守は水のように冷たい眼差しで、静かに口を開いた。「鹿背田城での出来事が、すべて嘘だと言ってくれないか」琴音は冷笑を浮かべた。「私を嫌うのは、鹿背田城のことが理由?違うでしょう。薩摩山で捕虜になったこと、この顔が醜くなったこと、私が清らかさを失ったと思っているからでしょう。でも言っておくわ、私は何も穢れてなどいない」守は首を振った。「違う。薩摩城外での出来事については、ただ心が痛むだけだ。だからこそ、お前の代わりに杖打ちも受けた。俺が受け入れられないのは、鹿背田城でお前がしたことすべてだ」「自分を欺くのはやめなさい」琴音は相変わらず冷笑を浮かべていた。「鹿背田城での私の行動が、本当に間違っていたと思うの?」「お前は自分が間違っていたと思わないのか?」守は深い息を吸い込んだ。「今になっても、自分の過ちに気付かないというのか?」琴音はベールを外していた。灯りが彼女の歪んだ顔を照らし、その瞳には燃えるような炎が宿り、野心を隠そうともしなかった。「北條守、功を立てたいのはあなただけじゃない。私だって同じよ。私は大和国初の女将軍。たとえ上原さくらが邪馬台で何か功を立てようと、私の地位は揺るがない。鹿背田城での私の功績があってこそ。あの時、あんなことをしなければ、どうやって私の地位を確立できたというの?」琴音は簪を抜き、灯心を掻き上げた。醜く歪んだ顔の片側が、より恐ろしげに浮かび上がる。「それらの大将軍たちが残虐なことをしていないとでも?戦場で生き残れる者に、優しい心なんてないわ。上原洋平だって若くして北平侯爵になれたのは、ただ勇敢に敵を倒しただけだと思う?違うわ。その裏にどれほどの闇が隠されているか、私たちには知る由もない。あなただけ、愚かにも命を賭けて戦功を上げようとする。でも、そんなことをしても、親房甲虎にはなれないわ」「そうは思わない」守は首を振った。琴音は簪を髪に差し直した。「強がらないで。あなたにも分かっているはずよ。なぜ親房甲虎が影森玄武に取って代われたのか。能力のせい?違うわ。爵位があり、先祖代々の功績という庇護があったから。私たちも官位を上げ、爵位を得て、子孫に恩恵を残したいの。私たちが勲貴になれば、私たちの子供たちも、上原さくらや親房甲虎のように、自分で苦労せずとも全てを手に入れられる人間になれるのよ」守は彼女の瞳に燃える炎
「たとえ平安京の民でも、一般の民だ」守は言い返した。「我々には民を傷つけない約束がある。それは為政者から民への誓いだ。両国の民にとって良いことなのに、お前は村を殺戮した。関ヶ原の我が民も同じように殺される可能性があることを考えなかったのか?」琴音は嘲笑うように鼻で笑った。「武将でありながら、そんな質問ができるなんて。守、あなたは戦場向きじゃない。優しすぎて、実行力がない。あの時、私がいなければ、あなたに功績なんてなかったはず。佐藤大将の前でさえ、鹿背田城の穀倉を焼く提案ができたのは、私が傍で懸命に説得したからでしょう。その功績すら、私がいなければ得られなかったはず」「あなたが功績を立てられたのは、私が功を立てたからよ。私が和約を結び、あなたは援軍の主将として私の功績を分けてもらった。それなのに今更、私の功績を非難するの?自分がいかに卑劣で恥ずかしいか、分からないの?」琴音の言葉に込められた嘲りと軽蔑は、守の自尊心を地に叩きつけ、踏みにじるようだった。守は茫然と立ちすくんだ。彼女の言葉が間違っていることは分かっているのに、どう反論すればいいのか分からなかった。「もう何も言えないでしょう?」琴音は笑みを浮かべた。まるで長年の冤罪が晴れたかのように、さらに責め立てた。「私があなたのために何を捧げたか、あなたにも分かるはず。でも、あなたは私のために何をしてくれた?言ってみなさい。私は当時、引く手数多で華やかな立場にいたのに、あなたの平妻になることを承知した。あなたが落ちぶれた時も見捨てなかった。それなのにあなたは、離縁の後で親房夕美を娶った」「あなたは上原さくらを裏切ったと思っているの?違うわ。裏切られたのは私よ」彼女の声は穏やかだったが、その中に計り知れない不満が潜んでいた。涙が頬を伝い落ちる。「天皇陛下からの賜婚で、私たちの未来のために全てを計画した。さくらはあなたのために何を計画したというの?あなたが私を平妻に迎えようとした時、手のひらを返したように、離縁の勅許を求めてあなたの顔に叩きつけ、持参金を持って出て行った。情も義理も投げ捨てて。それなのに、今でも彼女のことをそんなに大切に思うの?上原さくらが、あなたのために何をしたというの?将軍家の家事を切り盛りした?家族に贈り物や季節の衣装を贈った?母の世話をした?でもそれは、彼女の当然の務めで
