乃亜は凌央の目をじっと見つめ、しばらく黙ったままだった。そして、笑みを浮かべながら静かに言った。 「私を犠牲にして美咲を守る?そんなこと、絶対にさせない。それと、凌央、私はもう離婚を決めたわ。都合がつく時に市役所へ行きましょう。手続きなんてすぐ終わるはずだから」 その笑顔がどれほど明るく見えようとも、心の中は張り裂けそうなほど痛んでいた。 彼女はずっと知っていた。凌央が美咲をひいきしていることを。 ただ、ここまで露骨だとは思っていなかった。 美咲に自分を踏み台にさせる?そんなこと、絶対に許さない。 「離婚したいなら、まず美咲のトレンド報道の件を片付けてもらう。それが終われば、俺は喜んで離婚してやる。でも、もし俺が動くことになったら、ただの釈明で済むと思うなよ」 凌央は苛立ちを隠すことなく冷たい声で言い放った。 彼にとって、乃亜が離婚を言い出したのは、ただの注目を引くための手段に過ぎないと考えていた。 本気で彼女が離婚を望んでいるとは、到底信じられなかった。 そもそも、当時彼と結婚するためにあれだけ手段を尽くしたのは乃亜自身だった。 さらに、この3年間、彼女はひたすら自分を低く見せて、彼に尽くしてきた。 そんな人間が簡単に「出て行く」なんてできるはずがない――そう思っていた。 乃亜は心の中で何かを諦めたように小さく頷き、「分かった。約束する。でも、さっき言った通り、紗希の件も、ここで一旦終わりにして」と落ち着いた声で答えた。 どうせ自分がどうしようと結果が変わらないのなら、せめて自分の手で少しでも被害を軽くしたかった。 凌央は乃亜の感情のない瞳と向き合うと、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。 だが、その感覚をすぐに振り払って、平然とした表情に戻った。 彼にとって、乃亜の「離婚したい」という言葉など、ただの虚勢に過ぎないと思っていた。 どうせすぐに彼の元へ戻り、頭を下げてくるだろう――そう確信していた。 「じゃあ、結果を待っている」 その一言を残して凌央は病室のドアを開け、中へと入って行った。 その圧迫感がようやく消え、乃亜は全身の力が抜けるのを感じた。 壁に両手をついて、何度も深呼吸を繰り返す。 凌央が離婚を承諾した――本来なら喜ぶ
祐史はその声を聞くなり、素早く車内の仕切り板を上げた。 凌央は腕の中の女性をじっと見つめ、まるで何かに取り憑かれたように、彼女の唇にそっと口づけをした。 だが、乃亜の脳裏には、今日病院で見た、凌央が美咲にキスをしていた光景がフラッシュバックした。 胸の奥からムカムカするものがこみ上げ、彼女は思わず凌央を押し返し、口を押さえてえずき始めた。 その音を聞いた瞬間、凌央の表情がみるみる険しくなった。 「乃亜、お前、どういうつもりだ!」 俺がキスしたのに、吐き気を催すなんてどういう意味だ? 乃亜は急いでティッシュを取り出し、口元を拭いながら顔を上げた。 その瞳は赤く潤んでいて、涙を堪えているようにも見える。 「私たち、もう離婚するのよ。こんなこと、もうやめましょう」 彼女の声は静かだったが、その言葉には微かな痛みが滲んでいた。 凌央は彼女の顎を掴み、顔を無理やり上げさせると、冷たい声で言い放った。 「お前が約束したことをまだ果たせていないだろう?離婚の話はそれからだ」 乃亜は目の前にいる凌央の完璧な顔立ちをじっと見つめ、小さく笑った。 「明日の朝までには、ちゃんと片付けるわ」 凌央がこんなにも美咲の名誉回復にこだわるのは、彼女に受賞歴があり、ステージで輝く存在だからだろう。 それに比べて、自分はどうだろうか。 桜華市で名の知れたトップ離婚弁護士であったとしても、凌央の目には、ただの生活費を稼ぐための『仕事』としか映らない。 だからこそ、彼は自分の状況など一切気にかけないのだ。 「言ったことは、必ず守れよ」 凌央の声には不機嫌さが滲んでいた。この女がここまで強気でいられるのが、なんだか気に障る。 どうせすぐに自分に泣きついてくるだろう――彼はそう確信していた。 「もちろん。私が守らなければ、あなたが手を下すでしょう?それで私に逃げ場なんてある?」 乃亜の胸には、静かな悲しみが広がっていた。それでも、彼女は顔に明るい笑顔を浮かべていた。 結婚して3年―― 彼女はずっと凌央に尽くしてきた。 普通なら、どんなに冷たい石でも、ここまで温めればぬくもりを感じるはずだ。 それなのに、彼の心は、いまだに凍りついたままだった。
