紗良と海斗はシングルの布団を隣同士くっつけて寝ている。 今日は海斗が紗良の布団にもぐり込んできた。「さらねえちゃん、てぇつなご」「うん、いいよ」ぎゅっと握ると海斗はえへへと笑う。 それほど大きくはない紗良の手だが、海斗に比べたらしっかり大人の手。 その手の中にまだ未熟な海斗の小さくて柔らかい手が包まれる。(可愛いな)そんなことを思っている間に海斗は手を繋いだまますぐに寝てしまった。いつも土日は二十二時までアルバイトで、紗良が帰る頃には海斗は寝ている。 寝かしつけは母に任せていたのだが、今までどうやって寝ていたのだろうか。 母がいるから大丈夫だろうと思っていたが、本当は寂しかったのだろうか。怒濤のような一日が終わり、しんとした室内。 母がいない、海斗と二人きりの夜。 やけに静かでもの悲しい。 あれこれと浮かぶ心配事に紗良は眠れないでいた。(ここに杏介さんがいてくれたら……)昼間は杏介が駆けつけてくれて、紗良は本当に心強くてたまらなかった。 杏介がいるというだけでほっとしたし安心した。 いつの間にこんなに弱くなったのだろうか。(私はもっと強くて一人でも平気だと思っていたのに)得も知れぬ不安が紗良を襲い胸を締めつけていく。 母のことも海斗のことも、これからの生活のことも。 すべてが重く暗い闇に飲み込まれて、その重圧で押しつぶされそうになる。じわりと滲む涙を拭い、大きく息を吐き出す。 なにもかも一筋縄ではいかない。海斗を引き取るとき、生半可な意思ではなかった。 けれど育ててみて直面するイレギュラーな事態は予想以上に多い。母の脳梗塞再発だって、一回目の脳梗塞の時に医師から言われていた事。 再発する可能性もあります、と。忘れていたわけではない。 油断していたわけでもない。 それでも現実に直面するとこんなにも心が苦しくなるなんて。紗良は枕元に置いてあったイルカのぬいぐるみを手繰り寄せる。 ぎゅっと抱きしめればなぜだか心が少しだけ落ちつくような気がした。
母の容態に変化はなく、これ幸いにと海斗の迎えの後に病院に寄ることが日課になった。面会はほんの数分。 まだICUに入っている母は左手足と軽い失語症があるが、見た目元気そうな姿で紗良と海斗が来るのを喜んだ。 順調にいけばもう明日にでも一般病棟に移るかというところ。そんな矢先、海斗が熱を出してしまった。 突然の熱は保育園児にはよくあること。とはいうものの、数日前から海斗は鼻を何度もすすったりくしゃみが多くなったりはしていた。さすがにお見舞いに行くのは止めておかないとと思っていたらこのざまだ。土曜のプール教室を休んだことで、すぐに杏介から紗良に連絡がある。「海斗、どうかした?」「うん。保育園で風邪をもらったみたい。夏になるとよく流行るアデノウイルスだって」保育園でも流行っているし、プール教室でも静かに流行っているため杏介はなるほどと納得する。 仕事帰りにコンビニにより、ゼリーやヨーグルトを適当に買って石原家へ寄った。しんと静まり返っている石原家のインターホンを鳴らそうとして杏介は出しかけた手を一度ひっこめる。 時刻は二十一時。 杏介にとってはなんでもない時間だが、海斗はもう寝ているかもしれない。紗良に電話をかけて呼び出すと、カチャリと小さく音がしてもうパジャマ姿の紗良がそろりと顔を出した。
「ごめん紗良、常識ない時間だった」「ううん、大丈夫。どうしたの?」「これ、海斗にと思って」杏介はコンビニで買った袋を紗良に手渡す。 ずっしりと重い袋の中には数種類のゼリーとヨーグルトが入っている。「こんなにいっぱい?」「熱だとあんまり食べれないかもと思って」「ありがとう。海斗がすっごく喜ぶと思う」「海斗、大丈夫? もう寝てる?」「まだ起きてるよ。お熱が下がらなくてなかなか寝れないみたい。アニメ見てる」「そっか。紗良も気をつけて。何かあったらすぐ連絡して。俺にして欲しいことはない?」「大丈夫だよ」紗良はニッコリと笑う。 いつも一人で抱え込む癖のある紗良は、どうしたって弱音を吐かない。 それを杏介もわかってきているため、困ったように眉尻を下げた。「お母さんそろそろ一般病棟に移るんじゃないのか?」「うん、明日移るって」「行った方がいいんだろ?」「そうなんだけど、さすがに行けないかなって。風邪のウイルス持ち込むわけにはいかないもの」「じゃあ俺が行く。紗良の代わりに」「でも杏介さん仕事――」「そういうのは言いっこなしな」紗良の言葉を途中で遮り、杏介は強引に決める。紗良のためだけではない。 杏介にとっても紗良の母親は大切な存在だ。 自分の母と上手く接することができなかった杏介を非難することなく受け入れてくれ、なおかつ自分を息子の様に気遣ってくれる。そして石原家は、杏介が焦がれた家族のあたたかさを教えてくれる大事な場所なのだ。
