ログイン女優は景司と二言三言ほど言葉を交わしたが、彼の視線がどこか上の空で、しかもその目が何度も傍らの由佳に向けられるのを見た瞬間、胸の奥に小さな棘のような不快感が生まれた。「さあ、撮影を始めましょう」夜見柚月(よみ ゆずき)――その名を持つ女優は、冷ややかな視線で由佳を一瞥すると、踵を返して撮影場所へと向かった。由佳は小さく息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いてから舞子のもとに戻った。舞子はカメラを構え、柚月にいくつかポーズを指導しながらシャッターを切り、撮影した画像を確認していく。だが、柚月はどこか集中していない。ポーズの指示を重ねるうち、その顔には明らかな苛立ちが浮かび始めていた。「この服、ここが気持ち悪いの。ねえ、そこのアシスタント、ちょっと来て見てくれる?」柚月は襟元を引っ張りながら、まっすぐに由佳を指差した。由佳は瞬きをした。自分、彼女のアシスタントじゃないはずだけど?舞子が静かに言った。「見てあげて。撮影を止めるわけにはいかないから」「わかったわ」由佳は断ることなく歩み寄った。「どこが気持ち悪いの?」柚月は鎖骨のあたりを指し示した。そこに緩んだ紐が見えたので、由佳は手を伸ばして直してあげた。「これで楽になった?」だが、その直後だった。柚月は突然、由佳を突き飛ばし、鎖骨を押さえて叫んだ。「何するのよ!」勢いに押されて由佳は転び、呆然とした表情のまま柚月を見上げた。「何するって……あなたこそどうしたの?」すぐに柚月のアシスタントマネージャーが駆け寄り、慌てて事情を尋ねた。柚月は涙声で訴える。「私、彼女に『見て』って頼んだだけなのに、いきなり引っ掻かれたのよ!」マネージャーが服をめくって確認すると、確かに薄く赤い引っ掻き傷が見えた。その瞬間、彼女の表情が一変した。「これ、どこのアシスタント?なんでこんなに性格が悪いの?どうしてうちの柚月ちゃんを傷つけようとするの?」由佳は首を振った。「違う、私、してないわ」舞子が駆け寄って由佳を立たせ、肩に手を添えた。「大丈夫?」「平気よ、でも舞子、信じて。私、本当に彼女を引っ掻いてなんかない。彼女のことなんて知らないのに、なんでそんなことするのよ?」柚月は目を赤く潤ませながら、怯えたように言った。
風早の声は、どこまでも穏やかだった。「今夜、時間ある?最近、評判の高い映画が二本公開されたんだ」由佳は少し迷うように答えた。「まだはっきりしないの。午後にまた連絡するね」「わかった」通話を切った直後、ふと背筋を冷たい感覚が走った。誰かに見られている。反射的に振り返る。しかし、目に映ったのは遠ざかる車の後ろ姿だけだった。由佳の瞳に、淡い寂しさがかすめる。「由佳」舞子の声が現実に引き戻した。「何見てるの?」「……景司さんを見てたの」彼への想いを、由佳はこれまで一度も隠したことがない。その率直さを舞子も知っていた。「あなたの問題はもう片付いたんでしょ?それでも、まだ彼を追いかけるの?」由佳は小さく息をついて答えた。「お見合いの相手がいて、今ちょうど会ってるところなの」「……なるほどね」舞子は目を細めた。思った以上に展開が早い。「じゃあ、そのお見合いの相手のこと、好きなの?」「まあまあ、かな」「ってことは、付き合えなくもないって感じね。それなら、もう景司さんのことは諦めなよ。じゃないと、二人とも辛いだけだよ」由佳は何も言わなかった。その沈黙の重さに、舞子もそれ以上は踏み込まなかった。二人は立地の良い物件をいくつも回り、最終的にデザートショップの隣にある二階建ての店舗に決めた。舞子はすぐに賢司へメッセージを送り、知らせた。間もなく賢司から電話がかかってきた。「内装は俺が手配する」舞子は微笑んで言った。「うん、じゃあ全部お任せするね」「ああ」その間、由佳は隣のデザートショップで小さなケーキを二つ買い、一つを舞子に差し出した。「味見してみて。見た感じ、すごく美味しそう」ケーキを手にした舞子とともに、二人は通り向かいのカフェに入り、甘いひとときを楽しみながら休憩を取った。スタジオの場所も決まり、あとは内装工事の完了とオープンを待つばかりだった。とはいえ、舞子にはすでに次の仕事が入っていた。「今日の午後、撮影の仕事があるの。あるブランドの宣伝ポスターよ。気合い入れていこう、今日から本格始動だから!」スマホを操作しながら、舞子の声には弾むような力があった。彼女にはマネージャーがついている。賢司が手配してくれた人材だ。だが当初、舞子はそれ
