もしかして……千夏は前から僕の浮気に気づいていたのか? 恭一郎はそう考えずにはいられなかった。 彼はずっと、自分はうまく隠し通せていると思い込んでいた。 千夏と梓の両方をうまくバランスよく扱えると信じていた。 彼女の目の前に梓を連れてくることもなければ、絶対にバレることはないと確信していた。 だが、現実は違った。 彼女はすべてを知っていた。 いったいいつからだったのか? どうしてこんなにも冷酷に、自分を捨て、完全に姿を消すことができたのか? 目の前が滲み、涙が次々と溢れ出し、視界を覆っていった。 そのとき、不意に彼の頭に過去の記憶が蘇る。 千夏が彼のプロポーズを受け入れたときに言った言葉―― 「これから、私は恭一郎の妻として努力する。でも、一つだけ忘れないで。 私、どんな嘘も絶対に許さない。 もしあなたが私を騙したら、そのときは、私があなたの世界から永遠にいなくなる」 当時の恭一郎は、自信に満ち溢れていた。 「そんなことは絶対にありえない」と心の底から思っていた。 彼は千夏を深く愛していたし、彼女を裏切るようなことなどあり得ないと信じていた。 彼は千夏の目の前で、自分の心を文字通り切り開いて見せたいほど、彼女に対して誠実でありたいと思っていた。 だが―― いったいいつから、すべてが変わってしまったのだろうか? 思い返せば、兄弟たちからの度重なるそそのかし、結婚生活の単調さ、そして梓のような誘惑の甘い囁き…… それらすべてが、少しずつ彼を変えていったのかもしれない。 そして、彼はついに本当に大切なものを見失ってしまった。 刺激を求めて、梓の安っぽい誘惑に乗り、その手に落ちてしまったのだ。 「千夏が僕に気づかない限り、すべてうまくいく」 兄弟たちの軽薄な言葉に流され、千夏が何も知らず、変わらぬ優しさを向けてくれる状況に甘えていた。 それはただの幻想だった。 恭一郎は夢の中で漂うような気持ちで現実を避け、いつしかその夢がすべてを覆い隠していた。 恭一郎は、自分がすべてを掌握していると信じて疑わなかった。 だが、彼は一つ忘れていた。 千夏は決して我慢強く、すべてを受け入れる性格ではないということを。 彼女の両親がどんな末路を迎えたか、その例は彼女の
恭一郎は衝動的に手にした離婚届を破り捨てようとした。 だが、すぐに気づいた。 これが、千夏が自分に残した最後の「もの」かもしれない、と。 もし破ってしまえば、その微かな痕跡さえ消え去ってしまう。 彼は指先で千夏の名前を何度もなぞり、その文字の一つひとつを描くように見つめた。 瞳の奥には、彼女への強い想いと後悔が滲んでいた。 「千夏……僕が悪かった。君を愛してるのに、他の女なんて必要なかったんだ 君が怒るなら、それでいい。殴られても、罵られても、それでも構わない……だから、僕のそばからいなくならないでくれ…… 僕は君なしでは生きていけないんだ、千夏……」 恭一郎は言い訳にも似た後悔の言葉を繰り返した。 その声は、何度も発せられたことで掠れ、かすかな響きしか残らなかった。 だが、そんな彼の声を聞くべき人は、もう目の前にいなかった。 どれだけ叫んでも、全ては虚しい響きとなって消えるだけだった。 「千夏……僕はまだサインしてない。この離婚届は成立していない。だから、僕たちはまだ夫婦だ」 恭一郎は目に決意を宿し、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出した。 「絶対に君を見つける。君を諦めるなんて、できない」 彼の瞳には鋭い決意が宿り、手にした離婚届を大事そうにしまい込んだ。 彼にとって、それは彼女とのつながりの象徴であり、最後の希望だった。 彼は千夏の写真をスマホで探し、彼女を思い出すことでかろうじて自分を保っていた。 その後、家中を探し回り、彼女に関する何かを見つけようとした。 だが、千夏の徹底的な行動に、彼は打ちのめされた。 彼女は家の中にある自身の痕跡を完全に消し去っていた。 着ない服は売り払い、使わないものは全て処分した。 家具もすべて新しく入れ替え、何一つ彼女の残り香を感じさせるものはなかった。 その時、不意に電話が鳴った。画面には梓の名前が表示されていた。 「恭一郎、ネットで『ユキナツ』の再出品の話を見たわ。奥さんが……」 「なんだと?」 恭一郎はその言葉に息を呑み、電話を切った。梓の余計な話を聞く余裕はなかった。 「南條、すぐに調べてくれ!『ユキナツ』がオークションに再び出品されているのか確認するんだ。もし本当なら、いくら払ってもいい。必ずそれを買い戻す
