第 2 話

愛雄は薔薇を車に乗せた。

黒いベントレーは外の騒がしさを完全に遮断し、車内には穏やかな静けさが満ちていた。

薔薇はこっそり車内を見渡し、女っ気がまったくないことを確認した。

「陸川奥さんって、普段どんな仕事してるの？」

愛雄の声は落ち着いていた。

「卒業前にテレビ局から内定もらって、アナウンサーの仕事してます」

「江川市テレビ？」

「そうですけど、ただ正式採用は年末からだから、今はあまり出演の機会もなくて、インタビュー取材などを中心にしてます。最近はちょっと体調崩してて、少し休んでました」

「インタビューか」愛雄はこの言葉を繰り返して、また聞いた。

「体調はどう？」

「だいぶ良くなりましたよ。来週からまた仕事に戻ります」

それ以上、彼は何も言わなかった。静寂がまた車内を包んだ。

そのとき突然、薔薇のスマホが鳴り、南雲汐（みなみぐも うしお）からの着信が表示された。

「もしもし？」

「薔薇ちゃん、今夜空いてる？一緒に飲み会行こうよ。酔っぱらったら薔薇ちゃんが助けてくれるでしょ？」

薔薇はくすっと笑って言った。「またお父さんの会社の名前使って、好きな人に人脈を作ってあげるんでしょ？」

「違うってば。今日は彼のドラマに出資してる企業全部呼んでるの。山名家とか、藤井家とか……もう、説明するより直接来て！準備しといて、あとで迎えに行くからね！」

薔薇はちらっと愛雄の横顔を見て、もう一度強調するように確認した。

「夜海クラブよね？」

「そうそう、VIP個室を取ってあるから」

「了解」

そう返して電話を切った。

「清苑マンション、着いたよ」

愛雄が車を止めると、薔薇に微笑みかけた。

「送ってくれてありがとうございます、舟木社長」

カチッとシートベルトを外す音が鳴った。

彼の視線が、何か言いかけてやめたような空気を纏っていた。

薔薇は一瞬迷ったが、誘いの言葉を飲み込んだ。

「じゃ、ここで。少し休んでから出かける予定だから、今度お茶でもごちそうします」

愛雄はわずかに眉を上げた。「楽しみにしてるよ」

……

部屋に戻ると、玄関にはまだ結婚式の飾りが残っているままだった。

その赤が、目に刺さるほど鮮やかだった。

丁寧に整えられた三LDKの部屋は静かで暖かく、誰もいなかった。

景次のシャツはきちんとアイロンがかかけられ、部屋のどこを見ても清潔に保たれていた。

薔薇はプロポーズされた日のことを思い出した。

興奮で一晩中眠れなかったあの夜。

けれど四年付き合った末に鏡に映るのは、傷だらけで目を腫らした自分。

胸に渦巻く憎しみは、つる草のように心を締めつけ、今すぐにでもあの冷たい男を引き裂きたいほどだった。

目をつけた「刃」が、自分の誘いをどう受け取るか――その答えは、今夜わかるはずだ。

……

夜。

薔薇はシャワーを浴び、久々に化粧品を手に取った。

ベースを整え、ナチュラルに仕上げたメイクは透明感があり、鏡の中の自分が少しだけ強く見えた。

クローゼットからは淡いパープルの膝丈ワンピースを選んだ。

汐は薔薇を見た瞬間、目を輝かせて抱きついてきた。

「やっぱ学部一の美人だわ！薔薇ちゃんが画面に映るようになったら、視聴率爆上がり間違いなし！」

「じゃあ縁起でも担いどいて。年末の正式採用、頼んだよ」

……

車は夜海クラブに到着した。

中に入ると、薔薇はざっと室内を見渡し、すぐに愛雄の姿を見つけた。

ソファの中央に座るその人は、薄暗い照明の中でも際立っていた。

タバコを挟み、眉間にはわずかに不機嫌そうな皺。

周囲は酒と笑い声に満ち、誰もが愛雄にグラスを差し出していた。

濃い煙の匂いに、薔薇は思わず咳き込んでしまった。

その瞬間、愛雄が視線を上げ、咳き込みながら涙をこらえる彼女と目が合った。

口元に、かすかに笑みが浮かんだ。

汐が薔薇を連れて愛雄の横に座らせ、にこやかに話しかけた。

「舟木さん、来てくれてびっくりですよ。秘書さんは、『今夜は無理です』って断言してたのに！」

愛雄はタバコを灰皿に押しつけ、手で煙を軽く払ってからグラスを持ち、汐を見た。

「本当は別の用事があった」

その言葉に、一拍の間が空いた。

薔薇の胸が不意に熱くなった。

「でも、こちらも大事なご縁だしね。汐さん、お父さんによろしく」

「もちろんです！じゃ、まずは一杯！」

汐が愛雄と乾杯し、他の客に挨拶に行った。

