それからというもの、陽介さんはなぜか家に帰ってくるようになった。その理由は分からない。ただの形式的な結婚だと思っていた私には、彼のその行動がまったく理解できなかった。当麻はというと、初めは少し緊張した様子を見せていたけれど、驚くほど早く陽介さんに懐き始めた。それが何よりも私には不思議でならなかった。意外だったのは、会社で見せる冷淡で感情を感じさせない表情とは違い、当麻に向けて柔らかい表情を見せることがあることだ。その姿に、私の中にある彼への印象が少しずつ揺れ始めていた。「ねえねえ、陽介さん!」当麻が声を張り上げて、陽介さんの袖を引っ張る。私は止めようとしたが、彼は困ったように眉を下げただけで、声を荒らげることもなく応じた。「どうした?」「これ見て!」当麻は手に持っていたおもちゃの車をテーブルの上で動かして見せた。陽介さんはそれに目を向け、ほんの少し微笑む。「かっこいいな。それはパトカーか?」「うん! ママが買ってくれたんだよ!」「そうか。ママは優しいな」その短いやり取りに、私はなんとも言えない気持ちになった。普段から見せる陽介さんの無表情が、当麻の前では少しだけ和らぐ。それが少し意外だった。しかし、陽介さんの変化に驚く一方で、私は気づいてしまったことがある。リビングや廊下で、ふと目をやると、彼が額に手を当てて目の上を押さえる仕草をしている。まるで頭痛に耐えているかのように見えた。(何か余計なことかもしれないけど……)放っておけない性分の私は、頭痛に効果があるというハーブティーを淹れて、彼の部屋に持って行くことにした。ノックをして部屋に入ると、陽介さんはデスクに向かって何かの資料に目を通していた。「お茶をお持ちしました」そう声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。「そこに置いておいてくれ」指示通り、そっとデスクの隅にカップを置こうとしたとき、ふと目に入った資料の一部に心臓が跳ねた。そこには、弟である悠馬さんが担当している案件の資料が並べられていた。(これは……)一つの会社名が目に飛び込み、つい声に出してしまった。「これ……」その小さな呟きに、陽介さんは怪訝そうな目で私を見上げる。「なんだ?」その鋭い問いに、慌てて首を横に振る。「いえ……」掃除婦が余計な口を挟むべきではないと思いつつ、口が勝手に動いてしまった。
あの日から、なぜか陽介さんは家へ帰ってくるようになった。最初は理由が分からず戸惑っていたが、何度か神崎さんが来た際、陽介さんが冷たく対応してくれているのを見て、彼が私の状況を察してくれているのだと気づいた。仕事を終え、今日は特に変わったこともなく普通に帰宅した陽介さんに、私はお礼を言おうと決意した。キッチンで飲み物を手にしている彼に向かって、そっと頭を下げる。「あの、ありがとうございます」突然の言葉に、陽介さんは少し驚いた様子で私を見た。何のことかと尋ねるような視線を送ってくるが、すぐに意味を理解したのだろう。一瞬、バツの悪そうな表情を浮かべる。「俺が持ち掛けた話だからな」そう短く答える声は素っ気なくも、どこか優しさが含まれているように感じられた。その時、当麻が小さな声で「ね、いっしょにごはん?」と陽介さんを見上げながら言った。「こら、当麻。わがまま言わないの」私は慌てて当麻をたしなめる。この結婚はあくまで形だけのものであり、彼に気安く接していい立場ではない。そう思っているのに。「いいよ、一緒に食べよう」陽介さんは意外なほどあっさりと了承した。私にはどこか距離を保っている彼が、当麻には驚くほど柔らかい表情を見せている。その様子が妙に温かくて、胸がくすぐったくなる。食卓を囲み、まるで本当の家族のように食事をする時間。私は陽介さんと当麻のやりとりをそっと見守りつつ、料理に視線を落とす。「水、飲めるか?」優しい声色に、当麻が頷いた……。(……どこかでこの声を聞いた気がする)曖昧な記憶が脳裏をよぎる。あの夜――バーで過ごしたあの夜、酔った私に同じような優しい声をかけてくれたバーテンダーの彼。(でも、あの人は目が見えないはず……それに、もうこの世にはいないかもしれない)妊娠が分かったあと、私は一度だけあのバーを訪れたことがあった。しかし、そこにいた別の男性に、「彼はもういない」と告げられた。その言葉が何を意味するのか、聞き返す勇気もなかった。だから当麻の父親はわからいままだ。当麻が大きくなったら、あの指輪を渡そう。あの日の気持ちのまま交換した指輪。どこかで、彼も形見の指輪を大切にしてくれているといい。そんな考えを抱えながら、目の前で笑顔を見せる陽介さんと当麻の姿をぼんやりと見つめていた。「ママ!」当麻の明るい声が、私のぼんやり
