週が明けた月曜日、いつもと変わらない日常が始まるはずだった。 だけど朝から営業部には、見慣れない数人の社員があわただしく動いて作業をしていた。 パソコンの導線などをいじっているので、システム部の人間のようだけれど、何事なのだろう。「ねぇ、あれ……どうしたの?」 なにかシステムに不具合でも出たのかと、たまたまそばを通りかかった重森に尋ねてみた。「ん? 社内の連絡メール、見ていないのか?」 「え?」 「本社からひとり、転勤でこっちに異動してくるって連絡が来てただろう? その人のデスクまわりの設備を整えてるらしい」 そう言われれば、先週社内メールが来ていたと思いだした。 うちの営業三課に人員がひとり増えるのかと、メールを流し読んだことだけはなんとなく記憶にある。 どうやら異動日は今日だったようだ。「イケメンだったらいいよね」 フフっとなにかを期待したような笑みをたたえつつ、同じ営業三課の事務で同期の安西史香(あんざい ふみか)が私と重森の会話を聞いて絡んできた。 史香は私と気が合うので仲良くしてくれている。 私が社内で軽い女だと妙な噂を流されても、気にしないで付き合ってくれている奇特な人間だ。「まぁね。目の保養にはなるよね、イケメンは」 私はたいしてそうは思っていないけれど、史香に同調しておいた。 どうせならイケメンのほうがいい、というのは大多数の女子の意見だろう。「あのなぁ、イケメンだったら俺で十分じゃないか?」 重森が私たちに胸を張るように言ってくるのを横目で見て、ありえないとばかりに首をブンブンと横に振り続ける。 重森も世間一般的にはイケメンなので、そこまで否定するほどではないのだけれど、褒めると調子に乗らせてしまうから。「お。お出ましだぞ」 重森が独り言のようにつぶやいて去って行く。 部長に続いて、パリっとした黒系のスーツの男性が営業部に入ってくるのが見えた。 このあとすぐおこなわれる朝礼で紹介されるのだろう。「ほんとにイケメンが来た」 史香から囁かれても反応できず、私は呆然としてしまう。 なにが起こったのか、頭の中で処理が全然追いついていかないのだ。「本日付で本社から異動になった、八木沢(やぎさわ)斗夜くんだ」 朝礼で部長から紹介されて軽く頭を下げたその人は、紛れもなく金曜日にあ
「八木沢 斗夜です。よろしくお願いします」 今はスーツに身を包み、髪をすっきりとセットしているからか、金曜日に会ったときと印象が随分違うので一瞬別人かと思った。 だけど、やさしそうに下がった目元と、“トウヤ”という名前が一致する。同一人物で間違いない。 そういえばこの前会ったとき、転勤でこっちに引っ越してきたとかなんとか話していた気がする。 まさか彼が同じ会社の社員で、しかも私と同じ部署になるなんてと、奇妙な偶然に私は驚きを隠せなかった。「咲羅、見惚れてるの?」 「え……ううん……」 無意識に視線を送ってしまっていた私の反応を見て、史香がニヤニヤしながら話しかけてくる。 もちろん見惚れているわけではなく、驚きすぎて固まってしまっただけだ。 奇跡のような偶然など起きるはずがないので、私は夢でも見ているのかと思わず自分の頬を引っ張ってみる。 ……ありえないけれど、これは現実らしい。 朝礼が終わり、通常業務が始まっても私は半ば放心状態だった。 なかなか仕事が手につかないでいる自分に気づき、反省して気合いを入れる。 とりあえず集中しなければと、パソコン画面を睨みつけた。 なんとかしばらくは気を張っていたのに、それを見事にはねのけるように、男性が私の元へやって来た。「これ、受注もらったから手配お願いできるかな」 八木沢さんは椅子に座る私の隣に立ち、普通に仕事の話をしてきたので顔を上げると、ニヤリと意味ありげな笑みを返された。 向こうも私に絶対気づいていると、今の表情を見て確信した。 彼の顔が、「また会ったね」と暗に言っていたから。「すぐに手配します」 「助かるよ。“サラちゃん”」 やはり彼は私を覚えていた。その上でわざと私をからかっているのだ。「へぇ、“咲羅”ってそういう字なんだ。かわいいね」 彼は突然ぐっと近づいてきて、私が首から下げているネームホルダーを覗き込んでつぶやいた。 私の怪訝な表情に気づいてなのか、彼はにっこりと笑うと踵を返して自分の席へと戻って行く。 ただでさえ気まずいのに、びっくりさせないでほしい。 お昼休みになり、史香にランチという名目で事情聴取をされることになった。「ちょっと咲羅、八木沢さんとどういう関係?」 直球で問われたが、ほとんど知らない相手だし、彼と私はなんの関係もない