次の瞬間、スマホの画面に表示されたのは、乱れたベッドの写真だった。 それを目にした恭一郎の怒りは頂点に達し、拳を握りしめた瞳には血が滲むほどの激情が宿った。 「……そうか、犯人はお前か」 彼の声は冷たく鋭く、周囲の空気を凍らせるような威圧感を放っていた。 そのまま彼はスマホを操作し、短いメッセージを打ち込んだ。 「梓、警告したはずだ。千夏に俺たちの関係を知られるなと」 メッセージを送ると、すぐに梓から電話がかかってきた。 彼女の声は挑発的で、嘲笑がにじんでいた。 「千夏さん?へえ、いつから恭一郎の口調を真似するようになったの?結構それっぽいわね」 彼女は笑いながら続けた。 「でも、もし私があんただったら、とっくにこの『奥様』の席を諦めてるわよ。だって、私はもう恭一郎の子どもを授かっているんだから! そのうち、恭一郎は私にプロポーズしてくれるはずよ」 声の調子はさらに傲慢になり、こう付け加えた。 「その時、恥をかかされて追い出されるのはあんたよ?そうなるくらいなら、今のうちに大人しくその席を譲りなさい。少しでも楽な道を選ぶことね」 梓の口から次々と吐き出される侮辱の言葉。しかし、電話の向こうは静まり返ったままだった。 その沈黙に、梓の胸に一抹の不安がよぎる。 だが、彼女はすぐにその不安を振り払った。 「どうしたの?千夏さん、もう絶望しすぎて言葉も出ないの?前から言ってたでしょ?恭一郎が本当に愛してるのは私だって」 彼女の勝ち誇った言葉が終わると同時に、電話越しから聞こえてきた声が、すべてを打ち砕いた。 「……は。それで、君ごときが何のつもりだ?」 その声は恭一郎のものだった。 「千夏に挑発とは、君も随分と図に乗ったものだな」 彼の声には怒りが宿り、梓の傲慢を冷たく切り裂いた。 「どうやら僕が優しすぎたせいで、君をここまで増長させたらしい。 さあ言え、千夏に何を吹き込んだ?」 恭一郎の声は冷たさの極みに達していた。 一言一言が梓の胸を突き刺し、心臓を激しく揺さぶる。 終わった……これで本当に終わりだ! 梓は全身を震わせながら、手の中のスマホをしっかりと持つことさえ難しくなった。 だが、すぐにある事実を思い出し、なんとか自分を落ち着かせた。 そうだ、私は
梓は恐怖で身を震わせた。恭一郎があれほど千夏を愛している以上、もし真実を知ってしまったら、自分に何をするのだろう? 考えるだけで足がすくむ。 その時、梓の脳裏に唯一の手段が浮かんだ。それは、自分を守るための策だった。 急いで配信機材を用意し、鏡の前でメイクや服装を手直しする。涙ぐましいほど哀れに見えるように仕上げた。 準備が整うと、梓は配信を開始した。画面の中で無言のまま涙を流し、その顔は悲痛な色で満ちていた。 「みんな、お願い、聞いてほしいの……私……私、ひどい目にあったの…… 私の彼氏が……外にもう一人女の子がいるなんて、どうして……その子のために私を捨てようとしてるの……私、彼の子供を授かってるのに……!どうしてこんなことができるの? 彼は前はあんなに私を愛してくれてたのに……なんで……なんでこんなことに……」 涙声で訴えかける梓。その話は、歪められ、脚色され、彼女を悲劇のヒロインとして描き出していた。 さらに、千夏に対して行った自分の行いをすべて逆転させ、さも千夏が加害者であるかのように語る。 そう、彼女こそが哀れな被害者だと装ったのだ。 「みんな、お願い……助けて……彼が私のお腹の子供を……堕ろさせようとしてるのかもしれない……! 彼なんていなくてもいい。でも、この子だけは……私の心の支えなの。この子を失うなんて絶対に嫌……!」 梓は涙ながらに、視聴者たちに訴え続けた。心に訴えかけるその姿に、多くの視聴者が憤りを覚えた。 「その浮気女、許せない!」 「やっぱり男なんて信用できない!」 「配信者さんの家、近くだよ!俺が助けに行く!」…… 画面の向こうには、義憤に駆られた視聴者たちが次々と声を上げる様子が映し出されていた。 興奮に突き動かされた一部の視聴者たちは、実際に梓の家の近くまで駆けつけてきた。 彼らを受け入れるように、梓は一人ひとりに住所を教えた。 そして、ほどなくして彼女の家の前には野次馬たちが押し寄せ、賑わいを見せた。 「梓ちゃん、怖がらなくていい!たとえ相手がどれだけの大物でも、全部あいつが悪いんだ。俺たちが絶対守るから!」 無数の人々が梓を庇うように立ちはだかり、その言葉に安堵したように小さな腹をそっと撫でた。 だが、その瞬間だった。 車から降り