「弟さんのことを大切にしてるんですね」私の言葉に、陽介さんは一瞬だけ目を伏せた。「向こうはそうは思っていないだろうけどな」少し悲しげな表情を浮かべながら、彼は苦笑する。その顔には、どこか諦めが滲んでいた。「俺と弟は母親が違うんだ」その言葉に、私は小さく息を飲む。なんとなくそんな気がしていたが、やはりそうなのかと確信に変わる。義母――彼のお母様の言動や態度からも、何かしら考えがあるのだろうと薄々感じていた。「お母様は、神崎さんとのご結婚を望んでいらっしゃったんですよね?」彼は無言のまま、視線を遠くに投げる。「でも、それはどうして……」私は勇気を振り絞って問いかける。彼と神崎さんの結婚が望まれていたのなら、なぜ私のような存在を選んだのか、その理由をどうしても知りたかった。陽介さんは少し間を置いてから、低い声で答えた。「母にとって、神崎は都合が良かったんだろう。彼女なら自分の思い通りにできると思ってる」確かに、神崎さんはお母様の言いなりのように見える部分もあった。「それはたしかに……」「もしかして母もここに来たのか?」その話をしていなかったなと思いつつ、「初めのころに」それだけ答えると、陽介さんは髪をかきあげて大きく気を吐いた。「すまない」その言葉には、冷たさの中にどこか悔しさのような感情が垣間見えた。彼の母親――義母が、陽介さんの人生にどれほどの影響を及ぼしてきたのかを想像すると、胸が締め付けられる思いだった。「じゃあ、神崎さんとの結婚を拒むために、私を……?」私の問いに、陽介さんは初めて正面から私を見つめた。その瞳には、冷静さの奥に隠された迷いが映っていた。「そうだと言ったら、君はどう思う?」なんとなく彼の瞳は揺れていて、後悔が滲んでいるようにも見えた。私はつとめて明るく言葉を発する。「その理由なら、他の女性でもよかったんじゃないですか? いくらでも利益になる方はいますよね?」思わずそう問いかけた私に、陽介さんは少し驚いたように目を細めた。しかし、気を悪くすることもなく、むしろアルコールが入っているせいか柔らかな雰囲気のまま、申し訳なさそうに言葉を続けた。「自意識過剰だと思うかもしれないが……みんな、なんだかんだ俺にいろいろ求めたり、本当の結婚にしたがるんだ」その言葉に、私は一瞬言葉を失った。彼のような人だからこそ、
朝の光が薄いカーテン越しに差し込んできた。私はそのまぶしさに顔をしかめながら、ぼんやりと瞳を開いた。体が重く、頭がぐらぐらする。この感覚は…酒のせいだとすぐに分かった。昨夜、相当飲んだんだな、と自分に呆れながら体を起こそうとした瞬間、隣に誰かがいることに気づいて、心臓が止まるかと思った。「え…?」ベッドの中、私の隣に見知らぬ男性が寝ている。背が高く、広い肩が布団の下から覗いているのが見えた。混乱した頭の中で必死に昨夜の記憶をたどろうとするが、アルコールのせいか、細部がぼやけている。なんで私、こんなところにいるの?混乱する中でふと、彼の首元に目が留まった。そこには、見覚えのあるチェーンがぶら下がっている。それは…私の祖母の形見の指輪。昨夜、私は酔った勢いでこの人にそれを渡してしまったのだ。思い出して、冷や汗がじわりと出る。「やばい…」その指輪を取ろうと、彼に手を伸ばすと気配を感じたのか、彼が寝返りを打った。私は慌ててベッドから抜け出し、できるだけ静かに服を手に取った。ドアの方に向かおうとするけど、頭の中では昨夜の出来事が断片的にフラッシュバックしてくる。彼とは確か、バーで出会った…。「お待たせしました、ジントニックです。」カウンター越しに低い声が聞こえ、私は顔を上げた。サングラスをかけたバーテンダーが、グラスをそっと私の前に置く。背が高くて、スーツ姿がよく似合う彼に、私はいつも目を奪われてしまう。サングラスをかけているせいで、表情はよくわからないけど、どこか寡黙でクールな雰囲気がある。何度か来たことのある、会社の近くのバー。店内は明かりが落とされていて落ち着く空間だ。彼と一緒に、もう一人同じぐらいの男性がいるこの店。私もいつもは誰かと来るため、あまり気にしていなかったが、今日は訳あって一人。アルコールも手伝って声をかけていた。「ありがとうございます。でも…なんでサングラス?」私は、つい好奇心でそんなことを聞いてしまった。だって、室内なのにサングラスって普通じゃない。彼は静かに口を開いた。「視力が弱くて」一瞬、私は何も言えなくなった。気まずくて、どう返事をすればいいかわからない。無意識に、グラスを口元に運びながら、私は彼をちらりと見た。彼は気にする様子もなく、穏やかに立っていた。「ごめんなさい…そんなつもりじゃなかったの。」「