「なんかすごく運命的じゃない?」 「……偶然って怖いよね」 勝手に盛り上がる史香とは対照的に、私は溜め息混じりの冷めた口調になった。「咲羅、なんでそんなテンション低いの?」 私としては、ここでテンションを上げる意味がわからない。 最初の出会いが衝撃すぎたから、正直この再会には戸惑いの気持ちのほうが大きい。「八木沢さんは社内で絶対モテると思う。咲羅は最初から一歩リードしてるよ!」 「……リード?」 そう言われても困ってしまう。 彼を見ていると、あのバーでのことが思い出されて、仕事がしづらいのだ。「もしかして、あんなイケメンを狙わないつもり? 向こうも偶然再会した咲羅を意識してるかもしれないのに」 「狙わないよ」 「なんで? 私にわかるように理由を言いなさい」 史香の言葉に素直に従い、自分なりにそれはなぜかと考えてみた。 体型は高身長で筋肉質だからストライクだし、顔はどちらかというと好みのタイプだ。 性格については合わないと決めつけるほど、まだ彼を知らない。「理由はとくにないかな。でも、史香だってあの人に興味ないんでしょ?」 「私は、二課の長谷川さん狙いだもの」 忘れていたけれど、彼女は最近、営業二課の男性社員である長谷川さんにかなりご執心だった。「ちゃんとした彼氏がいればさ、本城みたいな男に引っかからないで済むんじゃないの?」 史香の意見はもっともすぎて、反論の余地はない。 いくらその場の雰囲気に流されたとはいえ、一夜限りでも本城と関係を持ったのは大きな失敗だった。 だからといって、八木沢さんがいいのかどうかはまだわからない。 もちろん、本城と比べたら月とスッポンで、ずいぶんとマシな男性なのは間違いないだろう。 私を助けてくれたとき、ヒーローのように思えたから。 だけど私が一夜限りの男性と修羅場になっている場面を、彼は一部始終見ていたのだし、そんな女性は向こうがお断りのはず。 八木沢さんが転勤してきて一週間が過ぎた。 予想に反して、彼からなにも言ってはこなかった。 会話があるとすれば仕事の話ばかりで、バーで会ったことを微塵も感じさせない彼の態度に、やっぱり人違いだったのかもと疑いたくなってくる。 だけどこの日、私が仕事を終えて帰り支度をしているところに、八木沢さんが静かに歩み寄ってきた
バーに着くと、いつものようにイケメンマスターが「いらっしゃい」と微笑んでくれた。 やはりここの雰囲気は落ち着いているので癒される。 私はいつものようにカウンターに陣取り、ホッと息をついた。「斗夜と会ったんだって? 会社で」 オーダーを取るついでのように、マスターがいきなりそんな話題を振ってきた。 八木沢さんとは友達だから気になったのかもしれない。 マスターのほうから話を切り出されたのが意外だったので、驚いて目が泳いでしまった。 別に挙動不審になる必要はないのに。「あ、……そうなんですよ」 「会社が一緒だったって聞いた。あの日、斗夜は引越しが終わったあと、この店に来てたんだけど、本当にこんな偶然ってあるもんなんだね」 「あははは」 とりあえず愛想笑いをしておいたが、顔は引きつっていただろうと思う。「実は、もうすぐ来ると思います」 「……え?」 「……八木沢さん」 私が少し言いにくそうに名前を出すと、マスターは「そうなんだ」と、にっこり笑った。「斗夜と待ち合わせだったんだ」 「いや、私はそういうつもりじゃないっていうか……」 待ち合わせというよりは彼に呼び出された形なのだと、言い訳をしたくなってしまう。「デートの場所がここでいいの?」 「え? デートではないですよ」 あたふたとする私を見て、マスターは吹き出すように笑った。 どうやら、私はからかわれたようだ。「斗夜はイケメンだしね」なんて、自分もイケメンなのに、マスターは友達を持ち上げていた。 マスターとそんなやり取りをして、少し時間が過ぎたころ、店のドアがおもむろに開いた。「待たせたかな」 慣れた様子で八木沢さんが私の隣に座った。 あの日と違って今日はスーツ姿だから、この前の私服よりもバーの雰囲気に合っている。「急に呼び出して悪いね」 「今日は用事がなかったので構いませんけど」 会社と同じように硬い口調と敬語を使っていたので、それを聞いたマスターが少し驚いたような顔をした。 私たちはただの会社の同僚で、八木沢さんは先輩だから当然のことなのに。「咲羅ちゃんと少し話がしたかったんだ」 だから誰にも誤解させないように、八木沢さんにも私を“白井”と呼んでもらいたいくらいだ。「まさか同じ会社だったなんてね。驚いたよ」 会社ではそんな話は一切
