涼子は頬を押さえながら老夫人の胸に飛び込んだ。「母上、守お兄様が私を叩きました!」老夫人は涼子の背中を優しく撫でながら、守を失望した表情で見つめた。「たった数言の言い争いで、兄として妹を叩くとは。彼女の心を傷つけるだけよ。彼女の行動が、最初はあなたのためでなかったとしても、結果的にはあなたのためになったはずでしょう」「母上、僕が涼子を叩いたのは、義姉を侮辱する暴言を吐いたからです」守は怒りを込めて言った。夕美は胸が熱くなった。夫がこれほどまでに自分を守ってくれることに、これまでの苦労が報われた気がした。老夫人は夕美を一瞥し、「もういいでしょう。二人とも下がりなさい。私がゆっくり涼子と話をします」と言った。守は鬱々とした気分で、胸に澱のような思いを抱えたまま、大股で部屋を出て行った。夕美は夫の様子を見て、相当怒っていることを悟った。彼の後を追いかけ、腕に手を回して言った。「あなた、今夜私をこんなに守ってくださって......私も必ずあなたの出世のために尽くします」北條守の体が一瞬こわばった。心の中にゆっくりと悲しみが広がっていく。実は、涼子を叩いたのは夕美のためではなかった。さくらを「腐った女」と罵った、その言葉のためだった。「腐った女」という言葉を聞いた瞬間、頭に血が上り、理性が吹き飛んでしまった。思わず平手を振り上げ、「どうしてそんな口が利ける」と叫んだ時、守の心にいたのはさくらだった。失って初めて大切さに気づく――そんな言葉があるが、その時気づいても何の意味もない。守にも分かっていた。この想いが虚しいことを。さくらに対する自分の感情が何なのか、もはや自分でも分からない。後悔なのか、それとも未練なのか。確かに自分に非はあった。しかし、さくらも自分を愛していなかったのだろう。少しでも愛情があれば、あれほど冷酷に宮中で離縁を願い出ることはなかったはずだ。「俺の出世は誰かに頼る必要はない。自分の力でやっていく」守は夕美の手を振り払った。「二度とそんな話はするな。不愉快だ」「ごめんなさい」夕美は慌てて夫の腕に手を戻した。「私が間違っていました。あなたの志の高さは分かっています」守は夕美の腕を振り払わなかったが、心は深い悲しみに沈んでいた。かつては将軍家の名を輝かせる最有力候補だった自分が、今や何になってし
さくらは平陽侯爵老夫人の険しい表情を見て、血気を養う薬膳を運ばせた。本来は自分のために煮出したものだった。玄武は、戦場での負傷が後々まで影響することを懸念し、常に養生するよう言い聞かせていたのだ。さくらは老夫人の呼吸が普段より荒く、怒りを抑えているように見えたため、優しく声をかけた。「ご病身のところ、わざわざお越しいただかなくても。昨夜の件は、老夫人とは何の関係もございません」平陽侯爵老夫人は薬膳を飲み、しばらく胸に手を当てていた。やがてゆっくりと口を開いた。「本来なら、我が家とは無関係であってほしかったのです。ですが、儀姫は結局のところ平陽侯爵家の人間。昨夜の一部始終を、この目で見ておりました。彼女は親王様の名誉を傷つけようとしましたが、図らずも自分の夫の立場を危うくし、自らの首を絞める結果となりました。そのために、我が家は涼子を迎え入れざるを得なくなったのです」さくらにはその結末が予想できた。平陽侯爵家は何より名誉を重んじる。近年は儀姫によって評判を落としていたものの、老夫人が尽力して取り繕い、一族の若者たちも言動に細心の注意を払い、家の名誉を傷つけるような隙を見せまいと気を配っていた。百年の名門である彼らにとって、名誉の一点の曇りも許されない。だからこそ、不本意でも名誉を守るためには、この屈辱も飲み込まねばならないのだ。まして、これは自分の嫁である儀姫が蒔いた種なのだから。