薔薇は愛雄の隣り、少し離れたところに腰を下ろした。

「またお会いしましたね、舟木社長」

彼はうなずき、視線を向けた。

「陸川から聞いたよ。お酒にはあまり強くないんだって？ジュースにしようか？」

薔薇は景次の名前に、イライラしてきた。

「お酒……飲めますよ」

愛雄は意外そうに眉を上げ、グラスにウイスキーを注いで渡した。

薔薇はそれを一口飲んで、むせちゃって思わず咳が出た。

彼が低く笑った。「やっぱりジュースにする？」

「いえ、大丈夫……これ、飲みます」

だが次の瞬間、彼にするりとグラスを奪われた。

代わりに、別の飲み物を手渡された。

「味を変えるにしても、少しずつ慣らさないと。あれは強すぎて、君にはまだ早い」

薔薇の指先が一瞬凍りついた。彼と目が合った。

その言葉の裏に込められたものが、ほぼ「いいよ」になっていた。

薔薇は黙って視線を外し、そっと体を寄せた。

片手でソファを支え、もう一方の手を伸ばして、先ほどのグラスを取り返そうとした。

呼吸が、彼の肌に触れるほど近づいていた。

「飲んだこともないのに、似合わないってわからないんでしょう？もしかしたら、私……強いお酒のほうが好きかもしれませんよ？」

そう言って、彼の目を見ながら一気に飲み干した。

喉を焼くような感覚に、思わず眉をしかめるが、唇には笑みが浮かんでいた。

そのとき、不意に指先に温もりを感じた。

愛雄が、ソファに置いた彼女の手をそっと覆い、その視線を逃さなかった。

「……酔ってる？」

薔薇は手を引かず、顔を上げて彼を見つめた。

「ううん、酔ってません」

「そうは見えないな」

薔薇は眉を上げた。「舟木社長の『酔ってない』って、どういう状態のこと？」

愛雄は少し顔を寄せた。

唇が触れそうな距離で、低く言った。

「離婚したいなら弁護士を、復讐したいなら殺し屋を。人妻が他の男と距離を取るべきだ、それが『酔ってない』女のやることだ」

薔薇はかすれた声で答えた。

「だって離婚しても彼は財産を手放さないし、暴力で命を奪えるわけでもない。正気の判断っていうなら――私は今夜ここで、愛人を選ぶ」

愛雄の目が、ほんのわずかに揺れた。

薔薇はその瞬間を見逃さず、ふっと艶やかに笑って立ち上がて、そして、何も言わずに洗面所へと向かった。

冷たい水で手を洗い終えると、薔薇は洗面台の前でしばらく気持ちを落ち着けてから外に出た。

汐に別れを告げようとしていた。

今夜の成果にはもう十分満足していた。これ以上踏み込めば、かえって裏目に出るかもしれないと思った。

薔薇がドアを開けた瞬間、愛雄が立っていた。

「舟木社長、ここ、女子トイレですけど」

「うん、わかってる」

愛雄はゆっくりと歩を進め、彼女を中へと押し戻すと、扉を閉め、鍵をかけた。

薔薇は数歩後ずさりして、背中が冷たく硬い洗面台にぶつかった。声がわずかに震えた。

「舟木社長、これは……どういうつもりですか？」

愛雄は彼女の両脇に手をつき、眉を軽く上げながら、どこか嘲るような視線を向けた。

「俺はてっきり、陸川奥さんが俺を誘った時点で、覚悟はできてるものだと思ってたけど。……もしかして勘違いだった？誘ってたんじゃなかったのか？」

「わ、私は……」

そういうつもりではあった。

けれど、こんなにも早く進むとは思っていなかった。

「奥さん、ここでも構わないよな？」

愛雄の右手が彼女の細い腰をなぞり、熱を帯びた掌がスカートの中へと滑り込んだ。

その黒く深い瞳が彼女の目を捉えて離さず、ちっとも逃げ道を与えなかった。

薔薇は緊張でごくりと唾を飲み込んだ。

男の指先が太ももに触れたその瞬間、薔薇のスマホが震えた。

「景次」という文字が画面に表示され、目を引いた。

「奥さん、今ならまだ後悔して引き返せるよ」

愛雄の皮肉めいた視線を真正面から見返し、薔薇の潤んだその目に静かな怒りを宿していた。

「私には名前がある」

彼女は携帯を洗面台の上に置き、そのまま鳴らし続けさせた。

愛雄は楽しそうに口角を上げ、一語ずつゆっくりと名を呼んだ。

「陸、いや、温井、薔薇」

薔薇も負けじと呼び返した。

「舟木愛雄」

男の瞳は墨のように濃く、どこか危うい光を帯びていて、声もかすれていた。

「今、なんて呼んだ？」

「舟木、愛雄」

男は、彼女のふっくらとした唇がゆっくりと動くのを、食い入るように見つめていた。