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第3話

Auteur: 言々
浩一の体調はずっと優れなかった。特にここ数年は原因不明の発熱や風邪を繰り返していた。

年のせいで免疫力が落ちたのだろうと思っていた。

腰が痛くて立つのもままならないのに、毎朝一番のバスに乗って市場へ行き、新鮮な食材を買い求めていた。

彼のために漢方スープを煮込み、鍼灸を独学で学んで目を酷使した。

彼の健康を案じて、夜も眠れず、白髪が増える一方だった。

でも浩一は私の気持ちを無にした。こっそりスープを捨て、私の心配りを過剰な執着心と支配欲だと決めつけた。

家庭の日常を疎ましく思い、私が家事に追われる間、縁側の籐椅子に座って、若い頃に愛する女性とできたはずのロマンチックな思い出に浸っていた。

私が何か言おうものなら、軽蔑的な目を向けて、皮肉を言うのだった。

「台所に縛られて一生を過ごすようなお前に、ロマンスなんて分かるはずがない」

その頃の私は、台所仕事に人生を捧げることが悪いとは思わなかった。

三十年以上連れ添った夫がいて、一流大学を出て将来有望な息子もいる。そのうち可愛い孫もできるはずだった。

たとえ夫が冷たくても、息子が反抗期でも、どの家庭だって波風が立たないわけがない。

女の一生なんてこんなものではないのか。

離婚して中途退学の娘を抱える梅子よりも、どれだけ幸せかと思っていた。

少なくとも私は妻として母としての務めを果たし、人生は充実していると信じていた。

もう一度人生をやり直してみて、自分がどれほど愚かだったか思い知った。

時計の針が進む。カレンダーを見ると、浩一が発病するまであと半年。

百八十日あまり、それは浩一が梅子の正体を見抜き、死んでも心残りになるほどの時間だ。

浩一の衣類を片付けて捨てようとした時、大輔から電話がかかってきた。

いきなり怒鳴り声が響いた。

「お母さんがお父さんと離婚しないせいで、梅子おばさんは一生影で苦しんできたんだぞ。

今まで良い暮らしをしておいて、離婚の時に父さんの財産を全部取り上げるなんて、よくもできたものだ。

梅子おばさんの言う通りだよ。母さんは自分勝手で冷たい人間だ。金のために家族も捨てる人間だ」

ソファに座ったまま、私は言葉を失った。

彼を産むために、どれほどの苦労をしたことか。彼の世話のために、教員の正規採用も諦めた。

読字障害があった彼のために、全国の病院を回り、何度も何度もリハビリに付き添った。彼は子供の頃苦労したと言うけれど、母親の苦労なんて分かるはずもない。

私の苦労は、比べものにならないほどだった。

心を込めて育てた息子は、私が死に瀕している時でさえ、私の愛が重荷だと非難し、人生を縛られたと責めた。

「一生俺を支配して、父さんとの離婚の時も財産で脅そうとした。

なんで俺はこんな母親に当たってしまったんだ」

受話器から聞こえる大輔の冷たい言葉に、私は思いのほか冷静だった。

夕陽が沈みゆく中、私は淡々と言った。

「大輔を縛らない新しいお母さんができて、よかったわね」

親は子のことを思って先々まで考える。私の愛が重荷なら、手放すしかない。

こんな夫と息子には、もう未練はない。

長年住んでいた家の名義変更の日、浩一は態度を変えた。というより、梅子が変えさせたのだ。

「浩一さんはこの家で長年暮らしてきて、思い入れがあるのよ。

こうしましょう。四百万円で買い取らせていただけないかしら?」

今の家は古くて狭いけれど、市内一番の学区にある。四百万円では玄関も買えないような場所だ。

この二人の腹の中が見え見えだった。

梅子は勝ち誇ったような表情で、わざと浩一と色違いのお揃いの服を着てきていた。

私には滑稽に思えた。年甲斐もなく恋人ごっこをするなんて。

浩一は咳き込みながら、水で咳を押さえようとしていた。

「四百万円でも十分な額だ。これ以上は望まないでくれ」

声にも力がなかった。

私は密かに口元を緩めた。私の細やかな看病がなければ、浩一の病状は早まるに違いない。

「千八百万円なら、即日名義変更に応じます」

浩一と梅子は本当に、私が台所に立ち続けた人生だから世間知らずだと思っているのか。今の相場では、千四百万円下で手放すなんて考えられない。

浩一と梅子は顔を見合わせ、梅子が切り出した。

「お互い歩み寄って、千四百万円ではいかがかしら」

私はすぐに頷いた。

「それで結構です」

人生をやり直せる利点は、先が読めることだ。

この家は確かに今は価値があるが、近い将来、景気の低迷と学区制度の見直しで、不動産市場は数十年に一度の不況期を迎え、価格は急落する。

梅子は得をしたつもりでいるが、千四百万円で買った家は、将来売れるだけでもラッキーな状態になる。値上がりなど望むべくもない。

千四百万円が手元に来て間もなく、大輔から連絡が入った。

結婚するから、新居を買ってほしいという。

「お母さん、俺と月香を一緒に住まわせたくないだろう?」

山本月香(やまもと つきか)は梅子の娘だ。

大輔には高校からの付き合いがある彼女がいたのに、月香が甘えるように「お兄ちゃん」と呼びながら近づき、二人の仲を引き裂いてしまった。

大学卒業後に留学させるつもりだったが、彼は留学資金を持って月香と二年間海外で遊び暮らした。

