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第8話

Author: 冴川
last update Last Updated: 2024-12-18 10:37:42
最初の日、梓が送ってきたのは、恭一郎が彼女のために自らエビを剥いている写真だった。

その夜、千夏は火鉢を準備し、恭一郎と一緒に撮ったすべての写真を燃やした。

二日目、梓から送られてきたのは、恭一郎が彼女とアオギリの木の下でキスをしている写真だった。

千夏は工事業者を呼び、別荘の庭に恭一郎が手植えしたすべてのサクランボの木を切り倒させた。

三日目、梓はライブ配信の中で恭一郎が彼女への愛を語った映像のハイライトを送りつけてきた。

千夏は過去に恭一郎が彼女へ送った何百通ものラブレターを引っ張り出した。

年月を経て少し色あせた紙の上には、今でも鮮明な文字が残っていた。

千夏はその文字を一度だけ指で撫でると、何の未練も見せずにラブレターをすべてシュレッダーにかけた。

そして、出発の日の朝。

千夏が目を覚ますと、そこには久しぶりに帰宅した恭一郎が立っていた。

彼はベッドのそばに立ち、手には千夏のスマホを持っていた。

彼女が目を覚ますと、深い眼差しで彼女を見つめながら尋ねた。

「千夏、さっき君のスマホにメッセージが来てた。『削除手続き完了』って。君、何を削除したんだ?」

その言葉に、千夏の心臓は一瞬止まりそうになった。

彼女は急いでスマホを取り返し、画面を確認した。

それは彼女が申請していた身分情報の削除が完了した通知だった。

幸いにもスマホにはパスコードが設定されており、恭一郎が目にしたのは通知の一部だけだった。

千夏は心を落ち着けると、何気ない口調で答えた。

「別に大したことじゃないわ。SNSのアカウントがハッキングされてたから、復旧して削除しただけよ」

その答えに、恭一郎は安堵のため息を漏らし、彼女をそっと抱きしめた。

そして微笑みながら言った。

「千夏、僕が君の好きなものを買ってきたの、わかる?」

彼女は一瞬動揺し、少し間を置いてから静かに答えた。

「東城のお餅でしょう?」

恭一郎は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。

「なんで分かったんだ?」

分からないはずがなかった。

かつて交際していた頃、恭一郎は彼女を怒らせるたび、東城の店までわざわざお餅を買いに行き、それを手にして謝りに来たものだ。

その甘く香ばしい香りが鼻をくすぐるだけで、彼女の怒りはすぐに消えた。

彼女は宝石にも高級車にも興味がなく、ただそのお菓子が好きだった。

恭一郎はその時よく笑いながら言っていたものだ。

「僕の千夏、簡単に機嫌が直るよね」

その言葉に、彼女は彼の額を軽く指で突きながら返したものだった。

「簡単なんじゃないの。私がまだあなたを愛してるからよ。だから何をされても許せるの」

そして、いつも続けてこう言った。

「もし、いつか私があなたを愛さなくなったら――その時は、目の前で命を絶たれても許さないわよ」

記憶の中の思い出が遠ざかる中、恭一郎は背後からお餅が入った箱を取り出し、優しい笑みを浮かべながら言った。

「やっぱり、僕は君に何一つ隠せないな」

その言葉に、千夏は笑みを浮かべ、一言ずつ噛み締めるように答えた。

「そうね、あなたは何一つ私から隠せないわ」

その言葉を聞いた瞬間、恭一郎の心が一拍漏れるような感覚に襲われた。

「千夏……」

彼は思わず呟いた。

しかし、千夏はそれ以上何も言わず、ベッドを降りて洗面所へ向かった。

