空には星と月。澄み切った秋の空気は清々しくて……私は、この美しい夜の告白に心が揺れた。七海先生の言葉をまだ全部は飲み込めていない上に、これが現実なのかもわからない。もし、この告白が嘘じゃなかったとしても、私には先生の思いにどう答えればいいのかわからない。でも不思議だ――私は、すごく、すごく……感動していた。ねえ、七海先生、ずっと私を想ってくれてたなんて本当ですか?お見合い相手がいるのに私なんかを?そんな思いが溢れて止まらない。「僕はもうすぐこの病院を去る。それまでに返事をもらえないかな?」「えっ……でも先生にはお見合い相手の人が……」「彼女にはもう一度きちんと話すつもりだよ。初めから『好きな人がいる』って言えば良かったんだ。両親の手前、ハッキリ言えなかった自分がいけなかった。でも、僕には大切に想ってる人がいるって、今度はちゃんと話すよ。だから、藍花ちゃんは、僕への気持ちだけを考えて返事してほしい。どんな答えがきても、次は必ず覚悟を決めるから」今の私にそんな重大なことを決められる自信はない。先生がいなくなるまであと1週間。そんな短い間に結論を出せるのか?七海先生は私に微笑んでから、背を向けてみんなのところに歩いていった。それを見届ける自分に問いかける。私はこの人が好きなの?――この人と結婚して死ぬまで一緒にいたいと思えるの?と。自分の将来のことだけれど、七海先生の一生の問題でもある。本当にどうすればいい?とにかく冷静になって考えなければ、今のままでは正しい答えなんて出せるわけがない。七海先生からの申し出はとても嬉しいし、有難いことだと思うけれど、頭の中は嬉しさと不安が入り交じり大混乱していた。一旦、わざと笑顔を作り、私は一歩前に足を踏み出した。どうしようもなく複雑な気持ちを引きづったまま――
今日は月那の彼、店長の笹本 太一さんから招待を受けて、2人のお店にやってきた。何か私に話があるらしい。もしかして……と嬉しい話を期待しながら、私はお店が終わり、お客さんがいなくなった店内に入った。まずは月那にマッサージをしてもらう。ベッドに横たわり、うつ伏せになると、「疲れたよ~」と思わず本音がこぼれ出した。「任せて~。月那様が藍花ちゃんの疲れを取ってさしあげますからね~」そう言って、私の体を背中から足に向かってゆっくりと揉みほぐしてくれた。太ももからふくらはぎを滑る両方の親指に、何ともいい感じに刺激され、あまりの気持ち良さに寝落ちしそうになった。本当に、月那のマッサージは最高だ。今日は招待してくれた店長さん、月那の彼氏の厚意でマッサージ代金を無料にしてもらった。今日1日仕事を頑張ったご褒美だと思ってその気持ちに甘えることにした。「藍花、寝ちゃダメだよ!早く続きを報告して。もうずっと楽しみにしてたんだから~」月那が子どもみたいに甘えた声で言ってくる。こういうところも可愛い。リラックスできる優しい音楽とマッサージに思いっきり癒されながら、私は、中川師長から歩夢君の気持ちを聞いたこと、春香さんが歩夢君を好きだったこと、白川先生に料理を作るために部屋に誘われたこと、七海先生に告白されたこと……恥ずかしいけれど、全部隠さずに話をした。そして、明後日、白川先生のマンションに来るように言われたことも――「えー!明後日!!それ、マジヤバいね」月那は、私の話を終始興奮した様子で「それでそれで?」と、次から次へ興味津々に聞いてくれた。心に溜まっていた「整理不能なこと」を全て吐き出すことができ、この時ほど月那がいてくれて助かったと思ったことはなかった。誰かに話すことで、不思議と自分の気持ちがラクになり、少し頭がスッキリするのはとても有難いことだ。