「兄嫁と弟がこんなに親密にして、他人の目が気にならないのか?」 祐史は心の中で毒づきながらも、執事を止めようとした。しかし、後部座席を見ると、すでに乃亜がドアを開けて車から降りていた。 執事の言葉から、乃亜はすぐに察した。 おそらく、美咲の登場が原因で、おじいさまが怒りで倒れたのだろうと。 先ほど、凌央に注意を促したのに、彼は彼女の言葉を信じなかった。 そしてこの結果――おじいさまが倒れた今、凌央はどんな気持ちでいるのだろうか。 いや、きっと何も感じていないのだろう。 彼にとって、美咲以外の存在は、どうでもいいのだから。 執事は乃亜の姿を見つけると、慌てた様子で声を張り上げた。 「奥様!早くこちらへ!」 乃亜は足を速めながら、歩きながら執事に質問した。 「家庭医には連絡したの?」 「はい、すでに電話しました。ただ、到着まであと20分ほどかかるそうです」 「窓は開けてある?」 「すべて開けてあります」 乃亜は短く「分かった」と返すと、さらに歩みを速めた。 玄関に入ると、耳に飛び込んできたのは、美咲の小さくか細い泣き声だった。 眉間にわずかに皺を寄せた乃亜は、小声で執事に言った。 「高木さん、高橋さんを部屋に戻して休ませてあげて。おじいさまを邪魔させるわけにはいかないから」 おじいさまが倒れた原因が美咲であることは、明らかだった。 それなのに、彼女がここで泣き崩れている様子は、わざとらしく見え、乃亜の胸には苛立ちが募った。 「承知しました」 執事の高木は足早に奥へと進んでいった。 乃亜は玄関でスリッパに履き替えると、そのままリビングへ向かった。 その頃、高木はすでに美咲のそばに立ち、小声で促していた。 「美咲さん、お疲れでしょう?お部屋で少しお休みになられてはいかがですか」 高木は昔からこの美咲を好ましく思ったことがなかった。 話し方がいちいち甘えたようで、何かと泣きつき、周囲に迷惑をかける存在にしか思えなかったからだ。 美咲は、玄関からゆっくり歩いてくる乃亜の姿に気づくと、無意識に顔を曇らせた。 彼女の凛とした美しさは、どこか嫉妬心を煽るものがあった。 そして、ふと凌央を見ると、彼もまた乃亜
おじいさまは、その場で倒れそうなほど怒りを露わにしていた。 凌央は、商界では切れ者として知られ、手腕も評価されている人物だ。 だが、美咲の話題になると、まるで知性を家に置いてきたかのような態度を取る。 乃亜は淡々とした表情を崩さず、おじいさまのためにそっとスープをよそい、静かに目の前に差し出した。 「おじいさま、スープをどうぞ」 その柔らかい声に促され、おじいさまはスープを手に取り、一口飲んだ。 怒りに燃えていた心が少しずつ落ち着いていくようだった。 スープを置いたおじいさまは、鋭い眼差しを凌央に向け、重々しい声で口を開いた。 「お前がそう聞くなら、はっきり言ってやろう」 「乃亜はな、ここへ来るたび、私のために料理をしてくれるんだ。私が何を好むかもよく知っていてな。魚を出すときには、骨を一つ残さず取ってくれる。乃亜の気配りは、実に見事なものだ」 「だが、あの女はどうだ?毎回ソファーにどっかり座り込んで、まるで奥様としての威厳を見せつけるかのように振る舞い、家の召使いを使い放題だ。召使いがみんな彼女の世話をしていたら、私の面倒を見てくれる人がいなくなるじゃないか!」 おじいさまの声は怒りに震え、表情も険しさを増していった。 同じ名家で育った娘でも、こうも違うものか――その落胆が表れていた。 「家には専属の料理人がいるんだから、わざわざ自分で料理をする必要なんてない。それに、召使いは主人の世話をするためにいるんです。美咲は昔から繊細な性格だから、どうしても人に助けてもらわないといけないんですよ」 凌央は、淡々と反論しながら、ちらりと乃亜に目を向けた。 彼女はいつも隙がない。 仕事へ行く時にはきっちりとしたスーツ姿、帰宅後も端正なセットアップに身を包み、どんな時でも「蓮見家の妻」としての体裁を守っている。 だが、それがどこか無味乾燥で、彼にとって物足りなさを感じさせるのだ。 3年前、おじいさまの強い勧めで結婚することになった彼女。 だが、その生活には、どこか「熱」が欠けていた。 乃亜は視線を落としながらスープを飲む。 彼女の手は、微かに震えていた。 凌央の目には、彼女がどれだけ努力しても、それが「無意味」なものに映っているのだろう。 仕
