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記憶の断片を繋いで 5

Author: 水守恵蓮
last update Last Updated: 2025-04-04 18:06:24

始業時間を過ぎても、夏芽さんはオフィスに来ない。

私は昨日残した仕事の続きをしながら、ソワソワと落ち着かず、何度も腕時計で時間を確認していた。

こんなに長い時間、多香子さんとなにを話しているんだろう。

いや、婚約解消したと言っても、昔からの知り合いなら話すことくらいあるだろう。

そう考え直したものの、それがまた私の胸に引っかかる。

そう言えば、多香子さんの言葉にも、湊さんの名前が出てきたっけ。

彼も昨日、彼女の名前を口走った。

確か、夏芽さんは親族の反対を押し切って……とかなんとか。

夏芽さんに鋭く一喝されて、最後まで聞けなかったけれど……。

「もしかして……婚約解消のこと?」

反対を押し切るということは、夏芽さんが一方的に申し出たということだろうか。

そうだとしたら、やっぱり多香子さんは納得していないのかもしれない。

何度も私を訪ねてくる理由は、そこにある?

でも、いったいどうして――?

さっき彼女が、夏芽さんに、私のことを『あなたの大事な』と言ったことも気になり、仕事の手が完全に止まった。

やっぱり、私……。

何度も巡らした思考を再び働かせた時、コツコツと外からドアがノックされた。

「おはようございます。鏑木です」

そんな声と同時に、静かにドアが開く。

ハッとして、反射的に腰を浮かせた私の視界に、昨日と同じく上質なスーツに身を包み、眼鏡をかけた湊さんの姿が映り込んだ。

彼は室内に一歩踏み出したものの、

「……あれ」

執務机に夏芽さんがいないのを見て、眉根を寄せる。

指先で眼鏡をクッと持ち上げながら、私の方に目を遣った。

「夏芽は?」

短く問われ、慌ててしっかり立ち上がる。

「あの、それが……」

目を逸らし、躊躇いながら切り出した。

湊さんが「ん?」と首を傾げる。

「オフィスに、多香子さんがいらして」

「そうですか。……え?」

涼やかに反応したものの、途中でピクリと眉尻を上げた。

「君、多香子と面識あるのか?」

意外といった調子で問われ、私は頷いて返した。

「実は一度……訪ねて来られたことがあって」

言葉を考えながら答えると、彼は「へえ」と相槌を打つ。

「なるほど。多香子が、ね……」

独り言のように呟き、口元に手を遣る。

目を横に流して思案顔をする彼に、

「湊さん」

私は机に両手をついて、身を乗り出した。

「聞いてもいいですか」

「なんです?」

「昨日仰ってたこと」

「昨日?」

訝しげに聞き返され、私はそっと目を伏せた。

「夏芽さんに止められたことです」

思い切ってそう言うと、彼は合点した様子で 「ああ」と相槌を打つ。

「夏芽と多香子の婚約解消のこと?」

「やっぱり……! 親族の反対を押し切って、って、そのことだったんですね」

一瞬ドキッと心臓が跳ね上がるのを感じ、無意識にそこに手を当てる。

「それは、夏芽さんから一方的にってことですか。でも、昔からの許嫁だったんでしょう? どうして今になって……」

言い募るうちに気が逸り、私の胸はドキドキと加速していった。

「……君、自分のせいだって自覚ないのか」

湊さんが、不審げに質問を挟んでくる。

「っ、え?」

嫌味が滲む辛辣な言い方に戸惑い、私は言葉に詰まった。

「あの、それは……」

「多香子、君を訪ねてきたんだろ? どういう意図があってのことか。想像くらいつくだろ」

意地悪に蔑むような鋭い視線を浴びて、私はひくっと喉を鳴らした。

夏芽さんが、私を好きになったせい……という意味だろうか。

記憶の断片を繋いで到達できる予想に怯み、怖いと思う自分の感覚は、正しいのかもしれない。

私は、忘れたことで、夏芽さんを傷つけている。

それだけじゃなく、忘れる以前に、他にもたくさんの人を――。

そう思うと、失った記憶を取り戻す勇気を持てない。

でも、私一人が逃げていてはいけない。

なんとか気持ちを奮い立たせる。

「私……先週エスカレーターから落ちるという事故に遭って、この一年ほどの記憶を失っているんです」

「え?」

「その間に、私は夏芽さんと関わるようになっていたみたいなんですが、覚えていなくて……」

説明しながら、またしても忘却の罪がひしひしと込み上げてくる。

最後は言い淀んで唇を噛んだ。

湊さんは目を瞠って、なんだか彼には似合わない、呆然とした顔をしている。

