第 3 話

次の瞬間、愛雄はあっさりと手を引っ込めた。

「残念だが、俺に人の家庭を壊す好みはない」

薔薇のスカートの中がふっと軽くなった。

彼女の目の前で愛雄は蛇口をひねり、水で丁寧に指を洗いはじめた。

その後、ペーパータオルを取り、ゆっくりと手を拭き取った。

丸めた紙くずをゴミ箱に放り投げると、彼は一度も振り返らずに部屋を出て行った。

――

翌日。

薔薇が目を覚ましたのは昼過ぎ。頭が割れそうに痛かった。

彼女はデリバリーを注文し、台所でハチミツ水を一杯飲んだ。

身支度を終えた頃、景次が帰ってきた。手には彼女のデリバリーを持っていた。

「今起きたの？」

「うん、昨日遅くまで起きてたから」

薔薇はふと訊いた。

「昨夜、どこで寝たの？」

景次の目が一瞬泳いだ。

「会社。昨日は徹夜で仕事しててさ。もうクタクタだよ」

以前の薔薇なら、「大変だったね」と優しく声をかけ、すぐに料理を作って休ませてあげていただろう。

けれど今の薔薇は、彼をちらっと見ただけだった。

「まあ、仕事だもんね。疲れても当然」

景次は少し顔をしかめた。彼女の雰囲気が、どこか前とは違うように感じた。

「今夜、副社長の岡山さんが息子の一歳の誕生日パーティー開くんだ。一緒に行こう」

薔薇の心臓がズキンと痛んだ。

「私はちょうど子どもを失ったばかりなのに、よくも他人の子の誕生日祝いなんて言えるね」

景次はため息をつき、薔薇を抱きしめた。

「もう一ヶ月以上経ったんだよ。いつまでも落ち込んでいちゃだめだろ。薔薇、俺たちにはまた子どもができるさ。約束する」

薔薇の目は氷のように冷たかった。

昔の自分は、こんな甘い言葉を信じて、ここまで傷ついたのだ。

でも今は違う。景次の作り上げた「優しさ」の網から抜け出し、やっと分かった――

この岡山は、家庭を大事にすることで有名だった。

彼が開くパーティーには、みんな妻や子どもを連れてくる。

景次は年末に昇進のチャンスを狙っているから、薔薇を連れて行って、「いい夫」のイメージをアピールしたいのだ。

「行こうよ、ね？気分転換にもなるし、君のためを思ってるんだ」

薔薇は軽く頷いた。

「わかった」

行ってやる。どうせ恥かくのは私じゃない。

――

夜。

薔薇は淡いブルーのハイウエストのロングドレスに着替え、景次と共に岡山の別荘へ向かった。

案の定、会場には夫婦連れや子連れが多く、和やかで賑やかな雰囲気が漂っていた。

笑いながら走り回る子どもたちを見て、薔薇は思わず自分の下腹に手を当てた。

ちょうどそのとき、景次のスマホが鳴った。

彼は画面を一目見ただけで、目の色が変わた。

「ちょっと電話出てくる。ここで待ってて」

薔薇は彼の優しげな横顔を見た。誰からの電話か、もうわかっていた。

数分後、景次は急いで電話を切り、薔薇の手を取って岡山の方へ向かった。

「岡山さん、おめでとうございます。息子さん、本当に可愛いですね！目元がお父さんにそっくりです」

景次のご機嫌取りに、岡山も上機嫌だった。

「君たちこそお似合い夫婦じゃないか。二人の子どもって、生まれたらスターになるよ」

薔薇が何か言う前に、景次がすぐ言葉を被せた。

「縁起のいい言葉をありがとうございます。今年中でできるかもしれません！」

薔薇は彼の手を振りほどいた。

「ちょっとお手洗い行ってくる」

彼女は人混みを避けて音響室へ。スタッフが立ち上がって声をかけてきた。

「どうされましたか？」

「特別プログラムがあって。イヤモニを取りに来ました」

「なるほど、こちらです。スイッチを入れればすぐスピーカーに繋がります」

「ありがとう」

小さなイヤモニを手に持って戻ると、ちょうど岡山が景次の肩を叩いていた。

「景次君、舟木社長にも話はしてある。君、頑張れば年末にはいい結果が出るぞ」

景次の目が輝いた。

「舟木社長も来てるんですか？」

「さっき君の話してたよ。お酒のことよくわかってるってな。ちょうど奥さんも戻ってきたし、挨拶に行こうか」

地下のワインセラーに案内された。