「もう、藍花、本当にすごいよ!紛れもないモテ期が来たよね!でも何なのよ~相手がみんなビジュアル良過ぎの超イケメン揃いって、めちゃくちゃうらやましい!ううん、あのレベルはイケメンなんて言葉じゃ表せないよ。俳優?モデル?王子様?」興奮が止まらず、子どもみたいにはしゃいでいる月那に苦笑いする。「月那、手が止まってるよ」「ああ、ごめんごめん」「別にモテ期とかじゃないけど……。でも、今までずっと平穏な毎日だったから、急にいろいろ起こって、本当にどうしたらいいのか悩むばっかりで。私は月那と違って恋愛経験が乏しいからね」「まあ確かに私ほどではないだろうけど」「月那様には敵いません」「でもさ、でもさ、本当、一気に来たよね。それが「モテ期」なんだよ。藍花の人生最大のモテ期だね。ほんとに白川先生も七海先生も歩夢君も、みんないい男ばっかりだから困るよね。誰か1人を選べなんてあまりにも残酷だわぁ~」「誰か1人を選ぶ……?そんなこと、上から目線過ぎない?そういうの、月那みたいな良い女のすることだよね」「あはは。まあ、とにかくさ、いろいろまとめて起こっているから焦るかも知れないけど、まずは冷静になって落ち着いて考えてみるしかないよ」「冷静に……」「そうだよ。たぶん考えようとしてるんだろうけど、やっぱり焦ってるんじゃない?白川先生、七海先生、歩夢君、みんなのこと1人ずつ思い浮かべてさ。この人はあ~だとか、こ~だとか。たまに3人を比較してみたり。妄想したり楽しみながらさ、もっと気楽に考えてみたらいいんじゃない?前にも言ったけど、私的には白川先生が1番ドキドキするんだけどな~」妄想したりだなんて、恥ずかし過ぎる。もし月那の言ってることができたら、もっと楽しく悩めるのかも知れないけれど……私なんかが誰かを選ぶなんて厚かましい気がして、申し訳なくて、そんな風に考えられない。どうして私はこういう性格なのだろう。わかってはいるけれど、毎度毎度情けない。
本当にめんどくさい性格で嫌になる。「月那はいつも白川先生のことを推すけど……そんなに好き?」「うん、白川先生はかなりいい男じゃん。あの端正な顔立ちで、たまに見せる色気のある表情がたまんないでしょ。たくさんの女性を虜にして、全く罪な男だよね。デート中もあんなイケメンが隣にいたらずっとドキドキしちゃうし、それにさ、やっぱり夜が上手そうだよね」「ま、また言ってる。夜って……そんなことで選べないよ」「そうは言うけど、そこってかなり大事だからね。夜の相性が良い方が長続きするのは間違いないよ。私達みたいにね」「えっ、あっ、う、うん」親しいだけに、月那のプライベートを聞くのはちょっと照れる。「後、白川先生の良いところは……スタイル抜群、頭が良い、めちゃくちゃお金持ち、医師として最高の腕を持っている……みたいなことかな。性格はちょっと厳しいけど、2人でいる時は案外優しいんでしょ?」「うん……まあ、厳しかったり優しかったり……」「何かいいじゃん。もしあんな素敵な人が自分の彼氏だったらって想像するだけで最高だよ」月那にそう言われて、私の頭の中に蒼真さんが浮かんだ。2人でデートしているところを無理やり頭に描く。手を繋いだり、笑いあったり、キスしたり……ダメだ、恥ずかし過ぎて耐えられない。私は、無謀にも勝手に想像してしまった映像を急いで消し去った。まだ告白もされていないのに、調子に乗り過ぎたことを反省した。「私は別に白川先生に告白されたわけじゃないし、部屋に呼ばれたのもただ料理を作りにいくだけだから」本当にそうだ。ただそれだけのことで、決してデートするわけじゃない。「あのさ、藍花。大の大人がご飯作って食べて、はいサヨナラなんてあるわけないじゃん。美味しいご飯、美味しいお酒、ベランダから星を見たりなんかしてさ……。もうその後は『私、どうなってもいい!』ってなるんだよ、絶対に」月那の妄想はなかなか激しい。そんなことになるわけないのに。「冗談は止めて。私と白川先生はね、そういうんじゃないんだよ」
「藍花は控えめ過ぎるんだよ。そんなに可愛くてスタイルもいいんだからさ。無自覚にも程があるよ。もうちょっと胸を強調するような洋服に挑戦するとかしてさ、白川先生をドキドキさせてやりな。あ~私も白川先生のマンションに着いていきたい。それでさ、2人のやり取りを一部始終見ていたい。考えただけでもワクワクしちゃう~」月那の暴走はどこまでも果てしなく、止まることを知らない。「あのね、私は真面目に相談してるんだからね」「めちゃくちゃ真面目だってば。もちろん、七海先生や歩夢君のこともちゃんと考えないとダメだけど、だけど私はどう考えてもやっぱり白川先生なんだよね。わかんないけど何か感じるんだよ」何か感じる……曖昧ではあるけれど、その言葉には妙に説得力があった。「七海先生はちょっと優し過ぎるっていうか何か物足りないし、歩夢君は年下で少年みたいな感じがして。ま、これはあくまで私の主観だけどね。