さくらは平陽侯爵老夫人の険しい表情を見て、血気を養う薬膳を運ばせた。本来は自分のために煮出したものだった。玄武は、戦場での負傷が後々まで影響することを懸念し、常に養生するよう言い聞かせていたのだ。さくらは老夫人の呼吸が普段より荒く、怒りを抑えているように見えたため、優しく声をかけた。「ご病身のところ、わざわざお越しいただかなくても。昨夜の件は、老夫人とは何の関係もございません」平陽侯爵老夫人は薬膳を飲み、しばらく胸に手を当てていた。やがてゆっくりと口を開いた。「本来なら、我が家とは無関係であってほしかったのです。ですが、儀姫は結局のところ平陽侯爵家の人間。昨夜の一部始終を、この目で見ておりました。彼女は親王様の名誉を傷つけようとしましたが、図らずも自分の夫の立場を危うくし、自らの首を絞める結果となりました。そのために、我が家は涼子を迎え入れざるを得なくなったのです」さくらにはその結末が予想できた。平陽侯爵家は何より名誉を重んじる。近年は儀姫によって評判を落としていたものの、老夫人が尽力して取り繕い、一族の若者たちも言動に細心の注意を払い、家の名誉を傷つけるような隙を見せまいと気を配っていた。百年の名門である彼らにとって、名誉の一点の曇りも許されない。だからこそ、不本意でも名誉を守るためには、この屈辱も飲み込まねばならないのだ。まして、これは自分の嫁である儀姫が蒔いた種なのだから。「北條家の方々が今朝いらっしゃいました」老夫人は普段なら決して口外しない家の恥を、今日は抑えきれずに話し始めた。皇太妃様の誕生祝いの席での出来事だけに、なおさらだった。「涼子の母は、我が息子が娘の清白を汚したと言い張るのです。大勢の目撃者がいる以上、娘の縁談に支障が出る。だから、涼子を我が家の側室として迎えることで、穏便に済ませたいと」さくらは何と評価すべきか迷い、ただ慰めの言葉を掛けた。「もはや起きてしまったことです。お気を落とさないでください」「お恥ずかしい限りです」老夫人は素早く感情を抑え、教養ある態度を取り戻した。しかし、今朝の北條家の老婦人との対峙で、人の厚顔無恥さを思い知らされた。さくらは微笑んで言った。「よく存じております。老夫人、君子は下郎と争えないものです」老夫人の心が揺れた。「あなたも......あの時は、さぞ辛かったでしょうね」
平陽侯爵老夫人が去った後、恵子皇太妃が慌ただしく花の間に現れた。そこにはさくらが一人、物思いに耽りながらゆっくりとお茶を飲んでいた。皇太妃は尋ねた。「平陽侯爵の老夫人がいらしたと聞いたのだけど?私も急いで来たのに」さくらは立ち上がり、深々と礼をした。「母上、老夫人は今しがた帰られました」「もう帰ったの?」皇太妃は息を切らしながら座った。「私に会いに来たのではなかったの?」皇太妃の表情に失望の色が浮かんだ。平陽侯爵老夫人が自分を訪ねてきたのだと思い込んでいたのだ。大長公主のところには、高官の夫人たちが絶えず訪れているというのに、と羨ましく思っていたのだ。「母上にお会いするためにいらしたのですが、二日酔いとお聞きして、お邪魔を控えられたようです」さくらは皇太妃の表情を見て、その心中を察した。この姑の心は、実に読みやすい。「つい飲み過ぎて、大事な機会を逃してしまったわ」皇太妃は昨夜の息子の激怒を思い出し、おずおずとさくらを見た。「あの......玄武は昨夜、あなたに何も......」さくらは軽く咳払いをした。「いいえ、少し叱られただけです」「たった数言で済んだの?」皇太妃はさくらの不自然な様子を見て、嘘を付いていることを悟った。自分の息子の性格は誰よりも分かっている。普段は何を言っても平気だが、逆鱗に触れた時は、数言で収まるような怒りではない。きっと昨夜は随分と怒りを向けられたのだろう。それなのに、こうして隠そうとする気遣い。皇太妃は心が痛んだ。「確かに屋敷の采配はあなたの役目で、側室を迎えるのもあなたの判断次第だけれど......玄武が気に入らないのなら、もう言い出さない方がいいわ。後で叱責を受けることになるだけだから。男というものは、一度怒り出すと実の母親さえ見境がなくなるものだから」さくらは今朝、玄武が朝廷に向かう前に言った言葉を思い出した。「朝廷がなければ、今日は床から起き上がれないほど可愛がってやるところだったのに」。その記憶に頬が赤く染まり、慌てて顔を背けた。「はい、分かりました」恵子皇太妃はさくらの落ち着かない様子を見て、溜息をついた。「高松ばあや、王妃のために燕の巣を煮出して、身体を養うように」「かしこまりました」高松ばあやは退出した。皇太妃は昨夜の北條家の娘の件について尋ね、さくらは詳しく説