「北條家の方々が今朝いらっしゃいました」老夫人は普段なら決して口外しない家の恥を、今日は抑えきれずに話し始めた。皇太妃様の誕生祝いの席での出来事だけに、なおさらだった。「涼子の母は、我が息子が娘の清白を汚したと言い張るのです。大勢の目撃者がいる以上、娘の縁談に支障が出る。だから、涼子を我が家の側室として迎えることで、穏便に済ませたいと」さくらは何と評価すべきか迷い、ただ慰めの言葉を掛けた。「もはや起きてしまったことです。お気を落とさないでください」「お恥ずかしい限りです」老夫人は素早く感情を抑え、教養ある態度を取り戻した。しかし、今朝の北條家の老婦人との対峙で、人の厚顔無恥さを思い知らされた。さくらは微笑んで言った。「よく存じております。老夫人、君子は下郎と争えないものです」老夫人の心が揺れた。「あなたも......あの時は、さぞ辛かったでしょうね」
平陽侯爵老夫人が去った後、恵子皇太妃が慌ただしく花の間に現れた。そこにはさくらが一人、物思いに耽りながらゆっくりとお茶を飲んでいた。皇太妃は尋ねた。「平陽侯爵の老夫人がいらしたと聞いたのだけど?私も急いで来たのに」さくらは立ち上がり、深々と礼をした。「母上、老夫人は今しがた帰られました」「もう帰ったの?」皇太妃は息を切らしながら座った。「私に会いに来たのではなかったの?」皇太妃の表情に失望の色が浮かんだ。平陽侯爵老夫人が自分を訪ねてきたのだと思い込んでいたのだ。大長公主のところには、高官の夫人たちが絶えず訪れているというのに、と羨ましく思っていたのだ。「母上にお会いするためにいらしたのですが、二日酔いとお聞きして、お邪魔を控えられたようです」さくらは皇太妃の表情を見て、その心中を察した。この姑の心は、実に読みやすい。「つい飲み過ぎて、大事な機会を逃してしまったわ」皇太妃は昨夜の息子の激怒を思い出し、おずおずとさくらを見た。「あの......玄武は昨夜、あなたに何も......」さくらは軽く咳払いをした。「いいえ、少し叱られただけです」「たった数言で済んだの?」皇太妃はさくらの不自然な様子を見て、嘘を付いていることを悟った。自分の息子の性格は誰よりも分かっている。普段は何を言っても平気だが、逆鱗に触れた時は、数言で収まるような怒りではない。きっと昨夜は随分と怒りを向けられたのだろう。それなのに、こうして隠そうとする気遣い。皇太妃は心が痛んだ。「確かに屋敷の采配はあなたの役目で、側室を迎えるのもあなたの判断次第だけれど......玄武が気に入らないのなら、もう言い出さない方がいいわ。後で叱責を受けることになるだけだから。男というものは、一度怒り出すと実の母親さえ見境がなくなるものだから」さくらは今朝、玄武が朝廷に向かう前に言った言葉を思い出した。「朝廷がなければ、今日は床から起き上がれないほど可愛がってやるところだったのに」。その記憶に頬が赤く染まり、慌てて顔を背けた。「はい、分かりました」恵子皇太妃はさくらの落ち着かない様子を見て、溜息をついた。「高松ばあや、王妃のために燕の巣を煮出して、身体を養うように」「かしこまりました」高松ばあやは退出した。皇太妃は昨夜の北條家の娘の件について尋ね、さくらは詳しく説