部屋を出た私は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、昨夜の出来事を振り返っていた。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。思わず顔を覆いたくなるような後悔が、胸の奥でじわじわと広がる。指輪を彼に渡してしまったことも、今になってようやく重くのしかかってきた。あれは、私にとって祖母からの大切な形見だったのに。酔いがさめた今、その重大さが痛いほど感じられる。「私、どうかしてた…」呟くと同時に、ふと昨夜の彼の優しい声が耳に蘇る。私の愚痴を黙って聞いてくれて、どんなに酔っても優しく対応してくれた彼。目が見えないのに、まるで私の心の中まで見透かすような、そんな不思議な感覚があった。Side 陽介半年前、俺は事故で視力を失った。突然訪れた暗闇の中で、生きる意味も自信も失ったような気がした。自分がこれまで築いてきたものが、すべて手の届かない場所へと消えていくような感覚だった。それでも、どうにか立ち直ろうと決意し、今はバーテンダーとして働いている。店のカウンター越しに、彼女――名前も知らない女性がどんな人なのかをぼんやりと想像していた。いつも通り、声や気配から客の様子を察してきたが、彼女の声にはどこか疲れや寂しさが滲んでいた。酒の匂い、重く響く愚痴、そして時折漏れるため息。「家が厳しいんだよね…お見合いだって、恋も結婚も好きに選べないし。っていっても、恋なんてしたことないんだけどね」彼女は自分の悩みを打ち明けるように語り続けた。俺はあえて黙って聞いていた。バーテンダーとして、人の話を受け止めるのは慣れている。客の感情を聞き流すのも仕事の一部だと思っていたからだ。けれど、彼女の声には何か特別なものを感じていた。心の奥に触れるような、そんな響きがあった。気づけば、俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。しかし、それが俺自身の感情なのか、それとも彼女の孤独が自分に投影されているだけなのかは、まだわからなかった。「自由になりたいだけなのに、恋もしてみたい…」彼女の声が震えた。その瞬間、俺は自分もかつて同じような感情を抱いていたことを思い出した。目が見えなくなった時、自分の自由も奪われたように感じた。だからこそ、彼女の言葉に共感してしまったのかもしれない。「そんな時もあるよ。自分を責めない方がいい。」そう声をかけた時、彼女がどんな反応をしたのかは見えなかったが、
「どうしよう…」あの日、妊娠がわかった瞬間、私は頭の中が真っ白になった。まさか、こんなことになるなんて――あの一夜の出来事を後悔しても、もう遅かった。でも、心のどこかでは、子どもを産みたいという思いが強く残っていた。どうしようもない不安と恐怖の中で、私は一つの決断を下した。「私は、この子を産む。」そう思った瞬間、まるで自分が新しい人生を背負ったような感覚に襲われた。だけど、それと同時に、私の人生も大きく変わることを理解していた。家に戻り、両親にそのことを告げたとき、ふたりの顔が凍りついたのを今でも覚えている。「美優、お前、大切な見合いだといってあったのに……」父が今まで見たことないほど、怒りに震えているのを見て、自分のしでかしたことがどれほど罪深いことかを悟った。でも……。「勘当だ。もう二度と帰ってくるな。」その言葉と少ない荷物だけで、私は家を追い出された。あの一夜がすべてを変えてしまった。だけど、私はこの子を諦めることはできなかった。 四年後ーー 妊婦で身寄りもない人間を雇う会社などほとんどない。私がなんとか見つけた仕事は、清掃員の派遣だった。息子の当麻が一歳半になるまでは、なんとか蓄えと、内職などで食いつないでいたが、そのころには難しくなった。それ以来、この仕事をしている。派遣先は変わっていくが、基本仕事内容は変わらない。今の職場は一カ月前ほどからだ。「ママ、早く!」息子の当麻の声に、私はキッチンでバタバタと朝ごはんの片付けをしていた。三歳の当麻は、最近保育園に通うのが楽しいらしく、毎朝私を急かしてくる。「ちょっと待って、当麻。あと少しで準備終わるから!」私は慌てて最後の食器を流しに置き、急いで当麻のリュックに必要なものを詰め込んだ。朝の忙しさに追われながらも、当麻の笑顔を見ていると、どんなに大変でも頑張れる気がする。「はい、行こう!今日は先生に何を見せるの?」「今日は、お絵描き!」当麻は自信満々にリュックを背負い、玄関へと駆け出した。私も急いで靴を履き、家を出る。保育園まではほんの数分の道のり。当麻を送り届けた後、城崎ホールディングスのビルへ向かう。そして、何度見てもそのビルの大きさに驚いてしまう。(どれだけの高さがあるの……)このビルは、オフィス棟、商業棟とあり、百貨店やホテル、飲食店はもちろん、企業も大手ばかりはい
