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第3話

著者: 冴川
last update 最終更新日: 2024-12-18 10:37:42
千夏は胸の痛みに顔を歪め、右手で胸元を強く押さえた。呼吸が浅くなり、苦しそうに肩を上下させていた。

その異変にようやく気づいた恭一郎は、慌てて彼女の元へ駆け寄った。

「千夏、どうしたんだ!?」

その瞳には本物の心配が映っており、まるで彼女に何かあれば自分もその場で命を落としそうな様子だった。

しかし、そんなにも彼女を愛しているはずの彼が、これまでどれだけ多くのことを隠してきたのか――千夏の心にはそれが突き刺さっていた。

感情を必死に抑えながら、千夏はなんとか声を絞り出した。

「大丈夫……ちょっと息苦しかっただけ」

恭一郎はすぐに彼女の胸元をそっと押さえ、何度も様子を確認した後、彼女を車で送り届けることにした。

車の中、彼は必死に話題を振り、千夏を笑わせようとした。仕事の話や昔の出来事、どれも楽しませるための努力だった。

けれど、どんなに彼が頭をひねって話しても、千夏の心は晴れることがなかった。

彼女は窓にもたれかかり、外を流れていく景色を無言で見つめていた。心の中には、彼女自身にも説明できない複雑な思いが渦巻いていた。

「千夏、僕、何か間違ったかな?」

恭一郎が慎重に、探るように問いかけてきた。

「何もないわ」

千夏はようやく口を開いた。「ただ、今日見たドラマのことを考えてただけ」

ほっと胸をなでおろし、彼は笑顔で話題に乗った。

「どんなドラマ?」

その言葉に、千夏はゆっくりと顔を彼に向けた。彼の瞳を真っ直ぐ見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。

