杏介は紗良を背に抱えて二階の寝室へ運んだ。 三つ折りにされていた布団を海斗が手慣れた手つきで敷いていく。布団に寝かされた紗良は「イルカさん」と手を伸ばして胸に抱え込んだ。 水族館で杏介からプレゼントされたぬいぐるみだ。 それを見て杏介は目を細める。「海斗ももう寝ようか?」「せんせーかえっちゃう?」「海斗が寝るまでここにいるよ」「あさまでいてほしい……」海斗は杏介の手を握る。 小さな手で杏介を自分の布団に引きずり込むと、杏介の体にぴっとりとくっつく。 隣では紗良がイルカのぬいぐるみを抱きしめて、すーすーと小さな寝息を立てていた。この小さな手に、どれだけの責任がのしかかっていたのだろうか。 頼る人がいなくて不安だっただろう。 考えるだけで心が痛むようだ。「おやすみ、海斗」 腕で包むようにして海斗の背中をトントンしてやると、しばらくして海斗も寝息を立て始めた。薄暗い部屋には二人の規則的な寝息だけが静かに響く。 紗良の容態に変化はなく、やはり先日の海斗の風邪をもらってしまったことで間違いなさそうだ。杏介はそうっと部屋を抜け出し、一階に下りた。 勝手知ったる我が家とまではいかないが、何度もお邪魔している石原家。あれこれ手を出すのはよくないと思いながらも、放置されているタオルやびしょ濡れになった床を軽く片付ける。 キッチンのシンクには夕飯の洗い物がまだ残っており、 風呂場や洗面所の電気も点けっぱなしのことから紗良の体調の悪さがうかがえた。(もっと早く気付いてやれたら……)着信履歴が示すように、紗良は杏介に助けを求めたのだ。 それにすぐに応えられなかったことが悔やまれて仕方がない。せめてもの罪滅ぼしというように、杏介は洗い物など目の届く範囲の家事をこなしていった。 日頃紗良がいかに頑張って海斗を育てているのかが少しだけわかったような気がした。
深夜に目を覚ました紗良はもぞもぞと起き上がった。 まだ熱っぽいものの、ぐっすりと眠ったためかずいぶんと体が楽になっている気がする。 隣では海斗が寝相悪く転がっており、やれやれと布団をかけてやった。(杏介さん、いない……) ぐるりと見渡すがそれらしき人影はない。 つらくてどうしようもなく、 海斗がいろいろと世話を焼いてくれていたのは記憶にある。 そのあとに杏介が来てくれ、その姿を見ただけでどれだけ救われたことだろうか。 安心して急に眠気に襲われ、すぐに寝てしまったのだけど。一階へ下りればリビングから明かりが漏れていて、電気を消そうと紗良は顔を出す。 と 、ソファに杏介が横たわっていた。「……杏介さん?」「紗良、どうした?」「えっと、お水飲みたくて……」「ちょっと待ってて」杏介は立ち上がると紗良をソファに座らせる。 キッチンから水を持ってくると、紗良にグラスを手渡した。杏介は紗良の額や首もとに手を当て 「まだちょっと熱いな」 と体温を確認する。 気遣いが嬉しくて紗良は胸がぎゅっとなった。「来てくれてありがとう」「いや、すぐ気づいてやれなくてごめん」「そんなことない。 杏介さんはいつも私のこと……気遣ってくれて、優しくて……」言いながら胸が詰まる。 視界がぼやけてきてポロリと涙がこぼれた。
「紗良?」「……ずっといてくれたの?」「そりゃ、二人を置いて帰るわけにはいかないだろ?」柔らかく微笑む杏介は涙に暮れる紗良をぐっと引き寄せ自分の胸に押しつける。 紗良は杏介のシャツを握りコテンと身を預けた。「……私、熱出して弱ってるのかな?」「俺は紗良が弱ってるときに側にいることができてよかった。こうして涙も拭ってあげられるし、抱きしめることもできる」杏介の手が紗良を優しく撫でる。 背中を撫でられるたび、頭を撫でられるたび、もっともっとしてほしいと体が欲する。紗良はゆっくりと頭を上げるとまっすぐに杏介を見る。 その視線を、杏介は大切に受け止めた。「わたし……本当は寂しいの。杏介さんがいないと、寂しくてたまらない。ずっと側にいたい」「ずっと側にいるよ。海斗が俺を受け入れてくれるなら、結婚しよう。もし受け入れてくれなかったら、その時は恋人になろう」「……いいの?」紗良の頬をまた涙が伝った。 杏介は親指で涙をすくい上げる。「何を今さら。俺はずっと紗良が好きなんだから。気持ちは変わらないよ」「……うん」「俺は紗良がいいんだよ」「私も……杏介さんが好き」自然と二人の距離が近くなる。 吐息が聞こえそうなほどに近づくのは、相手を自分のものにしたいから。「……風邪、うつるよ」「うん、そんなのどうでもいい」ボソリと呟いた杏介が紗良の唇を塞ぐまでにそう時間はかからなかった。ほんのり熱を帯びた唇は甘くて柔らかくて愛おしい。 ようやく気持ちが通い合えたことに胸がいっぱいになり、たまらなく幸せを感じた。