「おはようございます」ギリギリだ……。朝は本当に戦争のようだ。今日は10分寝坊してしまったのがまずかった。更衣室のロッカーを開けて、扉の裏についた小さな鏡に映る自分を見てため息が零れる。髪は振り乱れ、ほとんどノーメイク。確かにこの会社にいる煌びやかな女性たちから見たら、地味とか言われるのも仕方がない気もする。心の中で盛大にため息を吐いて従業員の事務所に行くと、この会社の清掃員たちのリーダーを務めている三宅さんが私を呼ぶ。「今日、CEOの部屋の担当のみどりちゃんがお休みなの。代わってくれる?」「CEOの部屋ですか? 私なんかでいいんですか?」CEOの部屋は厳重にセキュリティも施されていて、入れるスタッフも限られている。昨日ちらりと見た彼を思い出して尋ねると、三宅さんは苦笑した。「あなた以外、適任がいないのよ。ここの職場は短いけど、この仕事の歴は長いし、丁寧で完璧って社長からも聞いてるから」素直に自分の仕事を評価してもらったことは嬉しい。「わかりました」そう答えると、私はセキュリティキーとCEOのスケジュールを預かり、事務所を後にした。CEOの部屋があるフロアはエレベーターを降りた瞬間から違っていた。ふかふかの絨毯に、大きな会社のゴールドのロゴ。その向こうにはすりガラスになった扉。なんとなく場違いな気がしてしまって、安請け合いをしてしまった自分に後悔をする。しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。そう思いつつ、私はセキュリティカードをかざした。「失礼します……」スケジュールから、CEOは会議だとわかっていたが、小声でそう言い部屋へと足を踏み入れる。広々とした部屋は、ピカピカに磨かれたデスクや大きな窓から見える都会の景色が、まるで別世界のように感じさせる。「掃除するところある?」独り言ちながら、私は部屋全体を見回した。しかしいくら綺麗でも仕事だ。掃除機をかけたり、机を拭いたりといつも通りに仕事を始めた。「あっ、意外にここ汚れてる……」立派なチェアの足が汚れていると気づき、そこを重点的に拭いている時だった。「冗談だろ?」冷たく、本当に嫌そうな声音が聞こえて、私は思わずビクッとして起き上がると、上にあった机に思いっきり頭をぶつけた。「痛っ!!」つい声が漏れてしまい、慌てて口を覆った。しかし時はすでに遅かった。「誰だ!!」
「あの、今何をおっしゃいましたか?」私の声は少し震えていた。それでも、なんとか冷静を装おうと必死だった。目の前の男性、CEOは、私の問いには一切答えず、スマホを耳に当てて誰かに短く指示を飛ばしていた。その間、私は足元から冷たい空気が這い上がるような感覚を覚えていた。ドアが開き、一人の男性が入ってきた。整ったスーツ姿で、無駄のない動作でCEOにタブレットを渡す。CEOはそれを受け取ると、画面を操作しながら口を開いた。「シングルマザー……」それだけの言葉を呟くと、彼は視線をタブレットから外さずに続けた。「だから何でしょうか」 私は冷たい声で言い返した。心臓は早鐘のように鳴っていたが、それを悟られるわけにはいかなかった。「仕事はきちんとしています。それに、私がどんな立場であろうと、あなたには関係ありません」その言葉に、彼の手が一瞬止まるのが見えた。だが次の瞬間、彼の低く落ち着いた声が耳を打った。「でも、あなたはお金に困っているのではないですか」心臓がギュッと掴まれるような気がした。その通りだ。私は息子のために必死で働いているが、それでも十分とは到底いえない。貯蓄が底をついた今、その現実を、この男に突きつけられるのは屈辱だった。「確かに裕福ではありません。でも、それがどうしました? 私は施しを受けるためにここにいるわけではありません」自分の言葉が少し震えているのを感じながらも、私は彼を睨みつけた。その時、不意にどこかで会ったような記憶がよみがえる。サングラスで瞳は見えなかったが、なんとなく面影が……。そこまで思い出して、それが四年前、一夜をともにしたバーテンダーだと悟る。しかし、この人ははっきりと目が見えているし、アルコールのせいで記憶も曖昧だ。気のせいだろう。そう思い直す。「仕事の提案です」そんな私をよそに、CEOは冷たい視線を向けた。彼の目は鋭く、そこに一切の情けも感情も感じられなかった。「私と結婚してください」「さっきの演技は彼女を断るためですよね」驚きすぎて声が裏返った。耳が聞き間違えたのかと思ったが、彼は表情一つ変えずに続けた。「形式上の結婚です。お互いの利害を一致させるための契約だと思ってください」「……何を言ってるんですか」意味がわからない。いや、わかりたくないと思った。私がどれほど努力して生きてきたか、この人には
「弟さんのことを大切にしてるんですね」私の言葉に、陽介さんは一瞬だけ目を伏せた。「向こうはそうは思っていないだろうけどな」少し悲しげな表情を浮かべながら、彼は苦笑する。その顔には、どこか諦めが滲んでいた。「俺と弟は母親が違うんだ」その言葉に、私は小さく息を飲む。なんとなくそんな気がしていたが、やはりそうなのかと確信に変わる。義母――彼のお母様の言動や態度からも、何かしら考えがあるのだろうと薄々感じていた。「お母様は、神崎さんとのご結婚を望んでいらっしゃったんですよね?」彼は無言のまま、視線を遠くに投げる。「でも、それはどうして……」私は勇気を振り絞って問いかける。彼と神崎さんの結婚が望まれていたのなら、なぜ私のような存在を選んだのか、その理由をどうしても知りたかった。陽介さんは少し間を置いてから、低い声で答えた。「母にとって、神崎は都合が良かったんだろう。彼女なら自分の思い通りにできると思ってる」確かに、神崎さんはお母様の言いなりのように見える部分もあった。