「ユキナツ」は非常に高価で、その販売方法はオークションハウスを通じるしかない。 ということは、恭一郎はオークションで「ユキナツ」を見かけたのだろうか? 千夏はすぐに答えず、逆に問い返した。 「あなた、オークションに行ったの?」 恭一郎は一瞬たじろぎ、目を逸らした。その後、数秒の間を置いてようやく答えた。 「君にジュエリーを買おうと思ってね」 本当に彼女のためなのか、それとも梓のためなのか―― 梓があれほどの「サプライズ」を用意していたのだから、彼が何かお返しを準備するのも当然だった。 千夏は感情を押さえ込み、冷静な声で言った。 「売ったんじゃないわ。寄付したの」 その言葉に、恭一郎はため息混じりに彼女の手を握りしめた。 「千夏、君が優しいのは知ってる。でも寄付するなら、他のものを使えばいい。このネックレスだけは絶対に寄付しちゃいけないんだ」 そう言いながら、彼はポケットから黒いベルベットの箱を取り出し、千夏の前に置いた。 箱を開くと、そこには「ユキナツ」が元の輝きを放ちながら収まっていた。 「また買い戻したよ。「ユキナツ」は僕が君を愛している証なんだ。どんな時でも外さないでくれ」 そう言うと、彼は再びそのネックレスを千夏の首にかけた。 彼女は、首に戻ってきたネックレスを見つめながら、かすかに自嘲の笑みを浮かべた。 恭一郎、あなたの演技はどうしてこんなにも上手なんだろう。 ほんの少し前、別の女性の元から慌てて駆けつけたばかりなのに、今では堂々と愛の言葉を語るなんて―― 夜、千夏がようやく眠りにつこうとしたその時、恭一郎のスマホが突然鳴り響いた。 彼はすぐに音を消し、彼女の背中を優しく撫でながら、なだめるような仕草を見せた。 しかし、数秒も経たないうちにスマホが再び鳴り始めた。 同じことが何度か繰り返され、最終的に彼は眉をひそめた。千夏を起こさないよう配慮しつつ、仕方なく電話に出た。 静まり返った部屋の中、その通話相手の声はひときわはっきりと聞こえてきた。 「おい、恭一郎、遊びに来いよ!みんな集まってるんだから、あとはお前だけだ」 恭一郎は即座に断った。 「無理だ。千夏を寝かせなきゃいけないから。じゃあ切るぞ」 「待て待て!そんなに嫁に首ったけかよ。最近全然顔を出
千夏はずっと無言のままだった。しばらく付き合ったものの、これ以上彼に演じる気力は残っていなかった。 「もう遅いわ。私は帰る」 そう言って立ち上がると、恭一郎も一緒に立ち上がりかけた。 しかし、仲間たちが慌てて彼を引き止める。 「奥さんはゆっくり休むべきだよ。俺たち、こんなに久しぶりに集まったんだから、お前が先に帰るのはなしだろう?」 「そうだよ!奥さんには美容のために寝てもらって、今夜はお前が俺たちに付き合えよ」 千夏は恭一郎の手をそっと振りほどき、静かに言った。 「運転手さんが送ってくれるから。あなたはここに残って」 その言葉を残し、彼女は振り返りもせずに立ち去った。 あまりに早くその場を離れたため、恭一郎が止める間もなかった。 車が走り出して間もなく、千夏はポケットに入れていたスマホの中に、見覚えのない黒いカバーのスマホを見つけた。 それは自分のではなかった――恭一郎のものだった。 彼女は眉をひそめ、運転手に車をUターンさせるよう指示した。 車がバーの前に着いた時、ちょうど梓がタクシーから降りてくるのが見えた。 彼女はスマホを手に、自分のメイクを何度も確認しながら、足早に個室の方へ向かっていた。 千夏はその様子を見て、無意識に手にしたスマホを握りしめた。 そして、梓の後を追った。 予感は的中した。梓は恭一郎がいる個室の前で足を止めたのだ。 扉を開けると、梓はすぐさま恭一郎の腕の中に飛び込んだ。 恭一郎も自然な仕草で彼女の腰に手を回し、優しく髪を撫でた。 「どうしてそんなに早く来た?」 梓は彼の肩に顔を預け、可愛らしく笑いながら答える。 「だって、会いたかったんだもん!恭一郎から電話をもらったら、すぐに駆けつけちゃった」 恭一郎は低く笑いながら、彼女に向かってこう言った。 「じゃあ、これに報いないとな」 そう言うと、彼は彼女の唇に熱いキスを落とし、次第に深く唇を絡めていった。 「もう、やめろよ!ここでイチャつくな!」 仲間たちはまるで見慣れた光景であるかのように笑いながら茶化した。 千夏は部屋の外、ドアの隙間からその一部始終を見ていた。 身体の芯まで冷たくなり、まるで氷に閉じ込められたような感覚に襲われた。 彼が梓と関係を持っていることは、仲間全