「主人公の男は、最初は彼女をすごく愛してたの。でも途中で気持ちが変わっちゃって、ずっと彼女に隠してたの」

彼女は彼の顔をじっと見つめた。ほんの小さな表情の変化すら見逃すまいとするかのように。

「恭一郎、もしもある日、気持ちが変わったら……」

「絶対にない!」

千夏が言い終える前に、恭一郎は勢いよく言葉を遮った。まるでその可能性すら受け入れることができないといった様子だった。

「千夏、僕が一生で一番愛してるのは君だけだ。たとえ全世界の男が裏切るとしても、僕は絶対に裏切らない。僕には君が必要なんだ」

その言葉を聞いても、千夏の胸の奥に刺さった痛みはさらに深まるばかりだった。

彼には彼女が必要だと言う。しかし、彼は他の花に手を伸ばした……

千夏が何かを言いかけたその時、恭一郎のスマホが鳴り響いた。

彼は一瞬迷いながらも、電話を切ろうと手を伸ばした。

その瞬間、千夏は彼を押しのけ、冷たい声で言った。

「出なさいよ」

恭一郎は素直に電話を取ったが、通話相手が何を話したのかは千夏には分からなかった。

最初は平静を保っていた彼の表情が、次第に瞳孔がわずかに揺らぎ、不自然な様子へと変わっていった。

やがて喉仏を動かしながら電話を切り、千夏に向き直った。

「千夏、会社で急用ができたんだ。今すぐ向かわなきゃならない。君にはタクシーを呼ぶから、それで帰ってもらえる?」

千夏は特に何も言わず、軽くうなずいて車を降りた。

恭一郎のマ○バッハが走り去るのを見送った後、彼女は自分でタクシーを拾い、ドライバーに静かに告げた。

「前の車を追ってください」

運転手は特に質問もせず、エンジンをかけ、一定の距離を保ちながら追い始めた。

前の車がとある邸宅の前で停車すると、タクシーも少し離れた場所で止まった。

千夏の視線の先には、うさぎのメイド服を着た少女がドアを開け、車から降りた男性に笑顔で駆け寄っていた。

その少女は梓で、男性は恭一郎だった。

二人は抱き合ったかと思うと、待ちきれないかのように唇を重ね始めた。

唇を交わし、深く絡み合ったまま、やがて梓が息を整えるようにして恭一郎から顔を離し、彼のネクタイを引き寄せながら笑顔を浮かべた。

「ご主人様、うさぎちゃんからもっとすごいプレゼントがあるんですよ。気になります?」

そう言いながら、彼女の指先は恭一郎の喉仏を軽く突くように触れた。

恭一郎は喉仏を数回動かし、梓の手をしっかりと握りしめ、その目には欲望が色濃く浮かんでいた。

「三十分の道のりを、十五分で来たんだぞ。どう思う、僕が気になってないと思う?」

梓はくすっと笑いながら、細い指で彼を引き寄せ、車の中を指し示した。

「じゃあ、車の中で見ます?」

二人が車に乗り込むと、しばらくして車体が小さく揺れ始めた。

そして、その揺れは次第に大きくなり、激しさを増していった……

誰も知らなかった――千夏が少し離れた場所に停めた車の中で、すべてを見ていたことを。

彼に対して、もはや期待など抱いていないと思っていた。

だが、実際にその光景を目にすると、それがどれほど心を抉るのかを初めて知った。

まるで鋭い鉤(かぎ)が突然心臓を引っ掛けたような激痛が走る。

千夏は胸を押さえ、必死に呼吸を整えようとしたが、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。

かつて恋人だった頃、恭一郎は千夏をとても大切にしていた。

どれほど彼女を愛していても、情熱に流されることなく、彼女に手を出すのを堪え続けていた。

「初めては特別なものだから。新婚の夜にこそ意味があるんだ」

そう言って、彼は待ち続けた。

三年間のアプローチ、さらに三年間の交際を経て、ようやく迎えた新婚の夜。

その夜、ビジネス界で名を馳せる彼は、緊張のあまり全く普段の冷静さを失っていた。

千夏の服を脱がせるだけで、彼の耳は真っ赤に染まり、ひどくぎこちなかった。

それほどまでに彼は彼女を大事にしていて、千夏の感情を常に気にかけながら、一歩一歩慎重に進めていった。

そして、彼が千夏を完全に自分のものにした瞬間、彼は感激のあまり涙を流した。

耳元で何度も囁いた言葉――

「千夏、君はついに僕のものだ。愛してる、永遠に君だけを愛してる」

あの時、彼女は本当に彼の誠実な愛を感じていた。

「この人生で、これほどまでに私を愛してくれる人はもういない」

彼女はそう思っていた。

「恭一郎がただ一人、千夏だけを愛している」

彼自身の口から何度も語られた言葉だ。

しかし今、その誓いを破ったのもまた彼自身だった。

運転席の女性ドライバーは、泣き続ける千夏を見て、深い溜息をつきながらティッシュを差し出した。

「男なんてそんなもの。浮気しない男なんていないわよ。私だって、子どもがいるから離婚もできなくて……」

自分の悲しい話を口にする彼女の声は詰まり、何度か途切れた後、また続けられた。

「お姉さん、泣かないで。もう結婚してるんだから、少し我慢するしかないわ。一度くらい見なかったことにして許してあげたら?」

千夏はティッシュを握りしめ、かすれた声で言葉を紡いだ。

しかし、その声には揺るぎない決意が込められていた。

「いいえ、私は許さない」

恭一郎、私は絶対にあなたを許さない。

家に戻った千夏は、タンスをひっくり返し、これまで恭一郎からもらった贈り物をすべて整理し始めた。

それには高価な「ユキナツ」も含まれていた。

そして、電話を一本かける。

「もしもし、財産管理の方ですか?手元にあるこれらの物をすべて売りたいんです。その売上金を、離婚を望んでいるのに子どもや経済的な理由で諦めざるを得ない女性たちを支援する基金に全額寄付してください」

