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第8話

作者: 空木林
音瀬は梨香の家に一日中こもっていた。

夜になり、音瀬は時間を確認すると、バッグを背負い家を出た。今夜はバイトがある。

十八歳を過ぎてから、祥子はもう彼女に金を渡さなくなった。

彼女は奨学金とバイトで生計を立てていた。

湊斗が渡したあのカードは、誠の治療費に使った。それ以外で手をつけるつもりはないし、そもそも使うべきではない。

音瀬のバイト先は「宵弥」だった。

「宵弥」は江城市でも有名な富裕層向けの高級クラブで、金持ちが金を湯水のように使う場所だった。

音瀬はここで、マッサージと鍼治療の施術をしている。

彼女の専攻は西洋医学の臨床だが、バイトのためにわざわざ東洋医学のマッサージと鍼灸を学んだ。

研修医はもともと忙しいため、彼女は固定の勤務ではなく、客の数や施術時間によって給料が決まる臨時の仕事をしていた。

正式な職員ほどの収入はないが、自分を養うには十分だった。

時々下心を持った客に絡まれることもあるが、音瀬はいつも毅然として対応し、流されることはなかった。

音瀬はタイムカードを押し、制服に着替えたばかりだった。

すると、フロアリーダーが声をかけてきた。「音瀬、お客さんだよ!」

「はい、すぐ行きます!」

音瀬は急いで施術道具を持ち、休憩室を出て客室へ向かった。

施術を終えた音瀬は、笑顔で客を見送った。

「お客様、お気をつけて。今夜はぐっすりお休みください」

廊下の向こう側、エレベーターから湊斗が大塚を引き連れ、こちらへ向かって歩いてきた。

数歩進んだところで、不意に足を止め、前方をじっと見据えた。目を細めながら。

大塚は不思議そうに尋ねた。「兄さん、どうした?」

「拓海、見ろよ。あれ、誰だと思う?」

湊斗の声は妙に軽かった。まるで「今日はいい天気だな」とでも言うかのように。

だが、その顔は冷たい霜に覆われたようで、漆黒の瞳には一切の光が差し込まなかった。

視線の先には、宵弥の制服を着た音瀬がいた。男に向かって微笑みながら、何かを話している。

面白いじゃないか。

探しても見つからなかったのに、まさか自分の目の前に現れるとはな。

大塚が一日中探し回っても、何の手がかりもなかったのに。

まさか自分から、彼の目の前に出てくるとはな!

しかし、音瀬は湊斗の存在に気づかず、そのまま準備室へ戻った。すると、フロアリーダーが彼女に新しい施術のオーダーを手渡した。

「音瀬、疲れたでしょう」

「大丈夫です」

音瀬は笑顔でオーダーを受け取った。金を稼げるのに、苦労なんて気にするものか。彼女が恐れているのは、ただ希望が見えなくなることだけだった。

施術道具を揃え、音瀬は客室へ向かい、ドアを軽くノックした。

中から低く落ち着いた男の声が響いた。「入れ」

音瀬はドアを開け、慣れた口調で名乗った。「こんばんは。担当のマッサージ師の池田音瀬です。私のID番号は……」

言葉の途中で、彼女は凍りついた。

ソファに座る男は、両腕を広げ、薄い唇を微かに持ち上げていた。その表情は、笑っているのか、冷笑しているのか判別がつかない。長い指が肘掛けをゆっくりと叩いていた。

暖色の照明が静かに輪郭を浮かび上がらせ、まるで世の全てを魅了する貴公子のような佇まいだった。

湊斗だった。

音瀬の心臓が跳ねた。嘘でしょ、こんな最悪な偶然ってある?