守は帳を上げ、琴音と左右に分かれて外に向かった。足音は殆ど聞こえないほど静かで、外からも物音一つ聞こえなかった。しばらくして守が扉を開け、素早く扉の陰に身を隠した。何の動きもないことを確認してから、急いで外を覗き見た。その一瞬で、彼の血が凍りついた。廊下の行灯が照らす階段には、三つの亡骸が横たわっていた。琴音の側仕えの侍女たちだった。全員が一刀のもと喉を突かれ、悲鳴一つ上げる暇もなく絶命していた。血が石段を伝い流れ、階段一面が深紅に染まっていた。守は突然、上原家の一族皆殺しの事件を思い出し、「父上、母上......!」と叫びかけた。飛び出そうとした彼を、琴音が引き止めた。琴音の顔は蒼白で、唇が震えていた。「おそらく......私を狙っているのよ」守は即座に理解した。平安京のスパイたちが彼女への復讐に来たのかもしれない。先ほどまで自分の行いは正しかったと主張していた彼女の言葉が、急に虚しく響いた。守の頭は一瞬で冷静さを取り戻した。あの弁解は、あまりにも偽りに満ちていた。琴音は先ほどまで自分を正当化していた時と同じほどの激しさで、今は恐怖に震えていた。四つの黒い影が静かに中庭に降り立った。黒装束に身を包み、顔を覆い、骨まで凍りつくような冷たい眼だけを覗かせていた。四人の男、四振りの剣。刀身から放たれる冷気と、濃密な血の匂い、殺意に満ちた気配が押し寄せ、琴音の剣を握る手が微かに震えた。突如として四振りの剣が一斉に襲いかかり、二人は素早く部屋に飛び込んで扉を閉ざした。一人が閂をかけ、もう一人が灯りを消す。部屋の中は瞬く間に暗闇に包まれた。二人は背中合わせに立ち、剣を構えた。剣の光が、二人の鋭く警戒する瞳を照らしていた。守は京に戻ってから禁衛府に配属され、今では一般の禁衛として当直に就いていた。その当直勤務での訓練は確かに効果があった。外からは物音一つしなかったが、窓際に危険を感じ取っていた。窓に向かって剣を構えた瞬間、予想通り窓が蹴り破られ、黒い影が飛び込んできた。先機を制した守が一閃、しかし黑衣の刺客は剣気を察知して跳び上がった。それでも、守の剣は相手の両足を掠めそうになった。残りの三人も窓から侵入し、数回転がって即座に態勢を整えた。部屋中に剣戟の音が響き渡る。しかし琴音は三回やりあううちに、自分が彼らの相手
親房夕美が状況を把握する前に、血染めの剣を持った黒衣の刺客たちが闖入してきた。明らかに人を殺しながらここまで来たのだ。彼女は悲鳴を上げ、振り返って扉を叩きながら叫んだ。「葉月!開けて、開けて!」喜咲と沙布は全身を震わせながら夕美を守ろうとした。「近寄らないで......」黒衣の刺客の剣が、一閃のもと彼女たちの首筋を薙いだ。首筋に冷たさを感じた瞬間、血しぶきが飛び散り、血が噴き出した。一撃で喉を断たれ、声すら上げることができないまま、二人は崩れ落ちた。夕美は地面に崩れ落ち、両手で耳を塞ぎながら泣き叫んだ。「助けて!誰か助けて!」黒衣の刺客の長剣が夕美に向かって伸びた瞬間、守が空中から蹴りを放ち、刺客を吹き飛ばした。即座に剣を構え、夕美の前に立ちはだかる。「中に隠れろ!」守は必死の形相で夕美を押しやった。「葉月が扉を閉ざしているの!」夕美は泣きながら叫んだ。守は扉を蹴ったが、びくともしない。戦いながら怒鳴る。「葉月琴音!開けろ!」室内の琴音は顔を強張らせ、震える手で剣を握ったまま、守の声を完全に無視していた。扉を開ける気配すら見せない。束の間に、守は一太刀を受けた。慌てて身を躱すが、禁衛府での修練の成果がなければ、既に命を落としていたかもしれない。人のいない中庭に刺客たちを誘おうとしたが、明らかに彼らの標的は葉月琴音だった。三人が扉を破ろうとする中、守は残る一人と戦うだけでも手一杯だった。状況を目の当たりにした夕美は、気を失いそうになりながら、這いずり回って隅に身を隠した。駆けつけた屋敷の護衛たちも、今や将軍家には多くの人を抱える余裕がなく、刺客たちの相手にならなかった。数合で全員が重傷を負って倒れた。守も二か所を切られながら、なおも抵抗を続けた。武将としての意地と強さで、傷から血を流しながらも必死に戦い続ける。おそらく刺客たちには守を殺す意図はなく、数度も致命傷を避けて手加減していた。ただ退くよう促すだけだったが、それにも手間取っていた。騒ぎが大きくなり、北條次男家からも人が駆けつけた。京都奉行所に勤める文官の次男・北條剛も、形だけの武芸しか習っていない二人の息子を連れて助けに来ていた。長男の北條義久も息子たちの北條正樹と北條森を連れて駆けつけたが、七、八人もの人々が血まみれで倒れている様子を目に