家に戻った千夏は、すぐに高熱を出してしまった。熱はなかなか下がらず、体力を奪われた彼女はぐったりとしていた。 その頃、酔いの残る恭一郎が帰宅した。彼は千夏が意識を失い、赤く火照った頬で横たわっているのを見て、驚きと焦りで青ざめた。 すぐに彼女を抱き上げ、車を走らせて病院へ向かった。 次に意識が戻ったとき、千夏は重い瞼を少しずつ開けた。 彼女が目を覚ましたのを確認すると、薬を交換していた看護師は驚きと喜びの表情を浮かべた。 「奥様、やっと目が覚めましたね!丸一日熱が下がらなくて、ご主人はとても心配されていましたよ。ずっとそばにいらっしゃいましたが、さっき電話がかかってきて、少しだけ席を外されています。お知らせしましょうか?ご主人、きっと喜びます」 千夏は首を振り、かすれた声で答えた。 「いいえ……必要ありません」 看護師はそれ以上何も言わず、薬の交換を終えると部屋を出て行った。 広い病室には静寂が訪れ、千夏の耳には外で電話をする恭一郎の声が微かに届いてきた。 恭一郎は普段冷静で穏やかだが、彼女のこととなると感情を抑えられないことが多かった。 しかし今の彼の声は、喜びと興奮に満ちていた。 そのうち、足音が遠ざかり、彼が病院を出て行ったのが分かった。 千夏は全身の力を振り絞ってベッドを下り、ゆっくりとその後を追った。 階下に降りたところで、彼女はちょうど恭一郎が梓を支えながら産婦人科から出てくる姿を目撃した。 二人の顔には隠しきれない笑みが浮かび、上がった口角は喜びを抑えられないことを物語っていた。 千夏の存在に気づいた梓は、わざと驚いたような声を上げた。 「奥様、こんな偶然があるんですね!病院でお会いするなんて」 その声に反応し、恭一郎も振り返った。視線が千夏と交わると、彼の身体はピクリと緊張し、すぐに梓を支えていた手を放した。 「千夏、これは……僕が薬を取りに来たときに、偶然梓にぶつかってね。彼女、妊娠してるんだ。それで何かあったらいけないと思って、ちょっと支えただけなんだ」 彼は焦りながら弁解し、誤解を避けようと必死だった。 しかし千夏は梓の腹部に目をやると、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 一度目を閉じてから、彼女はしばらく沈黙した後に口を開いた。 「鷺宮さん、いつご
「なんでもないわ」 千夏は赤くなった目を隠すように、窓の外を見つめた。 次の瞬間、夜空に無数の花火が打ち上がり、鮮やかに空を彩った。 その景色を眺めながら、彼女は昼間に梓が言っていた言葉を思い出した。 今夜、恭一郎が私のために街中で花火を打ち上げるって。 窓の外の花火に見とれる千夏の姿を見て、恭一郎は優しげな目で彼女を見つめた。 「花火が好きなのか?じゃあ、君のためにもっと盛大な花火を用意するよ。この花火以上のものを、どうだ?」 彼は千夏をしっかりと抱きしめ、優しい声で囁いた。 千夏は微笑んだが、その笑顔には苦味と涙が滲んでいた。 「恭一郎……私は、人が使ったものが好きじゃないの」 花火でも、人でも。 彼女の言葉を聞いた恭一郎は、一瞬心臓が跳ねるような感覚を覚えた。 明らかに花火のことを言っているのに、なぜか動揺が押し寄せたのだ。 一瞬の沈黙の後、彼は彼女をさらに強く抱きしめた。 「じゃあ、他のサプライズを用意するよ。君が羨むことのないように、特別なものをね」 千夏は黙ったまま、遠くを見つめていた。何も答えず、ただ静かに。 それから数日間、恭一郎は朝早くに家を出て、夜遅くに帰宅するという生活を繰り返した。どこか落ち着かない様子で、神妙な態度を見せることが多くなった。 そんな彼を見て、家の使用人たちが笑いながら話しかけてきた。 「奥様、旦那様はきっと何かサプライズを用意しているんですよ!」 「本当に旦那様は奥様を大事にされていますね。最近では専用ジュエリーをオーダーしたと思えば、また別の驚きを計画されているようです」 だが、千夏はその言葉を聞いても無表情のままだった。何の感情も見せず、ただ静かに話を聞くだけだった。 そんなある日、恭一郎がにこやかに彼女の手を取り、外へ連れ出そうとした。 「千夏、これから君をある場所に連れて行くよ。きっと気に入ると思う」 千夏が拒否しようとしたその時、彼女のスマホが振動した。 画面を確認すると、梓からのメッセージが届いていた。 「千夏さん、今の彼の心の中で、君と私、どちらが大切だと思う?」 次の瞬間、恭一郎のスマホが振動した。 千夏はその画面に目を向け、ちらりと見ただけで何が映っているか理解した。 梓が送った写真だった。黒いス