湊斗の目は冷たい星のように光り、嘲るように笑った。「どうした?続きは?」

音瀬は二歩後ずさりし、反射的に逃げ出そうとした。

「逃げるつもりか?」

湊斗が素早く立ち上がった。長い脚で数歩詰め寄り、すかさず腕を伸ばす。

音瀬の手首が急に引かれ、痛みに思わず声が漏れた。「っ……!」

湊斗は彼女の腕を掴んだまま、強引に室内へと引き込んだ。

「離して!」音瀬は痛みと焦りに声を上げた。「あなたの施術はしません!」

だが、湊斗はまったく聞く耳を持たず、そのまま彼女を施術ベッドへ押しつけた。

「誰が言ったんだっけ。今日中には絶対に会えないって」

音瀬はひどく気まずく、そして少しだけ後ろめたさを感じていた。

「俺の前で、そんなしおらしい顔をするな!」

湊斗は冷たく彼女を見下ろし、「もう一度だけ聞く。離婚するのか、しないのか」

「いや……」

彼の全身から怒りが滲み出ていたが、音瀬は池田家が自分と弟にしてきたことを思い出し、首を横に振った。

離婚しない限り、菜月はずっと「浮気相手」「愛人」のままだ!

あの家族が幸せに過ごせる日は、絶対に来させない!

そう思うと、恐怖などどうでもよくなった。音瀬は強く首を横に振った。

「離婚しません」

ほう、離婚しないって?

彼女が拒む以上、彼にはどうすることもできない。

まさか、ここまで彼を苛立たせるとはな。こんなにもムカつくなんて!

湊斗の喉から、低く不気味な笑いが漏れた。

「池田、言ったよな?俺に見つかったら、甘い顔はしないって。いいか、俺にはお前に報いを受けさせる方法がいくらでもある」

湊斗は手をパッと離した。

「失せろ!」

音瀬はビクリと震え、すぐに部屋を飛び出した。

逃げていく彼女の背中を見つめながら、湊斗の顔は嵐の前のように不気味な暗さを帯びていた。「拓海、一つ頼みがある」

「何でしょう、兄さん」

音瀬は準備室へ駆け戻った。心臓の鼓動はずっと鳴りやまない。

こうして逃げてきたけど、湊斗は本当にこれで終わりにするの?

