翌日、杏介は一人で病院を訪れていた。「杏介くんにまで迷惑かけちゃってごめんねぇ」一般病棟に移った紗良の母は相変わらず元気でニコニコと笑う。 一時失語症があったとは思えないくらいに回復していた。「お母さんには早く元気になってもらわないと」「これからリハビリも始まるのよ。見てよ、まだ全然左側が動かないの。わたし、呂律も回ってるかしら?」「ええ、ちゃんと聞き取れますよ」杏介は持ってきたタオルやパジャマを棚に片づける。 洗濯物としてまとめられていたビニール袋を持ってきたバックに代わりに入れた。 こうやって親のために何かをすることは初めてな気がして杏介は少し緊張した。 もちろん本当の親ではないけれど、それでも自分の母親と同世代の紗良の母の世話をすることはなんだか感慨深いものがある。「ねえ、 杏介くんから見て紗良って無理してない?」「無理してますね」「やっぱり? あの子意外と頑張り屋さんなのよ。一人で何でもやろうとしちゃって」「そう思います。僕も紗良さんの力になりたいんですけど、全然頼ってもらえなくて」杏介は頷く。 今日ここに杏介が来ることになったのも、遠慮した紗良を遮って杏介が強引に決めたことなのだ。 「ねえ杏介くん、紗良のこと好いてくれてありがとうね。親はいくつになっても子供のことが気になっちゃってねぇ」ふふふ、と紗良の母は笑う。 その表情はとてもやさしくて、眩しく見えた。「いえ、羨ましい……気がします」「そういえば杏介くんはあまり親と上手くいってないんだっけ?」「そうですね。僕が避けているというか……」言葉を濁すと母はぶはっと吹き出した。「あはは! 親はいなくとも子は育つってね。いいんじゃない、そういう人生もありよね」「そうですか? 僕はちょっと後悔もしていたりして――」「あら、そうなの?」「……出来れば仲良くやりたかったですね。今更ですけど」「そっかぁ。でも今からでも遅くないかもね? まあ頑張りなさいって」母は動く右手で杏介の腕をバシンと叩いた。 とても病人とは思えない力強さに驚くと共に勇気づけられるようだ。「お母さん、お元気でなによりです。すぐ退院できるといいですね」「そうでしょう? 元気だけが取り柄なのよ、私。動かないのが利き手じゃなくてよかったわ」紗良の母は明るく笑う。 杏介はその笑顔を見ている
二日ほどして海斗の熱は下がり、元気いっぱい保育園へ行く日々が戻ってきた。 数日、朝の時間を気にせず寝ていたためか、なかなか起きることができなかった海斗を引きずるように保育園へ連れて行き、紗良は時間に追われながら会社へ急ぐ。「おはようございますっ」「おはよう。大丈夫? 石原さん声かすれてない?」「そうですか? 走ってきたからかな?」今日もギリギリの時間になってしまい駐車場から思い切り走った。 海斗と一緒にダラダラと休日を過ごしたためだろうか、体がギシギシと音を立てている気がする。(運動不足だわ……)はぁ、と息を吐きながらたまっている仕事に手を付けた。 相変わらず仕事量は多い。 それに加えて、海斗の体調不良で一日休暇を取ってしまったため、その分も積みあがっている。パソコンに向かってカタカタとデータを打ち込んでいたが、昼になるにつれてどうにも喉に違和感を覚えた。 いがらっぽいと思っていたのだが、それはだんだんとチクチクイガイガと刺さるような痛みに変わっていく。(……海斗のうつったかもなぁ。今日は早く寝よ)と余裕だったのだが、海斗を迎えに行って家に帰る頃にはクタクタになっていた。 先ほどから寒気もするし、もしかしたら熱が出るのかもしれない。
重い体を引きずりながら夕飯を作り、海斗とお風呂に入る。 自分もささっとシャワーだけ浴びて海斗を追うように浴室を出た。体を拭きながらクラクラと目の前がまわり、次第に立っていられなくなる。 体に力が入らないのだ。 かろうじてパジャマには着替えることができたが、その場から動くことができなくなってしまった。先に出てテレビを見ていた海斗が、紗良がなかなかリビングに来ないのでひょこっと様子を覗きに来る。「さらねえちゃんー?」そこには床に横たわった紗良が浅く息を吐いていた。「どうしたの? だいじょーぶ?」ただならぬ様子に海斗は紗良を覗き込む。「……ごめん、海斗。