Share

第二話

Author: 夏目若葉
last update Last Updated: 2025-04-01 10:44:23

「なんか最近、お堅い感じだよな。元々は俺と同じでゆるゆるなはずだろ?」

 人を外れかけのネジみたいに言わないでもらいたい。

 だけどあながち間違っていないから、面と向かって反論もできないけれど、重森みたいに遊びまくってはいないと思う。

 結局重森は、簡単に身体を重ねられる相手を探してるだけで、誰でもいいのかな?

 私が軽そうだと思って目をつけただけかもしれない。

「私、社内で遊び人だって噂されてるもんね」

 感情の色を乗せずに淡々と言葉を紡ぐ私を見て、重森がおかしそうにフフっと笑った。

 数ヶ月前、私は同じ会社で五歳ほど年上の他部署の男性社員に突然告白されたことがあった。

 その人とは面識がある程度で、とくに仲良くしていたわけでもないのに、いきなり付き合って欲しいと交際を申し込まれたのだ。

 私にとっては突然すぎる申し出だったので、付き合うことはできないと、丁重にお断りをした。

 だけどその男性には、なんと社内に付き合っている恋人がいたらしい。

 私と付き合えたら、その彼女を振るつもりでいたのか、はたまた上手に二股しようとしていたのか……。

 彼の考えは今となってはわからないままなのだけど、とにかくまだ別れていない恋人がいたのはたしかだった。

 だけど私がそれを知ったのは、交際を断ったあとのことだ。

 恋人がいるのに私へ告白してくるとは、どういう了見なのか。

 理解に苦しんだけれど、ただ驚いただけで、悲しいとか腹が立つとか、そういう感情は正直湧かなかった。

 元から好きではないし、そんなだらしない男と付き合う気持ちになれるはずがない。

 だからほかに恋人がいたとわかっても、ショックは受けなかった。

 しかし恋人である女性の耳に私のことが伝わってしまったらしい。

 逆に私のほうが彼を誘惑しただの、しつこくストーカーしただのと、社内で言いたい放題彼女に言いふらされた。

 恋人に二股されそうになったと揶揄されるのが嫌だったのか、彼のほうからではなく私から強引に言い寄ったのだと、事実を歪曲したかったのだと思う。

 挙句、『あの女は男なら誰でもよく、常に取っかえひっかえしていて、手当たり次第に寝る女だ』と、かなり悪質な噂を流された。

 ……女の嫉妬は醜く、怖い。

 この件に関して、私は完全に被害者だし名誉棄損だと思うけれど、どうすることも出来ないからそのまま放置していた。

 だって、どうすればいいのかわからない。

 いちいち『あの噂は違うんです』と訂正して回るわけにもいかないから。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Related chapters

  • 純愛リハビリ中   第三話

     それに、私は特定の彼氏がいないから、合コンに行ったり男の人と飲みに行くことはある。  まったく遊んでいないのかと問われたら、すぐに首を縦には振れない。  手当たり次第にホテルに行くというのは絶対違うけれど、自分自身を清純派女子だと言い張るつもりもないのだ。  私の噂を陰でコソコソと言っている人たちと仲良くなりたいとも思わないから、そんな噂なんて気にしなければいい。  新たなトラブルに巻き込まれたりしないなら、陰険な人たちを相手にせず、放っておこうと思えてきた。  そういう態度がかわいくないと受け取られる原因なのだとわかってはいるものの、私はうまく立ち回れない損な性格をしていると自分でも思う。 「じゃあ、俺と付き合っちゃう? お互いフリーだし、ゆるゆるな者同士でちょうどよくない?」  「重森だけは嫌」 重森が本気ではないのはわかっているので、いつも通りアッサリと軽くかわした。  私はくだらない噂など気にしないけれど、重森とだけは噂になりたくない。 その理由はふたつある。  まず第一に、重森と私が噂になれば、遊び人同士が安易にくっ付いたと思われるし、それは私にとってものすごく癪なのだ。  第二に、社内には、重森が軽い男だとわかっていても付き合いたいと願う女性も存在する。  この営業部まで目をハートにしてやってくる女の子を見たことがあるし、少なからず重森がモテているのは間違いない。 というわけで、自ら新たな敵を作りたくないのだ。  誤解された上に恨まれるのは二度とご免だから。  私にだって“学習能力”というものがちゃんとある。 この日の仕事が終わり、私はいきつけのバーへと向かった。  ここは静かな雰囲気で落ち着くので、都会の喧騒や日々のストレスを一瞬忘れさせてくれるお気に入りの場所になっている。 バーの若きマスターがグラスを丁寧に拭きながら、「こんばんは」と笑顔で迎えてくれた。  黒髪にはくるくるとしたオシャレなパーマがかかっていて、肌の色は浅黒く、顎には綺麗に整えられた髭がある。  有名なダンスユニットに所属していそうなマスターは、ワイルド系イケメンで、この仕事がよく似合う。 私はカウンターの奥に陣取り、今日の待ち合わせの相手である本城(ほんじょう)という男性を待っていた。  時間ぴったりに現れた本城は、私を見つけると隣