「覚えてない? あれだけ鏑木一族を掻き乱しておいて……?」

「掻き乱す? 私が? 何故……」

彼のその言葉に、なにか強い悪意めいたものを感じて、私はドクッと心臓を沸かせながら、恐る恐る訊ねた。

けれど、湊さんはそれには答えてくれず、

「……っ、く」

顔を伏せ、なにかくぐもった声を漏らす。

「へえ……なるほど。そういうことか」

何故か愉快げに、肩を揺らしてクックッと笑う。

「こんな公私混同してまで女を囲い込むなんて、正気の沙汰じゃないと思っていた。夏芽、君に思い出してほしくて必死なんだな」

揶揄するような言い様を、私は首を横に振って否定した。

「そうじゃない。多分……逆です」

「え?」

湊さんが、眉間の皺を深める。

「逆?」

「私が教えてくださいと頼んでも、嘘しかつけないと言って……」

「嘘……」

私の言葉を反芻して、ますます訝しそうに首を捻る。

「あの……私はやっぱり、夏芽さんと……」

覚悟を決めて、直球の質問を口にした時、執務室のドアが静かに開いた。

「黒沢さん、遅くなってすまなかった」

溜め息混じりにそう言って入ってきたのは、もちろん夏芽さんだ。

私は、ハッと息をのんだ。

そのせいで、喉の奥まで出かかっていた質問まで、引っ込んでしまう。

私の目の前で、彼は湊さんに目を留めた。

一瞬ギクッとしたように、その場に立ち尽くす。

けれど湊さんは気にする様子もなく、ふっと薄い笑みを浮かべた。

「おはようございます。本日の分、お届けにあがりました」

瞬時に秘書の顔に戻る彼に、夏芽さんもやや怯んでいたけれど。

「……ああ、ご苦労様」

どこか警戒した様子を漂わせながらも、昨日と同じやり取りをして、書類を受け取る。

「昨日の分の書類も、確かにお預かりいたしました。それでは、私はこれで失礼します」

用件を済ませ、どこまでも丁寧な秘書然として、暇を告げる彼に。

「湊、待て。……彼女となにを話していた?」

夏芽さんは、立ち上がっている私をチラリと見遣りながら、湊さんに低い声で訊ねる。

彼の黒い瞳に射竦められ、私はギクリと身を強張らせた。

呼び止められた湊さんは、わずかに眉尻を上げ、

「黒沢さん。記憶喪失なんだってな」

軽い調子でうそぶく。

「っ……」

夏芽さんが、瞳を揺らして口ごもった。

「それに、多香子が来たって? あいつはこのこと……」

「それを話していて、出勤が遅れた」

ズケズケと言い放つ湊さんを、素っ気ない早口で遮る。

そして。

「湊、俺の質問に答えろ」

先ほどと同じ質問を、威厳を持って繰り返す。

有無を言わせない力が漲る、芯のある声。

私が言われたわけじゃないのに、ビクッと身体が震えてしまう。

だけど、『格違い』とは言え、湊さんは鏑木一族の一人だ。

怯む様子はまったくない。

「黒沢さん。知りたいことがあるようだよ。俺に聞かせず、お前から教えてやるべきだろう。……なにが嘘なのか知らないが」

ふっと鼻で笑って、皮肉めいた一言を返す。それには夏芽さんも、グッと言葉に詰まった。

湊さんはその反応を見届けて、悠然と秘書の顔に戻る。

「それでは、これで。また明日伺います」

恭しく頭を下げ、執務室から出ていく彼を、今度は夏芽さんも止めなかった。

ドアが閉まると、執務室には私と彼二人きりだ。

肌に纏わりつく空気が、なにやら酷く重苦しい。

夏芽さんが突っ立ったままでいるから、私もなんとなく座ることができず、無意味に立ち尽くしていた。

気まずい沈黙を破ったのは、彼の深い溜め息だった。

私は、弾かれたように顔を上げる。

「あの、夏芽さ……」

思い切って呼びかけ、湊さんの言葉に縋って質問を試みようとした。

なのに。

「仕事、始めよう」

夏芽さんは、まるで仕事に逃げるように、自分の執務机に向かう。

「え……」

「業務時間中だ」

湊さんの忠言も、私の質問も受け付けるつもりはないのか、鉄壁なほど頑なにシャットアウトする。

けれど、そう言われてしまうと、食い下がるわけにもいかない。

「……はい」

大人しく返事をして、私は半分脱力気味に、ストンと椅子に腰を下ろした。

それからずっと、昨日以上に仕事に没頭する彼の横顔を気にしてばかりいた。

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  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 4

    翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 3