洗面を終え部屋に戻ると、恭一郎が急いで家を出ていく姿が目に入った。

千夏は二秒ほど考えた後、彼の後を追った。

ドアの外に出た瞬間、彼女は足を止めた。

目の前には梓が立っていたのだ。

驚いた千夏以上に、動揺を隠せなかったのは恭一郎だった。

彼は梓に向かって速足で近づき、険しい顔で彼女の手を掴んだ。

「お前、正気か?なんでここに来たんだ!千夏がいるときは絶対に顔を出すなって言っただろう!」

その怒鳴り声に、梓は全身を震わせ、目を潤ませて彼の服の裾を掴んだ。

「だって……一秒でもあなたと離れていたくないの。赤ちゃんも一緒に……」

そう言うと、彼女は彼の手を引き、自分の腹部にそっと触れさせた。

しかし、恭一郎は冷たい表情のまま手を引っ込めた。

「ふざけるな。今すぐ秘書に送らせるから帰れ。数日後には君と子どものところに行く」

梓は首を横に振り、彼の手をしっかり掴んだまま甘えるように言った。

「いやよ!秘書なんかじゃ嫌!あなたに送ってほしいの!」

そう言うなり、彼女はつま先を上げて彼のネクタイを引っ張り、その唇を奪った。

恭一郎は最初、眉をひそめて彼女を押しのけようとしたが、彼女がしつこく唇を追ってくると、ついに彼は彼女を力強く抱き寄せ、そのキスに応じ始めた。

二人は庭で激しく唇を重ね、次第にその熱が深まっていった。

彼の手が彼女の服の中へ滑り込むと、まさに取り返しのつかない瞬間を迎えそうになったが、彼はギリギリで踏みとどまり、強引に梓を押しのけた。

「もう行け」

梓は目に涙を浮かべながら、甘えるように彼の胸に寄り添い、耳元で何かを囁いた。

その言葉に、恭一郎の表情が微妙に変化した。

やがて、彼は小さく息をつきながら答えた。

「わかった。今日は君に付き合うよ。車に乗ってて。あとで行く」

梓は満足そうに笑い、目を細めながらお腹に手を当て、そのまま車に乗り込んだ。

恭一郎が戻ってくるのを確認した千夏は、その場を静かに離れた。

間もなく、恭一郎が家に入るなり言ったのは、こうだった。

「千夏、本当は今日は君とゆっくり過ごすつもりだったんだ。でも、さっき急な仕事の電話があってね。どうしても出なきゃいけないんだ。君はここで待っていてくれ。これが終わったら、丸一日君と過ごすから、いいかな?」

彼は千夏の反応をじっと待ち、内心では彼女が怒ったり、疑ったりしないか不安だった。

だが、千夏はただ静かに彼を見上げるだけだった。

その一瞬の視線だけで、恭一郎は言葉を失った。

いつからだろう――彼の千夏の目が、こんなにも光を失ってしまったのは。

喉仏が動き、彼は絞り出すように彼女の名前を呼んだ。

「千夏……」

何かを言おうとする彼を制するように、千夏が口を開いた。

彼女は微かに唇を上げ、淡い声でこう言った。

「行って。仕事、頑張ってね」

その声はいつも通り優しく、何一つ変わらないように思えた。

その言葉を聞いた恭一郎は、ようやく胸をなでおろし、疑念を払った。

彼は彼女の髪を優しく撫で、笑みを浮かべると、そのまま家を後にした。

間もなく外から車のエンジン音が聞こえ、次第に遠ざかり、そして完全に消えていった。

千夏の顔から微笑みは消え、代わりに静かに涙が頬を伝った。

彼女はそれを手の甲でぬぐい、テーブルの上にあったお餅をすべてゴミ箱に投げ入れた。

その後、彼女は部屋に入り、用意していた荷物を取り出した。

家の中を最後に見渡し、ひと呼吸置いてから、恭一郎に最後のメッセージを送った。

「半月が経ったわ。前に贈った結婚記念日のプレゼント、開けてみて」

メッセージを送って間もなく、彼から即座に返信があった。

「千夏、すぐに帰るよ。その時一緒に見よう」

その言葉に、千夏は微かに笑った。

一緒に?

