始業時間を過ぎても、夏芽さんはオフィスに来ない。私は昨日残した仕事の続きをしながら、ソワソワと落ち着かず、何度も腕時計で時間を確認していた。こんなに長い時間、多香子さんとなにを話しているんだろう。いや、婚約解消したと言っても、昔からの知り合いなら話すことくらいあるだろう。そう考え直したものの、それがまた私の胸に引っかかる。そう言えば、多香子さんの言葉にも、湊さんの名前が出てきたっけ。彼も昨日、彼女の名前を口走った。確か、夏芽さんは親族の反対を押し切って……とかなんとか。夏芽さんに鋭く一喝されて、最後まで聞けなかったけれど……。「もしかして……婚約解消のこと?」反対を押し切るということは、夏芽さんが一方的に申し出たということだろうか。そうだとしたら、やっぱり多香子さんは納得していないのかもしれない。何度も私を訪ねてくる理由は、そこにある?でも、いったいどうして――?さっき彼女が、夏芽さんに、私のことを『あなたの大事な』と言ったことも気になり、仕事の手が完全に止まった。やっぱり、私……。何度も巡らした思考を再び働かせた時、コツコツと外からドアがノックされた。「おはようございます。鏑木です」そんな声と同時に、静かにドアが開く。ハッとして、反射的に腰を浮かせた私の視界に、昨日と同じく上質なスーツに身を包み、眼鏡をかけた湊さんの姿が映り込んだ。彼は室内に一歩踏み出したものの、「……あれ」執務机に夏芽さんがいないのを見て、眉根を寄せる。指先で眼鏡をクッと持ち上げながら、私の方に目を遣った。「夏芽は?」短く問われ、慌ててしっかり立ち上がる。「あの、それが……」目を逸らし、躊躇いながら切り出した。湊さんが「ん?」と首を傾げる。「オフィスに、多香子さんがいらして」「そうですか。……え?」涼やかに反応したものの、途中でピクリと眉尻を上げた。「君、多香子と面識あるのか?」意外といった調子で問われ、私は頷いて返した。「実は一度……訪ねて来られたことがあって」言葉を考えながら答えると、彼は「へえ」と相槌を打つ。「なるほど。多香子が、ね……」独り言のように呟き、口元に手を遣る。目を横に流して思案顔をする彼に、「湊さん」私は机に両手をついて、身を乗り出した。「聞いてもいいですか」「なんです?」「昨日仰ってたこと」「昨日?」訝しげに聞き返され、私はそっと目を伏せた。「夏芽さんに止められたことです
その日、夏芽さんはうちの社長とランチミーティングの予定を入れていて、私は何十時間ぶり?と思うほど久々に、彼と別々の時間を過ごすことになった。自分でも『軟禁』と口走ったし、夏芽さん自身もそれを認めた。囚われのお姫様とか、囲い込みとか……私の現状を知る人たちからも、そんな風に言われる始末――。大袈裟だけど、解放感で満ち溢れる。とは言え。『いいか? オフィスから出るな。昼は社食で済ませてくれ』今朝、多香子さんが来ていたせいか、それとも湊さんとの会話のせいか……。より一層警戒心を強めた夏芽さんに、念を押すように言われてしまい、このビルから出られない。私は、秘書室に異動する前に在籍していた営業企画部の同期、峰倉(みねくら)杏奈(あんな)に声をかけた。彼女は美味しいレストラン巡りが趣味で、もっぱら外食派だけど、今日は珍しくお弁当持参とのことで、十二時半に社食前で落ち合うことができた。私がハンバーグ定食のトレーを持って、先に席を取ってくれていた彼女の前に座ると、「美雨がお弁当じゃないって、珍しいね」そう言ってクスクス笑いながら、お弁当の包みを開き出した。私もつられて笑いながら、「そっちこそ」と応じる。「杏奈、外食派なのに」「え?」きょとんとする彼女に、私もパチパチと瞬きを返した。「いつのこと言ってんのよ。私、夏に結婚決まったから、料理の勉強も兼ねて、今年に入ってからずっとお弁当!」「……え」「え、って。美雨には結婚式参列してほしいって伝えた時に、お弁当頑張るって話したじゃない」忘れたわけじゃないでしょうね、とやや憤慨して言われて、私は慌てて取り繕った。「ご、ごめん。そうだったよね……」別の部署にいる杏奈には、私の記憶喪失はもちろん、一週間入院していたことも伝わっていない。事情を知らない人と話すのはこれが初めてだから、私は今さら、自分にこの一年の記憶がない事実を痛感した。なんとも浦島な気分……今まで、ほとんど夏芽さんと二人だったから、人との間で初めて感じた。「もうっ」ランチボックスの蓋を開け、箸を取る彼女に、『相手は誰?』なんてとても聞けない。私の記憶の中の杏奈に、付き合ってる人はいなかった。となると、この一年ほどの間で知り合った人で、わりとスピード婚なのだろう。失ったのは、たった一年の記憶。大人になってからの一年なら、普通の生活にそれほど支障があるわけじゃないと思ってた。心配を