    重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。「う……」無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。「美雨っ!」天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。私に落ちてくる影。「あ……」一瞬、既視感が走った。だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。「なつ、めさん……」ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。そして、「美雨……」絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。彼の重みに、胸がきゅんと疼く。私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。「ごめんなさい、夏芽さん……」まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。「どうして。どうして、君が謝る」か細い声で、聞き返された。「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」「っ……」「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。『絆される』なんてとんでもない。『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。でも――。「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」何故だろう。今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 2

    どんよりと濁った意識の中――。夏芽さんの声が、耳をくすぐった。『俺の家のことなら、ちょっと揉めるかもしれないけど、心配いらない』その声に、私はぼんやりと目線を上げる。上半身裸で、私を腕に囲い込んだ体勢で、彼が目元を綻ばせてはにかんだ。『でも……鏑木さん』『大人しく、はいって言って。それとも、俺が君をどれほど愛してるか、もっと激しく刻まれたいの?』『! ……はい』『よろしい。……でも、まだ離さないけどね』じんわりとした幸福感に走る、邪魔なノイズ。砂嵐が、ビジョンを遮る。『夏芽さん。今夜は、報告があるんです』続くのは、私のやや緊張した声だった。『その……実はですね。私、妊娠、したみたいで……』恥ずかしそうに、目を泳がせて『報告』する私。私の前にいるはずの、夏芽さんの表情は映り込まない。『困ります……か? それなら、堕ろした方が……』返事をしてくれないから、不安になってそう続ける。それを聞いて、やっと彼が反応を示してくれた。『ごめん! 突然で、実感湧かなくて』慌てたような返事をしながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。『堕ろすなんて、とんでもない。美雨、愛してる。君が俺の子を産んでくれるなんて、夢みたいだ』夢みたい――。初めてこういう関係に陥った時、彼が私を抱きながら口走った言葉が、脳裏を過ぎる。『結婚しよう、美雨』『は、い……』堪らない幸福感に身を委ね、私は彼の腕に両手をかけて、一言、それだけを返した。再び走る、耳障りなノイズ。そして、暗転――。場面は、切り替わっていた。『婚約者がいるのに、私に結婚しようなんて、どうして言えたんですか!?』一転して、不穏な空気。夏芽さんが切羽詰まった顔で、なにか言葉を挟もうとするのを、私は両手で耳を押さえて拒む。『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』私を宥めようと伸びてくる手を払い除けて叫び、なにかを投げつけて踵を返した。『美雨っ……!!』夏芽さんが、弾かれたように床を蹴って走り出す。私は、それを振り切るように駆けて行って――。『あっ……!』エスカレーターを駆け下りる途中で、足を滑らせた。『美雨っ!!』とっさに差し伸ばされた手に縋ろうと、腕を伸ばした。でも、届かない。どんどん遠退いていく。耳に聞こえるのは、ガンガンガンというけたたましい衝撃音。縋る物を見つけられないまま、身体が転がり落ちる。凍りついた顔をした夏芽さんが、小さくなってい