    Last Updated : 2025-04-01
  • 純愛リハビリ中   第四話

    「久しぶりだね」 「そうですね」 やわらかく会話を交わしながら、本城は胸元のネクタイを緩めた。  私がこの人の顔を見るのは今日で二度目だ。  以前に会ったときと同じように、ワックスで髪を流すように綺麗に整えている。「咲羅ちゃん……なかなか連絡くれないから……」 「重要なお話って、なんでしょうか?」 私はわざと敬語で話し、物理的にも精神的にも距離を取った。  先月、大学時代の友人たちに誘われた飲み会があって居酒屋に集まったのだけれど、たまたま私たちの隣のテーブルにいたのが本城だった。  友達数人とお酒を楽しんでいた本城が、私に声をかけてきたのが事の始まりだ。 それでもその時に嫌だと思わなかったのは、本城がチャラチャラとしたタイプに見えなかったからかもしれない。  穏やかでやさしそうで、お酒が入っていたのもあって、すぐに自然と打ち解けていた。「なんで連絡くれないのかなと思って。メールしても全然返事がこないし。あの夜、ホテルで俺……なにか嫌われるようなことした?」 結局その夜、私は本城に誘われるままにホテルに行った。  今となっては、その場の空気に流されてしまったのがいけなかったと思っている。「すみませんが、私にはもう電話もメッセージもしないでください。今日会ったらそれをはっきり伝えようと思って来ました」 「え、どうして?……」 私は酔っていたのもあって、ホテルへ誘われる前に電話番号などの連絡先を交換してしまったのだが、それには激しく後悔している。  着信拒否設定もできるけれど、できればそれはしたくはない。  なるべく穏便に終わらせたくて、今日は私なりにケジメをつけに来たのだ。「咲羅ちゃん、俺と付き合ってよ。身体の相性だって良かったじゃないか」 そう思っているのは彼だけで、私は本音を言うなら相性は良くなかった。  今は論点はそこではないので、わざわざ反論はしないでおくけれど。「私たち一夜限りで終わらせましょう」 「俺とは……付き合えない?」 「はい。だって本城さん、結婚してますよね?」 私の言葉で、本城の目があからさまにうろたえた。  隠し事が見つかって挙動不審になったという感じで、とてもわかりやすい。 彼が既婚者だと気づいたのは、ホテルで行為が終わったあとだった。  時計を何度も見て時間を確認している様子で、家

    Last Updated : 2025-04-01
  • 純愛リハビリ中   第五話

     それで観念したのか、眉尻を下げて本城がショボンと肩を落とした。  気遣いが足りない人に不倫は向いていない。奥さんや周りにすぐバレるのが目に見えている。「す、すまない。隠すつもりはなかったんだ。でも最初から正直に話したら、咲羅ちゃんは付き合ってくれないと思って……」 「だからって、あとから言えばいいというのもおかしいでしょう?」 私はあきれて小さく溜め息を漏らした。  不器用なわりに、ずるい部分が垣間見えていて、私は嫌悪感が湧いてきてしまう。「もういいですから。会うのも連絡もこれきりに。だいたい私、本城さんとは最初から付き合うつもりはありませんでしたから」 申し訳ないけれど、それが私の本心だった。  結婚していることを抜きにしても、彼に対して好きだという感情がないのだから付き合う理由がない。  心が痛むとすれば、彼の奥さんに悪いことをしたと思うだけで、裏切られたとショックを受けたり傷ついたりはしていない。「は? なにそれ……俺のこと、好きじゃないの? それなのにお前は俺に抱かれたのか?」 私の言葉に腹が立ったのか、本城の口調と表情が一変した。  さっきまではやさしくて穏やかな顔だったのに、今は別人のようだ。  私の呼び方も、“咲羅ちゃん”から“お前”になっている。「本城さんは、私を好きなんですか?」 「好きだよ」 「本当に? あの居酒屋でたまたま意気投合しただけですよ? その場の雰囲気に流されてホテルへ行こうってなっただけで……」 あの一瞬で私に惚れただなんて考えられない。  感情などなく、ふたりとも酔った勢いでの行為だっただけだ。「あのな、そういうのを“ヤリ逃げ”って言うんだぞ?」 本城の発言を聞き、男が女にそれを言うのかと驚いて軽く固まってしまった。 プライドを傷つけられたのかもしれないが、今の本城はみっともなくて情けない。  こんな人だったのかと、あらためて本性がわかると心底ガッカリとした。  お酒が入っていたとはいえ、誘われるままにフラっとホテルへついて行った私も私だ。「もう、それでいいから。私のことは忘れて」 ヤリ逃げでもなんでもいい。  落ち着かせようと思って言ったのだけど、この人には逆効果だったようだ。 「はぁ? 」という言葉と共に、敵意のこもった視線で思い切りギロリと睨まれた。「俺を振るのか?