わずか1時間で、すべての品を発送し終えた。

その後、千夏は静かに荷物をまとめ始めた。

ちょうど半分ほど片付けたところで、突然恭一郎が帰ってきた。

雨風にまみれながら玄関を開け、傘もささずに飛び込んできた彼の体は冷たく濡れていた。

着替える間もなく、彼は焦った様子で千夏の前に駆け寄り、震える声で問いかけた。

「千夏、どうして『ユキナツ』を売ったんだ?」

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    「ごめんなさい。私はあなたと結婚するつもりはありません。私たち、別れましょう。もうあなたを愛していないの」 夢の中で、千夏は恭一郎の手を振り払い、どんどん遠ざかっていった。 「千夏!だめだ!そんなこと言っちゃだめだ! 僕は君を幸せにするよ。君が好きな東城のお餅、毎日でも買いに行く!ジュエリー、アクセサリー、家、株――僕が持てるものはすべて君にあげる。だから、僕のそばにいてくれ!」 恭一郎は必死に訴えたが、千夏は一度も振り返らなかった。 彼女の後ろ姿は冷たく、まるで過去を完全に断ち切るかのようだった。 彼は何度も追いかけようとしたが、その手は空を切るばかりだった。 気づけば、手にしていた婚約指輪さえ消えていた。 千夏はもう彼を必要としない。 彼の愛も、彼が持つすべても――彼女には必要ないのだ。 「千夏……千夏……」 恭一郎は目を閉じたまま、蒼白な顔に冷たい汗を浮かべ、震える唇から血の滴を滲ませていた。 何度も何度も、千夏の名前を呟き続ける。 そんな彼を見て、祖父の濁った瞳には一抹の不安が宿った。 深いため息をつきながら、数日かけてようやく見つけた千夏の最新の連絡先を手に取る。 「もしもし、千夏さんですか?私は蒼月恭一郎の祖父です。ご結婚の時にお会いしましたね」 千夏は客を一人送り出した直後で、この突然の電話に少し困惑していた。 「おじいさま……何かご用でしょうか?もし、恭一郎さんとの復縁を勧めたいのなら、お話しする必要はありません」 千夏は、しばらく恭一郎からの連絡が途絶えていたことで、ようやく彼が諦めたのだと思っていた。 しかし、まさか祖父を使うとは――彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。 祖父は弱々しい声で、それでもなお説得を試みた。 「千夏さん、恭一郎が以前あなたに酷いことをしたのは間違いありません。ですが、彼は今、病気で倒れています。あなたに許しを乞うつもりはありません。ただ、彼の姿を一度だけでも見てやってくれませんか? これで彼の未練も断ち切れるでしょう。どうか、この老人の願いを聞いてください」 電話越しの千夏はしばらく黙っていた。 だが、最終的に彼女の声は冷静で揺るぎなかった。 「ごめんなさい。私は今、とても幸せに暮らしているんです。もう戻るつもりはありません

  • 春を迎えぬ冬   第25話

    恭一郎は、千夏への復讐のためなら手段を選ばず、彼女を侮辱した「かつての仲間」たちの家族を徹底的に打ちのめした。 そして今回、ついに彼の弱点を掴んだ彼らが黙っているはずがなかった。 梓もまた、自分が利用されることを気に留めなかった。 復讐さえ果たせれば、それで良かったのだ。 「私がこんなに苦しんでいるのに、恭一郎だけが幸せでいられるなんて許せない!」 ただ告発するだけでは足りず、彼女は新しいアカウントを開設し、配信を始めた。 その中で、恭一郎との過去を全て暴露し、視聴者たちに訴えかけた。 その結果、ようやく少しずつ回復し始めていた蒼月グループの評判は再び崩壊し、恭一郎のイメージもさらに失墜した。 恭一郎は国内に呼び戻され、調査に協力することを余儀なくされた。 そのため、千夏を追う計画は一旦中断せざるを得なかった。 国内は混乱の渦中にあった。 会社内では裏切り者が次々と現れ、蒼月グループは危機的状況に陥った。 周囲の企業は、恭一郎から何かを奪い取ろうと虎視眈々と狙っていた。 蒼月グループほどの巨大企業でも、今回の騒動を乗り切るには大きな犠牲を払わなければならなかった。 そのわずかな「隙間」から溢れ出るものだけでも、多くの企業が成長するには十分だったのだ。 恭一郎は内外の問題に苦しみ、3か月もの間、まともに眠ることもできなかった。 彼は、梓を虚偽の告発で告訴し、拘束させた。 その一方で、上層部の調査により、蒼月グループに実際の財務上の問題が発覚し、十億円の罰金を科されることになった。 これでようやく問題が収束したが、社員の流出や取引先の減少など、グループは大きなダメージを受けた。 蒼月家の当主である恭一郎の祖父は、長い間、仕事から離れ山中で隠居生活を送っていた。 しかし、今回の一件で呼び戻されることとなる。 瘦せ細った孫の姿を目の当たりにした祖父は、大きくため息をついた。 会社の状況が少し落ち着いた頃、祖父は恭一郎を呼び出した。 ドン―― 杖が床を打つ音が響き渡る。 「跪け!」 恭一郎は顔面蒼白でその場にひざまずいた。 骨ばった体はまるで幽霊のようだった。 「恭一郎、私はこんな風に教えた覚えはないぞ。 お前に何度も言ったはずだ。本心を守れ、と。妻を愛する者は