「それはたしかに……」「もしかして母もここに来たのか?」その話をしていなかったなと思いつつ、「初めのころに」それだけ答えると、陽介さんは髪をかきあげて大きく気を吐いた。「すまない」その言葉には、冷たさの中にどこか悔しさのような感情が垣間見えた。彼の母親――義母が、陽介さんの人生にどれほどの影響を及ぼしてきたのかを想像すると、胸が締め付けられる思いだった。「じゃあ、神崎さんとの結婚を拒むために、私を……?」私の問いに、陽介さんは初めて正面から私を見つめた。その瞳には、冷静さの奥に隠された迷いが映っていた。「そうだと言ったら、君はどう思う?」なんとなく彼の瞳は揺れていて、後悔が滲んでいるようにも見えた。私はつとめて明るく言葉を発する。「その理由なら、他の女性でもよかったんじゃないですか? いくらでも利益になる方はいますよね?」思わずそう問いかけた私に、陽介さんは少し驚いたように目を細めた。しかし、気を悪くすることもなく、むしろアルコールが入っているせいか柔らかな雰囲気のまま、申し訳なさそうに言葉を続けた。「自意識過剰だと思うかもしれないが……みんな、なんだかんだ俺にいろいろ求めたり、本当の結婚にしたがるんだ」その言葉に、私は一瞬言葉を失った。彼のような人だからこそ、
あの日から、なぜか陽介さんは家へ帰ってくるようになった。最初は理由が分からず戸惑っていたが、何度か神崎さんが来た際、陽介さんが冷たく対応してくれているのを見て、彼が私の状況を察してくれているのだと気づいた。仕事を終え、今日は特に変わったこともなく普通に帰宅した陽介さんに、私はお礼を言おうと決意した。キッチンで飲み物を手にしている彼に向かって、そっと頭を下げる。「あの、ありがとうございます」突然の言葉に、陽介さんは少し驚いた様子で私を見た。何のことかと尋ねるような視線を送ってくるが、すぐに意味を理解したのだろう。一瞬、バツの悪そうな表情を浮かべる。「俺が持ち掛けた話だからな」そう短く答える声は素っ気なくも、どこか優しさが含まれているように感じられた。その時、当麻が小さな声で「ね、いっしょにごはん?」と陽介さんを見上げながら言った。「こら、当麻。わがまま言わないの」私は慌てて当麻をたしなめる。この結婚はあくまで形だけのものであり、彼に気安く接していい立場ではない。そう思っているのに。「いいよ、一緒に食べよう」陽介さんは意外なほどあっさりと了承した。私にはどこか距離を保っている彼が、当麻には驚くほど柔らかい表情を見せている。その様子が妙に温かくて、胸がくすぐったくなる。食卓を囲み、まるで本当の家族のように食事をする時間。私は陽介さんと当麻のやりとりをそっと見守りつつ、料理に視線を落とす。「水、飲めるか?」優しい声色に、当麻が頷いた……。(……どこかでこの声を聞いた気がする)曖昧な記憶が脳裏をよぎる。あの夜――バーで過ごしたあの夜、酔った私に同じような優しい声をかけてくれたバーテンダーの彼。(でも、あの人は目が見えないはず……それに、もうこの世にはいないかもしれない)妊娠が分かったあと、私は一度だけあのバーを訪れたことがあった。しかし、そこにいた別の男性に、「彼はもういない」と告げられた。その言葉が何を意味するのか、聞き返す勇気もなかった。だから当麻の父親はわからいままだ。当麻が大きくなったら、あの指輪を渡そう。あの日の気持ちのまま交換した指輪。どこかで、彼も形見の指輪を大切にしてくれているといい。そんな考えを抱えながら、目の前で笑顔を見せる陽介さんと当麻の姿をぼんやりと見つめていた。「ママ!」当麻の明るい声が、私のぼんやり
それからというもの、陽介さんはなぜか家に帰ってくるようになった。その理由は分からない。ただの形式的な結婚だと思っていた私には、彼のその行動がまったく理解できなかった。当麻はというと、初めは少し緊張した様子を見せていたけれど、驚くほど早く陽介さんに懐き始めた。それが何よりも私には不思議でならなかった。意外だったのは、会社で見せる冷淡で感情を感じさせない表情とは違い、当麻に向けて柔らかい表情を見せることがあることだ。その姿に、私の中にある彼への印象が少しずつ揺れ始めていた。「ねえねえ、陽介さん!」当麻が声を張り上げて、陽介さんの袖を引っ張る。私は止めようとしたが、彼は困ったように眉を下げただけで、声を荒らげることもなく応じた。「どうした?」「これ見て!」当麻は手に持っていたおもちゃの車をテーブルの上で動かして見せた。陽介さんはそれに目を向け、ほんの少し微笑む。「かっこいいな。それはパトカーか?」「うん! ママが買ってくれたんだよ!」「そうか。ママは優しいな」その短いやり取りに、私はなんとも言えない気持ちになった。普段から見せる陽介さんの無表情が、当麻の前では少しだけ和らぐ。それが少し意外だった。しかし、陽介さんの変化に驚く一方で、私は気づいてしまったことがある。リビングや廊下で、ふと目をやると、彼が額に手を当てて目の上を押さえる仕草をしている。