恭一郎、君がいるのは、君だけの世界だよ。

これから先の人生も、ずっとね。

彼女は梓から受け取ったすべての挑発的なメッセージを転送し終えると、スマホからSIMカードを取り出し、ためらうことなく手で折った。

最後に、千夏は荷物を手に家を出た。

外は眩しいほどの朝陽が降り注ぎ、素晴らしい天気だった。

これからの人生、誰も彼女を見つけることはできないだろう。

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    「ごめんなさい。私はあなたと結婚するつもりはありません。私たち、別れましょう。もうあなたを愛していないの」 夢の中で、千夏は恭一郎の手を振り払い、どんどん遠ざかっていった。 「千夏!だめだ!そんなこと言っちゃだめだ! 僕は君を幸せにするよ。君が好きな東城のお餅、毎日でも買いに行く!ジュエリー、アクセサリー、家、株――僕が持てるものはすべて君にあげる。だから、僕のそばにいてくれ!」 恭一郎は必死に訴えたが、千夏は一度も振り返らなかった。 彼女の後ろ姿は冷たく、まるで過去を完全に断ち切るかのようだった。 彼は何度も追いかけようとしたが、その手は空を切るばかりだった。 気づけば、手にしていた婚約指輪さえ消えていた。 千夏はもう彼を必要としない。 彼の愛も、彼が持つすべても――彼女には必要ないのだ。 「千夏……千夏……」 恭一郎は目を閉じたまま、蒼白な顔に冷たい汗を浮かべ、震える唇から血の滴を滲ませていた。 何度も何度も、千夏の名前を呟き続ける。 そんな彼を見て、祖父の濁った瞳には一抹の不安が宿った。 深いため息をつきながら、数日かけてようやく見つけた千夏の最新の連絡先を手に取る。 「もしもし、千夏さんですか?私は蒼月恭一郎の祖父です。ご結婚の時にお会いしましたね」 千夏は客を一人送り出した直後で、この突然の電話に少し困惑していた。 「おじいさま……何かご用でしょうか?もし、恭一郎さんとの復縁を勧めたいのなら、お話しする必要はありません」 千夏は、しばらく恭一郎からの連絡が途絶えていたことで、ようやく彼が諦めたのだと思っていた。 しかし、まさか祖父を使うとは――彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。 祖父は弱々しい声で、それでもなお説得を試みた。 「千夏さん、恭一郎が以前あなたに酷いことをしたのは間違いありません。ですが、彼は今、病気で倒れています。あなたに許しを乞うつもりはありません。ただ、彼の姿を一度だけでも見てやってくれませんか? これで彼の未練も断ち切れるでしょう。どうか、この老人の願いを聞いてください」 電話越しの千夏はしばらく黙っていた。 だが、最終的に彼女の声は冷静で揺るぎなかった。 「ごめんなさい。私は今、とても幸せに暮らしているんです。もう戻るつもりはありません