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   幸せのリスタート 1

    病院の正門を出た時、空は夕刻を迎えてオレンジに染まっていた。完全にショートした思考回路が、まだ働き出してくれない。私はぼんやりと足を踏み出した。力を入れたはずの足に、驚くほど神経が通っていない。ふわふわと浮いているみたいで、感覚が覚束ない。それでも、前に進んでいるから、私はちゃんと歩けていたんだろう。そこに、「美雨!」低く鋭い声が、意識に割って入った。私はそれに反応して、緩慢に顔を上げた。「美雨」もう一度、私を呼ぶ声。視界に、こちらに向かって走ってくる夏芽さんが映った。その姿を捉えた途端、なにか熱いものが胸に込み上げてきた。「っ……」せり上がる嗚咽を抑え切れず、私はその場にしゃがみ込んでいた。「美雨……?」夏芽さんの困惑した声が、近付いてくる。「どこか調子悪いか? 病院に行くために早退したって聞いて、驚いて……」そう、彼は室長から私の早退を聞いて、飛んできてくれたのだろう。まだ日の入りを迎えていない空。業務時間中だ。私を支えて立ち上がらせてくれる彼に、私は弾かれたように抱きついた。「っ……美雨?」虚を衝かれた様子で、彼の身体が一瞬強張る。「夏芽さ……私。私……」彼の胸に顔を埋めて、なにを言っているかわからないまま、泣きじゃくった。「どうした? 美雨。ここじゃ人目につくから、早く車に……」肩に置かれた手に力がこもるのを感じながら、私は激しくかぶりを振った。「責任……ですか?」掠れた声で、必死に短い質問を紡ぐ。「え?」「愛してるなんて、嘘。プロポーズを考えてくれたのは……妊娠の責任……?」「……!」くぐもった声でも、ちゃんと彼に届いたのは、頭上で息をのむ気配でわかった。その反応が、私の胸を鋭く貫く。「酷……い。酷い、夏芽さ……」いつかのように、彼を詰った。でも、身体に回る腕を解き、突き放す力はなく、私はがっくりとうなだれた。そして。「……美雨? 美雨っ!」切羽詰まったような声が、何度も私を呼ぶのを聞きながら、意識を失った。

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 9

    多香子さんが帰った後、私は居ても立っても居られず、秘書室長に早退を申し出た。もちろん、病院に行くためだ。いくら彼女に言われたからって、体調が悪いわけでもないし、特段急ぐ受診でもない。また二週間後に次の予約を入れているから、その時でも構わない。でも、落ち着かなかった。こんな気持ちでは、仕事に集中できないし、なにより夏芽さんの前で平静を装うことができない。室長から許可を得て、私は夏芽さんが戻ってくる前にオフィスを出た。うちのオフィスビルから、総合病院までは電車で三駅。平日の午後とは言え、わりと混雑している電車で、私はドア横の狭いスペースに背を預けた。車窓を飛ぶように流れていく景色を、ぼんやりと視界に映す。なにも考えられないほど、思考回路は凍りついているのに、心臓だけが速いペースで打ち鳴っていた。電車を降りて改札を抜けると、ついこの間の土曜日に歩いた道を、病院に向かってやや小走りした。病院に着くと、受診を終えて出てくる人に逆行して、外来棟に入った。午後の外来には、中途半端な時間だ。これから受付をする患者さんは少なく、自動受付機付近は閑散としている。私は受診手続きをして、案内表示を頼りに、足を踏み入れたことのない、産婦人科外来の待合ロビーに進んだ。診察の順番を待つ女性たちが、長いベンチ椅子を埋め尽くしている。私は初診だし、予約もしていない。だから、相当待つことになると覚悟した。だけど、他科とは言え、ついこの間まで入院患者だったせいか、ほんの一時間ほどで私の順番が回ってきた。「こんにちは、黒沢美雨さん。調子はどうですか?」狭い診察室に入ると、白衣を着たわりと若い女医さんが電子カルテから目を外し、椅子を回転させて私に向き合った。「え? あ、あの……」自分でも、受診の目的をなんと言えばいいかわからずにいたから、『調子』を問われて口ごもった。「生理、来ましたか?」そう問われて、ますます戸惑う。「え、えと……?」なんだか、『初診患者』に対する質問じゃない気がする。産婦人科といったら、初診患者は妊娠を疑っているか、旅行を控えて生理周期をずらす薬を処方してもらうか……私にはそのくらいしか考えつかないけど、そのどちらにも、質問がそぐわない気がする。「入院中は、脳外科病棟にお任せしてましたが、情報は共有してもらっています。腹痛もなかったようだし、不正出血の報告もなし。腹部エコーやCT画像か

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 8

    お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 7

    夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。

  • 策士な御曹司は真摯に愛を乞う   乗り越えるべき試練 6

    そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。

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