凌央は乃亜の微かに震えた声に心を奪われ、両手で彼女の腰を引き寄せると、さらに自分の胸元へと押し込んだ。まるで彼女を自分の身体に閉じ込めたいかのようだった。 「乃亜、お前も俺を求めてるんだろ?ほら、『旦那様』って呼んでみろ」 二人は結婚してから三年。ほぼ一日おきに肌を重ねてきた。どうすれば乃亜が喜ぶのか、どうすれば彼女が最も快感を得られるのか――凌央はその全てを熟知している。 だからこそ、彼は短時間で彼女をその気にさせ、さらには自ら求めるよう仕向けることができる。 ここ数日はお預けを食らっていた凌央にとって、彼女への欲求は限界を超えていた。 ましてや目の前には柔らかな彼女がいる。この瞬間を逃すはずがない――いや、逃したくなかった。 乃亜は唇を噛み締め、羞恥心を必死に抑えていた。 冷たくて上品に見える凌央の裏の顔を知っているのは彼女だけ。特に、ベッドの上では彼がわざと彼女を焦らし、彼のことを呼ばせようとする意地悪な趣味があることも知っていた。 だが、ここは蓮見家の庭園だ。たとえ使用人がいなくても、万が一声が漏れたら――その想像だけで羞恥心に打ちのめされそうだった。 凌央は彼女を呼ばせたい一心で、彼女の敏感な部分を指先で優しく弄り始め、耳元で甘く囁いた。 「いい子だ。『旦那様』って言ってみろ」 「ほら、奥様、呼んでみなよ」 今この瞬間、凌央が欲するのはただ一つ――彼女を完全に征服すること。 目の前の妖精のような彼女を支配することで、彼自身も満たされていく。 彼女の体に走る熱を感じ取った瞬間、乃亜は震えながらも、ついに抵抗を諦めた。 「......旦那様......」 恥ずかしさに頬を染めながら発せられたその言葉は、彼の欲望をさらに煽り立てるものだった。 凌央の瞳に情欲が宿り、彼の手は彼女のスカートをまくり上げる。 次に起こること――二人の間には暗黙の了解があった。 乃亜は彼の熱い手に触れられるたびに、自らの体温が上がっていくのを感じた。顔を赤らめながら彼の胸元に顔を埋め、彼の存在を心から感じていた。 ――もしかしたら、自分は凌央のことを誤解していたのかもしれない。 彼が美咲に特別な感情を抱いているのでは――そんな不安がふと消えたように思えた。
美咲は怒りで胸がいっぱいになったが、言葉を飲み込んでなんとか言った。 「乃亜さんが呼んでいるわ。早く行って!私のことはほっといて!」「運転手に君を先に病院へ連れて行かせる。俺もすぐ向かう」 凌央はそう言うと、美咲を抱き上げて車に乗せ、運転手に出発を指示した。美咲は車の中から、凌央がだんだんと遠ざかる後ろ姿を見つめ、両手を強く握りしめた。あのクソジジイ! 絶対に、この目であんたがくたばる瞬間を見届けてやる!凌央は美咲を見送ると、急いで家の中に戻った。リビングでは、乃亜がソファに座って果物を食べており、高木さんと楽しそうに話していた。部屋には柔らかな空気が流れている。凌央はその様子を見て、一瞬足を止めた。乃亜は蓮見家の家族全員と仲が良いのに、なぜ美咲とはことごとく対立してしまうのだろう?凌央に気づいた乃亜は、果物を口に運びながら二階を指差して言った。 「おじいさまが書斎で待ってるわよ」乃亜はおじいさまが凌央に何を話すのか知らなかったし、特に興味もなかった。高木さんは微笑みを引っ込めると、凌央に近づき丁寧に声をかけた。 「凌央様、どうぞこちらへ」奥様は本当に優しくて素敵な方なのに、凌央様は冷たくて無口だ。 そのうち奥様が我慢の限界を超えて、離婚を言い出したら大変なことになるかもしれない。 高木さんはそんなことを心配しながら、凌央を案内した。凌央は軽く頷き、後についていった。階段を上がる途中、凌央は高木さんにふと尋ねた。 「どうして美咲は『美咲さん』って呼ばれて、乃亜は『奥様』なんだ?」「おじいさまが、奥様だけを正式な孫嫁として認めるとおっしゃいました。ですから、奥様の呼び方は特別なんですよ」 凌央は眉を寄せた。 「じゃあ、おじいさまが美咲を嫌っている理由は分かるか?」高木さんは軽く笑って答えた。 「おじいさまの気持ちは私には分かりません。知りたいのでしたら、直接おじいさまにお聞きになってはいかがでしょう」誰が見ても、美咲はわがままで大げさで、性格もあまり良くない。そんな人を好きになるのは難しいだろう。 それにしても、凌央が美咲をあれほど甘やかす理由はさっぱり分からない。それは普通の義理の兄弟関係を超えているようにしか見えない。こんなことで
おじいさまは鼻で冷たく笑いながら言い放った。 「お前と賭けなんかしない!とにかく、もし乃亜に捨てられたら、私に泣きつくな!恥ずかしい奴め!」そう言い終えると、おじいさまは立ち上がり、さっさと部屋を出ていった。凌央が自信満々に「乃亜は絶対に離れることなんてない」と言う様子が、おじいさまには愚かとしか思えなかった。 いつかきっと後悔する日が来る――おじいさまはそう確信していた。凌央は眉を軽く上げ、書類袋を手に持ちながらおじいさまの後ろに続いて出て行った。一方、乃亜はすでに階段を下りてリビングに座っていた。 高木は乃亜の顔色が悪いことに気づき、心配そうに尋ねた。 「奥様、どこか具合が悪いのでは?お顔がとても青白いですが......」乃亜は首を軽く横に振り、静かな声で答えた。 