それで観念したのか、眉尻を下げて本城がショボンと肩を落とした。
気遣いが足りない人に不倫は向いていない。奥さんや周りにすぐバレるのが目に見えている。「す、すまない。隠すつもりはなかったんだ。でも最初から正直に話したら、咲羅ちゃんは付き合ってくれないと思って……」
「だからって、あとから言えばいいというのもおかしいでしょう?」私はあきれて小さく溜め息を漏らした。
不器用なわりに、ずるい部分が垣間見えていて、私は嫌悪感が湧いてきてしまう。「もういいですから。会うのも連絡もこれきりに。だいたい私、本城さんとは最初から付き合うつもりはありませんでしたから」
申し訳ないけれど、それが私の本心だった。
結婚していることを抜きにしても、彼に対して好きだという感情がないのだから付き合う理由がない。 心が痛むとすれば、彼の奥さんに悪いことをしたと思うだけで、裏切られたとショックを受けたり傷ついたりはしていない。「は? なにそれ……俺のこと、好きじゃないの? それなのにお前は俺に抱かれたのか?」
私の言葉に腹が立ったのか、本城の口調と表情が一変した。
さっきまではやさしくて穏やかな顔だったのに、今は別人のようだ。 私の呼び方も、“咲羅ちゃん”から“お前”になっている。「本城さんは、私を好きなんですか?」
「好きだよ」 「本当に? あの居酒屋でたまたま意気投合しただけですよ? その場の雰囲気に流されてホテルへ行こうってなっただけで……」あの一瞬で私に惚れただなんて考えられない。
感情などなく、ふたりとも酔った勢いでの行為だっただけだ。「あのな、そういうのを“ヤリ逃げ”って言うんだぞ?」
本城の発言を聞き、男が女にそれを言うのかと驚いて軽く固まってしまった。
プライドを傷つけられたのかもしれないが、今の本城はみっともなくて情けない。
こんな人だったのかと、あらためて本性がわかると心底ガッカリとした。 お酒が入っていたとはいえ、誘われるままにフラっとホテルへついて行った私も私だ。「もう、それでいいから。私のことは忘れて」
ヤリ逃げでもなんでもいい。
落ち着かせようと思って言ったのだけど、この人には逆効果だったようだ。 「はぁ? 」という言葉と共に、敵意のこもった視線で思い切りギロリと睨まれた。「俺を振るのか?!」
「本城さんは、都合よく私と不倫したいだけ。目を醒ましてよ。私を好きじゃないでしょう?」言い争いはしたくなかったので静かなトーンで伝えたのだけれど、本城の目がカッと見開いたのがわかった。
「うるさい! 誰とでも軽々しく寝る女なんだな、お前は!! とんだビッチに引っかかったよ!」 さらに荒々しく豹変した本城を目にし、私は驚きすぎて唖然としてしまう。 こんなに激高するなんて、今は一番最初の穏やかな印象からは想像もつかないほど真逆だから。「どうせほかの男がよくなったんだろ? そうだろ?」「……あの……」「俺よりうまい男がいたのか? このヤリマン!」 凄みのある声を発した本城が、勢いよく私の胸倉を左手で掴んできた。 その瞬間、私は恐怖で息が止まる。 本気で私を殴るかもしれないと直感したそのとき、本城が右手を振り上げた。「はい、そこまで」 拳が振り下ろされる間際に、ひとりの見知らぬ男性が本城の右手を掴んで阻止してくれた。 どうやらお店に来ていたほかの客のようだ。「なんだよお前は! 手を離せ!!」 突然のことに本城は私の胸倉を掴んでいた左手を咄嗟に離したが、右手はまだその男性に捕らわれたままでうろたえていた。「お客様! こちらへ」 私に暴行しようとしていたとわかり、カウンター内にいたマスターが出てきて本城を店の外に連れ出してくれた。 私は掴まれていた胸元を押さえ、ハァハァと息を整える。「大丈夫?」 先ほど助けてくれた男性が、心配して声をかけてくれた。 本気で怖かった。ふと自分の手を見ると、未だに指先が震えている。「……ありがとうございました」「あの男、声が大きいからちょっと聞こえちゃって。いつ止めようかと思ってたんだけど……ごめん」 本城がヒートアップしたあたりから、周りに話が聞こえていたようだ。 ほかの客からすれば私と本城は異様な空気だっただろうなと思う。 恥ずかしいし情けない。 こんなことなら、お気に入りのこのバーで会わなければよかったと後悔した。「あの男はもうここには来られないから」「え?」「出禁になるよ」 男性と少し話をしていると、本城を外に引っ張り出してくれたマスターが戻ってきた。「出禁にしたのか?」「ああ、もちろん。二度と来るなって半分脅しといた。おそらく大丈夫だろう。来ても追い返す」 親密そうに話すふたりのやりとりを、どういう関係なのかと不思議に思いながら聞いていた。「すみませんでした」 申し訳なくなり、頭を下げて丁寧に謝罪すると、マスターは優しい笑みを浮かべて首を横に振ってくれ