    Last Updated : 2025-04-01
  • 純愛リハビリ中   第六話

    「うるさい! 誰とでも軽々しく寝る女なんだな、お前は!! とんだビッチに引っかかったよ!」 さらに荒々しく豹変した本城を目にし、私は驚きすぎて唖然としてしまう。 こんなに激高するなんて、今は一番最初の穏やかな印象からは想像もつかないほど真逆だから。「どうせほかの男がよくなったんだろ? そうだろ?」「……あの……」「俺よりうまい男がいたのか? このヤリマン!」 凄みのある声を発した本城が、勢いよく私の胸倉を左手で掴んできた。 その瞬間、私は恐怖で息が止まる。 本気で私を殴るかもしれないと直感したそのとき、本城が右手を振り上げた。「はい、そこまで」 拳が振り下ろされる間際に、ひとりの見知らぬ男性が本城の右手を掴んで阻止してくれた。 どうやらお店に来ていたほかの客のようだ。「なんだよお前は! 手を離せ!!」 突然のことに本城は私の胸倉を掴んでいた左手を咄嗟に離したが、右手はまだその男性に捕らわれたままでうろたえていた。「お客様! こちらへ」 私に暴行しようとしていたとわかり、カウンター内にいたマスターが出てきて本城を店の外に連れ出してくれた。 私は掴まれていた胸元を押さえ、ハァハァと息を整える。「大丈夫?」 先ほど助けてくれた男性が、心配して声をかけてくれた。 本気で怖かった。ふと自分の手を見ると、未だに指先が震えている。「……ありがとうございました」「あの男、声が大きいからちょっと聞こえちゃって。いつ止めようかと思ってたんだけど……ごめん」 本城がヒートアップしたあたりから、周りに話が聞こえていたようだ。 ほかの客からすれば私と本城は異様な空気だっただろうなと思う。 恥ずかしいし情けない。 こんなことなら、お気に入りのこのバーで会わなければよかったと後悔した。「あの男はもうここには来られないから」「え?」「出禁になるよ」 男性と少し話をしていると、本城を外に引っ張り出してくれたマスターが戻ってきた。「出禁にしたのか?」「ああ、もちろん。二度と来るなって半分脅しといた。おそらく大丈夫だろう。来ても追い返す」 親密そうに話すふたりのやりとりを、どういう関係なのかと不思議に思いながら聞いていた。「すみませんでした」 申し訳なくなり、頭を下げて丁寧に謝罪すると、マスターは優しい笑みを浮かべて首を横に振ってくれ

    Last Updated : 2025-04-02
  • 純愛リハビリ中   第七話

    「俺、女に暴力振るう男って、ヘドが出るくらい嫌いでね」 男性は至極真面目にそうつぶやき、私の隣の椅子にごく自然に腰を降ろした。  彼は黒のインナーの上にカジュアルな白いシャツを羽織っただけのラフな格好をしていた。  ナチュラルな深いブラウンの髪が全体的にふんわりとした雰囲気を作り出していて、二重で少しタレ目な瞳がやさしそうな印象だ。  鼻筋はスッと通っているし、はっきり言って本城よりも断然イケメンだと思う。  しかも、なんともいえない大人の男の色気まで醸し出している。  スーツじゃないところを見ると、会社員ではないのかもしれない。  だとしたら、どんな仕事をしている人なのかと気になったが、聞いても仕方がないのでやめておこう。「なにか揉めてたみたいだけど、結局あの男が振られた、ってこと?」 「まぁ……はい。既婚者だったのがわかって、付き合えないって言ったら逆上されました」 どうして今、私は名前も知らない見ず知らずの人にこんな話をしているのだろうか。  いや、だからこそ逆に話しても平気なのかもしれない。  この先この人と二度と会うことはないのだから。「世の中、見かけによらず変な男もいるから」 「……ですよね」 「気をつけないと、この綺麗な顔に傷ができちゃうよ」 男性が急に、そっと私の左頬に手を添えた。  その部分は、危うく本城に殴られていたかもしれない場所だ。  男性はじっと私を見つめ、親指で私の頬の柔らかさを確認するように滑らせる。「あ、あの……」 私はそれに驚いて、つぶやいたあとにフリーズしてしまう。  添えられた手の温かさとやさしさを感じ、意識すると急速に頬に熱が集まってドキドキとしてきた。「斗夜(とうや)、そのへんでやめとけよ」 私たちを見ていたマスターが、あきれながら男性に声をかけた。  男性は私の頬から手を離し、フフフと笑いながら前を向く。  そんな微笑ですら色気が漏れ出ていることを、自分でわかってはいないのだろう。「コイツね、女たらしの遊び人だから。簡単に引っかかっちゃだめだよ?」 「……はぁ……」 「それに、歯の浮くような恥ずかしいセリフを平気で言うけど、それってコイツの癖みたいなものだから、本気にしないほうがいい」 牽制するかのように、マスターがやんわりとした笑顔で私に忠告をした。「俺たち友

    Last Updated : 2025-04-03
  • 純愛リハビリ中   第八話

     拒絶もなにも、この人が女性とどういう付き合い方をしていたのか、具体的に知らない私はなにも言うことはできない。  たくさんのセフレがいたのか、多くの女性たちを相手に何股かの交際をしていたのか、一夜限りを繰り返していたのか、私が想像できる範囲はそのくらいだ。  引かれると思うなら話さなければいいのにと思ったけれど、この人も私と会うことはもうないだろうと考えたからこそ、プライベートなことを気楽に話しているのかもしれない。「私もね、さっきの豹変した暴力男と一夜限りだったから。……好きでもなかったのに。だから人のことをとやかく言えない」 身持ちの固い真面目な女子は、最初から一夜限りでいいとかありえないと思う。  だから私はこの男性のことを、毛嫌いしたり軽蔑する資格なんてないのだ。 だけど、別れ方の問題で泣く女の子がたくさんいるなら、話は別になってくる。  できれば上手に別れていてほしいなと考えたところで、私にはまったく関係のない事柄だと思考を止めた。「君、面白い子だね」 半ばあきれるように、男性がやわらかく笑う。「そうかな?」 「作った感じがなくて自然体だよ」 たしかになにも作ってはいない。  あざとく振る舞ったり、誰かに媚びたりすることを、私は一番苦手としている。「君とはまた会えそうだね」 「さぁ。それこそ今夜限りかも」 「君はこの店の常連だろ? だったらまた偶然会えるよ。俺もここに来る機会は増えるだろうから」 そこは逆らわず、「そうね」と曖昧に笑って大人の対応をしておいた。「じゃ、俺はお先に」 男性が長い脚を伸ばし、スラリと立ち上がる。「またね。“サラちゃん”」 艶のある低い声で名を呼ばれ、一瞬で心臓がギュっと縮んだ。  なぜ私の名前を知っているのか不思議だったが、すぐにその答えがわかってしまった。  本城が私をそう呼んでいたのを、聞かれてしまっただけのことだ。  驚かせないでほしい、と心の中でつぶやく。  私もこれを飲んだら家に帰ろうと、目の前のグラスを見つめた。 改めてマスターに本城との騒ぎのことをお詫びし、お会計をしてもらおうとその旨を伝えたが、マスターはなぜか支払いは要らないと言う。「斗夜が自分の分と一緒に払ったから大丈夫」 「え?! それはダメですよ」 斗夜とは、先ほどの男性だ。たしかマスターがそんな