数日後、朝廷が終わると、天皇は影森玄武を残した。積み重なった政務書類には目もくれず、天皇は吉田内侍に碁盤を用意させた。玄武との対局も久しぶりだと言う。玄武は朝服の裾を持ち上げ、帯に差し込むと、気さくに腰を下ろした。「日々の公文書で頭が痛くなっておりました。陛下のご命令で怠けられるとは、この恩寵に感謝いたします」その仕草を見た天皇は眉をひそめた。「まだ軍営時代の癖が抜けていないのか?随分と粗野だな。今や刑部卿、朝廷の二位官僚だぞ。己の立場をわきまえろ」「実の兄上の前で、何を取り繕う必要がございましょう」玄武は豪快に笑い、白い歯を見せた。「王妃の前でもそんなに奔放なのか?」天皇は長い指で白石を摘み、ゆっくりと置いた。玄武は黑石を手に取り、その瞳は手の中の石のように深く、何も読み取れない。「妻の前では、もっと奔放でございます」天皇は玄武を見つめながら、微笑んだ。「叔母上の誕生祝いで、お前の側室になりたがる者がいたと聞いたが」「そのような噂まで陛下のお耳に入るとは。お耳を汚してしまい申し訳ございません」玄武はそう言いながら、黒石を置いた。「ふむ、朕は普段そういった噂話には耳を貸さんのだが、お前は朕の弟。太后様も気にかけておられる。聞いておこうと思ってな。側室を迎える考えでもあるのか?」「そのような考えはございません」玄武は顔を上げ、また白い歯を見せて笑った。「陛下、臣は長年戦場におりましたゆえ、体が相当衰えております。今も丹治先生に養生を命じられている身。正室一人でさえ力不足を感じる始末。これ以上側室など迎えては、とても太刀打ちできません」天皇は呆れたように玄武を見た。「戯言を。武芸の達人が何を弱音を吐く。それとも、朕の後宮が多すぎて力不足ではないかと、からかっているのか?」「臣が陛下の後宮について申し上げるなど、とんでもございません。陛下には皇統を継ぐ重責がおありです。後宮が多いのは当然のこと。一般の官僚でさえ、三人や四人の側室はおりますゆえ」「皇統を継ぐか」天皇は玄武を見つめた。「お前も皇族の血筋。子孫を残すのはお前の責務でもあるぞ」玄武は軽く笑った。「臣は元々独身を通すつもりでした。余計な煩わしさを避けたかったのです。今は王妃がおり、母上も宮を出られ......これ以上の煩わしさは望みません。子作りのことは、
「子供を望まない者などいるものか?朕は後宮に子孫が増えることを望んでいるというのに。玄武は朕より数歳年下だが、あの年齢なら父親になっていても不思議はない」吉田内侍は静かな声で言った。「おそらく、親王様も陛下のご懸念をお察しなのでしょう。兄弟の間に疑念が生じることを望まれないのだと。覚えていらっしゃいますか?幼い頃から、親王様は何事も陛下を手本とし、誇りにしておられました。外で王兄様のことを話される時も、いつも誇らしげなお顔をなさっていました」吉田内侍の言葉に、天皇は昔のことを思い出していた。その眼差しは自然と柔らかくなっていった。長い沈黙の後、天皇は深いため息をついた。「朕が......余計な心配をしすぎていたのかもしれんな」吉田内侍は黙って茶を注ぎ足した。長年の奉仕で、天皇のこの突然の溜息が何を意味するか分かっていた。兄弟の情を懐かしむ一時の感傷に過ぎず、警戒心が薄れることはないだろう。王の子作りを控える判断は賢明なものだった。少なくとも、後継ぎがいないことで、天皇も幾分安心できる。邪馬台領土を奪還して間もない今、朝廷の文武官僚たちは親王様を最も敬慕し、民衆からの支持も最高潮にある。功績が君主の権威を脅かすほどの親王を、どの帝王も警戒するものだ。親王様は邪馬台を平定した後、軍権を返上し、妻を娶って心の拠り所を得た。天皇にとって、それは親王の忠誠と安全の証となったのだ。役所に戻ると、刑部から案件について問い合わせの使者が来ていた。玄武は案件の精査が終わっていないことを理由に、一旦帰らせた。夜になって屋敷に戻り、さくらと食事を終えたところで、刑部卿の木幡次門が直々に訪れた。二人は書斎で半時ほど案件について激論を交わし、最後は不快な空気のまま別れた。梅の館に戻る時、玄武は門をくぐる前に、暗い表情を消し去り、いつもの穏やかな顔に戻していた。さくらは宇治茶を用意させていた。案件の詳細は知らなかったが、尾張拓磨から親王様が一家殺害事件で頭を悩ませているという話を聞いていた。刑部が今日使者を寄越し、夜には刑部卿が直々に来訪するほど、緊急を要する案件なのは明らかだった。「一体何が、そんなにお悩みなのですか?」さくらは率直に尋ねた。明らかに案件で頭を抱えているのに、部屋に入るなり何事もないかのように振る舞う夫。公務の重