「俺、女に暴力振るう男って、ヘドが出るくらい嫌いでね」 男性は至極真面目にそうつぶやき、私の隣の椅子にごく自然に腰を降ろした。 彼は黒のインナーの上にカジュアルな白いシャツを羽織っただけのラフな格好をしていた。 ナチュラルな深いブラウンの髪が全体的にふんわりとした雰囲気を作り出していて、二重で少しタレ目な瞳がやさしそうな印象だ。 鼻筋はスッと通っているし、はっきり言って本城よりも断然イケメンだと思う。 しかも、なんともいえない大人の男の色気まで醸し出している。 スーツじゃないところを見ると、会社員ではないのかもしれない。 だとしたら、どんな仕事をしている人なのかと気になったが、聞いても仕方がないのでやめておこう。「なにか揉めてたみたいだけど、結局あの男が振られた、ってこと?」 「まぁ……はい。既婚者だったのがわかって、付き合えないって言ったら逆上されました」 どうして今、私は名前も知らない見ず知らずの人にこんな話をしているのだろうか。 いや、だからこそ逆に話しても平気なのかもしれない。 この先この人と二度と会うことはないのだから。「世の中、見かけによらず変な男もいるから」 「……ですよね」 「気をつけないと、この綺麗な顔に傷ができちゃうよ」 男性が急に、そっと私の左頬に手を添えた。 その部分は、危うく本城に殴られていたかもしれない場所だ。 男性はじっと私を見つめ、親指で私の頬の柔らかさを確認するように滑らせる。「あ、あの……」 私はそれに驚いて、つぶやいたあとにフリーズしてしまう。 添えられた手の温かさとやさしさを感じ、意識すると急速に頬に熱が集まってドキドキとしてきた。「斗夜(とうや)、そのへんでやめとけよ」 私たちを見ていたマスターが、あきれながら男性に声をかけた。 男性は私の頬から手を離し、フフフと笑いながら前を向く。 そんな微笑ですら色気が漏れ出ていることを、自分でわかってはいないのだろう。「コイツね、女たらしの遊び人だから。簡単に引っかかっちゃだめだよ?」 「……はぁ……」 「それに、歯の浮くような恥ずかしいセリフを平気で言うけど、それってコイツの癖みたいなものだから、本気にしないほうがいい」 牽制するかのように、マスターがやんわりとした笑顔で私に忠告をした。「俺たち友
拒絶もなにも、この人が女性とどういう付き合い方をしていたのか、具体的に知らない私はなにも言うことはできない。 たくさんのセフレがいたのか、多くの女性たちを相手に何股かの交際をしていたのか、一夜限りを繰り返していたのか、私が想像できる範囲はそのくらいだ。 引かれると思うなら話さなければいいのにと思ったけれど、この人も私と会うことはもうないだろうと考えたからこそ、プライベートなことを気楽に話しているのかもしれない。「私もね、さっきの豹変した暴力男と一夜限りだったから。……好きでもなかったのに。だから人のことをとやかく言えない」 身持ちの固い真面目な女子は、最初から一夜限りでいいとかありえないと思う。 だから私はこの男性のことを、毛嫌いしたり軽蔑する資格なんてないのだ。 だけど、別れ方の問題で泣く女の子がたくさんいるなら、話は別になってくる。 できれば上手に別れていてほしいなと考えたところで、私にはまったく関係のない事柄だと思考を止めた。「君、面白い子だね」 半ばあきれるように、男性がやわらかく笑う。「そうかな?」 「作った感じがなくて自然体だよ」 たしかになにも作ってはいない。 あざとく振る舞ったり、誰かに媚びたりすることを、私は一番苦手としている。「君とはまた会えそうだね」 「さぁ。それこそ今夜限りかも」 「君はこの店の常連だろ? だったらまた偶然会えるよ。俺もここに来る機会は増えるだろうから」 そこは逆らわず、「そうね」と曖昧に笑って大人の対応をしておいた。「じゃ、俺はお先に」 男性が長い脚を伸ばし、スラリと立ち上がる。「またね。“サラちゃん”」 艶のある低い声で名を呼ばれ、一瞬で心臓がギュっと縮んだ。 なぜ私の名前を知っているのか不思議だったが、すぐにその答えがわかってしまった。 本城が私をそう呼んでいたのを、聞かれてしまっただけのことだ。 驚かせないでほしい、と心の中でつぶやく。 私もこれを飲んだら家に帰ろうと、目の前のグラスを見つめた。 改めてマスターに本城との騒ぎのことをお詫びし、お会計をしてもらおうとその旨を伝えたが、マスターはなぜか支払いは要らないと言う。「斗夜が自分の分と一緒に払ったから大丈夫」 「え?! それはダメですよ」 斗夜とは、先ほどの男性だ。たしかマスターがそんな
週が明けた月曜日、いつもと変わらない日常が始まるはずだった。 だけど朝から営業部には、見慣れない数人の社員があわただしく動いて作業をしていた。 パソコンの導線などをいじっているので、システム部の人間のようだけれど、何事なのだろう。「ねぇ、あれ……どうしたの?」 なにかシステムに不具合でも出たのかと、たまたまそばを通りかかった重森に尋ねてみた。「ん? 社内の連絡メール、見ていないのか?」 「え?」 「本社からひとり、転勤でこっちに異動してくるって連絡が来てただろう? その人のデスクまわりの設備を整えてるらしい」 そう言われれば、先週社内メールが来ていたと思いだした。 うちの営業三課に人員がひとり増えるのかと、メールを流し読んだことだけはなんとなく記憶にある。 どうやら異動日は今日だったようだ。「イケメンだったらいいよね」 フフっとなにかを期待したような笑みをたたえつつ、同じ営業三課の事務で同期の安西史香(あんざい ふみか)が私と重森の会話を聞いて絡んできた。 