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第576話

Penulis: 夏目八月
その夜、北條守は文月館に留まった。それどころか、数日に渡って夕美の元で過ごした。

一方、葉月琴音は自分の院の改装を始めた。公費での出費は認められず、全て自分の財布から出した。

扉や窓には最も堅固な木材を用い、鉄木は見つからなかったものの、商人に探させ、高値でも購入する構えだった。

院の名も「安寧館」と改め、万事安寧の意を込めた。

軍を離れ、鎧甲もない今、密かに護心鏡を打たせ、昼夜身につけていた。刺客の侵入への用心を怠らなかった。

北條守と夕美の今の睦まじさには、まったく関心を示さなかった。心変わりした男など、蔑むだけだった。

彼女は言った通り、内裏の争いに身を落とすつもりはなかった。最も忌み嫌う姿には決してならないと。

それに、北條守は本当に夕美を愛しているのだろうか?彼女には一言も信じられなかった。

北條守の彼女への眼差しには、愛情のかけらもなかった。演技すら下手で、誰の目にも明らかだった。ただ夕美だけが愚かにも気付かない。

いや、おそらく夕美も気付いているのだろう。ただ、この状況では仕方がない。たとえ偽りでも、あの冷淡な関係よりはましだと思っているのかもしれない。

琴音は二人のことなど気にも留めなかった。この屋敷で衣食に不自由することはないのだから。自分の将来にも今は他の道はない。待つしかなかった。

誰が自分を狙ったのか。上原さくらではないことは分かっていた。ただ、彼女に疑いをかけることで、北條守の未練を断ち切れる。

そう、どこかで未だに諦めきれない自分がいた。

だが、どんなに心が晴れなくとも、北條守と夕美の表面的な睦まじさには関わるまい。北條守が親房家の力を借りて将軍家を守ろうとしているのは明らかだった。

名西郡では、清張烈央は丹治先生と木幡青女の献身的な看護により、急速に回復に向かっていた。

身体の傷はほぼ癒えたものの、片方の膝の骨が砕けたままだった。丹治先生は軟膏を幾重にも塗り重ねたが、まだ好転の兆しは見えない。

しかし丹治先生は言う。この脚が本当に不自由になるかどうかは、都に戻ってから決めることになるだろうと。七月半ば、一行は都への帰途についた。

七月半ば、一行は都への帰途についた。

寧姫の婚礼が八月八日に控えているためだ。道枝執事と治部が取り仕切るとはいえ、兄と義姉として婚礼までには必ず戻らねばならない。姫君の婚礼の
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    夕美は目を泳がせ、座って話し合うことを頑なに拒んだ。冷ややかな声で言った。「あの時は、酒に酔って起きた過ちよ。私はあの人を十一郎さんだと思い込んでいただけ。でもあの人は正気だった。私が誰なのか分かっていたはず。だから、私にも非はあるけど、彼の方がずっと重い」「でも、夫は違うことを言っていました」香月は必死に涙をこらえながら、震える声で続けた。「あなたは酔っていたけど、正気だったと。彼が誰か分かっていて、名前も呼んだって」「嘘つき!」夕美は顔を赤らめ、一瞬さくらの方をちらりと見てから、大声で言い返した。「嘘よ!あの人に直接対質する勇気があるの?私が呼んだのは十一郎さんだわ!」さくらには裁きの経験こそなかったが、あれだけの時が経っても、夕美が十一郎の名を呼んでいたことを覚えていた。それは、彼女が村松光世と区別がつかないほど泥酔していなかった証だった。香月は一時、言葉を失った。しかし、その母である千代子は冷静さを保っていた。冷笑して言った。「泥酔していたはずなのに、誰の名を呼んだか覚えているのですか?酔っていても三分の意識があったということは、その人が十一郎さんでないことも分かっていたはず」「戯言を!」夕美は再び立ち去ろうとした。大勢の前でこの恥ずかしい話を蒸し返されて面目が立たなかった。織世が再び制止しようとすると、平手打ちを食らわせた。「生意気な!私を止める気!?」織世は頬を押さえながらも、一歩も退かなかった。「夕美お嬢様、話をはっきりさせてからお帰りになって」夕美の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。「私に何を言えというの?この件で一番傷ついたのは私よ。光世さんは得をしただけ。私がどれほどの代償を払ったか分かって?全て私が悪いというの?なぜ私ばかりを追及するの?彼を問い詰めに行けばいいでしょう」香月は次第に冷静さを取り戻してきた。「夫への問い詰めは当然やります。それはさておき、正直に答えてください。あの日、薬王堂に行ったのは彼に会うためだったのでしょう?私も調べましたよ。薬王堂に行く前から、北條守さんとの離縁を騒ぎ立てていた。もう一緒に暮らせないと思ったから、彼を頼ろうとしたのでは?」「雪心丸を買いに行っただけよ!」夕美は恥ずかしさと怒りで声を荒げた。「余計な詮索はやめて!」「彼は薬箪笥係ではなく、仕入れ係でしょう?雪心丸を買

