神様のお導きで、浩一が梅子の乳がん末期診断書を持って私のもとを訪れたあの日に生まれ変わったことに感謝する。まだ全てをやり直せる。「雅子、実はな。秋美の言うことにも一理あるんだ。あの時、お前が彼女の大学進学の機会を奪わなければ、俺と出会ったのは彼女だった。一生、夫や息子に大切にされたのも彼女のはずだったんだ」「大学に行けなかったばかりに、随分と苦労したらしい。そのことを三十年以上も引きずって、心の痛手が病気を引き起こしたんだ」「つまり、全ては、お前に責任があるということだ」浩一は昔の出来事を持ち出し、私に恩を売るような口ぶりで言った。だが、私は秋美の大学の座を奪ってなどいない。確かに私たち二人は同点だった。ただ、その年の筑波大学の地域枠はたった五人。文系で、私の国語の点数が彼女より七点高かっただけで、最後の一枠を得たのだ。それなのに秋美は、私の父が入試課の職員に賄賂を贈ったと思い込み、私が不正に合格したと信じ込んでいた。 「梅子さんは私の大切な友人だもの。もちろん認めますわ」私の言葉に、浩一と梅子はほっとした表情を見せた。二人は思わず見つめ合い、愛情に満ちた笑みを交わす。机の下で私の手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込むほど。胸が刺すように痛んだ。浩一と梅子の裏切りが許せない。そして前世の自分の愚かさが悔しい。二人が三十年以上も私の目の前で密会を重ねていたのに、まったく気付かなかったなんて。「ただし、条件があります。家と車と預金は私の物。息子さんは浩一が引き取ってください」前世の私は愚かだった。梅子の命が長くないと思い込み、浩一とすぐに復縁できると思って財産分与を要求しなかった。結局、全てを失う結果になった。私の要求を聞いて、浩一と梅子の表情が曇った。特に梅子は、浩一本人ではなく、彼が死ぬ前に正当な形で財産を手に入れることが目的だったのだ。浩一は少し躊躇った後、きっぱりと頷いた。「分かった。お前が俺たちのことを認めてくれるなら、身一つで出ていく」「浩一くん!」浩一は梅子の手を握りしめ、優しく語りかけた。「お前は俺のために長年我慢してきた。お前が幸せになれるなら、財産なんてどうでもいい。この命さえ惜しくないんだ」梅子は無理に笑顔を作り、優しく献身的
浩一の体調はずっと優れなかった。特にここ数年は原因不明の発熱や風邪を繰り返していた。年のせいで免疫力が落ちたのだろうと思っていた。腰が痛くて立つのもままならないのに、毎朝一番のバスに乗って市場へ行き、新鮮な食材を買い求めていた。彼のために漢方スープを煮込み、鍼灸を独学で学んで目を酷使した。彼の健康を案じて、夜も眠れず、白髪が増える一方だった。でも浩一は私の気持ちを無にした。こっそりスープを捨て、私の心配りを過剰な執着心と支配欲だと決めつけた。家庭の日常を疎ましく思い、私が家事に追われる間、縁側の籐椅子に座って、若い頃に愛する女性とできたはずのロマンチックな思い出に浸っていた。私が何か言おうものなら、軽蔑的な目を向けて、皮肉を言うのだった。「台所に縛られて一生を過ごすようなお前に、ロマンスなんて分かるはずがない」その頃の私は、台所仕事に人生を捧げることが悪いとは思わなかった。三十年以上連れ添った夫がいて、一流大学を出て将来有望な息子もいる。そのうち可愛い孫もできるはずだった。たとえ夫が冷たくても、息子が反抗期でも、どの家庭だって波風が立たないわけがない。女の一生なんてこんなものではないのか。離婚して中途退学の娘を抱える梅子よりも、どれだけ幸せかと思っていた。少なくとも私は妻として母としての務めを果たし、人生は充実していると信じていた。もう一度人生をやり直してみて、自分がどれほど愚かだったか思い知った。時計の針が進む。カレンダーを見ると、浩一が発病するまであと半年。百八十日あまり、それは浩一が梅子の正体を見抜き、死んでも心残りになるほどの時間だ。浩一の衣類を片付けて捨てようとした時、大輔から電話がかかってきた。いきなり怒鳴り声が響いた。「お母さんがお父さんと離婚しないせいで、梅子おばさんは一生影で苦しんできたんだぞ。今まで良い暮らしをしておいて、離婚の時に父さんの財産を全部取り上げるなんて、よくもできたものだ。梅子おばさんの言う通りだよ。母さんは自分勝手で冷たい人間だ。金のために家族も捨てる人間だ」ソファに座ったまま、私は言葉を失った。彼を産むために、どれほどの苦労をしたことか。彼の世話のために、教員の正規採用も諦めた。読字障害があった彼のために、全国の病院を回り、何度も