最初の日、梓が送ってきたのは、恭一郎が彼女のために自らエビを剥いている写真だった。 その夜、千夏は火鉢を準備し、恭一郎と一緒に撮ったすべての写真を燃やした。 二日目、梓から送られてきたのは、恭一郎が彼女とアオギリの木の下でキスをしている写真だった。 千夏は工事業者を呼び、別荘の庭に恭一郎が手植えしたすべてのサクランボの木を切り倒させた。 三日目、梓はライブ配信の中で恭一郎が彼女への愛を語った映像のハイライトを送りつけてきた。 千夏は過去に恭一郎が彼女へ送った何百通ものラブレターを引っ張り出した。 年月を経て少し色あせた紙の上には、今でも鮮明な文字が残っていた。 千夏はその文字を一度だけ指で撫でると、何の未練も見せずにラブレターをすべてシュレッダーにかけた。 そして、出発の日の朝。 千夏が目を覚ますと、そこには久しぶりに帰宅した恭一郎が立っていた。 彼はベッドのそばに立ち、手には千夏のスマホを持っていた。 彼女が目を覚ますと、深い眼差しで彼女を見つめながら尋ねた。 「千夏、さっき君のスマホにメッセージが来てた。『削除手続き完了』って。君、何を削除したんだ?」 その言葉に、千夏の心臓は一瞬止まりそうになった。 彼女は急いでスマホを取り返し、画面を確認した。 それは彼女が申請していた身分情報の削除が完了した通知だった。 幸いにもスマホにはパスコードが設定されており、恭一郎が目にしたのは通知の一部だけだった。 千夏は心を落ち着けると、何気ない口調で答えた。 「別に大したことじゃないわ。SNSのアカウントがハッキングされてたから、復旧して削除しただけよ」 その答えに、恭一郎は安堵のため息を漏らし、彼女をそっと抱きしめた。 そして微笑みながら言った。 「千夏、僕が君の好きなものを買ってきたの、わかる?」 彼女は一瞬動揺し、少し間を置いてから静かに答えた。 「東城のお餅でしょう?」 恭一郎は目を見開き、驚きの表情を浮かべた。 「なんで分かったんだ?」 分からないはずがなかった。 かつて交際していた頃、恭一郎は彼女を怒らせるたび、東城の店までわざわざお餅を買いに行き、それを手にして謝りに来たものだ。 その甘く香ばしい香りが鼻をくすぐるだけで、彼女の怒りはすぐに消えた。
千夏は仮の身分証を手に車に乗り、空港へ向かった。 飛行機が滑走路を離れ、空へと飛び立つ瞬間、すべてが過去になった。 F国に到着した後、千夏は新たな人生を歩み始めた。 沿岸の静かな町で、彼女は小さな民宿のオーナーとなり、新しい「自分」としての生活を始めたのだ。 一方その頃――京市にいる恭一郎は、狂気寸前だった。 時間を数時間前に戻す。 梓を自宅まで送った後も、彼女は彼の手を放さなかった。 「恭一郎、ここまで来たんだから、上がっていかない?」 そう言いながら、彼女は彼の手のひらを指でなぞるようにして挑発する。 恭一郎の心には迷いが生まれていた。 なぜか心の中には、不安とも焦りともつかない感覚が広がっていた。 「いや、今日はやめておくよ。君は早く家に入るんだ」 そう言って、彼は彼女の手を振りほどこうとした。 頭の中には、さっき千夏にかけた言葉が浮かんでいた。 「君と一緒に過ごす時間を作る」 その約束を守らなければならない気がしたのだ。 長い間彼女を放っておいて、これ以上彼女を怒らせたくはなかった。 千夏のことを思い出すと、彼の顔には微かな幸福の色が浮かんだ。 しかし、梓は再び彼の腰にしがみついた。 「恭一郎、あの服を着てほしいって言ったの、あなたじゃない! せっかくここまで来たのに見ないの?次はもう着ないかもしれないわよ」 彼女の手は彼の服の中へと忍び込み、さらに挑発的な仕草を見せた。 恭一郎は眉をひそめ、冷たい声で返した。 「無理だよ。千夏に約束したんだ」 だが、彼女の執拗な誘惑に負け、彼はとうとうその場で妥協してしまった。 数時間後。 恭一郎は服の乱れがないかを慎重に確認し、気を取り直して車に乗り込んだ。 「千夏、ただいま。ごめん、遅くなってしまって……」 言葉を途中で切らしたのは、家の中に違和感を覚えたからだった。 広いリビングは静まり返り、千夏の姿はどこにも見当たらない。 テーブルの上にはお餅があったが、一つも手をつけられていない。 その光景を見た瞬間、彼の胸に鋭い痛みが走った。 「まさか……」 彼は思わずリビングを見渡した。 次の瞬間、彼女がどこからか現れてくれるのではないかと、心のどこかで期待してしまっていた。 「千夏……
「それで……君たちは千夏がどこへ行ったか知らないのか?いつ出て行ったんだ?」 恭一郎は乾いた唇を舐めながら問いかけた。その声はかすれ、どこか震えていた。 しかし、使用人たちは揃って首を振った。 「旦那様、奥様は今朝早く、スーツケースを持って家を出ました。私たちもどこへ行かれたのかは分かりません」 家を出た?千夏が?どこに行ったというんだ? 頭が真っ白になり、思考がまとまらない。 彼女の両親はそれぞれ再婚して新しい家庭を築いており、千夏がそこを頼る可能性は限りなく低い。 恭一郎は次に千夏の友人たちを頼るしかないと考えた。 電話を手に取り、次々と連絡を取る。 「もしもし、僕だ、恭一郎だ。千夏、そっちにいるか?」 「は?何言ってんの?千夏が私のところにいるわけないでしょ」 同じような会話が何度も繰り返された。 