お姉ちゃんの……スマホ取って」朦朧とする意識の中、タップした名前は杏介。 何度目かのコールのあと、留守番電話に切り替わる。「さらねえちゃん?」杏介のシフトは把握していないけれど、留守番電話に切り替わるときはたいてい仕事中だ。紗良は繋がらないスマホを放り出した。 体がだるくて起き上がる気力がない。 横で海斗がさらねえちゃんと呼ぶ声が聞こえているのに、それに返事をする元気さえない。とにかくダルい。 きっとシャワーを浴びたことで体力を消耗してしまったのだろう。 思った以上に紗良は体調不良だったことに今さらながら気づくが、こうなってしまったからにはもう遅い。もうこのまま目を閉じて意識を手放してしまいたいとさえ思った。
杏介が仕事を終えロッカールームで身支度を調えていると、着信を知らせるランプが点灯しているのに気づいた。見れば、紗良から留守電が入っている。聞いてみればしばらく無音で、間違い電話かはたまた海斗がいたずらでもしたのかと思った。 だが、メッセージが終わる直前、わずかに海斗が「さらねえちゃん」と呼んだ声が聞こえた。 それも、慌てた様子で。杏介はすぐに紗良に電話をかけた。 だがいくらコールしても出ない。嫌な予感しかせず、杏介は眉間にしわを寄せる。「杏介~飯でも食ってこうぜ……って、どした? 怖い顔して」「ごめん、また今度」バタンとロッカーを閉めるとカバンを引っ掴んで慌てて外へ出る。「あっ、先輩、お疲れ様で……す?」リカが声をかけるも、杏介は目もくれず飛び出していった。職場から石原宅へは車で十分ほどの距離だが、今日はずいぶんと遠く感じる。 何事もなければいいのだが、と思いながらも気持ちばかりが焦って仕方がない。紗良に何かあった? それとも海斗に? いや、母親か?自分の思い過ごしならそれに越したことはない。 自宅前には紗良の車が止まっており、カーテンの隙間から光が漏れている。 杏介はインターホンを鳴らす。しばらく待つも、しんと静まり返って誰も出てこない。 紗良に電話をかけてみるもやはり反応はない。「紗良? 海斗?」電気が点いているリビングの方へ行ってみようかと思っていると、おもむろにガチャリと玄関が開いた。「海斗!」「せんせー……」飛び出してきた海斗は杏介の足にしがみつく。 今にも泣き出しそうな顔だ。「どうした? 紗良は?」「ねてる」「寝てる?」「ねてるけど、おねつあるって」「熱?!」海斗に連れられて上がり込み、こっち、と案内された場所は階段の下だった。「紗良?!」床の上に寝そべった紗良の上には薄い布団が掛けられている。 近くにはぐっしょりと濡れたタオルも無造作に置かれていた。「紗良! 紗良!」杏介が呼びかけると紗良はうっすらと目を開ける。 杏介さん……、と消えそうな声でつぶやいた。「どうした? 熱があるって? 倒れたのか?」「ううん、床……きもちいいから……」そう答える紗良の息はずいぶんと荒れていてつらそうだ。 首もとを触れば計らずとも熱があるのだとわかる。「杏介さんの手、冷たくてきもち
杏介は紗良を背に抱えて二階の寝室へ運んだ。 三つ折りにされていた布団を海斗が手慣れた手つきで敷いていく。布団に寝かされた紗良は「イルカさん」と手を伸ばして胸に抱え込んだ。 水族館で杏介からプレゼントされたぬいぐるみだ。 それを見て杏介は目を細める。「海斗ももう寝ようか?」「せんせーかえっちゃう?」「海斗が寝るまでここにいるよ」「あさまでいてほしい……」海斗は杏介の手を握る。 小さな手で杏介を自分の布団に引きずり込むと、杏介の体にぴっとりとくっつく。 隣では紗良がイルカのぬいぐるみを抱きしめて、すーすーと小さな寝息を立てていた。この小さな手に、どれだけの責任がのしかかっていたのだろうか。 頼る人がいなくて不安だっただろう。 考えるだけで心が痛むようだ。「おやすみ、海斗」 腕で包むようにして海斗の背中をトントンしてやると、しばらくして海斗も寝息を立て始めた。薄暗い部屋には二人の規則的な寝息だけが静かに響く。 紗良の容態に変化はなく、やはり先日の海斗の風邪をもらってしまったことで間違いなさそうだ。杏介はそうっと部屋を抜け出し、一階に下りた。 勝手知ったる我が家とまではいかないが、何度もお邪魔している石原家。あれこれ手を出すのはよくないと思いながらも、放置されているタオルやびしょ濡れになった床を軽く片付ける。 キッチンのシンクには夕飯の洗い物がまだ残っており、 風呂場や洗面所の電気も点けっぱなしのことから紗良の体調の悪さがうかがえた。(もっと早く気付いてやれたら……)着信履歴が示すように、紗良は杏介に助けを求めたのだ。 それにすぐに応えられなかったことが悔やまれて仕方がない。せめてもの罪滅ぼしというように、杏介は洗い物など目の届く範囲の家事をこなしていった。 日頃紗良がいかに頑張って海斗を育てているのかが少しだけわかったような気がした。