女は懐が暖かければ、人生も何倍も楽しい。こんな年になって、初めてタピオカドリンクの美味しさを知った。アイドルを応援するのも、そう無駄なことじゃないと初めて気付いた。秋に入って、雨の日が続いている。もう朝五時に起きて浩一の健康食を作る必要もないし。昼は四品のおかずに味噌汁を作って一時間もかけて電車で大輔に届けても「コンビニ弁当の方がマシだ」と文句を言われることもない。夜も浩一の睡眠を気にして、彼が寝てから床に就く必要もない。ふかふかのベッドで、片手にスイーツドリンク、もう片手でこの二日間ハマったアイドルに投票する。こんな気楽な時間を過ごせるなんて......そして何より、今までにない心の安らぎ。浩一からの着信は山ほどあるけれど、出ても黙ったまま。受話器越しに聞こえる怒鳴り声や罵倒に、むしろ気分が良くなる。人生の終わり頃になって、こんな素敵な日々を過ごせるなんて夢にも思わなかった。その日、高級ワンピースを見つけて会計しようとした時、大輔から電話がかかってきた。「三時に来るって約束したよな!どうしてまだ来ないんだ!いつもグズグズして......あと十分だけ待つ。それまでに来なかったら、俺と月香の結婚式で母親として壇上に上がれなくても知らないからな!」大輔は私の急所を突くのが上手い。子供の頃、友人の結婚式に連れて行った時、新郎の実母と継母が挨拶する順番で大揉めになった。怖がった大輔は私の手を握ってこう言ってくれた。「たとえ父さんと別れても、僕のお母さんは雅子だけだよ。結婚式で壇上に上がれるのも雅子だけだから」その時の優しい言葉に胸が温かくなったものだけど、まさかそれが何年も経って、こんな形で私を傷つけることになるなんて......「お客様、65万5千円になります。お支払い方法は?」私はカードを店員に渡した。「カードで。あ、そのバッグも頂戴」「かしこまりました。合計157万2千円です。暗証番号をお願いします」「157万2千円だと!?雅子、何してるんだ!何を買ったらそんなに高いんだよ!157万2千円あれば俺の半年分の給料だぞ。使い過ぎだろ!」「すぐ返品しろよ!月香がウォークインクローゼットが欲しいって言ってるんだ。157万2千円あれば何平米も増やせるじゃないか
大輔は月香に全額一括で購入したと嘘をつき、偽造した不動産登記簿謄本まで用意していた。月香は自分の名前が記された書類を見て、有頂天になっていた。彼女は誠意を示すため、結納金は不要だと言い、梅子が千四百万円の結納金を用意すると約束した。浩一と大輔は喜びを隠せず、「月香には最高のものを」と意気込み、彼女の手を引いてジュエリーショップへ急いだ。思いがけず、そこで私とばったり出会ってしまった。「まさ子さん、今日はちょうどよいタイミングでいらっしゃいました。先日ご覧になったブライダルティアラ、本日は加工料が半額で、二万円もお得になっております」若い頃、浩一と結婚する時、白無垢にティアラを合わせたいと思っていた。でも、その時は経済的な余裕がなかった。その後も稼いだお金は全て息子の結婚資金にと思って貯めてきた。私の人生は常に誰かのことばかり考えてきた。今、夫と息子との心が離れてしまったのは、かえって良かったのかもしれない。人は歳を重ねてやっと目が覚めるものね。でも、今からでも遅くない。私の人生は、これからが本番だわ。「はい、お願いします」ティアラは美しかった。着ける機会はなくても、時々眺めて楽しむだけでも素敵なものだわ。「お母さん、なんでここにいるの?その......そのティアラは......まさか、月香へのプレゼントにそんな高価な物を買って、結婚式で私たちの乾杯を受けさせてもらえると思ってるの?」大輔はそう言いながらも、包みに手を伸ばしてきた。午前中に彼から電話があった。月香への結納品を買うから、最後のチャンスとして資金を出せと。