  • 桜華、戦場に舞う   第1145話

    三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果

  • 桜華、戦場に舞う   第1144話

    家の恥を外に晒すまいという配慮など、香月にはもはやなかった。だがさくらの威厳の前に、涙をこらえながら、母や義姉、叔母たちと共に西平大名家の正庁へと入っていった。西平大名家側は、親房鉄将がまだ勤務中で不在。蒼月が女中たちを従えているだけで、これほどの大勢に対峙するのは初めての経験だった。夕美を呼びに人を走らせたが、さくらが来ていると聞いた夕美は、なおさら姿を見せようとしなかった。結局、事態を知った三姫子が、高熱を押して事態の収拾に現れた。さくらは三姫子の姿を見て胸が痛んだ。わずか数日の間に一回り痩せ、蝋のように黄ばんだ顔は血の気を失い、唇だけが熱に焼かれて赤く染まっていた。歩くにも人の手を借りねばならぬほど、弱々しい様子だった。普段から親しかった三姫子が楽章の義姉と知り、さらに親近感を覚えたさくらは、こんな状態で夕美の尻拭いをさせるのが忍びなく、「夕美さんが出てこられないのなら、老夫人にお願いしましょう。病人を立たせておくわけにはまいりません」と声を上げた。「申し訳ございません。母上も体調を崩されておりまして……」蒼月が答えた。香月は理不尽な要求をするつもりはなかった。ただ、これまで抑えてきた思いを、今ここで夕美にぶつけたかった。たった一つの質問に答えてもらえれば、それで良かった。目を真っ赤に腫らしながら、香月は切々と訴えた。「私は誰かを責めたいわけではございません。ただ夕美さんに一つだけお聞きしたい。あの日、薬王堂へ行かれたのは、意図的に夫を探されたのでしょうか、それとも本当に薬を買いに……ただそれだけを、正直にお答えいただきたいのです。もし本当に偶然の出会いだったのなら、私の思い過ごしとして謝罪いたします。夫が職を失い、天方総兵官様にまでご迷惑をおかけしたこと、すべて私の責任……私が家から追い出されても甘んじて受けます」その言葉には明確な意図が込められていた。この数日間、きっと一睡もできぬほど考え抜いた末の言葉なのだろう。香月の目は泣き腫らして赤く、涙の跡が生々しかった。その心の張り裂けそうな表情に、見ている者まで胸が締め付けられた。三姫子は香月の母・千代子の方を向き、疲れた声で言った。「千代子様、私たちも長年の知り合いです。お付き合いは浅くとも、私がどんな人間かはご存知のはず。率直に申し上げますが、この件で夕美に問いた