それはモテ自慢なのだろうかと、あきれ笑いしそうになり、私はあわてて顔を引き締めた。「早く解放してくれって思いながらも、その子たちの話に耳を傾けてみたんだ」 モテ自慢のわりには、彼の爽やかスマイルはどこかに行ってしまっていて、苦い顔つきになっている。「そしたら……咲羅ちゃんの名前が出てきた。ほら、俺も営業三課で同じ部署だから」 「なんだ、そういうことですか」 彼が言いにくそうにしている理由がわかってしまった。 きっとその子たちから私の噂を聞いたのだろう。 想像できるのは、悪口のオンパレードだ。「咲羅ちゃんには気をつけろって言われたよ。まったく意味がわからないんだけど?」「はっきり言ってくれていいですよ。私は男遊びが激しいから近寄っちゃダメって?」 「……そんなところかな」 陰で言われそうなことは大体わかっている。 とくに八木沢さんを狙う子にとって、同じ部署の私は邪魔な存在で心配なのだろう。「咲羅ちゃんの評判悪いよね」 八木沢さんはこちらを向き、微妙な顔で苦笑いしているから、少なからず心配してくれているのかもしれない。「そうなんですよ、すごく嫌われちゃってるんです。気にしていないからいいんですけど」 「気にしないのか。やっぱり面白い子だよね。でも……俺は男遊びが激しいようには見えないんだけどな。なんであそこまで言われてるの?」 別に隠すことではないので、私が遊び人だと噂されるようになった経緯を話した。 私が話し終えるまで、八木沢さんは口を挟まずに静かに聞いてくれていた。「それってイジメだよな」 「まぁ……そうですかね」 女の陰険な部分を嫌だと感じたのか、八木沢さんが軽く顔をしかめた。「腹は立たないの?」 「立ちましたけど……向こうの神経を逆撫でするのも嫌だし、黙って無視するのが一番かと」 「でもそれだと、誤解したままの人もいる。せっかくかわいいのに、社内恋愛できないよ?」 かわいいと慰めの言葉をもらえたのはうれしいけれど、たしかに社内で恋愛をするのはもう無理だと私も思っている。 声をかけてくる男性社員は、身体が目的なのかもしれないと私も警戒してしまうので、真剣な恋はきっとできない。 ……そこまで考えたところで、ふと気がついた。 真剣な恋の仕方を、私は忘れてしまっていることに。
「私、真剣な恋のやり方を忘れちゃって出来ないですから……社内で恋愛できなくても別に大丈夫なんです」 今の自分の発言は……すごく枯れている。 今後私はこうやって、徐々に干物化していくのかもしれない。「まさかまた一夜限りの相手でも探すつもり? この前みたいな危ないヤツに引っかかるかもしれないし、やめといたら?」 「私にも学習能力はありますから!」 あんな目にあうのは二度とご免だと、私は咄嗟に眉をひそめた。 もっと男を見る目を養わなければと、今となっては大いに反省している。「それはよかった」 声に出して笑った彼の顔がとても綺麗で、イケメンは得だとつくづく思う。「だけど、彼氏がいないなんてもったいない。咲羅ちゃんはすごく魅力的なのに。良かったら俺と付き合ってみる?」 「おいおい、斗夜!」 八木沢さんは私の髪先をもてあそぶようにサラリと触れ、耳を疑いたくなるような直球すぎる言葉を投げかけてきた。 彼から漏れ出る男の色気が強烈で、私はそれにあてられたのか頭がクラクラしてくる。 しかし、話を遠くから聞いていたマスターが八木沢さんを制止した。 今のは口説かれたのだろうか。 そう考えると、私の心臓の鼓動が自然と早くなっていく。 いやいや、真に受けてどうするのだ。 八木沢さんは歯の浮くようなセリフを平然と言う男だと、前にマスターが教えてくれたのにと、心の中で自分を諭した。「斗夜、軽すぎ」 「いや、咲羅ちゃんなら大丈夫かなって思ったんだよ」 「お前、リハビリはどうしたんだ!」 ……リハビリ? あきれ果てた表情のマスターに対し、八木沢さんはバツが悪そうに苦笑いしていたが、私にはふたりの会話がわからなくてポカンとしてしまう。 とにかく、私を口説いたのはジョークなのだろう。「あ、 咲羅ちゃんも俺と一緒にリハビリしない?」 「リハビリって……私は健康ですから」 「いや、それは俺もそうなんだけどさ」 八木沢さんはなにがおかしいのかクスクス笑っていて、会話がまったくかみあわない。「俺ね、今リハビリ中なの。……恋愛の」 恋愛のリハビリ中とはなんだろう?と、意味がわからないまま彼の話に耳を傾けた。「俺、ちょっと前まで遊び人だったって言ったよね?」 「あぁ……はい」 転勤を区切りに女性との縁を全部切ったと話していた件だ。
「俺は彼女たちのこと全員を好きだと思ってたし、一番とか二番とかなく平等だと思ってたけど。そうじゃなかったのかな、って今となっては思うんだ」 水滴の付いたグラスを持ち上げ、クイっと口に含ませる姿がカッコいいなと、目を奪われてしまった。「好きなようでいて、実は全員に本気じゃなかっただけなのかも……って」 せっかくこれだけカッコいいのに、している話の内容は最低だ。 八木沢さんに泣かされてきた女の子たちを気の毒に思った。「だから、ちゃんと本気で恋愛ができるように、その感覚を変えていきたい。こんな俺でもそうなれるようにしたいんだ」 どうして急にそれに気づき、今までの自分を変えようと思ったのか。 その理由はわからないけれど、八木沢さんは緩慢に笑って自分の思いを話してくれた。「咲羅ちゃんも一緒にリハビリしようよ。真剣な恋のやり方を忘れて出来ないって、さっき言っただろ? 