彼は自分の友人たちにも尋ねたが、誰も彼女の行き先を知らなかった。 胸に広がる絶望感が何度も波のように押し寄せてくる。 まるで彼女がいなかった頃の自分に逆戻りしたようだった。 千夏――彼の人生で唯一愛した人。 彼の心そのものだった。 その心が生きたまま剥ぎ取られるような痛みが、彼の全身を蝕む。 それは彼を根底から崩壊させるほどの苦痛だった。 「千夏、頼むから、冗談はやめてくれ……会いたいんだ……」 彼は必死に叫び続けた。その瞳は血走り、獣のように荒れ狂う。 まるで伴侶を失った雄ライオンのようだった。 突然、あることを思い出した彼は、慌てて階段を駆け上がった。 書斎だ。 そこには、千夏が彼に贈った結婚記念日のプレゼントがある。 「半月後に開けて」と書かれたメモが貼られていた箱だ。 恭一郎はそのメモをそっと剥がした。 それは簡単に剥がれ落ち、彼の手の中に収まった。 まるで希望そのものを手にしたかのように、彼は箱を慎重に抱えた。 「きっと千夏はここにメッセージを残してくれている……俺に見つけてほしいって……!」 彼は半ば狂気じみた様子で独り言を繰り返しながら、その箱を開ける準備を始めた。 何重にも重ねられた包装を一つひとつ解いていき、ついに箱を開けた瞬間―― そこに入っていたのは、安以夏の名前が署名された離婚届だった。 「そんな……そんなはずが
もしかして……千夏は前から僕の浮気に気づいていたのか? 恭一郎はそう考えずにはいられなかった。 彼はずっと、自分はうまく隠し通せていると思い込んでいた。 千夏と梓の両方をうまくバランスよく扱えると信じていた。 彼女の目の前に梓を連れてくることもなければ、絶対にバレることはないと確信していた。 だが、現実は違った。 彼女はすべてを知っていた。 いったいいつからだったのか? どうしてこんなにも冷酷に、自分を捨て、完全に姿を消すことができたのか? 目の前が滲み、涙が次々と溢れ出し、視界を覆っていった。 そのとき、不意に彼の頭に過去の記憶が蘇る。 千夏が彼のプロポーズを受け入れたときに言った言葉―― 「これから、私は恭一郎の妻として努力する。でも、一つだけ忘れないで。 私、どんな嘘も絶対に許さない。 もしあなたが私を騙したら、そのときは、私があなたの世界から永遠にいなくなる」 当時の恭一郎は、自信に満ち溢れていた。 「そんなことは絶対にありえない」と心の底から思っていた。 彼は千夏を深く愛していたし、彼女を裏切るようなことなどあり得ないと信じていた。 彼は千夏の目の前で、自分の心を文字通り切り開いて見せたいほど、彼女に対して誠実でありたいと思っていた。 だが―― いったいいつから、すべてが変わってしまったのだろうか? 思い返せば、兄弟たちからの度重なるそそのかし、結婚生活の単調さ、そして梓のような誘惑の甘い囁き…… それらすべてが、少しずつ彼を変えていったのかもしれない。 そして、彼はついに本当に大切なものを見失ってしまった。 刺激を求めて、梓の安っぽい誘惑に乗り、その手に落ちてしまったのだ。 「千夏が僕に気づかない限り、すべてうまくいく」 兄弟たちの軽薄な言葉に流され、千夏が何も知らず、変わらぬ優しさを向けてくれる状況に甘えていた。 それはただの幻想だった。 恭一郎は夢の中で漂うような気持ちで現実を避け、いつしかその夢がすべてを覆い隠していた。 恭一郎は、自分がすべてを掌握していると信じて疑わなかった。 だが、彼は一つ忘れていた。 千夏は決して我慢強く、すべてを受け入れる性格ではないということを。 彼女の両親がどんな末路を迎えたか、その例は彼女の
「千夏!」 恭一郎は突然目を覚ました。口から飛び出したのは、千夏の名前だった。 ベッドの傍らでは、祖父が険しい顔で彼を見守っていた。 「恭一郎、今日から心を入れ替えなさい。仕事に専念し、まずは体を治すんだ。そして――二度と千夏を探しに行くな!」 「コホ、コホ……」 恭一郎は咳き込みながらも、掠れた声で問い返した。 「なぜですか? 彼女は僕の妻です。僕は離婚届にサインしていない。だから、僕たちはまだ離婚していないはずです! 僕が努力を続ければ、真心を示せば、彼女はきっと僕を許してくれます! 千夏は本当は優しい人なんです。少し甘い言葉をかけてやれば、きっとまた笑顔を見せてくれるはずなんです……」 「黙れ!」 祖父は彼の言葉を鋭く遮った。 そして、手元の録音デバイスを取り出すと、それを再生した。 そこには千夏との通話の内容が克明に録音されていた。 千夏の冷静な声が、部屋中に響き渡る。 その一言一言が、恭一郎の心を鋭くえぐった。 録音が終わった後も、部屋は沈黙に包まれたままだった。 しばらくして、恭一郎は震える声で呟いた。 「ありえない……これは嘘だ……千夏はそんなことを言うはずがない…… 僕は千夏に会いに行く。