきた。「音瀬さん、どこ行くんです?そんな重い荷物持って。乗ってよ、兄さんが送るってさ」そう言いながら、彼はスーツケースのハンドルを掴み、持ち上げようとした。「いらない!」音瀬は手を放さず、冷たく拒んだ。「自分で歩けるから」「え……」大塚は困った顔をしながら、後部座席へ視線を向けた。車の窓越しに様子を見ていた湊斗も、事態を理解した途端、神経が一気に張り詰めた。彼は即座に車を降り、大塚を押しのけるようにしてスーツケースを持ち上げ、低い声で命じた。「トランクを開けろ」「はい、兄さん!」何の苦もなく、ひょいとスーツケースを持ち上げ、そのままトランクへ押し込んだ。音瀬は驚きと怒りが入り混じった表情で駆け寄り、湊斗の腕を掴んだ。「何してんのよ!それ、私の荷物!返して!あなたの車なんか乗らない!」「黙れ!」湊斗は低く抑えた声で怒鳴った。今すぐにでも頭を叩いてやりたい衝動に駆られる!五つも年下なんだ、子供みたいなもんだろ!でも、女だから手は出せない。なら、選択肢は二つだ。「自分で乗るか?それとも俺が抱えて乗せるか?」そんなの、選択肢って言える?音瀬は頬をぷくっと膨らませ、不機嫌そうに後部座席に乗り込んだ。その間に、大塚は梨香のスーツケースを受け取り、助手席のドアを開けた。「お嬢さん、どうぞ」「あっ、うん」梨香はぼんやりと頷き、素直に乗り込んだ。後部座席では、湊斗と音瀬が並んで座っていた。二人とも押し黙り、互いに不満を抱えたまま沈黙を守っていた。沈黙の中、梨香が先に口を開いて大塚に住所を教えた。「文昌道通り、江大の裏通り」音瀬の住んでいる場所だった。「了解」車内に会話はなかったが、静かな空気の下には見えない波が渦巻いていた。目的地に着くや否や、音瀬は一瞬もためらわずに車を降りた。誰の手も借りず、慌ただしくスーツケースを引き下ろした。そのスーツケースは年季が入って

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第37話

    音瀬は冷ややかに淡々と矜持ある男を一瞥し、嘲るように笑った。「私が悪かった、勘違いしてた。このブレスレット、私への贈り物だと思ってた。でも、その時ちゃんと言うべきだったよね。私の思い違いだって」今、何て?湊斗は一瞬、理解が追いつかなかった。しかし、彼女はさらに続けた。「桐生社長、彼女に贈るものは、軽々しく他の人に渡さない方がいいよ。私が持っていったせいで、また買い直して彼女に渡さなきゃいけなかったでしょ?面倒じゃなかった?」そう言い残し、彼女は踵を返した。湊斗は険しい表情のまま考えた。菜月に会ったのか?どこで?いや、それは重要じゃない。問題は、彼女が菜月の腕にあのブレスレットがあるのを見たってことだ。だから、不機嫌なのか?どうして?怒るべきなのは菜月の方じゃないのか?何で彼女が?そもそも、あのブレスレットは彼女に贈るはずだったのに。音瀬がドアを開けた瞬間、大塚が入ってきた。笑いながら彼女に声をかける。「音瀬さん、兄さんとの話、終わりましたか?」音瀬は彼に応えず、そのまま踵を返して湊斗を見つめた。「桐生、私はあなたと離婚しない」歯を食いしばり、さらに言葉を続ける。「私のものでないなら要らない。でも、私のものなら誰にも渡さない!」そう言い切って、今度こそ彼女は部屋を出ていった。取り残された湊斗は、呆然と立ち尽くした。しばらく沈黙し、大塚をじっと見据える。「今の、どういう意味だ?」「えっ……」大塚も目を見開き、驚きを隠せない。「兄さん……音瀬さん、今のって告白じゃねぇの?兄さんのこと、好きなんじゃねぇか?」は……怒るな。冷静になれ。湊斗は心の中でひたすら道徳経を唱えた。何で彼の周りには、恋愛経験豊富で女心を理解してるやつが一人もいないんだ?いや、無理だ。我慢できねぇ。「ふざけんな!」告白だと?だったら、何でブレスレットを返すんだよ?……外科棟を出た音瀬は、変わらず骨壷を抱えていた。「音瀬」祐樹が近づいてきた。音瀬は一瞬戸惑いながらも、呟いた。「まだ帰ってなかったの?」祐樹は一瞬言葉を失い、苦笑する。「君がそんな状態で、僕が安心して放っておけるわけないだろ」音瀬はさりげなく後ろへ一歩下がり、距離を取った。「大丈夫だから、心配しないで