彼の言葉で思い出した。前世では不況で不動産価格は暴落したが、金価格は急騰したのだ。だから私は先に銀行で金の延べ棒を購入し、それからジュエリーショップに来たのだった。「お母さん、何やってるの?早くティアラを渡せよ。月香がすごく気に入ってるじゃないか。母親としては大したことないけど、目は利くんだな」 大輔は私を見下しながら、巧みに精神的な支配を試みた。彼の目には、私はただの家政婦で、自分の感情や好みを持つ資格もない。ただ無償で全てを捧げる存在でしかないのだ。女は夫を間違え、子を間違えると、人生を棒に振るものね。「大輔のお母さんは後ろにいるわよ」私は
大輔の行方が分からなくなった。梅子は浩一に責任を追及した。大輔と連絡が取れない浩一は、私に電話をかけてきた。「私に電話しても無駄よ。大輔は私には連絡してこないわ」「雅子、自分の息子が......ゴホッ......ゴホッ......このまま逃げおおせるのを......ゴホッ......黙って見ているつもりか?」電話越しに浩一の激しい咳が聞こえ、私が何か言う前に、看護師が声をかける音が聞こえた。電話を切った後、しばらく呆然としていた。浩一の命が風前の灯だと分かっていた。浩一は入院し、月香は意識を取り戻した。梅子は重度の障害を負った娘の看病に追われ、浩一のことなど眼中になく、医療費も一切払おうとしなかった。病院も困り果て、過去の診療記録から私の連絡先を探し出したのだった。最初は見舞いに行くつもりなどなかった。でも、彼の惨めな姿を自分の目で確かめたかった。それを見れば、長年抱えてきた怒りが、前世での無念が、少しは晴れるかもしれないと思った。病棟の廊下まで浩一の苦痛の叫び声が響いていた。末期肺がんの患者は、最大量の鎮痛剤を投与しても痛みを和らげることができない。昼夜を問わず、身を切るような痛みに苛まれ続ける。それが最期の時まで続くのだ。梅子は浩一を最も条件の悪い四人部屋に入れていた。他のベッドには家族が寄り添い、世話を焼いているというのに、浩一のベッドだけが閑散としていた。医療費未払いのため、医師も看護師も足を遠のけがちだった。浩一は私の姿を見つけると、急に表情を輝かせた。「雅子......やっぱり見捨てなかったんだね」たった数日で、浩一は見る影もなくなっていた。顔は膨れ上がり、咳をするたびに血が混じっていた。浩一は充血した目で、すがるように言った。「何か食べ物を......ゴホゴホ......もう何日も何も口にしてないんだ」梅子は医療費すら払わないのだから、食事の世話など期待するべくもない。病室の他の見舞客たちが、私を冷たい目で見ていた。さぞかし非情な妻だと思っているのだろう。私は軽く会釈をしてからベッドの脇に腰掛け、じっと浩一を見つめた。浩一は落ち着かない様子で言った。「雅子......」「そう呼ばないで」私は遮った。「私たちは、もう他人だか
梅子は月香の治療のため、国内外の高級プライベートクリニックと称する詐欺医療機関に次々と騙され、貯金を使い果たしてしまった。。彼女は浩一の死後の遺産相続を当てにしていたのだ。だが、どんなに計算しても見落としていた重要な点があった。遺言は法定相続に優先するという事実を。浩一の遺言には、担当医による判断能力についての診断書と、弁護士立会いの証明書が添えられていた。さらに公正証書遺言に加え、ビデオ遺言まで残されていた。結婚してわずか半年の梅子は、この完璧な法的手続きの前では、一円たりとも受け取ることができなかった。梅子は正気を失ったように私に詰め寄った。「どうしてそんなにお金が必要なの?返してよ!月香を助けなきゃいけないの!」私の財産を取り戻しただけ。それが梅子さんに何の関係があるというの。他人の持ち物を自分が失ったもののように思い込む人って、本当に滑稽ね。「なぜ全部私から奪うの?大学の席も、愛する人も、今度は娘の命を救うお金まで......バチが当たると思わないの?」梅子は涙と鼻水を垂らしながら、まるで私が罪人であるかのように責め立てた。こういう人間は、いつも自分の非を認めず、全てを他人のせいにする。私は彼女から何も奪っていない。大学の席は国語で七点高かったから正当に得たもの。