後はさ、藍花。白川先生の部屋に行ってからだよ。考えてもわからない自分の本当の気持ちがさ、案外そこでスっと出てきたりするかもよ」「そうなのかな……。本当に答えなんて出せるのかな」「七海先生と歩夢君は藍花が好き。これは決定!あとは白川先生の本心を知って、そしたら誰が1番なのかわかるかも知れないでしょ」「歩夢君には直接告白されたわけじゃないから……。でも……うん。とりあえず、月那のアドバイス通りに頑張ってみるよ」「そうだよ、頑張れ!応援してるから。ファイト!」「ありがとう。マッサージも気持ち良かったよ」「どういたしまして。今日は興奮していつもより力が入っちゃったかもね」「確かにね」私はマッサージを終えて、着替えを済ませ部屋を出た。待合室には店長であり、月那の恋人の笹本さんがいた。「藍花ちゃん、お疲れ様」「あっ、今日はありがとうございました。月那のマッサージ、とっても気持ち良かったです。本当に代金はいいんですか?」「もちろんだよ。今日は俺達の招待だから。あのさ、ちょっと藍花ちゃんに報告があってね」笹本さんは、妙に改まって少し顔が強ばっている。緊張しているのが伝わり、私までドキドキしてきた。まだ心の準備は万端ではないけれど、私は次の言葉に期待した。「藍花ちゃん!!」「は、はい!」その勢いにつられてしまい、思わず元気よく返事してしまった。
「お、俺達、結婚するんだ。藍花ちゃんは月那の親友だし、2人から直接報告したくて」期待通りの言葉に胸が一気に熱くなる。「月那、お嫁さんになるの?」私の問いかけに、月那は嬉しそうにうなづいた。「すごい!そうなんだね!すごく嬉しいよ、すごく……」その瞬間、今までのいろんな思いが溢れ出し、自然に涙がこぼれてしまった。「ちょっと、何で泣くのよ~。私までもらい泣きしちゃうじゃん」「だって、だって、こんなに嬉しい報告、感動しちゃうよ」私は、幸せな月那が愛おしく思えて抱きついた。2人で泣き笑いする。「おいおい、俺を放ったらかしにしないでくれ~」笹本さんが冗談ぽく言いながら笑った。「あっ、放ったらかしちゃいましたね。すみません」みんなの笑い声が部屋中に響いた。「あの、ところで結婚式はいつなんですか?」私は2人に訊ねた。「ああ、それが……」笹本さんは頭を掻きながら、言葉を濁している。「あっ、ごめん。式はしないつもりなの。指輪の交換をするくらいかな。新婚旅行も行かないし。私はこの人とここで毎日一緒にいられたらそれで満足だから」月那が笹本さんをフォローした。「そうなんだね。うん、2人が決めたことなら。ごめんね」「そんなの謝らなくていいよ。本当は藍花を結婚式に招待したかったけど……私達のスタイルでいかせてもらうね」「もちろんだよ」確かに2人のことだから、それでいいと思う。だけど、月那はそれで寂しくないのだろうか?前に、花嫁に憧れていて、ウエディングドレスを着てみたいと言っていたし、月那みたいな美人のドレス姿、本当は少し見てみたい気もする。それはあくまで私の願望。でも、その選択はある意味カッコいいのかも知れない。月那らしい……というか。「式も新婚旅行も要らないって月那が言うから甘えたけど、男としては宇宙旅行に行けるくらい貯金して、いつか必ず月那を月に連れてくつもりだから」「月?!すごいじゃないですか!めちゃくちゃロマンチックですね」夢を語る笹本さんの思い、本当に素敵だと思った。「でも、月那だけに『月』だなんてさ、単純だよね~。宇宙旅行なんか何十億かかると思ってるんだか。宝くじが当たっても無理だよね」そう言われて、笹本さんは照れながら笑っている。
見つめあう2人がとっても素敵で……ただでさえ美人の月那が、今までで1番綺麗で可愛く見えた。「笹本さん、月那のこと絶対に幸せにして下さいね。もし泣かしたらこのマッサージ店に二度と来ませんからね」「うわっ、上得意様に来てもらえなくなったら困るしな。わかりました、月那のことは絶対に泣かしません!」「って、私が太一を泣かすかもだけどね~」「そうなんだよ~。月那は怖いから、俺が泣かされるかもなぁ。でも、その時は藍花ちゃんに助けてもらお」楽しく軽快なやり取りの2人を見ていたら、こっちまで幸せな気持ちになる。本当にお似合いのカップルだ。「俺達、絶対に幸せになるからさ。