杏奈とランチタイムを過ごし、私に『彼』がいたことを知ってからずっと、夏芽さんに聞きたいことがあった。終業時刻を待つ間に、やっぱり私の思い過ごしじゃないかとか、今朝の破廉恥な夢に続き、夏芽さんが私の彼だなんて、白昼夢でも見てるんじゃないかとか……とにかく、あまりにおこがましい気がしてきて、帰りの車でも食事中も、切り出せなかった。そうして、温めてしまった疑問。どんなに再考しても、一度自分で出した『推論』は理にかなっていて、覆らない。午後十一時。私は入浴を終え、後は寝るだけになって、上に続く螺旋階段を一段ずつ踏みしめるように昇った。視界に広がる暗い廊下には、ドアが二つ。手前のドアの細い隙間から、明かりが漏れている。きっと、書斎だろう。もちろん、今、夏芽さんはそこにいる――。私は意を決してドアの前に立った。「夏芽さん」グッと握った拳で、コツコツと二回ドアを叩く。返事はない。その代わり、微かな物音が聞こえて、内側からドアが開いた。「黒沢さん……? こんな時間に、どうした?」ラフな部屋着に、無造作な髪。眼鏡をかけた夏芽さんが、やや戸惑った顔で立っていた。もう何度目かのリラックススタイルに、私の胸はほとんど条件反射で跳ね上がる。「すみません。お仕事の邪魔なのはわかってますが……少し、お話したくて」鼓動の反応を誤魔化すように、言葉を繋いだ。頭上から、「え?」と困惑した声が降ってくる。「邪魔ではないけど……今から?」夏芽さんの反応も、もちろんよくわかる。同居しているとは言っても、こんな時間に部屋を訪ねること自体、非常識で軽はずみだ。でも、一晩置いてしまったら、きっとまたいろいろ考えて聞けなくなる。「お願いします」きっぱりと告げると、夏芽さんはわずかに目を泳がせた。逡巡する様子を見せたけど、小さな溜め息をつく。「どうぞ。入って」大きくドアを開けて、私を室内に誘ってくれる。「ありがとうございます」緊張感を強めながら彼の前を通り過ぎ、書斎に足を踏み入れた。わりと広いデスクと、壁一面の大きな書棚が目立つ。『書斎』と呼ぶに相応しい、八畳ほどの部屋だ。書棚には経済書に法律書、経営情報誌がぎっしりと並んでいる。日本語だけじゃなく、英語、フランス語、ドイツ語……タイトルだけだと、私にはなんの言語かわからない本も揃っている。さすが、世界的大企業グループ、鏑木コンツェルン一族の御曹司。やっぱりすごい人
螺旋階段の上、廊下の奥のドアは、やはり夏芽さんの寝室だった。部屋の真ん中に悠然と置かれた大きなダブルベッドが、一番に視界に入る。眠るためだけの部屋だ。その他には、小さなサイドテーブルと作りつけのクローゼットがあるだけ。夏芽さんに腕を強く引っ張られて、半分よろけながら室内に足を踏み入れた私は、ドキッと鼓動を弾ませた。初めてこの家に来てリビングを眺めた時と同じ既視感が、今ここでも胸を掠める。リビングだけじゃなく、どうして寝室にまで見覚えが……。戸惑いながらも、つい先ほどの夏芽さんの言葉で説明がつく。私は彼と恋人関係になって、きっと、幾度となくこの家を訪れていた。その中で寝室に誘われ、このベッドで、彼と何度も――。「っ……」一瞬、今朝の淫らな夢が脳裏を過ぎって、私は思わず息をのんだ。と、同時に、「美雨」後ろから強く抱き竦められて、ビクッと身を震わせる。ほどよく筋肉質の太い腕が、私の肩口に回されている。「あ」私が既視感に戸惑う間に、夏芽さんはTシャツを脱いでいた。彼の体温が背中から伝わってきて、私の心臓はドッドッと力強いリズムを刻み始める。「あ、あの。夏芽さ……」強すぎる心拍が怖い。抱擁を解こうと身を捩ると、彼が私の正面に回ってきた。抵抗する隙もなく、あっさりと唇を奪われる。「っ……ふ、うん……」すぐに舌を搦め取られ、私は鼻にかかった甘い声を漏らした。『俺の身体には……君を抱いた時の反応も声も……嫌ってほど刻みついてる』今の、こんな私も?夏芽さんにすべて刻み込まれているのかと思うと、堪らなく恥ずかしい。思わず、彼の両腕にギュッとしがみついていた。ほんの少し離れた唇の先で、夏芽さんがふっと吐息を漏らす。「可愛い、美雨」とびきり優しく微笑みながら、そんなことを言われたら、心臓が壊れそう。胸がきゅんと疼いて締めつけられ、苦しい。「君はいつもそうだ。こんなに可愛いのに酷く淫らになって、無自覚に俺を誘惑する。……ベッドの君は、悪い女」どこか楽しげに目を細め、夏芽さんは私をゆっくりベッドに押し倒した。「そんな、酷っ……んっ、あっ……」寝間着の裾から、大きな筋張った手が滑り込んでくる。焦らすように肌をなぞった後、胸の膨らみを持ち上げるようにして、すっぽりと包む。「や、んっ」「美雨。乱れろ。もっと魅せて」ほんの一瞬、彼の澄んだ黒い瞳に、獰猛な肉食獣みたいな光が射すのを見て、私はゾクッと身