史香は私と気が合うので仲良くしてくれている。 私が社内で軽い女だと妙な噂を流されても、気にしないで付き合ってくれている奇特な人間だ。「まぁね。目の保養にはなるよね、イケメンは」 私はたいしてそうは思っていないけれど、史香に同調しておいた。 どうせならイケメンのほうがいい、というのは大多数の女子の意見だろう。「あのなぁ、イケメンだったら俺で十分じゃないか?」 重森が私たちに胸を張るように言ってくるのを横目で見て、ありえないとばかりに首をブンブンと横に振り続ける。 重森も世間一般的にはイケメンなので、そこまで否定するほどではないのだけれど、褒めると調子に乗らせてしまうから。「お。お出ましだぞ」 重森が独り言のようにつぶやいて去って行く。 部長に続いて、パリっとした黒系のスーツの男性が営業部に入ってくるのが見えた。 このあとすぐおこなわれる朝礼で紹介されるのだろう。「ほんとにイケメンが来た」 史香から囁かれても反応できず、私は呆然としてしまう。 なにが起こったのか、頭の中で処理が全然追いついていかないのだ。「本日付で本社から異動になった、八木沢(やぎさわ)斗夜くんだ」 朝礼で部長から紹介されて軽く頭を下げたその人は、紛れもなく金曜日にあ
「八木沢 斗夜です。よろしくお願いします」 今はスーツに身を包み、髪をすっきりとセットしているからか、金曜日に会ったときと印象が随分違うので一瞬別人かと思った。 だけど、やさしそうに下がった目元と、“トウヤ”という名前が一致する。同一人物で間違いない。 そういえばこの前会ったとき、転勤でこっちに引っ越してきたとかなんとか話していた気がする。 まさか彼が同じ会社の社員で、しかも私と同じ部署になるなんてと、奇妙な偶然に私は驚きを隠せなかった。「咲羅、見惚れてるの?」 「え……ううん……」 無意識に視線を送ってしまっていた私の反応を見て、史香がニヤニヤしながら話しかけてくる。 もちろん見惚れているわけではなく、驚きすぎて固まってしまっただけだ。 奇跡のような偶然など起きるはずがないので、私は夢でも見ているのかと思わず自分の頬を引っ張ってみる。 ……ありえないけれど、これは現実らしい。 朝礼が終わり、通常業務が始まっても私は半ば放心状態だった。 なかなか仕事が手につかないでいる自分に気づき、反省して気合いを入れる。 とりあえず集中しなければと、パソコン画面を睨みつけた。 なんとかしばらくは気を張っていたのに、それを見事にはねのけるように、男性が私の元へやって来た。「これ、受注もらったから手配お願いできるかな」 八木沢さんは椅子に座る私の隣に立ち、普通に仕事の話をしてきたので顔を上げると、ニヤリと意味ありげな笑みを返された。 向こうも私に絶対気づいていると、今の表情を見て確信した。 彼の顔が、「また会ったね」と暗に言っていたから。「すぐに手配します」 「助かるよ。“サラちゃん”」 やはり彼は私を覚えていた。その上でわざと私をからかっているのだ。「へぇ、“咲羅”ってそういう字なんだ。かわいいね」 彼は突然ぐっと近づいてきて、私が首から下げているネームホルダーを覗き込んでつぶやいた。 私の怪訝な表情に気づいてなのか、彼はにっこりと笑うと踵を返して自分の席へと戻って行く。 ただでさえ気まずいのに、びっくりさせないでほしい。 お昼休みになり、史香にランチという名目で事情聴取をされることになった。「ちょっと咲羅、八木沢さんとどういう関係?」 直球で問われたが、ほとんど知らない相手だし、彼と私はなんの関係もない
「なんかすごく運命的じゃない?」 「……偶然って怖いよね」 勝手に盛り上がる史香とは対照的に、私は溜め息混じりの冷めた口調になった。「咲羅、なんでそんなテンション低いの?」 私としては、ここでテンションを上げる意味がわからない。 最初の出会いが衝撃すぎたから、正直この再会には戸惑いの気持ちのほうが大きい。「八木沢さんは社内で絶対モテると思う。咲羅は最初から一歩リードしてるよ!」 「……リード?」 そう言われても困ってしまう。 彼を見ていると、あのバーでのことが思い出されて、仕事がしづらいのだ。「もしかして、あんなイケメンを狙わないつもり? 向こうも偶然再会した咲羅を意識してるかもしれないのに」 「狙わないよ」 「なんで? 私にわかるように理由を言いなさい」 史香の言葉に素直に従い、自分なりにそれはなぜかと考えてみた。 体型は高身長で筋肉質だからストライクだし、顔はどちらかというと好みのタイプだ。 性格については合わないと決めつけるほど、まだ彼を知らない。「理由はとくにないかな。でも、史香だってあの人に興味ないんでしょ?」 「私は、二課の長谷川さん狙いだもの」 忘れていたけれど、彼女は最近、営業二課の男性社員である長谷川さんにかなりご執心だった。「ちゃんとした彼氏がいればさ、本城みたいな男に引っかからないで済むんじゃないの?」 史香の意見はもっともすぎて、反論の余地はない。 いくらその場の雰囲気に流されたとはいえ、一夜限りでも本城と関係を持ったのは大きな失敗だった。 だからといって、八木沢さんがいいのかどうかはまだわからない。 もちろん、本城と比べたら月とスッポンで、ずいぶんとマシな男性なのは間違いないだろう。 私を助けてくれたとき、ヒーローのように思えたから。 だけど私が一夜限りの男性と修羅場になっている場面を、彼は一部始終見ていたのだし、そんな女性は向こうがお断りのはず。 八木沢さんが転勤してきて一週間が過ぎた。 予想に反して、彼からなにも言ってはこなかった。 会話があるとすれば仕事の話ばかりで、バーで会ったことを微塵も感じさせない彼の態度に、やっぱり人違いだったのかもと疑いたくなってくる。 だけどこの日、私が仕事を終えて帰り支度をしているところに、八木沢さんが静かに歩み寄ってきた