深夜に目を覚ました紗良はもぞもぞと起き上がった。 まだ熱っぽいものの、ぐっすりと眠ったためかずいぶんと体が楽になっている気がする。 隣では海斗が寝相悪く転がっており、やれやれと布団をかけてやった。(杏介さん、いない……) ぐるりと見渡すがそれらしき人影はない。 つらくてどうしようもなく、 海斗がいろいろと世話を焼いてくれていたのは記憶にある。 そのあとに杏介が来てくれ、その姿を見ただけでどれだけ救われたことだろうか。 安心して急に眠気に襲われ、すぐに寝てしまったのだけど。一階へ下りればリビングから明かりが漏れていて、電気を消そうと紗良は顔を出す。 と 、ソファに杏介が横たわっていた。「……杏介さん?」「紗良、どうした?」「えっと、お水飲みたくて……」「ちょっと待ってて」杏介は立ち上がると紗良をソファに座らせる。 キッチンから水を持ってくると、紗良にグラスを手渡した。杏介は紗良の額や首もとに手を当て 「まだちょっと熱いな」 と体温を確認する。 気遣いが嬉しくて紗良は胸がぎゅっとなった。「来てくれてありがとう」「いや、すぐ気づいてやれなくてごめん」「そんなことない。 杏介さんはいつも私のこと……気遣ってくれて、優しくて……」言いながら胸が詰まる。 視界がぼやけてきてポロリと涙がこぼれた。
「紗良?」「……ずっといてくれたの?」「そりゃ、二人を置いて帰るわけにはいかないだろ?」柔らかく微笑む杏介は涙に暮れる紗良をぐっと引き寄せ自分の胸に押しつける。 紗良は杏介のシャツを握りコテンと身を預けた。「……私、熱出して弱ってるのかな?」「俺は紗良が弱ってるときに側にいることができてよかった。こうして涙も拭ってあげられるし、抱きしめることもできる」杏介の手が紗良を優しく撫でる。 背中を撫でられるたび、頭を撫でられるたび、もっともっとしてほしいと体が欲する。紗良はゆっくりと頭を上げるとまっすぐに杏介を見る。 その視線を、杏介は大切に受け止めた。「わたし……本当は寂しいの。杏介さんがいないと、寂しくてたまらない。ずっと側にいたい」「ずっと側にいるよ。海斗が俺を受け入れてくれるなら、結婚しよう。もし受け入れてくれなかったら、その時は恋人になろう」「……いいの?」紗良の頬をまた涙が伝った。 杏介は親指で涙をすくい上げる。「何を今さら。俺はずっと紗良が好きなんだから。気持ちは変わらないよ」「……うん」「俺は紗良がいいんだよ」「私も……杏介さんが好き」自然と二人の距離が近くなる。 吐息が聞こえそうなほどに近づくのは、相手を自分のものにしたいから。「……風邪、うつるよ」「うん、そんなのどうでもいい」ボソリと呟いた杏介が紗良の唇を塞ぐまでにそう時間はかからなかった。ほんのり熱を帯びた唇は甘くて柔らかくて愛おしい。 ようやく気持ちが通い合えたことに胸がいっぱいになり、たまらなく幸せを感じた。
母の入院が長いことと杏介の勧めもあり、紗良はラーメン店でのアルバイトを辞めることに決めた。 約二年間お世話になった店は店長始め従業員がとても優しく、恵まれた環境で働かせてもらっていたと改めて感じる。杏介が海斗を見ていてくれるというので、紗良は小分けのお菓子を持ってバイト先へ挨拶に出掛けた。「せんせー、なにしてあそぶ?」「そうだなぁ。何しようなぁ?」「オレねー、ほいくえんであやとりおぼえた」「あやとりなんて子供の頃やったきりだな」海斗は最近一人称が「海斗」から「オレ」になりつつある。 身長も伸びたしひらがなも読めるようになった。 順調に成長していく海斗。 もう今となっては海斗のことを他人の子とは思えないほどに杏介の中で愛しさが膨らんでいる。 紗良のことも海斗のことも大事にしたいという気持ちは変わらない。「なあ海斗、先生と一緒に住んでもいい?」「え、どうして?」「紗良姉ちゃんと結婚したいんだ」海斗はきょとんとして首をかしげる。「それって、せんせーがオレのおとーさんになるってこと?」「ん……、まあ、そういうことだな」改めて言われると心臓がドキリとする。 杏介にその気はあるが、海斗が受け入れてくれなければ引かなくてはいけないのだ。 それが紗良との約束だから。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。