「黙れ!」 恭一郎の声は鋭く響き渡り、その冷たい瞳は容赦なく梓を射抜いた。 「梓、お前の立場をわきまえろ。お前なんて、ただの暇つぶしの相手に過ぎない。千夏と比べる資格なんて、お前にあると思うのか?」 その視線は冷酷そのもので、口元には僅かに残忍さを漂わせている。 「子供なんて一人くらいどうだっていい。僕が望めば、いくらでも手に入る」 彼は一瞬ボディーガードたちに目配せし、冷淡に命じた。 「こいつを病院に連れて行け。その腹の子を堕ろさせろ」 その言葉を耳にした瞬間、梓は完全にパニックに陥った。 両手で必死に自分のお腹を押さえ込む。 この子は、彼女が生き残り、栄光を手にするための最後の切り札だった。絶対に失うわけにはいかない。 梓は意を決して群衆の方へ駆け込んだ。 あの人たちが助けてくれるはずだ。彼らは自分を守ると言ったではないか――! だが、恭一郎は冷めた眼差しを彼女に向け、片手を軽く振った。 「放っておけ」 ボディーガードたちは彼の合図に従い、動きを止めた。 恭一郎は、あがく梓の背中を見つめた。 その目はまるで死人を見るかのように冷たく、何の情も感じられなかった。 そして、予想通りだった。 次の瞬間、梓はさらに深い絶望に突き落とされた。 さっきまで感情に突き動かされていた人々が、ようやく冷静さを取り戻したのだ。 それもそのはず――蒼月グループと恭一郎の名はあまりにも有名だ。 あらゆるニュースが二人とその会社の話題で溢れている。 街角の子供に尋ねれば、誰もが恭一郎と千夏の愛の物語を知っているほどだ。 彼らの愛は、多くの夫婦やカップルが憧れる象徴であり、子供たちに語り継がれるロマンチックな逸話だった。 目の前に立つ彼と黒服たちを見た瞬間、人々は彼が誰であるかに気づいた。 そして――これほどまでに愛されてきたカップルの影で、梓が彼の愛人だったという衝撃的な事実に直面したのだった。 その瞬間、人々の中にあった恭一郎への憧れや好意的なイメージは、一気に崩れ去った。 だが、それ以上に彼らを怒らせたのは、梓が彼らの同情心を利用し、千夏を愛人扱いするような話を捏造していたことだった。 さっきまで梓を信じて彼女を守り、彼女のために声を上げた自分たちは、一体何だったのか――
しかし、恭一郎は梓にそんな機会を与えるつもりはなかった。 彼はすでに、千夏に対して多くの取り返しのつかないことをしてしまっている。 彼女を取り戻すためには、あの子供をこの世に残してはならない。 もし生まれてしまえば、彼と千夏が再びやり直す可能性は完全に消えてしまうだろう。 覚悟を決めた恭一郎は、冷然と部下に命じて梓を病院へ連れて行かせた。 梓は何度も何度も抵抗し、もがき、懇願した。 だが、数人の力を前にしては無力で、ついに冷たい手術台に横たえられることとなった。 麻酔薬が体内に流れ込むと、四肢は次第に言うことを聞かなくなり、視界がじわじわと闇に閉ざされていく。 最後に思わず、お腹を守ろうとする意識を残しながらも、彼女は眠りに落ちていった。 目を覚ましたとき、梓はすぐにその異変に気付いた。 お腹が――空っぽだ。 そこには確かに形を成し始めていた子供がいたのに。 今はただ鈍く痛むだけのお腹を抱えながら、動くことすら困難な状態だった。 「子供が……いない……!」 梓は絶望に打ちひしがれ、病院のベッドに崩れるように横たわる。 そんな彼女を監視するかのように、数人の男たちが目を光らせていた。 その後、梓はついに千夏への謝罪動画をネット上に投稿した。 全てを認め、自らの非を謝罪する映像が拡散される。 その動画を見た恭一郎は、僅かに口元を歪めた。だが、それは到底笑みとは呼べるものではなかった。 謝罪など、何の意味もない。 それでは、彼の千夏を取り戻すことはできないのだから。 千夏の姿は、依然としてどこにも見当たらなかった。 まるで彼女がこの世から突然消え去ったかのようだった。 唯一、ネットに残るわずかな痕跡だけが、彼女が確かに存在していた証拠だった。 それがなければ、恭一郎は彼女の存在さえ幻だったのではないかと思ってしまうほどだった。 「もし、千夏が去るあの日、僕が梓の元に行かなければ…… もし、自分の本心を守り通して、梓の誘惑になびかなければ……」 もし……」 幾度も繰り返される「もし」に、彼の後悔が静かに滲んでいた。 恭一郎はバーの個室に座り込んでいた。 手には酒瓶を握り、一瓶また一瓶と酒を飲み続ける。 いつからだろう、まともに眠れた夜がなくなったのは。
「恭一郎、お前、何やってんだよ。梓に一発食らわせて終わりにすればいいじゃないか。それで十分だろ?」 「そうだよ、千夏なんて所詮一人の女だろ?お前みたいな男が相手を選べないわけがない」 「彼女が出て行ったんなら、追う必要なんてないんじゃないか?むしろ彼女に見せつけてやれよ。君がいなくても僕は幸せだ、ってさ。そしたら、戻ってくるかもしれないだろ」 「そうそう、最悪でもさ、千夏に似た女を何人か揃えて、彼女たちに千夏の真似をさせればいいんじゃないの?」 友人たちは無責任に笑いながら、恭一郎を慰めようとする。 長年彼の千夏への深い愛情を見てきた彼らも、どこかそれが無駄に思えていたのだ。 「そこまで千夏っていい女かよ?」 そんな疑問が口にされた瞬間、彼らの中にもかすかな羨望がよぎる。 