バーに着くと、いつものようにイケメンマスターが「いらっしゃい」と微笑んでくれた。 やはりここの雰囲気は落ち着いているので癒される。 私はいつものようにカウンターに陣取り、ホッと息をついた。「斗夜と会ったんだって? 会社で」 オーダーを取るついでのように、マスターがいきなりそんな話題を振ってきた。 八木沢さんとは友達だから気になったのかもしれない。 マスターのほうから話を切り出されたのが意外だったので、驚いて目が泳いでしまった。 別に挙動不審になる必要はないのに。「あ、……そうなんですよ」 「会社が一緒だったって聞いた。あの日、斗夜は引越しが終わったあと、この店に来てたんだけど、本当にこんな偶然ってあるもんなんだね」 「あははは」 とりあえず愛想笑いをしておいたが、顔は引きつっていただろうと思う。「実は、もうすぐ来ると思います」 「……え?」 「……八木沢さん」 私が少し言いにくそうに名前を出すと、マスターは「そうなんだ」と、にっこり笑った。「斗夜と待ち合わせだったんだ」 「いや、私はそういうつもりじゃないっていうか……」 待ち合わせというよりは彼に呼び出された形なのだと、言い訳をしたくなってしまう。「デートの場所がここでいいの?」 「え? デートではないですよ」 あたふたとする私を見て、マスターは吹き出すように笑った。 どうやら、私はからかわれたようだ。「斗夜はイケメンだしね」なんて、自分もイケメンなのに、マスターは友達を持ち上げていた。 マスターとそんなやり取りをして、少し時間が過ぎたころ、店のドアがおもむろに開いた。「待たせたかな」 慣れた様子で八木沢さんが私の隣に座った。 あの日と違って今日はスーツ姿だから、この前の私服よりもバーの雰囲気に合っている。「急に呼び出して悪いね」 「今日は用事がなかったので構いませんけど」 会社と同じように硬い口調と敬語を使っていたので、それを聞いたマスターが少し驚いたような顔をした。 私たちはただの会社の同僚で、八木沢さんは先輩だから当然のことなのに。「咲羅ちゃんと少し話がしたかったんだ」 だから誰にも誤解させないように、八木沢さんにも私を“白井”と呼んでもらいたいくらいだ。「まさか同じ会社だったなんてね。驚いたよ」 会社ではそんな話は一切
それはモテ自慢なのだろうかと、あきれ笑いしそうになり、私はあわてて顔を引き締めた。「早く解放してくれって思いながらも、その子たちの話に耳を傾けてみたんだ」 モテ自慢のわりには、彼の爽やかスマイルはどこかに行ってしまっていて、苦い顔つきになっている。「そしたら……咲羅ちゃんの名前が出てきた。ほら、俺も営業三課で同じ部署だから」 「なんだ、そういうことですか」 彼が言いにくそうにしている理由がわかってしまった。 きっとその子たちから私の噂を聞いたのだろう。 想像できるのは、悪口のオンパレードだ。「咲羅ちゃんには気をつけろって言われたよ。まったく意味がわからないんだけど?」「はっきり言ってくれていいですよ。私は男遊びが激しいから近寄っちゃダメって?」 「……そんなところかな」 陰で言われそうなことは大体わかっている。 とくに八木沢さんを狙う子にとって、同じ部署の私は邪魔な存在で心配なのだろう。「咲羅ちゃんの評判悪いよね」 八木沢さんはこちらを向き、微妙な顔で苦笑いしているから、少なからず心配してくれているのかもしれない。「そうなんですよ、すごく嫌われちゃってるんです。気にしていないからいいんですけど」 「気にしないのか。やっぱり面白い子だよね。でも……俺は男遊びが激しいようには見えないんだけどな。なんであそこまで言われてるの?」 別に隠すことではないので、私が遊び人だと噂されるようになった経緯を話した。 私が話し終えるまで、八木沢さんは口を挟まずに静かに聞いてくれていた。「それってイジメだよな」 「まぁ……そうですかね」 女の陰険な部分を嫌だと感じたのか、八木沢さんが軽く顔をしかめた。「腹は立たないの?」 「立ちましたけど……向こうの神経を逆撫でするのも嫌だし、黙って無視するのが一番かと」 「でもそれだと、誤解したままの人もいる。せっかくかわいいのに、社内恋愛できないよ?」 かわいいと慰めの言葉をもらえたのはうれしいけれど、たしかに社内で恋愛をするのはもう無理だと私も思っている。 声をかけてくる男性社員は、身体が目的なのかもしれないと私も警戒してしまうので、真剣な恋はきっとできない。 ……そこまで考えたところで、ふと気がついた。 真剣な恋の仕方を、私は忘れてしまっていることに。