  • 春を迎えぬ冬   第25話

    恭一郎は、千夏への復讐のためなら手段を選ばず、彼女を侮辱した「かつての仲間」たちの家族を徹底的に打ちのめした。 そして今回、ついに彼の弱点を掴んだ彼らが黙っているはずがなかった。 梓もまた、自分が利用されることを気に留めなかった。 復讐さえ果たせれば、それで良かったのだ。 「私がこんなに苦しんでいるのに、恭一郎だけが幸せでいられるなんて許せない!」 ただ告発するだけでは足りず、彼女は新しいアカウントを開設し、配信を始めた。 その中で、恭一郎との過去を全て暴露し、視聴者たちに訴えかけた。 その結果、ようやく少しずつ回復し始めていた蒼月グループの評判は再び崩壊し、恭一郎のイメージもさらに失墜した。 恭一郎は国内に呼び戻され、調査に協力することを余儀なくされた。 そのため、千夏を追う計画は一旦中断せざるを得なかった。 国内は混乱の渦中にあった。 会社内では裏切り者が次々と現れ、蒼月グループは危機的状況に陥った。 周囲の企業は、恭一郎から何かを奪い取ろうと虎視眈々と狙っていた。 蒼月グループほどの巨大企業でも、今回の騒動を乗り切るには大きな犠牲を払わなければならなかった。 そのわずかな「隙間」から溢れ出るものだけでも、多くの企業が成長するには十分だったのだ。 恭一郎は内外の問題に苦しみ、3か月もの間、まともに眠ることもできなかった。 彼は、梓を虚偽の告発で告訴し、拘束させた。 その一方で、上層部の調査により、蒼月グループに実際の財務上の問題が発覚し、十億円の罰金を科されることになった。 これでようやく問題が収束したが、社員の流出や取引先の減少など、グループは大きなダメージを受けた。 蒼月家の当主である恭一郎の祖父は、長い間、仕事から離れ山中で隠居生活を送っていた。 しかし、今回の一件で呼び戻されることとなる。 瘦せ細った孫の姿を目の当たりにした祖父は、大きくため息をついた。 会社の状況が少し落ち着いた頃、祖父は恭一郎を呼び出した。 ドン―― 杖が床を打つ音が響き渡る。 「跪け!」 恭一郎は顔面蒼白でその場にひざまずいた。 骨ばった体はまるで幽霊のようだった。 「恭一郎、私はこんな風に教えた覚えはないぞ。 お前に何度も言ったはずだ。本心を守れ、と。妻を愛する者は

  • 春を迎えぬ冬   第24話

    しばらくの沈黙の後、恭一郎は不器用に謝罪の言葉を絞り出した。 「千夏、僕が悪かった。本当にごめん。君を傷つけて、他の女と関わってしまった。もう梓の子供も堕ろさせて、彼女も追い出したんだ。お願いだ、僕を許してくれ! 君が望むことは何だってする。だから、僕を見捨てないでくれ!」 彼の切実な声が響く中、千夏は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに答えた。 「いいよ。許してあげる」 その予想外の言葉に、恭一郎の頭は一瞬で混乱した。 「本当か?」 彼は焦るように聞き返した。 「ふふっ」千夏は冷笑を漏らした。 「これがあなたの望んでいた答えでしょう?私は何も気にしない、すべてを許す――そう言えば満足するんでしょう? 満足したなら、それでおしまい。もうこれ以上はないわ」 それはただの「許し」の言葉だった。いくらでも繰り返せるセリフ。 けれど、過去のように戻ることは決してあり得なかった。 一度壊れた鏡は、元には戻らない。 どれだけ接着剤でつなぎ合わせたところで、もう元の形には戻らないのだから。 そう言い切ると、千夏はためらうことなく電話を切った。 恭一郎に謝罪の続きを言う機会すら与えなかった。 かつて彼女はこう言ったことがある。 「もし私があなたを愛さなくなったら、あなたが自殺しても、何も変わらないわ」 その言葉を、恭一郎はようやく思い出した。 「千夏……君が好きだったあのお餅、また買ってくるよ。だから許してくれ」 彼は必死にメッセージを送った。 しばらくして、千夏から短い返信が届いた。 「もう好きじゃない」 ――どうして?どうしてそんなことが? 彼女が好きだったものが、どうして好きじゃなくなったんだ? 恭一郎の手は震え、スマートフォンを落としそうになる。 ――どうして愛がなくなったんだ? さらにメッセージを送ろうとすると、すでに彼の番号が再びブロックされていることに気づいた。 千夏からの「許し」の言葉を受け取っても、恭一郎の心は少しも救われなかった。 彼女が何を望んでいるか――それは彼も理解していた。 彼女はもう彼を愛していない。それだけだった。 千夏が離れた瞬間から、恭一郎も心のどこかでそれを分かっていたはずだ。 ただ、自分に言い聞かせていただけだ。彼女は