玄武は頷き、いつものように賞賛の眼差しでさくらを見つめた。「その通りだ。一家は彼女を含めて十三人。そのうち十二人を殺害した。舅、夫、三人の息子たち、この五人は健康な成人男性だ。それに姑、未婚の娘二人、残りは下男と侍女たち。問題は、この事件が深夜ではなく、皆が眠っている時間でもない、夕暮れ時に起きたことだ。食事の後、突然台所から包丁を持ち出して全員を切り殺した。この女性は武芸の心得もなく、むしろ病弱で常に薬を服用していたほどだ」「少し意地の悪い病人が、一人くらいは殺せても、すぐに止められたはずよね。毒でも盛られて、皆気を失っていたの?」「いや、全員意識ははっきりしていた。近所の者の目撃証言によると、その女性は狂ったように、尋常でない力を見せ、見かけた者を次々と殺していったという。近所の者たちが急いで自宅に逃げ帰り、戸締りをしなければ、彼らまで殺されていたかもしれない。地元の役所で傷口と凶器を照合したところ、一致したそうだ」さくらは夫が死刑の承認を躊躇う理由が分かった。この一家殺害事件には、確かに疑問点が残る。ただし、これほどの騒動になったのも無理はない。近所の目撃者がいて、本人も認めており、凶器と傷口も一致している。逃れようのない事実だ。「そうそう、食事の後で起きた事件なのよね。食べ物は調べなかったの?」「調べていない。遺体に毒の痕跡がなかったからだ」「私は、あの女性が何か特殊な毒を盛られて、狂乱状態になり、異常な力を得たのではないかと疑っている」玄武は言った。「何人かの御典医に尋ねたが、そのような毒は聞いたことがないと」二人は目を合わせ、同時に声を上げた。「丹治先生に相談しましょう!」玄武は即座に着替えて薬王堂へ向かった。一刻の猶予も許されなかった。この事件は民衆の怒りを煽り、極刑を求める声が日増しに高まっていた。刑部からの圧力も強まる一方で、朝廷の大半は彼の味方ではなかった。疑問点があっても、誰も追及しようとはしない。目撃者がいて本人も認めている以上、些細な疑問など取るに足らないとされていた。薬王堂を訪れた翌日、玄武は刑部卿と二人の刑部輔を役所に招いた。木幡刑部卿は焦りを隠せない様子で、丹治先生を待つ間、苛立ちを露わにした。「親王様が何をそれほど疑問に思われているのか、私には理解できません。この事件は既に
燕良親王は無表情に親指の玉の指輪を回しながら言った。「まだ足りん。さらに噂を広めよ。北冥親王の影森玄武が犯人の女を庇っているのは、刑部卿としての手腕を示すためだと。天下の非難を顧みず功を求めていると。さらに、彼は単なる武将で、律法については何も分かっていないとな」「それに、天皇も彼に欺かれている。功績が高すぎて、天帝も彼の顔色を窺わざるを得ないとも」「親王様は、北冥親王が必ず再審を命じると確信されているのですか?」部下が尋ねた。「疑問点があれば、必ずそうする」燕良親王は薄く笑みを浮かべ、その目には血に飢えた冷たい光が宿った。「彼のことは分かっている。人命に拘る男だ。人命に拘る者は必ず慎重に事を運ぶ。これほどの疑問点があれば、再審を命じずにはいられないだろう。自分の良心が許さないからな」「承知いたしました」部下は深々と頭を下げ、退出した。門口で外套を身に纏うと、素早く姿を消した。燕良親王の唇に意味深な笑みが浮かんだ。影森玄武よ、お前の民望を地に落とし、二度と兵権など握れぬようにしてやろう。天下の民にお前の功が君主を脅かすほど高いことを知らしめ、天皇がお前を恐れていること、天皇の無能さをも示してやる。「無相!」彼が呼びかけた。錦織りの山水図屏風の後ろから、灰色の袍を纏った中年の男が現れ、頭を下げた。「親王様」燕良親王は尋ねた。「あの女の体内の蠱毒は、誰にも発見されないだろうな?」無相は低い声で答えた。「発見されることはありません。それは彼女の脳内に潜む小さな虫に過ぎません。首を刎ねても見つかりはしません。この虫は私の命令にのみ従い、今の彼女には何の異常も見られません」燕良親王は軽く頷いた。「それで良い」「ご心配には及びません。甲斐府知事も我々の配下。再審を命じられても、前回と同じ結論を京に送ることでしょう。往復に時間がかかれば、民衆の怒りはさらに増すばかり。我々にとって好都合です」燕良親王の目に冷酷な光が宿った。「この計画は長年練ってきた。一切の過ちは許されん。八月の寧姫の婚礼に際して、私は京に戻る。それまでに影森玄武の民望を最低まで落とし、清和天皇に凡庸な君主の烙印を押さねばならない」無相は無表情のまま続けた。「ご安心ください。この事件は第一歩に過ぎません。仮に影森玄武が再審を命じず、秋後の処刑を承認したとしても、我
役所では、木幡刑部卿が焦りを隠せずにいた。「親王様、丹治先生をお呼びになった理由は何なのです?先生は死者に触れてもいない。どれほどの医術をお持ちでも、検死官ではありませんぞ」玄武は全く慌てる様子もなく答えた。「焦らずとも。木幡刑部卿、これほど大きな騒動を引き起こした事件だ。もし我々が慎重さを欠き、無実の者を罰することになれば、天下の非難を免れまい」木幡刑部卿は長年の経験から、この事件に些細な疑問があることは分かっていた。しかし、犯人の自白があり、人証物証も揃っている。何を再調査する必要があるというのか。「時間の無駄です。犯人を一日でも長く生かすことは、被害者たちへの冒涜です」「甲斐府知事の判決も秋後の処刑だ」玄武は言った。「今はまだ四月。文書の往来も早馬を使えば一月もかからん。何を焦る必要がある?」「丹治先生はいつ来られる?随分待たされているが」木幡刑部卿は不機嫌そうに脇に座った。