まるで頭痛に耐えているかのように見えた。(何か余計なことかもしれないけど……)放っておけない性分の私は、頭痛に効果があるというハーブティーを淹れて、彼の部屋に持って行くことにした。ノックをして部屋に入ると、陽介さんはデスクに向かって何かの資料に目を通していた。「お茶をお持ちしました」そう声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。「そこに置いておいてくれ」指示通り、そっとデスクの隅にカップを置こうとしたとき、ふと目に入った資料の一部に心臓が跳ねた。そこには、弟である悠馬さんが担当している案件の資料が並べられていた。(これは……)一つの会社名が目に飛び込み、つい声に出してしまった。「これ……」その小さな呟きに、陽介さんは怪訝そうな目で私を見上げる。「なんだ?」その鋭い問いに、慌てて首を横に振る。「いえ……」掃除婦が余計な口を挟むべきではないと思いつつ、口が勝手に動いてしまった。
朝日が差し込むリビングに足を踏み入れた瞬間、私は思わず立ち止まった。そこで見たのは、普段は顔を合わせることもないCEOが、静かに朝食をとっている姿だった。「……どうして?」思わず呟いた言葉が彼の耳に届いたのか、彼は顔を上げることもなく、冷静に答えた。「ここは俺の家だ」当たり前のように返され、私は一瞬、言葉を失った。この結婚は形式的なもの。彼がこの家にいることは何もおかしくないはず――頭では分かっているのに、胸の奥がざわつく。今まで顔すら見せなかったのに。当麻が「ママ、何してるの?」と小さな手を引っ張る。その無邪気な声にハッとして、私は慌てて考えを切り替えた。「当麻、旦那様がお食事中だから、少し待とうね。あとで一緒に食べよう」CEOの食事の時間を邪魔をしないようにしようとしたつもりだった。しかし、次の瞬間、不意に彼の声が聞こえる。「それは嫌味?」低く鋭い問いかけに、驚いた私は思わず彼を見つめた。そんなつもりは全くなく、慌てて首を横に振る。「いえ、まったくそんなことは……」「じゃあ、早く席について。当麻、だったよな?」CEOが当麻に向けて、少しだけ表情を柔らかくしながら問いかける。普段の冷たい印象が少し和らいで見えたのは、気のせいだろうか。「うん! 当麻だよ!」当麻が笑顔で応じると、CEOは軽く頷き、隣の席を指差した。「ここに座ればいい」その言葉に私は戸惑った。彼と同じテーブルで食事をするなんて――。「でも……」「いいから」短く言い切るCEOに、これ以上の反論はできなかった。私は当麻の手を引いて席につき、心臓の鼓動が早まるのを感じながら椅子に座った。すると、タイミングよく安田さんがにこやかに現れる。「奥様、当麻ちゃん、おはようございます」「安田さん、おはようございます」いつもと変わらない彼女の姿に、少しだけ緊張が解けて、私は挨拶を返した。「食事すぐに準備しますね」「あっ、私やります」「今日はいいですよ、私に任せてくださいな」安田さんが楽しそうにそう言ってくれる。きっと、CEOがいるから私が気を遣っているのを感じ取ったのだろう。内心、感謝しながらも当麻に視線を向けた。いきなり知らない男性がいたら緊張するだろう、と思っていたが、意外にも当麻はCEOに対してにこにこしている。「あの……CEO……」「家でその呼び方は
そんな気持ちを引きずりながら迎えた週末。朝から何か嫌な予感がしていた。 午後から当麻と遊びに出かけようと思い立ったが、その判断は遅すぎた。 神崎さんが家に現れたのは午後のことだった。安田さんが当麻を連れて別室に行ってくれたことだけが、せめてもの救いだった。「まだいたのね。あんなにCEOに呆れられても懲りないなんて」 リビングの高級ソファに堂々と座りながら、神崎さんは冷たい視線を向けてきた。「それはあなたが仕組んだことですよね?」 溜まっていた思いが抑えきれず、つい口にしてしまった。「なっ……!」 顔を真っ赤にして神崎さんが睨み返してくる。「本当に往生際が悪いわね。あなたみたいな人が彼の妻でいるなんて、あり得ない」「それは彼に言ってください。私は彼に望まれてここにいるんですから」 ずっと我慢してきたが、あまりにも幼稚で身勝手な行動に、苛立ちが抑えられなかった。「ねえ、誰にものを言ってるのよ? 本来なら、あなたと私は会話すらできない立場なのよ」「どうしてですか? 今こうして話しているじゃないですか」 身分や家柄を振りかざすなんて、なんてくだらない人なんだろう。そんなことでしか人を評価できないなんて、哀れにすら思えた。「いい加減にしなさい!」 彼女の手が振り上げられるのを見て、叩かれる――そう覚悟した瞬間だった。突然、リビングのドアが開く音が響いた。「何をしている?」冷ややかな声がリビングに広がる。振り返ると、そこにはCEOが立っていた。鋭い視線が神崎さんと私を交互に捉えた瞬間、空気が一変した。「CEO!」 驚いた神崎さんの声。普段の傲慢な態度は消え失せ、まるで別人のようにしおらしい様子に呆れを覚える。「いえ、あの……奥様と少しお話をしていただけで――」「話……ね」 短く言い放つと、CEOは私に視線を向けた。どうなのか、と無言で問いかけられているようだった。しかし、私が答えようとするより早く、神崎さんが彼の腕に縋るような仕草を見せた。「本当です。奥様が私を誤解しているみたいで……」「誤解?」 つい口に出してしまい、神崎さんを見据える。「それはどういう誤解なんだ?」 CEOの冷静な声が神崎さんを追い詰めるようだった。「それは、えっと……」 もちろん、彼女が嫌がらせをしていることや、先日の件を話せるわけがない。「
