第 9 話

薔薇は唇を軽く開いた。「あい……」

「お」と名前を呼び出そうとする前に、すでに強引に塞がれた。

男の手が彼女のあごに触れ、まるで罰のように激しくキスを落とした。彼女の体内から空気を全て吸い取るかのように。

薔薇はその強引で圧倒的な雰囲気の中で、ふと新婚の夜に引き戻されたような気がした。

あの夜、彼女と景次は初めての経験をした。

その日、彼女は酔っぱらって、破れた激しい記憶と、目が覚めた後の全身の痛み以外には、この方面での経験はほとんどなかった。

薔薇は景次の顔を思い出し、恥ずかしさが彼女を包み込み、ほとんど息ができないような気がした。

気を取り直すと、彼女はすでに愛雄に柔らかいベッドに投げられていた。

薔薇は緊張してシーツを握りしめ、目を閉じたままじっとしていた。

予想していたような激しさは起こらなかった。

愛雄は彼女の眉を見つめながら立ち上がり、寝巻きのままでバルコニーに向かった。

薔薇はベッドでぼんやりした末、静かに起き上がり、服を着て向かうことにした。

愛雄はタバコを一本取り、煙が漂う中で、彼の目には不満が簡単に見て取れた。

薔薇は自分から話しかけた。「男にはこういった潔癖症があるんだね、わかるわ。実際、あなたももう一度選ぶ余地があると思うよ、今ならまだ戻ることができる」

愛雄は煙を吐きながら、軽く笑った。「潔癖症？俺がこの前君が結婚してることが知らないと思う？」

「それなら……」

愛雄は黙ってタバコを吸い、黙って彼女を見つめていた。

しばらくして、ようやく挫折したように口を開いた。「次回にしよう、早く寝ろ」

愛雄は寝室を出ていった。

薔薇は一人でベッドに戻った。

このような状況で眠れないと思っていたが、愛雄の寝具がとても心地よかったのか、もしくはここが景次のいない世界だったからか、彼女はどんどん眠気に襲われた。

眠りに落ちる直前、顔がかゆくなったような気がして、薔薇は顔を擦り、布団を引き寄せて、完全に眠りに落ちた。

……

翌日。

薔薇は目を覚まし、1階のダイニングで愛雄を見つけた。

光雄はその日の予定を報告しており、薔薇が入ってくると、彼は一旦話を止めて、彼女に挨拶をした。

「温井さん、おはようございます」

薔薇は礼儀正しく頷いた。「斎藤さん、おはようございます」

愛雄は顔を上げ、薔薇に一瞥をくれたが、昨夜病院から帰ってきた時と同じ寝巻きを着ていた。

「まず食べろ、斎藤、続けて話せ」

薔薇は座って、光雄の話を聞いた。「午後3時に鈴木社長が契約を結びに来ます。社長と陸川さんがプロジェクト開始の会議に出席します」

薔薇は手を止めて尋ねた。「彼は鈴木社長を説得して契約を再び結ばせたの？」

愛雄は「うん」と言って頷いた。「不可能なことを成し遂げた。能力は侮れないな」

薔薇の胸には複雑な感情が湧き、追い詰められそうになったが、愛雄は「どうやってそれをしたのかは知らないが」と付け加えた。

薔薇はその言葉で理解した。

この事は舟木グループにとって損失を取り戻す良いチャンスであり、彼は彼女のために干渉することはない。

愛雄は尋ねた。「今日は何をするつもり？」

「テレビ局に行って、仕事する」

「来週じゃないのか？」

「体調は大丈夫だし、家にいても余計なことを考えてしまうから、仕事をした方がいい」

そして、昨晩は一晩中家に帰らなかったため、今後はそんな状況が続くだろうから、理由を作らなければならなかった。

愛雄は頷いた。「テレビ局は途中だ、食事を終わったら送ってやる」

「うん」

……

朝食後、薔薇は愛雄の車でテレビ局へ向かった。

光雄は配慮深く、車をテレビ局から少し離れた場所に停めた。

薔薇は車を降り、少し歩いたところで、ちょうどバス停から歩いてきた同期のインターン生、高木海人（たかき うみと）と出会った。

「薔薇！久しぶりだね。病気で長い間休んでたって聞いて、今回の試験に間に合わないんじゃないかと思ってたよ！」

薔薇は薄く微笑んだ。「もう大丈夫だけど、こんなに長く休んじゃったから、試験には受からないかもね」

「謙遜だね？君は僕たちの中で一番すごい人だよ。前に君の書いたインタビュー記事はテレビ局でも褒められてたし。しかも、新しいリーダーが来たんだけど、その人は話しやすいんだよ」