由佳はその言葉を聞いたまま、静かに黙り込んだ。風早なら、きっと自分を幸せにしてくれるだろう。それでも、心の奥底ではどうしても景司のことを考えてしまうのだった。舞子に助けられたあの日のあと、彼女は亜夢の言う通りにはしなかった。三日が過ぎ、亜夢から電話がかかってきても、由佳は無言で通話を切り、その番号を着信拒否に設定した。そして今――親父という大きな問題がようやく解決した今になって、彼女の心にふと芽生える思いがあった。自分と景司のあいだに……まだ、何か可能性は残っているのだろうか、と。由佳は庭の椅子に腰を下ろし、夜風に揺れる木々の音を聞きながら、満天の星空を仰いだ。無意識に口元がほころぶ。空は澄み渡り、星の光はどこまでも優しかった。彼女はスマートフォンを取り出し、そっとシャッターを切る。言葉も添えず、ただ一枚の星空の写真だけをSNSに投稿した。最初に「いいね」を押したのは舞子だった。そのあとすぐに、他の友人たちからも反応が続いた。由佳は舞子とのチャット画面を開き、メッセージを打ち込んだ。【今回のことは、本当にあなたのおかげだわ。いつ時間が空いてる?ご飯奢るから】【私、最近すごく忙しいの。ねえ、代わりにあなたが手伝ってくれない?】その返信を見た瞬間、由佳の胸に小さな戸惑いが走る。思わず直接電話をかけた。「何をそんなに忙しくしてるの?」電話口から、舞子の明るい声が返ってきた。「活動の方向性を変えたの。風景写真じゃなくて、これからは人物写真を撮るつもりなの。今、スタジオを準備しているところ。カメラマンとアシスタントが足りなくてね。由佳は何をやってみたい?」由佳は少し考えてから、遠慮がちに答えた。「でも私、特別なことは何もできないわ。たぶんアシスタントくらいしか……」「それでいいのよ」舞子は優しく頷いた。「アシスタントからマネージャーの方向に進むこともできるわ。将来性もあるし、悪くない選択よ」「……じゃあ、ちょっと考えてみるね」「もちろん、もしまたライブ配信に戻りたいならそれでもいいけど」舞子の声は穏やかで、どこか姉のような温かさがあった。「でもね、ライブ配信者って若いうちだけの仕事でしょ?もう若くなくなったら、どうするの?」由佳は苦笑した。確かに、その通りだった。ライブ配信を始
耀の判決が下ったとき、由佳は喜びのあまり香里を強く抱きしめた。「お母さん、あいつが捕まったの!一生刑務所から出てこられないんだって。もう二度と、私たちに付きまとうことはないんだよ!」香里は信じられないというように目を見開いた。「……あいつ、本当に捕まったの?」「うん!」由佳は力強く頷いた。長い間、自分たちを覆っていた暗い影が、まるで春風に吹き払われる霞のようにあっけなく消え去っていく。胸の奥から、言葉にできないほどの興奮と切なさが込み上げてきた。興奮は、体を縛っていた鎖が外れたような解放の感覚からくるもので、切なさは、そこに至るまでの苦しい日々を思い返してのものだった。香里はまだ現実を受け入れきれず、呆然としたままつぶやいた。「それ……一体、どうやって?」由佳は小さく息を吸い、静かに言った。「お母さん、まだ知らないでしょ。あの人はね、人を殺したことがあるの。警察がそれを突き止めて、最近こっちに戻ってきたところを、そのまま逮捕されたんだって」香里はさらに目を見開き、ソファに崩れ落ちるように座り込んだ。しばらくしてようやく口を開く。「由佳……もう心配しなくていいのね」「うん、もう心配いらないよ。おじさんの前で、卑屈になる必要もないんだから」由佳は香里の手を強く握り返した。香里はふっと笑みを浮かべ、手をポンと打った。「買い物に行ってくるわ。今夜はご馳走にしなくちゃ」「私も一緒に行く」由佳がそう言うと、香里はいたずらっぽく目を細めた。「風早さんを呼んできなさい。一緒にご飯を食べましょう。もうずいぶん親しくしてるんでしょう?そろそろ家に連れてきて、私に紹介してくれてもいい頃じゃない」由佳は一瞬、言葉を失った。まさか、お祝いのためではなく、風早を家に呼ぶ口実にされるとは思ってもみなかった。「お母さん、彼と付き合い始めてまだそんなに経ってないよ?もう親に会わせるなんて、早すぎない?」戸惑う娘に、香里は軽く肩をすくめて言った。「何が早いのよ。知り合ってもう半月でしょ。あなたも彼のことをいい人だと思ってるし、私も気に入ってるのよ。早く決めたほうがいいじゃない。せっかく好きになれた人なんだから、しっかり捕まえておきなさい」由佳は小さく首を振った。「今日は私たち親子二人のお祝いの日なん
