LOGINこの人もこの人のボディーガードも、話し方がなんだか変で、とわこは頭が痛くなる。「いまメイクを落としてるところです」とわこは我慢して答える。「メイクを落としたら荷物をまとめるのか」三郎は彼女の荷物にやたらとこだわっているようだ。「どうして荷物のことばかり言うのですか。今日はまとめないですよ」彼女ははっきりと釘を刺す。「こっちに入院してる友だちがいるので、彼が退院したら、一緒に帰ります」三郎は一気に興味をなくした。「今日怒って帰るかと思ったのに。帰らないならもう切るぞ」プツッ。通話は切れた。「意味わかんない」とわこはスマホを置き、独り言のようにつぶやく。「なんで今日中に帰れって言うの。まさか今日何か大きなことでも起きるの?」日本。和夫の遺骨が埋葬されたあと、哲也はすぐにアメリカへ戻った。哲也が去ると、桜はすぐに一郎へ尋ねる。「兄さん、いくら持っていったの?」彼女の兄をよく知っている桜にとって、哲也がお金なしであっさり引き下がるなどありえないことだった。「桜、確かに彼にお金は渡した。でも本当に結婚するかはまだ決まってない。その話は君が子どもを産んでからだ」「私、あなたと結婚するなんて言ってないし。ただ、いくら払ったか知りたいだけ」桜は小声で言う。「もし私がこれからお金を稼げるようになったら、返せるかもしれないし」一郎はその考えに少し驚き、言う。「2000万円」桜は目を見開く。「そんなに?」桜にとって2000万はとても大きな額だ。一郎はどう言えばいいかわからなかった。彼は嘘をついていた。実際に哲也に払ったのは2億円だ。哲也は直美のときと同じ額を要求した。一郎はそれ以上払うわけにもいかず、2億円を出した。しかし2億円と言えば、桜に余計な負担を与える。だから2千万と言った。「みんな、あなたはお金持ちだって言ってる。もしかして2000万なんて、あなたにとっては普通の人が十円を出すぐらいの感覚なの?」桜は彼が黙っているのを見て、勝手に想像を膨らませる。「そうだよね。私のこと好きじゃないのに、高いお金なんて払うわけないよね」一郎の穏やかな心は、彼女の言葉で一気に燃え上がる。「桜、一日でも僕を怒らせないと気が済まないのか」「なんでそんなに怒りっぽいの。ニュースで見たけど、男にも更年期って
奏はとわこに関することを口にしたくなくて、真帆の問いに言い訳して答える気もなかった。だから彼は何も言わなかった。真帆にはまったく追及する勇気がなく、不機嫌な顔を見せることなんてとてもできなかった。彼女は微笑みながら言う。「奏、今日はお父さんの身にあんなことが起きて、本当に不安で仕方なかったの。あなたがそばにいてくれて、本当に救われた」「大丈夫だ。あの人は無事だ」「うん、もう心配はしてないよ。ただね、私、あなたの妻になれたこと、本当に幸運だと思ってるの」……とわこは救助員によって岸に引き上げられたあと、すぐに溺水の応急処置を受ける。胃の中の海水を吐き出したとき、とわこは意識を取り戻した。目の前に停泊しているヨットが、さっき起きたことを鮮明に思い出させる。「お嬢さん、病院にお連れしましょうか」救助員が尋ねる。とわこは反射的に首を横に振る。「だいじょうぶ……」死の縁から生き返ったような感覚が、彼女を一気に覚醒させた。自分は死ねない。まだ子どもがいる。まだそばにいてくれる大切な友人たちがいる。人生には恋人だけじゃない。家族も友達もいる。心の中に広がっていた冷たい絶望が、少しずつ薄れていくと、とわこは勢いよく立ち上がった。今の彼女は全身がボロボロだ。けれど幸い、周りには誰もいない。「お嬢さん、車を呼んできます。ここはタクシーが来ません」と救助員が説明する。とわこはその場に立ち、救助員が運転手を呼びに行くのを待つ。およそ一時間後、彼女は宿泊しているホテルへ送られた。髪も服もすでに乾いている。ただ、服はしわだらけで、髪も乱れ、何よりも化粧は完全に崩れていた。部屋に戻ると、とわこはすぐに洗面所でメイクを落とそうとする。クレンジングをコットンに染み込ませたそのとき、バッグの中からスマホの着信音が鳴った。バッグも一緒に海に落ちたが、幸いスマホはまだ使える。コットンを置き、スマホを取り出す。画面には三郎の名前。彼ももう、奏が自分を海に突き落としたことを聞いたに違いない。とわこは電話を取り、嘲笑される覚悟をした。しかし、三郎は笑わなかった。「もうホテルに戻ったのか」「ええ。言われたものは渡しました。それで任務は終わりです。もう…お世話になることはありません」とわこは自嘲気