浩一とは大学三年の時、隣のキャンパスの先輩として出会った。お金だって、浩一と二人で必死に働いて得たものだ。私の物は私の物。梅子が哀れだからといって、譲る道理などない。返済の意思も能力もない梅子のことだ。構わない。裁判所に提訴して、たとえ生涯かかっても、時折姿を現して彼女に思い知らせてやればいい。案の定、梅子には金の余裕がなくなっていた。娘の治療費に追われ、ついに家を売るしか道がなくなった。かつて千四百万円で私から買い取った家は、今では八百万円の価値しかなく、それすら売れない。何度値下げしても、見向きもされなかった。そして梅子を決定的に追い詰めたのは、月香の自殺だった。重度の障害を負った月香は、梅子が外出した隙にトイレに鍵をかけ、手首を切った。梅子が月香の大好きな餃子を買って戻った時には、既に手遅れだった。梅子は完全に精神を病んでしまった。毎日、道行く人に娘の居場所を尋ね回り、あちこちで
梅子は月香の治療のため、国内外の高級プライベートクリニックと称する詐欺医療機関に次々と騙され、貯金を使い果たしてしまった。。彼女は浩一の死後の遺産相続を当てにしていたのだ。だが、どんなに計算しても見落としていた重要な点があった。遺言は法定相続に優先するという事実を。浩一の遺言には、担当医による判断能力についての診断書と、弁護士立会いの証明書が添えられていた。さらに公正証書遺言に加え、ビデオ遺言まで残されていた。結婚してわずか半年の梅子は、この完璧な法的手続きの前では、一円たりとも受け取ることができなかった。梅子は正気を失ったように私に詰め寄った。「どうしてそんなにお金が必要なの?返してよ!月香を助けなきゃいけないの!」私の財産を取り戻しただけ。それが梅子さんに何の関係があるというの。他人の持ち物を自分が失ったもののように思い込む人って、本当に滑稽ね。「なぜ全部私から奪うの?大学の席も、愛する人も、今度は娘の命を救うお金まで......バチが当たると思わないの?」梅子は涙と鼻水を垂らしながら、まるで私が罪人であるかのように責め立てた。こういう人間は、いつも自分の非を認めず、全てを他人のせいにする。私は彼女から何も奪っていない。大学の席は国語で七点高かったから正当に得たもの。浩一とは大学三年の時、隣のキャンパスの先輩として出会った。お金だって、浩一と二人で必死に働いて得たものだ。私の物は私の物。梅子が哀れだからといって、譲る道理などない。返済の意思も能力もない梅子のことだ。構わない。裁判所に提訴して、たとえ生涯かかっても、時折姿を現して彼女に思い知らせてやればいい。案の定、梅子には金の余裕がなくなっていた。娘の治療費に追われ、ついに家を売るしか道がなくなった。かつて千四百万円で私から買い取った家は、今では八百万円の価値しかなく、それすら売れない。何度値下げしても、見向きもされなかった。そして梅子を決定的に追い詰めたのは、月香の自殺だった。重度の障害を負った月香は、梅子が外出した隙にトイレに鍵をかけ、手首を切った。梅子が月香の大好きな餃子を買って戻った時には、既に手遅れだった。梅子は完全に精神を病んでしまった。毎日、道行く人に娘の居場所を尋ね回り、あちこちで
大輔の行方が分からなくなった。梅子は浩一に責任を追及した。大輔と連絡が取れない浩一は、私に電話をかけてきた。「私に電話しても無駄よ。大輔は私には連絡してこないわ」「雅子、自分の息子が......ゴホッ......ゴホッ......このまま逃げおおせるのを......ゴホッ......黙って見ているつもりか?」電話越しに浩一の激しい咳が聞こえ、私が何か言う前に、看護師が声をかける音が聞こえた。電話を切った後、しばらく呆然としていた。浩一の命が風前の灯だと分かっていた。浩一は入院し、月香は意識を取り戻した。梅子は重度の障害を負った娘の看病に追われ、浩一のことなど眼中になく、医療費も一切払おうとしなかった。病院も困り果て、過去の診療記録から私の連絡先を探し出したのだった。最初は見舞いに行くつもりなどなかった。でも、彼の惨めな姿を自分の目で確かめたかった。それを見れば、長年抱えてきた怒りが、前世での無念が、少しは晴れるかもしれないと思った。