幾度となく彼らは、恭一郎と千夏の絆を羨み、妬んできた。 自分たちは浪人のように女遊びを繰り返しているだけで、心から愛せる女性と出会ったことがない。 そして、愛し方すら忘れてしまった。 彼らにとって、女はただの遊び道具に過ぎなかった。 だが、恭一郎だけは違った。彼は彼らの中で唯一、異質な存在だった。 だからこそ、彼らは密かに願っていた――彼を自分たちと同じ立場に引きずり下ろすことを。 梓を受け入れるという行為が、彼を同類にする行動だったのだ。 そんな彼が、未だに苦しみ、後悔しているのは、彼らにとって理解不能だった。 ――ただの女だろ?何がそんなに特別なんだ? しかし、その軽率な言葉が恭一郎の耳に届いた瞬間、怒りが湧き上がった。 彼は酒瓶を手に取り、次々と友人たちの頭に振り下ろした。 彼の動きは、飲み過ぎたとは思えないほど鋭く正確だった。 拳は鋭く、脚の一撃には容赦がない。 仲裁に入った者も例外ではなく、次々と叩きのめされていく。 気がつけば、部屋の中には倒れ込んだ友人たちが転がっていた。 顔を腫らし、呻き声を上げる者たちが散乱している。 「千夏は僕の命だ。次に彼女を侮辱する言葉を耳にしたら――お前たちの家族を危険に晒すことになるぞ。絶対に許さない」 恭一郎の冷徹な声が静寂を支配した。 部屋中が息を潜め、誰一人として動けない。 ここまで激しく怒る彼を、誰も見たことがなかった。 その場の緊張が
恭一郎はふと目を上げた。 その瞬間、彼は本当に目の前に千夏がいると錯覚した。 「千夏!君が戻ってきたのか!やっとだ……やっと見つけた!京市中を探し回っても、君に会えなかったんだ……」 彼はその女性を力強く抱きしめ、数滴の温かい涙が彼女の服に染み込んでいった。 その感触に女性は震え上がる。 だが、次の瞬間、恭一郎はハッと我に返った。 おかしい。彼女の香りが、千夏のものとはまるで違う。 ――彼女は、千夏ではない! 怒りと失望が入り混じり、彼はその女性を激しく突き放した。 そして、机に押し付けるように彼女を抑え込み、大きな手で彼女の顔を掴む。 その力強い指は、彼女の頬を赤く腫れ上がらせ、目を白目にさせるほどだった。 女性は必死にもがき、恭一郎の鉄のような腕を押し返そうとした。 「恭一郎!やめろ、殺す気か!」 仲間たちが慌てて彼の手を掴み、その暴力を止めた。 ようやく正気に戻った恭一郎は、女性を放し、冷ややかな視線で周囲を見回した。 その目は鋭く、そこにいる全員の顔をはっきりと記憶するかのようだった。 「さっき、警告したばかりだったな。それでも我慢できなかった奴がいたようだな」 彼は冷徹な声で続ける。 「これで終わりだ。僕たちはもう友人ではない。これからは敵同士だ もしお前たちがいなければ、僕は千夏に恥じるようなことはしなかったはずだ」 その冷たい言葉に、場の空気は凍りつき、彼の言葉が全員の心臓に突き刺さった。 京市で蒼月家に逆らうことの愚かさを、彼らは誰よりも知っていた。 仲間たちは顔を見合わせ、絶望に肩を落とす。 一人の男は自分を叩きつけるように顔を平手で打ち、「こんな馬鹿なことをしなければ……!」と嘆く。 その場にいる全員が次々と自分を叩き、後悔の念を露わにした。 ――もしあの日、余計なことをせずにただ彼と一緒に酒を飲んでいたなら。 ――もし彼をそそのかしていなければ。 だが、「もし」は何の意味も持たなかった。 酒の匂いを纏いながら、恭一郎は冷え切った家に帰る。 千夏が処分した写真の一部にはバックアップが残っており、それらを再び印刷し、元の場所に飾った。 だが、バックアップすらなかった写真は永遠に失われてしまった。 努力して家を以前のように戻そう
「千夏!」 恭一郎は突然目を覚ました。口から飛び出したのは、千夏の名前だった。 ベッドの傍らでは、祖父が険しい顔で彼を見守っていた。 「恭一郎、今日から心を入れ替えなさい。仕事に専念し、まずは体を治すんだ。そして――二度と千夏を探しに行くな!」 「コホ、コホ……」 恭一郎は咳き込みながらも、掠れた声で問い返した。 「なぜですか? 彼女は僕の妻です。僕は離婚届にサインしていない。だから、僕たちはまだ離婚していないはずです! 僕が努力を続ければ、真心を示せば、彼女はきっと僕を許してくれます! 千夏は本当は優しい人なんです。少し甘い言葉をかけてやれば、きっとまた笑顔を見せてくれるはずなんです……」 「黙れ!」 祖父は彼の言葉を鋭く遮った。 そして、手元の録音デバイスを取り出すと、それを再生した。 そこには千夏との通話の内容が克明に録音されていた。 千夏の冷静な声が、部屋中に響き渡る。 その一言一言が、恭一郎の心を鋭くえぐった。 録音が終わった後も、部屋は沈黙に包まれたままだった。 しばらくして、恭一郎は震える声で呟いた。 