  • 春を迎えぬ冬   第23話

    恭一郎は自分を責め続けた。 もし人生にやり直しがきくなら、絶対に本心を守り通すと誓うだろう。 だが、人生に「もし」は存在しない。 彼は見知らぬ街の中に立ち尽くし、迷子になった子供のように途方に暮れていた。 それでも、探し続けるつもりだろうか? ――もちろんだ。 だが、一体どこから手を付ければいいのか? 「こんにちは。この写真の女性は、僕の妻なんです。彼女は僕に怒って家を出てしまって……どうか彼女の連絡先を教えていただけませんか?」 恭一郎は心からの誠意を込めて尋ねた。 ホテルのスタッフはしばらく迷っていたが、彼が大金を差し出すと、たちまち笑顔になり、千夏の連絡先を教えてくれた。 急いで電話をかけたが、応答はなかった。 「きっと、まだ飛行機の中なんだ……」 恭一郎はそう自分に言い聞かせた。 千夏への謝罪の誠意を示すため、彼はネット上に詳細な反省文を投稿した。 どのように間違いを犯し、どうして自分の本心に気づいたのか――それを言葉に尽くして書き綴った。 彼の謝罪文は、真摯な内容だった。 それだけではなく、彼は毎日のように新しい謝罪文を投稿し、千夏が見てくれることを願い続けた。 最初は彼を憎んでいたネットユーザーの中にも、次第に彼の心情を察し、同情し始める人が現れた。 さらには、彼を擁護する声すら出てくるようになった。 だが、千夏はそれを見ても、ただ嘲笑を浮かべるだけだった。 「もし私が出て行かなかったら、彼がこうやって謝ることなんてあったの? ないわ。きっとますます調子に乗るだけ。梓だけじゃなく、もっと多くの女性を手に入れていたでしょう。浮気っていうのは、1回だけじゃ済まないものよ」 千夏は自問自答し、苦笑する。 ――許す理由なんてあるのだろうか? いや、今の生活で十分ではないか? 彼女は長年の夢を、ようやく叶えることができていた。 海辺の宿を営み、いくつかのペットと暮らし、時折新しい友人と出会う。 何もしない日には家でのんびりと、見た景色を絵に描く。 恭一郎を離れてから、彼女の体調は見違えるほど良くなった。 病院で再検査を受けたとき、医者からも健康状態を褒められるほどだった。 千夏は目を閉じ、ネットで飛び交う噂話を気に留めることはなかった。 彼女

  • 春を迎えぬ冬   第22話

    ベッドの上のスマートフォンが「ピンポン」と絶え間なく鳴り続けていた。 送られてくるのは、ネット上の人々が提供した写真や行動情報だった。 膨大な情報の中から、どれが有益でどれが無意味なのか、恭一郎にはほとんど判断がつかなかった。 報酬目当ての人々が入り混じり、情報の精査は容易ではなかった。 いくつかの人を雇い選別を手伝わせても、それでも膨大な作業量だった。 その時、恭一郎は自分のこの計画を後悔し始めていた。 だが、他に方法がなかった。 広大なネットワークの力を借りるか、千夏が自ら何か情報を漏らしてくれるかしか、彼女を見つける手段はなかったのだ。 恭一郎はベッドに座り込み、絶望に押しつぶされそうだった。 その時、数人の秘書から数枚の写真が送られてきた。 「社長様、A国B市の教会前で奥様を目撃したという情報が入りました。すでに現地に人を派遣していますので、至急向かってください」 その報告を聞いた瞬間、恭一郎の胸に再び希望の火が灯った。 それが真実かどうかは関係なかった。試す価値がある。 彼はこの唯一の希望を手放すことなどできなかった。 千夏がいない日々は、彼にとって酸素や水を失ったのと同じだった。 彼女なしでは、1日たりとも耐えることができなかったのだ。 今まで何とか持ちこたえてきたのは、ただ意地で支えていたからに過ぎない。 最後の力を振り絞る魚のように、彼はもがき続けるしかなかった。 恭一郎は何日もまともに休んでいなかった。 千夏に会えない日々の中、彼が眠るのは、体が限界を迎えたときだけ。 短い1~2時間の睡眠を取るだけで、再び彼女の情報を追い求めていた。 A国行きの飛行機の中でも、彼は国内の仕事を片付け続けた。 飛行機が着陸し、荷物を受け取りに向かう間にも、彼は知らなかった。 その時、千夏が同じ空港で飛行機に乗り込んでいることを―― すれ違いのように、またしても二人は運命に翻弄される形となった。 千夏の飛行機が離陸した後、恭一郎は急いで教会の近くへ向かった。 付近のホテルを次々に訪ね歩いたが、千夏を見たという人には出会えなかった。 それでも諦めずに探し続けた末、ようやく小さなホテルの一つで千夏の痕跡を掴む。 「その美しい女性なら、今日すでにチェックアウトされ