北冥親王に対して激しい言葉は避けたものの、その表情は明らかに不満げだった。二人の刑部輔は既に震え上がっていた。木幡刑部卿は娘が定子妃として皇帝の寵愛を受けているため、北冥親王を恐れる必要はない。しかし、彼らには寵妃となった娘などいないのだ。木幡刑部卿の言葉が終わって間もなく、刑部大輔の今中具藤が丹治先生を案内して入ってきた。丹治先生は背は低かったが、その威厳は圧倒的だった。入室するなり、まず木幡刑部卿を冷ややかな目で見つめた。木幡刑部卿は慌てて立ち上がり、先ほどまでの怒りと焦りを一変させ、謙虚で従順な態度を見せた。「丹治先生、本日はご足労いただき、誠に恐縮でございます」「木幡刑部卿をお待たせして、申し訳ございません」丹治先生は淡々と言った。「いえいえ、とんでもない。先ほどの態度は先生に対してではございません」木幡刑部卿は慌てて弁解した。丹治先生の恩を受けている身だ。母が回復できたのも先生のおかげ。さもなければ、今頃は喪に服していたはずだった。「私に対してでないなら、誰に対してですか?親王様ですか?」丹治先生は座りながら尋ねた。「いいえ、とんでもございません」木幡刑部卿は必死に取り繕った。「あちらの者たちにです」指さされた左右の刑部輔たちは愕然とした。彼らは一言も発していなかったが、上司の尻拭いは彼らの仕事。すぐに頭を下げて言った。「は
丹治先生は一枚の紙を取り出した。そこには数種類の薬物や毒物の名前が列記され、それぞれの効能と副作用が詳細に記されていた。丹治先生は一度その紙を見せた後、一つずつ説明を始めた。「まず一つ目は『冥府の炎』と呼ばれるものです。この毒は強い幻覚作用があり、服用者の心の底にある執念を際限なく増幅させます。その結果、通常以上の怪力が出るのですが。必ず解毒剤が必要になります。あの婦人は家族を殺めた後、近所の人々まで追いかけようとしましたが、役人が到着した時にはすでに正気を取り戻していました。これは『冥府の炎』の症状とは一致しません。二つ目は『死神茸』です。これは菌類の一種で、やはり幻覚症状を引き起こし、自傷行為や殺人に至ることもあります。しかし、その前には必ず泣き笑いや体の痙攣などの症状が現れます。また、この毒では虚弱な婦人が十二人もの命を奪えるほどの怪力は得られません。そして三つ目が『魂喰蟲』です。邪馬台の呪術に使われる寄生虫の一種です。この虫は人の脳に入り込み、使役者の意のままに被害者の行動を操ることができます。被害者はその間の記憶を保持したままです。最も重要なのは。この『魂喰蟲』には幻覚作用があり、さらに異常な力を引き出す効果もあるのです。寄生している間、被害者は全く別人のように変貌します。手足の動きまでもが操られ、使役者が武術の心得があり怪力の持ち主であれば、被害者もまた同じように武術を操り、怪力を振るうことができるのです」丹治先生の説明を聞き終えた木幡刑部卿と二人の刑部輔は顔を見合わせ、徐々に眉をひそめていった。「しかし、どうやってその虫を脳に入れたというのですか?」「飲食物や薬を通じてです」丹治先生は答えた。「『魂喰蟲』はすでに長期間その婦人の脳内に潜んでいた可能性が高い。この虫は成長が遅く、通常、半年から一年かけて成長し、使役可能な状態になるのです」戸部卿は言った。「しかし、この『魂喰蟲』が存在するというだけで、彼女がそれに感染していたとは限りませんな」「私はただ疑問点を解明しているだけです。この事件には依然として不可解な点が残っています。なぜ彼女に十二人もの家族を殺めるほどの怪力が備わっていたのか。『魂喰蟲』による影響が、最も合理的な説明になるのではないでしょうか」影森玄武は最も重要な質問を投げかけた。「もし本当に『魂喰
楽章は黙したまま、酒壺を傾け、大きく喉を鳴らして飲み干した。それから夜光珠を丁寧に箱に収めた。光が消えると、三日月と星々だけが残された。紫乃は楽章がこんな身の上だったとは思いもよらなかった。さくらからも聞いたことがない。遊郭に入り浸って、芸者の唄を聴いたり、自ら笛を吹いて聴かせたり。そんな放蕩な振る舞いをする男が、まさか大名家の息子だったとは。楽章の沈黙の中、紫乃の頭には後宮争いの物語が浮かんでいた。父親に利をもたらした誕生なら、きっと溺愛されただろう。側室の息子が寵愛を受ければ、それは当然、正室とその子への挑戦となる。母親がどんな人物だったかは分からないが、手腕のある女性ではなかったのだろう。でなければ、楽章がこうして家に帰れない身となることもなかったはず。「西平大名家の老夫人が、お戻りになるのを許さないの?家督を争うことを恐れて?」紫乃は慎重に探りを入れた。「誰も、俺が生きていることを知らないんだ」楽章は空虚な笑みを浮かべた。「それでいい。親房家は表面は華やかだが、内部は危機だらけだ。俺の存在を知らない方が都合がいい。あの混乱に巻き込まれずに済む。ただ、都に戻って三姫子さんの苦労を知ってしまった以上、黙ってはいられない。