二人は必死に応戦したが、たちまち劣勢に追い込まれ、血しぶきを散らしながら苦戦を強いられた。刺客たちは戦いを引き延ばすつもりはなかった。一人が北條次男の父子三人を相手取る中、残る三人が鋭い剣を琴音の胸元へと突き出した。琴音は慌てふためき、咄嗟に剣を投げ捨てると、守を掴んで自分の盾にした。「やめて!」老夫人と夕美が悲鳴を上げた。守は夢にも思わなかった。琴音にこんな仕打ちを受けるとは。負傷した体を琴音に両腕を掴まれ、剣を振るうこともできず、ただ目の前で三振りの剣が自分の心臓を貫こうとするのを見つめるしかなかった。誰もが凍りついたように動けず、老夫人は目を背けた。我が子が刺客の手にかかる惨状を見る勇気もなかった。その危機一髪の瞬間、「シュッ」という音とともに一振りの桜花槍が空中から飛来し、見事に三振りの剣を弾き飛ばした。刺客たちは手の付け根を痺れさせながら、慌てて後退した。一つの影が空から舞い降り、つま先で地面を素早く蹴って桜花槍を回収すると、躊躇することなく銀光の如く槍を振るい、三人の刺客を押し返した。誰が来たのか見極める暇もない。その人物は既に刺客たちと戦いを始めており、槍さばきは速く、力強く、正確で、一切の無駄がなかった。刺客たちは連戦連敗を強いられ、先ほどまでの鋭い剣さばきも、桜花槍の前ではまったく通用しなかった。わずか十合、刺客たちの剣はことごとく地に落ちた。二十合目には、刺客たちは全員地に倒れていた。手足の筋を切られ、丹田の気も尽き果て、剣すら持ち上げられない状態だった。夏の夜風が、その人物の乱れた髪を揺らした。廊下の灯りに照らされて顔を上げた時、皆がようやくその正体を認識した。「上原さくら?」震え上がっていた夕美が思わず声を上げた。さくらは白い衣装に身を包み、真珠の刺繍が施された靴を履いていた。広袖の長衣が、すらりとした体つきを引き立てている。ただ、その眉目には未だ殺気が残り、白い衣装には刺客の血が点々と付き、雲鶴緞子の上で椿の花のように滲んでいた。全員が驚きで凍りついている中、北條次男の北條剛が即座に前に出て命じた。「彼らを縛り上げ、京都奉行所に引き渡せ」「医者を!早く医者を!」老夫人が急いで駆け寄り、蒼白な顔をした守を支えながら叫んだ。「どこを傷つけられたの?どこが?」守は充血した目でさく
「正気か!」北條剛は激怒した。「もう縛り上げたではないか!役所で誰の差し金か問い詰めねば、後患を断つことはできんぞ!」琴音は顔を上げ、さくらと視線を交わした。その眼差しは複雑で凶暴な色を帯び、歯を食いしばって言った。「将軍家から追い出された元妻風情が、何の資格があってここに戻ってきた?」さくらは琴音の血まみれの顔を見て眉をひそめた。「平安京のスパイだと思っているのか?まったく愚かな」琴音の顔色が変わり、その目には一層の怨毒が滲んだ。その通りだった。彼女は平安京のスパイであることを恐れていた。もし京都奉行所で厳しく尋問されれば、必ず鹿背田城での出来事が明らかになる。今のところ天皇からの譴責もなく、僥倖を期待していたのに。もしこの件が役所の取り調べで明らかになれば......彼女にはその賭けに出る勇気はなかった。さくらは琴音の心中を完全に見透かしていた。琴音はその思いを見抜かれた屈辱感に苛まれた。一刻の後、山田鉄男が禁衛を率いて到着し、さくらを見るや敬礼した。「副将様」「刺客は既に死んでいる。後は頼んだ」さくらは桜花槍を引きずるように持ち、振り返ることなく立ち去った。「承知」背後から山田鉄男の声が響き、守の視線がさくらの後ろ姿を追い続けた。その視線は容易に離れようとしなかった。さくらが空から現れ、悠然と去るまで、わずか一刻ほどの出来事だった。副将とはいえ、結局は将軍家を離縁で出た身。玄甲軍の実務も担当していない。長居は適切ではなかった。山田鉄男が刺客たちの面覆いを剥ぎ取る中、琴音は冷ややかに傍観していた。表面は平静を装っていたが、心中は激しく波立っていた。平安京の者ではない!平安京の者でないなら、誰が彼女を殺そうとしたのか?平安京の者だけが、彼女をここまで憎んでいるはずなのに。たとえ刺客が平安京の者でなくとも、平安京が雇った可能性は否定できない。医師が到着し、山田鉄男は先に治療を済ませてから事情聴取することにした。守の体には十箇所以上の傷があり、それを見た北條老夫人はぽろぽろっと涙を流した。「なんて残酷な......一体何者たちなの?」守は黙り込んでいた。犯人の正体は掴めないが、確実に琴音が標的だったことは分かる。しかし今の彼の心を占めているのは、なぜさくらが今夜、救いに来たのかという衝
その強烈な平手打ちで、琴音の顔が横に振られた。歯を食いしばり、反撃することなく、自分の傷の手当てを続けた。夕美は山田鉄男の方を向き、涙を拭いながら声を張り上げた。「山田様、この女のせいです。刺客たちは彼女を狙っていた。自分だけ部屋に隠れ、私と侍女たちを外に置き去りにした。私の侍女たちが死んだのは彼女のせいです。それに、上原さくらが刺客たちを制圧して縛り上げたのに、突然狂ったように全員殺してしまった。どうか正義を持って裁いてください」山田鉄男が琴音を見つめると、問う前に琴音は冷たく言い放った。「奴らは将軍家に侵入し、護衛と侍女たちを殺した。生かしておけば、禍根を残すだけです」刺客たちの遺体を調べた山田鉄男は、その答えに不満げだった。「手足の筋は切られ、丹田の気も失われ、縛られていた。どんな禍根が残る?