Masuk由佳は呆然と景司を見つめた。彼の顔は険しく、眉間には怒りと殺気が渦巻き、今にも手を出してきそうな迫力を帯びていた。由佳は視線を逸らし、震える声で「さよなら」と呟く。そして車を降りた瞬間、轟音を立てて景司の車は走り去った。夜風が由佳の髪を巻き上げる。彼女はゆっくり振り返り、ややぼやけた視線で車が消えた方向を見つめながら、唇の端にわずかに微笑を浮かべた。目的は、達成されたのだ。由佳にはそのことが痛いほどわかっていた。二人の関係は、あと一枚の障子紙で隔てられているだけで、どちらかが先にそれを破れば、さらに一歩近づくことになる。帰宅する前までは、彼女の胸は期待と高揚で膨らんでいた。景司が好きで、ついに彼と結ばれる――そう信じて疑わなかった。景司の方も、自分に気があるのだと、かすかに感じ取れていた。しかし、家に帰り、最悪な家庭環境を目の当たりにして、二人の間の格差を思い知らされた。由佳はふと、自分が景司に釣り合わないことに気づいたのだ。景司は空を翔ける鷹で、由佳は泥濘に咲くか弱い小さな花にすぎない。嵐が来れば、たちまち吹き飛ばされてもおかしくない。だから、車の中の景司を見たとき、由佳はこの、まだ始まってもいない関係をどう終わらせるか、心に決めたのだった。頬にひんやりとした感触が伝わる。手を伸ばして触れ、初めて自分が泣いていることに気づいた。泣かずにいられるはずがない。好きな人を、この手で突き放したのだから。由佳は顔を上げ、瞬きをし、こみ上げる酸っぱい感情をぐっと押し戻した。そして舞子に電話をかけ、自分の決心を伝える。舞子はその話を聞き終えると、しばらく黙った後で、静かに尋ねた。「今、どこにいるの?」由佳が住所を告げると、ほどなく舞子がやって来た。由佳は道端のベンチに腰を下ろし、手にはタピオカミルクティーを持ち、ストローを咥えたままぼんやりと前方を見つめていた。舞子は隣に座り、静かに尋ねる。「ねぇ、由佳。景司に付き合おうかどうか、聞いたの?」由佳のまつ毛が微かに震え、舞子の方を向いた。「嫌だって言われたら、それこそ自分で恥をかくことになる」それは由佳の自信のなさの現れだった。景司が自分に少しでも興味を持っていたとしても、それほどではない――そう思い込んでいたのだ。
由佳は曖昧な声で返事をした。そして、わずかに息を整えて言う。「もういい。すぐ着くから」電話の向こうで、辰一が深いため息をついた。「はぁ……そうか。じゃあ俺も、合コンにでも行くか」車がレストランの入り口に停まった。由佳はドアを開け、指定された席番号を確かめながら中へと入った。窓際のテーブルには、眼鏡をかけた穏やかな印象の男性が座っていた。「あの……喜多野風早(きたの かざはや)さんでいらっしゃいますか?」風早は顔を上げ、由佳を見るなり柔らかく微笑んだ。「はい。あなたが石井さんですね。初めまして」「初めまして」二人は軽く挨拶を交わし、向かい合って腰を下ろした。来る前に、香里が風早のことを詳しく話していた。父は大学教授、母はアパレル工場を経営。本人は留学帰りで、国家の研究機関に所属する研究員だという。そうなれば、耀がこれ以上由佳に近づくこともないだろう。由佳は心を落ち着け、話を合わせた。お互いの趣味、日常、好きな食べ物――話題はどれも穏やかで、感情の波は少ない。胸が高鳴るような瞬間はなかったが、不思議と不快ではなかった。全体として、受け入れられる穏やかさがあった。食後、風早が会計を済ませた。その所作は礼儀正しく、どこまでも紳士的で、嫌な癖のひとつも見当たらない。彼はスマホを取り出し、レンズの奥の瞳に微笑を浮かべた。「石井さん、よければ連絡先を交換しませんか。明日、科学技術展があるんです。一緒に行けたらと思って」「いいですね」由佳もスマホを取り出し、二人はLINEを交換した。レストランを出ると、入り口の前で風早が軽く手を振り、由佳も笑みを返した。彼が歩き去るのを見届けると、由佳は小さく息を吐く。胸の奥が、何かしらの形で空っぽになったようだった。タクシーを拾おうと道路脇へ歩き出したそのとき――プップー!突然、二度クラクションの音が響いた。由佳は反射的に振り返る。運転席には景司がいた。片手でハンドルを握りながら、無言のまま鋭い視線を彼女に投げかけている。心臓がどくりと跳ねた。どうして?まさか、さっきのお見合いを……見てたの?戸惑いが胸を満たしたが、それでも由佳は足を向けた。助手席のドアを開け、静かに乗り込む。「景司様……どうしてここに?」儀