  • 春を迎えぬ冬   第21話

    恭一郎の心の中で緊張がどんどん募っていく。 手のひらには冷たい汗がにじみ、落ち着かない。 長い間待ち続けたが、誰もドアを開けてくれなかった。 焦りに駆られ、彼は無意識にドアを押してみる。 だが、ドアはしっかりと鍵が掛かっていて、びくともしない。 その横には小さな黒板が掛けられていた。 そこには「本日休業」と書かれている。 最初、彼はそれを見て、千夏が自分と会うためにわざわざ休業の札を掛けたのだと勘違いした。 だが、すぐにそれが「会う気はない」という意思表示であることに気付いた。 この瞬間、彼はようやく悟る。 千夏は彼を弄んでいたのだと。 彼女は初めから彼に会うつもりなどなかった。 その事実がまざまざと突きつけられる。 ――「ごめんなさい。あなたを許すつもりはない」 宿をじっと見つめる恭一郎。 そこは彼女と一緒に海辺での生活を夢見て語り合った記憶の場所だった。 彼女は海風を感じながら、二人で寄り添い合うだけで幸せだと言っていた。 彼は彼女の夢を叶えるために、国内の沿岸にある宿をいくつも購入し、時折彼女を連れて遊びに行った。 千夏はそのたびに満面の笑みを浮かべ、驚きと喜びを隠さなかった。 彼女が褒める言葉の一つ一つが、彼の心を甘く満たした。 だが、いつからだろう。 二人で出かけることがなくなってしまったのは。 恭一郎はぼんやりと考え込む。 梓と関係を持ち始めてから、彼が千夏と過ごす時間は確実に減っていた。 あの宿にも、もう何年も行っていない。 彼女に誓った約束も、多くを破ってしまった。 後悔が胸に押し寄せ、自分自身への怒りが募る。 彼は心の中で何度も過去の自分を罵った。 ――なぜ、もっと早く気づけなかったのか。 せっかく手に入れた千夏。 彼女が不安を抱えていることも、彼女が両親のような結末を恐れていることも分かっていたはずだった。 それでも、彼は自分を抑えられなかった。 かつてはどんな誘惑にも揺らがなかった自分が、なぜあの時、守り切れなかったのか。 彼は自分を殴りつけたくなるほどの後悔に苛まれる。 ふと、火照るような金髪の女性が彼に近づいてきた。 その鋭いオーラに目を輝かせ、彼女は挑発的な笑みを浮かべる。 「ねえ、素敵な殿方。飲