家の当主の妻とはいえ、所詮は他家の人間だ。背負わされている責任が重すぎる」「じゃあ……三姫子夫人を助けたいの?」紫乃は彼の取り留めのない話を整理しようとした。「助けられない。だからこそ、気が滅入るんだ」「でも、どうやって助けるの?それに、お義母様だって、あなたを認めないでしょう。手を差し伸べれば、何か企んでいると警戒されるだけじゃない?」「大名家なんて、どうでもいい」楽章は冷たく言い放った。「欲しいものは何もない。ただ、三姫子さんが賢明なら、今のうちに逃げ道を作るべきだ。都に執着する必要なんてない。子どもたちを連れて、どこか安全な場所へ……俺たち武家ならそうする。でも、そんな助言を聞く耳を持たないだろうから、黙っているさ」「でも気になるわ」紫乃は首を傾げた。「親房夕美は、あなたの妹?それとも姉?少なくとも血のつながりはあるはずなのに、どうして心配しないの?」楽章は冷笑を浮かべた。「彼女は年上だ。私は末っ子さ。なぜ彼女のことに首を突っ込む必要がある?すべて自分で選んだ道だ。三姫子さんとは違う。彼女は巻
「おや、紫乃が弱気になるなんて、珍しいじゃないか」突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには音無楽章が颯爽と立っていた。「お前より辛い思いをしている人だって、前を向いて頑張っているというのに。財も力も美貌も、世の女性が望むものは全て持っているお前が、一度の失敗くらいで落ち込むなんて。お前にこんな恵まれた生まれを与えた閻魔様に申し訳が立つのか?」紫乃が振り返ると、楽章の背の高い姿が彼女を覆い隠すように立ちはだかっていた。整った顔立ちには、どこか束縛を嫌う自由な魂が宿っているような表情。廊下の行灯に照らされた小麦色の肌が柔らかな光を放っている。漆黒の瞳は、真面目な諭しなのか、からかいの色を含んでいるのか、読み取れなかった。「さあ、空を飛ぼう」楽章は紫乃の手首を掴むと、軽やかに跳躍した。まるで風を操るかのような身のこなしで空中を滑るように進む。紫乃は目を見開いた。まさか楽章の軽身功がここまで巧みだとは。これまで彼の技は、どれも中途半端なものだと思い込んでいた。さくらは首を傾げた。五郎師兄は、私がここにいることに気付かなかったの?一瞥すらくれず、挨拶もなしか。楽章は紫乃を都景楼の最上階へと連れて行った。足は宙に浮かび、都の灯りが一面に広がっている。上る前に、都景楼から酒を二壺持ち出していた。一つを紫乃に渡し、もう一つは自分のものとした。夜風が心地よく、昼間の蒸し暑さを払い除けていく。漆黒の闇の中では互いの顔も見えず、このまま酒を飲むのも味気ない。そこで楽章は袖から夜光珠を取り出した。その光は都景楼の屋上全体を、まるで月明かりで照らすかのように包み込んだ。「見てごらん、この灯りの海を。一つ一つの明かりが、一つの家族を表している。どの家にもそれぞれの悩みがある。皇族であろうと庶民であろうと、人生には様々な苦労が付きまとう。お前の悩みなど、たいしたことじゃない」「ふん」紫乃は口の端を歪めた。「ちょっとぼやいただけよ。わざわざここまで連れてきて慰める必要なんてないし、付き合って飲む必要もないわ」そんな慰めが必要なほど落ち込んでいるわけじゃない。元気なのに。楽章は深い眼差しで紫乃を見つめながら、静かな声で言った。「誰がお前を慰めに来たって?俺を慰めに来てもらったんだ、俺の酒の相手に」紫乃は命の恩人への感謝もあり、怒る代わりに尋
三姫子は相手にする気力も失せていた。「答えたくないのなら、結構よ。離縁を望むのなら、私から村松家の奥方に頭を下げる必要もないでしょう」「お義姉さん」夕美は涙ながらに懇願した。「でも、やはり村松家には行ってください。誤解を解いていただかないと……あの時、光世さんはまだ独身でしたし、私だけが悪いわけではありません。それに、姪たちの縁談もお心配でしょう?この騒動が収まらなければ、良い縁談など叶うはずもありません」三姫子は血を呑むような思いで、それでも冷静さを保って言った。「運命ね。あなたは恵まれた家に生まれたとおっしゃる。でも私の娘たちは不運だったのね。同じ親房家に生まれたばかりに、我慢を強いられる。自分のことを考えるのは悪くない。でも、他人を巻き込まないで」「そんな……私に北條家へ戻れとおっしゃるの?」三姫子は最早言葉を継ぐ気力もなく、背を向けて部屋を出た。もう関わるまい。夕美が離縁を望むなら、村松家の奥方に謝罪したところで意味がない。このような汚名は、まるで入れ墨のよう。肉ごと削ぎ落とさない限り、一生消えることはない。北冥親王邸では、紫乃がさくらの話に耳を傾けていた。話が終わると、紫乃は唖然として、しばらく言葉が見つからなかった。「どうして」しばらくして紫乃は呟いた。「大それた悪人でもないのに、あんなに反感を買う人がいるのかしら。実際、北條守とは相性が良さそうなものなのに」「私が薬王堂にいたことも、誰かに見られていたでしょうね」さくらは静かに言った。