朝の日差しがダイニングテーブルを照らし、穏やかな空気が流れていた。当麻はいつものように元気いっぱいで、スプーンを持ちながら笑顔を見せる。 今朝の朝食は、オムレツにケチャップで顔を描いてみた。「これ、ママがかいたの?」 「うん、ニコニコの顔」当麻はその顔を崩さないように、慎重にスプーンを運んでいる。その無邪気な姿に思わず私も笑顔になる。しかし、すぐにあの日のことがよみがえる。招待状を私は捨てていない。きっと神崎さんがわざとやったことだろう。それをきちんとCEOに弁明するべきじゃなかったのか。今でもそう思ってしまう。彼からあんな瞳を向けられる理由はなかったのに……。しかし、あの場で何かを言ってもきっとどうにもならなかったような気もする。 きっとCEOも役立たずだと思っているだろう。それなのに。「安田さん、またクローゼットに新しい洋服が入っていたんだけど知ってますか? それにあれも……」 リビングの隅に用意されたキッズコーナー。男の子が好きそうな電車や車のおもちゃはもちろん、床にはクッション材が敷かれているそこに視線を向ける。「ああ、旦那様からの依頼ということで、昨日百貨店の外商の方が持ってきたんですよ。何か足りないものはありましたか?」当たり前のように言う安田さんに、私は苦笑する。便宜上結婚した私たちのことなど放置しておけばいいのに。 招待状の件にしても、使えない人間を妻にしてしまった。それぐらいにしか思っていないと思っていた。 なのに、こんな気遣いをされるなんて。複雑な思いになりつつ、安田さんに視線を向ける。「まさか。私たちには十分すぎるなって」 「いいんですよ。旦那様は忙しい忙しいって何も夫らしいことしてないんですから」少し怒りつつそう言ってくれる彼女に、心が温かくなった。「ママ、きょうもがんばってね」 そう言いながら、小さな口でご飯をモグモグと食べている息子の姿を見て、私は自然と微笑んだ。「ありがとう」正直なところ、神崎さんが初めて来たころは契約を破って、この会社から離れたいと考えたこともある。それでも、今の仕事を無責任に放り出すのも許されない気がして、結局は行動に移せずにいた。(それに、会社を辞めたとしても、あの家には義母も神崎さんも自由に出入りしている。状況は変わらないのかもしれない)一人でため息をつきながら、私
Side 陽介俺はデスクに散らばる書類に目を通しながら、机に肘をついていた。表面上は冷静を装っていたが、内心では苛立ちを抑えるのに必死だった。さきほどの美優たちとのやり取りが頭から離れない。冷たい言葉を投げかけた自分を思い返し、ほんの少し胸が痛む。(大事なものを置いておくように言った俺が悪いのに……)あのときの、彼女の呆然とした顔が頭に浮かぶ。そのとき、控えめなノック音がデスクの沈黙を破った。「どうぞ」短く応えると、扉がゆっくり開いた。その先に立っていたのは継母の佐和子だった。「久しぶりね、陽介」彼女の口調は柔らかく、まるで本当の母親のようだ。けれど、その笑みの奥に潜む冷たさを、俺はよく知っている。「何かご用でしょうか」デスクから目を離さずに問いかける。その態度に気分を害した様子もなく、継母はソファに腰を下ろした。「ええ、少し挨拶をしようと思って。あなた、いいお嫁さんをもらったわね」継母の言葉に、俺は眉一つ動かさず応じた。「そうでしょう? だから僕のことは気にしないでもらえると助かります」その返答に、継母はクスクスと楽しげに笑う。「まあ、私はただ、あなたのことが心配なだけよ」俺は視線を上げ、冷静な表情で継母を見据えた。その目には一切の感情が宿っていない。「それはありがとうございます」心にもないことを言い合うこの時間ほど無駄なものはない。そんな思いを微塵も見せずお礼を口にした。「そう言えば、今度のコンペ、あなたも参加するのかしら?」継母はさらりと話題を変える。その一言に込められた意図を、俺はすぐに理解した。「いいえ、あれは悠馬が出るのでしょう? 僕は遠慮しますよ」出ると言えば、全力で潰しにくるのは目に見えている。今日はそのことを確認しに来たのだろう。「そう。あなたはいつでも今の座を降りても構わないと言ってるものね。本心かは分からないけど」言葉に隠された挑発に、俺はまっすぐに彼女を見据えた。(あなたに殺されかけて、失明し、いろいろなものを見た。その結果、もう地位や名誉に執着するのはやめたんですよ)心の中でそう呟きながらも、それを言葉にするつもりはなかった。継母が何を狙っているのかは明白だ。弟・悠馬を次期代表にするため、自分を引きずり下ろそうとしている。それを阻止するために動く自分の姿を見せるわけにはいかなかった。「