「私、真剣な恋のやり方を忘れちゃって出来ないですから……社内で恋愛できなくても別に大丈夫なんです」 今の自分の発言は……すごく枯れている。 今後私はこうやって、徐々に干物化していくのかもしれない。「まさかまた一夜限りの相手でも探すつもり? この前みたいな危ないヤツに引っかかるかもしれないし、やめといたら?」 「私にも学習能力はありますから!」 あんな目にあうのは二度とご免だと、私は咄嗟に眉をひそめた。 もっと男を見る目を養わなければと、今となっては大いに反省している。「それはよかった」 声に出して笑った彼の顔がとても綺麗で、イケメンは得だとつくづく思う。「だけど、彼氏がいないなんてもったいない。咲羅ちゃんはすごく魅力的なのに。良かったら俺と付き合ってみる?」 「おいおい、斗夜!」 八木沢さんは私の髪先をもてあそぶようにサラリと触れ、耳を疑いたくなるような直球すぎる言葉を投げかけてきた。 彼から漏れ出る男の色気が強烈で、私はそれにあてられたのか頭がクラクラしてくる。 しかし、話を遠くから聞いていたマスターが八木沢さんを制止した。 今のは口説かれたのだろうか。 そう考えると、私の心臓の鼓動が自然と早くなっていく。 いやいや、真に受けてどうするのだ。 八木沢さんは歯の浮くようなセリフを平然と言う男だと、前にマスターが教えてくれたのにと、心の中で自分を諭した。「斗夜、軽すぎ」 「いや、咲羅ちゃんなら大丈夫かなって思ったんだよ」 「お前、リハビリはどうしたんだ!」 ……リハビリ? あきれ果てた表情のマスターに対し、八木沢さんはバツが悪そうに苦笑いしていたが、私にはふたりの会話がわからなくてポカンとしてしまう。 とにかく、私を口説いたのはジョークなのだろう。「あ、 咲羅ちゃんも俺と一緒にリハビリしない?」 「リハビリって……私は健康ですから」 「いや、それは俺もそうなんだけどさ」 八木沢さんはなにがおかしいのかクスクス笑っていて、会話がまったくかみあわない。「俺ね、今リハビリ中なの。……恋愛の」 恋愛のリハビリ中とはなんだろう?と、意味がわからないまま彼の話に耳を傾けた。「俺、ちょっと前まで遊び人だったって言ったよね?」 「あぁ……はい」 転勤を区切りに女性との縁を全部切ったと話していた件だ。
それはモテ自慢なのだろうかと、あきれ笑いしそうになり、私はあわてて顔を引き締めた。「早く解放してくれって思いながらも、その子たちの話に耳を傾けてみたんだ」 モテ自慢のわりには、彼の爽やかスマイルはどこかに行ってしまっていて、苦い顔つきになっている。「そしたら……咲羅ちゃんの名前が出てきた。ほら、俺も営業三課で同じ部署だから」 「なんだ、そういうことですか」 彼が言いにくそうにしている理由がわかってしまった。 きっとその子たちから私の噂を聞いたのだろう。 想像できるのは、悪口のオンパレードだ。「咲羅ちゃんには気をつけろって言われたよ。まったく意味がわからないんだけど?」「はっきり言ってくれていいですよ。私は男遊びが激しいから近寄っちゃダメって?」 「……そんなところかな」 陰で言われそうなことは大体わかっている。 とくに八木沢さんを狙う子にとって、同じ部署の私は邪魔な存在で心配なのだろう。「咲羅ちゃんの評判悪いよね」 八木沢さんはこちらを向き、微妙な顔で苦笑いしているから、少なからず心配してくれているのかもしれない。「そうなんですよ、すごく嫌われちゃってるんです。気にしていないからいいんですけど」 「気にしないのか。やっぱり面白い子だよね。でも……俺は男遊びが激しいようには見えないんだけどな。なんであそこまで言われてるの?」 別に隠すことではないので、私が遊び人だと噂されるようになった経緯を話した。 私が話し終えるまで、八木沢さんは口を挟まずに静かに聞いてくれていた。「それってイジメだよな」 「まぁ……そうですかね」 女の陰険な部分を嫌だと感じたのか、八木沢さんが軽く顔をしかめた。「腹は立たないの?」 「立ちましたけど……向こうの神経を逆撫でするのも嫌だし、黙って無視するのが一番かと」 「でもそれだと、誤解したままの人もいる。せっかくかわいいのに、社内恋愛できないよ?」 かわいいと慰めの言葉をもらえたのはうれしいけれど、たしかに社内で恋愛をするのはもう無理だと私も思っている。 声をかけてくる男性社員は、身体が目的なのかもしれないと私も警戒してしまうので、真剣な恋はきっとできない。 ……そこまで考えたところで、ふと気がついた。 真剣な恋の仕方を、私は忘れてしまっていることに。