  • 春を迎えぬ冬   第24話

    しばらくの沈黙の後、恭一郎は不器用に謝罪の言葉を絞り出した。 「千夏、僕が悪かった。本当にごめん。君を傷つけて、他の女と関わってしまった。もう梓の子供も堕ろさせて、彼女も追い出したんだ。お願いだ、僕を許してくれ! 君が望むことは何だってする。だから、僕を見捨てないでくれ!」 彼の切実な声が響く中、千夏は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに答えた。 「いいよ。許してあげる」 その予想外の言葉に、恭一郎の頭は一瞬で混乱した。 「本当か?」 彼は焦るように聞き返した。 「ふふっ」千夏は冷笑を漏らした。 「これがあなたの望んでいた答えでしょう?私は何も気にしない、すべてを許す――そう言えば満足するんでしょう? 満足したなら、それでおしまい。もうこれ以上はないわ」 それはただの「許し」の言葉だった。いくらでも繰り返せるセリフ。 けれど、過去のように戻ることは決してあり得なかった。 一度壊れた鏡は、元には戻らない。 どれだけ接着剤でつなぎ合わせたところで、もう元の形には戻らないのだから。 そう言い切ると、千夏はためらうことなく電話を切った。 恭一郎に謝罪の続きを言う機会すら与えなかった。 かつて彼女はこう言ったことがある。 「もし私があなたを愛さなくなったら、あなたが自殺しても、何も変わらないわ」 その言葉を、恭一郎はようやく思い出した。 「千夏……君が好きだったあのお餅、また買ってくるよ。だから許してくれ」 彼は必死にメッセージを送った。 しばらくして、千夏から短い返信が届いた。 「もう好きじゃない」 ――どうして?どうしてそんなことが? 彼女が好きだったものが、どうして好きじゃなくなったんだ? 恭一郎の手は震え、スマートフォンを落としそうになる。 ――どうして愛がなくなったんだ? さらにメッセージを送ろうとすると、すでに彼の番号が再びブロックされていることに気づいた。 千夏からの「許し」の言葉を受け取っても、恭一郎の心は少しも救われなかった。 彼女が何を望んでいるか――それは彼も理解していた。 彼女はもう彼を愛していない。それだけだった。 千夏が離れた瞬間から、恭一郎も心のどこかでそれを分かっていたはずだ。 ただ、自分に言い聞かせていただけだ。彼女は

