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7・心ひしゃげて

Author: 泉南佳那
last update Last Updated: 2025-04-11 09:19:01

会社が引けてから宣人のマンションまで正美に一緒に来てもらった。

地下鉄の出口を出ると、見慣れた通りがまるで違う場所のように感じられた。

マンションに近づくにつれて、足取りが重くなってくる。

正美がいてくれなかったら、この辺で回れ右していたかもしれない。

ドアを開けたとき、女性の靴がなかったので、ひとまず安心した。

「わたし、ここで待ってるよ」

そう言うと、正美はキッとまなじりを上げて、敬礼のまねをした。

「もしヤバそうだったら、すぐ突入するから」

心強い正美の言葉に感謝しつつ、わたしは言った。

「うん、行ってくる」

わたしは意を決して「宣人、いるの」と声をかけながらリビングに入った。

彼はソファーにだらしなく寝そべって、テレビを見ていた。

「茉衣か」

わたしを見ずに、宣人は言った。

お笑い芸人の明るい声がやけにむなしく聞こえる。

「当座の荷物、取りにきただけ。大きいものは引っ越し先が決まってから連絡するから、もう少し置いておいて」

「出ていくのか」

「決まってるでしょう」

わたしは宣人の横顔をにらみつけた。

「あんなことされて、もう一緒になんか暮らせない。本当なら二度と顔も見たくなかった」

彼はようやくこっちを見た。

その目に浮かんでいたのは、反省ではなく憤りだった。

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