杏介は交換するタオルやパジャマ一式を紗良から受け取ると、「じゃあ」と言って踵を返す。「あっ、杏介さん」「うん?」「あ、えと、おやすみなさい」杏介は紗良の髪をひと撫でする。 サラサラの髪の毛はふわりとシャンプーが香り、杏介の胸をドキンと揺らして引き留めようとした。 最近では以前にも増して頻繁に会っているというのに、どういうわけか胸の高まりは押さえられそうにない。おもむろに肩を引き寄せればポスンと杏介の腕の中におさまる紗良。「おやすみ、紗良」そっと耳元で囁いてから頬にキスを落とす。 お互い名残惜しさを感じつつも笑顔で別れた。部屋に戻れば海斗がまだ真っ赤な顔をしつつも元気そうに寄ってくる。「だれかきてたー?」「うん、先生からお見舞いもらったよ。何か食べる?」「ヨーグルトたべる。かいともせんせーにあいたかった」「先生も会いたがってたよ。でも風邪うつったら困るでしょ」「はやくほいくえんいきたい」「熱が下がったらね。ヨーグルト食べたら頑張って寝よっか」ずっしりと重たい袋から海斗の好きなアロエヨーグルトを取り出す。 奥の方には紗良の好きなとろけるプリンが入っていた。「私も食べようかな……」紗良は海斗と並んでとろけるプリンをいただく。 甘くてなめらかで口の中でつるんと溶ける優しい味わいに胸がいっぱいになった。
翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている
二日ほどして海斗の熱は下がり、元気いっぱい保育園へ行く日々が戻ってきた。 数日、朝の時間を気にせず寝ていたためか、なかなか起きることができなかった海斗を引きずるように保育園へ連れて行き、紗良は時間に追われながら会社へ急ぐ。「おはようございますっ」「おはよう。大丈夫? 石原さん声かすれてない?」「そうですか? 走ってきたからかな?」今日もギリギリの時間になってしまい駐車場から思い切り走った。 海斗と一緒にダラダラと休日を過ごしたためだろうか、体がギシギシと音を立てている気がする。(運動不足だわ……)はぁ、と息を吐きながらたまっている仕事に手を付けた。 相変わらず仕事量は多い。 それに加えて、海斗の体調不良で一日休暇を取ってしまったため、その分も積みあがっている。パソコンに向かってカタカタとデータを打ち込んでいたが、昼になるにつれてどうにも喉に違和感を覚えた。 いがらっぽいと思っていたのだが、それはだんだんとチクチクイガイガと刺さるような痛みに変わっていく。(……海斗のうつったかもなぁ。今日は早く寝よ)と余裕だったのだが、海斗を迎えに行って家に帰る頃にはクタクタになっていた。 先ほどから寒気もするし、もしかしたら熱が出るのかもしれない。
重い体を引きずりながら夕飯を作り、海斗とお風呂に入る。 自分もささっとシャワーだけ浴びて海斗を追うように浴室を出た。体を拭きながらクラクラと目の前がまわり、次第に立っていられなくなる。 体に力が入らないのだ。 かろうじてパジャマには着替えることができたが、その場から動くことができなくなってしまった。先に出てテレビを見ていた海斗が、紗良がなかなかリビングに来ないのでひょこっと様子を覗きに来る。「さらねえちゃんー?」そこには床に横たわった紗良が浅く息を吐いていた。「どうしたの? だいじょーぶ?」ただならぬ様子に海斗は紗良を覗き込む。「……ごめん、海斗。お姉ちゃんの……スマホ取って」朦朧とする意識の中、タップした名前は杏介。 何度目かのコールのあと、留守番電話に切り替わる。「さらねえちゃん?」杏介のシフトは把握していないけれど、留守番電話に切り替わるときはたいてい仕事中だ。紗良は繋がらないスマホを放り出した。 体がだるくて起き上がる気力がない。 横で海斗がさらねえちゃんと呼ぶ声が聞こえているのに、それに返事をする元気さえない。とにかくダルい。 きっとシャワーを浴びたことで体力を消耗してしまったのだろう。 思った以上に紗良は体調不良だったことに今さらながら気づくが、こうなってしまったからにはもう遅い。もうこのまま目を閉じて意識を手放してしまいたいとさえ思った。