「おーい、二人ともー、いつまで入ってるの?」バスルームの扉がノックされ、紗良のシルエットが映った。 海斗と内緒話をしていたら、ずいぶんと長湯をしてしまったらしい。「今出るとこー」「でるでるー!」ザバッと勢いよく湯船を飛び出す海斗を、杏介は慌てて呼び止める。「海斗、わかってるよな?」「もちろん! 俺にまかせてよ!」二人目配せをしてからようやく湯船から上がった。 全然体を拭けていないまま裸でリビングへ走って行く海斗を見て、杏介は少々不安になる。 と、やはり「早く着替えなさい」と紗良の咎める声が響いてきて、今日も我が家は平和だなと思った。「もー、杏介さんも叱ってよ」「ん? ごめんごめん。海斗~そんなことじゃ海斗のお願い事はきけないぞ」「あー、ごめんなさーい。今着替えてるからちょっと待って」「……お願いごと?」紗良は首を傾げる。 何か欲しいものでもあるのだろうか? 誕生日はまだ先だし、クリスマスもまだまだ先のこと。 学校でなにか情報でも仕入れてきたのだろうか。それならあり得るかもしれない。「紗良姉ちゃん」海斗は紗良のことも相変わらず『紗良姉ちゃん』と呼ぶ。慣れ親しんだ名を変えることは容易ではない。紗良もわかっているから深くは追求しない。
家族になって数ヶ月、いつからだろうか、杏介の帰りが早い日は海斗と一緒にお風呂に入ることが習慣になっていた。男同士、くだらない話題で盛り上がりついつい長湯をしてしまう。「はー、さっぱりするー」海斗が湯船につかって「ごくらくごくらく」と呟く。「極楽って、どこで覚えたんだ? 意味知ってるのか?」「えー? なんかね、リクが言ってたからさ~。ごくらくって良いことって意味でしょ?」「うーん、ちょっと違うけど。あながち間違いではないな」「えー? そうなのー? うーん」海斗は小学一年生。新しい友達も増え、良い言葉も悪い言葉もたくさん覚えてくるようになった。微笑ましく感じることもあれば、きちんと正してやらなくてはいけないこともある。子育てはなかなか難しい。「ところで海斗、相談があるんだけど」「うん、なになにー?」「あのな――」杏介は少し声をひそめる。うんうんと真剣に耳を傾け、海斗は男同士の秘密ごとにはっと口元を押さえた。「先生、それめっちゃいい!」「だろ?」杏介と海斗はグッと親指を立てる。海斗は未だ杏介のことを『先生』と呼ぶ。本当は『お父さん』と呼んでほしいところだが、無理強いをするつもりはない。海斗の気持ちを大事にしたいからだ。
紗良はぐっと体を起こし、先ほどとは反対に杏介を布団に押しつける。 突然のことに驚いた杏介は目を丸くしたが、その後更に驚いた。杏介を見下ろした紗良は片方の髪を耳にかけ、杏介の上に降ってきたのだ。柔らかくあたたかい感触の唇が押しつけられ、杏介の心臓が思わずドキンと跳ねた。 ほんの一瞬だったように思う。「……続きは夜ね」紗良は恥ずかしくなって、バタバタと寝室を出て行く。 小さく呟かれた声はしっかりと杏介の耳に届いて、頭の中で反芻する。 妻のあまりの可愛さに、杏介は布団の中で一人身悶えすることになったのだった。こんな夫婦のイチャイチャなやりとりがされているなか、隣で寝ている海斗はまったく起きない。 まるで空気を読んでいるかのようでありがたいことだ。「……そろそろ海斗、一人で寝てくれないかな」もう小学一年生。 海斗もいずれは一人で寝ることになるだろう。 そうしたら存分に紗良を堪能できるのに……などとやましいことを考えつつ、まだまだ可愛くて手のかかる海斗を起こしにかかった。キッチンからはパンの焼ける良いにおいが漂ってくる。 紗良が朝食の準備を始めたのだ。「海斗~いいかげん起きろ~」何度揺すっても起きない海斗の布団をはぐ。 「まだねる~」とむにゃむにゃ呟く海斗を引きずるように起こし、自分も準備に取りかかる。こんな何気ない日常がなんて幸せなことだろうと、杏介は知らず微笑んだ。 【END】