だから藍花ちゃんも必ず幸せになってくれよな。月那の大切な人が不幸になるのは嫌だからさ」筋肉いっぱいの笹本さんからの優しい言葉。そのギャップがちょっと可愛く見える。「ありがとうございます」「月那からちょっと聞いてるけど、今、藍花ちゃん、めちゃくちゃモテモテらしいね」「えっ、モテモテなんて、そんなことないです」月那がどんな風に私の恋愛話をしているのかわからないけれど、この言葉はかなり恥ずかしい。「絶対に良い男を捕まえるんだよ。藍花ちゃんみたいな良い女が妥協したらもったいないし、本当にこいつ!って思えるやつが現れるまでゆっくり待った方がいいよ」笹本さんが真剣な表情で言ってくれた。「良い女じゃないです。でも……ゆっくり待ってたら、このまま一生結婚できないかも知れません」「そんなことはないよ。藍花ちゃんは本当に可愛いんだから自信持った方がいいって」「そうだよ、藍花。本当に自信持たないと損だよ。太一の言う通り、あなたはめちゃくちゃ可愛いんだから」やはりなぜか月那に容姿を褒められるととても嬉しい。「2人に言われたら嬉しいけど……でも……」「でもじゃない!俺達がついてるから大丈夫!ちゃんと良い奴と出会って恋愛して結婚してほしい。俺達はずっとここで店やってるから、何かあったらいつでも飛び込んでくればいいよ」「そうだよ、いつでも来な」この安心感に溢れた優しい2人に勇気をもらえた気がする。明後日、蒼真さんと会って、改めてちゃんと考えようと思う。答えが出せるかはわからないけれど、でも何だか今は前向きになれている。この感情は間違いなく2人のおかげだ。月那……「笹本 月那」になっても、ず
ついにここまで来た。蒼真さんが一人暮らしをしているマンションに――かなり有名な建築家の設計らしく、きっと家賃も高いに違いない。こんな素敵で立派なマンションに、私なんかが足を踏み入れてもいいのだろうか。場違い感が半端ない。私は、フゥーっと大きな息を吐き、意を決して1階ロビーで蒼真さんの部屋の番号を押した。「はい」「あの……は、蓮見です」「上がって来て」「は、はい」オートロックが解除され、目の前の自動ドアが開く。そこを通り、奥のエレベーターで最上階へ。降りるとそこには部屋がひとつしかなく、蒼真さんが待っていてくれた。壁にもたれ、腕組みをしながら――「こ、こんにちは」かっこよ過ぎる……我が目をうたがいたくなる程に美しく、その立ち姿にため息が漏れる。白いシャツとブラックジーンズ。足の長さに改めて驚き、もはや人気雑誌のオシャレなモデルにしか見えない。ここは本当に「白川先生」の部屋なのか?私はどこか違う世界にでも迷い込んだのではないだろうか?「よく来たな、待ってた」体勢を変え、こちらに近寄ってくる蒼真さん。その圧倒的な存在感に思わず2、3歩後ずさる。「あっ、あの、本当に来て良かったんですか?こんな立派なマンションに私なんかが……」「もちろんだ。来てほしくなかったら絶対に呼ばない」「……あ、ありがとうございます」蒼真さんの甘いセリフに戸惑い過ぎて「ありがとうございます」なんて、意味不明なことを言ってしまった。月那にいろいろ言われ過ぎて、昨日からずっとドキドキが止まらない。会ってすぐの蒼真さんの一つ一つの言動に、すでに心が大きく揺れてしまう。きっと今の私は、かなり挙動不審に見えるだろう。「あの、言われたように買ってきました」私は、今夜の食事の材料をすぐ近くのスーパーで揃えた。高級志向のスーパーではあったけれど、蒼真さんに恥ずかしくないものをと、時間をかけて丁寧に選んだ。「悪かったな。ありがとう」蒼真さんは、そう言って大きめのマイバッグをサッと持ってくれた。こういうところがすごくジェントルマンだと思う。