翌、早朝。夏芽さんはいつもより少し遅めにベッドから起き出し、習慣にしているジョギングに出ていった。トレーニングウェアを身に着ける微かな音を、私はベッドの中でうとうとしながら聞いていた。彼の気配が消えてから、緩慢な動作でベッドを下りる。部屋着姿でキッチンに立ち、彼が戻ってくるのを待ちながら、朝食の準備を始めた。鍋の中で沸々と水面を揺らす味噌汁を、菜箸を持ったままぼんやりと見つめる。『俺と君は、恋人にはなれていなかった』昨夜の夏芽さんの言葉が、頭の中をグルグル回っている。待って。そんなの、意味がわからない。だって、夏芽さんが言った通り、記憶は失っても、私の身体は彼を覚えていた。それはもう疑いようもない。夏芽さんが時折切なげで寂しそうな目をするのは、『恋人』の私が彼を忘れてしまっているから――。他のすべてのことでも説明がつくし、私自身納得するしかない。そう思ったのに……。「恋人じゃないって。それじゃ、私……」――付き合ってもいない人と、身体の関係に?胸に湧いてくるのは、自分への嫌悪感。「っ……!」なのに同時に、昨夜の熱く激しい行為が、脳裏に蘇った。お腹の奥の方がきゅんと疼く感覚に煽られ、私はビクッと身を震わせる。と、その時。後ろから伸びてきた太い腕が、私の腰に巻きついた。「ひゃっ……!?」グッと引き寄せられ、心臓がドッキンと飛び上がるほど驚く。条件反射で振り返ると、首にタオルをかけた夏芽さんがすぐ背中に立っていた。「な、なつ……!」いつの間に、ジョギングから戻っていたんだろう。すぐ背後に立たれても、全然気配に気付かなかった。「おはよう、美雨」私の肩に顎をのせてくるから、鼻先が掠めてしまうほどの近距離。つい一瞬前まで、夏芽さんとは恋人じゃないことで頭の中をいっぱいにしていたから、私はこの距離感にも戸惑ってしまう。「お、おはよう、ございます」目を伏せ、顎を引いて間隔を保ち、朝の挨拶を返すのが精いっぱいだ。だけど、夏芽さんは気にする様子はなく、ひょいと肩越しに私の手元を覗き込む。「なあ、美雨。それ、随分沸騰してるけど、正しい?」「っ、え?」『それ』と言われて、なにを『正しい?』と問われているのか一瞬わからず、彼と同じ物に目を落とした。「俺、料理しないからわからないけど。うちの料理長が、味噌汁は沸騰させちゃいけないって言ってたの、聞いたことが……」「あ、あああっ!!」私は、夏芽
夏芽さんの車で出勤するのも、今日で三日目。私を助手席にエスコートしてくれた彼が、フロントを回って運転席に着くのを待って、「あの」思い切って声をかけた。「ん?」シートベルトを引っ張って、カチッと音を鳴らして締める彼に、ほんの少し身を乗り出す。「夏芽さん……今日のお昼は、特にご予定なかったですよね?」「? ああ」夏芽さんは特段考える素振りも見せず、軽い調子で答えてくれた。エンジンの駆動音が響く中、私は膝の上に置いた手提げの紙袋の取っ手を、無意識にぎゅっと握った。「実はお弁当作ってあるんです。夏芽さんの分も」「……え?」車をゆっくり発進させてから、彼がこちらをチラッと見遣る。「私……夏芽さんに、まだ返事できてなかったかもしれないけど……私が作ったお弁当を一緒に食べながら、休憩時間を過ごしたりは、してましたよね……?」彼の横顔に、遠慮がちに探ってみる。駐車場内を徐行運転する夏芽さんは、フロントガラスの方を向いたまま。ほんの少し逡巡してから、左手をハンドルから離し、顎を撫でた。「思い出した……わけじゃないのか」「すみません。私昨日、会社の同期とランチして。その時、誰にも内緒で、一緒にお弁当食べるような『彼』がいたことを聞いて」「その相手が、俺だと?」「他に、考えられません」即答で畳みかけると、夏芽さんはふっと苦笑した。「忘れてるくせに。どうして自信もって答えられるんだか」どこか皮肉気な返しには、私も一瞬グッと詰まる。だけど、彼の方に身体を向けて、グッと胸を張ってみせた。「タイミング的にも、他の状況からも。私にそんな相手がいたなら、夏芽さん以外に心当たりはありません」「………」「私、昨夜からずっと考えてました。その……ちゃんと恋人になってないのに、夏芽さんとあんな関係になった理由」さすがに、『身体の関係』とは言いづらくて、思わず目を泳がせる。黙って聞いていた彼が、わずかに口角を上げた。「セフレ関係……ってこと?」歯に衣着せずにズバッと言われて、私はカッと頬を染めた。夏芽さんは、そんな私を視界の端で確認して、軽く肩を竦める。「デリカシーなかったな。ごめん」素っ気ない謝罪には、勢いよく首を横に振って応えた。今度は少しムキになって、グッと顔を上げる。「正直、自分が信じられない……って気持ちが強いです。でも、自分のことだからわかる。私が夏芽さんの気持ちに返事ができなかったのは、鏑木の