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第36話

    「祥子、やめたほうが……」「何グズグズしてるの?まさか金が足りないとか言うつもり?さっさと掘りなさいよ!」祥子は俊夫に口を挟ませる気はなかった。それどころか、彼の態度がますます彼女の怒りを煽った。「一秒でも遅れたら、訴えてやるから!」それでも足りないと思ったのか、さらに鋭い声で言い放った。「桐生社長の名前くらい知ってるでしょう?あの人、うちの娘の彼氏なのよ!私を怒らせるってことは、うちの娘を怒らせること。その娘を怒らせるってことは、桐生社長を怒らせるのと同じよ!」迷っていた作業員たちも、その言葉を聞くと一切の躊躇を捨てた。江城市で、湊斗を知らない人間なんていない。彼が足を踏み鳴らせば、江城市全体が揺れるほどの影響力を持つ男だ。「掘れ!」「ダメ……!」音瀬は慌てて駆け出し、作業員たちを必死に止めようとした。だが、彼女一人の力で、屈強な男たちを止められるはずもない。「っ……!」もみ合ううちに、彼女の手が鋭い石に当たり、鮮血が噴き出した。作業員たちは驚き、思わず動きを止めた。「マジで鬱陶しい!」菜月はイラついた様子で袖をまくり、音瀬の腕を乱暴に掴んだ。「邪魔なんだよ!しつこいってわかんないの?」揉み合う中で、音瀬はふと目を奪われた。菜月の手首にあるブレスレット!――湊斗が彼女に贈ったものと、まったく同じだった。菜月は力を込めて彼女を突き放した。「行けよ!どけ!邪魔なんだよ」その時、不意に誰かの手が彼女の腕を掴んだ。「っ……!」菜月は痛みに顔を歪め、思わず振り向いた。祐樹はもともと端正で穏やかな顔立ちをしていたが、今の彼はまるで別人のように冷たかった。見た目には力を込めていないように見えたが、菜月の手首には激痛が走った。「痛いっ!」「彼女の痛みと比べたら、どうってことないだろ」音瀬の手の甲に滲む鮮血を見て、祐樹の目に怒りが宿る。「失せろ!」手を緩め、そのまま菜月を振り払った。そのまま少し身を屈め、音瀬をそっと抱きしめる。低く囁いた。「音瀬……ごめん、僕、来ちゃった」音瀬は力尽きたように、ぐったりと彼の肩にもたれた。彼女にはわかっていた。今日、母を守ることはできないと……この墓地は池田家の所有地で、どんなに訴えても無駄なのだ。悔しい!骨の髄ま

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第35話

    音瀬は一瞬だけ動きを止めたが、それ以上迷わず車に乗り込んだ。祐樹がなぜ江大に現れたのか、彼の車に乗るのが適切かどうか、そんなことを考えている余裕はなかった。「ありがとう、西城区の酒橋まで」酒橋。――西城墓地。祐樹にとって、そこは馴染みのある場所だった。二人が付き合っていた頃、遥の命日には毎年音瀬と共に墓参りをしていた。けれど、今日の彼女は妙に慌ただしい。何があった?余計なことは聞かず、アクセルを踏み込む。「わかった」目的地に着くや否や、車が完全に止まる前に音瀬は飛び降り、よろめいた。「音瀬!」祐樹は素早く手を伸ばし、彼女を支えた。「気をつけろよ」「平気」音瀬は慌ただしく言った。「送ってくれてありがとう。時間取らせて悪かったね。じゃあ」そう言い残し、駆け出した。背後で、祐樹は呆然と立ち尽くす。今の彼女にとって、自分はこんなに遠い存在になったのか?自業自得だ。そうなるのは当然だった。少しの間を置いて、祐樹は足を踏み出し、音瀬の後を追った。墓石の前。もう掘り返し始めていた!俊夫、祥子、そして菜月。三人そろっていた。「池田俊夫!」音瀬は血の気の引いた顔で、俊夫の前に詰め寄った。「お前ってやつはな」俊夫は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「もう父さんとすら呼べなくなったのか?」「父さん?」音瀬はその言葉を繰り返したが、それは呼びかけではなかった。思わず自嘲するように笑い、遥の墓を指さした。「私の母さんの前で、父さんって呼んでやろうか?返事できる?」「お前……」俊夫は言葉を詰まらせ、顔を青ざめさせた。祥子が皮肉たっぷりに口を挟む。「本当に口が達者ね。その才能、もっと別のことに使えば?」「ママ」菜月は何度も腕時計をちらりと見た。撮影に向かわなければならない時間が迫っている。「無駄話はやめて、さっさと遺骨を取り出して。私、時間ないんだけど」「そうね」祥子は冷たく目を細め、音瀬を指さした。「ちょうどいいわね。あんた、後で母親をちゃんと連れて行きなさいよ」手を軽く上げ、作業員に合図を送る。「続けて」「やめろ!」音瀬は目を赤くしながら、俊夫の腕をつかんだ。「お願い、やめさせて!私のことも、誠のこともどうでもいいとしても、母さんのことは愛してたん