「あの二人が出て行ってから、私も店を出たけど、まだ大勢の人がいたから」「大丈夫よ」紫乃は慰めるように言った。「少し噂になるくらいで、たいしたことないわ」傍観者なら噂の種にはならないはずだが、さくらの立場は違う。かつての北條守の妻なのだから。夕美の不義密通、そして北條守との再婚。この一件で、前妻のさくらまでもが世間の好奇の目にさらされ、噂話の的となるのは避けられない。「大したことないけど」さくらは首を傾げた。「あの時は、二人が取っ組み合いを始めて、私も呆然としてしまって」「へえ、村松家の奥方って相当な戦闘力だったの?」「きっと長い間心に溜め込んでいたのね。一気に爆発して、体面も何もかも忘れて、ただひたすら怒鳴り散らしていたわ」「あー、見たかったなぁ」紫乃は残念そ
事件以来、三姫子は初めて夕美の元を訪れた。夕美は薄い掛け布で顔を覆い、誰とも会いたくないという様子で横たわっていた。老女が黒檀の円椅子を運んできて、寝台の傍らに置いた。布団の下の人影が、かすかに震えている。「もう逃げても始まらないわ」三姫子は単刀直入に切り出した。「事態を収めなければならない。お義母様の意向では、村松家の奥方に謝罪して、誤解を解いていただくつもりよ。ただ、承知いただけるかどうか……それと守さんのことだけど、今日、将軍邸を訪ねたの。あなたのことは、ずっと前から知っていたそうよ。ただ、敢えて言い出さなかっただけ。もしあなたが離縁を望まないなら、今回の件は水に流して、これまで通り暮らしていけるとおっしゃっていた。ただし、一つ条件があるわ。彼、どうしても従軍するつもりみたい」薄い掛け布がめくれ、夕美の腫れぼったい哀れな顔が現れた。桃のように腫れた目は、さらに大きく見開かれ、瞳が震えている。「知っているはずないわ……どうして……離縁しないかわりに、何を求めているの?」「言ったでしょう。従軍すると」「ただの下級兵士として?」夕美の目に再び涙が溢れた。「それなら実家に戻った方がまし。母上は私のことを大切にしてくれると約束してくださった。どんなことがあっても、私は西平大名家の三女よ。持参金だけでも一生食べていける。どうして彼と貧乏暮らしを強いられなければならないの?」夕美は寝台に横たわったまま、首筋の赤い痕を見せている。両目から涙が零れ落ち、鼻声で訴えかけた。「私のことを軽蔑なさっているのは分かっています。でも、よくよく考えてみたの。私のどこが間違っていたのかしら?自分のことを第一に考えただけ。それがあなたたちの目には利己的に映るのね。でも、誰だって利己的じゃないの?自分を大切にして、不遇は嫌だと思うのは、そんなに悪いことなの?親房家に生まれた私は、多くの人より恵まれている。実家という後ろ盾もある。なのに、どうして自分を卑しめなければならないの?」息を継ぎ、さらに言葉を重ねた。「あなたたちは言わないけれど、私が上原さくらや木幡青女と比べることを笑っているでしょう?でも、人は誰でも比較するものよ。虚栄心のない人なんているの?私も上原さくらも再婚よ。比べて何が悪いの?」「それに、北條守との結婚だって……私が幸せな結婚生活を望まなかった
北條守は涼子を叱りつけ、退出を命じた。続いて孫橋ばあやに使用人たちを下がらせ、父と兄だけを残した。最近、酒を飲み過ぎているのか、守の顔色は青白く、憔悴しきっていた。乱れた髪は雑草のように伸び放題で、数日前に剃ったであろう髭が青々と生え始め、荒れた唇の周りを縁取っていた。まるで野良犬のような見苦しさだった。着物は皺だらけで、体からは酒の臭いが染み付いていた。三姫子は夕美との結婚当時の彼を思い出していた。特別颯爽とはいかなくとも、立派な青年武将だった。それが今や、こうも見る影もない姿になってしまうとは。まるで時季外れに萎れた花のように、その顔には深い疲弊の色が刻まれていた。守が黙り込む中、父の義久が口を開いた。「三姫子夫人、噂はもう都中に広まっております。夕美は天方家にいた頃から不義を重ねていたとか。これほどの醜聞では、わが将軍家も以前ほどの家格はございませぬが、そのような不徳の輩を置いておくわけにはまいりませぬ」三姫子はこうなることは予想していた。離縁を思いとどまるよう懇願するつもりもなく、ただ一言だけ口にした。「無理を承知で申し上げます。来年まで、離縁を延ばすことは叶いませぬでしょうか」「よくもそこまで計算なさいましたな」義久は珍しく父親らしい威厳を見せた。「来年まで待てというのか。我が将軍家の面目は、それまでにどれほど汚されることか。そもそも彼女自身が離縁を望んでいたではありませんか。結婚以来、二人は絶え間なく言い争い、やっと授かった子までも失った。これは縁がないということ。何故そこまで強いるのです?」義久は普段、優柔不断で面倒事を避けがちだったが、他人の道徳に関する問題となると、必ず厳しい態度で臨んだ。息子がここまで憔悴し切っているというのに、このような不義理な嫁をこれ以上置いておいては、どうして普通の暮らしが営めようか。「離縁とはいえ、持参金は一切没収せず、すべて返還いたします。持ってきた分はそのまま持ち帰れるようにしましょう」義久は断固として告げた。一見、寛大な処置に思えた。もし西平大名家の立場でなければ、三姫子は問いただしたいところだった――どうしてさくらを離縁する時は持参金の半分を没収すると言っていたのか、と。だが、そんなことは言えるはずもない。「来年が無理なら、せめて数ヶ月後では?年末まででしたら