  • 春を迎えぬ冬   第20話

    最初は、ネット上の人々はただ冷笑し、嘲るだけだった。 それでも、報酬に目がくらんだ何人かが、無意味な情報や証拠をわざと送りつけてきた。 だが、やがて本当に有効な情報を提供する者が現れた。 実際に報酬を手にした人が出ると、ネット上のユーザーたちは一気に熱狂し始めた。 その話は、ついに千夏の耳にも届く。 彼女の行方を知りたいという人々の声が広がる中、千夏の心には何の感動もなかった。 むしろ、わずかな苛立ちさえ覚える。 すでに身分情報を抹消しているのに、それでも彼女の決意が伝わらないのだろうか? 千夏はよく分かっていた。自分は一度終わった関係に戻る人間ではない。 そして、最初から彼を許すつもりなど全くなかった。 恭一郎の謝罪の言葉を目にしても、彼女の胸に浮かぶのはただの嘲笑だった。 彼が自分の過ちに気づいているのなら、なぜこれまで何事もなかったかのように振る舞えたのだろう? 何度も思った。いっそのこと、彼がはっきりと自分に告げてくれれば良かったのに――「心変わりした」と。 「別の誰かを愛している」と。 そうしてくれれば、きれいに終わることもできただろうに。 だが、彼はそのどちらでもなかった。 梓との関係を身体で享受しながら、心の中では千夏を愛していると言い続けていたのだ。 ――彼女を欺くのが、そんなに楽しかったのだろうか? ならば、今度は彼女が彼を弄んでみる番だ。 千夏はわざと数人に写真や行動情報を提供し、それを恭一郎に渡させた。 冷ややかな笑みを浮かべながら、彼女は時間を計り、彼より一歩早くA国行きの飛行機に乗り込む。 大洋の向こう側、鮮明な写真と詳細な位置情報が恭一郎の手元に届いた。 彼の手は興奮で震え、その顔には喜びが溢れていた。 「千夏が僕を許す気になったんだ!きっと僕が迎えに行くのを待っているんだ!」 彼はすぐさまF国行きの最短のフライトを予約し、空港へと急いだ。 しかし、同じ時間に2機の飛行機が飛び立ったが、その航路も目的地も全く異なるものだった。 F国に到着すると、恭一郎は故郷に戻ったかのような不思議な緊張感に包まれた。 彼は秘書に何度も身だしなみを確認させ、問題がないことを確かめてから、心を整え、千夏がいるという宿へ向かう。 穏やかな海風が頬を撫

  • 春を迎えぬ冬   第19話

    あの離婚届は、千夏が恭一郎に残した最後の贈り物だった。 それは、彼と完全に決別するための印だった。 皮肉なことに、今や恭一郎はその離婚届を頼りに、千夏を思い出している。 彼はそれをラミネート加工し、日に何度も手に取っては眺めていた。 「千夏……君は今、どこにいるんだ? 僕は本当に間違ってた。許してくれなんて言わない。ただ一目だけでも、君に会いたいんだ。 千夏……君を傷つけた者たちには、それぞれ相応の罰を与えた。僕自身も、こんなにも苦しんでいる……どうか、君が僕を見てくれるだけでいい」 彼はどれだけ呟き続けたのか、自分でもわからなかった。 やがて身体が限界を迎え、意識を失った。 一方、恭一郎の元友人たちの家族にとって、事態はさらに深刻だった。 千夏との離婚が公になったことで、多くの人々が「もう愛なんて信じられない」と叫んだ。 かつて多くの人々が、彼と千夏を理想のカップルとして支持していた。 彼らの愛を応援するために、蒼月グループの商品を買い続けていたファンたちもいたのだ。 しかし、離婚のニュースが広がると、その支持は一転し、猛烈な批判が押し寄せた。 蒼月グループの公式アカウントには怒りのコメントが殺到し、グループの株価は急落した。 さらに、彼と梓の写真が内部の知る人間によって暴露されると、状況はさらに悪化した。 人々は、かつての彼らの愛を信じていた自分を嫌悪し、蒼月グループの商品を徹底的に否定した。 その中でも特に象徴的だったのが、千夏への愛を込めて作られたジュエリー「ユキナツ」だった。 かつては「真実の愛」を象徴していたそのジュエリーも、今ではただの安物扱いされ、価値を失った。 海外の宝石コレクターたちは、このニュースを聞いて激怒し、「ユキナツ」を安値で手放した。 そのジュエリーを買い戻したのは、他ならぬ恭一郎自身だった。 輝くジュエリーを見つめるうちに、彼は千夏の美しい笑顔を思い出した。 このジュエリーを作る時、彼は全ての愛情を注ぎ込んでいた。 素材の選定からデザイン、そして仕上げまで、すべてに自ら携わり、トップクラスのデザイナーと協力して作り上げた、世界で唯一無二の逸品だった。 「ユキナツ」という名前も、千夏への愛を象徴していた。 ――自分は、名前のない影の存在で

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