「大丈夫です、何でもありません」しかし、本当は大丈夫なはずがなかった。 さっき凌央が話した言葉は、乃亜の心を深く傷つけていた。表情が晴れるはずもない。「少々お待ちくださいね。お水をお持ちします」 高木はそう言い残し、慌ててキッチンへ向かった。その頃、じいさんと凌央が階段を降りてきた。リビングに座る乃亜を見つけたおじいさまは声をかけた。 「もうこんな時間だし、外は雨で冷える。今日はここに泊まっていきなさい。部屋は毎日掃除しているし、布団も清潔だ。さっさと上がって休むみなさい」おじいさまの中では、二人が少しでも親密になることを期待していた。 もしかしたら、一晩過ごすうちに子どもができるかもしれない、と。しかし、乃亜は柔らかな目でおじいさまを見つめながら、優しい声で答えた。 「明日、裁判があるのですが、準備がまだ終わっていません。今日は戻りますね」凌央は乃亜を一瞥し、唇を少し引き結んだ。 以前は蓮見家に来ると何日も泊まることを望んでいた乃亜が、今日はすぐ帰りたがるように見える。 何を考えているんだ、この女?おじいさまは少し残念そうにしながらも、理解あるように頷き返した。 「仕事も大切だが、身体をもっと大事にしなさい。無理しすぎないように」 そう言うと、おじいさまは凌央が手に持つ書類袋を目で示しながら、早く乃亜に渡せと言いたげな顔をした。「まあいい。帰るなら気をつけて帰りなさ
凌央は眉間にしわを寄せ、低い声で鋭く問い詰めた。 「何があったんだ?」「乃亜がネットのトレンドを買って、私のダンスの受賞がコネだって広めたのよ!それだけじゃない!スポンサーがいて、その人の子どもを妊娠しているってまで書かれてる!これで私の評判は地に落ちたわ。舞台に立つことも、ダンサーとしてやり直すことも、もうできない......私の未来も人生も、もう終わりよ!こんなんじゃ生きている意味なんてないわ!死んでやる!」 美咲は電話越しで泣き叫んだ。凌央の顔は瞬時に険しくなり、声色もさらに冷たくなった。 「どんなトレンドだ?詳しく話せ」彼はこんな話を今まで一切聞いていなかった。「乃亜に聞いて!あいつが仕組んだことだから、絶対に知ってるはずよ!」 美咲の怒りが抑えきれず、電話越しでもその感情が伝わってくる。「分かった。落ち着け。俺が聞いてみる」 凌央はそう言うと、電話を切った。乃亜は少し目を閉じて休もうとしていたが、凌央と美咲の会話を聞いて、胸騒ぎを覚えた。 また美咲が何か面倒を起こしたんじゃないか......乃亜が警戒してしまうのも無理はなかった。 美咲はいつも大げさで、凌央に告げ口するのが得意だった。そんなことを考えていると、凌央の冷たい声が飛んできた。 「乃亜、どうしてこんなことをした?美咲の人生を台無しにして、お前に何の得があるんだ!」その言葉を聞いても、一瞬何の話か分からなかった乃亜だったが、ようやく理解した。 ああ、またトレンドの話か。心の中でため息をつきながら思った。 そんなにお金が余っているなら、私にくれればいいのに。わざわざトレンドを買うなんて、どれだけ暇人なのかしら......「乃亜、おじいさまがいるからって、俺が何もできないと思うなよ!」 凌央の声は怒りに震えていた。乃亜は彼の態度に少し苛立ちながら、冷静な声で言い返した。 「情報部がいるんでしょ?そっちに調べさせれば、私がやったかどうか分かるはずよ」彼女は本当に凌央の頭の回転を心配していた。 あれだけ頭の切れる人間なのに、美咲の言葉をそのまま信じるなんて。もし子どもにこんな頭の悪さが遺伝したら......凌央は車を非常駐車帯に止め、ハザードランプを点けた。 「こ
凌央は唇をきつく結びながら言った。 「おじいさま、この件、少しでも話し合う余地はないんですか?」 凌央は、おじいさまが本当に美咲に電話をしてブレスレットを返させる可能性が高いことを分かっていた。 「ない!」 おじいさまの態度はとても強硬だった。 あのブレスレットは乃亜に渡したもの。それなら、それは乃亜だけのものだ。 祐史は頭を下げ、静かに立っていた。目線は地面に向け、何も言わない。 しかし心の中では、社長が奥さんに渡すべきだったブレスレットを美咲に渡したのは不適切だと思っていた。 ましてや、それがSNSで話題になってしまうなんて。 だが、自分はただの雇われ人であり、口を出す立場にはなかった。 「それなら、乃亜が来てから彼女と話して、それで決めるのはどうでしょう?」 凌央の声は少し掠れていた。 凌央は遠い記憶を思い出していた。 昔、美咲がこっそり渡してくれた一束の現金。 そのお金が、彼が逃げる道中で命を繋ぐ重要な資金になった。 美咲は自分の命を救ってくれた。 