しばらくすると、フロアリーダーがやって来た。「音瀬、ここにいたのか。マネージャーが呼んでるぞ」

その言葉に、音瀬の心臓がドクンと跳ねた。嫌な予感がする。「何の用か、わかりますか?」

リーダーは首を横に振った。「さあな」

胸のざわつきを抱えたまま、音瀬はマネージャーのオフィスへ入った。

「マネージャーさん、私に何かご用ですか?」

「ああ」マネージャーは彼女を見つめ、惜しむようにため息をついた。

「音瀬、今夜で最後だ。もう来なくていい。給料は経理が計算中で、24時間以内に振り込まれる」

音瀬の笑顔が凍りつく。「マネージャーさん、私何かミスしましたか?教えてくれれば直します……」

「いや、そうじゃない」

マネージャーは手を振り、何か言いかけて黙った。

この店では、金持ちに絡まれたり、理不尽な目に遭ったりすることは珍しくない。

マネージャーが全てに対応できるわけではないし、金持ちを敵に回すわけにもいかない。

だが、この頑張り屋の少女には同情心があった。だから、少しだけ教えてやることにした。

「キミ、今夜、桐生社長の施術をしたのか?何か気に障ることでもしたか?」

やっぱりあの人!音瀬の胸が一気に沈んだ。嫌な予感は的中していた。

「はぁ」

マネージャーは残念そうに言った。「世の中ってのは、こういうもんだ。金持ちは金を盾に何でも好き放題できる。私から言えるのは、これくらいだ」

どうしようもなかった。音瀬は店を出るしかなかった。

オフィスを出た音瀬は、どうしても納得がいかなかった。

このまま引き下がったら、これほど時間の融通が利いて、しかも専門に合ったバイトなんて、もう二度と見つからないかもしれない。

音瀬は店を出ず、宵弥の入り口で待ち続けた。

二時間も待ち続け、足が痺れてきた頃、ようやく湊斗が店から出てきた。

「桐生さん!」

音瀬はすぐさま駆け寄ったが、大塚が素早く彼女を制止した。その勢いは、まるで殴りかかるかのようだった。

「池田さん、落ち着いて!話があるなら、ちゃんと聞きますから……」

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    目の前にいる男の端正な顔には、陰りが差し、不機嫌さが滲み出ていた。だが、怒りを爆発させることはなかった。彼女がまだ怒っているのは、結局ブレスレットのことだ。男として、そして当事者として、彼の対応がまずかったのは事実だった。湊斗は口を開いた。「ブレスレットのことは、俺が悪かった。だけど、お前も勘違いしてる。元々、お前に渡すつもりだったんだ」声は大きくないが、プライドは保ったまま。音瀬は一瞬、驚いた。何で今さらそんな話を?しかも、説明してる?謝ってる?「え……何て?」信じられなかった。すると、湊斗の表情が一変した。「聞こえなかったなら、もういい!」一度説明するだけでも限界だったのに、この女はもう一度言わせるつもりか?スケッチブックなんか、もうどうでもいい。さっきまでの好奇心は、今の怒りに完全にかき消された。「拓海、行くぞ!」「えっ、兄さん」彼らが去ると、すぐに梨香が音瀬のそばに寄ってきた。彼女は音瀬の手にあるスケッチブックをちらりと見て、「ああ、それね。確か、あなたの子供の頃の遊び相手を描いてたやつ?」「うん」音瀬は頷いた。ずっと昔の話だった。二人は荷物を運びながら、話を続けた。梨香は聞いた。「それから何年も経つけど、結局会ってないの?」「会ってない」「まあ」梨香は笑いながら言った。「もし会ってても、お互い気づかなかったかもね。大人になってもあんまり変わらない人もいるけど、子供の頃と比べたら全然違うしね」それも一理ある。音瀬は同意して、「うん、そういう縁だったってことだよね」と呟いた。そう言いながら、スケッチブックを荷物の中にしまい、話を終わらせた。「音ちゃん!」梨香は音瀬を追いかけながら、「ねえねえ、それよりさ、あなたと桐生って結局どういう関係?彼、あなたのこと好きなんじゃないの?」ぷっ!音瀬は大げさに目を翻し、「考えすぎ。彼には好きな人がいるよ。それも、めちゃくちゃ好きなやつ」と言い捨てた。……さて、音瀬にはもう一つ大きな問題が残っていた。――母の遥の遺骨をどうするか。いつまでも梨香の家に置いておくわけにはいかない。しかし、墓地を買うのは簡単なことではなかった。値段が高いのはもちろん、色々な決まりも多い。音瀬は若い上に、金もなかった。

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    「音ちゃん」梨香が音瀬を肘でつつき、そっと囁いた。「あなたのこと、呼んでるんじゃない?」音瀬はようやく顔を上げ、そちらを見た。二人のすぐそばを、銀色のパガーニがゆったりと並走していた。まるで散歩でもするかのようなスピードで。彼女が顔を覗かせた瞬間、車が静かに止まり、大塚がドアを開けて降りてきた。「音瀬さん、どこ行くんです?そんな重い荷物持って。乗ってよ、兄さんが送るってさ」そう言いながら、彼はスーツケースのハンドルを掴み、持ち上げようとした。「いらない!」音瀬は手を放さず、冷たく拒んだ。「自分で歩けるから」「え……」大塚は困った顔をしながら、後部座席へ視線を向けた。車の窓越しに様子を見ていた湊斗も、事態を理解した途端、神経が一気に張り詰めた。彼は即座に車を降り、大塚を押しのけるようにしてスーツケースを持ち上げ、低い声で命じた。「トランクを開けろ」「はい、兄さん!」何の苦もなく、ひょいとスーツケースを持ち上げ、そのままトランクへ押し込んだ。音瀬は驚きと怒りが入り混じった表情で駆け寄り、湊斗の腕を掴んだ。「何してんのよ!それ、私の荷物!返して!あなたの車なんか乗らない!」「黙れ!」湊斗は低く抑えた声で怒鳴った。今すぐにでも頭を叩いてやりたい衝動に駆られる!五つも年下なんだ、子供みたいなもんだろ!でも、女だから手は出せない。なら、選択肢は二つだ。「自分で乗るか?それとも俺が抱えて乗せるか?」そんなの、選択肢って言える?音瀬は頬をぷくっと膨らませ、不機嫌そうに後部座席に乗り込んだ。その間に、大塚は梨香のスーツケースを受け取り、助手席のドアを開けた。「お嬢さん、どうぞ」「あっ、うん」梨香はぼんやりと頷き、素直に乗り込んだ。後部座席では、湊斗と音瀬が並んで座っていた。二人とも押し黙り、互いに不満を抱えたまま沈黙を守っていた。沈黙の中、梨香が先に口を開いて大塚に住所を教えた。「文昌道通り、江大の裏通り」音瀬の住んでいる場所だった。「了解」車内に会話はなかったが、静かな空気の下には見えない波が渦巻いていた。目的地に着くや否や、音瀬は一瞬もためらわずに車を降りた。誰の手も借りず、慌ただしくスーツケースを引き下ろした。そのスーツケースは年季が入って