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第34話

    「きゃあーーっ!」音瀬はハッと我に返ると、悲鳴を上げながら頬を押さえ、猛スピードで浴室を飛び出した。天よ!私、今何をしたの?落ち着け、落ち着け。私は医者だ。男の裸くらいで何を慌ててるの?そう、そうよ。音瀬は無理やり自分を落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸した。湊斗はまだ出てこない。仕方なく待つことにした。さっきのことがあるので、もう無駄に動き回る気にはなれなかった。ふと視線をやると、サイドテーブルの上に開かれたジュエリーケースが置かれていた。中にはプラチナにダイヤが散りばめられたブレスレット。音瀬は思わず呟いた。「綺麗」「気に入った?」不意に湊斗の声が響いた。彼は浴室から出てきて、ベッドの縁に腰を下ろした。「え?」音瀬の頬がわずかに熱くなる。少し気まずい。「何?」「聞いてるんだよ、気に入ったのかって」湊斗はブレスレットを手に取りながら言った。これはさっき大塚が持ってきたものだ。なんで私にそんなこと聞くの?音瀬は不思議に思い、目が合った瞬間、慌てて視線をそらした。思わず口にした。「うん、好き」「なら、お前にやるよ」湊斗は唇を歪めた。やっぱり気に入ってたんじゃねぇか。「え?」音瀬は目を丸くした。私に?「ち、違う違う!」音瀬は慌てて手を振った。「もらえないって!なんで私が?」湊斗の表情が明らかに曇る。「言っただろ?礼だよ」音瀬はそれでも拒んだ。「だからなおさら受け取れないって!私は医者よ?人を助けるのは当然のことで、こんなの受け取ったら賄賂になっちゃう……」「黙れ」湊斗は苛立ったように、音瀬の言葉を乱暴に遮った。片手で彼女の手を掴み、もう片方の手でブレスレットを彼女の手首にかける。「気に入ったんなら、黙ってつけとけ。ガキみたいにいちいちルールばっか気にしてんじゃねぇよ」気に入ったなら、黙って受け取れ?音瀬は呆然とした。言葉にすれば単純だけど、実際に受け入れるのは難しい。彼女がぼんやりしている隙に、ブレスレットはしっかりと手首に留められた。白く細い手首に、ダイヤのブレスレットがきらめく。湊斗は手を離したが、指先に残る柔らかな感触が妙に名残惜しかった。彼は言った。「よく似合ってる」「うん」音瀬は唇をかすかに弧を描かせた。「じゃあ、ありがたくもら