「ありえない……これは嘘だ……千夏はそんなことを言うはずがない…… 僕は千夏に会いに行く。彼女に伝えるんだ。彼女こそが僕の唯一で、この人生で愛したのは彼女だけだと!」 そう言って、恭一郎は体中の点滴を引き抜き、虚ろな体を引きずりながら外へ向かった。 祖父はそれを止めなかった。 案の定、数歩歩いただけで恭一郎は地面に崩れ落ちた。 癒えかけていた背中の傷口が再び裂け、血が花のように広がっていく。 彼は歯を食いしばり、真っ赤に充血した目で前を見据えながら、再び体を起こそうとした。 だが、またしても数歩進んだだけで、彼の体は力尽き、完全に意識を失った。 祖父は首を横に振り、口調を荒げた。 「お前たち、彼をベッドに戻せ。きちんと見張り、外に出さないようにしろ」 そう言い残すと、祖父は自分の手に数粒の薬を押し込み、急いで飲み込んだ。 彼自身も体調が優れず、山中で静養していた身だったのだ。 それがこの一件で再び引き戻され、面倒ごとに巻き込まれることになった。 彼は隣の病室に横たわり、医師や看護師たちの診察を受け始めた。 3日後、恭一郎の体調は
「ごめんなさい。私はあなたと結婚するつもりはありません。私たち、別れましょう。もうあなたを愛していないの」 夢の中で、千夏は恭一郎の手を振り払い、どんどん遠ざかっていった。 「千夏!だめだ!そんなこと言っちゃだめだ! 僕は君を幸せにするよ。君が好きな東城のお餅、毎日でも買いに行く!ジュエリー、アクセサリー、家、株――僕が持てるものはすべて君にあげる。だから、僕のそばにいてくれ!」 恭一郎は必死に訴えたが、千夏は一度も振り返らなかった。 彼女の後ろ姿は冷たく、まるで過去を完全に断ち切るかのようだった。 彼は何度も追いかけようとしたが、その手は空を切るばかりだった。 気づけば、手にしていた婚約指輪さえ消えていた。 千夏はもう彼を必要としない。 彼の愛も、彼が持つすべても――彼女には必要ないのだ。 「千夏……千夏……」 恭一郎は目を閉じたまま、蒼白な顔に冷たい汗を浮かべ、震える唇から血の滴を滲ませていた。 何度も何度も、千夏の名前を呟き続ける。 そんな彼を見て、祖父の濁った瞳には一抹の不安が宿った。 深いため息をつきながら、数日かけてようやく見つけた千夏の最新の連絡先を手に取る。 「もしもし、千夏さんですか?私は蒼月恭一郎の祖父です。ご結婚の時にお会いしましたね」 千夏は客を一人送り出した直後で、この突然の電話に少し困惑していた。 「おじいさま……何かご用でしょうか?もし、恭一郎さんとの復縁を勧めたいのなら、お話しする必要はありません」 千夏は、しばらく恭一郎からの連絡が途絶えていたことで、ようやく彼が諦めたのだと思っていた。 しかし、まさか祖父を使うとは――彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。 祖父は弱々しい声で、それでもなお説得を試みた。 「千夏さん、恭一郎が以前あなたに酷いことをしたのは間違いありません。ですが、彼は今、病気で倒れています。あなたに許しを乞うつもりはありません。ただ、彼の姿を一度だけでも見てやってくれませんか? これで彼の未練も断ち切れるでしょう。どうか、この老人の願いを聞いてください」 電話越しの千夏はしばらく黙っていた。 だが、最終的に彼女の声は冷静で揺るぎなかった。 「ごめんなさい。私は今、とても幸せに暮らしているんです。もう戻るつもりはありません
恭一郎は、千夏への復讐のためなら手段を選ばず、彼女を侮辱した「かつての仲間」たちの家族を徹底的に打ちのめした。 そして今回、ついに彼の弱点を掴んだ彼らが黙っているはずがなかった。 梓もまた、自分が利用されることを気に留めなかった。 復讐さえ果たせれば、それで良かったのだ。 「私がこんなに苦しんでいるのに、恭一郎だけが幸せでいられるなんて許せない!」 ただ告発するだけでは足りず、彼女は新しいアカウントを開設し、配信を始めた。 その中で、恭一郎との過去を全て暴露し、視聴者たちに訴えかけた。 その結果、ようやく少しずつ回復し始めていた蒼月グループの評判は再び崩壊し、恭一郎のイメージもさらに失墜した。 恭一郎は国内に呼び戻され、調査に協力することを余儀なくされた。 そのため、千夏を追う計画は一旦中断せざるを得なかった。 国内は混乱の渦中にあった。 会社内では裏切り者が次々と現れ、蒼月グループは危機的状況に陥った。 周囲の企業は、恭一郎から何かを奪い取ろうと虎視眈々と狙っていた。 蒼月グループほどの巨大企業でも、今回の騒動を乗り切るには大きな犠牲を払わなければならなかった。 そのわずかな「隙間」から溢れ出るものだけでも、多くの企業が成長するには十分だったのだ。 恭一郎は内外の問題に苦しみ、3か月もの間、まともに眠ることもできなかった。 