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第37話

    音瀬は冷ややかに淡々と矜持ある男を一瞥し、嘲るように笑った。「私が悪かった、勘違いしてた。このブレスレット、私への贈り物だと思ってた。でも、その時ちゃんと言うべきだったよね。私の思い違いだって」今、何て?湊斗は一瞬、理解が追いつかなかった。しかし、彼女はさらに続けた。「桐生社長、彼女に贈るものは、軽々しく他の人に渡さない方がいいよ。私が持っていったせいで、また買い直して彼女に渡さなきゃいけなかったでしょ?面倒じゃなかった?」そう言い残し、彼女は踵を返した。湊斗は険しい表情のまま考えた。菜月に会ったのか?どこで?いや、それは重要じゃない。問題は、彼女が菜月の腕にあのブレスレットがあるのを見たってことだ。だから、不機嫌なのか?どうして?怒るべきなのは菜月の方じゃないのか?何で彼女が?そもそも、あのブレスレットは彼女に贈るはずだったのに。音瀬がドアを開けた瞬間、大塚が入ってきた。笑いながら彼女に声をかける。「音瀬さん、兄さんとの話、終わりましたか?」音瀬は彼に応えず、そのまま踵を返して湊斗を見つめた。「桐生、私はあなたと離婚しない」歯を食いしばり、さらに言葉を続ける。「私のものでないなら要らない。でも、私のものなら誰にも渡さない!」そう言い切って、今度こそ彼女は部屋を出ていった。取り残された湊斗は、呆然と立ち尽くした。しばらく沈黙し、大塚をじっと見据える。「今の、どういう意味だ?」「えっ……」大塚も目を見開き、驚きを隠せない。「兄さん……音瀬さん、今のって告白じゃねぇの?兄さんのこと、好きなんじゃねぇか?」は……怒るな。冷静になれ。湊斗は心の中でひたすら道徳経を唱えた。何で彼の周りには、恋愛経験豊富で女心を理解してるやつが一人もいないんだ?いや、無理だ。我慢できねぇ。「ふざけんな!」告白だと?だったら、何でブレスレットを返すんだよ?……外科棟を出た音瀬は、変わらず骨壷を抱えていた。「音瀬」祐樹が近づいてきた。音瀬は一瞬戸惑いながらも、呟いた。「まだ帰ってなかったの?」祐樹は一瞬言葉を失い、苦笑する。「君がそんな状態で、僕が安心して放っておけるわけないだろ」音瀬はさりげなく後ろへ一歩下がり、距離を取った。「大丈夫だから、心配しないで