  • 春を迎えぬ冬   第23話

    恭一郎は自分を責め続けた。 もし人生にやり直しがきくなら、絶対に本心を守り通すと誓うだろう。 だが、人生に「もし」は存在しない。 彼は見知らぬ街の中に立ち尽くし、迷子になった子供のように途方に暮れていた。 それでも、探し続けるつもりだろうか? ――もちろんだ。 だが、一体どこから手を付ければいいのか? 「こんにちは。この写真の女性は、僕の妻なんです。彼女は僕に怒って家を出てしまって……どうか彼女の連絡先を教えていただけませんか?」 恭一郎は心からの誠意を込めて尋ねた。 ホテルのスタッフはしばらく迷っていたが、彼が大金を差し出すと、たちまち笑顔になり、千夏の連絡先を教えてくれた。 急いで電話をかけたが、応答はなかった。 「きっと、まだ飛行機の中なんだ……」 恭一郎はそう自分に言い聞かせた。 千夏への謝罪の誠意を示すため、彼はネット上に詳細な反省文を投稿した。 どのように間違いを犯し、どうして自分の本心に気づいたのか――それを言葉に尽くして書き綴った。 彼の謝罪文は、真摯な内容だった。 それだけではなく、彼は毎日のように新しい謝罪文を投稿し、千夏が見てくれることを願い続けた。 最初は彼を憎んでいたネットユーザーの中にも、次第に彼の心情を察し、同情し始める人が現れた。 さらには、彼を擁護する声すら出てくるようになった。 だが、千夏はそれを見ても、ただ嘲笑を浮かべるだけだった。 「もし私が出て行かなかったら、彼がこうやって謝ることなんてあったの? ないわ。きっとますます調子に乗るだけ。梓だけじゃなく、もっと多くの女性を手に入れていたでしょう。浮気っていうのは、1回だけじゃ済まないものよ」 千夏は自問自答し、苦笑する。 ――許す理由なんてあるのだろうか? いや、今の生活で十分ではないか? 彼女は長年の夢を、ようやく叶えることができていた。 海辺の宿を営み、いくつかのペットと暮らし、時折新しい友人と出会う。 何もしない日には家でのんびりと、見た景色を絵に描く。 恭一郎を離れてから、彼女の体調は見違えるほど良くなった。 病院で再検査を受けたとき、医者からも健康状態を褒められるほどだった。 千夏は目を閉じ、ネットで飛び交う噂話を気に留めることはなかった。 彼女

  • 春を迎えぬ冬   第22話

    ベッドの上のスマートフォンが「ピンポン」と絶え間なく鳴り続けていた。 送られてくるのは、ネット上の人々が提供した写真や行動情報だった。 膨大な情報の中から、どれが有益でどれが無意味なのか、恭一郎にはほとんど判断がつかなかった。 報酬目当ての人々が入り混じり、情報の精査は容易ではなかった。 いくつかの人を雇い選別を手伝わせても、それでも膨大な作業量だった。 その時、恭一郎は自分のこの計画を後悔し始めていた。 だが、他に方法がなかった。 広大なネットワークの力を借りるか、千夏が自ら何か情報を漏らしてくれるかしか、彼女を見つける手段はなかったのだ。 恭一郎はベッドに座り込み、絶望に押しつぶされそうだった。 その時、数人の秘書から数枚の写真が送られてきた。 「社長様、A国B市の教会前で奥様を目撃したという情報が入りました。すでに現地に人を派遣していますので、至急向かってください」 その報告を聞いた瞬間、恭一郎の胸に再び希望の火が灯った。 それが真実かどうかは関係なかった。試す価値がある。 彼はこの唯一の希望を手放すことなどできなかった。 千夏がいない日々は、彼にとって酸素や水を失ったのと同じだった。 彼女なしでは、1日たりとも耐えることができなかったのだ。 今まで何とか持ちこたえてきたのは、ただ意地で支えていたからに過ぎない。 最後の力を振り絞る魚のように、彼はもがき続けるしかなかった。 恭一郎は何日もまともに休んでいなかった。 千夏に会えない日々の中、彼が眠るのは、体が限界を迎えたときだけ。 短い1~2時間の睡眠を取るだけで、再び彼女の情報を追い求めていた。 A国行きの飛行機の中でも、彼は国内の仕事を片付け続けた。 飛行機が着陸し、荷物を受け取りに向かう間にも、彼は知らなかった。 その時、千夏が同じ空港で飛行機に乗り込んでいることを―― すれ違いのように、またしても二人は運命に翻弄される形となった。 千夏の飛行機が離陸した後、恭一郎は急いで教会の近くへ向かった。 付近のホテルを次々に訪ね歩いたが、千夏を見たという人には出会えなかった。 それでも諦めずに探し続けた末、ようやく小さなホテルの一つで千夏の痕跡を掴む。 「その美しい女性なら、今日すでにチェックアウトされ