むしろ生かして背後の黒幕を暴かないことこそが、本当の禍根となる」琴音は不気味なほど冷静に答えた。「申し訳ありません。将軍家でこれほどの死者が出て、一時の悲憤と怒りに任せてしまい、取り調べのために生かしておくべきだったとは思いもよりませんでした」山田鉄男はその言葉に返答しなかった。そんな言い訳に応える必要はないと判断したのだ。夕美は琴音を平手打ちしても怒りが収まらなかった。危機の瞬間に琴音が扉を閉ざしたせいで、喜咲と沙布が殺されたのだ。今、琴音の山田鉄男への返答を聞いて、さらに疑念が深まった。冷ややかな声で言った。「刺客はあなたを狙っていた。一体誰を怒らせて、どんな悪事を働いたの?私の沙布と喜咲があなたのせいで死んだのよ。説明してもらわないと済まないわ」琴音は嘲るように鼻で笑った。「説明が欲しいなら、刺客に聞きなさい。彼女たちを殺したのは私じゃないわ」「あんたが扉を閉ざしたから、刺客は彼女たちを殺したのよ」琴音は冷たく切り返した。「なぜあんたが扉を塞ぎ、二人があなたの前に立ちはだかったせいだとは言わないの?彼女たちを死なせたのは、あんた自身よ」「でたらめを!」琴音は包帯を噛みしめながら顔を上げ、夕美を見つめた。乱れた髪が顔の半分を覆い、異様な暗さを漂わせている。「屋敷中の人々が来ていたのに、刺客は誰も殺さなかった。あなたの侍女だけが殺された。それは彼女たちがあんたを守ろうとし、あんたが扉を塞いでいたからではないの?私が扉を
京都奉行所の役人たちが現場に到着すると、北條剛は彼らと迅速に連携し、禁衛でもある山田鉄男と協議の上、刺客の遺体を京都奉行所の者たちに引き渡すことにした。公の機関に委ねられた以上、尋問は極めて重要だ。山田鉄男が先に尋問を行っているとはいえ、京都奉行所側でも改めて詳細を確認する必要があった。琴音は尋問を避けるため、重傷を装って意識を失い、侍たちに運ばれて自室へと運び込まれた。周囲の者たちは彼女の手当てに追われていた。北條守も、延々と続いた尋問の末、遂に疲労困憊して意識を失った。夕美の指示により、彼は文月館の寝床へと運ばれ、静かに休むことになった。北條次男家の老夫人は、今夜のさくらの救出劇を知るや否や、普段は長男家の内情に関わることを潔しとしない性格にもかかわらず、北條老夫人の前に堂々と歩み出た。鋭い眼差しで、厳しい声で詰問した。「あなたたちは、かつて彼女をどのように扱ってきたの?今夜、彼女は将軍家全体の命を救ったではないか。恥ずかしくないの?これからも彼女を悪く言うつもり?」北條老夫人は、初めてこの義妹の前で言葉を失った。今夜の危機は、彼女の僅かに残された命さえも震え上がらせるほどのものだった。それでも、かつての高慢な性格を捨てきれない彼女は、顔を数度歪めた後、かろうじて言葉を絞り出した。「彼女はどうやって将軍家への襲撃を知ったの? 刺客は彼女が送り込んだものかもしれない。まだ役所できちんと調べていないのに、どうしてそんなことを言えるの?」次男家老夫人は怒りと皮肉を込めて笑った。「そう、さくらが刺客を呼んで、あなたがたを殺そうとして、そして救いに来る。それであなたがたに恩を売り、将軍家に恩義を感じさせる。将軍家はどんなに大きな面子を持っているか。将軍家が彼女の恩を認めれば、彼女は将来、将軍家の恩顧によって栄華を極められるというわけね」次男家老夫人は言い終わるや否や、その場を立ち去った。歩きながら涙を拭う。悔しさが込み上げる。上原さくらへの同情と、長男家との分家を考えずにはいられない気持ちが胸中を掻き乱した美奈子は臆病で物事を恐れ、北條守の二人の妻は、一人は残虐で一人は愚かだった。まともな者は一人もいない。先祖代々の家を台無しにしてしまったのだ。しかし今、分家したところで将軍家に何が残っているというのか?以前から所有していた
馬車が官庁に到着すると、さくらは影森茨子を引きずり降ろした。皇族の要犯を監督する官吏の新田銀士が出迎え、引き継ぎを済ませると、すぐさま茨子の全身に重い鎖を掛けるよう命じた。「上原殿」新田は前置きもなく切り出した。「陛下の御意により、影森茨子が舌を噛んで自害するのを防ぐため、歯の大半を抜き、手足の筋を切ることになっております。上原殿にもその場に立ち会っていただき、ご確認願います」「よくも......」茨子は歯を食いしばり、憎々しげに吐き捨てた。「案内してください」さくらは淡々と返した。茨子が引き立てられながら中へ連行される間、馬車の中での冷静さは影も形もなく、怒りの咆哮を上げ続けた。官庁は広大な敷地を持ち、東西は広い通路で区切られていた。東側が執務棟、西側が収監施設となっている。ここで収監されるのは皇族のみということもあり、一般的な牢獄はなく、それぞれ独立した小さな中庭付きの区画に分かれていた。とはいえ、収監区域は高い壁に囲まれ、厳重な警備が敷かれていた。さくらはすでに衛士統領の親房虎鉄に命じ、警備の増強を要請していた。