今、彼女が欲しいのはただのブレスレット一つだ。それくらいの願いを叶えないなんてできるだろうか。 「これ以上は話し合いの余地はない!」 おじいさまは苛立ちを隠さずに言い放った。 「凌央、お前はいつからこんなに優柔不断になったんだ!」 外の世界では、凌央は冷酷で決断力のある「閻王」として知られている。 だが今、目の前の孫がこんな風に迷っているのを見ると、彼は失望を隠せなかった。 その時、ドアが開いた。 柔らかで上品な声が響く。 「凌央、来たわよ」 祐史が顔を上げると、美咲が入口から入ってきたところだった。 以前から蓮見社長の指示で、美咲が来る時は事前連絡なしでも入れるようになっていた。 だから美咲は、今やこのオフィスに自由に出入りできる状態だった。 祐史は数日前、茶水室で聞いた女性社員たちの噂話を思い出した。 「美咲さんは幸運な人だね。ついに蓮見夫人になったんだから」 彼女たちは、美咲と親しくすることで自分たちの地位を上げようとする算段までしていた。 その時、祐史は心の中で思った。 もし彼女たちが「本物の蓮見夫人」が乃亜だと知っ
咲良は完全に乃亜のファンだった。 「乃亜さんは最高です!」と信じて疑わない。 彼女にとって、乃亜は完璧な存在で、グループリーダーになるなんて彼女の実力に比べれば全然足りないくらいだと思っていた。 「本当は、乃亜さんくらいの実力者なら、もうパートナーになっていてもおかしくないですよ!」 乃亜は苦笑しながら、冷静に言った。 「そのリーダーのポジション、私が選ばれるとは限らないでしょ。そういう話は、ここだけにしておいて。他の人に聞かれたら笑われるだけだから」 事実、乃亜は律所であまり人間関係が良いとは言えなかった。 もしこんな話を誰かに聞かれ、結局リーダーに昇進しなかったら、それをネタにされるのは目に見えている。 「分かってますって!乃亜さんにしか言いません。他では絶対に言いませんよ。それより、今夜の食事会、乃亜さんも行くんですか?」 咲良は2年間乃亜のアシスタントを務めており、普段から私的な会話も気軽にする仲だった。 乃亜は時計を見ながら答えた。 「今から少し外出するけど、もし食事会があるなら、場所を後で教えて。そしたら現地で合流するわ」 創世グループの株式は、おじいさまが自分にくれると言ったものだ。 きっちり受け取るのが当然。 そうでなければ、凌央がまた美咲に渡してしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたい。 「分かりました!後で場所を送りますね」 咲良は資料を整理しながら答えた。 乃亜はオフィスを片付けてから律所を出た。 創世グループへ向かう途中、おじいさまから電話がかかってきた。 画面に表示された番号を見て、乃亜は少し迷ったが、すぐに電話に出た。 「おじいさま」 「乃亜、今すぐ凌央のオフィスに来なさい。話がある」 おじいさまの声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。 乃亜は少し胸が締め付けられるような感覚を覚え、低い声で答えた。 「分かりました。すぐ向かいます」 おじいさまが急いで自分を呼ぶということは、恐らくSNSで話題になっている件を知ったのだろう。 創世グループ・社長室 おじいさまはソファに座り、顔を赤くして怒りをあらわにしていた。 「お前を賢い男だと思って後継者として育てたんだ。それが、こ
美咲から送られてくるメッセージは、いつも同じような内容ばかりだった。 「私、妊娠してるの」とか、「凌央がどれだけ私を愛しているか」など。 何度も繰り返されるその自慢に、乃亜は正直うんざりしていた。 そもそも、凌央との離婚を渋っているのは自分ではなく、凌央のほうだ。 なのに、まるで自分が凌央にしがみついているかのように見せたい美咲の行動が、余計に面倒だった。 それに、どう考えても美咲が言うほど凌央が彼女を愛しているようには思えなかった。 彼女が妊娠しているというのに、凌央は離婚を申し出ることさえしていないのだから。 本当に愛している女性を、周囲から「不倫相手」だと非難される状況のまま放置するなんて、普通ならありえない。 そんなことを考えていた矢先、スマートフォンが突然鳴り響いた。 乃亜は少し深呼吸をし、画面に表示された番号を確認してから電話に出た。 「今日、私の誕生日なの。一緒にご飯を食べたくて、グリーンティーレストランに予約を入れたわ」 美咲の声は柔らかく、耳に心地よい響きを持っていた。 乃亜は軽く唇を弧にし、冷静に答えた。 「食事は遠慮しておくわ。その代わり、後でプレゼントをランナーで送るから」 美咲がこうやって頻繁に絡んでくる以上、適当に反応を返しておく必要があると判断した。 