三姫子は老夫人からようやくこの態度を引き出せたものの、心中穏やかではなかった。普段は道理をわきまえている老夫人だが、実の子となると途端に判断が偏り始める。先ほどまでの激しい怒りも、たった一言で情に流されてしまう始末。三姫子は自分の立場を思い、胸が締め付けられた。目の前の難題に対し、老夫人の助力を期待していたのだが、夕美への対応を見る限り、甲虎が平妻を迎えようとしている件も、きっと我慢するようにと言われるに違いない。他のことには理性的な判断ができる老夫人が、わが子となると際限なく甘くなる。これまでも夕美が暴走するたびに「もう関わらない」と言い続けてきたが、結局は尽く面倒を見てきたではないか。「お義母様に、そこまで可愛がっていただけるとは」三姫子の声には皮肉が滲んでいた。老夫人は三姫子の手を優しく包み込み、慈愛に満ちた表情を浮かべた。「母は誰も差別なんかしてないわよ。もし甲虎が貴女を粗末に扱うようなことがあれば、母が許すはずがないわ」「ご配慮、ありがとうございます」三姫子は目を伏せながら静かに答えた。どこが差別なしだというのか。もし本当にそうなら、甲虎が邪馬台へ赴任する前、屋敷に側室を何人も置いていた時、なぜ「夫婦の私事だから、姑の私が口を出すべきではない」と言い放っただけなのか。老夫人は何かを思い出したように、急に血の気が引いた顔になった。秋用の薄手の錦紗の掛け布を握りしめながら、嫁二人の顔を交互に見つめた。「ひとつ、先に申し上げておきたいことがありますわ。もしこの一件が収まらず、北條家が離縁を決めた場合には、夕美を実家に戻させていただきますわ。もしお二人が嫌がるようでしたら、別邸を購入して住まわせます。親房家で面倒を見続けますから」これは相談ではなく、決定事項だった。三姫子と蒼月はわずかに頷いただけで、何も言わなかった。女の身の上を思えば……たとえ夕美がこれほどの過ちを犯しても、老夫人が迎え入れると言うのなら、二人とも反対はしまい。結局のところ、夕美が実家に戻るか否かは本質的な問題ではない。この事件自体が親房家の評判を傷つけてしまった。たとえ戻らなくとも、彼女は依然として親房家から嫁いだ娘。世間の人々は必ずや出自を探り、噂話の種にするだろう。結局、三姫子が北條守に話をつけることになった。守は妹の涼子から
西平大名家は、まさに混乱の渦中にあった。珠季の説明では不十分だったが、三姫子が帰邸して詳細を聞くと、事態の深刻さが明らかになった。村松の妻は夕美の頬を何度も平手打ちにし、薬王堂の患者たちだけでなく、通りがかりの人々までもが中を覗き込んでいたという。夕美付きの侍女・お紅の話では、混乱の中で誰かが「王妃様がお見えです、無礼があってはなりません」と叫ぶ声が聞こえたという。三姫子は一瞬驚いたが、すぐにその王妃が上原さくらであろうと察した。薬王堂は彼女がよく訪れる場所だったからだ。だが、どの王妃が目撃していようと、事は既に広まってしまった。西平大名家の面目は、今や完全に失墜してしまったのだ。三姫子はまず外の間で一息つき、茶を啜りながらしばらく腰を落ち着けてから、老夫人の元へ向かった。「どうすればいいの……」老夫人は三姫子の手を握りしめ、涙ながらに訴えた。「何とか隠せないかしら。村松の奥方に会って……何なりと要求を飲むから、誤解だったと言ってもらえないかしら。そうすれば、この騒ぎも収まるでしょう」三姫子は老夫人の言葉に、怒りと悲しみの中にあってなお、あらゆる手立てを考え抜いた末の結論を感じ取った。確かに、今はそれしか方法がないのかもしれない。蒼月を見やると、彼女は黙したまま傍らに座っていた。表情は凍りついたように無感情だった。夫婦円満な蒼月とはいえ、子どもたちのことを考えれば……一族の栄辱は共にある。まして不義密通となれば……そんな話題さえ、口にするのも憚られる重大事だった。蒼月にも打つ手がない。すべては嫡男の妻である三姫子の采配にかかっていた。「確かに今はそれしかありませんね」三姫子は静かに答えた。「私が彼女に会ってまいります」心の中では怒りが渦巻いていた。子どもたちの縁談に影響がなければ、夕美の評判など地に落ちようと知ったことではなかった。「ただし……」三姫子の声は冷たく響いた。「覚悟はしておいていただきたいのです。もし北條様がこの件を知れば……和解離縁などという穏やかな話ではすまないかもしれません。実家に追い返されることになれば、村松の奥方が何を言おうと……もはや挽回の余地もございません」「誤解を解けば、事は収まるでしょう」老夫人は涙を拭った。長男の嫁の手腕を信頼していた。必ずや上手く収めてくれるはずだと。「