彼は、梓を虚偽の告発で告訴し、拘束させた。 その一方で、上層部の調査により、蒼月グループに実際の財務上の問題が発覚し、十億円の罰金を科されることになった。 これでようやく問題が収束したが、社員の流出や取引先の減少など、グループは大きなダメージを受けた。 蒼月家の当主である恭一郎の祖父は、長い間、仕事から離れ山中で隠居生活を送っていた。 しかし、今回の一件で呼び戻されることとなる。 瘦せ細った孫の姿を目の当たりにした祖父は、大きくため息をついた。 会社の状況が少し落ち着いた頃、祖父は恭一郎を呼び出した。 ドン―― 杖が床を打つ音が響き渡る。 「跪け!」 恭一郎は顔面蒼白でその場にひざまずいた。 骨ばった体はまるで幽霊のようだった。 「恭一郎、私はこんな風に教えた覚えはないぞ。 お前に何度も言ったはずだ。本心を守れ、と。妻を愛する者は
しばらくの沈黙の後、恭一郎は不器用に謝罪の言葉を絞り出した。 「千夏、僕が悪かった。本当にごめん。君を傷つけて、他の女と関わってしまった。もう梓の子供も堕ろさせて、彼女も追い出したんだ。お願いだ、僕を許してくれ! 君が望むことは何だってする。だから、僕を見捨てないでくれ!」 彼の切実な声が響く中、千夏は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに答えた。 「いいよ。許してあげる」 その予想外の言葉に、恭一郎の頭は一瞬で混乱した。 「本当か?」 彼は焦るように聞き返した。 「ふふっ」千夏は冷笑を漏らした。 「これがあなたの望んでいた答えでしょう?私は何も気にしない、すべてを許す――そう言えば満足するんでしょう? 満足したなら、それでおしまい。もうこれ以上はないわ」 それはただの「許し」の言葉だった。いくらでも繰り返せるセリフ。 けれど、過去のように戻ることは決してあり得なかった。 一度壊れた鏡は、元には戻らない。 どれだけ接着剤でつなぎ合わせたところで、もう元の形には戻らないのだから。 そう言い切ると、千夏はためらうことなく電話を切った。 恭一郎に謝罪の続きを言う機会すら与えなかった。 かつて彼女はこう言ったことがある。 「もし私があなたを愛さなくなったら、あなたが自殺しても、何も変わらないわ」 その言葉を、恭一郎はようやく思い出した。 「千夏……君が好きだったあのお餅、また買ってくるよ。だから許してくれ」 彼は必死にメッセージを送った。 しばらくして、千夏から短い返信が届いた。 「もう好きじゃない」 ――どうして?どうしてそんなことが? 彼女が好きだったものが、どうして好きじゃなくなったんだ? 恭一郎の手は震え、スマートフォンを落としそうになる。 ――どうして愛がなくなったんだ? さらにメッセージを送ろうとすると、すでに彼の番号が再びブロックされていることに気づいた。 千夏からの「許し」の言葉を受け取っても、恭一郎の心は少しも救われなかった。 彼女が何を望んでいるか――それは彼も理解していた。 彼女はもう彼を愛していない。それだけだった。 千夏が離れた瞬間から、恭一郎も心のどこかでそれを分かっていたはずだ。 ただ、自分に言い聞かせていただけだ。彼女は
恭一郎は自分を責め続けた。 もし人生にやり直しがきくなら、絶対に本心を守り通すと誓うだろう。 だが、人生に「もし」は存在しない。 彼は見知らぬ街の中に立ち尽くし、迷子になった子供のように途方に暮れていた。 それでも、探し続けるつもりだろうか? ――もちろんだ。 だが、一体どこから手を付ければいいのか? 「こんにちは。この写真の女性は、僕の妻なんです。彼女は僕に怒って家を出てしまって……どうか彼女の連絡先を教えていただけませんか?」 恭一郎は心からの誠意を込めて尋ねた。 ホテルのスタッフはしばらく迷っていたが、彼が大金を差し出すと、たちまち笑顔になり、千夏の連絡先を教えてくれた。 急いで電話をかけたが、応答はなかった。 「きっと、まだ飛行機の中なんだ……」 恭一郎はそう自分に言い聞かせた。 千夏への謝罪の誠意を示すため、彼はネット上に詳細な反省文を投稿した。 どのように間違いを犯し、どうして自分の本心に気づいたのか――それを言葉に尽くして書き綴った。 彼の謝罪文は、真摯な内容だった。 それだけではなく、彼は毎日のように新しい謝罪文を投稿し、千夏が見てくれることを願い続けた。 最初は彼を憎んでいたネットユーザーの中にも、次第に彼の心情を察し、同情し始める人が現れた。 さらには、彼を擁護する声すら出てくるようになった。 だが、千夏はそれを見ても、ただ嘲笑を浮かべるだけだった。 「もし私が出て行かなかったら、彼がこうやって謝ることなんてあったの? ないわ。きっとますます調子に乗るだけ。梓だけじゃなく、もっと多くの女性を手に入れていたでしょう。浮気っていうのは、1回だけじゃ済まないものよ」 千夏は自問自答し、苦笑する。 ――許す理由なんてあるのだろうか? いや、今の生活で十分ではないか? 彼女は長年の夢を、ようやく叶えることができていた。 海辺の宿を営み、いくつかのペットと暮らし、時折新しい友人と出会う。 何もしない日には家でのんびりと、見た景色を絵に描く。 恭一郎を離れてから、彼女の体調は見違えるほど良くなった。 病院で再検査を受けたとき、医者からも健康状態を褒められるほどだった。 千夏は目を閉じ、ネットで飛び交う噂話を気に留めることはなかった。 彼女