一緒にそういうのを思い出そう」 サークルにでも勧誘するように言われても、二つ返事でうなずいたりできない。「テーマは“純愛”」 純愛……今さらだ。 そんな言葉は、私には似合わなくなってしまっている。「……クサいですね」 正直に感想をのべると、私の言葉が聞こえたのか、あははとマスターの笑い声がした。「俺もそれ聞いたときに最初はなにを言ってるんだと思った。けど、斗夜がそれを望むのは良いことだし、進歩だから」 「はぁ……」「大人になるにつれ、純粋だった頃の気持ちをついつい忘れちゃうもんだよね。適当に気の合った相手とくっ付いたり別れたり。もちろんする事だけはして」 マスターは、一般論を言っているのだろう。 八木沢さんや私のことも含まれているとは思うけれど。「だからね、俺も咲羅ちゃんが一緒にリハビリするのは賛成。ていうか、コイツと一緒にいろいろ考えてやってよ」 八木沢さんに視線を移すと、綺麗な顔でやさしく微笑んでいる。 真剣な恋のやり方を思い出すために、一緒にリハビリするもいいかもしれない。「中学生とか高校生のとき、咲羅ちゃんは彼氏とどんなデートした?」 「なんですか、急に……」 「俺はね、帰りに彼女と一緒にファーストフード行ったりしたな。学生だからね、休みの日に映画に行くので精一杯だったな」 「……私もそんな感じでした」 思い出すと懐かしい。 たしかにあの
*****「あ、それと白井さん、今夜リハビリ第一回目ね」 八木沢さんのデスクのそばで仕事の話をしていたら、彼は一番最後になんでもない口調で爆弾投下をしてきた。 私は内心ドキッと驚きつつ、自分の席へと戻って平然を装う。 バーでのリハビリの話については、私にはなにもデメリットがないようなので、面白そうだから少しだけ参加してみることにした。 仕事と、リハビリと言う名のプライベートは、きちんと分けようと私から提案した。 それなのに、今の奇襲爆弾はルール違反だ。 現代ではスマホという便利なツールがあり、彼にはメッセージアプリのIDを教えてあるのに、これではなんのために連絡先を交換したのかわからない。『リハビリの連絡ならメッセージに送ってください』 私は自分のスマホを操作し、愛想のない至極簡潔な文章を彼に送信した。『レストランを予約しておくよ。食事でもしながらリハビリしよう』 するとすぐさま私のスマホが点滅して、返事が来たことを告げた。 当たり前だが、どうやら彼はメッセージアプリを使えるらしい。 そのあと時間と場所を知らせる連絡が入り、私は仕事を終わらせたあと会社を出た。 指定された場所で少し待っていると、八木沢さんが微笑を浮かべながら颯爽と走り寄ってくる。「悪い、待った?」 この人は会社で見るより、外のほうがカッコよさは引き立っている。 手足が長くてスタイルがよく、色気が溢れ出ているので、これなら放っておいても女性が寄ってくるだろう。 そんなふうに思わず冷静に分析してしまった。「そんなに待ってないよ」 バーでの別れ際、八木沢さんが堅苦しいのは嫌だから、プライベートでは敬語はなしでと言ってきた。 そして、ズレた感覚を自覚することが大切なので、意見があるときはお互いに遠慮なくなんでも話し合うことにした。 考えてみると、私には本音で恋愛を語れる異性の友達がいない。 男性目線ならどう感じるのかと疑問を抱いても、今まで相談できる男性がいなかったので、気軽に聞ける相手ができたのは内心うれしい。「じゃあ、食事しに行こう」 「うん。レストラン?」 「ああ。でも俺、この辺りはよく知らないから、彰(あきら)に聞いたんだ。落ち着いた感じで、雰囲気の良い店はないかって」「……彰?」 「アイ
「本当にごめんなさい」 「謝らないでよ。こんなにすぐに誘う男は相手にしなくて正解。……トウヤ君が好き?」 「……」 率直に問われたけれど、私は頷くことも首を横に振ることもできずに押し黙ってしまう。 黒縁眼鏡の奥の優しい瞳が私を不思議そうに捉えていた。「私、本当に長い間、恋をしていないんです」 「……え?」 私の返事が意外だったのか、戸羽さんは驚いた拍子に小さな声を発した。「合コンに行くこともあっけど、そこで恋人関係になれるような出会いはなくて……」 「うん」「私、ある意味病気なんですよ。病名は“本気の恋の始め方を忘れた病”」 私がおどけるように笑うと、戸羽さんも「長い病名だね」と言って笑みを浮かべた。「実は彼も同じ病気だから、ふたりでリハビリしようって決めたんです」 「……そっか。医者の俺でも治せない病気だね」 「はい。彼は私に重要なことをたくさん教えてくれたように思います。でも……私は彼を好きなのかわからない。これははたして恋なのか、自信がありません」 斗夜とのデートは時間があっという間で、話していて楽しかったし飽きることなく過ごせた。 だけど斗夜が時枝さんと毎日蜜月だった今週は、ずっとモヤモヤとした感情に支配され続け、その正体がわからずに、苦しみ続けた。