由佳は、ふと込み上げる涙をぐっと堪えた。深く息を吸い込み、静かに言う。「なんでもない。ただ……もう、吹っ切れただけ」舞子は少し黙ってから、確かめるように尋ねた。「本当に、吹っ切れたの?」「うん」由佳の声には、穏やかさと決意が混じっていた。「……わかった。あなたがそう決めたなら、それでいいわ」舞子もそれ以上は何も言わず、二人は短い言葉を交わして通話を終えた。浴室のドアが開き、賢司が入ってくる。「まだ浸かってるのか?」舞子は顔を上げ、ぽつりと口にした。「由佳、景司のこと……諦めたって」「ああ」賢司は落ち着いた様子で答えると、バスタオルを手に取り、湯船から彼女を抱き上げた。舞子の体の水気を丁寧に拭き取り、ベッドに横たえる。ボディローションを取り出して、むらなくその肌に塗り込んでいく。舞子の肌は滑らかでみずみずしく、触れた指先に極上の感触が残った。賢司は湧き上がる衝動を抑えながら塗り終えると、静かに隣に身を横たえた。「……景司は、諦めないだろうな」眠気に包まれつつあった舞子は、その言葉に反応して顔を向けた。「えっ……どうしてわかるの?彼、由佳のことが好きなの?」「ああ」賢司は淡々と答えた。「あいつは意地を張ってるだけだ。由佳が本当に身を引いたら、きっと慌てるさ」そう言って、賢司は舞子を腕の中へと引き寄せた。彼女の体はまだ火照っており、賢司は頬に軽く口づけを落とす。「もう一回、どうだ?」舞子は反射的に身を引いた。「やだ……またシャワー浴びるの、めんどくさい」しかし、賢司は彼女の髪を撫でながら穏やかに囁く。「ゆっくりするから。ね?」その吐息が舞子の唇の端をかすめ、細やかなキスが重ねられていく。優しく、けれど確かに情を帯びたその触れ方に、舞子の感情は少しずつ熱を帯びていった。体が震え、やがて彼の腕の中で力が抜けていく。「この……意地悪……」かすれた声で呟く彼女の膝裏に、賢司の手が回された。そして、その身を静かに押し当てた。由佳は実家で三日間、香里と共に過ごした。その朝、香里は彼女を起こし、身支度を整えさせてから言った。「今日のお見合いの場所、伝えておくわね」家を出てからというもの、由佳は何度もスマホを取り出しては画面を眺め、心
「由佳、夜食できたわよ。あんたの好きなおかず、作っておいたから」外から香里の明るい声が聞こえてきた。「はーい」由佳は短く返事をして、気持ちを切り替えるように立ち上がり、部屋を出た。リビングではすでに香里がコーヒーテーブルにおかずを並べ終えていた。「お母さん、もう何時だと思ってるの?こんなの今食べたら、明日には太って死んじゃう!」由佳はテーブルの上の串揚げを見て、思わず嘆息した。久しぶりに娘が帰ってきたのが嬉しくて、香里は眠ることもできず、つい由佳の好きなおかずを作ってしまったのだ。「大丈夫よ」香里はにこにこと笑いながら言った。「あんたは私の娘だから、私と同じで痩せやすい体質なの。太る心配なんてないわ。さ、食べなさい」由佳は苦笑しつつ香里の隣に腰を下ろし、串揚げを手に取った。一口かじると、外の屋台にも引けを取らない味だった。テレビからは軽快なバラエティ番組の笑い声が流れ、母娘はとりとめもない会話を続けながら、気づけば夜はすっかり更けていた。「もう眠いわ……」香里はあくびを噛み殺しながら立ち上がり、振り返って言った。「それはそのままにしておいていいから。明日の朝、私が片づけるわ」そう言い残して寝室へと消えていった。由佳は一人、静かなリビングで黙って竹串を置き、散らかったテーブルをきれいに片づけた。それから立ち上がり、玄関のドアを開けて外に出た。旧市街の夜はひっそりと静まり返り、風の音さえ遠くに感じられた。由佳は羽織っていたカーディガンを胸元でぎゅっと引き寄せ、軒下に立って空を仰ぐ。星がこぼれ落ちそうなほど輝いていた。胸の奥に、言葉にできない喪失感が広がる。キスは、たった二回だけ。やっぱり、ちょっと……物足りなかったな。「はぁ……」小さくため息をついた由佳は、スマホを取り出して夜空の写真を撮り、そのまま友人たちに送信した。すぐに通知が鳴る。深夜にもかかわらず、夜更かし仲間の舞子が素早く「いいね」を押してきた。由佳は彼女のアイコンをタップし、メッセージを送った。由佳:【どうしたの?こんな時間なのに、まだ起きてるの?】舞子:【まだこんな時間じゃん。寝るの早すぎる方がおかしいよ】実のところ舞子は、賢司に振り回されて疲れ果て、風呂上がりに何気なくスマホをいじっていた。そのとき、由佳