しかし、美咲はすぐにやんわりと断った。 「凌央がもうプレゼントをくれたから、あなたがわざわざ送る必要はないわ。だって、あなたたちは夫婦でしょう?個別に贈るなんて変だわ」 一見柔らかい言葉遣いながらも、その実、凌央からプレゼントをもらったことをアピールする美咲。 乃亜は冷静に、少し笑みを浮かべて返す。 「そのプレゼントって、蓮見家の代々のブレスレットのこと?それ、もともと私のものよ。ちょっと貸してあげただけだから、忘れずに返してね。返さないなら、直接取りに行くから」 美咲が自分の物を使って得意げに振る舞う様子が、逆に乃亜には可笑しく思えた。 「そのブレスレットは蓮見家の正妻の証なのよ!どうしてあなたのものだなんて言えるの?」 美咲は思わぬ乃亜の反撃に驚き、声を荒げた。 苦労して手に入れたブレスレットを簡単に返すわけにはいかない。 乃亜は相変わらず冷静
「蓮見社長が奥様にお話したい大事な件があるので、事務所まで来ていただけませんか?」 祐史の低く丁寧な声が電話越しに聞こえた。 乃亜は少し眉を上げ、冷静に答える。 「今、仕事が忙しいの。もし本当に急ぎなら、そちらの社長にこちらまで来てもらって。急ぎじゃないなら、私が仕事を片付けてからでいいでしょう」 以前の乃亜なら、祐史から電話が来た時点ですぐに荷物をまとめ、凌央のもとへ向かっただろう。 乃亜の中では、凌央の優先順位がいつだって一番だったからだ。 けれど、今はもう凌央との離婚を考えている。 彼に従う理由なんて一つもない。 仕事を放り出して彼に会いに行く?そんなことはもう二度としない。 「分かりました」 祐史は仕方なく電話を切り、社長室に戻ってそのまま報告した。 凌央は、乃亜が自分に会いに来るのを断ったことに少し驚いた。 以前の彼女なら、理由もなく頻繁にオフィスに来ていた。 手作りのクッキーやケーキ、ミルクティーを持ってきて、笑顔で「差し入れです」と言っていた姿が、ふと頭をよぎる。 「本当に『大事な話』があるって伝えたのか?」 そう尋ねる凌央の声には、明らかに疑念が含まれていた。 祐史はすぐにうなずく。 「もちろんです」 彼も有能な秘書だ。たった一つの伝言を伝えられないなど、ありえない。 凌央は眉間を揉みながら短く指示を出した。 「今からおじいさま名義の創世の株式を乃亜名義に移す。担当者を手配して、今日中に手続きを完了させろ」 乃亜が来ない理由は、きっとあのブレスレットの件で機嫌を損ねているからだ――そう凌央は考えていた。 だが、創世の株式を譲れば、彼女も怒りを収めるだろう。 祐史は指示通り、必要な手続きを進めるために部屋を出ていった。 凌央は一息ついてからお茶を飲み、心を落ち着けて、直接乃亜に電話をかけた。 その頃、乃亜はアシスタントと案件の詳細について議論していた。 電話の画面に凌央の名前が表示されると、思わず眉をひそめた。 さっき祐史に断りを入れたばかりなのに、どうして直接電話をかけてくるのだろう。 そんな乃亜の様子を見て、アシスタントが軽く冗談を言った。 「どうしたんです?電話に出ないなんて
凌央は眉を軽く上げながら、冷たく問いかけた。 「それ、どういう意味だ?」 乃亜は少し笑みを浮かべながら、さらりと答えた。 「言葉通りの意味よ。とにかく、よく覚えておいてね!で、もう気は済んだ?ネクタイを外して、私を解放してくれる?」 彼女の口調は軽く、まるで何事もなかったかのようだった。 凌央は何も返さず、車のドアを開けて降りた。 祐史は少し距離を置いて立っていた。聞くべきでないことを耳にしないよう配慮していたが、それでも意識は凌央の動きに集中していた。 凌央が車を降りると、祐史は急いで近寄り、恭しく声をかけた。 「蓮見社長」 「昨日の夜、桜華市の高架道路で何があったのか調べろ。それから、乃亜がここ数日入院していた記録も確認してくれ」 凌央は乃亜の言葉を完全に信じていないわけではなかった。ただ、彼は確たる証拠を見てからでないと納得できない性格だった。 祐史は少し驚いたが、深く詮索せずに「かしこまりました」とだけ答えた。 祐史が電話をかけに行く間、凌央は車のドアにもたれてタバコを吸い始めた。 なぜか分からないが、頭の中には乃亜の首についたキスマークが何度も浮かんでくる。それが妙に胸の奥をざわつかせていた。 車内では、乃亜が座席に縛られた手を必死に擦りつけて、ネクタイを外そうとしていた。 ふと目を窓ガラスに向けると、そこにはガラス越しに見える凌央の端正な横顔があった。 この男を、乃亜は9年間も愛していた。 何度も夢に出てきたその顔。 しかし、今や二人の関係は終わりを迎えた。 その結末に直面しても、想像していたほど痛みを感じない自分に気づき、少し驚いていた。 祐史は仕事が早く、高架道路の監視カメラの映像をすぐに入手した。 凌央はパソコンを受け取り、動画を再生した。 2本の映像をすべて確認するのに30分ほどかかった。 その間、乃亜は手首に巻かれたネクタイをどうにか外し、素早く身なりを整えると、車のドアをそっと開け、気づかれないように静かに車から飛び降りて走り去った。 背後で聞こえた物音に気づき、凌央は振り返った。 彼女の姿が目に入り、祐史がすぐに追いかけようとする。 しかし、凌央は冷静に言った。 「追わなくていい。