「もっとシンプルに考えればいいのに」 戸羽さんが空を見上げてしばし考え、私にアドバイスをくれる。「例えば、俺がほかの女の子とデートしても咲羅ちゃんはまったく平気だろうけど。トウヤ君がほかの子とデートしたら嫌だろ?」 「……どうかな」 「じゃあ、ホテルに行ったら?」 「それは嫌です」 斗夜がほかの子を抱くなんて、想像しただけで気持ちが悪くて吐きそうだ。「今、想像しただけで胸が締めつけられたよね? それは立派な嫉妬だよ。好きな証拠だと思うけど?」 そうか、思い出せなかったモヤモヤとした感情の名は…… 嫉妬だ。 急に自分の中で、ストンと腑に落ちた。「やっぱりまだリハビリが必要だね」 「……え?」 「大丈夫。実際にトウヤ君に会えばすぐにわかるよ」 この病は普通の医者では治せないはずなのに、戸羽さんはなんでも治せてしまう神様みたいな人なのかもしれない。「……帰ろうか」 「はい」 駅の改札を抜けたところで挨拶を交わす。互いに乗る電車は反対方向のため、こ
傘はコンビニで買えば済むけれど、そろそろ夕刻なので、帰るにはいいきっかけだと思った。 カフェでお茶をしている間に、雨が土砂降りになったら大変だ。 私の言葉に納得するように、戸羽さんが静かに歩き出す。 だけど自然と私の右手を繋いできて、今までになかった彼の行動にドキっと心臓が跳ねた。 戸羽さんが手を繋ぐのは、意外に思えたから正直驚いた。「あの……」 「カフェじゃなくて、あそこにしようか?」 「……え」 帰るんですよね? と私が声をかけようとしたら、先に戸羽さんが言葉を発した。「あそこなら、外で大雨が降ろうと関係ないよ」 繋いだ手をギュっと強く握られたけれど、私はただ呆然としてしまう。 何かの間違いだ、信じられない、と思う自分がいた。 戸羽さんが示した場所は、―――― ホテルだった。 私は頭の上に雷が落ちたみたいな衝撃を受けた。 温厚そうで知的な戸羽さんに、まさかホテルに誘われてしまうなんて。 時間もまだ十七時にもなっていない夕方だし、酔った勢いでもないのに。「今日は……昼間のランチデートのはずですよね?」 「ああ、うん。でも、誘わないと言ってないよ」 昼間だろうとなんだろうと関係ないだなんて、草食系の戸羽さんには似つかわしくないセリフだ。 だけど、繋いだ手を強引に引っ張って行かないあたりが、戸羽さんらしいと思った。 そこにきちんとした節度があり、理性がある。「あの………ごめんなさい」 私は戸羽さんとはホテルに行けない。 うつむきながらボソリと謝りの言葉を述べる私の手を、戸羽さんは力が抜けたようにゆっくりと離した。 気まずい空気が流れ始めるタイミングで、バッグの中のスマホからメッセージを受信した着信音が鳴る。 無言のままバッグに手を突っ込んで確認すると、送り主は斗夜だった。『今どこにいる?』 斗夜は今日私がデートなのは知っているのに、どうして急にひと言だけ送ってきたのかわからない。 そう思っていたら、またすぐにメッセージが届いた。『大丈夫か? 襲われてないか?』 無機質なスマホに並べられた言葉の羅列が、途端に私の胸を熱くした。 ただ文字を見ているだけなのに、鼻の奥がツンとして、じわりと目に涙が溜まってくる。「ごめんね。俺、ちょっと焦ったみたい」 ふと我に返り、隣で佇む戸羽さん
戸羽さんの金銭感覚はいったいどうなっているのだろうと、心配になってくる。「すみません、今日彼女は機嫌悪いみたいで。またプロポーズするときに、あらためて来ますから」 戸羽さんが穏やかににっこりと笑うと、女性店員の頬がみるみるうちに赤く染まり、「うわぁ」と小さく歓声まであがった。 ……誰が機嫌悪いのだ。いや、それよりも「おめでとうございます」という視線を送られている私は、いったいどうすればいいのか。「もう! 戸羽さん!」 「あはは。面白かったね」 店の外に出た途端に早速抗議してみるものの、戸羽さんは可笑しそうに笑い出だした。 それを見て、あれはわざと芝居したのだと私はようやく気づいた。「最初から買う気はなかったんですね?」 「咲羅ちゃんの好みは知りたいけどね。でも、店員さんの前で堂々と買わない!なんてハッキリ言うわけにもいかないから」 「だからって、プロポーズがどうのって……。今度行ったとき、ご結婚されるんですよね? って聞かれますよ? エンゲージリングとマリッジリングを売りつけられちゃうじゃないですか。そうなっても 私は知りませんからね」 他人事のように私がおどけて言うと、戸羽さんは再び吹き出すように笑う。「その時は……彼女がプロポーズをなかなか受けてくれないことにしようか」 「私が悪者ですか?」 「あははは」 戸羽さんの茶目っ気のある一面を初めて見た。 出会ったときから穏やかでやさしそうだとは感じていたけれど、こんなに冗談を言って笑う人だとは思わなかった。 