『恋人』になってからも、夏芽さんによる『軟禁』は変わらない。自分のマンションに戻るのは許してもらえると思ったのに、『恋人同士なのに、わざわざ別々に暮らす必要がどこにある?』と真顔で返され、思わず私まで返事に窮してしまった。『ずっとここにいろ、美雨。毎晩ベッドで愛でるにも、一緒に住んでいる方がいろいろと都合がいい』ただでさえ色っぽい人が、意図的に色気を出してそんなことを言うと、その破壊力は半端じゃない。結局いいように丸め込まれ、強引で不遜な命令で始まった同居生活も、すでに丸二週間経過。もはや、何故同居することになったのか、その理由さえ曖昧になっていた。確か、私に余計な情報を与える、よからぬ人間が接触するのを阻止するため、だった気がする。夏芽さんが言う、『よからぬ人間』が多香子さんなのは明白だ。実際、彼女は私が仕事復帰したと知って、オフィスビルまでやって来た。あれ以来見かけてないけど、夏芽さんはまだ警戒を解かない。だからこそ、私の中から、不可解な思いは消えない。私が、彼と出会い関係を持つようになっていたことを『知った』今も、『余計な情報』がなにかあるんだろうか――。こういうことを考え込むのは、いつも決まってベッドに入ってから。そしてたいてい、後からベッドに来る夏芽さんによって、一人きりの瞑想タイムは阻まれる。今夜も例に違わず……。
「……寝ちゃった?」「ひゃ、んっ……!」恋人になって以来、私が自室として使わせてもらっている、客間のベッドで眠ることはなくなった。もちろん、夏芽さんから、『これからは、毎晩俺のベッドにおいで』と、お誘い……いや、有無を言わせぬ命令があってのこと。彼はだいたい日付が変わる頃まで仕事をしていて、ベッドに入るのは十二時半くらい。私は先に休ませてもらってるけど、彼は私が寝てるかどうか確認しながら、後ろから抱きしめてくる。今みたいに反応を返してしまうと、早速胸元に手を挿し込んできて……。「あ、んっ……! 夏芽さんっ」「明日、休みだし。……シよ?」耳を唇で甘噛みしながら、しっとりとした艶めいた声で誘惑する。一応私の意思を確認するような言い方だけど、拒否権を行使できたことはない。と言うか、私が胸と耳が弱いことを知り尽くしていて、真っ先に攻め込む夏芽さんは、絶対策士だ。抵抗どころか、最初から甘い感覚に痺れて、身体が戦慄いてしまう。「や、夏芽……」「美雨、こっち向いて。キスしたい」「ん、んんっ……」肩越しに覗き込むようにキスされながら、弱く敏感なところを捏ねられたら堪らない。こうして私は、ほとんど無抵抗のまま彼の手に暴かれ、淫らでいやらしい女にされてしまうのだ。本当は、夏目さんが私に『教えたくないこと』がなんなのか聞き出したいのに、彼に愛される今の幸せ以外、他のことはどうでもよくなってしまう――。
私は、彼の広い背中を追いかけた。その後――。夏芽さんは一ヵ月ほどうちの会社で執務を続け、三月の年度末をもって本来のオフィスに戻っていった。それに伴い、私も役員秘書業務復帰を果たした。私の記憶は、夏芽さんとのことを除くと、全面的に取り戻せたのか、判断も難しい。でも、自分なりに感覚は戻ったと思うから、復帰できてとても嬉しかった。新年度が始まり、夏芽さんとオフィスで過ごす時間はなくなった。でも、以前と同じように、私が作ったお弁当を一緒に食べながら、ランチタイムを過ごすことはできる。そして、家では、もっと甘い時間を……。週末を迎える金曜日の夜。先にベッドに入った私の肩を、夏芽さんが軽く揺さぶった。「みーう。寝たふり。バレてるけど」くくっとくぐもった笑い声が降ってくる。と、次の瞬間、強引に身体を上に向けられ、唇に熱いキスが落とされた。「んっ……! 夏芽さんっ……」条件反射でバチッと目を開けると、瞳いっぱいに反則なほど綺麗な顔が映り込む。夏芽さんが、薄く半分開けた目で、私の反応を一から十まで観察している。そんな彼に、ドクッと心臓が沸く音がした。「ん、ふうっ……あっ……」彼曰く、『無自覚に煽る声』が、私の耳をも犯す。でも、私に言わせれば、こういう甘いキスをいけしゃあしゃあと仕掛けてくる夏芽さんのせいだ。執拗に絡められる舌。キスだけなのに身体の芯が熱くなり、火照る。解放されても、とろんと潤んだ目で、離れていく唇を追いかけてしまう。