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第36話

    「祥子、やめたほうが……」「何グズグズしてるの?まさか金が足りないとか言うつもり?さっさと掘りなさいよ!」祥子は俊夫に口を挟ませる気はなかった。それどころか、彼の態度がますます彼女の怒りを煽った。「一秒でも遅れたら、訴えてやるから!」それでも足りないと思ったのか、さらに鋭い声で言い放った。「桐生社長の名前くらい知ってるでしょう?あの人、うちの娘の彼氏なのよ!私を怒らせるってことは、うちの娘を怒らせること。その娘を怒らせるってことは、桐生社長を怒らせるのと同じよ!」迷っていた作業員たちも、その言葉を聞くと一切の躊躇を捨てた。江城市で、湊斗を知らない人間なんていない。彼が足を踏み鳴らせば、江城市全体が揺れるほどの影響力を持つ男だ。「掘れ!」「ダメ……!」音瀬は慌てて駆け出し、作業員たちを必死に止めようとした。だが、彼女一人の力で、屈強な男たちを止められるはずもない。「っ……!」もみ合ううちに、彼女の手が鋭い石に当たり、鮮血が噴き出した。作業員たちは驚き、思わず動きを止めた。「マジで鬱陶しい!」菜月はイラついた様子で袖をまくり、音瀬の腕を乱暴に掴んだ。「邪魔なんだよ!しつこいってわかんないの?」揉み合う中で、音瀬はふと目を奪われた。菜月の手首にあるブレスレット!――湊斗が彼女に贈ったものと、まったく同じだった。菜月は力を込めて彼女を突き放した。「行けよ!どけ!邪魔なんだよ」その時、不意に誰かの手が彼女の腕を掴んだ。「っ……!」菜月は痛みに顔を歪め、思わず振り向いた。祐樹はもともと端正で穏やかな顔立ちをしていたが、今の彼はまるで別人のように冷たかった。見た目には力を込めていないように見えたが、菜月の手首には激痛が走った。「痛いっ!」「彼女の痛みと比べたら、どうってことないだろ」音瀬の手の甲に滲む鮮血を見て、祐樹の目に怒りが宿る。「失せろ!」手を緩め、そのまま菜月を振り払った。そのまま少し身を屈め、音瀬をそっと抱きしめる。低く囁いた。「音瀬……ごめん、僕、来ちゃった」音瀬は力尽きたように、ぐったりと彼の肩にもたれた。彼女にはわかっていた。今日、母を守ることはできないと……この墓地は池田家の所有地で、どんなに訴えても無駄なのだ。悔しい!骨の髄ま

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第35話

    音瀬は一瞬だけ動きを止めたが、それ以上迷わず車に乗り込んだ。祐樹がなぜ江大に現れたのか、彼の車に乗るのが適切かどうか、そんなことを考えている余裕はなかった。「ありがとう、西城区の酒橋まで」酒橋。――西城墓地。祐樹にとって、そこは馴染みのある場所だった。二人が付き合っていた頃、遥の命日には毎年音瀬と共に墓参りをしていた。けれど、今日の彼女は妙に慌ただしい。何があった?余計なことは聞かず、アクセルを踏み込む。「わかった」目的地に着くや否や、車が完全に止まる前に音瀬は飛び降り、よろめいた。「音瀬!」祐樹は素早く手を伸ばし、彼女を支えた。「気をつけろよ」「平気」音瀬は慌ただしく言った。「送ってくれてありがとう。時間取らせて悪かったね。じゃあ」そう言い残し、駆け出した。背後で、祐樹は呆然と立ち尽くす。今の彼女にとって、自分はこんなに遠い存在になったのか?自業自得だ。そうなるのは当然だった。少しの間を置いて、祐樹は足を踏み出し、音瀬の後を追った。墓石の前。もう掘り返し始めていた!俊夫、祥子、そして菜月。三人そろっていた。「池田俊夫!」音瀬は血の気の引いた顔で、俊夫の前に詰め寄った。「お前ってやつはな」俊夫は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「もう父さんとすら呼べなくなったのか?」「父さん?」音瀬はその言葉を繰り返したが、それは呼びかけではなかった。思わず自嘲するように笑い、遥の墓を指さした。「私の母さんの前で、父さんって呼んでやろうか?返事できる?」「お前……」俊夫は言葉を詰まらせ、顔を青ざめさせた。祥子が皮肉たっぷりに口を挟む。「本当に口が達者ね。その才能、もっと別のことに使えば?」「ママ」菜月は何度も腕時計をちらりと見た。撮影に向かわなければならない時間が迫っている。「無駄話はやめて、さっさと遺骨を取り出して。私、時間ないんだけど」「そうね」祥子は冷たく目を細め、音瀬を指さした。「ちょうどいいわね。あんた、後で母親をちゃんと連れて行きなさいよ」手を軽く上げ、作業員に合図を送る。「続けて」「やめろ!」音瀬は目を赤くしながら、俊夫の腕をつかんだ。「お願い、やめさせて!私のことも、誠のこともどうでもいいとしても、母さんのことは愛してたん