    Last Updated : 2025-04-03
  • 純愛リハビリ中   第九話

     週が明けた月曜日、いつもと変わらない日常が始まるはずだった。  だけど朝から営業部には、見慣れない数人の社員があわただしく動いて作業をしていた。  パソコンの導線などをいじっているので、システム部の人間のようだけれど、何事なのだろう。「ねぇ、あれ……どうしたの?」 なにかシステムに不具合でも出たのかと、たまたまそばを通りかかった重森に尋ねてみた。「ん? 社内の連絡メール、見ていないのか?」 「え?」 「本社からひとり、転勤でこっちに異動してくるって連絡が来てただろう? その人のデスクまわりの設備を整えてるらしい」 そう言われれば、先週社内メールが来ていたと思いだした。  うちの営業三課に人員がひとり増えるのかと、メールを流し読んだことだけはなんとなく記憶にある。  どうやら異動日は今日だったようだ。「イケメンだったらいいよね」 フフっとなにかを期待したような笑みをたたえつつ、同じ営業三課の事務で同期の安西史香(あんざい ふみか)が私と重森の会話を聞いて絡んできた。  史香は私と気が合うので仲良くしてくれている。  私が社内で軽い女だと妙な噂を流されても、気にしないで付き合ってくれている奇特な人間だ。「まぁね。目の保養にはなるよね、イケメンは」 私はたいしてそうは思っていないけれど、史香に同調しておいた。  どうせならイケメンのほうがいい、というのは大多数の女子の意見だろう。「あのなぁ、イケメンだったら俺で十分じゃないか?」 重森が私たちに胸を張るように言ってくるのを横目で見て、ありえないとばかりに首をブンブンと横に振り続ける。  重森も世間一般的にはイケメンなので、そこまで否定するほどではないのだけれど、褒めると調子に乗らせてしまうから。「お。お出ましだぞ」 重森が独り言のようにつぶやいて去って行く。  部長に続いて、パリっとした黒系のスーツの男性が営業部に入ってくるのが見えた。  このあとすぐおこなわれる朝礼で紹介されるのだろう。「ほんとにイケメンが来た」 史香から囁かれても反応できず、私は呆然としてしまう。  なにが起こったのか、頭の中で処理が全然追いついていかないのだ。「本日付で本社から異動になった、八木沢(やぎさわ)斗夜くんだ」 朝礼で部長から紹介されて軽く頭を下げたその人は、紛れもなく金曜日にあ

    Last Updated : 2025-04-03
  • 純愛リハビリ中   第十話

    「八木沢 斗夜です。よろしくお願いします」 今はスーツに身を包み、髪をすっきりとセットしているからか、金曜日に会ったときと印象が随分違うので一瞬別人かと思った。  だけど、やさしそうに下がった目元と、“トウヤ”という名前が一致する。同一人物で間違いない。  そういえばこの前会ったとき、転勤でこっちに引っ越してきたとかなんとか話していた気がする。  まさか彼が同じ会社の社員で、しかも私と同じ部署になるなんてと、奇妙な偶然に私は驚きを隠せなかった。「咲羅、見惚れてるの?」 「え……ううん……」 無意識に視線を送ってしまっていた私の反応を見て、史香がニヤニヤしながら話しかけてくる。 もちろん見惚れているわけではなく、驚きすぎて固まってしまっただけだ。  奇跡のような偶然など起きるはずがないので、私は夢でも見ているのかと思わず自分の頬を引っ張ってみる。  ……ありえないけれど、これは現実らしい。 朝礼が終わり、通常業務が始まっても私は半ば放心状態だった。  なかなか仕事が手につかないでいる自分に気づき、反省して気合いを入れる。  とりあえず集中しなければと、パソコン画面を睨みつけた。 なんとかしばらくは気を張っていたのに、それを見事にはねのけるように、男性が私の元へやって来た。「これ、受注もらったから手配お願いできるかな」 八木沢さんは椅子に座る私の隣に立ち、普通に仕事の話をしてきたので顔を上げると、ニヤリと意味ありげな笑みを返された。  向こうも私に絶対気づいていると、今の表情を見て確信した。  彼の顔が、「また会ったね」と暗に言っていたから。「すぐに手配します」 「助かるよ。“サラちゃん”」 やはり彼は私を覚えていた。その上でわざと私をからかっているのだ。「へぇ、“咲羅”ってそういう字なんだ。かわいいね」 彼は突然ぐっと近づいてきて、私が首から下げているネームホルダーを覗き込んでつぶやいた。 私の怪訝な表情に気づいてなのか、彼はにっこりと笑うと踵を返して自分の席へと戻って行く。  ただでさえ気まずいのに、びっくりさせないでほしい。 お昼休みになり、史香にランチという名目で事情聴取をされることになった。「ちょっと咲羅、八木沢さんとどういう関係?」 直球で問われたが、ほとんど知らない相手だし、彼と私はなんの関係もない