夏芽さんは、少しルーズなシャツの襟をたわませているから、私の視界には彼の引きしまった胸がチラチラ覗く。「なつ、めさ……」「美雨。改めて……これ、そろそろ受け取ってくれる?」彼は、胸の小さなポケットから、指先でなにか摘まみ上げた。私の左手を取って、それを薬指に滑らせる。「え? あ……」そこにずっしりと感じる、上品な重み。私は左手を顔の上に掲げ、そこに戻ってきたエンゲージリングを見て、ドキッと胸を弾ませた。「俺と、結婚してください」ストレートなプロポーズに、またしても跳ね上がる鼓動。「ちょ、ちょっと待って」私はベッドに肘をつき、中途半端に上体を起こした。「でも、あの……多香子さんは?」私を腕の中に囲む彼を、上目遣いで探る。夏芽さんが、ふっと目尻を下げて微笑んだ。「新しい縁談が、順調に進んでるらしいよ?」「……えっ!?」私はギョッと目を剥いて、何度も瞬きを
翌朝、私は夏芽さんが目を覚ます前にベッドを抜け出した。自室として借りている客間に降り、退院した時着ていたニットとスカートを手に取る。三月……。真冬の服は、ちょっと重苦しい季節を迎えようとしているけど、早朝であればそうおかしくもない。手早く身に着け、簡単に身支度をする。紙袋に荷物を纏めると、私は夏芽さんの家を出た。早春の早朝、空気はひんやりと冷たい。昨日思い出した記憶で飽和状態の思考回路には、いい刺激になる。あれですべての記憶を取り戻したわけじゃないだろうけど、私の心は十分混乱していた。夏芽さんの愛情も熱情も本物だとわかるからこそ、一度、彼と離れるべきだと考えた。彼といると、まともに考えることができなくなるほど、愛されてしまう。焼き切れそうな思考回路を、一度しっかり冷却して、彼に向き合いたい。だから今は、これ以上、夏芽さんと一緒に暮らしていてはいけない。会社の行き帰りも、送迎してもらってはいけない。仕事も、少しずつでいい、これまでの役員秘書業務に戻してもらえるよう、室長に話してみようと思っていた。夏芽さんもリモートワークをやめて、本来のオフィスに戻ってもらわねば。そう。一度、全部もとに戻そう。まだ取り戻せていない記憶を、のんびりゆっくり自分の中に探す、そんな時間が私には必要だ。始発から間もない駅は人も疎ら。私が一人暮らしをしている街までは、ここから電車で三十分ほどかかる。並びに誰もいない座席に座り、手すりに凭れかかってウトウトしていたら、いつの間にか最寄り駅に運ばれていた。駅からは、徒歩十分。この三週間ほど、夏芽さんのゴージャスなタワーマンションで視覚が麻痺したせいか、私には相応しい小ぢんまりしたワンルームマンションが、なんとも貧相に映る。それでも、気を取り直す。贅沢に慣れてしまった自分を、戒める。まずはここで、本来の生活を取り戻さないことには、なにも始まらない。マンションのエントランスに進もうとして、無意識にバッグに手を突っ込んだ。バッグの中、いつも家の鍵を入れているポケットを手探りして……。「……あ、あれ?」キーリングをつけた鍵が、見つからない。「え? え?」私は通りに立ち尽くしたまま、バッグを顔の高さに持ち上げた。ほとんど顔を突っ込む勢いで、中を覗き込む。だけど、鍵は見当たらない。「ない。……どこ?」最後に手にしたのがいつか、私の頭に記憶はない。入院中も退院し
重い目蓋を持ち上げると、視界に映ったのは見慣れた天井だった。身体が心地よく沈み込む、夏芽さんのダブルベッド。ぼんやりした意識下でわかるほど、身体に馴染んでしまった。「う……」無意識に、唇から小さな呻き声が漏れる。すると、すぐ傍らで、ハッとしたような気配がした。「美雨っ!」天井から降り注ぐ、眩しい灯りを遮る大きな身体。私に落ちてくる影。「あ……」一瞬、既視感が走った。だけど、潜在意識が働いて見せる、真っ暗な記憶ではない。記憶を失った私が、病院で初めて目覚めた時と同じ――。あの時も、夏芽さんはそばに付き添って、私の覚醒を待ってくれていた。「なつ、めさん……」ぼんやりしながら、自分でも確かめるように、彼の名前を口にする。夏芽さんは声を詰まらせて、身を乗り出してくる。そして、「美雨……」絞り出すような声を漏らして、私をぎゅうっと抱きしめた。彼の重みに、胸がきゅんと疼く。私は、広い背中に腕を回しながら、たった今まで見ていた夢――いや、記憶を心に深く繋ぎ留めた。「ごめんなさい、夏芽さん……」まだ覚束ない意識の中で、私は彼に謝罪をした。私を抱く彼の腕が、ビクッと震える。「どうして。どうして、君が謝る」か細い声で、聞き返された。「私が……身の程知らずに、夏芽さんとの恋に有頂天になったりしたから」「っ……」「お弁当の卵焼き。