病棟の廊下まで浩一の苦痛の叫び声が響いていた。末期肺がんの患者は、最大量の鎮痛剤を投与しても痛みを和らげることができない。昼夜を問わず、身を切るような痛みに苛まれ続ける。それが最期の時まで続くのだ。梅子は浩一を最も条件の悪い四人部屋に入れていた。他のベッドには家族が寄り添い、世話を焼いているというのに、浩一のベッドだけが閑散としていた。医療費未払いのため、医師も看護師も足を遠のけがちだった。浩一は私の姿を見つけると、急に表情を輝かせた。「雅子......やっぱり見捨てなかったんだね」たった数日で、浩一は見る影もなくなっていた。顔は膨れ上がり、咳をするたびに血が混じっていた。浩一は充血した目で、すがるように言った。「何か食べ物を......ゴホゴホ......もう何日も何も口にしてないんだ」梅子は医療費すら払わないのだから、食事の世話など期待するべくもない。病室の他の見舞客たちが、私を冷たい目で見ていた。さぞかし非情な妻だと思っているのだろう。私は軽く会釈をしてからベッドの脇に腰掛け、じっと浩一を見つめた。浩一は落ち着かない様子で言った。「雅子......」「そう呼ばないで」私は遮った。「私たちは、もう他人だか
大輔は月香に全額一括で購入したと嘘をつき、偽造した不動産登記簿謄本まで用意していた。月香は自分の名前が記された書類を見て、有頂天になっていた。彼女は誠意を示すため、結納金は不要だと言い、梅子が千四百万円の結納金を用意すると約束した。浩一と大輔は喜びを隠せず、「月香には最高のものを」と意気込み、彼女の手を引いてジュエリーショップへ急いだ。思いがけず、そこで私とばったり出会ってしまった。「まさ子さん、今日はちょうどよいタイミングでいらっしゃいました。先日ご覧になったブライダルティアラ、本日は加工料が半額で、二万円もお得になっております」若い頃、浩一と結婚する時、白無垢にティアラを合わせたいと思っていた。でも、その時は経済的な余裕がなかった。その後も稼いだお金は全て息子の結婚資金にと思って貯めてきた。私の人生は常に誰かのことばかり考えてきた。今、夫と息子との心が離れてしまったのは、かえって良かったのかもしれない。人は歳を重ねてやっと目が覚めるものね。でも、今からでも遅くない。私の人生は、これからが本番だわ。「はい、お願いします」ティアラは美しかった。着ける機会はなくても、時々眺めて楽しむだけでも素敵なものだわ。「お母さん、なんでここにいるの?その......そのティアラは......まさか、月香へのプレゼントにそんな高価な物を買って、結婚式で私たちの乾杯を受けさせてもらえると思ってるの?」大輔はそう言いながらも、包みに手を伸ばしてきた。午前中に彼から電話があった。月香への結納品を買うから、最後のチャンスとして資金を出せと。彼の言葉で思い出した。前世では不況で不動産価格は暴落したが、金価格は急騰したのだ。だから私は先に銀行で金の延べ棒を購入し、それからジュエリーショップに来たのだった。「お母さん、何やってるの?早くティアラを渡せよ。月香がすごく気に入ってるじゃないか。母親としては大したことないけど、目は利くんだな」 大輔は私を見下しながら、巧みに精神的な支配を試みた。彼の目には、私はただの家政婦で、自分の感情や好みを持つ資格もない。ただ無償で全てを捧げる存在でしかないのだ。女は夫を間違え、子を間違えると、人生を棒に振るものね。「大輔のお母さんは後ろにいるわよ」私は
女は懐が暖かければ、人生も何倍も楽しい。こんな年になって、初めてタピオカドリンクの美味しさを知った。アイドルを応援するのも、そう無駄なことじゃないと初めて気付いた。秋に入って、雨の日が続いている。もう朝五時に起きて浩一の健康食を作る必要もないし。昼は四品のおかずに味噌汁を作って一時間もかけて電車で大輔に届けても「コンビニ弁当の方がマシだ」と文句を言われることもない。夜も浩一の睡眠を気にして、彼が寝てから床に就く必要もない。ふかふかのベッドで、片手にスイーツドリンク、もう片手でこの二日間ハマったアイドルに投票する。こんな気楽な時間を過ごせるなんて......そして何より、今までにない心の安らぎ。浩一からの着信は山ほどあるけれど、出ても黙ったまま。