ガチャリと玄関が開く音が聞こえ、海斗ははっと顔を上げた。「さらねえちゃんだ!」「ただいまぁ。杏介さんありがとう、助かったよ。おかげできちんと挨拶することができてよかった」「今度みんなで食べに行くか、ラーメン」「うん、そうしよう。店長さんもいつでも食べに来てって言ってたし」紗良と杏介が話している間、海斗はソワソワと紗良のまわりをうろちょろする。 ようやく紗良と目が合うと、待ってましたとばかりに両手を挙げた。「さらねえちゃん、いいことおしえてあげよっか?」「えー、なになに?」「なんと! せんせーがおとーさんになります!」「んっ?」よくわからず紗良は目をぱちくりさせ、海斗から杏介へ視線を移動させる。 杏介は咳払いひとつ、姿勢を正すと紗良をまっすぐに見つめた。「というわけで、海斗には承諾もらったから、俺と結婚してください」「えっ? うそ? いいの、海斗?」「いいよー」海斗のなんともあっさりな返事に紗良は拍子抜けしてしまい思考がついていかない。 杏介を見やれば柔らかく笑う。「紗良、返事はないの?」「あ、えと、お、お願いします」変に照れくさくなり紗良は頬をピンクに染めた。 そんな紗良も可愛いなと杏介は微笑む。「じー」「……海斗、なに期待の眼差しで見てるんだ」「チューするかとおもったから」海斗はニヨニヨと悪い笑みを浮かべる。「まったく、マセてるなあ」「ほんとに、どこで覚えてくるのよそういうことを」 紗良と杏介は呆れながらも、ふふっと笑いあった。 本当は海斗の言うとおりキスをしたい衝動に駆られまくっていたが、大人としてわきまえたことは内緒だ。「今日もおばーちゃんとこいくの?」「行くよ」「じゃあ、おばーちゃんにもおしえよーっと」海斗は上機嫌でウキウキと準備をする。 紗良は何だか夢を見ているような気持ちになってドキドキと落ち着かない。それはやがてじわりじわりと実感に変わり、胸が熱くなった。 杏介と一緒になれることがこんなにも喜ばしいものだとは思いもよらなかった。
病室に入るなり海斗は「おばーちゃーん」と駆けていく。「あら海ちゃん、今日は一段と元気なこと」「おばーちゃんきいて! せんせーがおとーさんになる!」紗良と杏介が追いかけ止める間もなく、海斗は大声で報告した。 もちろん紗良も杏介もきちんと報告するつもりでいたのだが、こうも先を越されると何だかいたたまれない気持ちになる。杏介は眉間を押さえながらも気を取り直す。「お母さん、紗良さんと結婚させてください」これまで家族同然のように接してきた杏介の緊張する顔を見て、紗良の母はクスクスと笑った。 何を今さら、といったところだ。「あなたたち、ずいぶんと遠回りしたんじゃないの? 紗良が頑固だから」「ちょ、お母さんったら」紗良は慌てるが、あながち間違いでもないため言い返すことができず、むむむと口をつぐむ。 杏介はそんな紗良を見て優しく微笑む。「そうかもしれませんが、そのおかげで勢いだけで突っ走ることなく海斗のこともきちんと考えることができたかなと思います」「杏介くん、そんなかしこまらなくていいのよ。時には勢いも大事なんだから。幸せになりなさいね」母の言葉に、紗良と杏介は大きく頷いた。「それでなあに? どこに住むの?」「まだそういう話は全然決めてないよ。お母さんのことだってあるじゃない」「あらやだ、私なんて放っておいてくれればいいのよ」「そういうわけにはいかないでしょ」「紗良、あなたもう結婚するって決めたんだから杏介くんについていけばいいのよ。いつまでもお母さんお母さんって言ってたらマザコンかって杏介くんに嫌われるわよ」「なっ……!」確かに母の言うことも一理あり、紗良は不安げに杏介を見上げる。 その視線はいたく不安そうで杏介は思わず吹き出した。「いや、嫌わないから安心して」「う、うん……」