    Last Updated : 2025-04-03

Latest chapter

  • 純愛リハビリ中   第四十五話

    「本当にごめんなさい」 「謝らないでよ。こんなにすぐに誘う男は相手にしなくて正解。……トウヤ君が好き?」 「……」 率直に問われたけれど、私は頷くことも首を横に振ることもできずに押し黙ってしまう。  黒縁眼鏡の奥の優しい瞳が私を不思議そうに捉えていた。「私、本当に長い間、恋をしていないんです」 「……え?」 私の返事が意外だったのか、戸羽さんは驚いた拍子に小さな声を発した。「合コンに行くこともあっけど、そこで恋人関係になれるような出会いはなくて……」 「うん」「私、ある意味病気なんですよ。病名は“本気の恋の始め方を忘れた病”」 私がおどけるように笑うと、戸羽さんも「長い病名だね」と言って笑みを浮かべた。「実は彼も同じ病気だから、ふたりでリハビリしようって決めたんです」 「……そっか。医者の俺でも治せない病気だね」 「はい。彼は私に重要なことをたくさん教えてくれたように思います。でも……私は彼を好きなのかわからない。これははたして恋なのか、自信がありません」 斗夜とのデートは時間があっという間で、話していて楽しかったし飽きることなく過ごせた。  だけど斗夜が時枝さんと毎日蜜月だった今週は、ずっとモヤモヤとした感情に支配され続け、その正体がわからずに、苦しみ続けた。「もっとシンプルに考えればいいのに」 戸羽さんが空を見上げてしばし考え、私にアドバイスをくれる。「例えば、俺がほかの女の子とデートしても咲羅ちゃんはまったく平気だろうけど。トウヤ君がほかの子とデートしたら嫌だろ?」 「……どうかな」 「じゃあ、ホテルに行ったら?」 「それは嫌です」 斗夜がほかの子を抱くなんて、想像しただけで気持ちが悪くて吐きそうだ。「今、想像しただけで胸が締めつけられたよね? それは立派な嫉妬だよ。好きな証拠だと思うけど?」 そうか、思い出せなかったモヤモヤとした感情の名は…… 嫉妬だ。  急に自分の中で、ストンと腑に落ちた。「やっぱりまだリハビリが必要だね」 「……え?」 「大丈夫。実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ」 この病は普通の医者では治せないはずなのに、戸羽さんはなんでも治せてしまう神様みたいな人なのかもしれない。「……帰ろうか」 「はい」 駅の改札を抜けたところで挨拶を交わす。互いに乗る電車は反対方向のため、こ

  • 純愛リハビリ中   第四十四話

     傘はコンビニで買えば済むけれど、そろそろ夕刻なので、帰るにはいいきっかけだと思った。  カフェでお茶をしている間に、雨が土砂降りになったら大変だ。  私の言葉に納得するように、戸羽さんが静かに歩き出す。 だけど自然と私の右手を繋いできて、今までになかった彼の行動にドキっと心臓が跳ねた。  戸羽さんが手を繋ぐのは、意外に思えたから正直驚いた。「あの……」 「カフェじゃなくて、あそこにしようか?」 「……え」 帰るんですよね? と私が声をかけようとしたら、先に戸羽さんが言葉を発した。「あそこなら、外で大雨が降ろうと関係ないよ」 繋いだ手をギュっと強く握られたけれど、私はただ呆然としてしまう。  何かの間違いだ、信じられない、と思う自分がいた。 戸羽さんが示した場所は、―――― ホテルだった。 私は頭の上に雷が落ちたみたいな衝撃を受けた。  温厚そうで知的な戸羽さんに、まさかホテルに誘われてしまうなんて。  時間もまだ十七時にもなっていない夕方だし、酔った勢いでもないのに。「今日は……昼間のランチデートのはずですよね?」 「ああ、うん。でも、誘わないと言ってないよ」 昼間だろうとなんだろうと関係ないだなんて、草食系の戸羽さんには似つかわしくないセリフだ。  だけど、繋いだ手を強引に引っ張って行かないあたりが、戸羽さんらしいと思った。  そこにきちんとした節度があり、理性がある。「あの………ごめんなさい」 私は戸羽さんとはホテルに行けない。  うつむきながらボソリと謝りの言葉を述べる私の手を、戸羽さんは力が抜けたようにゆっくりと離した。  気まずい空気が流れ始めるタイミングで、バッグの中のスマホからメッセージを受信した着信音が鳴る。  無言のままバッグに手を突っ込んで確認すると、送り主は斗夜だった。『今どこにいる?』 斗夜は今日私がデートなのは知っているのに、どうして急にひと言だけ送ってきたのかわからない。  そう思っていたら、またすぐにメッセージが届いた。『大丈夫か? 襲われてないか?』 無機質なスマホに並べられた言葉の羅列が、途端に私の胸を熱くした。  ただ文字を見ているだけなのに、鼻の奥がツンとして、じわりと目に涙が溜まってくる。「ごめんね。俺、ちょっと焦ったみたい」 ふと我に返り、隣で佇む戸羽さん