「彼が私を抱えたのは、服が破れてしまって、あの時は恐怖で一歩も歩けなかったから。でも、車まで運んでくれただけで、その後は紗希と一緒に家に帰ったわ」 凌央が信じようが信じまいが、乃亜が言っていることは正真正銘の事実だった。 凌央は彼女の言葉を最後まで聞いたが、目は冷たいまま。 「昨日の夜、高架道路でそんな事件があったなんてニュースには一切出ていないぞ」 まるで「信じられるわけがない」と突き放すような言い方だった。 乃亜は胸の奥に、悲しみを感じた。 凌央は美咲と堂々と一緒にいて、毎日のように話題になり、子供まで作っているのに、乃亜には一言の説明すらない。 なのに、自分がこんなに心を抉るようにして真実を伝えても、彼は信じようとしない。 やっぱり、それは愛されていないからだろうか? 「どうして黙る?嘘をつく言い訳も思いつかなくなったか?」 凌央の中では、乃亜と拓海の間に何かあると完全に決めつけていた。証拠を目にしない限り、絶対に信じることはなかっただろう。 乃亜は深く息を吸い、涙を浮かべた瞳で凌央をじっと見つめると、突然笑った。 「じゃあ、今すぐ祐史さんに頼んで、昨日夜の高架道路の監視カメラの映像と、私の病院の入院記録を調べてみてよ。私が嘘をついているかどうか、全部分かるはずよ」 一言一言を口にするたびに、彼女の心は少しずつ引き裂かれていった。 あんなに凌央を愛していたのに、今この顔を見ても何の感情も湧いてこない。 もう何年も凌央に尽くし、自分を犠牲にしてきた。それなのに――もう、それは終わりにする時だ。 凌央は乃亜の虚ろな目を見た瞬間、胸の奥がざわつくのを感じた。 もし彼女の言っていることが本当なら、自分が彼女を危険に追いやった張本人だということになる。 そんな自分を、どうしても許せるはずがない。 「凌央......私たち、離婚しましょう」 乃亜は目を閉じ、胸の痛みをこらえながら震える声でそう言った。 彼女は本気で、この愛のない結婚を終わらせたかった。 こんなふうに苦しむより、ずっとマシだと思ったから。 凌央は険しい表情を浮かべ、冷たく言い放った。 「前におじいさまの前で、一生離婚しないって約束したとき、お前も承諾したよな。今さら
乃亜は凌央に腕を掴まれたまま、彼が口にした「拓海」という名前に驚き、目を見開いた。 少し前に助けてくれた彼のことを思い出し、凌央が拓海に何か仕掛けるのではないかと心配になり、慌てて口を開いた。 「私と拓海さんは本当に何もないわ。凌央が考えてるような関係じゃない」 必死に言い訳する乃亜の様子を見て、凌央の目が冷たく光る。その手にはさらに力がこもった。 「何だよ?そんなにあいつのことが大事か?」 さっきまで自分に身を委ねていた乃亜が、拓海の名前を聞いた途端にその反応すら失う。 本当に拓海のことを庇っているのか――そう思うと、凌央の内心はさらに苛立ちを募らせた。 乃亜は彼の目に見透かされたように、体が一瞬こわばった。それでも首を振って否定する。 「違う。そうじゃない」 凌央は彼女の微妙な反応を見逃さず、眉を寄せた。 「蓮見家の嫁は、嘘をつくのが随分上手くなったな」 その低い声には、どこか鋭い危うさがあった。乃亜が他の男を心の中で思い浮かべる――それがどれほど腹立たしいことか。 だが、その瞬間の凌央は、自分の怒りの理由を深く考えようとはしなかった。 「私は嘘なんてついてない。本当に、拓海さんとは何の関係もないの」 乃亜は必死に否定した。 昨日、拓海が貸してくれた上着はまだ紗希の家に置いてある。明日クリーニングに出し、その後返す機会を探さなければならない。 もし久遠グループが拓海の帰国を知ったら、また彼女を監視するような真似をしてくるだろう。 そんなことになれば、拓海と会うどころか、上着を返すことすら難しくなる。 凌央は彼女の小さな口が言い訳を並べる様子を見て、ますます苛立った。そして、突然彼女の唇を奪った。 そのキスは乱暴で、まるで感情をぶつけるかのようだった。 乃亜は思わず体をよじらせて抵抗する。「凌央、痛い!」 その一言で、凌央の顔がさらに暗くなった。 「もう俺に触られるのも嫌になったのか?何のつもりだ?」 「違う。ただ、痛かっただけ」乃亜は慌てて言い訳をする。 凌央は彼女の顔をじっと見つめ、鋭い目で何かを見極めようとしているようだった。そして彼の目が彼女の首元に留まる。そこには赤い痕があった。 その痕跡は、色から見て