数日後、朝廷が終わると、天皇は影森玄武を残した。積み重なった政務書類には目もくれず、天皇は吉田内侍に碁盤を用意させた。玄武との対局も久しぶりだと言う。玄武は朝服の裾を持ち上げ、帯に差し込むと、気さくに腰を下ろした。「日々の公文書で頭が痛くなっておりました。陛下のご命令で怠けられるとは、この恩寵に感謝いたします」その仕草を見た天皇は眉をひそめた。「まだ軍営時代の癖が抜けていないのか?随分と粗野だな。今や刑部卿、朝廷の二位官僚だぞ。己の立場をわきまえろ」「実の兄上の前で、何を取り繕う必要がございましょう」玄武は豪快に笑い、白い歯を見せた。「王妃の前でもそんなに奔放なのか?」天皇は長い指で白石を摘み、ゆっくりと置いた。玄武は黑石を手に取り、その瞳は手の中の石のように深く、何も読み取れない。「妻の前では、もっと奔放でございます」天皇は玄武を見つめながら、微笑んだ。「叔母上の誕生祝いで、お前の側室になりたがる者がいたと聞いたが」「そのような噂まで陛下のお耳に入るとは。お耳を汚してしまい申し訳ございません」玄武はそう言いながら、黒石を置いた。「ふむ、朕は普段そういった噂話には耳を貸さんのだが、お前は朕の弟。太后様も気にかけておられる。聞いておこうと思ってな。側室を迎える考えでもあるのか?」「そのような考えはございません」玄武は顔を上げ、また白い歯を見せて笑った。「陛下、臣は長年戦場におりましたゆえ、体が相当衰えております。今も丹治先生に養生を命じられている身。正室一人でさえ力不足を感じる始末。これ以上側室など迎えては、とても太刀打ちできません」天皇は呆れたように玄武を見た。「戯言を。武芸の達人が何を弱音を吐く。それとも、朕の後宮が多すぎて力不足ではないかと、からかっているのか?」「臣が陛下の後宮について申し上げるなど、とんでもございません。陛下には皇統を継ぐ重責がおありです。後宮が多いのは当然のこと。一般の官僚でさえ、三人や四人の側室はおりますゆえ」「皇統を継ぐか」天皇は玄武を見つめた。「お前も皇族の血筋。子孫を残すのはお前の責務でもあるぞ」玄武は軽く笑った。「臣は元々独身を通すつもりでした。余計な煩わしさを避けたかったのです。今は王妃がおり、母上も宮を出られ......これ以上の煩わしさは望みません。子作りのことは、
「子供を望まない者などいるものか?朕は後宮に子孫が増えることを望んでいるというのに。玄武は朕より数歳年下だが、あの年齢なら父親になっていても不思議はない」吉田内侍は静かな声で言った。「おそらく、親王様も陛下のご懸念をお察しなのでしょう。兄弟の間に疑念が生じることを望まれないのだと。覚えていらっしゃいますか?幼い頃から、親王様は何事も陛下を手本とし、誇りにしておられました。外で王兄様のことを話される時も、いつも誇らしげなお顔をなさっていました」吉田内侍の言葉に、天皇は昔のことを思い出していた。その眼差しは自然と柔らかくなっていった。長い沈黙の後、天皇は深いため息をついた。「朕が......余計な心配をしすぎていたのかもしれんな」吉田内侍は黙って茶を注ぎ足した。長年の奉仕で、天皇のこの突然の溜息が何を意味するか分かっていた。兄弟の情を懐かしむ一時の感傷に過ぎず、警戒心が薄れることはないだろう。王の子作りを控える判断は賢明なものだった。少なくとも、後継ぎがいないことで、天皇も幾分安心できる。邪馬台領土を奪還して間もない今、朝廷の文武官僚たちは親王様を最も敬慕し、民衆からの支持も最高潮にある。功績が君主の権威を脅かすほどの親王を、どの帝王も警戒するものだ。親王様は邪馬台を平定した後、軍権を返上し、妻を娶って心の拠り所を得た。天皇にとって、それは親王の忠誠と安全の証となったのだ。役所に戻ると、刑部から案件について問い合わせの使者が来ていた。玄武は案件の精査が終わっていないことを理由に、一旦帰らせた。夜になって屋敷に戻り、さくらと食事を終えたところで、刑部卿の木幡次門が直々に訪れた。二人は書斎で半時ほど案件について激論を交わし、最後は不快な空気のまま別れた。梅の館に戻る時、玄武は門をくぐる前に、暗い表情を消し去り、いつもの穏やかな顔に戻していた。さくらは宇治茶を用意させていた。案件の詳細は知らなかったが、尾張拓磨から親王様が一家殺害事件で頭を悩ませているという話を聞いていた。刑部が今日使者を寄越し、夜には刑部卿が直々に来訪するほど、緊急を要する案件なのは明らかだった。「一体何が、そんなにお悩みなのですか?」さくらは率直に尋ねた。明らかに案件で頭を抱えているのに、部屋に入るなり何事もないかのように振る舞う夫。公務の重