素直に心の内を言うと、今日のデートは楽しい。 このあと、私は豪華じゃなくてもいいと言ったのだけれど、高そうなランチをご馳走になった。 有名なシェフがいるフレンチレストランで、味もおいしかったし、ラグジュアリーな空間が素敵で優雅な気持ちになれた。 そして、ふらりと大型書店に寄って、並べてある本を見ながらふたりで話した。 こうして少しずつ、相手を知っていくことが大切なのだ。 どんなものに興味があって、普段どんなことをするのか。 そうするうちにだんだんと、人となりがわかっていく。 その結果、必ずしも恋愛感情が生まれるとは限らないけれど、私はずいぶん前からこの過程を飛ばしていた。 相手の中身を見ようとしていなかったのだから、恋愛なんてできるはずがな
ショーケースには煌びやかなリングやネックレスを中心に、ブランドものがずらりと並んでいる。 桁がひとつ違うくらい価格帯に幅はあるものの、どれもこれも高額だ。 そんなふうに、庶民は価格ばかり気にしてしまう。「どれか、お気に召したものはございましたか?」 少し見ていただけだったのに、女性の店員がすかさず声をかけてきた。 その姿は頭のてっぺんからつま先まで隙がなく、私には何時間かけても真似できないと思うほど、全身綺麗に手入れされている。 長いまつげでまばたきをする彼女の完璧な営業スマイルを前に、私も愛想笑いを浮かべた。「お客様は指がとても綺麗でいらっしゃるので、どのリングでもお似合いだと思いますよ」 どう見ても、彼女のネイルのほうが断然綺麗だ。 お好みは? などと問われても困ってしまう。どう転んでも私には買えないから。「あ、大丈夫です。綺麗だから見ていただけで……」 今は目の保養にするしかできないけれど、いつの日か思い切って買えたらいいなと夢を思い描く。 具体的に欲しいものが出来たら、もっと貯金する気持ちも芽生えるだろう。「どうしたの?」 気がつけば戸羽さんが私の真後ろに立っていて、突然声をかけられて驚いた私は心臓が飛び出るかと思った。「な、なんでもないです! 用事が終わったのなら出ましょう」 あわてて戸羽さんの腕をグイっと引っ張ってみるが、彼は足を動かしてくれない。「指輪かぁ。女の子はこういうの好きだよね」 戸羽さんがおもむろにショーケースに近づいて行ってしまい、私たちは再び女性店員の綺麗な笑顔に捕まってしまう。「お客様は指が綺麗でいらっしゃるので……とお話していたのですが、こちらなど私はお似合いかと思います」 「そうですか。人気なのはどの辺り?」 戸羽さんが話に食いついていくのを見て、私は顔が引きつって来た。「今は別のこちらのシリーズになりますね」 「へぇ」 「ピンクサファイアが可愛いと評判なんですよ?」 ついに、女性店員がショーケースの鍵を開けて実物を出してきてしまった。「咲羅ちゃん、嵌めてみたら?」 私は戸羽さんの袖口をそっと引っ張って、待ったをかける。 この流れでは買うはめになってしまうから。「戸羽さん……まさか買う気じゃないでしょうね?」 「ははは」 目の前に店員がいることも忘れ、大
次の日の朝、デートだから髪を巻こうと頑張ってみたけれど、以前ほど上手にできない。 ふと、斗夜と買い物デートをした日の記憶が蘇ってきた。 あの日も自分なりに頑張ってオシャレをして出かけたのを思い出し、この前はもう少しマシに髪が巻けたのに、と鏡の前で眉を寄せながらヘアアイロンと格闘した。 今日の服装は、清楚と上品をテーマに選んでみた。 薄いピンクのブラウスに、白のフレアスカートを合わせ、胸元には小さな石の付いたネックレスをあしらう。 女子アナのように知的さも出たので、自分の中では及第点だ。 五分前に待ち合わせの場所に着くと、戸羽さんもちょうど同時に姿を現した。「咲羅ちゃん」 私に気づいて声をかけてくる戸羽さんは、髪をワックスで遊ばせているせいか、前よりもカッコいい。 今日も相変わらず、黒縁眼鏡の奥から覗く瞳が穏やかで優しい感じがする。「来てくれてうれしいよ」 目を細める戸羽さんを見ながら、私も大人なのでさすがに連絡もなしに約束をすっぽかしはしない、と心に浮かんだ。「どこに行きますか?」 「えっと……ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんだ。実は腕時計の金具が壊れて、修理に出そうかと」 デートなのに所用に付き合わせて悪いと思ったのか、眉尻を下げてこちらを伺う戸羽さんが、少しばかりかわいらしい。「大丈夫ですよ。行きましょう」 私の返事を聞いた戸羽さんに優しい笑顔が戻り、ふたりで時計店を目指して歩き出す。 高級そうなお店の前で戸羽さんが歩みを止めた。 そこは間違っても私が普段フラっと立ち寄ることの出来ない雰囲気を纏った場所だった。 不審者のようにじろじろと店内を見回してしまいそうになったが、自制心でそれをぐっと堪える。 戸羽さんはカウンターの中にいる店員に声をかけ、金具が壊れた腕時計の修理の話を進めた。 待っている間、私はなにをするでもなく店内をうろうろとしていたのだけれど、手垢ひとつなくピカピカに磨かれたショーケースの中に展示されている、存在感のある腕時計がふと目に入ってきた。 別にそれを気に入ったわけではないのだけれど、隣に置かれていたプライスカードの値段を目にし、高すぎて目玉が飛び出た。 ケタを見間違えたかと思ったけれど、450万円だ。 だけどブランドものの時計ならば、それくらいの値段でもおかし