薔薇は海人がこの間のテレビ局の変動について話しているのを聞き、重要な点を逃さないようにしていた。

話しているうちに、二人はテレビ局に到着した。

薔薇のスマホが突然鳴った。

汐からだった。

「海人さん、先にオフィスに行ってて、ちょっと電話を取るね」

「じゃあ、早く行ってね。朝会に遅れないようにね」

薔薇は頷いた後、段階室に行き電話を取った。「汐、何かあったの？」

汐は急いで言った。「本当に信じられない！陸川にこんなことができるなんて、だから私が個人調査をするのにこんなに時間がかかったんだ！実はその女、誰か知ってるか？」

薔薇は焦りながらも言った。「もし知ってたら、わざわざ汐に頼まなかったよ」

「そうだよね、私もイライラしてる！その女、清水花実（しみず はなみ）って言うんだ！彼女の父は舟木グループの二番目の株主だよ」

薔薇は笑った。「つまり、大金持ちの家のお嬢様ってことね」

汐は怒りを込めて言った。「そのクズ、外では上品に振る舞ってるけど、裏では豪門に取り入ろうとしてるなんて！」

薔薇は言った。「汐、教えてくれてありがとう、それだけで大きな助けになるよ」

汐は焦って言った。「まだ言ってないよ！その清水、今は……」

薔薇はその先を聞くことなく、スマホが誰かに奪われた。

彼女が振り返ると、白金色のシャネル風の服を着た若い女性が立っていた。

完璧に化粧を施し、手入れの行き届いた黒く輝く巻き髪が耳元のダイヤモンドを一層引き立てていた。

あの日、バーの前で景次と激しくキスしていた時の乱れた姿と比べ、今の彼女はさらに清純で高貴に見えた。

少女は長い首に名札を掛け、胸元まで垂れ下がっていた。

薔薇はその姿を一瞥し、まるで頭に冷水をかけられたような感覚に襲われた。

清水花実。

「温井薔薇さん、ですよね？」

少女が口を開いたが、その声は電話で聞いた時の甘く柔らかなものではなく、今は甘える時間ではないのか、むしろ少し高慢さを含んでいた。

「私、清水花実、あなたのグループの課長です」

彼女は名札を持ち上げて薔薇に見せた。

薔薇は空虚で哀れな声を漏らしながら言った。

「こんにちは、清水課長」

「さあ、行きましょう。朝会の時間です。今日は今週の仕事の割り当てをします。あなたは休暇から戻ったばかりですから、みんなを待たせないようにしてください」

薔薇は死体のように歩きながらオフィスに入った。

海人は彼女のために席を空けていた。

薔薇が座ると、海人は小声でゴシップを始めた。

「新しく来た清水課長、見たか？聞いた話だと、海外から帰ってきたばかりで、すごい家柄を持ってるんだ。局に入ったばかりに課長に昇進したらしい。

でも彼女が来たことで、うちのグループのボーナスが増えて、みんなに挨拶の品を準備してくれたんだ。まさにお金持ちのお嬢様だよ！」

隣に座っていた福井蘭（ふくい らん）は笑いながら言った。

「あんた、嫉妬してるんじゃないの？清水課長にはきっと彼氏がいるわ。彼女のバッグに入ってるぬいぐるみ、バレンタイン限定品で、二十万円以上したんだって！」

薔薇は頭が重くなり、周りがまるで墓のように無音で冷たい場所に感じられた。

その時、花実の甘く高慢な声が耳に入ってきた。

「薔薇、花の城レストランの食品安全のテーマを担当してもらってもいいですか？問題ありませんか？」

海人が手を挙げて言った。

「花の城レストランのオーナーはかなりのコネがあるらしいんです。先週、浜辺新聞の記者が行った時にトラブルを起こして、病院に運ばれたらしいです。

今、その辺りの人たちは警戒してるから、女性記者が単独で行くのは少し危険じゃありませんか？代わりに俺が行きましょう」

花実はペンを回しながら、淡い笑みを浮かべて言った。

「薔薇、前回書いたインタビュー記事も食品安全に関するものでしたよね？彼女の経験が君よりも豊富だと思いますけど。

薔薇、私はこのテーマを深掘りしてほしいと思っています。そうすれば、現場記者としてゴールデンタイムに登場するチャンスがあるわよ。自分で考えてみて？」

薔薇は花実の見下ろすような目を見つめ、彼女の意図を理解した。

花実は仕事をするために来たのではなく、彼女という離婚しない正妻を罰するために来たのだ。

やってもやらなくても、薔薇には良い結果がないのだ。

「行きます。代わりにしなくていいです」

「よし、それでは仕事の割り当てはここまで。皆さん、頑張ってください。三日後に初稿をくださいね」

花実は薔薇の隣に歩み寄り、親しげに肩を軽く叩いた。

「薔薇、絶対に期待を裏切らないでね！」

その言葉が終わると、花実のスマホが鳴った。

薔薇は画面に表示された「景次」という二文字を見て、心臓が鋭い刃物で切られたように痛んだ。