玄武は頷き、いつものように賞賛の眼差しでさくらを見つめた。「その通りだ。一家は彼女を含めて十三人。そのうち十二人を殺害した。舅、夫、三人の息子たち、この五人は健康な成人男性だ。それに姑、未婚の娘二人、残りは下男と侍女たち。問題は、この事件が深夜ではなく、皆が眠っている時間でもない、夕暮れ時に起きたことだ。食事の後、突然台所から包丁を持ち出して全員を切り殺した。この女性は武芸の心得もなく、むしろ病弱で常に薬を服用していたほどだ」「少し意地の悪い病人が、一人くらいは殺せても、すぐに止められたはずよね。毒でも盛られて、皆気を失っていたの?」「いや、全員意識ははっきりしていた。近所の者の目撃証言によると、その女性は狂ったように、尋常でない力を見せ、見かけた者を次々と殺していったという。近所の者たちが急いで自宅に逃げ帰り、戸締りをしなければ、彼らまで殺されていたかもしれない。地元の役所で傷口と凶器を照合したところ、一致したそうだ」さくらは夫が死刑の承認を躊躇う理由が分かった。この一家殺害事件には、確かに疑問点が残る。ただし、これほどの騒動になったのも無理はない。近所の目撃者がいて、本人も認めており、凶器と傷口も一致している。逃れようのない事実だ。「そうそう、食事の後で起きた事件なのよね。食べ物は調べなかったの?」「調べていない。遺体に毒の痕跡がなかったからだ」「私は、あの女性が何か特殊な毒を盛られて、狂乱状態になり、異常な力を得たのではないかと疑っている」玄武は言った。「何人かの御典医に尋ねたが、そのような毒は聞いたことがないと」二人は目を合わせ、同時に声を上げた。「丹治先生に相談しましょう!」玄武は即座に着替えて薬王堂へ向かった。一刻の猶予も許されなかった。この事件は民衆の怒りを煽り、極刑を求める声が日増しに高まっていた。刑部からの圧力も強まる一方で、朝廷の大半は彼の味方ではなかった。疑問点があっても、誰も追及しようとはしない。目撃者がいて本人も認めている以上、些細な疑問など取るに足らないとされていた。薬王堂を訪れた翌日、玄武は刑部卿と二人の刑部輔を役所に招いた。木幡刑部卿は焦りを隠せない様子で、丹治先生を待つ間、苛立ちを露わにした。「親王様が何をそれほど疑問に思われているのか、私には理解できません。この事件は既に
燕良親王は無表情に親指の玉の指輪を回しながら言った。「まだ足りん。さらに噂を広めよ。北冥親王の影森玄武が犯人の女を庇っているのは、刑部卿としての手腕を示すためだと。天下の非難を顧みず功を求めていると。さらに、彼は単なる武将で、律法については何も分かっていないとな」「それに、天皇も彼に欺かれている。功績が高すぎて、天帝も彼の顔色を窺わざるを得ないとも」「親王様は、北冥親王が必ず再審を命じると確信されているのですか?」部下が尋ねた。「疑問点があれば、必ずそうする」燕良親王は薄く笑みを浮かべ、その目には血に飢えた冷たい光が宿った。「彼のことは分かっている。人命に拘る男だ。人命に拘る者は必ず慎重に事を運ぶ。これほどの疑問点があれば、再審を命じずにはいられないだろう。自分の良心が許さないからな」「承知いたしました」部下は深々と頭を下げ、退出した。門口で外套を身に纏うと、素早く姿を消した。