つまみ食いされて。『美味しい』って言われて浮かれて、『夏芽さんの分も作って来ましょうか?』なんて恋人気取り……」独り言みたいに呟きながら、私の脳裏にはその時の光景が浮かび上がっていた。夏芽さんと出会って、二ヵ月ほどの頃だ。私は彼にぶつけられる想いに戸惑いながらも、ゆっくり心を通わせるようになっていた。『絆される』なんてとんでもない。『恋人にはなれないままだった』なんて、絶対違う。私は、自分は夏芽さんには相応しくないと思いながらも、彼に愛される悦びに溺れていた。ちゃんとちゃんと『恋人』として、夏芽さんと一緒に過ごしていた。でも――。「私は、多香子さんを傷つけてたんですね……」私の首筋に顔を埋めた夏芽さんが、耳元でハッと息をのんだ。「あの時……多香子さんの存在すら知らずに、困惑するだけだった私に、彼女の方が傷ついた顔をしました」何故だろう。今まで全然思い出せなかったのに、今、目を閉じただけであの時の多香子さんが網膜に浮かび上がる。「それは……美雨のせいじゃない。許嫁
どんよりと濁った意識の中――。夏芽さんの声が、耳をくすぐった。『俺の家のことなら、ちょっと揉めるかもしれないけど、心配いらない』その声に、私はぼんやりと目線を上げる。上半身裸で、私を腕に囲い込んだ体勢で、彼が目元を綻ばせてはにかんだ。『でも……鏑木さん』『大人しく、はいって言って。それとも、俺が君をどれほど愛してるか、もっと激しく刻まれたいの?』『! ……はい』『よろしい。……でも、まだ離さないけどね』じんわりとした幸福感に走る、邪魔なノイズ。砂嵐が、ビジョンを遮る。『夏芽さん。今夜は、報告があるんです』続くのは、私のやや緊張した声だった。『その……実はですね。私、妊娠、したみたいで……』恥ずかしそうに、目を泳がせて『報告』する私。私の前にいるはずの、夏芽さんの表情は映り込まない。『困ります……か? それなら、堕ろした方が……』返事をしてくれないから、不安になってそう続ける。それを聞いて、やっと彼が反応を示してくれた。『ごめん! 突然で、実感湧かなくて』慌てたような返事をしながら、ぎゅうっと抱きしめてくれる。『堕ろすなんて、とんでもない。美雨、愛してる。君が俺の子を産んでくれるなんて、夢みたいだ』夢みたい――。初めてこういう関係に陥った時、彼が私を抱きながら口走った言葉が、脳裏を過ぎる。『結婚しよう、美雨』『は、い……』堪らない幸福感に身を委ね、私は彼の腕に両手をかけて、一言、それだけを返した。再び走る、耳障りなノイズ。そして、暗転――。場面は、切り替わっていた。『婚約者がいるのに、私に結婚しようなんて、どうして言えたんですか!?』一転して、不穏な空気。夏芽さんが切羽詰まった顔で、なにか言葉を挟もうとするのを、私は両手で耳を押さえて拒む。『酷い、大っ嫌い! もう私に近付かないで』私を宥めようと伸びてくる手を払い除けて叫び、なにかを投げつけて踵を返した。『美雨っ……!!』夏芽さんが、弾かれたように床を蹴って走り出す。私は、それを振り切るように駆けて行って――。『あっ……!』エスカレーターを駆け下りる途中で、足を滑らせた。『美雨っ!!』とっさに差し伸ばされた手に縋ろうと、腕を伸ばした。でも、届かない。どんどん遠退いていく。耳に聞こえるのは、ガンガンガンというけたたましい衝撃音。縋る物を見つけられないまま、身体が転がり落ちる。凍りついた顔をした夏芽さんが、小さくなってい
病院の正門を出た時、空は夕刻を迎えてオレンジに染まっていた。完全にショートした思考回路が、まだ働き出してくれない。私はぼんやりと足を踏み出した。力を入れたはずの足に、驚くほど神経が通っていない。ふわふわと浮いているみたいで、感覚が覚束ない。それでも、前に進んでいるから、私はちゃんと歩けていたんだろう。そこに、「美雨!」低く鋭い声が、意識に割って入った。私はそれに反応して、緩慢に顔を上げた。「美雨」もう一度、私を呼ぶ声。視界に、こちらに向かって走ってくる夏芽さんが映った。その姿を捉えた途端、なにか熱いものが胸に込み上げてきた。「っ……」せり上がる嗚咽を抑え切れず、私はその場にしゃがみ込んでいた。「美雨……?」夏芽さんの困惑した声が、近付いてくる。「どこか調子悪いか? 病院に行くために早退したって聞いて、驚いて……」そう、彼は室長から私の早退を聞いて、飛んできてくれたのだろう。まだ日の入りを迎えていない空。業務時間中だ。私を支えて立ち上がらせてくれる彼に、私は弾かれたように抱きついた。「っ……美雨?」虚を衝かれた様子で、彼の身体が一瞬強張る。「夏芽さ……私。私……」彼の胸に顔を埋めて、なにを言っているかわからないまま、泣きじゃくった。