杏介が仕事を終えロッカールームで身支度を調えていると、着信を知らせるランプが点灯しているのに気づいた。見れば、紗良から留守電が入っている。聞いてみればしばらく無音で、間違い電話かはたまた海斗がいたずらでもしたのかと思った。 だが、メッセージが終わる直前、わずかに海斗が「さらねえちゃん」と呼んだ声が聞こえた。 それも、慌てた様子で。杏介はすぐに紗良に電話をかけた。 だがいくらコールしても出ない。嫌な予感しかせず、杏介は眉間にしわを寄せる。「杏介~飯でも食ってこうぜ……って、どした? 怖い顔して」「ごめん、また今度」バタンとロッカーを閉めるとカバンを引っ掴んで慌てて外へ出る。「あっ、先輩、お疲れ様で……す?」リカが声をかけるも、杏介は目もくれず飛び出していった。職場から石原宅へは車で十分ほどの距離だが、今日はずいぶんと遠く感じる。 何事もなければいいのだが、と思いながらも気持ちばかりが焦って仕方がない。紗良に何かあった? それとも海斗に? いや、母親か?自分の思い過ごしならそれに越したことはない。 自宅前には紗良の車が止まっており、カーテンの隙間から光が漏れている。 杏介はインターホンを鳴らす。しばらく待つも、しんと静まり返って誰も出てこない。 紗良に電話をかけてみるもやはり反応はない。「紗良? 海斗?」電気が点いているリビングの方へ行ってみようかと思っていると、おもむろにガチャリと玄関が開いた。「海斗!」「せんせー……」飛び出してきた海斗は杏介の足にしがみつく。 今にも泣き出しそうな顔だ。「どうした? 紗良は?」「ねてる」「寝てる?」「ねてるけど、おねつあるって」「熱?!」海斗に連れられて上がり込み、こっち、と案内された場所は階段の下だった。「紗良?!」床の上に寝そべった紗良の上には薄い布団が掛けられている。 近くにはぐっしょりと濡れたタオルも無造作に置かれていた。「紗良! 紗良!」杏介が呼びかけると紗良はうっすらと目を開ける。 杏介さん……、と消えそうな声でつぶやいた。「どうした? 熱があるって? 倒れたのか?」「ううん、床……きもちいいから……」そう答える紗良の息はずいぶんと荒れていてつらそうだ。 首もとを触れば計らずとも熱があるのだとわかる。「杏介さんの手、冷たくてきもち
紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。
海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返
◇無事に親への挨拶も済み、二人は結婚に向けて歩き出した。 海斗のこと、紗良の母親のこと、お互いの仕事のこと、考える事は山ほどある。 けれどひとつも大変だとは思わなかった。 この先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、日々できることをこなしている。季節は秋から冬に移り変わるところ。 延びていた母の入院生活もようやく終わり、紗良たちはアパートに引っ越していた。 それは母の老後悠々自適生活のためのアパートではなく、紗良たちの一時的な住居だ。紗良と杏介は悩みに悩んだ末、紗良の実家を建て替えて二世帯住宅として住むことを母に提案したのだ。 母は渋ったものの、左手足の回復が思ったより上手くいかず、近くに住んだ方が安心だと説得されて了承した。 海斗は家が新しくなることと、家が出来たら杏介と一緒に住めることを喜んで心待ちにしている。いつものように海斗をプールに送り出して、ママ友の弓香と一緒に観覧席に座る。 と、弓香が声を潜めて紗良に迫る。「ちょっと紗良ちゃん、滝本先生と結婚するってほんと?」「えっ! 弓香さん、なぜそれを……」ドキリとした紗良は思わず目が泳ぐ。「海ちゃんが保育園で言いふらしてたみたいよ。うちの子が聞いたって。もー、いつの間にそんなことになってたの?」「いや、いろいろあって。っていうか、ちゃんと弓香さんには伝えるつもりでいたんだけど、まさか海斗から伝わるとは……」「やだもう、馴れ初めとか聞きたい聞きたい!」「お、落ち着いて弓香さんっ! さすがにここでは話せないし……。今度お茶したときにでも! ねっ?」「絶対よ。約束だからね!」こんなプール教室に通う子どもの親たちがひしめく観覧席で、まさかガラス越しのプールにいる杏介と結婚する、という話題は避けたい。 紗良は冷や汗をかきながら弓香を落ち着ける。「まさか紗良ちゃんの推しが滝本先生だったとは。一番人気じゃん」「そんな競馬みたいなこと言わないでよ~」「あーあ、私も推しの小野先生と仲良くなりたいわ」「またそんなこと言って、旦那さん泣くってば」「いいじゃない、別に。なにも不倫したいとか思ってるんじゃなくてさ、芸能人とお近づきになりたいみたいなミーハーな気持ちよ。それくらい楽しみがないといろいろやってられないってば。紗良ちゃんは真面目すぎるのよ」「……真面目なんですよ、私は