衛士の姿は見えるものの、親房虎鉄の姿はまだなかった。新田は官庁の官吏として、この施設の収監者全員を管理する立場にあった。通常は官庁独自の衛士たちが警備に当たるが、茨子は陛下からの「特別な配慮」により、衛士による監視が追加で命じられていたのだ。収監区画に着くと、茨子は中へ押し込められた。すでに数人が待ち構えており、古びた矮卓の上には抜歯用の鉗子と、手足の筋を切るための鉄の鉤が不吉げに並べられていた。「このような真似を!」茨子は必死に抵抗したが、全身を縛る重い鎖が邪魔をして、かえって体勢を崩し、前のめりに膝から崩れ落ちた。新田はこうした光景に慣れているかのように、微動だにせず冷めた調子で言い放った。「確かに公主の身分は剥奪されましたが、それでもなお官庁での収監が許されたのは、陛下の御慈悲。今の一礼で、その御恩に感謝したことになりますな」その言葉が終わるか否かのうちに、部下たちに茨子を引き起こすよう命じた。彼女の口元は血に染まっていた。転んだ衝撃で、再び唇を切ったのだ。さくらは新田の言葉を聞きながら、かつて四貴ばあやが語った言葉を思い出していた——身分の高き者が卑しき者に対して何をしようと、それは恩寵な
悲鳴と共に、九人の刺客が素早く飛び上がり、四方に散っていった。山田は自分の推測が正しかったと確信した。彼らは救出ではなく、影森茨子の暗殺を目的としていたのだ。しかし、馬車を見た時、彼は凍りついた。刺客は馬車の中に引きずり込まれ、両足を外に投げ出したまま、明らかに身動きが取れない状態だった。さくらが笑みを浮かべながら近づき、馬車の幕を開けた。覗き込んだ山田は目を疑った。親王様?親王様の他に、影森茨子も馬車の片側に縛り付けられており、先ほどの悲鳴は彼女が上げたものだった。今や彼女は凶暴な眼差しで刺客を睨みつけていた。玄武は刺客を引きずり出して山田に渡した。「刑部へ連行せよ。経穴を突かれており、毒薬も口から取り出した。だが油断は禁物だ。連行後は筋弛緩剤を飲ませろ。こういった死士は毒だけでなく、自ら経脉を断つこともできる」山田は部下に刺客を確保させながら、不審そうに王様を見つめた。いつ馬車に乗られたのか。影森茨子を護送する時、確かに馬車は空で、刑部を出発してからも禁衛府が周囲を固めていたはずだ。「上原殿、これは......?」と山田が尋ねた。「まずは官庁への護送を済ませましょう」さくらは玄武の方を向き、勝どきの仕草で拳を振り上げながら笑顔で言った。「あんた稲妻で帰って。私が馬車に乗るわ」「ああ、後は任せた」玄武は馬の手綱を取りながら茨子を一瞥した。茨子は冷ややかな目を向けて言った。「これで私が喋ると思っているの?」玄武は微笑んで近づき、低い声で告げた。「お前が話すか話さないかは、実はどうでもいい。我々の目的は刺客を捕らえ、ある人物をより恐れさせることだ。実は、その人物が誰か、私は知っている」茨子は意外な様子も見せず、嘲るように唇を歪めた。「それがどうだというの?陛下に申し上げたら?証拠をお出しなさい」「見ていれば分かる」玄武は笑みを浮かべたまま馬に跨り、鞭を打って走り去った。さくらは馬車に乗り込み、山田を急き立てた。「行きましょう!」山田は幕を下ろし、先導に立った。馬車の中で、茨子はさくらを睨みつけていた。これは逮捕されて以来、初めてさくらと二人きりになる機会だった。これまでの取り調べは刑部の役人たちが行い、さくらも時折姿を見せたが、少し様子を見るだけですぐに立ち去っていた。「賤女!」茨子は冷た
案の定、石燕通りを出るや否や、さくらは四方に漂う殺気を感じ取った。強烈な殺気に混じって、一般人には感知できない血の臭いがする。将軍邸であの夜に出会った死士たちと同じ気配だった。師匠から死士の育成過程を聞かされたことがある。残虐極まりないもので、生き残った者たちは、獣や人の死体を踏み越えて這い上がってきた。文字通り、死体の山、血の海を越えてきた者たちだ。だからこそ、彼らは武芸に秀で、技は凶悪だが、常に濃密な殺気と血の匂いを纏っているのだ。「全員、警戒!」さくらの声が風を切って、全員の耳に届いた。護衛たちは目を光らせ、武器を構え、周囲の些細な動きにも注意を向けた。十字路を過ぎた時、空気を震わせる微かな音が聞こえた。北風に吹かれた抜き身の剣が立てる音だ。「止まれ!」山田が手を上げて隊列を止め、即座に大声で叫んだ。「刺客だ!危険!退避せよ!」通りには商売を終えて帰路につく人々が疎らにいただけだった。山田の叫び声に一瞬怯んだ後、彼らは一目散に逃げ出した。一振りの長剣が空気を切り裂き、さくらめがけて飛来した。さくらは馬から跳び上がり、桜花槍で剣を弾き返した。剣は地面に落ちた。すぐさま左右から約十人の人影が飛び降りてきた。彼らは身軽な装束に顔を覆い、武器を手にしてさくらに突進してきた。まるでさくらだけを狙っているかのようだった。さくらは冷たい眼差しを向け、剣陣の中を素早く飛び抜け、桜花槍を振り回して跳躍と同時に一撃を放った。