  • 純愛リハビリ中   第四十三話

     戸羽さんの金銭感覚はいったいどうなっているのだろうと、心配になってくる。「すみません、今日彼女は機嫌悪いみたいで。またプロポーズするときに、あらためて来ますから」 戸羽さんが穏やかににっこりと笑うと、女性店員の頬がみるみるうちに赤く染まり、「うわぁ」と小さく歓声まであがった。  ……誰が機嫌悪いのだ。いや、それよりも「おめでとうございます」という視線を送られている私は、いったいどうすればいいのか。「もう! 戸羽さん!」 「あはは。面白かったね」 店の外に出た途端に早速抗議してみるものの、戸羽さんは可笑しそうに笑い出だした。  それを見て、あれはわざと芝居したのだと私はようやく気づいた。「最初から買う気はなかったんですね?」 「咲羅ちゃんの好みは知りたいけどね。でも、店員さんの前で堂々と買わない!なんてハッキリ言うわけにもいかないから」 「だからって、プロポーズがどうのって……。今度行ったとき、ご結婚されるんですよね? って聞かれますよ? エンゲージリングとマリッジリングを売りつけられちゃうじゃないですか。そうなっても 私は知りませんからね」 他人事のように私がおどけて言うと、戸羽さんは再び吹き出すように笑う。「その時は……彼女がプロポーズをなかなか受けてくれないことにしようか」 「私が悪者ですか?」 「あははは」 戸羽さんの茶目っ気のある一面を初めて見た。  出会ったときから穏やかでやさしそうだとは感じていたけれど、こんなに冗談を言って笑う人だとは思わなかった。  素直に心の内を言うと、今日のデートは楽しい。 このあと、私は豪華じゃなくてもいいと言ったのだけれど、高そうなランチをご馳走になった。  有名なシェフがいるフレンチレストランで、味もおいしかったし、ラグジュアリーな空間が素敵で優雅な気持ちになれた。  そして、ふらりと大型書店に寄って、並べてある本を見ながらふたりで話した。 こうして少しずつ、相手を知っていくことが大切なのだ。  どんなものに興味があって、普段どんなことをするのか。  そうするうちにだんだんと、人となりがわかっていく。  その結果、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らないけれど、私はずいぶん前からこの過程を飛ばしていた。  相手の中身を見ようとしていなかったのだから、恋愛なんてできるはずがな

  • 純愛リハビリ中   第四十二話

     ショーケースには煌びやかなリングやネックレスを中心に、ブランドものがずらりと並んでいる。  桁がひとつ違うくらい価格帯に幅はあるものの、どれもこれも高額だ。  そんなふうに、庶民は価格ばかり気にしてしまう。「どれか、お気に召したものはございましたか?」 少し見ていただけだったのに、女性の店員がすかさず声をかけてきた。  その姿は頭のてっぺんからつま先まで隙がなく、私には何時間かけても真似できないと思うほど、全身綺麗に手入れされている。  長いまつげでまばたきをする彼女の完璧な営業スマイルを前に、私も愛想笑いを浮かべた。「お客様は指がとても綺麗でいらっしゃるので、どのリングでもお似合いだと思いますよ」 どう見ても、彼女のネイルのほうが断然綺麗だ。  お好みは? などと問われても困ってしまう。どう転んでも私には買えないから。「あ、大丈夫です。綺麗だから見ていただけで……」 今は目の保養にするしかできないけれど、いつの日か思い切って買えたらいいなと夢を思い描く。  具体的に欲しいものが出来たら、もっと貯金する気持ちも芽生えるだろう。「どうしたの?」 気がつけば戸羽さんが私の真後ろに立っていて、突然声をかけられて驚いた私は心臓が飛び出るかと思った。「な、なんでもないです! 用事が終わったのなら出ましょう」 あわてて戸羽さんの腕をグイっと引っ張ってみるが、彼は足を動かしてくれない。「指輪かぁ。女の子はこういうの好きだよね」 戸羽さんがおもむろにショーケースに近づいて行ってしまい、私たちは再び女性店員の綺麗な笑顔に捕まってしまう。「お客様は指が綺麗でいらっしゃるので……とお話していたのですが、こちらなど私はお似合いかと思います」 「そうですか。人気なのはどの辺り?」 戸羽さんが話に食いついていくのを見て、私は顔が引きつって来た。「今は別のこちらのシリーズになりますね」 「へぇ」 「ピンクサファイアが可愛いと評判なんですよ?」 ついに、女性店員がショーケースの鍵を開けて実物を出してきてしまった。「咲羅ちゃん、嵌めてみたら?」 私は戸羽さんの袖口をそっと引っ張って、待ったをかける。  この流れでは買うはめになってしまうから。「戸羽さん……まさか買う気じゃないでしょうね?」 「ははは」 目の前に店員がいることも忘れ、大