「どうした? 美雨。ここじゃ人目につくから、早く車に……」肩に置かれた手に力がこもるのを感じながら、私は激しくかぶりを振った。「責任……ですか?」掠れた声で、必死に短い質問を紡ぐ。「え?」「愛してるなんて、嘘。プロポーズを考えてくれたのは……妊娠の責任……?」「……!」くぐもった声でも、ちゃんと彼に届いたのは、頭上で息をのむ気配でわかった。その反応が、私の胸を鋭く貫く。「酷……い。酷い、夏芽さ……」いつかのように、彼を詰った。でも、身体に回る腕を解き、突き放す力はなく、私はがっくりとうなだれた。そして。「……美雨? 美雨っ!」切羽詰まったような声が、何度も私を呼ぶのを聞きながら、意識を失った。
多香子さんが帰った後、私は居ても立っても居られず、秘書室長に早退を申し出た。もちろん、病院に行くためだ。いくら彼女に言われたからって、体調が悪いわけでもないし、特段急ぐ受診でもない。また二週間後に次の予約を入れているから、その時でも構わない。でも、落ち着かなかった。こんな気持ちでは、仕事に集中できないし、なにより夏芽さんの前で平静を装うことができない。室長から許可を得て、私は夏芽さんが戻ってくる前にオフィスを出た。うちのオフィスビルから、総合病院までは電車で三駅。平日の午後とは言え、わりと混雑している電車で、私はドア横の狭いスペースに背を預けた。車窓を飛ぶように流れていく景色を、ぼんやりと視界に映す。なにも考えられないほど、思考回路は凍りついているのに、心臓だけが速いペースで打ち鳴っていた。電車を降りて改札を抜けると、ついこの間の土曜日に歩いた道を、病院に向かってやや小走りした。病院に着くと、受診を終えて出てくる人に逆行して、外来棟に入った。午後の外来には、中途半端な時間だ。これから受付をする患者さんは少なく、自動受付機付近は閑散としている。私は受診手続きをして、案内表示を頼りに、足を踏み入れたことのない、産婦人科外来の待合ロビーに進んだ。診察の順番を待つ女性たちが、長いベンチ椅子を埋め尽くしている。私は初診だし、予約もしていない。だから、相当待つことになると覚悟した。だけど、他科とは言え、ついこの間まで入院患者だったせいか、ほんの一時間ほどで私の順番が回ってきた。「こんにちは、黒沢美雨さん。調子はどうですか?」狭い診察室に入ると、白衣を着たわりと若い女医さんが電子カルテから目を外し、椅子を回転させて私に向き合った。「え? あ、あの……」自分でも、受診の目的をなんと言えばいいかわからずにいたから、『調子』を問われて口ごもった。「生理、来ましたか?」そう問われて、ますます戸惑う。「え、えと……?」なんだか、『初診患者』に対する質問じゃない気がする。産婦人科といったら、初診患者は妊娠を疑っているか、旅行を控えて生理周期をずらす薬を処方してもらうか……私にはそのくらいしか考えつかないけど、そのどちらにも、質問がそぐわない気がする。「入院中は、脳外科病棟にお任せしてましたが、情報は共有してもらっています。腹痛もなかったようだし、不正出血の報告もなし。腹部エコーやCT画像か
お昼の休憩中、夏芽さんが座っていたソファを多香子さんに勧めて、私はコーヒーを淹れた。ローテーブルにソーサーとカップ、ティースプーンを置いて、彼女と向かい側のソファに回って腰を下ろす。「ありがとう。いただきます」多香子さんはそう言って、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。綺麗なネイルが施された指を優雅に動かし、カップをソーサーに戻す。そして、ふと目線を上げて私を見据えた。「夏芽から聞いたけど、この一年ほどの記憶を失ってるんだとか……。私と会ったことも覚えていないということね?」細い足を妖艶に組み上げ、早速切り出してくる彼女の前で、私はゴクッと喉を鳴らした。「私がこのビルのエントランスで、エスカレーターから落ちた時……多香子さんと一緒にいたことは知ってます」「え?」「入院中……病院に来てくれましたよね。その時、鏑木さんと話していたのを……聞いてしまいました」私がほんのちょっと言い淀むと、彼女は「あら」と言葉を挟んだ。そして、なにか思い当たった様子で、軽く口角を上げる。「それじゃあ、私と夏芽がキスしたのも、見られた……ってことね」「っ」まさに、あの時の光景が、脳裏を過ぎっていたところだ。私はグッと詰まってから、なんとか虚勢を張って胸を反らした。「鏑木さんは、からかってるだけだと仰いました。多香子さんとは許嫁だったけど、婚約は解消しているし、もともとお互いに恋愛感情もないって」「夏芽の記憶も忘れてるわりに、ムキになるのね。