地面が砕けんばかりの衝撃だった。「討て!」山田が跳び出し、剣を受け止める。禁衛府の護衛は十人を馬車の警備に残し、残りの全員が戦いに加わった。さくらの桜花槍は攻防一体となって刺客たちを押し返し、槍先が地面を打つたびに火花が散り、金属の打ち合う音が絶え間なく響いた。さくらの動きは狂風の如く、落ち葉を吹き散らすかのような速さだった。五人の刺客は彼女の攻撃を受け止めるのが精一杯で、一人でも欠ければ、おそらく十合も八合も持たずに倒されていただろう。しかし、少なくとも五人でさくらを足止めできている状態だ。山田は一人では刺客を抑えきれず、二人の援護を必要としていた。残りの禁衛府の者たちは四人の刺客と対峙していた。十八対四という数の優位があるにも関わらず苦戦を強いられていたが、精鋭揃いの彼らは、刺客たちの
燕良親王も無相先生とこの件について協議していた。無相先生は人を送ることに反対したが、燕良親王は茨子が生きている限り重大な脅威になると考えていた。今は自分のことを密告してはいないが、今後はどうなるか分からない。「あの皇帝め、狡猾きわまりない。これほどの武器と鎧が押収されたというのに、本来なら見せしめに即刻処刑すべきところを、官庁への幽閉を命じおった。しかも、この案件が結審しない限り、影森玄武は狂犬のように私に噛みついてくる。茨子が生きている限り、私にとって脅威でしかない」無相は眉を寄せた。「確かに脅威ではありますが、行動が失敗すれば重大な結果を招きかねません。茨子は狂人です。直ちにあなた様を密告する可能性が」「だからこそ救出を装うのだ。我々が救いに来たと思わせ、その隙に始末する」無相は依然として反対した。「余りにも危険です。親王様にそこまでの賭けは不要かと。毎日宮中で看病に励まれ、他のことには関わらないこと。それが最善かと」「どちらにせよ危険は伴う。彼女が生きている限り、安眠などできぬ。あまりにも苦しい」燕良親王の目には残忍な色が宿っていた。「必ず死んでもらう」無相は決意の固さを悟り、しぶしぶ提案した。「それほどのご決意なら、死士たちを武芸界の者に扮装させ、囚人奪還を図るのはいかがでしょう。陛下は茨子が武芸界に配下を持っていたと疑うでしょう。ですが、今回は上原さくらが自ら護送を担当します。彼女の監視下での殺害も救出も容易ではありません」「それでも試みねばならぬ」燕良親王は最近、不眠に悩まされ、見る影もない。周囲の者は母妃を案じてのことと、看病による疲労だと思い込んでいた。そして付け加えて言った。「護送の時刻を探れ。十人で十分だ。茨子の手先は使えぬ今、探りは五弟、淡嶋親王の屋敷の者を使え」無相は頷いた。「承知いたしました」翌日の黄昏時、刑部では準備が整っていた。当初は囚人護送車を使用する予定だったが、協議の結果、茨子の姿を人目に晒さぬよう、馬車での護送に変更された。さくらが自ら隊を率い、三十名の禁衛府の護衛を伴い、山田鉄男が先導を務めることとなった。黄昏時、風は厳しくはないものの、日中より冷え込み、いつの間にか冬の気配が漂っていた。刑部を出発した馬車の先導を務める山田鉄男。さくらは愛馬の稲妻に跨り、桜花槍を手に、凛
東海林椎名への尋問では、かなりの拷問が加えられた。普段は軟弱な男が、この時ばかりは異様なまでに強気で、何も知らないと言い張り、自分も利用された駒に過ぎないと主張し続けた。拷問の最中、彼は泣き叫んでいた。「私こそが最大の被害者だ!影森茨子が最も裏切ったのは私だ!私の女たちを、私の子どもたちを、殺せる者は殺し、追い払える者は追い払った!あの女は本当に狂っている!やっと捕まえられて良かった。これでようやく魔の手から解放される!」京都奉行所の沖田陽も自ら尋問に当たった。京都奉行所の尋問や拷問の手法は刑部より手厳しいものだったが、それでも東海林椎名は何も知らないと言い張り続けた。早朝の朝議でこの件が報告され、大臣たちも耳にした。以前の人々の不安は薄れ、今では皆の心も落ち着きを取り戻していた。朝議に出席していない燕良親王にも、影森茨子と東海林椎名が誰も密告しなかったことは伝わっていた。確かに、ある使用人が燕良親王と淡嶋親王が公主邸を訪れたと証言したが、榎井親王や常寧親王も訪れており、湛輝親王までも一度は足を運んでいた。これは証拠にはならない。密謀の現場を押さえでもしない限り。姉妹の邸を訪れるのは、兄弟として当然のことだった。しかも燕良親王は帰京後、大長公主邸を一度訪れただけだ。どう考えても彼を事件に結びつけることはできなかった。この案件はついに一つの区切りを迎えた。清和天皇は早朝の朝議で、影森茨子を官庁に幽閉し、禁衛府が護送を担当、刑部は引き続き謀反の捜査を続け、黒幕が明らかになった時点で結審する旨を勅命で下した。被害を受けた女性たちへの処遇として、東海林椎名には即刻斬首の判決が下され、東海林侯爵家は共犯として爵位を剥奪され、庶民に降格された。しかし天皇は家財没収は命じなかった。大長公主の庇護の下で蓄えた財産は没収を免れたが、その代わりに十万両を女性たちの生活費として拠出するよう命じられた。側室たちは故郷への帰還を許されたが、庶出の娘たちは全員寺院に留め置かれることとなった。彼女たちの衣食は東海林家が負担し、事件完結後は内蔵寮からの支給に切り替わることが決まった。もちろん、この内蔵寮からの支給金は、大長公主邸から没収した財産から拠出されることになっている。これで事件は第一段階を終えた。しかし、まだ多くの後始末が残っている。京都