バーに着くと、いつものようにイケメンマスターが「いらっしゃい」と微笑んでくれた。 やはりここの雰囲気は落ち着いているので癒される。 私はいつものようにカウンターに陣取り、ホッと息をついた。「斗夜と会ったんだって? 会社で」 オーダーを取るついでのように、マスターがいきなりそんな話題を振ってきた。 八木沢さんとは友達だから気になったのかもしれない。 マスターのほうから話を切り出されたのが意外だったので、驚いて目が泳いでしまった。 別に挙動不審になる必要はないのに。「あ、……そうなんですよ」 「会社が一緒だったって聞いた。あの日、斗夜は引越しが終わったあと、この店に来てたんだけど、本当にこんな偶然ってあるもんなんだね」 「あははは」 とりあえず愛想笑いをしておいたが、顔は引きつっていただろうと思う。「実は、もうすぐ来ると思います」 「……え?」 「……八木沢さん」 私が少し言いにくそうに名前を出すと、マスターは「そうなんだ」と、にっこり笑った。「斗夜と待ち合わせだったんだ」 「いや、私はそういうつもりじゃないっていうか……」 待ち合わせというよりは彼に呼び出された形なのだと、言い訳をしたくなってしまう。「デートの場所がここでいいの?」 「え? デートではないですよ」 あたふたとする私を見て、マスターは吹き出すように笑った。 どうやら、私はからかわれたようだ。「斗夜はイケメンだしね」なんて、自分もイケメンなのに、マスターは友達を持ち上げていた。 マスターとそんなやり取りをして、少し時間が過ぎたころ、店のドアがおもむろに開いた。「待たせたかな」 慣れた様子で八木沢さんが私の隣に座った。 あの日と違って今日はスーツ姿だから、この前の私服よりもバーの雰囲気に合っている。「急に呼び出して悪いね」 「今日は用事がなかったので構いませんけど」 会社と同じように硬い口調と敬語を使っていたので、それを聞いたマスターが少し驚いたような顔をした。 私たちはただの会社の同僚で、八木沢さんは先輩だから当然のことなのに。「咲羅ちゃんと少し話がしたかったんだ」 だから誰にも誤解させないように、八木沢さんにも私を“白井”と呼んでもらいたいくらいだ。「まさか同じ会社だったなんてね。驚いたよ」 会社ではそんな話は一切
「なんかすごく運命的じゃない?」 「……偶然って怖いよね」 勝手に盛り上がる史香とは対照的に、私は溜め息混じりの冷めた口調になった。「咲羅、なんでそんなテンション低いの?」 私としては、ここでテンションを上げる意味がわからない。 最初の出会いが衝撃すぎたから、正直この再会には戸惑いの気持ちのほうが大きい。「八木沢さんは社内で絶対モテると思う。咲羅は最初から一歩リードしてるよ!」 「……リード?」 そう言われても困ってしまう。 彼を見ていると、あのバーでのことが思い出されて、仕事がしづらいのだ。「もしかして、あんなイケメンを狙わないつもり? 向こうも偶然再会した咲羅を意識してるかもしれないのに」 「狙わないよ」 「なんで? 私にわかるように理由を言いなさい」 史香の言葉に素直に従い、自分なりにそれはなぜかと考えてみた。 体型は高身長で筋肉質だからストライクだし、顔はどちらかというと好みのタイプだ。 性格については合わないと決めつけるほど、まだ彼を知らない。「理由はとくにないかな。でも、史香だってあの人に興味ないんでしょ?」 「私は、二課の長谷川さん狙いだもの」 忘れていたけれど、彼女は最近、営業二課の男性社員である長谷川さんにかなりご執心だった。「ちゃんとした彼氏がいればさ、本城みたいな男に引っかからないで済むんじゃないの?」 史香の意見はもっともすぎて、反論の余地はない。 いくらその場の雰囲気に流されたとはいえ、一夜限りでも本城と関係を持ったのは大きな失敗だった。 だからといって、八木沢さんがいいのかどうかはまだわからない。 もちろん、本城と比べたら月とスッポンで、ずいぶんとマシな男性なのは間違いないだろう。 私を助けてくれたとき、ヒーローのように思えたから。 だけど私が一夜限りの男性と修羅場になっている場面を、彼は一部始終見ていたのだし、そんな女性は向こうがお断りのはず。 八木沢さんが転勤してきて一週間が過ぎた。 予想に反して、彼からなにも言ってはこなかった。 会話があるとすれば仕事の話ばかりで、バーで会ったことを微塵も感じさせない彼の態度に、やっぱり人違いだったのかもと疑いたくなってくる。 だけどこの日、私が仕事を終えて帰り支度をしているところに、八木沢さんが静かに歩み寄ってきた
「八木沢 斗夜です。よろしくお願いします」 今はスーツに身を包み、髪をすっきりとセットしているからか、金曜日に会ったときと印象が随分違うので一瞬別人かと思った。 だけど、やさしそうに下がった目元と、“トウヤ”という名前が一致する。同一人物で間違いない。 そういえばこの前会ったとき、転勤でこっちに引っ越してきたとかなんとか話していた気がする。 まさか彼が同じ会社の社員で、しかも私と同じ部署になるなんてと、奇妙な偶然に私は驚きを隠せなかった。「咲羅、見惚れてるの?」 「え……ううん……」 無意識に視線を送ってしまっていた私の反応を見て、史香がニヤニヤしながら話しかけてくる。 もちろん見惚れているわけではなく、驚きすぎて固まってしまっただけだ。 奇跡のような偶然など起きるはずがないので、私は夢でも見ているのかと思わず自分の頬を引っ張ってみる。 ……ありえないけれど、これは現実らしい。 朝礼が終わり、通常業務が始まっても私は半ば放心状態だった。 なかなか仕事が手につかないでいる自分に気づき、反省して気合いを入れる。 