  • 純愛リハビリ中   第四十一話

     次の日の朝、デートだから髪を巻こうと頑張ってみたけれど、以前ほど上手にできない。  ふと、斗夜と買い物デートをした日の記憶が蘇ってきた。  あの日も自分なりに頑張ってオシャレをして出かけたのを思い出し、この前はもう少しマシに髪が巻けたのに、と鏡の前で眉を寄せながらヘアアイロンと格闘した。 今日の服装は、清楚と上品をテーマに選んでみた。  薄いピンクのブラウスに、白のフレアスカートを合わせ、胸元には小さな石の付いたネックレスをあしらう。  女子アナのように知的さも出たので、自分の中では及第点だ。 五分前に待ち合わせの場所に着くと、戸羽さんもちょうど同時に姿を現した。「咲羅ちゃん」 私に気づいて声をかけてくる戸羽さんは、髪をワックスで遊ばせているせいか、前よりもカッコいい。  今日も相変わらず、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が穏やかで優しい感じがする。「来てくれてうれしいよ」 目を細める戸羽さんを見ながら、私も大人なのでさすがに連絡もなしに約束をすっぽかしはしない、と心に浮かんだ。「どこに行きますか?」 「えっと……ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ。実は腕時計の金具が壊れて、修理に出そうかと」 デートなのに所用に付き合わせて悪いと思ったのか、眉尻を下げてこちらを伺う戸羽さんが、少しばかりかわいらしい。「大丈夫ですよ。行きましょう」 私の返事を聞いた戸羽さんに優しい笑顔が戻り、ふたりで時計店を目指して歩き出す。  高級そうなお店の前で戸羽さんが歩みを止めた。  そこは間違っても私が普段フラっと立ち寄ることの出来ない雰囲気を纏った場所だった。  不審者のようにじろじろと店内を見回してしまいそうになったが、自制心でそれをぐっと堪える。 戸羽さんはカウンターの中にいる店員に声をかけ、金具が壊れた腕時計の修理の話を進めた。  待っている間、私はなにをするでもなく店内をうろうろとしていたのだけれど、手垢ひとつなくピカピカに磨かれたショーケースの中に展示されている、存在感のある腕時計がふと目に入ってきた。  別にそれを気に入ったわけではないのだけれど、隣に置かれていたプライスカードの値段を目にし、高すぎて目玉が飛び出た。 ケタを見間違えたかと思ったけれど、450万円だ。  だけどブランドものの時計ならば、それくらいの値段でもおかし

  • 純愛リハビリ中   第四十話

     斗夜は去り際になにか言ってから出てきたようで、それは私に関することだと思うから内容が気になってしまう。「なにを言ったの?」 クスっと電話口で思い出し笑いをする史香とは反対に、私はスマホを持つ手がわずかに震えた。『白井さんの噂は彼女をやっかんだ人が言いふらしたんです。あなたは彼女のなにを知ってるんですか? 彼女を傷つけて侮辱するような発言は、例え先輩でも俺は今後一切許しません!……って言ってた』 まるで魂を抜き取られたみたいに、私はボーっと聞き入ってしまった。  喉が急に熱くなってきて、声がうまく出て来ない。『あの時、確信しちゃった。八木沢さんも咲羅が好きなんだ、って』 斗夜が時枝さんに対してそんなことを言ったなんて信じられない。  この一週間、ふたりは蜜月に見えていたのに。『どう考えても咲羅に気があるとしか思えない。あの場に居た人はみんなそう感じてたよ。私の隣にいた重森なんて口があんぐりと開いてたわ。たぶん、八木沢さんには勝てないって思ったんだろうね』 ……違うよ。斗夜は私と同じでリハビリ中だもの。  彼には純粋に心から好きだと思える恋愛ができない欠点がある。  身体の関係にはなれても、相手と本気で心を繋げられないのだ。  今はその欠点を治すためにリハビリをしているのに、私を好きだなんて感情が簡単に芽生えるわけがない。  それは史香が彼をわかっていないだけだと思う。『私は重森だけじゃなくて、八木沢さんも慰めなくちゃいけないのかな? そうなったら重森なんて放っておくけど』 「……へ?」 『だって咲羅は明日の戸羽さんとのデートに乗り気なんでしょ? 重森が肩を落として言ってたよ』 別に乗り気じゃないのに、と私は重森を思い浮かべて口をとがらせた。  どうして史香が誤解するようなことをわざわざ言うのだろう。『明日のデート、どうなったか報告待ってるよ』 史香がフフフと楽しそうに笑い声を漏らす。「戸羽さんは、穏やかでいい人だから……明日いきなりどうにかなることはないと思う。それにね、戸羽さんと恋が出来そうかどうか、ちゃんと見極めたいんだ」 彼がどういう人なのかを理解するところから始めなければいけない。それが心を通わせる第一歩だから。『なんか咲羅……最近、変わったね』 「そう?」 本城との失敗の経験があってから、慎重になろうと

  • 純愛リハビリ中   第三十九話

     悪く言われたくはないけれど、万人に私を受け入れてもらえるなんて、さすがに思っていないから、私は史香のような人を大切にできればそれでいい。  仲良くできる人は少数でもかまわない。『あの人、咲羅がモテるから妬いてるんだろうね』 「……私、別にモテてないよ」 『自覚症状なしですか』 私を笑わせるために一定のトーンで言葉を発する史香がおかしくて癒される。『重森がさ、今日私に泣きついてきたよ? いくら咲羅を口説いても、デートどころかまったく相手にされないって』 「……は?」 重森と話している内容が自分のことだったなんて思わなかった。  私はどういうことかと、スマホから聞こえる史香の話を集中して聞いた。『明日は他の男とデートするみたいだから、俺はやっぱり脈なしなのか? って、私は延々と愚痴を聞かされたんだから!』 「……そうだったの」 『重森も咲羅と一緒で誤解されやすいみたい。たぶん……あんまり遊んでないよ、アイツ。咲羅のこと、けっこうマジで好きみたい』 ―――― 重森が? そんな、まさかだ。 いつも彼の誘いは、ふわっと飛んで行きそうな綿雲のように軽かった。  なので、そこに少しでも真面目な思いが含まれているなどと、私は考えたこともなかった。  私はもしかして、今まで重森に対してかなりひどい態度だったのだろうか。『重森、八木沢さん、バーのマスター、戸羽さん。これでモテてないなんて言わせないからね? で、結局咲羅は誰にするのよ』 「……え?!」 いきなり四択を迫られても、どこから突っ込んでいいか頭がついていかず、思わず声が裏返った。「ちょっと、なに言ってるの」 『あはは。マスターの話も聞こえてきちゃったもん』 居酒屋での時枝さんの発言を、史香はけっこう漏らさずに聞いていたようだ。  重森と話しながら小耳に挟むなんて、器用だなと感心してしまう。「マスターは全然そんなんじゃないよ」 『そうなの? まぁ、重森は元からないとしても……あとは、八木沢さんか戸羽さんね』 ……あっという間に二択に減った。  史香の言葉で、斗夜と戸羽さんの顔が交互に思い浮かぶ。 バーで戸羽さんと偶然再会して、土曜日にデートの約束をしたことは、史香には翌日の朝にすべて話した。  戸羽さんと今までに会ったのはたったの二回で、ふたりきりでデートするのも明日