  • 桜華、戦場に舞う   第1143話

    光世の妻が押しかけてきたのには、それなりの理由があった。まず、世間の噂が収まらないことだ。村松光世が薬王堂で薬材を管理していたことは広く知れ渡り、連日、患者ではない野次馬が押し寄せては罵声を浴びせる始末だった。薬王堂は患者すら入れない有様となり、ついに採薬から戻った丹治先生が自ら、村松光世の解雇を宣言せざるを得なくなった。もはや薬王堂とは無関係だと。もう一つの理由は、天方家の縁談だった。やっと見つけた娘を天方十一郎の母、村松裕子は気に入り、先方も同意していた。あとは十一郎の承諾を得て、生年月日を取り交わすばかりだった。ところが一件が発覚すると、先方は仲人を寄越し、縁談を白紙に戻すと言い出した。これまでの付き合いは、ただのお茶飲み話だったということにしたいと。激怒した裕子は実家に戻り、村松家の長老たちに裁定を仰いだ。長老たちは村松光世を呼び寄せ、痛烈に叱責した。従兄弟の情を踏みにじったことはまだしも、何年経っても尻の拭い方も知らぬ馬鹿者が、世間の笑い者になるどころか、村松家の面目を潰し、おまけに十一郎と天方家の名誉まで台無しにしたと。光世は薬王堂の職を失い、すでに癪に障っていたところへ、村松家の長老からの叱責で名誉も失墜し、怒りのあまり離縁を口にした。それが一時の感情に任せた言葉だったのか、本気だったのかは定かではない。だが、一度口に出したその言葉は、光世の妻・白雲香月の怒りに油を注ぐ結果となった。実家は六位官に過ぎず、大きな権勢はないものの、娘が侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。兄たちは即座に光世の元へ押しかけ、暴力を振るった後、女性親族を引き連れて夕美のもとへ向かった。香月が夕美を追及する理由は明確だった。あの日、夕美がわざわざ薬王堂まで出向いて光世に愚痴をこぼしたのは、計算づくの行動だと。下心があっての仕業だと確信していた。白雲家の一族は予想以上に大人数だった。叔母や伯母など十数人に、さらに下女や老女を加えた二、三十人が、浩々としたぞろぞろと西平大名邸へ押し寄せた。最初は騒ぎ立てることもなく、ただ夕美に出てきて香月と話をつけるよう要求した。だが夕美は恐れて姿を見せず、屋敷の奥に隠れたまま、早く別邸へ移っていれば良かったと後悔するばかり。三姫子は高熱で寝込み、老夫人は体調を崩しており、このような事

  • 桜華、戦場に舞う   第1142話

    有田先生と道枝執事は持てる人脈を駆使して、この古い事件の調査を始めた。西平大名家の傍系の長老たちに話を聞くと、みな口を揃えて「あの子は火事で亡くなった」と言い、親房展夫妻が長く嘆き悲しんでいたという。明らかに真相を知らない者たちの証言で、陽雲が以前調べた時と同じく、表面的な情報に過ぎなかった。調査が進む一方で、北條守と親房夕美の離縁は円満に成立した。双方の同意を得て、争いもなく、持参金も返された。嫁入りの時は都中の注目を集めたというのに、今は目立たないようにと願うばかり。夕美は三姫子に、「将軍家が困窮しているのは承知している。大きな家具や寝具、箱は要らない。細々とした物と絹織物、装飾品だけで十分です」と伝え、ただし嫁資の不動産だけは真っ先に取り戻した。三姫子は自ら采配を振るわず、家の執事に任せきりだった。姑と夕美は三姫子に、光世の妻に会って誤解を解くよう懇願し、千金を用意するとまで言い出した。しかし三姫子も蒼月も反対した。千金で夕美の名誉を買い戻すなど、割に合わないと。この一件が片付いた途端、三姫子は病に倒れた。夜中に突然の高熱で意識が朦朧となり、急いで医者を呼んだ。診断によれば心火が強く、五臓が焦り、秋風に当たって冷えを引き、それが熱となったのだという。嫡子嫡女に庶子庶女まで、皆が看病に集まり、側室たちも次々と姿を見せた。庶子たちは雅君書院には通えなかったものの、三姫子は決して冷遇することなく、専任の乳母を付けて教育を施した。男児たちは同じく私塾で学んでいた。この結婚生活において、三姫子は持てる限りの心力を注ぎ込んだ。普通の人間ができること、できないことを問わず、すべてを成し遂げようとしてきた。西平大名老夫人は三姫子の病を知り、自分が追い詰めすぎたと後悔した。怒りに任せて夕美を叱りつけ、別邸で暮らすよう命じた。「甥や姪に迷惑をかけるな」と。夕美が当然のように騒ぎ立てると、老夫人は激怒し、平手打ちを食らわせた。「この不埒者め!三姫子がどれほどあんたのために尽くしてきたというのだ。いつまで家に迷惑をかけ続ける?あんたを育てたからといって、一生面倒を見なければならないとでも?」三姫子の病が重かったからこそ、老夫人も慈しみの心を見せたのだろう。それに、体面を重んじる老夫人にとって、娘が二度も実家に戻ってく

  • 桜華、戦場に舞う   第1141話

    しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と

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