母の入院が長いことと杏介の勧めもあり、紗良はラーメン店でのアルバイトを辞めることに決めた。 約二年間お世話になった店は店長始め従業員がとても優しく、恵まれた環境で働かせてもらっていたと改めて感じる。杏介が海斗を見ていてくれるというので、紗良は小分けのお菓子を持ってバイト先へ挨拶に出掛けた。「せんせー、なにしてあそぶ?」「そうだなぁ。何しようなぁ?」「オレねー、ほいくえんであやとりおぼえた」「あやとりなんて子供の頃やったきりだな」海斗は最近一人称が「海斗」から「オレ」になりつつある。 身長も伸びたしひらがなも読めるようになった。 順調に成長していく海斗。 もう今となっては海斗のことを他人の子とは思えないほどに杏介の中で愛しさが膨らんでいる。 紗良のことも海斗のことも大事にしたいという気持ちは変わらない。「なあ海斗、先生と一緒に住んでもいい?」「え、どうして?」「紗良姉ちゃんと結婚したいんだ」海斗はきょとんとして首をかしげる。「それって、せんせーがオレのおとーさんになるってこと?」「ん……、まあ、そういうことだな」改めて言われると心臓がドキリとする。 杏介にその気はあるが、海斗が受け入れてくれなければ引かなくてはいけないのだ。 それが紗良との約束だから。
海斗は何かを考える素振りをしてからハッと思い出したようにニヤリと笑った。「せんせーしってた? オレねぇ、せんせーにおとーさんになってほしかったんだー」「そう……なのか?」「まえに“え”あげたでしょ。おぼえてる?」「もちろん、覚えてるよ」あれは去年の父の日のできごと。 まだお互いのことを何も知らない知り合ったばかりの紗良からお願いされたのだ。 海斗が先生の絵を描いたからもらってほしいと。「あれはね、おとーさんになってほしかったからかいたの。しらなかったでしょー?」そのときの海斗はそんなことを思ってはいなかった。 ただ純粋に“滝本先生が好き”だったから描いただけであって、決して父親になってほしいと思っていたわけではないのだ。けれど海斗の中でもあの出来事は今に繋がる布石のように思えて、半ばこじつけるように、でも自信満々にドヤる。杏介にしてみたら、海斗の言葉が嘘か本当か、どちらでもよかった。 ただ笑顔で受け入れてくれたことに胸がいっぱいになる。「 そっか、……そうだったのか」頭を撫でれば海斗は嬉しそうに笑う。 紗良の子供ではないけれど、紗良によく似ているなと思った。「これからよろしくな、海斗」「うん!」杏介と海斗はハイタッチして笑い合う。 心底ほっとした杏介は、あやとりの続きをしながらこれからのことを思い描いた。好きな人と好きな人の子供と家族になる。 きっと幸せでかけがえのない家族。 杏介が為し得なかったあたたかい家庭。 紗良と一緒なら、きっとできるはず――。
ガチャリと玄関が開く音が聞こえ、海斗ははっと顔を上げた。「さらねえちゃんだ!」「ただいまぁ。杏介さんありがとう、助かったよ。おかげできちんと挨拶することができてよかった」「今度みんなで食べに行くか、ラーメン」「うん、そうしよう。店長さんもいつでも食べに来てって言ってたし」紗良と杏介が話している間、海斗はソワソワと紗良のまわりをうろちょろする。 ようやく紗良と目が合うと、待ってましたとばかりに両手を挙げた。「さらねえちゃん、いいことおしえてあげよっか?」「えー、なになに?」「なんと! せんせーがおとーさんになります!」「んっ?」よくわからず紗良は目をぱちくりさせ、海斗から杏介へ視線を移動させる。 杏介は咳払いひとつ、姿勢を正すと紗良をまっすぐに見つめた。「というわけで、海斗には承諾もらったから、俺と結婚してください」「えっ? うそ? いいの、海斗?」「いいよー」海斗のなんともあっさりな返事に紗良は拍子抜けしてしまい思考がついていかない。 杏介を見やれば柔らかく笑う。「紗良、返事はないの?」「あ、えと、お、お願いします」変に照れくさくなり紗良は頬をピンクに染めた。 そんな紗良も可愛いなと杏介は微笑む。「じー」「……海斗、なに期待の眼差しで見てるんだ」「チューするかとおもったから」海斗はニヨニヨと悪い笑みを浮かべる。「まったく、マセてるなあ」「ほんとに、どこで覚えてくるのよそういうことを」 紗良と杏介は呆れながらも、ふふっと笑いあった。 本当は海斗の言うとおりキスをしたい衝動に駆られまくっていたが、大人としてわきまえたことは内緒だ。「今日もおばーちゃんとこいくの?」「行くよ」「じゃあ、おばーちゃんにもおしえよーっと」海斗は上機嫌でウキウキと準備をする。 紗良は何だか夢を見ているような気持ちになってドキドキと落ち着かない。それはやがてじわりじわりと実感に変わり、胸が熱くなった。 杏介と一緒になれることがこんなにも喜ばしいものだとは思いもよらなかった。