  • 春を迎えぬ冬   第21話

    恭一郎の心の中で緊張がどんどん募っていく。 手のひらには冷たい汗がにじみ、落ち着かない。 長い間待ち続けたが、誰もドアを開けてくれなかった。 焦りに駆られ、彼は無意識にドアを押してみる。 だが、ドアはしっかりと鍵が掛かっていて、びくともしない。 その横には小さな黒板が掛けられていた。 そこには「本日休業」と書かれている。 最初、彼はそれを見て、千夏が自分と会うためにわざわざ休業の札を掛けたのだと勘違いした。 だが、すぐにそれが「会う気はない」という意思表示であることに気付いた。 この瞬間、彼はようやく悟る。 千夏は彼を弄んでいたのだと。 彼女は初めから彼に会うつもりなどなかった。 その事実がまざまざと突きつけられる。 ――「ごめんなさい。あなたを許すつもりはない」 宿をじっと見つめる恭一郎。 そこは彼女と一緒に海辺での生活を夢見て語り合った記憶の場所だった。 彼女は海風を感じながら、二人で寄り添い合うだけで幸せだと言っていた。 彼は彼女の夢を叶えるために、国内の沿岸にある宿をいくつも購入し、時折彼女を連れて遊びに行った。 千夏はそのたびに満面の笑みを浮かべ、驚きと喜びを隠さなかった。 彼女が褒める言葉の一つ一つが、彼の心を甘く満たした。 だが、いつからだろう。 二人で出かけることがなくなってしまったのは。 恭一郎はぼんやりと考え込む。 梓と関係を持ち始めてから、彼が千夏と過ごす時間は確実に減っていた。 あの宿にも、もう何年も行っていない。 彼女に誓った約束も、多くを破ってしまった。 後悔が胸に押し寄せ、自分自身への怒りが募る。 彼は心の中で何度も過去の自分を罵った。 ――なぜ、もっと早く気づけなかったのか。 せっかく手に入れた千夏。 彼女が不安を抱えていることも、彼女が両親のような結末を恐れていることも分かっていたはずだった。 それでも、彼は自分を抑えられなかった。 かつてはどんな誘惑にも揺らがなかった自分が、なぜあの時、守り切れなかったのか。 彼は自分を殴りつけたくなるほどの後悔に苛まれる。 ふと、火照るような金髪の女性が彼に近づいてきた。 その鋭いオーラに目を輝かせ、彼女は挑発的な笑みを浮かべる。 「ねえ、素敵な殿方。飲