乃亜は驚きの表情を浮かべた。 凌央の言葉の意味は...... 離婚したくない、ということ? まさか、そんなはずがない! 「私は別に構わないけど、お姉さんのお腹が隠せなかったら、周りから変なこと言われるかもしれないよ。その時、聞いてる人がどう思うか分からないよ」 乃亜は心の中でそう思った。こんなに寛大な妻は、なかなかいないよね!凌央は無言で乃亜を支え、次に乃亜の手首を掴んでエレベーターに無理に引き込んだ。 ドアが閉まると、凌央の大きな手が彼女の後頭部を包み込み、唇が軽く触れた。 乃亜は手で口を覆おうとしたが、彼の唇がそのまま指に落ちてきた。 一瞬の熱さ! 凌央は冷たい声を出し、彼女の手を引き離した。 二人の唇が重なり合う。 凌央のキスはとても優しく、ほんのりタバコの香りが漂ってきて、まるでその温もりに引き込まれるようだった。 乃亜はその優しさにすっかり惹かれていた。一階に到着すると、エレベーターのドアが開き、騒がしい音が二人を現実に引き戻した。 乃亜は恥ずかしさと怒りで、凌央の胸を叩きつけた。 凌央は彼女の顔を抱きしめ、低い声で言った。「動かないで、抱えて出るから」 乃亜は言われた通り、じっとしていた。 凌央は彼女を抱きかかえ、エレベーターを出て、急いで車へ向かった。 祐史は凌央が女性を抱えて車から出てくるのを見て、一瞬驚いたが、すぐに理由を察した。 凌央が抱えている女性は二人しかいない。ひとりは蓮見家の奥さん、もうひとりは美咲さんだ。 蓮見家の奥さんは凌央に抱かれることはないし、距離を取るように言われている。 けれど、今の凌央の抱き方は、間違いなく美咲さんだ。 もしや、凌央は美咲を迎えに行ったのか?祐史は考えながらも、凌央が近づいてきて、「ドアを開けろ!」と言った。 慌てて車のドアを開けた祐史。 凌央は乃亜を車に乗せ、ドアを閉めてロックをかけると、彼女を座席に座らせ、自分もすぐに身を寄せた。 乃亜は目を見開き、彼の目に欲望が映っているのを感じて、思わず声を上げて手を振り上げた。「恥知らず!」 凌央はその頬を叩かれ、顔色を変えたが、すぐにネクタイを引き裂き、乃亜の両手を頭の上で縛り上げた。 唇を再び奪い
美咲は凌央の姿を見るなり、瞬時に計算したような目の輝きを見せ、勢いよく凌央の胸に飛び込んだ。 そして、か細い声で泣き始めた。 「凌央さん、ごめんなさい。私なんかがこの手首飾りを欲しがったせいで、乃亜さんをこんな気持ちにさせてしまいました!」 「医者から感情を安定させるように言われたばかりだろう。泣いて何になる」 凌央は眉をひそめ、顔には少し苛立ちの色が浮かんでいたが、声色は優しく、まるで目の前の女性を労わるようだった。 「やっぱり、この手首飾りは返します。私にはふさわしくありませんから......」 美咲は凌央の手を掴み、その手にブレスレットをそっと置いた。 その仕草にはどこか控えめで恥じらいがあったが、その裏に隠された本心は屈辱そのものだった。 ――私はこの家の孫嫁なのに、どうしてこんなにも扱いが違うのか。 美咲の胸には怒りが込み上げていた。 自分の誕生日には何一つ贈られず、乃亜には創世グループの株式と蓮見家の家宝のブレスレットが渡された。 このブレスレットは、蓮見家の「次期正夫人」としての地位を示す象徴。 それは権力、名声、財力を持つ者が身につけることを許される特別なアイテムだ。 桜華市の上流社会の中でも憧れの存在であるそれを、ずっと欲しがっていたのに。 ――どうして乃亜がそんな簡単に手に入れるのよ。 美咲は内心、ブレスレットを自分のものにしたいという願望でいっぱいだったが、凌央の前では無関心を装っていた。 「これは君にあげたものだ。一度渡したものを返してもらうなんて筋が通らない」 凌央は再びブレスレットを美咲の手に押し返した。その声は低く、落ち着いていた。 美咲はその瞬間、勝利の笑みを浮かべながら乃亜の方を見た。 ――これで私の勝ちね。 乃亜が欲しがっているこのブレスレットは、自分の手元に残る。 乃亜は静かにスマートフォンを取り出し、2人の様子を撮影しながら、笑顔を浮かべて言った。 「次に2人がベッドで愛し合うときは、ぜひ知らせてね。プロのカメラマンを連れて、証拠写真を撮るから。離婚のときに慰謝料の参考にするわ」 乃亜の笑顔はとても明るく、楽しんでいるように見えた。 しかし、心の中では悲しみが押し寄せていた。 凌