  • 純愛リハビリ中   第三十八話

     斗夜にとって、リハビリ相手である私は必要なくなった。  でもどうして私までリハビリを中止しなくてはいけないのか。  斗夜が辞めるなら、私は違う相手で続けるまでだ。  真剣な恋ができるように、そのやり方を思い出せるようにと、せっかく始めたことなのだから。  リハビリから先に卒業できた斗夜は、以前傷つけてしまった元カノに思いを告げればいい。「誤解だよ。連絡できなかったのは仕事が忙しかったせいだ。それはホントだから」 火曜日に時枝さんとバーに行く時間はあったのに? などと考える私は、意地が悪い。  それを実際に口にしなかっただけマシだけれど。「だから、行くなよ……」 斗夜の瞳がゆらゆらと揺れていて、心配と不安と切なさが入り混じっていた。  だけど私は、それに気づかないフリをする。「行くよ。約束しちゃったもの」 「咲羅……」 私は小さくつぶやいて斗夜に背中を向け、路地裏から表通りに出た。  抱きしめられていたときからずっと、心臓が掴まれたように痛くて、熱い頬が元に戻らない。  人の心をこんなに掻き乱せるのだから、斗夜がモテるのは当たり前だ。  無心になろうとすればするほど、至近距離で囁かれた斗夜の甘い声が耳から離れないままだったけれど、私はそのまま家路を急いだ。 家に帰ってシャワーを浴びた直後に、テーブルの上のスマホが着信を告げていることに気づいた。  私は画面に表示された相手を確認し、人差し指でスライドさせる。『咲羅、今ひとりなの?』 電話をかけてきたのは史香だった。  私がひとりでいるのかどうかなんて、いつもは気にしたことがないのに、なぜ聞くのだろうと思ってしまう。「帰ったんだからひとりだよ」 『そっか。八木沢さんもすぐに出て行ったから……』 私が居酒屋の座敷を出たあと、すぐに斗夜が追いかけて来たから、今もふたりで一緒にいるのかもしれないと考えたのだろう。『大丈夫?』 「なにが?」 『時枝さんが居酒屋できついこと喚(わめ)いてたでしょ。あの人、性格悪そうだもん』 史香の言葉を聞いて、私が抱いた時枝さんのイメージと同じだったことに軽く笑いがこみ上げた。  重森と話し込んでいた史香は、私たちの話は聞こえていないのかと思っていたけれど、最後のほうは時枝さんの声が大きかったから、自然と耳に入ってきたのだろう。「大丈

  • 純愛リハビリ中   第三十七話

     マスターは私と戸羽さんのことを斗夜に密告したらしい。  物静かな人だと思っていたけれど、どうやらおせっかいな面もあるようだ。「『咲羅ちゃんは草食系だって豪語してるけど、俺にはそう思えない!』って、興奮気味に電話をかけてきた。時枝さんが言ってたこと、あながち間違っていないのかもな」 「え?」 「……彰、咲羅に気があるのかも」 どうして時枝さんの発言を真に受けるのかと、私は腹が立ってしまう。  キュっと眉間にシワを寄せ、不快だと言わんばかりに斗夜を見上げれば、深いブラウンの髪の隙間から覗く瞳と視線が絡んだ。「バカなこと言わないでよ。マスターは単純に私を心配してくれただけでしょ」 「そうかな?」 「そうに決まってる」 斗夜が再び私の背にまわしていた腕の力を強めた。  ギューっと抱きしめられ、自然と斗夜の逞しくて温かい胸板にピタリと密着してしまう。  その行為に、今更私の心臓はドキドキと早打ちを始めた。「今週は時枝さんが来たから思いのほか仕事が忙しくて、連絡出来なくて悪かった。けど……ほかの男とデートってひどくないか?」 「……は?」 斗夜の言葉の意味がまったくわからなくて、なにを言ってるのだろうと、思わず素っとん狂な声を上げてしまった。  どうして私がひどいのだろうか。「なにもひどくないでしょ。私たち、付き合ってるわけじゃないんだから」 「…………」 「それを言うなら、時枝さんをあのバーに連れて行くことないじゃない。ひどいのはどっちよ」 あのバーは、“私たちの隠れ家”なんて言うつもりはないけれど、唯一私がほっこりできる場所だった。  だけど斗夜に気がある時枝さんを招き入れたことで、あの空間の雰囲気を変えられた気持ちになってしまった。「悪かったよ。もうしない」 耳元から響く斗夜の低い声が、脳まで浸透していく。  やさしくて甘い声が聞こえたらなにも考えられなくなって、強く抱きしめられていることに違和感がなくなった。  斗夜の胸板に自分自身が溶け込んでしまいそう。「だから………明日のデートは辞めてくれないか?」 抱きしめられていて顔は見えないけれど、彼はきっと切ない表情をしているのだと声でわかってしまった。「なんで……そんなこと言うの」 このタイミングと体勢を考えたら、その発言はずるい。どうしても期待してしまうから。

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status