針のむしろに座るような思いで、それでも斎藤式部卿は口を開いた。「親王様、陛下はこれらの女性たちをどのように......」「それは上原大将に聞くがいい。彼女の担当だ」影森玄武は言った。居心地の悪そうな視線をさくらに向けながら、式部卿は言葉を探った。「上原大将にお伺いしたいのですが......」さくらは言葉を遮り、即座に答えた。「斎藤忠義殿はすでに私のところへ来られ、お話ししたはずです。貴家で監視なさるか、禁衛府での一括管理に委ねるか、それは式部卿のご判断にお任せします。ただし、お手元で管理なさる場合は、謀反の首謀者がまだ見つかっていない以上、彼女たちを京の外へ出すことも、他者との接触も許可できません」斎藤式部卿はわずかに安堵の息を漏らし、さらに尋ねた。「禁衛府の管理下に置かれた場合は、どちらへ......」「現在、京内の寺院と交渉中です。十分な規模があり、彼女たちを収容できる寺を探しています。費用は東海林侯爵家と没収された公主邸の資産から支払われます」「寺、ですか」膝を撫でながら式部卿は言った。「そうなると、待遇はあまり......」「衣食住は保証されますが、贅沢な暮らしは望めないでしょう」さくらは一呼吸置いて続けた。「ただし、これは一時的な措置です。謀反の件が決着すれば、自由に出ていけます」「つまり、事件が解決するまでは寺に留め置かれると」「その通りです。ですが、式部卿殿が気がかりでしたら、ご自身で監督なさることも。ただし、何か問題が起これば、その責任は式部卿殿が負うことになります」「留めは致しません」式部卿は首を振った。「そうお決めになられるなら、こちらで引き取りますが......椎名青妙との間にお子様がいらっしゃいますね。お屋敷へお引き取りになりますか、それとも寺へ......」式部卿は何かを決意したような面持ちで言った。「寺へも屋敷へも入れません。別途手配いたします」さくらは言った。「実は、子連れでも寺なら辛い暮らしにはなりませんよ。幼い子のいる方には特別な配慮もできます。これほど幼いお子様を両親から引き離すのは、良くないかもしれません」「その件は大将殿のご心配には及びません」式部卿は強い口調で遮った。「とにかく、あの人は子供を連れて寺へは行けない。そばに子供を置くことは許されません」さくらは頷い
夫人の表情が悲しみから心配へと変わった。「そうね。あの人はあの所謂第一女官を嫌っていたものね。知り得なかったことを彼女に暴かれて、さぞかし辛いでしょう」だが、少し考えて首を傾げた。「でも、確か娘がいるって話だったわ。会ってきたの?」「とんでもない。娘なんていません。彼女一人と、彼女を監視する人々だけです」「それならよかった」夫人はほっと胸を撫で下ろした。母を安心させられたことで、忠義もわずかに胸を撫で下ろした。だが、祖父の方は、そう簡単には誤魔化せまい。斎藤帝師のもとへは、斎藤式部卿自らが説明に赴いた。帝師は彼の言い分は受け入れたものの、平手打ちを食らわせ、「出て行け」と一喝した。父の部屋を千鳥足で出る式部卿の胸中は、複雑な思いで満ちていた。この件で北冥親王を責めることはできない。自分は朝廷において常に仁徳と謙虚さを旨としてきた。しかし、上原さくらという女官に対してだけは、致命的な過ちを犯してしまった。彼女に対してあまりにも傲慢で、意図的に軽んじていた。どうあれ、刑部へは足を運ばねばならない。説明すべきことは説明しておかねば。そうしなければ、また彼らが屋敷に押しかけてきた時、家族への言い訳が立たなくなる。この日、刑部では陛下の勅命に従い、影森茨子への拷問尋問が再開された。指の骨を砕かれても、全身が震え、冷や汗を流しながらも、彼女は一切声を上げなかった。まさに只者ではない。一度、痛みで気を失ったものの、目覚めると虚弱な声ながらも凄んで言い放った。「どんな拷問でも望むままにやるがいい」当然、そう言われては今中具藤も容赦はしなかった。基本的な拷問を片っ端から試み、ついに彼女の強情な態度も改まった。もはや挑発的な言葉を吐くこともなく、ただ黙って耐え続けた。しかし、彼女は白状しなかった。誰一人として口にすることはなかった。実のところ、皆この結果を予想していた。残虐な拷問は先帝の時代に廃止されており、もし本当に過酷な拷問を加えれば、一つや二つは白状するかもしれない。だが、陛下は先帝が廃止した残虐な拷問を復活させることはないだろう。先帝の遺志に反することは、少なくとも今の時点ではしないはずだ。現在の朝廷には先帝の旧臣が大半を占めている。陛下は自身への非難を招くような真似はしないのだ。今中具藤が報告を終えたとこ