受話器越しに聞こえる怒鳴り声や罵倒に、むしろ気分が良くなる。人生の終わり頃になって、こんな素敵な日々を過ごせるなんて夢にも思わなかった。その日、高級ワンピースを見つけて会計しようとした時、大輔から電話がかかってきた。「三時に来るって約束したよな!どうしてまだ来ないんだ!いつもグズグズして......あと十分だけ待つ。それまでに来なかったら、俺と月香の結婚式で母親として壇上に上がれなくても知らないからな!」大輔は私の急所を突くのが上手い。子供の頃、友人の結婚式に連れて行った時、新郎の実母と継母が挨拶する順番で大揉めになった。怖がった大輔は私の手を握ってこう言ってくれた。「たとえ父さんと別れても、僕のお母さんは雅子だけだよ。結婚式で壇上に上がれるのも雅子だけだから」その時の優しい言葉に胸が温かくなったものだけど、まさかそれが何年も経って、こんな形で私を傷つけることになるなんて......「お客様、65万5千円になります。お支払い方法は?」私はカードを店員に渡した。「カードで。あ、そのバッグも頂戴」「かしこまりました。合計157万2千円です。暗証番号をお願いします」「157万2千円だと!?雅子、何してるんだ!何を買ったらそんなに高いんだよ!157万2千円あれば俺の半年分の給料だぞ。使い過ぎだろ!」「すぐ返品しろよ!月香がウォークインクローゼットが欲しいって言ってるんだ。157万2千円あれば何平米も増やせるじゃないか
浩一の体調はずっと優れなかった。特にここ数年は原因不明の発熱や風邪を繰り返していた。年のせいで免疫力が落ちたのだろうと思っていた。腰が痛くて立つのもままならないのに、毎朝一番のバスに乗って市場へ行き、新鮮な食材を買い求めていた。彼のために漢方スープを煮込み、鍼灸を独学で学んで目を酷使した。彼の健康を案じて、夜も眠れず、白髪が増える一方だった。でも浩一は私の気持ちを無にした。こっそりスープを捨て、私の心配りを過剰な執着心と支配欲だと決めつけた。家庭の日常を疎ましく思い、私が家事に追われる間、縁側の籐椅子に座って、若い頃に愛する女性とできたはずのロマンチックな思い出に浸っていた。私が何か言おうものなら、軽蔑的な目を向けて、皮肉を言うのだった。「台所に縛られて一生を過ごすようなお前に、ロマンスなんて分かるはずがない」その頃の私は、台所仕事に人生を捧げることが悪いとは思わなかった。三十年以上連れ添った夫がいて、一流大学を出て将来有望な息子もいる。そのうち可愛い孫もできるはずだった。たとえ夫が冷たくても、息子が反抗期でも、どの家庭だって波風が立たないわけがない。女の一生なんてこんなものではないのか。離婚して中途退学の娘を抱える梅子よりも、どれだけ幸せかと思っていた。少なくとも私は妻として母としての務めを果たし、人生は充実していると信じていた。もう一度人生をやり直してみて、自分がどれほど愚かだったか思い知った。時計の針が進む。カレンダーを見ると、浩一が発病するまであと半年。百八十日あまり、それは浩一が梅子の正体を見抜き、死んでも心残りになるほどの時間だ。浩一の衣類を片付けて捨てようとした時、大輔から電話がかかってきた。いきなり怒鳴り声が響いた。「お母さんがお父さんと離婚しないせいで、梅子おばさんは一生影で苦しんできたんだぞ。今まで良い暮らしをしておいて、離婚の時に父さんの財産を全部取り上げるなんて、よくもできたものだ。梅子おばさんの言う通りだよ。母さんは自分勝手で冷たい人間だ。金のために家族も捨てる人間だ」ソファに座ったまま、私は言葉を失った。彼を産むために、どれほどの苦労をしたことか。彼の世話のために、教員の正規採用も諦めた。読字障害があった彼のために、全国の病院を回り、何度も