彼女に伝えるんだ。彼女こそが僕の唯一で、この人生で愛したのは彼女だけだと!」 そう言って、恭一郎は体中の点滴を引き抜き、虚ろな体を引きずりながら外へ向かった。 祖父はそれを止めなかった。 案の定、数歩歩いただけで恭一郎は地面に崩れ落ちた。 癒えかけていた背中の傷口が再び裂け、血が花のように広がっていく。 彼は歯を食いしばり、真っ赤に充血した目で前を見据えながら、再び体を起こそうとした。 だが、またしても数歩進んだだけで、彼の体は力尽き、完全に意識を失った。 祖父は首を横に振り、口調を荒げた。 「お前たち、彼をベッドに戻せ。きちんと見張り、外に出さないようにしろ」 そう言い残すと、祖父は自分の手に数粒の薬を押し込み、急いで飲み込んだ。 彼自身も体調が優れず、山中で静養していた身だったのだ。 それがこの一件で再び引き戻され、面倒ごとに巻き込まれることになった。 彼は隣の病室に横たわり、医師や看護師たちの診察を受け始めた。 3日後、恭一郎の体調は
「ごめんなさい。私はあなたと結婚するつもりはありません。私たち、別れましょう。もうあなたを愛していないの」 夢の中で、千夏は恭一郎の手を振り払い、どんどん遠ざかっていった。 「千夏!だめだ!そんなこと言っちゃだめだ! 僕は君を幸せにするよ。君が好きな東城のお餅、毎日でも買いに行く!ジュエリー、アクセサリー、家、株――僕が持てるものはすべて君にあげる。だから、僕のそばにいてくれ!」 恭一郎は必死に訴えたが、千夏は一度も振り返らなかった。 彼女の後ろ姿は冷たく、まるで過去を完全に断ち切るかのようだった。 彼は何度も追いかけようとしたが、その手は空を切るばかりだった。 気づけば、手にしていた婚約指輪さえ消えていた。 千夏はもう彼を必要としない。 彼の愛も、彼が持つすべても――彼女には必要ないのだ。 「千夏……千夏……」 恭一郎は目を閉じたまま、蒼白な顔に冷たい汗を浮かべ、震える唇から血の滴を滲ませていた。 何度も何度も、千夏の名前を呟き続ける。 そんな彼を見て、祖父の濁った瞳には一抹の不安が宿った。 深いため息をつきながら、数日かけてようやく見つけた千夏の最新の連絡先を手に取る。 「もしもし、千夏さんですか?私は蒼月恭一郎の祖父です。ご結婚の時にお会いしましたね」 千夏は客を一人送り出した直後で、この突然の電話に少し困惑していた。 「おじいさま……何かご用でしょうか?もし、恭一郎さんとの復縁を勧めたいのなら、お話しする必要はありません」 千夏は、しばらく恭一郎からの連絡が途絶えていたことで、ようやく彼が諦めたのだと思っていた。 しかし、まさか祖父を使うとは――彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。 祖父は弱々しい声で、それでもなお説得を試みた。 「千夏さん、恭一郎が以前あなたに酷いことをしたのは間違いありません。ですが、彼は今、病気で倒れています。あなたに許しを乞うつもりはありません。ただ、彼の姿を一度だけでも見てやってくれませんか? これで彼の未練も断ち切れるでしょう。どうか、この老人の願いを聞いてください」 電話越しの千夏はしばらく黙っていた。 だが、最終的に彼女の声は冷静で揺るぎなかった。 「ごめんなさい。私は今、とても幸せに暮らしているんです。もう戻るつもりはありません
恭一郎は、千夏への復讐のためなら手段を選ばず、彼女を侮辱した「かつての仲間」たちの家族を徹底的に打ちのめした。 そして今回、ついに彼の弱点を掴んだ彼らが黙っているはずがなかった。 梓もまた、自分が利用されることを気に留めなかった。 復讐さえ果たせれば、それで良かったのだ。 「私がこんなに苦しんでいるのに、恭一郎だけが幸せでいられるなんて許せない!」 ただ告発するだけでは足りず、彼女は新しいアカウントを開設し、配信を始めた。 その中で、恭一郎との過去を全て暴露し、視聴者たちに訴えかけた。 その結果、ようやく少しずつ回復し始めていた蒼月グループの評判は再び崩壊し、恭一郎のイメージもさらに失墜した。 恭一郎は国内に呼び戻され、調査に協力することを余儀なくされた。 そのため、千夏を追う計画は一旦中断せざるを得なかった。 国内は混乱の渦中にあった。 会社内では裏切り者が次々と現れ、蒼月グループは危機的状況に陥った。 周囲の企業は、恭一郎から何かを奪い取ろうと虎視眈々と狙っていた。 蒼月グループほどの巨大企業でも、今回の騒動を乗り切るには大きな犠牲を払わなければならなかった。 そのわずかな「隙間」から溢れ出るものだけでも、多くの企業が成長するには十分だったのだ。 恭一郎は内外の問題に苦しみ、3か月もの間、まともに眠ることもできなかった。 