彼の言葉に、とわこは一瞬だけ動きを止めた。やはり当たっていた。「やっぱり真帆さんに言われて、私を追い出しに来たんだね。もうすぐ昼食会が始まるのに、私にご飯を一口も食べさせないつもり?」彼女の声は冷え切っていた。「昼食を食べてから行くわ」「なぜその食事にこだわる」奏が問い返す。その目と声が告げていた。今すぐ消えろと。「お腹が空いたの。食べてから帰りたいだけ」とわこは指を握りしめ、頑なに言う。「私がどうしても食べるって言ったら、力づくで追い出すつもり?」たしかに彼女は空腹だった。だが、絶対にこの船上で食べなきゃいけないわけじゃない。ただ、飲み込めないものがある。彼は彼女を抱いておきながら、真帆の夫として振る舞っている。記憶を失っただけで、人格が変わったわけじゃない。なのにどうして、こうなるの。昔だって直美がそばにいたのに、あの時はこんな泥沼みたいな関係にはならなかった。本当に環境は人を変えるのか。いや、奏はずっと前から彼らを知っていた。じゃあ、彼は昔からこういう人だったのか。胸の中も、頭の中も、ぐちゃぐちゃに乱れていく。「とわこ、昼食会に君の席はない」奏の声は冷たかった。「船を降りたら、好きな物を食べればいい」「私は帰らない」彼女は眉を寄せ、真正面から言い返す。「どうするの、私を海に投げ落とす?」奏のこめかみの血管が浮き、目の底には凍るような光が走る。彼の忍耐が急速に削られていくのを、とわこは感じた。もしかしたら、本当に彼はやるかもしれない。今の彼は高橋家の婿。そして高橋家の親族は全員、この船にいる。元妻が居座り、妻を怒らせたなら、彼は行動で示さなければならない。そうしなければ高橋家に立場がない。そう思った次の瞬間、とわこの身体が宙に浮いた。奏が彼女を抱え上げた。叫ぶ間もなく、彼は無情に腕を離した。とわこの身体は小石のように、海へと落ちていく。水面を叩いた大きな音。白い飛沫。絶望と痛みが、一気に身体中を飲み込んだ。もし腕で押されて出口から降ろされただけなら、ここまで心は壊れなかっただろう。哀しみの極みは、心が死ぬこと。彼女の心は完全に折れた。海に沈んでいく中、とわこの身体は魔法がかかったように動かない。泳げるはずなのに、浮かぶ気力がない。極度の失望は、
酔いつぶれて眠っているなら、呼びかければ多少は反応があるはずだ。完全に意識が覚めなくても、かすかにでも声に反応するものだ。だが今の剛は、呼んでもまったく反応がない。けれど鼻先に手をかざすと、呼吸はある。だから家政婦はすぐに医者を呼ばず、まず真帆のところへ来た。「お嬢様、大貴様を見かけませんが」家政婦は大貴の姿が見えなかったので、真帆を探しに来た。「お兄ちゃんもきっと酔ってるの」真帆は小声でつぶやく。「今日かなり飲んでたから」「そうですか。大貴様はしばらくお戻りになってませんでしたから、今日は親戚や友人がたくさん来て嬉しかったのでしょう」家政婦が言う。「お嬢様、あまり心配なさらずとも、旦那様の呼吸は正常です。深い眠りに入っているのかもしれません」「お医者さんは呼んだ?」真帆が聞く。「いえ、まだです。今すぐ呼んできますか?」「うん。早く呼んで」真帆の胸はざわつく。「お父さんに何かあったら困る」父がまだ遺言を決めていないことを彼女は知っている。父は奏の働きを見て決めると言っていた。奏の働きが良ければ、核心事業を奏に任せるつもりだと。もし父が今急に倒れたら、兄が全ての財産を握ってしまうだろう。今、自分と奏は同じ船に乗っている。だから父を失うわけにはいかない。真帆と奏は、剛が休んでいるゲストルームに入った。ベッドに眠る剛は、とても安らかな顔をしている。奏はすぐにベッドに近づき、剛の鼻先に手をかざした。呼吸は正常だ。「お父さん」真帆は身をかがめ、剛の大きな手を握りしめ、強く呼びかけた。「お父さん、起きて。真帆よ、お父さん」真帆の声は細く、耳に刺さるようだった。だが剛はまったく反応しない。明らかに普通の睡眠ではない。意識が落ちている。すぐに家政婦が医者を連れて戻ってきた。……甲板で、とわこは手すりにもたれ、人生で初めてのタバコを吸っていた。実際はすでに三本目だった。火をつけても数口吸う前に、海風が灰をすべて吹き飛ばしてしまう。四本目に火をつけようとした時、背後から重い足音が近づいてきた。とわこは振り返らない。海風が、近づいてくるその人の馴染んだ香りを運んでくるから。彼が隣に立ち、とわこの手元のタバコを見て動きを止めた。平静だった瞳の奥に、大きな波が立った。「