とりあえず集中しなければと、パソコン画面を睨みつけた。 なんとかしばらくは気を張っていたのに、それを見事にはねのけるように、男性が私の元へやって来た。「これ、受注もらったから手配お願いできるかな」 八木沢さんは椅子に座る私の隣に立ち、普通に仕事の話をしてきたので顔を上げると、ニヤリと意味ありげな笑みを返された。 向こうも私に絶対気づいていると、今の表情を見て確信した。 彼の顔が、「また会ったね」と暗に言っていたから。「すぐに手配します」 「助かるよ。“サラちゃん”」 やはり彼は私を覚えていた。その上でわざと私をからかっているのだ。「へぇ、“咲羅”ってそういう字なんだ。かわいいね」 彼は突然ぐっと近づいてきて、私が首から下げているネームホルダーを覗き込んでつぶやいた。 私の怪訝な表情に気づいてなのか、彼はにっこりと笑うと踵を返して自分の席へと戻って行く。 ただでさえ気まずいのに、びっくりさせないでほしい。 お昼休みになり、史香にランチという名目で事情聴取をされることになった。「ちょっと咲羅、八木沢さんとどういう関係?」 直球で問われたが、ほとんど知らない相手だし、彼と私はなんの関係もない
週が明けた月曜日、いつもと変わらない日常が始まるはずだった。 だけど朝から営業部には、見慣れない数人の社員があわただしく動いて作業をしていた。 パソコンの導線などをいじっているので、システム部の人間のようだけれど、何事なのだろう。「ねぇ、あれ……どうしたの?」 なにかシステムに不具合でも出たのかと、たまたまそばを通りかかった重森に尋ねてみた。「ん? 社内の連絡メール、見ていないのか?」 「え?」 「本社からひとり、転勤でこっちに異動してくるって連絡が来てただろう? その人のデスクまわりの設備を整えてるらしい」 そう言われれば、先週社内メールが来ていたと思いだした。 うちの営業三課に人員がひとり増えるのかと、メールを流し読んだことだけはなんとなく記憶にある。 どうやら異動日は今日だったようだ。「イケメンだったらいいよね」 フフっとなにかを期待したような笑みをたたえつつ、同じ営業三課の事務で同期の安西史香(あんざい ふみか)が私と重森の会話を聞いて絡んできた。 史香は私と気が合うので仲良くしてくれている。 私が社内で軽い女だと妙な噂を流されても、気にしないで付き合ってくれている奇特な人間だ。「まぁね。目の保養にはなるよね、イケメンは」 私はたいしてそうは思っていないけれど、史香に同調しておいた。 どうせならイケメンのほうがいい、というのは大多数の女子の意見だろう。「あのなぁ、イケメンだったら俺で十分じゃないか?」 重森が私たちに胸を張るように言ってくるのを横目で見て、ありえないとばかりに首をブンブンと横に振り続ける。 重森も世間一般的にはイケメンなので、そこまで否定するほどではないのだけれど、褒めると調子に乗らせてしまうから。「お。お出ましだぞ」 重森が独り言のようにつぶやいて去って行く。 部長に続いて、パリっとした黒系のスーツの男性が営業部に入ってくるのが見えた。 このあとすぐおこなわれる朝礼で紹介されるのだろう。「ほんとにイケメンが来た」 史香から囁かれても反応できず、私は呆然としてしまう。 なにが起こったのか、頭の中で処理が全然追いついていかないのだ。「本日付で本社から異動になった、八木沢(やぎさわ)斗夜くんだ」 朝礼で部長から紹介されて軽く頭を下げたその人は、紛れもなく金曜日にあ
拒絶もなにも、この人が女性とどういう付き合い方をしていたのか、具体的に知らない私はなにも言うことはできない。 たくさんのセフレがいたのか、多くの女性たちを相手に何股かの交際をしていたのか、一夜限りを繰り返していたのか、私が想像できる範囲はそのくらいだ。 引かれると思うなら話さなければいいのにと思ったけれど、この人も私と会うことはもうないだろうと考えたからこそ、プライベートなことを気楽に話しているのかもしれない。「私もね、さっきの豹変した暴力男と一夜限りだったから。……好きでもなかったのに。だから人のことをとやかく言えない」 身持ちの固い真面目な女子は、最初から一夜限りでいいとかありえないと思う。 だから私はこの男性のことを、毛嫌いしたり軽蔑する資格なんてないのだ。 だけど、別れ方の問題で泣く女の子がたくさんいるなら、話は別になってくる。 できれば上手に別れていてほしいなと考えたところで、私にはまったく関係のない事柄だと思考を止めた。「君、面白い子だね」 半ばあきれるように、男性がやわらかく笑う。「そうかな?」 「作った感じがなくて自然体だよ」 たしかになにも作ってはいない。 あざとく振る舞ったり、誰かに媚びたりすることを、私は一番苦手としている。「君とはまた会えそうだね」 「さぁ。それこそ今夜限りかも」 「君はこの店の常連だろ? だったらまた偶然会えるよ。俺もここに来る機会は増えるだろうから」 そこは逆らわず、「そうね」と曖昧に笑って大人の対応をしておいた。「じゃ、俺はお先に」 男性が長い脚を伸ばし、スラリと立ち上がる。「またね。“サラちゃん”」 艶のある低い声で名を呼ばれ、一瞬で心臓がギュっと縮んだ。 なぜ私の名前を知っているのか不思議だったが、すぐにその答えがわかってしまった。 本城が私をそう呼んでいたのを、聞かれてしまっただけのことだ。 驚かせないでほしい、と心の中でつぶやく。 私もこれを飲んだら家に帰ろうと、目の前のグラスを見つめた。 改めてマスターに本城との騒ぎのことをお詫びし、お会計をしてもらおうとその旨を伝えたが、マスターはなぜか支払いは要らないと言う。「斗夜が自分の分と一緒に払ったから大丈夫」 「え?! それはダメですよ」 斗夜とは、先ほどの男性だ。たしかマスターがそんな