彼は、梓を虚偽の告発で告訴し、拘束させた。 その一方で、上層部の調査により、蒼月グループに実際の財務上の問題が発覚し、十億円の罰金を科されることになった。 これでようやく問題が収束したが、社員の流出や取引先の減少など、グループは大きなダメージを受けた。 蒼月家の当主である恭一郎の祖父は、長い間、仕事から離れ山中で隠居生活を送っていた。 しかし、今回の一件で呼び戻されることとなる。 瘦せ細った孫の姿を目の当たりにした祖父は、大きくため息をついた。 会社の状況が少し落ち着いた頃、祖父は恭一郎を呼び出した。 ドン―― 杖が床を打つ音が響き渡る。 「跪け!」 恭一郎は顔面蒼白でその場にひざまずいた。 骨ばった体はまるで幽霊のようだった。 「恭一郎、私はこんな風に教えた覚えはないぞ。 お前に何度も言ったはずだ。本心を守れ、と。妻を愛する者は
しばらくの沈黙の後、恭一郎は不器用に謝罪の言葉を絞り出した。 「千夏、僕が悪かった。本当にごめん。君を傷つけて、他の女と関わってしまった。もう梓の子供も堕ろさせて、彼女も追い出したんだ。お願いだ、僕を許してくれ! 君が望むことは何だってする。だから、僕を見捨てないでくれ!」 彼の切実な声が響く中、千夏は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに答えた。 「いいよ。許してあげる」 その予想外の言葉に、恭一郎の頭は一瞬で混乱した。 「本当か?」 彼は焦るように聞き返した。 「ふふっ」千夏は冷笑を漏らした。 「これがあなたの望んでいた答えでしょう?私は何も気にしない、すべてを許す――そう言えば満足するんでしょう? 満足したなら、それでおしまい。もうこれ以上はないわ」 それはただの「許し」の言葉だった。いくらでも繰り返せるセリフ。 けれど、過去のように戻ることは決してあり得なかった。 一度壊れた鏡は、元には戻らない。 どれだけ接着剤でつなぎ合わせたところで、もう元の形には戻らないのだから。 そう言い切ると、千夏はためらうことなく電話を切った。 恭一郎に謝罪の続きを言う機会すら与えなかった。 かつて彼女はこう言ったことがある。 「もし私があなたを愛さなくなったら、あなたが自殺しても、何も変わらないわ」 その言葉を、恭一郎はようやく思い出した。 「千夏……君が好きだったあのお餅、また買ってくるよ。だから許してくれ」 彼は必死にメッセージを送った。 しばらくして、千夏から短い返信が届いた。 「もう好きじゃない」 ――どうして?どうしてそんなことが? 彼女が好きだったものが、どうして好きじゃなくなったんだ? 恭一郎の手は震え、スマートフォンを落としそうになる。 ――どうして愛がなくなったんだ? さらにメッセージを送ろうとすると、すでに彼の番号が再びブロックされていることに気づいた。 千夏からの「許し」の言葉を受け取っても、恭一郎の心は少しも救われなかった。 彼女が何を望んでいるか――それは彼も理解していた。 彼女はもう彼を愛していない。それだけだった。 千夏が離れた瞬間から、恭一郎も心のどこかでそれを分かっていたはずだ。 ただ、自分に言い聞かせていただけだ。彼女は
恭一郎は自分を責め続けた。 もし人生にやり直しがきくなら、絶対に本心を守り通すと誓うだろう。 だが、人生に「もし」は存在しない。 彼は見知らぬ街の中に立ち尽くし、迷子になった子供のように途方に暮れていた。 それでも、探し続けるつもりだろうか? ――もちろんだ。 だが、一体どこから手を付ければいいのか? 「こんにちは。この写真の女性は、僕の妻なんです。彼女は僕に怒って家を出てしまって……どうか彼女の連絡先を教えていただけませんか?」 恭一郎は心からの誠意を込めて尋ねた。 ホテルのスタッフはしばらく迷っていたが、彼が大金を差し出すと、たちまち笑顔になり、千夏の連絡先を教えてくれた。 急いで電話をかけたが、応答はなかった。 「きっと、まだ飛行機の中なんだ……」 恭一郎はそう自分に言い聞かせた。 千夏への謝罪の誠意を示すため、彼はネット上に詳細な反省文を投稿した。 どのように間違いを犯し、どうして自分の本心に気づいたのか――それを言葉に尽くして書き綴った。 彼の謝罪文は、真摯な内容だった。 それだけではなく、彼は毎日のように新しい謝罪文を投稿し、千夏が見てくれることを願い続けた。 最初は彼を憎んでいたネットユーザーの中にも、次第に彼の心情を察し、同情し始める人が現れた。 さらには、彼を擁護する声すら出てくるようになった。 だが、千夏はそれを見ても、ただ嘲笑を浮かべるだけだった。 「もし私が出て行かなかったら、彼がこうやって謝ることなんてあったの? ないわ。きっとますます調子に乗るだけ。梓だけじゃなく、もっと多くの女性を手に入れていたでしょう。浮気っていうのは、1回だけじゃ済まないものよ」 千夏は自問自答し、苦笑する。 ――許す理由なんてあるのだろうか? いや、今の生活で十分ではないか? 彼女は長年の夢を、ようやく叶えることができていた。 海辺の宿を営み、いくつかのペットと暮らし、時折新しい友人と出会う。 何もしない日には家でのんびりと、見た景色を絵に描く。 恭一郎を離れてから、彼女の体調は見違えるほど良くなった。 病院で再検査を受けたとき、医者からも健康状態を褒められるほどだった。 千夏は目を閉じ、ネットで飛び交う噂話を気に留めることはなかった。 彼女