神様のお導きで、浩一が梅子の乳がん末期診断書を持って私のもとを訪れたあの日に生まれ変わったことに感謝する。まだ全てをやり直せる。「雅子、実はな。秋美の言うことにも一理あるんだ。あの時、お前が彼女の大学進学の機会を奪わなければ、俺と出会ったのは彼女だった。一生、夫や息子に大切にされたのも彼女のはずだったんだ」「大学に行けなかったばかりに、随分と苦労したらしい。そのことを三十年以上も引きずって、心の痛手が病気を引き起こしたんだ」「つまり、全ては、お前に責任があるということだ」浩一は昔の出来事を持ち出し、私に恩を売るような口ぶりで言った。だが、私は秋美の大学の座を奪ってなどいない。確かに私たち二人は同点だった。ただ、その年の筑波大学の地域枠はたった五人。文系で、私の国語の点数が彼女より七点高かっただけで、最後の一枠を得たのだ。それなのに秋美は、私の父が入試課の職員に賄賂を贈ったと思い込み、私が不正に合格したと信じ込んでいた。 「梅子さんは私の大切な友人だもの。もちろん認めますわ」私の言葉に、浩一と梅子はほっとした表情を見せた。二人は思わず見つめ合い、愛情に満ちた笑みを交わす。机の下で私の手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込むほど。胸が刺すように痛んだ。浩一と梅子の裏切りが許せない。そして前世の自分の愚かさが悔しい。二人が三十年以上も私の目の前で密会を重ねていたのに、まったく気付かなかったなんて。「ただし、条件があります。家と車と預金は私の物。息子さんは浩一が引き取ってください」前世の私は愚かだった。梅子の命が長くないと思い込み、浩一とすぐに復縁できると思って財産分与を要求しなかった。結局、全てを失う結果になった。私の要求を聞いて、浩一と梅子の表情が曇った。特に梅子は、浩一本人ではなく、彼が死ぬ前に正当な形で財産を手に入れることが目的だったのだ。浩一は少し躊躇った後、きっぱりと頷いた。「分かった。お前が俺たちのことを認めてくれるなら、身一つで出ていく」「浩一くん!」浩一は梅子の手を握りしめ、優しく語りかけた。「お前は俺のために長年我慢してきた。お前が幸せになれるなら、財産なんてどうでもいい。この命さえ惜しくないんだ」梅子は無理に笑顔を作り、優しく献身的
田中浩一(たなか こういち) が山本梅子(やまもと うめこ)を連れて私、鈴木雅子(すずき まさこ)のところにやって来た。浩一は苦しそうな顔をして言った「医者から、梅子の余命はもう長くないと言われてね。できるだけ彼女の望みを叶えてやってほしいそうなんだ」目の前に置かれた梅子の乳がん末期の診断書を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。梅子は泣きはらした目で私の手を握り、申し訳なさそうに切り出した。「まさ子さん、実は私ね、初めて浩一くんに会った時から一目惚れだったの。お互いに想い合っていたけど、それが倫理に反することも分かっていたから、ずっと気持ちを抑えてきたのよ」吐き気を覚えた。よくも梅子はこんなにも堂々と浩一との不義理な関係を語れるものだ。「でも今、私は病気で、医者からあと半年もないって告げられたの。最期のお願いを聞いてくれないかしら?死ぬ前に浩一くんと結婚して、彼の妻として送られたいの」私の様子から拒否の気持ちを察したのか、梅子はさらに激しく泣き出した。「まさ子さんは昔から優しい人だったわ。きっと長年の友情を裏切るようなことはしないはずよ。だから浩一くんと一緒にお願いに来たの。私を失望させたまま、この世を去らせるようなことはしないでしょう?」浩一は梅子を抱きしめ、私に道徳的な重圧をかけた。「まさ子、お前と梅子は幼なじみの親友じゃないか。今彼女が病気で、たったこれだけの小さな願いなんだ。どうして心を開けないんだ?」梅子は浩一の腕の中で、気を失いそうなほど泣き続けていた。私が黙り続けるのを見て、浩一は態度を変え、諭すような口調で言った。「戸籍上の書類なんて形だけのものさ。俺の心はずっとお前にあるんだ。それが一番大切なことじゃないか」前世でも、浩一は同じ言葉を口にしていた。私は彼の約束を信じ、離婚を承諾してしまった。ところが、梅子と入籍した途端、梅子のがんは奇跡的に完治したのだ。二人は周りの人々に、何十年も変わらぬの真実の愛が天の加護を得て、奇跡を起こしたのだと、得意げに吹聴して回った。一方の私は、離婚の際に浩一が財産を移していた事実を知ることとなった。住んでいた家も梅子名義になっており、預金も残らず引き出されていた。浩一に復縁を懇願すると、彼は嫌悪の表情を浮かべ、私を階