母は「あ、そうだ」と右手でベッドをポンポンと叩く。「じゃああの家あなたたちにあげるわ」「ええっ? じゃあお母さんはどうするのよ?」「私? 私は退院したら小さなアパートでも借りて悠々自適の老後生活を送るわ」「も一何言ってるのよ。まだリハビリも全然進んでないくせに。入院生活延びるよ」「あらぁ、それも悪くないわね。リハビリの先生がね、イケメンなのよ。ふふっ」「オレ、おばーちゃんもいっしょにくらしたい」「まぁ~海ちゃんったら優しい子」結婚するのだから、紗良と杏介、二人で新しい家庭をつくる。 それに対して母の申し出は大変ありがたいことではあるのだが、こんな入院した状態でこの先もどこまで回復できるかわからない母を残して新しい生活を始めるイメージはまったくわかない。 理想と現実の狭間でまだあまり深くは考えていないのだ。「結婚はするって決めたけど、これからのことはおいおい決めるよ。ね、杏介さん」「そうだな。でも俺、みんなで暮らすのもいいかなって思うよ。紗良がいて海斗がいてお母さんがいて、毎日楽しくて幸せなことだなって」「杏介さん……」「なんてできた息子なのかしら。でもね、遠慮しておくわ。あなたたちは二人で新しい家庭を築くのよ。結婚するってそういうことなんだから。それから杏介くん」「はい」「きちんとご両親に報告しなさいね。遠く離れて会わなくたって、親はいつだって子どものことを気にしているものよ」紗良の母の言葉は杏介に緊張を与える。 報告はする、つもりではいた。けれどそれは今でなくても、きっといつか、といった不確かな揺れる杏介の気持ちを、母はぴしゃりと戒めた。 その言葉をしっかりと胸に受け止めて、杏介はコクリと頷く。「……はい」 不安をはらんだ声色は思いのほか自分の胸に刺さった。 紗良はそっと杏介の手を握る。 少しでも杏介の不安が解消しますように、と。
杏介の実家は隣の県にあるが、 高速道路を使っても二時間ほどかかる。 本来なら、とても天気の良い絶好のお出かけ日和になりテンションも上がりそうなところ、紗良と杏介は若干神妙な面持ちである。 海斗だけが無邪気にDVDに夢中になっている。「はあ、緊張する ……」車を運転しながら、杏介は胃のあたりを軽く押さえた。「いや、私の方こそ緊張してるんだけど」紗良も大きく息を吐き出す。 初めて会う相手の親、しかも子連れで。 緊張しないわけがない。 さらに杏介と親の関係があまり良いものではないと聞かされれば、なおさらだ。 それは杏介とて然りで――。「こんなことを言うのもあれなんだけど、何年も両親に会ってなくてさ……」「でも会いに行くって電話したんでしょう?」「うん。父親は元々寡黙な人だから、ああ、わかったって一言」「お母さんは?」「父親から伝えてもらったから直接は話してないんだ。あと、今まで一回も……お母さんって呼んだことない」「じゃあ、なんて呼んでるの?」「……あの、とか、ねえ、とか?」言いづらそうに言葉を濁す杏介の姿が新鮮すぎて、紗良はポカンとしてしまう。 そして何故だか笑いが込み上げてきた。「杏介さんって意外と拗らせてるんだ?」「そうだよ。黒歴史だらけだよ。幻滅しただろ?」「まさか。逆に安心した。だって杏介さんってかっこいいしなんでもスマートにこなしちゃうしプール教室でもイケメンで優しいってお母さんたちにすごく人気があるんだよ。だから私、杏介さんと一緒にいて見劣りしたらどうしようってときどき不安になるもん。そういう弱い部分も持っていてくれなくちゃ肩が凝っちゃうよ」朗らかに笑う紗良に、杏介はバツが悪そうな顔で頭を掻く。「……紗良の前でもかっこいい俺でいたかったんだけどな」「じゅうぶんかっこいいし、知らなかった杏介さんの一面が見れて嬉しい」杏介はぐっと息をのむとチラリと紗良を見る。 運転中のため、すぐに視線は進行方向を向くのだが。「……紗良っていつも運転中にそういうこというよね。手が出せない」「な、何言ってるの、もう!」よからぬことを想像して紗良は焦る。 そんな時に背後から声がして紗良はビクッと揺れる。「ねー、DVDおわったからかえて一」「あー……はいはい」「なんかときどき海斗がいること忘れるな」「ほんとに。D
杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思
「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。
「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。
「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。