ベッドの上のスマートフォンが「ピンポン」と絶え間なく鳴り続けていた。 送られてくるのは、ネット上の人々が提供した写真や行動情報だった。 膨大な情報の中から、どれが有益でどれが無意味なのか、恭一郎にはほとんど判断がつかなかった。 報酬目当ての人々が入り混じり、情報の精査は容易ではなかった。 いくつかの人を雇い選別を手伝わせても、それでも膨大な作業量だった。 その時、恭一郎は自分のこの計画を後悔し始めていた。 だが、他に方法がなかった。 広大なネットワークの力を借りるか、千夏が自ら何か情報を漏らしてくれるかしか、彼女を見つける手段はなかったのだ。 恭一郎はベッドに座り込み、絶望に押しつぶされそうだった。 その時、数人の秘書から数枚の写真が送られてきた。 「社長様、A国B市の教会前で奥様を目撃したという情報が入りました。すでに現地に人を派遣していますので、至急向かってください」 その報告を聞いた瞬間、恭一郎の胸に再び希望の火が灯った。 それが真実かどうかは関係なかった。試す価値がある。 彼はこの唯一の希望を手放すことなどできなかった。 千夏がいない日々は、彼にとって酸素や水を失ったのと同じだった。 彼女なしでは、1日たりとも耐えることができなかったのだ。 今まで何とか持ちこたえてきたのは、ただ意地で支えていたからに過ぎない。 最後の力を振り絞る魚のように、彼はもがき続けるしかなかった。 恭一郎は何日もまともに休んでいなかった。 千夏に会えない日々の中、彼が眠るのは、体が限界を迎えたときだけ。 短い1~2時間の睡眠を取るだけで、再び彼女の情報を追い求めていた。 A国行きの飛行機の中でも、彼は国内の仕事を片付け続けた。 飛行機が着陸し、荷物を受け取りに向かう間にも、彼は知らなかった。 その時、千夏が同じ空港で飛行機に乗り込んでいることを―― すれ違いのように、またしても二人は運命に翻弄される形となった。 千夏の飛行機が離陸した後、恭一郎は急いで教会の近くへ向かった。 付近のホテルを次々に訪ね歩いたが、千夏を見たという人には出会えなかった。 それでも諦めずに探し続けた末、ようやく小さなホテルの一つで千夏の痕跡を掴む。 「その美しい女性なら、今日すでにチェックアウトされ
恭一郎の心の中で緊張がどんどん募っていく。 手のひらには冷たい汗がにじみ、落ち着かない。 長い間待ち続けたが、誰もドアを開けてくれなかった。 焦りに駆られ、彼は無意識にドアを押してみる。 だが、ドアはしっかりと鍵が掛かっていて、びくともしない。 その横には小さな黒板が掛けられていた。 そこには「本日休業」と書かれている。 最初、彼はそれを見て、千夏が自分と会うためにわざわざ休業の札を掛けたのだと勘違いした。 だが、すぐにそれが「会う気はない」という意思表示であることに気付いた。 この瞬間、彼はようやく悟る。 千夏は彼を弄んでいたのだと。 彼女は初めから彼に会うつもりなどなかった。 その事実がまざまざと突きつけられる。 ――「ごめんなさい。あなたを許すつもりはない」 宿をじっと見つめる恭一郎。 そこは彼女と一緒に海辺での生活を夢見て語り合った記憶の場所だった。 彼女は海風を感じながら、二人で寄り添い合うだけで幸せだと言っていた。 彼は彼女の夢を叶えるために、国内の沿岸にある宿をいくつも購入し、時折彼女を連れて遊びに行った。 千夏はそのたびに満面の笑みを浮かべ、驚きと喜びを隠さなかった。 彼女が褒める言葉の一つ一つが、彼の心を甘く満たした。 だが、いつからだろう。 二人で出かけることがなくなってしまったのは。 恭一郎はぼんやりと考え込む。 梓と関係を持ち始めてから、彼が千夏と過ごす時間は確実に減っていた。 あの宿にも、もう何年も行っていない。 彼女に誓った約束も、多くを破ってしまった。 後悔が胸に押し寄せ、自分自身への怒りが募る。 彼は心の中で何度も過去の自分を罵った。 ――なぜ、もっと早く気づけなかったのか。 せっかく手に入れた千夏。 彼女が不安を抱えていることも、彼女が両親のような結末を恐れていることも分かっていたはずだった。 それでも、彼は自分を抑えられなかった。 かつてはどんな誘惑にも揺らがなかった自分が、なぜあの時、守り切れなかったのか。 彼は自分を殴りつけたくなるほどの後悔に苛まれる。 ふと、火照るような金髪の女性が彼に近づいてきた。 その鋭いオーラに目を輝かせ、彼女は挑発的な笑みを浮かべる。 「ねえ、素敵な殿方。飲