それからというもの、神崎さんは頻繁に家を訪れるようになった。来るたびに私を追い出そうとするような態度をとり、嫌味や冷笑を浴びせてくる。言葉の一つひとつが、私を試しているかのようだった。「本当にここに居続けるつもりなの? 自分の立場、分かってる?」神崎さんはリビングの高級ソファに深く腰を掛けながら、私を睨みつけるように言った。(どうしてこの人は……)心の中で呟いても、答えは出てこない。彼女に反論したい気持ちはあったが、何を言っても通じないだろうと思うと、言葉が喉に詰まったままだった。それでも、家の中では穏やかな時間が流れていた。当麻は変わらず安田さんに懐いていて、新しい環境にも馴染んでいる。それを見るたびに、私は「ここで我慢しよう」と自分に言い聞かせていた。そんなある日、会社でCEOの部屋の掃除を任されることになった。(嫌だな……)そう思わないわけがない。けれど、仕事だと割り切って、掃除道具を片手に彼の部屋に向かった。廊下を歩いていると、女子社員の噂話が聞こえてきた。「ねえ、聞いた? CEOが結婚したんだって」「えっ、本当? 誰と?」「それが分からないのよ」その言葉を聞いて、足が止まった。まさか、自分がその結婚相手だとは誰も思っていないだろう。そう思う一方で、神崎さんがそのうち誰かに話すのではないかという不安が胸をよぎる。(やっぱり彼のような立場の人との結婚なんてするんじゃなかった……)そう思いながら掃除を始めた。CEOの部屋はとても片付いていて掃除をする必要があるのか疑問に思うほどだ。それでも手を動かしながら、彼のデスクに目をやる。デスクには昔見たことのある封筒があった。日本でも有数の商社であるセントラル商事の創立記念パーティー。いつもホテルで盛大に行われるものだ。昔、何度か私も行ったことがある。クリスマスシーズンだった記憶があるが、もうその招待状が送られているのだろう。今の私にはまったく関係ないが、かなり大切なものだろう。そう思い、それに触れることなく掃除を終えた。掃除道具を手にして廊下に出た瞬間だった。背後から複数のヒールの音が響いてきた。振り返ると、そこにいたのは神崎さんと彼女の取り巻きだった。嫌な予感しかしないが、頭を下げて廊下を通りすぎるのを待っていた。しかし、ピタリと私の前で足音が止まる。やっぱり――。このま
閑話 ーーー 佐和子(陽介義母)綾香さんが奥に引っ込んでいった美優を睨みつけながら、苛立ちを隠せずにいる。そんな彼女に私は声をかけた。「綾香さん、そんなに感情的にならないで」 私は努めて優しい声を出し、ソファに腰を下ろした彼女をなだめる。「だって、あんな女が奥様だなんて信じられません! それに陽介さんだって、どうしてあの人を選んだのか……」 「分かっているわ、綾香さん」 そう言いながら、私は彼女に向かって小さく微笑んだ。その表情は、彼女を慰めるためのものではない。むしろ、私は彼女を操るための糸を丁寧に引いている最中だ。感情的で短絡的な思考を持つ彼女は、陽介を壊すにはもってこいの人物だ。「あなたほどの女性が、こんなにも陽介を想ってくれているなんて……あの子も幸せ者ね」 わざと感嘆するように言葉を続ける。綾香の頬が少しだけ赤く染まるのを見て、私は心の中でほくそ笑んだ。「本当に陽介さんのためを思っているだけなんです」 彼女はそう言いながら拳を握りしめる。その情熱が本物であればあるほど、私には都合が良い。「ええ、わかるわ。でも、陽介のためにどうすればいいのかを考えるべきじゃないかしら? あなたができることがあるはずよ」 私は彼女にそう語りかけ、わざと考える間を与えた。彼女の頭の中には、私の言葉が渦を巻き始めているはずだ。「……たとえば、あの女を追い出す、ということですか?」 綾香が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめる。その目には、彼女自身も気づいていない危うい光が宿っている。「まあ、そう急がなくてもいいわ」 私は柔らかく否定しながらも、彼女に希望を持たせる言い方をする。 「何事もタイミングが大事よ。まずは、陽介にとって本当に必要な人間が誰なのかを、周囲に理解してもらわないと」「それって……」 綾香の目が期待に輝く。彼女はまんまと私の言葉に引き込まれている。「ええ、綾香さん。あなたの美しさも賢さも、周りに認められるべきだと思うの。もちろん、陽介にもね」 私は彼女を褒め称えながら、同時に彼女の中に野心の炎を再び燃え上がらせた。私にとって、彼女が暴走してくれるほど、計画はうまく進むのだ。(陽介があの娘を庇うようなら、それはそれでいいわ。それが周囲にどう映るか……どちらに転んでも私たちに利がある) 心の中でそう呟きながら、私はもう一度綾香に