そのボディーガードは三郎の部下だ。とわこは彼を見つめた。「私がタバコを吸うように見える?」ボディーガードは笑みを浮かべた。「なんだか、退屈してるように見えます」とわこは小さく笑って、手を差し出した。「じゃあ、一本ちょうだい」ボディーガードは一本差し出し、火をつけてやった。「さっき三郎さんから電話があって、戻れって言われました」「うん、戻っていいわ。私はもう少ししたら帰るから」とわこは火のついたタバコを見つめ、ボディーガードの真似をして口に咥え、そっと吸い込んだ。その瞬間、煙が喉に入り、激しく咳き込んでしまう。ボディーガードは大笑いした。「ドジですね!最初はそんなに思いっきり吸っちゃ駄目ですよ!」とわこは笑われて腹が立った。「じゃああなたにメスを渡して手術させたら、同じようにバカになるわね」「ははは!怒りました?」ボディーガードは目を細め、とわこの鎖骨に残る赤い痕を見てから、からかうように言った。「もう奏さんといい仲になったのですか?」「違うわ」とわこは細い指で煙草を摘み、軽く吸い込む。今度はかろうじてむせなかった。「彼はズボンを上げた瞬間、知らん顔したの。前はそんな人じゃなかった」「人は変わるものです。どんな環境にいるかで、いくらでも」ボディーガードの目には、どこか攻撃的な光が宿っていた。「一緒に来ますか?」とわこの指先からタバコが落ち、海へと沈んだ。「どういう意味?」眉をひそめる。「言葉どおりの意味です」ボディーガードは狡猾な笑みを浮かべる。「俺が行っちゃっても知らないですよ。ついてこなきゃ、きっと後悔します」「なんでついて行かないと後悔するの?」とわこは混乱した。ボディーガードの顔が歪んで見え、海風に揺れた髪を耳にかけながら問い詰める。「あなた、本当は何が言いたいの?」ボディーガードはそれ以上は言わず、表情を引き締めた。「三千院さん、俺は行きます。お元気で」一歩下がって、背を向けた。「ちょっと待って!」とわこはますます苛立ちを覚える。「タバコとライター、置いてって」ボディーガードはまさか彼女が本気で吸うとは思わなかったが、素直にタバコとライターを差し出した。とわこはそれを受け取り、もうボディーガードのことは気にしなかった。宴会場。真帆は奏の腕に自分の腕を絡ませ、一瞬たりとも離
しばらくして、真帆は奏の姿が見当たらないことに気づいた。宴会場を探してもいない。甲板にも、どこにもいない。それどころか、いなくなったのは奏だけではなかった。とわこも姿を消していた。真帆の心臓がどくんと大きく跳ねる。まさか二人でこっそり会っているのでは?今日のとわこはあまりにも魅惑的だった。同じ女の自分ですら、つい見とれてしまうほどだ。まして男なら。真帆はすぐにスマホを取り出し、奏の番号を押した。呼び出し音は鳴るのに、誰も出ない。焦りに駆られた真帆は、ボディーガードたちに奏を探すよう指示を出した。まもなく、彼らは一人のスタッフを連れて戻ってくる。「真帆様」スタッフが丁寧に説明した。「奏様は二十分ほど前に、手元が滑って女性に飲み物をこぼしてしまいました。その後、その女性を連れてゲストルームへ向かわれました。服を汚されたので、処理のためかと」真帆は眉をひそめ、すぐに問い返す。「その女性、赤いロングドレスを着てなかった?」「はい。確かに赤いドレスでした」その答えを聞いた瞬間、真帆の目に涙がにじむ。「すぐに案内して!」スタッフは困ったように首を横に振る。「どの部屋に入られたのかまでは分かりません。マネージャーを呼びましょうか?」「いいわ、もう結構!自分で探す!」船内にはゲストルームが数十室しかない。一つずつ扉を叩いてでも、必ず見つけ出してみせる。真帆はボディーガードを引き連れ、ゲストルームへと足を踏み入れた。その頃、奏ととわこはちょうど前方の部屋から出てくるところだった。二人の姿を見つけた真帆は、勢いよく駆け寄る。「奏!」声には、再び会えた安堵と、どこか泣き出しそうな切なさが混じっていた。とわこは視線を奏へ向ける。彼は落ち着いた表情で、ためらうことなく真帆の方へ歩き出す。ほんの少し前まで、あの冷たい目の奥に、確かに温もりがあったのに。もし真帆から電話が来なければ、まだ二人はあのまま。とわこは、一瞬でも彼が過去を思い出すのではと期待していた。せめて、身体が覚えている記憶だけでも。だが、彼がシャツのボタンを留め、ベルトを締めた瞬間、その目から優しさがすっと消え、また冷たい理性だけが残った。今の彼は、再び真帆の夫だった。「奏、どうして彼女と一緒にいたの?」真帆は何も知らないふ