「き、杏介さんっ。ちょっと……」杏介の甘い視線に気づき、紗良はこの先のことを想像して、焦って左側にいる海斗を確認する。 相変わらず大爆睡の海斗は起きる気配がない。 杏介もそれは気にしたようで視線をチラリと動かすが、すぐに紗良に戻ってくる。「ちょっとだけ」「んっ……」頬に手を添えながら濃密なキスを落とす。 寝ぼけ眼には刺激的なその行為に、一気に目が覚めるような、それでいてまだ眠りの淵にいたいような微睡んだ感覚に溺れそうになった。もう仕事なんて放棄して、このまま二人で過ごしたい。 一日中布団の中でくっついていたい。そんな風に思考が持っていかれたときだ。ピピピッピピピッ枕元に置いていた目覚まし時計が鳴り出し、ハッと我に返る。 杏介を押しのけて目覚まし時計に手を伸ばせば、不満顔の杏介と目が合った。「……だって、起きる時間だもん」紗良は時計の針が見えるように杏介に示す。 杏介と結婚してから、紗良の起きる時間は少しだけ遅くなった。 五時半に起きていたのを六時に変えたのだ。 出勤時間の遅い杏介が、海斗の送り出しや洗濯干しを担ってくれたからだ。「不完全燃焼……」ポツリと呟く杏介に、紗良は困ったように眉を下げる。 紗良とて、起きなくてもいいならこのまま寝ていたい。 杏介といつまでもくっついていたい。
そう思うと、もう、そうとしか思えなくなる。この紗良の異常な行動は照れているからだろうか。だとしたら嬉しすぎてたまらないと杏介の胸は逸る。杏介はイルカのぬいぐるみをそっと抜き取る。と、「あっ」と紗良は声を上げてイルカの行方を追いつつ、杏介とバッチリと目が合った。「おはよう紗良」「……おはよう」それはもうごまかしようのない状況に、紗良は観念してぎこちなく挨拶を返す。杏介にじっと見つめられて、紗良は不自然に目をそらした。「ねえ、さっきのもう一回して」「さ、さ、さ、さっきのって?」「キスしてくれたよね?」「……お、起きてたの?」「んー? それで起きた。夢うつつだったからちゃんとしてほしいなーって」「……」「照れてる紗良も可愛い。毎日紗良のキスで起きたい。一日頑張れそうな気がする」「わっ」ぐいっと腰を引き寄せられて、ひときわ杏介と密着する。こんなこと初めてじゃないのに、いつもちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい。杏介の胸に耳を当てれば、トクトクと心臓の音が聞こえる。とても安心する音に紗良は目を閉じた。と、突然体がぐいんと回る感覚に紗良は「わわっ」と声を上げる。横向きで寝ていたのに仰向きにされ、上から杏介が覆い被さってきたのだ。
触れたい――。そう思うのに、いつも自分からは触れられない。 杏介がきてくれるから応えるだけ。 それはそれで嬉しくてたまらないのだけど。 やっぱり自分からも積極的に……と思いつつ結局勇気が出ないまま流れに身を任せている状態。もう恋人じゃない、夫婦なのだから、何となく今までとは違う付き合いになるのではなんて思っていたけれど、まだまだ恋人気分が抜けないでいる。そもそも、恋人期間があったのかどうなのか、微妙なところではあるけれど。紗良はそっと手を伸ばす。 杏介の髪に触れるとさらっと前髪が流れた。少しだけ体を起こして杏介に近づく。 吐息が感じられる距離に心臓をバクバクさせながら、ほんのちょっとだけ唇にキスを落とす。ん……と杏介が身じろいだ気がして紗良は慌てて身を隠した。杏介が目を開けると、目の前にはイルカのぬいぐるみ。いつも紗良が抱きしめて寝ているあれだ。 そのイルカのぬいぐるみに身を隠すようにして紗良が丸まっている。この寝相は新しいなと思いつつ紗良の頭を撫でると、紗良はビクッと体を揺らした。 完全に起きていることがバレるくらいの動じ方だ。「……紗良、起きてるの?」「……起きてません」なぜそこで否定を……と思いつつ、目を覚ます前に感じた唇の感触を思い出して杏介は寝ぼけて回らない頭を無理やり動かした。(あれは夢じゃなくて、もしかしてキスだった?)