「俺、女に暴力振るう男って、ヘドが出るくらい嫌いでね」 男性は至極真面目にそうつぶやき、私の隣の椅子にごく自然に腰を降ろした。 彼は黒のインナーの上にカジュアルな白いシャツを羽織っただけのラフな格好をしていた。 ナチュラルな深いブラウンの髪が全体的にふんわりとした雰囲気を作り出していて、二重で少しタレ目な瞳がやさしそうな印象だ。 鼻筋はスッと通っているし、はっきり言って本城よりも断然イケメンだと思う。 しかも、なんともいえない大人の男の色気まで醸し出している。 スーツじゃないところを見ると、会社員ではないのかもしれない。 だとしたら、どんな仕事をしている人なのかと気になったが、聞いても仕方がないのでやめておこう。「なにか揉めてたみたいだけど、結局あの男が振られた、ってこと?」 「まぁ……はい。既婚者だったのがわかって、付き合えないって言ったら逆上されました」 どうして今、私は名前も知らない見ず知らずの人にこんな話をしているのだろうか。 いや、だからこそ逆に話しても平気なのかもしれない。 この先この人と二度と会うことはないのだから。「世の中、見かけによらず変な男もいるから」 「……ですよね」 「気をつけないと、この綺麗な顔に傷ができちゃうよ」 男性が急に、そっと私の左頬に手を添えた。 その部分は、危うく本城に殴られていたかもしれない場所だ。 男性はじっと私を見つめ、親指で私の頬の柔らかさを確認するように滑らせる。「あ、あの……」 私はそれに驚いて、つぶやいたあとにフリーズしてしまう。 添えられた手の温かさとやさしさを感じ、意識すると急速に頬に熱が集まってドキドキとしてきた。「斗夜(とうや)、そのへんでやめとけよ」 私たちを見ていたマスターが、あきれながら男性に声をかけた。 男性は私の頬から手を離し、フフフと笑いながら前を向く。 そんな微笑ですら色気が漏れ出ていることを、自分でわかってはいないのだろう。「コイツね、女たらしの遊び人だから。簡単に引っかかっちゃだめだよ?」 「……はぁ……」 「それに、歯の浮くような恥ずかしいセリフを平気で言うけど、それってコイツの癖みたいなものだから、本気にしないほうがいい」 牽制するかのように、マスターがやんわりとした笑顔で私に忠告をした。「俺たち友
「うるさい! 誰とでも軽々しく寝る女なんだな、お前は!! とんだビッチに引っかかったよ!」 さらに荒々しく豹変した本城を目にし、私は驚きすぎて唖然としてしまう。 こんなに激高するなんて、今は一番最初の穏やかな印象からは想像もつかないほど真逆だから。「どうせほかの男がよくなったんだろ? そうだろ?」「……あの……」「俺よりうまい男がいたのか? このヤリマン!」 凄みのある声を発した本城が、勢いよく私の胸倉を左手で掴んできた。 その瞬間、私は恐怖で息が止まる。 本気で私を殴るかもしれないと直感したそのとき、本城が右手を振り上げた。「はい、そこまで」 拳が振り下ろされる間際に、ひとりの見知らぬ男性が本城の右手を掴んで阻止してくれた。 どうやらお店に来ていたほかの客のようだ。「なんだよお前は! 手を離せ!!」 突然のことに本城は私の胸倉を掴んでいた左手を咄嗟に離したが、右手はまだその男性に捕らわれたままでうろたえていた。「お客様! こちらへ」 私に暴行しようとしていたとわかり、カウンター内にいたマスターが出てきて本城を店の外に連れ出してくれた。 私は掴まれていた胸元を押さえ、ハァハァと息を整える。「大丈夫?」 先ほど助けてくれた男性が、心配して声をかけてくれた。 本気で怖かった。ふと自分の手を見ると、未だに指先が震えている。「……ありがとうございました」「あの男、声が大きいからちょっと聞こえちゃって。いつ止めようかと思ってたんだけど……ごめん」 本城がヒートアップしたあたりから、周りに話が聞こえていたようだ。 ほかの客からすれば私と本城は異様な空気だっただろうなと思う。 恥ずかしいし情けない。 こんなことなら、お気に入りのこのバーで会わなければよかったと後悔した。「あの男はもうここには来られないから」「え?」「出禁になるよ」 男性と少し話をしていると、本城を外に引っ張り出してくれたマスターが戻ってきた。「出禁にしたのか?」「ああ、もちろん。二度と来るなって半分脅しといた。おそらく大丈夫だろう。来ても追い返す」 親密そうに話すふたりのやりとりを、どういう関係なのかと不思議に思いながら聞いていた。「すみませんでした」 申し訳なくなり、頭を下げて丁寧に謝罪すると、マスターは優しい笑みを浮かべて首を横に振ってくれ