最初は、ネット上の人々はただ冷笑し、嘲るだけだった。 それでも、報酬に目がくらんだ何人かが、無意味な情報や証拠をわざと送りつけてきた。 だが、やがて本当に有効な情報を提供する者が現れた。 実際に報酬を手にした人が出ると、ネット上のユーザーたちは一気に熱狂し始めた。 その話は、ついに千夏の耳にも届く。 彼女の行方を知りたいという人々の声が広がる中、千夏の心には何の感動もなかった。 むしろ、わずかな苛立ちさえ覚える。 すでに身分情報を抹消しているのに、それでも彼女の決意が伝わらないのだろうか? 千夏はよく分かっていた。自分は一度終わった関係に戻る人間ではない。 そして、最初から彼を許すつもりなど全くなかった。 恭一郎の謝罪の言葉を目にしても、彼女の胸に浮かぶのはただの嘲笑だった。 彼が自分の過ちに気づいているのなら、なぜこれまで何事もなかったかのように振る舞えたのだろう? 何度も思った。いっそのこと、彼がはっきりと自分に告げてくれれば良かったのに――「心変わりした」と。 「別の誰かを愛している」と。 そうしてくれれば、きれいに終わることもできただろうに。 だが、彼はそのどちらでもなかった。 梓との関係を身体で享受しながら、心の中では千夏を愛していると言い続けていたのだ。 ――彼女を欺くのが、そんなに楽しかったのだろうか? ならば、今度は彼女が彼を弄んでみる番だ。 千夏はわざと数人に写真や行動情報を提供し、それを恭一郎に渡させた。 冷ややかな笑みを浮かべながら、彼女は時間を計り、彼より一歩早くA国行きの飛行機に乗り込む。 大洋の向こう側、鮮明な写真と詳細な位置情報が恭一郎の手元に届いた。 彼の手は興奮で震え、その顔には喜びが溢れていた。 「千夏が僕を許す気になったんだ!きっと僕が迎えに行くのを待っているんだ!」 彼はすぐさまF国行きの最短のフライトを予約し、空港へと急いだ。 しかし、同じ時間に2機の飛行機が飛び立ったが、その航路も目的地も全く異なるものだった。 F国に到着すると、恭一郎は故郷に戻ったかのような不思議な緊張感に包まれた。 彼は秘書に何度も身だしなみを確認させ、問題がないことを確かめてから、心を整え、千夏がいるという宿へ向かう。 穏やかな海風が頬を撫
あの離婚届は、千夏が恭一郎に残した最後の贈り物だった。 それは、彼と完全に決別するための印だった。 皮肉なことに、今や恭一郎はその離婚届を頼りに、千夏を思い出している。 彼はそれをラミネート加工し、日に何度も手に取っては眺めていた。 「千夏……君は今、どこにいるんだ? 僕は本当に間違ってた。許してくれなんて言わない。ただ一目だけでも、君に会いたいんだ。 千夏……君を傷つけた者たちには、それぞれ相応の罰を与えた。僕自身も、こんなにも苦しんでいる……どうか、君が僕を見てくれるだけでいい」 彼はどれだけ呟き続けたのか、自分でもわからなかった。 やがて身体が限界を迎え、意識を失った。 一方、恭一郎の元友人たちの家族にとって、事態はさらに深刻だった。 千夏との離婚が公になったことで、多くの人々が「もう愛なんて信じられない」と叫んだ。 かつて多くの人々が、彼と千夏を理想のカップルとして支持していた。 彼らの愛を応援するために、蒼月グループの商品を買い続けていたファンたちもいたのだ。 しかし、離婚のニュースが広がると、その支持は一転し、猛烈な批判が押し寄せた。 蒼月グループの公式アカウントには怒りのコメントが殺到し、グループの株価は急落した。 さらに、彼と梓の写真が内部の知る人間によって暴露されると、状況はさらに悪化した。 人々は、かつての彼らの愛を信じていた自分を嫌悪し、蒼月グループの商品を徹底的に否定した。 その中でも特に象徴的だったのが、千夏への愛を込めて作られたジュエリー「ユキナツ」だった。 かつては「真実の愛」を象徴していたそのジュエリーも、今ではただの安物扱いされ、価値を失った。 海外の宝石コレクターたちは、このニュースを聞いて激怒し、「ユキナツ」を安値で手放した。 そのジュエリーを買い戻したのは、他ならぬ恭一郎自身だった。 輝くジュエリーを見つめるうちに、彼は千夏の美しい笑顔を思い出した。 このジュエリーを作る時、彼は全ての愛情を注ぎ込んでいた。 素材の選定からデザイン、そして仕上げまで、すべてに自ら携わり、トップクラスのデザイナーと協力して作り上げた、世界で唯一無二の逸品だった。 「ユキナツ」という名前も、千夏への愛を象徴していた。 ――自分は、名前のない影の存在で