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第34話

    「きゃあーーっ!」音瀬はハッと我に返ると、悲鳴を上げながら頬を押さえ、猛スピードで浴室を飛び出した。天よ!私、今何をしたの?落ち着け、落ち着け。私は医者だ。男の裸くらいで何を慌ててるの?そう、そうよ。音瀬は無理やり自分を落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸した。湊斗はまだ出てこない。仕方なく待つことにした。さっきのことがあるので、もう無駄に動き回る気にはなれなかった。ふと視線をやると、サイドテーブルの上に開かれたジュエリーケースが置かれていた。中にはプラチナにダイヤが散りばめられたブレスレット。音瀬は思わず呟いた。「綺麗」「気に入った?」不意に湊斗の声が響いた。彼は浴室から出てきて、ベッドの縁に腰を下ろした。「え?」音瀬の頬がわずかに熱くなる。少し気まずい。「何?」「聞いてるんだよ、気に入ったのかって」湊斗はブレスレットを手に取りながら言った。これはさっき大塚が持ってきたものだ。なんで私にそんなこと聞くの?音瀬は不思議に思い、目が合った瞬間、慌てて視線をそらした。思わず口にした。「うん、好き」「なら、お前にやるよ」湊斗は唇を歪めた。やっぱり気に入ってたんじゃねぇか。「え?」音瀬は目を丸くした。私に?「ち、違う違う!」音瀬は慌てて手を振った。「もらえないって!なんで私が?」湊斗の表情が明らかに曇る。「言っただろ?礼だよ」音瀬はそれでも拒んだ。「だからなおさら受け取れないって!私は医者よ?人を助けるのは当然のことで、こんなの受け取ったら賄賂になっちゃう……」「黙れ」湊斗は苛立ったように、音瀬の言葉を乱暴に遮った。片手で彼女の手を掴み、もう片方の手でブレスレットを彼女の手首にかける。「気に入ったんなら、黙ってつけとけ。ガキみたいにいちいちルールばっか気にしてんじゃねぇよ」気に入ったなら、黙って受け取れ?音瀬は呆然とした。言葉にすれば単純だけど、実際に受け入れるのは難しい。彼女がぼんやりしている隙に、ブレスレットはしっかりと手首に留められた。白く細い手首に、ダイヤのブレスレットがきらめく。湊斗は手を離したが、指先に残る柔らかな感触が妙に名残惜しかった。彼は言った。「よく似合ってる」「うん」音瀬は唇をかすかに弧を描かせた。「じゃあ、ありがたくもら