燕良親王の唇に意味深な笑みが浮かんだ。影森玄武よ、お前の民望を地に落とし、二度と兵権など握れぬようにしてやろう。天下の民にお前の功が君主を脅かすほど高いことを知らしめ、天皇がお前を恐れていること、天皇の無能さをも示してやる。「無相!」彼が呼びかけた。錦織りの山水図屏風の後ろから、灰色の袍を纏った中年の男が現れ、頭を下げた。「親王様」燕良親王は尋ねた。「あの女の体内の蠱毒は、誰にも発見されないだろうな?」無相は低い声で答えた。「発見されることはありません。それは彼女の脳内に潜む小さな虫に過ぎません。首を刎ねても見つかりはしません。この虫は私の命令にのみ従い、今の彼女には何の異常も見られません」燕良親王は軽く頷いた。「それで良い」「ご心配には及びません。甲斐府知事も我々の配下。再審を命じられても、前回と同じ結論を京に送ることでしょう。往復に時間がかかれば、民衆の怒りはさらに増すばかり。我々にとって好都合です」燕良親王の目に冷酷な光が宿った。「この計画は長年練ってきた。一切の過ちは許されん。八月の寧姫の婚礼に際して、私は京に戻る。それまでに影森玄武の民望を最低まで落とし、清和天皇に凡庸な君主の烙印を押さねばならない」無相は無表情のまま続けた。「ご安心ください。この事件は第一歩に過ぎません。仮に影森玄武が再審を命じず、秋後の処刑を承認したとしても、我
役所では、木幡刑部卿が焦りを隠せずにいた。「親王様、丹治先生をお呼びになった理由は何なのです?先生は死者に触れてもいない。どれほどの医術をお持ちでも、検死官ではありませんぞ」玄武は全く慌てる様子もなく答えた。「焦らずとも。木幡刑部卿、これほど大きな騒動を引き起こした事件だ。もし我々が慎重さを欠き、無実の者を罰することになれば、天下の非難を免れまい」木幡刑部卿は長年の経験から、この事件に些細な疑問があることは分かっていた。しかし、犯人の自白があり、人証物証も揃っている。何を再調査する必要があるというのか。「時間の無駄です。犯人を一日でも長く生かすことは、被害者たちへの冒涜です」「甲斐府知事の判決も秋後の処刑だ」玄武は言った。「今はまだ四月。文書の往来も早馬を使えば一月もかからん。何を焦る必要がある?」「丹治先生はいつ来られる?随分待たされているが」木幡刑部卿は不機嫌そうに脇に座った。北冥親王に対して激しい言葉は避けたものの、その表情は明らかに不満げだった。二人の刑部輔は既に震え上がっていた。木幡刑部卿は娘が定子妃として皇帝の寵愛を受けているため、北冥親王を恐れる必要はない。しかし、彼らには寵妃となった娘などいないのだ。木幡刑部卿の言葉が終わって間もなく、刑部大輔の今中具藤が丹治先生を案内して入ってきた。丹治先生は背は低かったが、その威厳は圧倒的だった。入室するなり、まず木幡刑部卿を冷ややかな目で見つめた。木幡刑部卿は慌てて立ち上がり、先ほどまでの怒りと焦りを一変させ、謙虚で従順な態度を見せた。「丹治先生、本日はご足労いただき、誠に恐縮でございます」「木幡刑部卿をお待たせして、申し訳ございません」丹治先生は淡々と言った。「いえいえ、とんでもない。先ほどの態度は先生に対してではございません」木幡刑部卿は慌てて弁解した。丹治先生の恩を受けている身だ。母が回復できたのも先生のおかげ。さもなければ、今頃は喪に服していたはずだった。「私に対してでないなら、誰に対してですか?親王様ですか?」丹治先生は座りながら尋ねた。「いいえ、とんでもございません」木幡刑部卿は必死に取り繕った。「あちらの者たちにです」指さされた左右の刑部輔たちは愕然とした。彼らは一言も発していなかったが、上司の尻拭いは彼らの仕事。すぐに頭を下げて言った。「は