斗夜は去り際になにか言ってから出てきたようで、それは私に関することだと思うから内容が気になってしまう。「なにを言ったの?」 クスっと電話口で思い出し笑いをする史香とは反対に、私はスマホを持つ手がわずかに震えた。『白井さんの噂は彼女をやっかんだ人が言いふらしたんです。あなたは彼女のなにを知ってるんですか? 彼女を傷つけて侮辱するような発言は、例え先輩でも俺は今後一切許しません!……って言ってた』 まるで魂を抜き取られたみたいに、私はボーっと聞き入ってしまった。 喉が急に熱くなってきて、声がうまく出て来ない。『あの時、確信しちゃった。八木沢さんも咲羅が好きなんだ、って』 斗夜が時枝さんに対してそんなことを言ったなんて信じられない。 この一週間、ふたりは蜜月に見えていたのに。『どう考えても咲羅に気があるとしか思えない。あの場に居た人はみんなそう感じてたよ。私の隣にいた重森なんて口があんぐりと開いてたわ。たぶん、八木沢さんには勝てないって思ったんだろうね』 ……違うよ。斗夜は私と同じでリハビリ中だもの。 彼には純粋に心から好きだと思える恋愛ができない欠点がある。 身体の関係にはなれても、相手と本気で心を繋げられないのだ。 今はその欠点を治すためにリハビリをしているのに、私を好きだなんて感情が簡単に芽生えるわけがない。 それは史香が彼をわかっていないだけだと思う。『私は重森だけじゃなくて、八木沢さんも慰めなくちゃいけないのかな? そうなったら重森なんて放っておくけど』 「……へ?」 『だって咲羅は明日の戸羽さんとのデートに乗り気なんでしょ? 重森が肩を落として言ってたよ』 別に乗り気じゃないのに、と私は重森を思い浮かべて口をとがらせた。 どうして史香が誤解するようなことをわざわざ言うのだろう。『明日のデート、どうなったか報告待ってるよ』 史香がフフフと楽しそうに笑い声を漏らす。「戸羽さんは、穏やかでいい人だから……明日いきなりどうにかなることはないと思う。それにね、戸羽さんと恋が出来そうかどうか、ちゃんと見極めたいんだ」 彼がどういう人なのかを理解するところから始めなければいけない。それが心を通わせる第一歩だから。『なんか咲羅……最近、変わったね』 「そう?」 本城との失敗の経験があってから、慎重になろうと
悪く言われたくはないけれど、万人に私を受け入れてもらえるなんて、さすがに思っていないから、私は史香のような人を大切にできればそれでいい。 仲良くできる人は少数でもかまわない。『あの人、咲羅がモテるから妬いてるんだろうね』 「……私、別にモテてないよ」 『自覚症状なしですか』 私を笑わせるために一定のトーンで言葉を発する史香がおかしくて癒される。『重森がさ、今日私に泣きついてきたよ? いくら咲羅を口説いても、デートどころかまったく相手にされないって』 「……は?」 重森と話している内容が自分のことだったなんて思わなかった。 私はどういうことかと、スマホから聞こえる史香の話を集中して聞いた。『明日は他の男とデートするみたいだから、俺はやっぱり脈なしなのか? って、私は延々と愚痴を聞かされたんだから!』 「……そうだったの」 『重森も咲羅と一緒で誤解されやすいみたい。たぶん……あんまり遊んでないよ、アイツ。咲羅のこと、けっこうマジで好きみたい』 ―――― 重森が? そんな、まさかだ。 いつも彼の誘いは、ふわっと飛んで行きそうな綿雲のように軽かった。 なので、そこに少しでも真面目な思いが含まれているなどと、私は考えたこともなかった。 私はもしかして、今まで重森に対してかなりひどい態度だったのだろうか。『重森、八木沢さん、バーのマスター、戸羽さん。これでモテてないなんて言わせないからね? で、結局咲羅は誰にするのよ』 「……え?!」 いきなり四択を迫られても、どこから突っ込んでいいか頭がついていかず、思わず声が裏返った。「ちょっと、なに言ってるの」 『あはは。マスターの話も聞こえてきちゃったもん』 居酒屋での時枝さんの発言を、史香はけっこう漏らさずに聞いていたようだ。 重森と話しながら小耳に挟むなんて、器用だなと感心してしまう。「マスターは全然そんなんじゃないよ」 『そうなの? まぁ、重森は元からないとしても……あとは、八木沢さんか戸羽さんね』 ……あっという間に二択に減った。 史香の言葉で、斗夜と戸羽さんの顔が交互に思い浮かぶ。 バーで戸羽さんと偶然再会して、土曜日にデートの約束をしたことは、史香には翌日の朝にすべて話した。 戸羽さんと今までに会ったのはたったの二回で、ふたりきりでデートするのも明日