ベッドの上のスマートフォンが「ピンポン」と絶え間なく鳴り続けていた。 送られてくるのは、ネット上の人々が提供した写真や行動情報だった。 膨大な情報の中から、どれが有益でどれが無意味なのか、恭一郎にはほとんど判断がつかなかった。 報酬目当ての人々が入り混じり、情報の精査は容易ではなかった。 いくつかの人を雇い選別を手伝わせても、それでも膨大な作業量だった。 その時、恭一郎は自分のこの計画を後悔し始めていた。 だが、他に方法がなかった。 広大なネットワークの力を借りるか、千夏が自ら何か情報を漏らしてくれるかしか、彼女を見つける手段はなかったのだ。 恭一郎はベッドに座り込み、絶望に押しつぶされそうだった。 その時、数人の秘書から数枚の写真が送られてきた。 「社長様、A国B市の教会前で奥様を目撃したという情報が入りました。すでに現地に人を派遣していますので、至急向かってください」 その報告を聞いた瞬間、恭一郎の胸に再び希望の火が灯った。 それが真実かどうかは関係なかった。試す価値がある。 彼はこの唯一の希望を手放すことなどできなかった。 千夏がいない日々は、彼にとって酸素や水を失ったのと同じだった。 彼女なしでは、1日たりとも耐えることができなかったのだ。 今まで何とか持ちこたえてきたのは、ただ意地で支えていたからに過ぎない。 最後の力を振り絞る魚のように、彼はもがき続けるしかなかった。 恭一郎は何日もまともに休んでいなかった。 千夏に会えない日々の中、彼が眠るのは、体が限界を迎えたときだけ。 短い1~2時間の睡眠を取るだけで、再び彼女の情報を追い求めていた。 A国行きの飛行機の中でも、彼は国内の仕事を片付け続けた。 飛行機が着陸し、荷物を受け取りに向かう間にも、彼は知らなかった。 その時、千夏が同じ空港で飛行機に乗り込んでいることを―― すれ違いのように、またしても二人は運命に翻弄される形となった。 千夏の飛行機が離陸した後、恭一郎は急いで教会の近くへ向かった。 付近のホテルを次々に訪ね歩いたが、千夏を見たという人には出会えなかった。 それでも諦めずに探し続けた末、ようやく小さなホテルの一つで千夏の痕跡を掴む。 「その美しい女性なら、今日すでにチェックアウトされ
恭一郎の心の中で緊張がどんどん募っていく。 手のひらには冷たい汗がにじみ、落ち着かない。 長い間待ち続けたが、誰もドアを開けてくれなかった。 焦りに駆られ、彼は無意識にドアを押してみる。 だが、ドアはしっかりと鍵が掛かっていて、びくともしない。 その横には小さな黒板が掛けられていた。 そこには「本日休業」と書かれている。 最初、彼はそれを見て、千夏が自分と会うためにわざわざ休業の札を掛けたのだと勘違いした。 だが、すぐにそれが「会う気はない」という意思表示であることに気付いた。 この瞬間、彼はようやく悟る。 千夏は彼を弄んでいたのだと。 彼女は初めから彼に会うつもりなどなかった。 その事実がまざまざと突きつけられる。 ――「ごめんなさい。あなたを許すつもりはない」 宿をじっと見つめる恭一郎。 そこは彼女と一緒に海辺での生活を夢見て語り合った記憶の場所だった。 彼女は海風を感じながら、二人で寄り添い合うだけで幸せだと言っていた。 彼は彼女の夢を叶えるために、国内の沿岸にある宿をいくつも購入し、時折彼女を連れて遊びに行った。 千夏はそのたびに満面の笑みを浮かべ、驚きと喜びを隠さなかった。 彼女が褒める言葉の一つ一つが、彼の心を甘く満たした。 だが、いつからだろう。 二人で出かけることがなくなってしまったのは。 恭一郎はぼんやりと考え込む。 梓と関係を持ち始めてから、彼が千夏と過ごす時間は確実に減っていた。 あの宿にも、もう何年も行っていない。 彼女に誓った約束も、多くを破ってしまった。 後悔が胸に押し寄せ、自分自身への怒りが募る。 彼は心の中で何度も過去の自分を罵った。 ――なぜ、もっと早く気づけなかったのか。 せっかく手に入れた千夏。 彼女が不安を抱えていることも、彼女が両親のような結末を恐れていることも分かっていたはずだった。 それでも、彼は自分を抑えられなかった。 かつてはどんな誘惑にも揺らがなかった自分が、なぜあの時、守り切れなかったのか。 彼は自分を殴りつけたくなるほどの後悔に苛まれる。 ふと、火照るような金髪の女性が彼に近づいてきた。 その鋭いオーラに目を輝かせ、彼女は挑発的な笑みを浮かべる。 「ねえ、素敵な殿方。飲