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第33話

    音瀬は呆れたように笑い、首を振った。「違うよ、ただお礼を言いたかっただけ。ありがとう、私のために怒ってくれて」湊斗は一瞬固まった。今の、聞き間違いか?ぐっ、突然傷口を押さえた。痛ぇ。「桐生?」音瀬は慌てて身を屈め、そっと彼の腹部に触れた。彼女は顔を上げた。その瞳は、まるで白い水銀の中に黒い水銀が浮かんでいるようだった。その瞳の中には、湊斗しか映っていなかった。湊斗の胸に、ふっと温かい何かが広がる。だが次の瞬間、それは砕け散った。音瀬の顔が一変し、険しくなる。「激しい動きはダメって言ったよね!?それなのに喧嘩ってなんよ!また手術受けたいの!?」この女、さっきまでお礼言ってたのに、手のひら返すの早すぎだろ!?湊斗は彼女の手を掴み、「俺が誰のためにやったと思ってんだ?ウザいなら放っとけよ!」と吐き捨てた。またガキみたいな拗ね方してるし。音瀬は呆れ果てた。「悪かったわよ、ちょっと言い方がキツかった。でも別にウザくなんてないから、まず検査して状態を確認しよ?」湊斗は渋々納得し、検査を受けることにした。結果は問題なし。表面の傷が少し開いただけで、深刻な状態ではなかった。音瀬はほっと息をつき、車椅子を押して病室へ戻った。「まさか、昨日のこと見てたの?でも、あれはあなたが思ってるようなことじゃない」音瀬は説明した。「陽介も梨香も、私の大事な友達よ。彼は親の決めた見合いが嫌で、私たちに協力を頼んできただけ」そういうことか。何故だか分からないが、胸の奥にあった重い石がストンと落ちた気がした。湊斗は急に息が楽になるのを感じた。だが、口ではこう言った。「へぇ、芝居がうまいんだな」「どうも」不意に、また感謝の言葉が飛んできた。音瀬は真剣な表情で言った。「誤解だったとはいえ、気を遣ってくれてありがとう。本当に、ありがとう、桐生」彼女たちは友達ですらない。それどころか、彼女は彼の幸せを邪魔する存在みたいなものなのに。それでも、彼は彼女を守ってくれた。初めて出会った時、音瀬は湊斗にこんな正義感があるとは思わなかった。この人、案外悪くないかもしれない。「ああ、受け取った」湊斗は機嫌よく口元を歪めた。まあ、この女もバカじゃないってことか。そして何より、あの子の父親が、陽介みたいなチャ

  • 離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス   第32話

    「うぐっ……」陽介は呻きながら顔を上げ、驚きと困惑の表情で湊斗を睨んだ。今は湊斗の権力なんか気にしていられない。こっちだって小山家の坊ちゃんなんだからな!「桐生、てめぇマジで頭おかしいのか?僕と何の因縁もねぇだろ!なんでいきなり殴るんだよ!?」そう言いながらすぐに立ち上がり、完全に喧嘩を買う体勢だった。だが、剛と篤が素早く湊斗の前に立ち塞がる。「小山様、まずは俺たちを突破してからにしろ」この二人はどう見ても元軍人、下手したら特殊部隊出身か?勝ち目なんてあるわけがない。「チッ、クソが!」陽介は怒りで叫ぶ。「警察呼べ!こんな理不尽、耐えられるか!」「理不尽?」それまで黙っていた湊斗が、冷ややかに笑う。完全に侮蔑の笑みだった。「お前に弄ばれた女の方が、もっと理不尽だろ?」は?陽介はぽかんとした。女とはそれなりに付き合ってきたが、基本的に遊び感覚だった。でも、それはあくまで互いの同意のもと。弄んだつもりなんて一度もない。だからこそ、さらに納得がいかない。「おい、誰を弄んだって?てめぇの女にでも手ぇ出したってのか?」まさに、それだ!湊斗は思わず口に出そうになった。お前が手を出したのは、俺の妻だ、と!昨日、音瀬は彼のためにあの女とやり合ったばかりなのに、今日になったら別の女を抱いてイチャついてるだと!?だが、ギリギリの理性がそれを飲み込んだ。しかし、声は張り詰め、怒りは微塵も消えていない。一語一語、噛み締めるように発する。「池、田、音、瀬、だ!」はぁ?陽介と梨香は顔を見合わせた。音瀬?彼が音瀬を弄んだ?何言ってんだこいつ?「えっと……」梨香が一歩前に出て口を開いた。「ええと……桐生さん?音瀬はあたしたちの友達です。何か誤解があるかもしれませんし、音瀬を呼んで話を聞いた方がいいんじゃないですか?」そう言うと、すぐに音瀬に電話をかけた。電話を受けた音瀬は、急いで病室から駆けつけた。その表情は、陽介や梨香と同じくらい驚いていた。放射科の休憩室では、湊斗と陽介が向かい合って座っていた。今にも互いに噛みつきそうなハイエナ同士のように。「陽介!」音瀬は部屋に入るなり、すぐに陽介の方へ駆け寄った。湊斗の目が鋭く光る。彼の妻が、まず気にかけたのは彼じゃないのか。「

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