斗夜にとって、リハビリ相手である私は必要なくなった。 でもどうして私までリハビリを中止しなくてはいけないのか。 斗夜が辞めるなら、私は違う相手で続けるまでだ。 真剣な恋ができるように、そのやり方を思い出せるようにと、せっかく始めたことなのだから。 リハビリから先に卒業できた斗夜は、以前傷つけてしまった元カノに思いを告げればいい。「誤解だよ。連絡できなかったのは仕事が忙しかったせいだ。それはホントだから」 火曜日に時枝さんとバーに行く時間はあったのに? などと考える私は、意地が悪い。 それを実際に口にしなかっただけマシだけれど。「だから、行くなよ……」 斗夜の瞳がゆらゆらと揺れていて、心配と不安と切なさが入り混じっていた。 だけど私は、それに気づかないフリをする。「行くよ。約束しちゃったもの」 「咲羅……」 私は小さくつぶやいて斗夜に背中を向け、路地裏から表通りに出た。 抱きしめられていたときからずっと、心臓が掴まれたように痛くて、熱い頬が元に戻らない。 人の心をこんなに掻き乱せるのだから、斗夜がモテるのは当たり前だ。 無心になろうとすればするほど、至近距離で囁かれた斗夜の甘い声が耳から離れないままだったけれど、私はそのまま家路を急いだ。 家に帰ってシャワーを浴びた直後に、テーブルの上のスマホが着信を告げていることに気づいた。 私は画面に表示された相手を確認し、人差し指でスライドさせる。『咲羅、今ひとりなの?』 電話をかけてきたのは史香だった。 私がひとりでいるのかどうかなんて、いつもは気にしたことがないのに、なぜ聞くのだろうと思ってしまう。「帰ったんだからひとりだよ」 『そっか。八木沢さんもすぐに出て行ったから……』 私が居酒屋の座敷を出たあと、すぐに斗夜が追いかけて来たから、今もふたりで一緒にいるのかもしれないと考えたのだろう。『大丈夫?』 「なにが?」 『時枝さんが居酒屋できついこと喚(わめ)いてたでしょ。あの人、性格悪そうだもん』 史香の言葉を聞いて、私が抱いた時枝さんのイメージと同じだったことに軽く笑いがこみ上げた。 重森と話し込んでいた史香は、私たちの話は聞こえていないのかと思っていたけれど、最後のほうは時枝さんの声が大きかったから、自然と耳に入ってきたのだろう。「大丈
マスターは私と戸羽さんのことを斗夜に密告したらしい。 物静かな人だと思っていたけれど、どうやらおせっかいな面もあるようだ。「『咲羅ちゃんは草食系だって豪語してるけど、俺にはそう思えない!』って、興奮気味に電話をかけてきた。時枝さんが言ってたこと、あながち間違っていないのかもな」 「え?」 「……彰、咲羅に気があるのかも」 どうして時枝さんの発言を真に受けるのかと、私は腹が立ってしまう。 キュっと眉間にシワを寄せ、不快だと言わんばかりに斗夜を見上げれば、深いブラウンの髪の隙間から覗く瞳と視線が絡んだ。「バカなこと言わないでよ。マスターは単純に私を心配してくれただけでしょ」 「そうかな?」 「そうに決まってる」 斗夜が再び私の背にまわしていた腕の力を強めた。 ギューっと抱きしめられ、自然と斗夜の逞しくて温かい胸板にピタリと密着してしまう。 その行為に、今更私の心臓はドキドキと早打ちを始めた。「今週は時枝さんが来たから思いのほか仕事が忙しくて、連絡出来なくて悪かった。けど……ほかの男とデートってひどくないか?」 「……は?」 斗夜の言葉の意味がまったくわからなくて、なにを言ってるのだろうと、思わず素っとん狂な声を上げてしまった。 どうして私がひどいのだろうか。「なにもひどくないでしょ。私たち、付き合ってるわけじゃないんだから」 「…………」 「それを言うなら、時枝さんをあのバーに連れて行くことないじゃない。ひどいのはどっちよ」 あのバーは、“私たちの隠れ家”なんて言うつもりはないけれど、唯一私がほっこりできる場所だった。 だけど斗夜に気がある時枝さんを招き入れたことで、あの空間の雰囲気を変えられた気持ちになってしまった。「悪かったよ。もうしない」 耳元から響く斗夜の低い声が、脳まで浸透していく。 やさしくて甘い声が聞こえたらなにも考えられなくなって、強く抱きしめられていることに違和感がなくなった。 斗夜の胸板に自分自身が溶け込んでしまいそう。「だから………明日のデートは辞めてくれないか?」 抱きしめられていて顔は見えないけれど、彼はきっと切ない表情をしているのだと声でわかってしまった。「なんで……そんなこと言うの」 このタイミングと体勢を考えたら、その発言はずるい。どうしても期待してしまうから。