病室に入るなり海斗は「おばーちゃーん」と駆けていく。「あら海ちゃん、今日は一段と元気なこと」「おばーちゃんきいて! せんせーがおとーさんになる!」紗良と杏介が追いかけ止める間もなく、海斗は大声で報告した。 もちろん紗良も杏介もきちんと報告するつもりでいたのだが、こうも先を越されると何だかいたたまれない気持ちになる。杏介は眉間を押さえながらも気を取り直す。「お母さん、紗良さんと結婚させてください」これまで家族同然のように接してきた杏介の緊張する顔を見て、紗良の母はクスクスと笑った。 何を今さら、といったところだ。「あなたたち、ずいぶんと遠回りしたんじゃないの? 紗良が頑固だから」「ちょ、お母さんったら」紗良は慌てるが、あながち間違いでもないため言い返すことができず、むむむと口をつぐむ。 杏介はそんな紗良を見て優しく微笑む。「そうかもしれませんが、そのおかげで勢いだけで突っ走ることなく海斗のこともきちんと考えることができたかなと思います」「杏介くん、そんなかしこまらなくていいのよ。時には勢いも大事なんだから。幸せになりなさいね」母の言葉に、紗良と杏介は大きく頷いた。「それでなあに? どこに住むの?」「まだそういう話は全然決めてないよ。お母さんのことだってあるじゃない」「あらやだ、私なんて放っておいてくれればいいのよ」「そういうわけにはいかないでしょ」「紗良、あなたもう結婚するって決めたんだから杏介くんについていけばいいのよ。いつまでもお母さんお母さんって言ってたらマザコンかって杏介くんに嫌われるわよ」「なっ……!」確かに母の言うことも一理あり、紗良は不安げに杏介を見上げる。 その視線はいたく不安そうで杏介は思わず吹き出した。「いや、嫌わないから安心して」「う、うん……」
母は「あ、そうだ」と右手でベッドをポンポンと叩く。「じゃああの家あなたたちにあげるわ」「ええっ? じゃあお母さんはどうするのよ?」「私? 私は退院したら小さなアパートでも借りて悠々自適の老後生活を送るわ」「も一何言ってるのよ。まだリハビリも全然進んでないくせに。入院生活延びるよ」「あらぁ、それも悪くないわね。リハビリの先生がね、イケメンなのよ。ふふっ」「オレ、おばーちゃんもいっしょにくらしたい」「まぁ~海ちゃんったら優しい子」結婚するのだから、紗良と杏介、二人で新しい家庭をつくる。 それに対して母の申し出は大変ありがたいことではあるのだが、こんな入院した状態でこの先もどこまで回復できるかわからない母を残して新しい生活を始めるイメージはまったくわかない。 理想と現実の狭間でまだあまり深くは考えていないのだ。「結婚はするって決めたけど、これからのことはおいおい決めるよ。ね、杏介さん」「そうだな。でも俺、みんなで暮らすのもいいかなって思うよ。紗良がいて海斗がいてお母さんがいて、毎日楽しくて幸せなことだなって」「杏介さん……」「なんてできた息子なのかしら。でもね、遠慮しておくわ。あなたたちは二人で新しい家庭を築くのよ。結婚するってそういうことなんだから。それから杏介くん」「はい」「きちんとご両親に報告しなさいね。遠く離れて会わなくたって、親はいつだって子どものことを気にしているものよ」紗良の母の言葉は杏介に緊張を与える。 報告はする、つもりではいた。けれどそれは今でなくても、きっといつか、といった不確かな揺れる杏介の気持ちを、母はぴしゃりと戒めた。 その言葉をしっかりと胸に受け止めて、杏介はコクリと頷く。「……はい」 不安をはらんだ声色は思いのほか自分の胸に刺さった。 紗良はそっと杏介の手を握る。 少しでも杏介の不安が解消しますように、と。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。