忠義が全員の退出を命じると、屋敷中の者たちが慌ただしく外に出て、おびえた様子で次々と身分を名乗った。あの女は跪いた。緋色の衣装に菫色の立ち襟の羽織を重ね、その装いが愛らしい顔立ちをより一層艶やかに引き立てている。今朝、娘が連れ去られた時点で事の次第は察していた。いや、もしかするとそれ以前から、自分の運命を予感していたのかもしれない。大長公主の失脚に伴い、彼女たちの存在も明るみに出るのは避けられなかったのだから。「名は何という」忠義の目に薄い怒りが宿っていた。「椎名青妙でございます」かすれた声には、どこか人を惑わせるような魅力が潜んでいた。忠義は彼女を見据えて問いただした。「父上と最後に会ったのはいつだ」「昨日の午後です。一時間ほどお休みになられました」と椎名青妙が答えた。その言葉に忠義はほとんど打ちのめされ、信じがたい思いで彼女を見つめた。昨日だと?昨日の午後にまでここへ?父は式部を統べる身、午休みは大抵式部の役所で取るはずなのに......「いつも昼時に来ていたのか?」「はい」忠義は歯噛みしながら問いただした。「どれくらいの頻度で来ていた?」青妙は落ち着いた瞳で淡々と答えた。「二日に一度です」「嘘を言え!」忠義は怒鳴り声を上げた。青妙は顔を上げて彼を見つめた。「お信じいただけないのでしたら、こちらの者たちにお尋ねください。娘に会いに来られていたのです」忠義が一瞥すると、その場にいた全員が跪いた。先ほど自己申告した通り、侍女が八名、小姓が三名、乳母が二名、護衛が二名、御者が二名、庭師が一名、料理人が四名。これだけの人数が、彼女と娘一人の世話のためだけに......忠義が二人のばあやに目配せすると、彼女たちは椎名青妙を連れて奥へと消えていった。青妙は一切抵抗せず、従順な様子だった。忠義は邸内を巡った。花々や調度品は、どれも上質なものばかりだ。小さな卓ですら、精緻な彫刻が施されている。贅沢というほどではないが、確かに趣向を凝らした品々ばかりだった。裏庭には蔦と花で飾られた、美しく洗練された鞦韆が設えてあった。庭には子供の玩具が散らばり、物干し竿には幼い女の子の衣服が干してあった。衣服の大きさからして、子供は一歳ほどだろうか。主寝室を除いて屋敷中を巡ったが、見れば見るほど胸が沈んでいっ
次男は兄の顔を見つめたまま、しばし言葉を失っていた。斎藤式部卿は目を閉じ、頭の中で急速に思考を巡らせながら、整然と語り始めた。「住まいを与えた後、調査はしたものの、何も分からなかった。次第に彼女のことは頭から離れ、ただ見張りをつけておくだけになった。決して手は出していない。そこの下女や小者たちが証人となれる。私の不注意だった。公務に忙殺されて彼女のことを忘れかけていた。まさか東海林椎名の庶出の娘だったとは......」次男の表情が一瞬喜色を帯びたが、すぐにそれが兄の対外的な説明に過ぎないことに気付いた。これが真実ではないことは明らかだった。兄のことをよく知る次男には分かっていた。怪しい人物が近づいてきた場合、兄なら必ず屋敷の者に調査をさせる。そして調査結果の如何に関わらず、決してその者を留め置くようなことはしない。必ず追い払うか、距離を置くはずだ。決して近づけることなどありえない。「兄上......」次男は重い気持ちで、それでもなお信じがたい思いで尋ねた。「どうして......こんなことを」式部卿は唇を固く結び、目を閉じたまま、蒼白な顔をしていた。このような初歩的な過ちを犯したこと、そして彼女が東海林椎名の庶出の娘で、大長公主に送り込まれた者だったことを、到底受け入れることができなかった。「私には理解できません。なぜ兄上がこのようなことを......兄上と義姉様は長年連れ添われ、義姉様は賢淑の誉れ高く、早くから側室も整えて子孫の繁栄にも気を配られて......」「早くからか......」式部卿は眉間を揉みながらゆっくりと目を開けた。その瞳の奥に漂う孤独が、墨のように広がっていく。「一番若い側室の環子でさえ、今年はもう四十近い。他の三人も四十を過ぎている。だがあの子は......たった十九だ」この件は、さすがに屈辱的だった。口にするのも恥ずかしかったが、弟の追及に、言わざるを得なかった。「ここ数年、何をするにも力不足を感じていた。しかし、陛下が我が斎藤家を重用される中、困難から逃げるわけにもいかなかった。この件は......確かに一時の迷いだ。若かりし日の活力を取り戻したいと思い、彼女の素性を詳しく調べもせずに......」書斎の外で父と叔父の会話を聞いていた斎藤忠義の胸中は、言いようのない複雑な思いで満ちていた。しばらくし