「お母さん、分かってくれるよね。月香に我慢させるわけにはいかないから。

もう物件も決めたんだ。全面改装済みで、ちょうど千四百万円。

住所を送るから、明日の午後三時に現金を持ってきてよ」

ぴったり千四百万円。

図らずも一致した金額。なんという偶然だろう。

いや、なんという計算づくの話というべきか。

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    神様のお導きで、浩一が梅子の乳がん末期診断書を持って私のもとを訪れたあの日に生まれ変わったことに感謝する。まだ全てをやり直せる。「雅子、実はな。秋美の言うことにも一理あるんだ。あの時、お前が彼女の大学進学の機会を奪わなければ、俺と出会ったのは彼女だった。一生、夫や息子に大切にされたのも彼女のはずだったんだ」「大学に行けなかったばかりに、随分と苦労したらしい。そのことを三十年以上も引きずって、心の痛手が病気を引き起こしたんだ」「つまり、全ては、お前に責任があるということだ」浩一は昔の出来事を持ち出し、私に恩を売るような口ぶりで言った。だが、私は秋美の大学の座を奪ってなどいない。確かに私たち二人は同点だった。ただ、その年の筑波大学の地域枠はたった五人。文系で、私の国語の点数が彼女より七点高かっただけで、最後の一枠を得たのだ。それなのに秋美は、私の父が入試課の職員に賄賂を贈ったと思い込み、私が不正に合格したと信じ込んでいた。 「梅子さんは私の大切な友人だもの。もちろん認めますわ」私の言葉に、浩一と梅子はほっとした表情を見せた。二人は思わず見つめ合い、愛情に満ちた笑みを交わす。机の下で私の手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込むほど。胸が刺すように痛んだ。浩一と梅子の裏切りが許せない。そして前世の自分の愚かさが悔しい。二人が三十年以上も私の目の前で密会を重ねていたのに、まったく気付かなかったなんて。「ただし、条件があります。家と車と預金は私の物。息子さんは浩一が引き取ってください」前世の私は愚かだった。梅子の命が長くないと思い込み、浩一とすぐに復縁できると思って財産分与を要求しなかった。結局、全てを失う結果になった。私の要求を聞いて、浩一と梅子の表情が曇った。特に梅子は、浩一本人ではなく、彼が死ぬ前に正当な形で財産を手に入れることが目的だったのだ。浩一は少し躊躇った後、きっぱりと頷いた。「分かった。お前が俺たちのことを認めてくれるなら、身一つで出ていく」「浩一くん!」浩一は梅子の手を握りしめ、優しく語りかけた。「お前は俺のために長年我慢してきた。お前が幸せになれるなら、財産なんてどうでもいい。この命さえ惜しくないんだ」梅子は無理に笑顔を作り、優しく献身的

  • 生まれ変わった私は、元夫の臓器を提供した   第1話

    田中浩一(たなか こういち) が山本梅子(やまもと うめこ)を連れて私、鈴木雅子(すずき まさこ)のところにやって来た。浩一は苦しそうな顔をして言った「医者から、梅子の余命はもう長くないと言われてね。できるだけ彼女の望みを叶えてやってほしいそうなんだ」目の前に置かれた梅子の乳がん末期の診断書を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。梅子は泣きはらした目で私の手を握り、申し訳なさそうに切り出した。「まさ子さん、実は私ね、初めて浩一くんに会った時から一目惚れだったの。お互いに想い合っていたけど、それが倫理に反することも分かっていたから、ずっと気持ちを抑えてきたのよ」吐き気を覚えた。よくも梅子はこんなにも堂々と浩一との不義理な関係を語れるものだ。「でも今、私は病気で、医者からあと半年もないって告げられたの。最期のお願いを聞いてくれないかしら?死ぬ前に浩一くんと結婚して、彼の妻として送られたいの」私の様子から拒否の気持ちを察したのか、梅子はさらに激しく泣き出した。「まさ子さんは昔から優しい人だったわ。きっと長年の友情を裏切るようなことはしないはずよ。だから浩一くんと一緒にお願いに来たの。私を失望させたまま、この世を去らせるようなことはしないでしょう?」浩一は梅子を抱きしめ、私に道徳的な重圧をかけた。「まさ子、お前と梅子は幼なじみの親友じゃないか。今彼女が病気で、たったこれだけの小さな願いなんだ。どうして心を開けないんだ?」梅子は浩一の腕の中で、気を失いそうなほど泣き続けていた。私が黙り続けるのを見て、浩一は態度を変え、諭すような口調で言った。「戸籍上の書類なんて形だけのものさ。俺の心はずっとお前にあるんだ。それが一番大切なことじゃないか」前世でも、浩一は同じ言葉を口にしていた。私は彼の約束を信じ、離婚を承諾してしまった。ところが、梅子と入籍した途端、梅子のがんは奇跡的に完治したのだ。二人は周りの人々に、何十年も変わらぬの真実の愛が天の加護を得て、奇跡を起こしたのだと、得意げに吹聴して回った。一方の私は、離婚の際に浩一が財産を移していた事実を知ることとなった。住んでいた家も梅子名義になっており、預金も残らず引き出されていた。浩一に復縁を懇願すると、彼は嫌悪の表情を浮かべ、私を階

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