しかし、香里は深くため息をついた。「どこへ引っ越せるっていうの。あの人はまるで亡霊よ。私たちがどこへ逃げようと、必ず見つけ出してくるわ」由佳は眉をひそめた。「じゃあ、このままあいつにずっと付きまとわれて、私たちの血を吸われ続けるっていうの?」香里はそっと由佳の手を握り、静かに言った。「由佳、私の人生はもう終わりよ。でも、あなたの人生はまだ始まったばかりなんだから。早く結婚して、他の街でも、海外でもいい、とにかく結婚したらここを離れるの。旦那さんに守ってもらえれば、私も少しは安心できるわ」少し間を置いてから、香里は続けた。「あなたにお見合いをセッティングしておいたの。私がしっかり見極めた人だから、人柄もいいし、向上心もある。ちゃんと、一度会ってみなさい」由佳は顔をしかめた。「でも、その人にうちの事情、話したの?」ギャンブル狂いの父親を持つ女と、結婚したいなんて思う人はいない。迷惑をかけるだけに決まっている。香里は優しく由佳の手をポンポンと叩いた。「このことは内緒で進めるの。あのお父さんにも、あなたの未来の旦那さんにも知られないように。由佳、私はただ、あなたの残りの人生が幸せであってほしいだけなの」そう言うと、香里の目頭がじわりと赤くなった。由佳は唇を噛んだ。お見合いなんてしたくなかった。香里と一緒にここを離れ、いっそ海外でもどこでもいい、誰にも見つからない場所で生きていきたかった。だが、香里はこの土地に残るしかなかった。姉と弟がこの街に暮らしており、その縁を断ち切ることはできないのだ。由佳は目を伏せ、長い沈黙ののち、小さく頷いた。「……わかったわ」「よかった」香里はほっと息をつき、微笑んだ。「じゃあ、先方に連絡して、この数日中に会えるようにしておくわね」「うん」由佳はそう返事をし、ゆっくりと立ち上がって自分の小さな部屋へと戻った。ベッドと机、そしてクローゼットがひとつ。それだけの、簡素で狭い、けれど彼女が育った場所。幼いころ、家庭はまだ温かかった。両親は町工場で働く労働者で、裕福とは言えなくても、衣食に困ることはなく、由佳は長いあいだ、のびのびと育ってきた。だが、その日々は、父・石井耀(いしい よう)がギャンブルに溺れてから崩れた。家の貯金はあっという間
「いいえ、タクシーで行きますから」由佳は思わずそう言ってしまった。景司は何も言わず、ただ静かに彼女を見つめている。その冷ややかな視線に、胸の奥が妙にざわつく。視線をそらそうとしても、釘付けにされたように動けなかった。数度まばたきをしてから、由佳は観念したように小さく息を吐いた。「……じゃあ、お願いします」高級車は静かに発進し、レストランのエントランスを離れていく。その後ろ姿を、亜夢と取り巻きの二人が立ち尽くしたまま見送っていた。「ねえ、どうしてあの女、景司様と知り合いなの?」「まさか……景司様の車に乗ったってことは、囲われてるんじゃないの?」「黙りなさい!」取り巻きの甲高い声が響く中、亜夢の顔色は見る見るうちに蒼白になっていく。あの女!よくも、私の景司様を奪おうなんて……いい度胸じゃないか。亜夢は唇を吊り上げ、冷たく言い放った。「あなたたちは自分で帰りなさい」それだけ言うと、踵を返し、自分の車に乗り込む。タイヤが悲鳴を上げるほどの勢いで、車は夜の街へと消えていった。高級車は静かに路地の入り口に停まった。白壁に灰色の瓦が連なる古い町並み。青石の舗道には雨の名残りがまだ光り、川沿いのしだれ柳が風に揺れている。由佳はシートベルトを外し、景司の方を向いた。「ありがとうございます。私、ここで」景司は片手をハンドルに置いたまま、窓の外の風景を見つめて言った。「俺を、家に誘わないのか?」「えっ?」由佳は目を丸くした。「いきなりあなたを家に連れて帰ったら……お母さん、驚いちゃいますよ」景司は小さく笑った。「それはサプライズってやつか?それとも驚きのほう?」「……驚き、の方です」「そうか」彼は口元にかすかな笑みを浮かべて言った。「じゃあ、今日はやめとく。また今度な」今度?由佳の胸が一瞬跳ねた。次は、一緒に家に帰るつもり?まさか、母に紹介するって意味?彼との関係は、まだそんな段階じゃないはずなのに。けれど、今はそれを考えている余裕などない。「……じゃあ、私、行きます。またね」「うん」短い返事。その声に、何か温かいものが滲んでいた。由佳は車を降り、細い路地へと歩き出した。由佳は気づかなかった。高級車から降りる彼女の姿を、遠くから見