……ああ、それとも、その部分だけは彼から吹き込まれて、また手籠めにされた?」彼女は皮肉気にクスクス笑いながら、そう突っ込んでくる。その言葉に、私は頬にカッと朱を走らせた。「手籠めなんて……! 変な言い方しないでください。そ、それに、夏芽さんは私に、なにも吹き込んだりしてませんっ」そう、彼はむしろ、『嘘しかつけない』と言って、私が自分で思い出すのを待ってくれている。思わず身を乗り出し、唇を戦慄かせながら、多香子さんを睨む。「そう。それじゃ、記憶を失っても、また惹かれ合った……とでも? ロマンティックね」彼女は興醒めといった表情を浮かべて、足を解いた。深くソファに背を預け、胸の前で腕組みをする。私の方は、一瞬にして煽られた興奮を、抑えられない。中途半端に浮かしかけていた腰をソファに戻し、膝の上でスカートを握った。「婚約解消……ね。いったい誰のせいだと思ってる
夏芽さんが出ていって十分ほど過ぎた時、総合受付から電話が入った。多香子さんの来訪の連絡だ。私は、エレベーターで直接このフロアまで上がってもらうようお願いして、デスクを立った。もちろん、エレベーターホールまで、彼女を迎えに出るためだ。ホールには、六基のエレベーターがある。その内、どのドアが開くのか――。私はさらに緊張感を強めながら、視線を走らせた。やがて、一番奥のドアが開いた。相変わらずシックなスーツ姿の多香子さんが、姿を現す。私の胸が、ドクッと沸くような音を立てた。彼女は、ドアを一歩出たところで、一瞬方向を確かめるように逆側を向いてから、ゆっくりこちらに顔を向ける。その目が、私の上で留まった。私は、胸いっぱいに広がった緊張を必死に抑えて、一度深々と頭を下げた。ゆっくり背を起こしてから、「突然お呼び立てして、申し訳ございません」と謝罪をした。「いいえ。お招きありがとう」多香子さんは余裕たっぷりにそう言って、長い髪を掻き上げた。そのまま、高いヒールをややカーペットに沈ませて、私の方に歩いてくる。距離が狭まるにつれて、一歩後ずさりたくなる衝動と闘う。なんとかその場に踏み止まる私の前まで来て、彼女はピタリと足を止めた。「改めまして。島内(しまうち)多香子と申します」「島内……さんですか。鏑木、ではなく?」わりと丁寧に自己紹介してくれた彼女に、私は反射的にそう訊ねていた。「ええ。私は鏑木の分家筋なの。……って、私の名字に反応するってことは、本当なのね。記憶喪失って」「……っ」真っ向から確認されて、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、それを気取られないように、思い切って胸を反らす。「なつ……鏑木さんは、現在不在です。ここではなんですから、執務室にどうぞ」そう言って、多香子さんの前に立って、執務室に誘導すべく廊下を歩き出した。
そして迎えた水曜日――。私が作ったお弁当を、執務室で二人で食べながら休憩時間を過ごした後、シャツの左袖を摘まんで腕時計で時間を確認した夏芽さんが、ソファから立ち上がった。「さて、と。じゃあ、そろそろ行ってくるよ」頭の後ろで両肘を組み、軽く胸を仰け反らせる。私は、ソファの前のローテーブルでランチボックスを片付けながら、「はい」と返事をした。「行ってらっしゃい。お戻りは、三時頃……ですよね?」私も自分の腕時計に目を落とし、念を押すように確認する。現在、午後一時。一社当たりの滞在時間は、だいたい三十分ほどのはずだ。「ああ」と短い返事が来た。「俺が留守の間は、いつも通り、電子申請書類の承認手続きを頼むよ」夏芽さんが目を通した書類は、『決裁』と『差し戻し』の二つのステータスに分けて、システムに一時保存されている。膨大な書類を審議しなきゃいけない彼に代わって、申請部署への差し戻しや、社長決裁に回付という電子手続きは、私が行っている。彼は私に業務指示を出しながら執務机に回り、椅子にかけていた上着を取り上げ、サッと袖を通す。「はい」「じゃ、留守を頼む」大きなサイズの手帳とスマホを手に、颯爽と執務室を出ていった。ゆっくりとドアが閉まり、その背が見えなくなるまで見送って、私は胸に手を当て、グッと拳を握りしめた。二日前、夏芽さんに内緒で湊さんに依頼した、多香子さんとの面会の約束。彼女はこの後間もなく、ここに来てくれる。会うのは私一人だけど、表向きは夏芽さんを訪問という体になっている。ビルのグランドエントランスの総合受付からは、秘書室を通さず直接ここに連絡が入るはずだ。強い緊張で、胸の拍動がやや速い。落ち着かない気分で自分のデスクに戻り、午後の業務を始めたものの、何度も時間を確認した。