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第33話

    音瀬は呆れたように笑い、首を振った。「違うよ、ただお礼を言いたかっただけ。ありがとう、私のために怒ってくれて」湊斗は一瞬固まった。今の、聞き間違いか?ぐっ、突然傷口を押さえた。痛ぇ。「桐生?」音瀬は慌てて身を屈め、そっと彼の腹部に触れた。彼女は顔を上げた。その瞳は、まるで白い水銀の中に黒い水銀が浮かんでいるようだった。その瞳の中には、湊斗しか映っていなかった。湊斗の胸に、ふっと温かい何かが広がる。だが次の瞬間、それは砕け散った。音瀬の顔が一変し、険しくなる。「激しい動きはダメって言ったよね!?それなのに喧嘩ってなんよ!また手術受けたいの!?」この女、さっきまでお礼言ってたのに、手のひら返すの早すぎだろ!?湊斗は彼女の手を掴み、「俺が誰のためにやったと思ってんだ?ウザいなら放っとけよ!」と吐き捨てた。またガキみたいな拗ね方してるし。音瀬は呆れ果てた。「悪かったわよ、ちょっと言い方がキツかった。でも別にウザくなんてないから、まず検査して状態を確認しよ?」湊斗は渋々納得し、検査を受けることにした。結果は問題なし。表面の傷が少し開いただけで、深刻な状態ではなかった。音瀬はほっと息をつき、車椅子を押して病室へ戻った。「まさか、昨日のこと見てたの?でも、あれはあなたが思ってるようなことじゃない」音瀬は説明した。「陽介も梨香も、私の大事な友達よ。彼は親の決めた見合いが嫌で、私たちに協力を頼んできただけ」そういうことか。何故だか分からないが、胸の奥にあった重い石がストンと落ちた気がした。湊斗は急に息が楽になるのを感じた。だが、口ではこう言った。「へぇ、芝居がうまいんだな」「どうも」不意に、また感謝の言葉が飛んできた。音瀬は真剣な表情で言った。「誤解だったとはいえ、気を遣ってくれてありがとう。本当に、ありがとう、桐生」彼女たちは友達ですらない。それどころか、彼女は彼の幸せを邪魔する存在みたいなものなのに。それでも、彼は彼女を守ってくれた。初めて出会った時、音瀬は湊斗にこんな正義感があるとは思わなかった。この人、案外悪くないかもしれない。「ああ、受け取った」湊斗は機嫌よく口元を歪めた。まあ、この女もバカじゃないってことか。そして何より、あの子の父親が、陽介みたいなチャ

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第32話

    「うぐっ……」陽介は呻きながら顔を上げ、驚きと困惑の表情で湊斗を睨んだ。今は湊斗の権力なんか気にしていられない。こっちだって小山家の坊ちゃんなんだからな!「桐生、てめぇマジで頭おかしいのか?僕と何の因縁もねぇだろ!なんでいきなり殴るんだよ!?」そう言いながらすぐに立ち上がり、完全に喧嘩を買う体勢だった。だが、剛と篤が素早く湊斗の前に立ち塞がる。「小山様、まずは俺たちを突破してからにしろ」この二人はどう見ても元軍人、下手したら特殊部隊出身か?勝ち目なんてあるわけがない。「チッ、クソが!」陽介は怒りで叫ぶ。「警察呼べ!こんな理不尽、耐えられるか!」「理不尽?」それまで黙っていた湊斗が、冷ややかに笑う。完全に侮蔑の笑みだった。「お前に弄ばれた女の方が、もっと理不尽だろ?」は?陽介はぽかんとした。女とはそれなりに付き合ってきたが、基本的に遊び感覚だった。でも、それはあくまで互いの同意のもと。弄んだつもりなんて一度もない。だからこそ、さらに納得がいかない。「おい、誰を弄んだって?てめぇの女にでも手ぇ出したってのか?」まさに、それだ!湊斗は思わず口に出そうになった。お前が手を出したのは、俺の妻だ、と!昨日、音瀬は彼のためにあの女とやり合ったばかりなのに、今日になったら別の女を抱いてイチャついてるだと!?だが、ギリギリの理性がそれを飲み込んだ。しかし、声は張り詰め、怒りは微塵も消えていない。一語一語、噛み締めるように発する。「池、田、音、瀬、だ!」はぁ?陽介と梨香は顔を見合わせた。音瀬?彼が音瀬を弄んだ?何言ってんだこいつ?「えっと……」梨香が一歩前に出て口を開いた。「ええと……桐生さん?音瀬はあたしたちの友達です。何か誤解があるかもしれませんし、音瀬を呼んで話を聞いた方がいいんじゃないですか?」そう言うと、すぐに音瀬に電話をかけた。電話を受けた音瀬は、急いで病室から駆けつけた。その表情は、陽介や梨香と同じくらい驚いていた。放射科の休憩室では、湊斗と陽介が向かい合って座っていた。今にも互いに噛みつきそうなハイエナ同士のように。「陽介!」音瀬は部屋に入るなり、すぐに陽介の方へ駆け寄った。湊斗の目が鋭く光る。彼の妻が、まず気にかけたのは彼じゃないのか。「

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