薄暗いそこで、愛雄がワインラックの前で一人、赤ワインのグラスを傾けていた。

ライトに照らされた横顔は陰影を帯び、静かに孤独を纏っていた。

「舟木社長、一人で先に始めちゃってたんですね？」

愛雄が振り返って、薔薇に目を向けるが、すぐに視線を逸らした。

「岡山さんのワインがあまりに美味しくて、つい」

「景次君はワイナリーのプロジェクトでいろいろ詳しいんです。ぜひ一緒にどうぞ」

景次はすぐに歩み寄り、丁寧に挨拶した。

「舟木社長と一緒に飲めるなんて、光栄です」

岡山は笑いながら場を離れた。

「ごゆっくり。何かあったら呼んでくださいね」

そのとたん、景次のスマホがまた震えた。

彼は慌てて切るが、すぐにまた鳴ってきた。

焦りながら返信する姿は、手元もおぼつかなかった。

愛雄は彼に目をやった。

「ここには余分なグラスはないよ」

まるで逃げ道をもらったかのように、景次はほっとした顔で答えた。

「今すぐ取ってきます！舟木社長、少々お待ちください！」

景次が薔薇の手を放そうとした瞬間、薔薇がその手を引き止めた。

「ネクタイ、曲がってるよ」

スマホに夢中な彼は、薔薇に直してもらった。けれどすぐに、彼女の手を払いのけた。

「もういいって！舟木社長を待たせるわけにいかないだろ！」

景次は慌てて去っていった。

薔薇はくるりと向き直り、愛雄の視線とぶつかった。

「彼のポケットに、何を入れた？」

薔薇は白い歯を見せてにっこり笑った。

「いいモノですよ」

愛雄は深くは追及せず、話題を変えた。

「今日、頭痛かっただろ？」

薔薇は一瞬驚いたあと、頷いた。

「うん、痛かったです」

「昨日も言ったけど、あの酒はかなりきつかった。飲みすぎだ」

「じゃあ今日は、もう少しマイルドなワインにしようかな」

「分かるの？」

「分かりません」

愛雄は思わず吹き出した。

「なんだよ、分からないのに偉そうに」

薔薇は真っ直ぐに彼を見つめた。

「舟木社長が選んでくれましたら、嬉しいなって」

愛雄はふっと笑った。それが喜びなのか、嘲笑なのかは読み取れなかった。

「昨日言ったつもりだけど、伝わらなかったかな？」

「うん、はっきり聞こえませんでした」

彼の前に一歩近づき、暗く濡れたその瞳を見上げた。

「昨日の『好みはない』って言葉……それは既婚女性に対して？それとも、私に？」

愛雄の目が鋭くなった。

「陸川奥さん、自分が俺の好みに刺さるって、なぜそんなに自信がある？」

「だったら、どうして質問にちゃんと答えてくれませんか？」

愛雄の唇が、どこか挑発的に持ち上がった。

「確かに少しは興味あるかもしれない。でもな、女なんて星の数ほどいる。わざわざ既婚女という火中の栗を拾う理由がない」

彼は目を細めて尋ねた。

「名乗りを上げるのはいいが、何か飛び抜けたものがあるのか？」

薔薇の目が星のように輝いて、にこやかで、無邪気なふりをした。

「見た目は悪くないし――」

「君より綺麗な女なんて、いくらでもいる」

「でも頭の良さなら私のほうが上かもしれません。知恵だけじゃなく、礼儀も弁えてるし、何より――」

薔薇の指が彼のネクタイに触れ、胸元をなぞるように滑っていった。

「舟木社長のきっちりした日常に、ちょっとだけ「刺激」を足してあげられますよ」

愛雄の声は低く冷たくなったが、瞳の奥はますます深く暗く染まっていた。

「そういう誘惑、俺には効かない」

彼女の指がちょうど胸に触れた瞬間――

「でも舟木社長の鼓動、雷みたいに早くて強いですよ？」

愛雄は薔薇の手を掴んだ。力が強すぎて、彼女は眉をひそめた。

「薔薇、それは火遊びだ。俺は一緒に燃える気はない」

「だったら教えてよ、どんな手口で、舟木社長を巻き込めるんですか」

彼の声は少し掠れていて、それでもなお甘い誘惑を含んでいた。

「もし俺が教えなかったら……君、一つずつ試していく気？」

薔薇はそっと息を吹きかけるように囁いた。

「愛雄……試してみてって言わせて欲しいの？」

その名を呼んだ瞬間、男の呼吸は鼓動と同じく乱れていた。