「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。
「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。
「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。
杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思
杏介の実家は隣の県にあるが、 高速道路を使っても二時間ほどかかる。 本来なら、とても天気の良い絶好のお出かけ日和になりテンションも上がりそうなところ、紗良と杏介は若干神妙な面持ちである。 海斗だけが無邪気にDVDに夢中になっている。「はあ、緊張する ……」車を運転しながら、杏介は胃のあたりを軽く押さえた。「いや、私の方こそ緊張してるんだけど」紗良も大きく息を吐き出す。 初めて会う相手の親、しかも子連れで。 緊張しないわけがない。 さらに杏介と親の関係があまり良いものではないと聞かされれば、なおさらだ。 それは杏介とて然りで――。「こんなことを言うのもあれなんだけど、何年も両親に会ってなくてさ……」「でも会いに行くって電話したんでしょう?」「うん。父親は元々寡黙な人だから、ああ、わかったって一言」「お母さんは?」「父親から伝えてもらったから直接は話してないんだ。あと、今まで一回も……お母さんって呼んだことない」「じゃあ、なんて呼んでるの?」「……あの、とか、ねえ、とか?」言いづらそうに言葉を濁す杏介の姿が新鮮すぎて、紗良はポカンとしてしまう。 そして何故だか笑いが込み上げてきた。「杏介さんって意外と拗らせてるんだ?」「そうだよ。黒歴史だらけだよ。幻滅しただろ?」「まさか。逆に安心した。だって杏介さんってかっこいいしなんでもスマートにこなしちゃうしプール教室でもイケメンで優しいってお母さんたちにすごく人気があるんだよ。だから私、杏介さんと一緒にいて見劣りしたらどうしようってときどき不安になるもん。そういう弱い部分も持っていてくれなくちゃ肩が凝っちゃうよ」朗らかに笑う紗良に、杏介はバツが悪そうな顔で頭を掻く。「……紗良の前でもかっこいい俺でいたかったんだけどな」「じゅうぶんかっこいいし、知らなかった杏介さんの一面が見れて嬉しい」杏介はぐっと息をのむとチラリと紗良を見る。 運転中のため、すぐに視線は進行方向を向くのだが。「……紗良っていつも運転中にそういうこというよね。手が出せない」「な、何言ってるの、もう!」よからぬことを想像して紗良は焦る。 そんな時に背後から声がして紗良はビクッと揺れる。「ねー、DVDおわったからかえて一」「あー……はいはい」「なんかときどき海斗がいること忘れるな」「ほんとに。D
母は「あ、そうだ」と右手でベッドをポンポンと叩く。「じゃああの家あなたたちにあげるわ」「ええっ? じゃあお母さんはどうするのよ?」「私? 私は退院したら小さなアパートでも借りて悠々自適の老後生活を送るわ」「も一何言ってるのよ。まだリハビリも全然進んでないくせに。入院生活延びるよ」「あらぁ、それも悪くないわね。リハビリの先生がね、イケメンなのよ。ふふっ」「オレ、おばーちゃんもいっしょにくらしたい」「まぁ~海ちゃんったら優しい子」結婚するのだから、紗良と杏介、二人で新しい家庭をつくる。 それに対して母の申し出は大変ありがたいことではあるのだが、こんな入院した状態でこの先もどこまで回復できるかわからない母を残して新しい生活を始めるイメージはまったくわかない。 理想と現実の狭間でまだあまり深くは考えていないのだ。「結婚はするって決めたけど、これからのことはおいおい決めるよ。ね、杏介さん」「そうだな。でも俺、みんなで暮らすのもいいかなって思うよ。紗良がいて海斗がいてお母さんがいて、毎日楽しくて幸せなことだなって」「杏介さん……」「なんてできた息子なのかしら。でもね、遠慮しておくわ。あなたたちは二人で新しい家庭を築くのよ。結婚するってそういうことなんだから。それから杏介くん」「はい」「きちんとご両親に報告しなさいね。遠く離れて会わなくたって、親はいつだって子どものことを気にしているものよ」紗良の母の言葉は杏介に緊張を与える。 報告はする、つもりではいた。けれどそれは今でなくても、きっといつか、といった不確かな揺れる杏介の気持ちを、母はぴしゃりと戒めた。 その言葉をしっかりと胸に受け止めて、杏介はコクリと頷く。「……はい」 不安をはらんだ声色は思いのほか自分の胸に刺さった。 紗良はそっと杏介の手を握る。 少しでも杏介の不安が解消しますように、と。