夕美の一件については、さくらも偶然、その現場に居合わせていた。さくらは御城番の見回りを密かに監視していたのだ。最近の査察項目の一つに巡視があり、以前の悪習は取り締まったものの、まだ商人たちは昔のように贈り物で巡視の目を逸らそうとしていた。部下に見回りを命じてはいたが、彼らは取り締まりを怠り、すぐに茶屋で茶を啜りながら世間話に興じてしまう。見せしめに一件でも現行犯で押さえようと考えていたさくらは、図らずもこの騒動に出くわすことになった。薬王堂で一息つこうと立ち寄った際、淡い青色の簾越しに、後ろの間で事の成り行きを目の当たりにした。最初は夕美の声を聞いただけだった。顔を合わせたくないと思い、後ろの間で彼女が立ち去るのを待っていたのだが、夕美は雪心丸を求めて粘り強く交渉を続けた。番頭が品切れを告げても、なかなか諦めようとしない。そこへ薬材を運んできた村松光世が姿を現す。互いの間に何もないことを示すかのように、夕美は挨拶を交わし、薬王堂に秘蔵の雪心丸が残っているはずだと持ちかけた。たった一粒でいいから、昔の縁を思って分けてもらえないかと。店内は既に客で賑わっていた。人目もはばからず頼み込む夕美に、光世は冷たく断った。その素っ気ない態度に夕美は堪えきれず、「せめて親戚だった仲じゃないですか」と涙ながらに訴え始めた。折悪しく、夫の薬材運搬を知っていた村松の妻が、八角の重箱を手に現れ、その場面を目撃してしまう。たちまち店内は修羅場と化した。村松の妻の言葉から、さくらは事の真相を知ることとなった。本来なら知るはずのなかった秘密を、妻は夫への深い愛ゆえに探り当てていた。夫が天方家に寄寓していた過去、そして天方十一郎の帰京後、従兄弟の付き合いが途絶え、節季の挨拶さえ省くようになったことに疑念を抱いていたのだ。幾度となく調べ、さりげなく探りを入れ、ついに夫と夕美との因縁を突き止めた。当初は激しい怒りに駆られたものの、双方とも既に他人と結ばれている以上、この醜聞を蒸し返すまいと心に決めていた。だが今日、夫と夕美が密かに言葉を交わす場面を目の当たりにし、嫉妬の炎が理性を焼き尽くした。もはや何も制御できず、すべてを暴露してしまった。現場は阿鼻叫喚の様相を呈した。病人たちや付添いの者たちは、噂話どころではなく、ただ呆然と口を開けたまま、
紫乃は最近、日の出前から姿を消すようになっていた。まだ夜明け前の静けさが街を包む頃、彼女はすでに屋敷を後にしていた。とはいえ、毎日必ず一刻ほどは工房に顔を出していた。最近、工房には新しい仲間が加わっていた。松平七紬という名の女性で、夫に離縁された身の上だった。実家の兄は快く迎えようとしたものの、兄嫁の反対に遭い、兄を難しい立場に追い込むまいと、工房に身を寄せることを選んだのだ。工房では、みんなで刺繍品を作りながら、穏やかに言葉を交わしていた。誰も過去の話はせず、これからのことばかりを語り合っていた。紫乃はこの雰囲気が気に入っていた。時折訪れては蘭との会話を楽しみ、石鎖さんや篭さんとも自然と打ち解けていった。まるで長年の知己のような親しみやすさがそこにはあった。この日も三姫子が顔を見せ、折よく紫乃と言葉を交わす機会があった。紫乃は賢一が棒太郎から武芸を学んでいることを知っていた。率直な物言いで「賢一くんは確かに勤勉ですが、才能の方はちょっと……むしろ学問向きかもしれませんね」と語った。三姫子は気にした様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて答えた。「構いませんよ。別に驚くような武芸の腕前を期待しているわけではありませんから。ただ、体を丈夫にして、万が一の時に道中で倒れることのないように、という程度のものです」紫乃はその言葉を聞きながら、三姫子の微笑みの裏に潜む何とも言えない哀しみを感じ取っていた。よく考えれば、その懸念も分かる気がした。普段なら、大名家の世子が旅をする時は、前後に従者を従え、護衛や召使いも大勢付き添うはずだ。また、科挙に及第して地方官として赴任する時も、それなりの規模の行列となり、苦労も危険も感じることはないだろう。道中で苦しむような目に遭うとすれば……それは流罪に処せられた時くらいではないか。今の西平大名家は、かつての栄華こそないものの、それでもなお相応の地位を保っている。どうして三姫子はそんな不吉なことを案じているのだろう。紫乃が尋ねようとした矢先、三姫子付きの侍女・織世が慌ただしく駆け込んできた。紫乃の存在など気にする様子もなく、息を切らして告げる。「奥様!蒼月様がお呼びです。夕美お嬢様が……自害を……」「まさか!」三姫子が立ち上がる。「助かったの?」「はい、危うく間に合いました。詳しいことは、お