  • 春を迎えぬ冬   第20話

    最初は、ネット上の人々はただ冷笑し、嘲るだけだった。 それでも、報酬に目がくらんだ何人かが、無意味な情報や証拠をわざと送りつけてきた。 だが、やがて本当に有効な情報を提供する者が現れた。 実際に報酬を手にした人が出ると、ネット上のユーザーたちは一気に熱狂し始めた。 その話は、ついに千夏の耳にも届く。 彼女の行方を知りたいという人々の声が広がる中、千夏の心には何の感動もなかった。 むしろ、わずかな苛立ちさえ覚える。 すでに身分情報を抹消しているのに、それでも彼女の決意が伝わらないのだろうか? 千夏はよく分かっていた。自分は一度終わった関係に戻る人間ではない。 そして、最初から彼を許すつもりなど全くなかった。 恭一郎の謝罪の言葉を目にしても、彼女の胸に浮かぶのはただの嘲笑だった。 彼が自分の過ちに気づいているのなら、なぜこれまで何事もなかったかのように振る舞えたのだろう? 何度も思った。いっそのこと、彼がはっきりと自分に告げてくれれば良かったのに――「心変わりした」と。 「別の誰かを愛している」と。 そうしてくれれば、きれいに終わることもできただろうに。 だが、彼はそのどちらでもなかった。 梓との関係を身体で享受しながら、心の中では千夏を愛していると言い続けていたのだ。 ――彼女を欺くのが、そんなに楽しかったのだろうか? ならば、今度は彼女が彼を弄んでみる番だ。 千夏はわざと数人に写真や行動情報を提供し、それを恭一郎に渡させた。 冷ややかな笑みを浮かべながら、彼女は時間を計り、彼より一歩早くA国行きの飛行機に乗り込む。 大洋の向こう側、鮮明な写真と詳細な位置情報が恭一郎の手元に届いた。 彼の手は興奮で震え、その顔には喜びが溢れていた。 「千夏が僕を許す気になったんだ!きっと僕が迎えに行くのを待っているんだ!」 彼はすぐさまF国行きの最短のフライトを予約し、空港へと急いだ。 しかし、同じ時間に2機の飛行機が飛び立ったが、その航路も目的地も全く異なるものだった。 F国に到着すると、恭一郎は故郷に戻ったかのような不思議な緊張感に包まれた。 彼は秘書に何度も身だしなみを確認させ、問題がないことを確かめてから、心を整え、千夏がいるという宿へ向かう。 穏やかな海風が頬を撫

  • 春を迎えぬ冬   第19話

    あの離婚届は、千夏が恭一郎に残した最後の贈り物だった。 それは、彼と完全に決別するための印だった。 皮肉なことに、今や恭一郎はその離婚届を頼りに、千夏を思い出している。 彼はそれをラミネート加工し、日に何度も手に取っては眺めていた。 「千夏……君は今、どこにいるんだ? 僕は本当に間違ってた。許してくれなんて言わない。ただ一目だけでも、君に会いたいんだ。 千夏……君を傷つけた者たちには、それぞれ相応の罰を与えた。僕自身も、こんなにも苦しんでいる……どうか、君が僕を見てくれるだけでいい」 彼はどれだけ呟き続けたのか、自分でもわからなかった。 やがて身体が限界を迎え、意識を失った。 一方、恭一郎の元友人たちの家族にとって、事態はさらに深刻だった。 千夏との離婚が公になったことで、多くの人々が「もう愛なんて信じられない」と叫んだ。 かつて多くの人々が、彼と千夏を理想のカップルとして支持していた。 彼らの愛を応援するために、蒼月グループの商品を買い続けていたファンたちもいたのだ。 しかし、離婚のニュースが広がると、その支持は一転し、猛烈な批判が押し寄せた。 蒼月グループの公式アカウントには怒りのコメントが殺到し、グループの株価は急落した。 さらに、彼と梓の写真が内部の知る人間によって暴露されると、状況はさらに悪化した。 人々は、かつての彼らの愛を信じていた自分を嫌悪し、蒼月グループの商品を徹底的に否定した。 その中でも特に象徴的だったのが、千夏への愛を込めて作られたジュエリー「ユキナツ」だった。 かつては「真実の愛」を象徴していたそのジュエリーも、今ではただの安物扱いされ、価値を失った。 海外の宝石コレクターたちは、このニュースを聞いて激怒し、「ユキナツ」を安値で手放した。 そのジュエリーを買い戻したのは、他ならぬ恭一郎自身だった。 輝くジュエリーを見つめるうちに、彼は千夏の美しい笑顔を思い出した。 このジュエリーを作る時、彼は全ての愛情を注ぎ込んでいた。 素材の選定からデザイン、そして仕上げまで、すべてに自ら携わり、トップクラスのデザイナーと協力して作り上げた、世界で唯一無二の逸品だった。 「ユキナツ」という名前も、千夏への愛を象徴していた。 ――自分は、名前のない影の存在で

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