微睡みのなか目を開けると、一番に目に飛び込んできた顔に、紗良は一気に目が覚めた。「きっ……」杏介さんと叫びそうになって慌てて口を閉じる。目覚まし時計のアラームはまだ鳴っていない。まだほの暗く静かな部屋の中。杏介と、反対側にいる海斗の規則的な寝息だけがすーすーと聞こえてくる。イルカのぬいぐるみを抱いた紗良は、なぜか杏介に包まれるようにして寝ていたようで、しばし思考が止まる。(……なんで?)というのも、海斗を真ん中に三人で川の字になって寝たはずである。それなのにどういうわけか海斗は紗良の背中側におり(しかも寝相が悪すぎて布団からはみ出ている)、紗良は杏介にぴっとりとくっついている状態。紗良の腰には杏介の腕が巻きついている。要するに、イルカのぬいぐるみを抱いている紗良を杏介が抱いている、という形になるわけだが。(……抱きしめられてる)それを理解した瞬間、紗良の心臓はバックンバックンと騒ぎ出した。結婚して四ヶ月ほど経つというのに、隣に杏介が寝ているというだけでドキドキとしてしまう。間近に見る杏介の寝顔は、男性なのに綺麗で可愛いと感じる。長い睫毛や通った鼻筋、形の良い唇。そのどれもが愛おしく感じて胸が騒ぐ。
◇海斗のプール教室は、いつも弓香さんと一緒に観覧席から見守っている。 全面ガラス張りなのでほとんどすべてが見渡せ、海斗のみならず別のクラスを担当している杏介さんの姿もしっかりと確認できる。「うちも海ちゃんと一緒に同じクラスに上がれてよかったわ」「一緒だとやる気も上がるしいいよね」「でも先生が代わっちゃったのがちょっとなー。どうせなら小野先生がよかったわ」「弓香さん、小野先生推しだもんね」私は杏介さん推しだけど、なんて心の中で唱える。 チラリと視線を海斗から杏介さんに向ければ、逞しい体が目に入った。……急に思い出してしまう。あの日のことを。あの逞しい体に、抱かれたんだよね。 すごくかっこよくて、何度もキスをしてくれて、何度も紗良って名前を呼んでくれて、幸せで胸が張り裂けそうになった。初めてはすっごく痛かったけど、でもそれ以上に、杏介さんとひとつになれたことが嬉しくてたまらなかった。私、こんなにも杏介さんのことを好きで愛していたんだって改めて実感した。「おーい、紗良ちゃん? 紗良ちゃーん」「は、はいっ!」「どした? 推しでも見つけた?」「いや、なんでもないよっ」あまりにも杏介さんのことを見ていたからだろう、弓香さんが不思議そうに首をかしげる。前はプール教室の先生なんて全員同じ顔に見えていたし、推しだなんて考えたこともなかった。 だけど今はもう、全員違う顔に見える。当たり前だけど、杏介さんが一番かっこいい。もうちょっとしたら、弓香さんにもちゃんと報告しよう。 杏介さんと結婚しますって。 そしたら何て言うだろう? 驚くかな?その時のことを考えて、私はまたドキドキと心を揺らした。 【END】