だが今、またあの陰が、じわりと覆い被さってきた。本当に、しつこいったらありゃしない。どうしてあんな奴、外で死んでくれなかったんだろう。車内は、しばらく沈黙に包まれた。やがて、由佳の不安げな声が響く。「ねぇ、この問題、私を助けて解決してほしいの。そうすれば私とお母さんの生活もまた穏やかに戻るし、亜夢の要求に応えて景司さんをあの子に押しつける必要もなくなるから。私じゃ景司さんに釣り合わないって分かってるけど、亜夢なんてもっと釣り合わない。彼は、もっと素敵な人と一緒になるべきなの」その言葉が終わった瞬間、ふいに髪をそっと撫でられた。由佳が顔を上げると、舞子の穏やかでどこか安堵したまなざしと目が合う。由佳は一瞬ぽかんとして、「……その目、なに?」と尋ねた。舞子はふっと微笑んで言った。「よかった。今やっと、由佳が私のことを本当の友達だと思ってくれたんだって、そう感じられたの」「え?」由佳は一瞬、舞子の意図を掴めず、まばたきをした。「この人、そうでしょ?」舞子はスマホを取り出し、画面を少し再生させた。映し出された映像を見た瞬間、由佳の瞳が見開かれる。「そう!こいつだよ!え、まさか……そいつ、舞子のところに行ったの?」「ええ」舞子は淡々と、先日起こった出来事を説明した。「最初はね、由佳が彼のことをどう思ってるのか分からなかったから黙ってた。でも、今ならはっきり分かる。だから教えるわ。安心して。こういう手合いにお灸を据える方法なら、いくらでもあるから」舞子は、由佳が怒るのではないかと一瞬だけためらった。なにしろ、それは彼女の実の父親なのだから。だが、由佳の瞳はたちまち光を宿した。「どうやるの?」舞子は唇の端を上げて言った。「そうね……刑務所二十年コースなんて、どう?」由佳は息をのむように身を乗り出した。「三十年はいける?できれば、刑務所で一生を終えるくらいがいいんだけど」その声には、憎悪が燃え立つような熱がこもっていた。父親への感情は、もう愛でも憎しみでもなく、ただ消えてほしいという祈りにも似た絶望だった。「少し難しいけど、まぁ、大したことじゃないよ」舞子はさらりと言った。「うぅ……」由佳は舞子に思わず飛びつき、強く抱きしめた。「舞子、どうして
「お母さん、大丈夫?」由佳は心配そうに香里を見つめた。香里は小さく首を振った。「私は大丈夫よ。それより、あなたの顔……」娘を気遣おうとしたものの、その頬に残る痕がどうしてできたのかを思い出した途端、言葉が喉に詰まった。胸の奥を占めるのは、自己嫌悪と罪悪感ばかりだった。「とにかく、今は帰りましょう」由佳の声には、疲れと決意が混じっていた。「亜夢ちゃんは、許してくれたの?」香里の問いに、由佳は短くうなずいた。「うん」その一言を聞いて、香里はようやくほっと息をついた。「それならよかった。あなたたちはいとこ同士なんだから、誤解さえ解ければそれでいいのよ」由佳は何も答えなかった。ただ、その沈黙がすべてを物語っていた。香里が振り返って海斗に頭を下げると、彼は何も言わず、見送りの素振りすら見せなかった。来たときは不安でいっぱいだったのに、帰り道はただ惨めさだけが胸に広がっていく。夜風は湿った重みを帯び、肌に触れるたびに心の奥まで冷たさが染みた。息をするたび、世界がじわじわと遠のいていくようだった。母娘は無言で夜道を歩いた。闇が降り、空の光が少しずつ飲み込まれていく。まるで、二人が奈落の底へと続く道を進んでいるかのようだった。「お母さん、どうしてもここにいなきゃだめなの?」由佳の声は震えていた。香里は長く息を吐いた。「由佳……お母さんが悪かったわ。辛い思いをさせてごめんなさい」由佳の鼻の奥がツンと痛んだ。「おじさんが確かにお金を貸してくれたけど、私たち、ちゃんと返したじゃない。もうこんなに卑屈になる必要なんてないよ。家を売って、この街を出よう。あの人が見つけられない場所で暮らそうよ。きっとうまくいくし、幸せになれる」どうして母がここに留まろうとするのか、由佳には理解できなかった。なぜ、もう消えたはずの血のつながりに縋るのか。けれど、香里は答えなかった。代わりに問い返した。「風早さんとは、どうなってるの?」由佳は少し間を置き、唇を引き結んで言った。「順調だよ」香里は静かに微笑んだ。「それならいいの。今、私が一番心配なのはあなたのことだから。風早さんと仲良くして、将来もし結婚することになれば……耀も、もうあなたをいじめるようなことはできなくなるわ」由佳は返事をしな