最初は、ネット上の人々はただ冷笑し、嘲るだけだった。 それでも、報酬に目がくらんだ何人かが、無意味な情報や証拠をわざと送りつけてきた。 だが、やがて本当に有効な情報を提供する者が現れた。 実際に報酬を手にした人が出ると、ネット上のユーザーたちは一気に熱狂し始めた。 その話は、ついに千夏の耳にも届く。 彼女の行方を知りたいという人々の声が広がる中、千夏の心には何の感動もなかった。 むしろ、わずかな苛立ちさえ覚える。 すでに身分情報を抹消しているのに、それでも彼女の決意が伝わらないのだろうか? 千夏はよく分かっていた。自分は一度終わった関係に戻る人間ではない。 そして、最初から彼を許すつもりなど全くなかった。 恭一郎の謝罪の言葉を目にしても、彼女の胸に浮かぶのはただの嘲笑だった。 彼が自分の過ちに気づいているのなら、なぜこれまで何事もなかったかのように振る舞えたのだろう? 何度も思った。いっそのこと、彼がはっきりと自分に告げてくれれば良かったのに――「心変わりした」と。 「別の誰かを愛している」と。 そうしてくれれば、きれいに終わることもできただろうに。 だが、彼はそのどちらでもなかった。 梓との関係を身体で享受しながら、心の中では千夏を愛していると言い続けていたのだ。 ――彼女を欺くのが、そんなに楽しかったのだろうか? ならば、今度は彼女が彼を弄んでみる番だ。 千夏はわざと数人に写真や行動情報を提供し、それを恭一郎に渡させた。 冷ややかな笑みを浮かべながら、彼女は時間を計り、彼より一歩早くA国行きの飛行機に乗り込む。 大洋の向こう側、鮮明な写真と詳細な位置情報が恭一郎の手元に届いた。 彼の手は興奮で震え、その顔には喜びが溢れていた。 「千夏が僕を許す気になったんだ!きっと僕が迎えに行くのを待っているんだ!」 彼はすぐさまF国行きの最短のフライトを予約し、空港へと急いだ。 しかし、同じ時間に2機の飛行機が飛び立ったが、その航路も目的地も全く異なるものだった。 F国に到着すると、恭一郎は故郷に戻ったかのような不思議な緊張感に包まれた。 彼は秘書に何度も身だしなみを確認させ、問題がないことを確かめてから、心を整え、千夏がいるという宿へ向かう。 穏やかな海風が頬を撫
あの離婚届は、千夏が恭一郎に残した最後の贈り物だった。 それは、彼と完全に決別するための印だった。 皮肉なことに、今や恭一郎はその離婚届を頼りに、千夏を思い出している。 彼はそれをラミネート加工し、日に何度も手に取っては眺めていた。 「千夏……君は今、どこにいるんだ? 僕は本当に間違ってた。許してくれなんて言わない。ただ一目だけでも、君に会いたいんだ。 千夏……君を傷つけた者たちには、それぞれ相応の罰を与えた。僕自身も、こんなにも苦しんでいる……どうか、君が僕を見てくれるだけでいい」 彼はどれだけ呟き続けたのか、自分でもわからなかった。 やがて身体が限界を迎え、意識を失った。 一方、恭一郎の元友人たちの家族にとって、事態はさらに深刻だった。 千夏との離婚が公になったことで、多くの人々が「もう愛なんて信じられない」と叫んだ。 かつて多くの人々が、彼と千夏を理想のカップルとして支持していた。 彼らの愛を応援するために、蒼月グループの商品を買い続けていたファンたちもいたのだ。 しかし、離婚のニュースが広がると、その支持は一転し、猛烈な批判が押し寄せた。 蒼月グループの公式アカウントには怒りのコメントが殺到し、グループの株価は急落した。 さらに、彼と梓の写真が内部の知る人間によって暴露されると、状況はさらに悪化した。 人々は、かつての彼らの愛を信じていた自分を嫌悪し、蒼月グループの商品を徹底的に否定した。 その中でも特に象徴的だったのが、千夏への愛を込めて作られたジュエリー「ユキナツ」だった。 かつては「真実の愛」を象徴していたそのジュエリーも、今ではただの安物扱いされ、価値を失った。 海外の宝石コレクターたちは、このニュースを聞いて激怒し、「ユキナツ」を安値で手放した。 そのジュエリーを買い戻したのは、他ならぬ恭一郎自身だった。 輝くジュエリーを見つめるうちに、彼は千夏の美しい笑顔を思い出した。 このジュエリーを作る時、彼は全ての愛情を注ぎ込んでいた。 素材の選定からデザイン、そして仕上げまで、すべてに自ら携わり、トップクラスのデザイナーと協力して作り上げた、世界で唯一無二の逸品だった。 「ユキナツ」という名前も、千夏への愛を象徴していた。 ――自分は、名前のない影の存在で