「私はまだまだこれからですよ。深月総支配人はもうご立派です。いつもアドバイスをいただいて感謝しています」「こちらこそ七海様には感謝しております」そう言ってから、総支配人さんは私を見た。その美しい顔立ちには女性である私でさえドキッとする。「では、蓮見様。これで失礼致します」「あっ、はい。お声がけをいただいてありがとうございました」「七海様から『明日は大切な人と伺います』とお聞きしておりましたから。本日はお会いできて光栄でした」「た、大切な人……?」七海先生はそんな紹介の仕方をしたのか?まさかこんな私を彼女や結婚相手と間違えることはないと思うけれど……「七海様の大切な方なら私どもにとっても大切なお客様です。またいつでもグレースホテル東京にお越し下さい。お待ちしております」総支配人さんの笑顔が眩し過ぎて照れてしまう。すぐ近くに超ド級のイケメンが2人もいて、その間に挟まれている私はいったい何者なのかわからなくなる。どちらからも良い匂いがするうえに、モデルみたいにキラキラ輝いてる人達と一緒にいるこの状況には全く現実味を感じられない。「あっ、はい、すみません。お気遣いありがとうございます」確かに、昔から憧れていたこのホテルにはまた来たいと思う。だけど……これから先、七海先生と一緒に来ることは二度とないんだ。大切な人だと紹介してくれた先生の想いを考えると、急に胸が苦しくなった。私達は総支配人と別れ、ラウンジに向かった。静かな時間が流れる素敵な空間の奥の席に座り、飲み物を注文する。数分して、七海先生の前にはブラックのコーヒーが運ばれ、私は気持ちを落ち着かせるために温かい紅茶を選んだ。上品で可愛いカップに口をつけ、ゆっくりと1口。とても美味しくて癒された……のもつかの間、なぜか少しの沈黙に気まずい空気が流れた。
グレースホテル東京――要人も利用する世界的に有名な最高級ホテル。待ち合わせの場所を聞いて少しはオシャレをしてきたつもりだけれど、これでは七海先生と全然釣り合わない。見た目の違いに恥ずかしさを感じながらも、このホテルには1度来てみたかったから、宿泊は無理でも、ラウンジでお茶を飲めるだけで満足だった。「藍花ちゃんにそう言ってもらえて良かった。僕はここのホテルがとても好きでね。子どもの頃からよく利用してるんだ」子どもの頃からよく……やはり七海先生もとんでもないお金持ちだ。こんな一流ホテルを何度も利用できるなど、生活レベルがあまりにも違い過ぎて驚く。本当にうらやましい限りだ。「私は七海先生とは違って初めてで……。だから、先生からここで待ち合わせと聞いて、かなりテンションが上がってしまいました」幼稚なカミングアウトをしている自分が恥ずかしい。「そうだったんだね。それを聞いて安心したよ。待ち合わせ場所、どこが良いのかずいぶん悩んだんだ。僕はここのホテルに来るとホッとするから……だから、ぜひ藍花ちゃんにも良さを知ってもらえたと思って。格式高いホテルだけど、飾らずにとても温かく迎えてくれるんだよ」「そうなんですね。本当に、先生のおかげでこんな素敵なホテルに来ることができて嬉しいです。ありがとうございます」「いらっしゃいませ、七海様」えっ、だ、誰?!私は、突然現れた謎の超イケメンに目を疑った。「こんばんは。深月(みつき)総支配人」総支配人さん……?こんなにカッコ良いホテルマンは今まで見たことがない。「蓮見様も、よくいらして下さいました。七海様から伺っております」「えっ、あっ、はじめまして。とても素敵なホテルですね。さっきからずっと感動しています」「お褒めいただきありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」「あっ、はい。ありがとうございます」「七海様。最近は少しご多忙なようですね」総支配人さんは、七海先生に話しかけた。この2人のツーショットはかなり目を引く。「はい。最近、父の病院で働くことになって、まだまだ全然慣れなくて……今は毎日必死です」七海先生は苦笑いした。「お父様も先日いらして下さりお聞きしました。七海様と一緒に仕事ができると大変喜んでおられましたよ。私もいつかは父と……とは思っていますが」スラッと背が高く、
あれからしばらくして七海先生は病院を去った。そのせいで産婦人科の看護師達は少しモチベーションが下がってしまった気がする。それだけ先生は素晴らしい人格者だったから。でも、新しく配属になった先生も腕の良い女医さんで、みんなで新しい命のため、患者さんのために一致団結してスタートしていた。私も、気持ちを新たにして頑張る決意をした。仕事に関してはそう思えていたけれど、プライベートのことはまだ解決できていなかった。早く七海先生に返事をしないと――結局、お互い忙しく、約束の1週間はとっくに過ぎてしまっていた。明日は私が休みで時間が取れることもあり、勇気を出して自分から七海先生に連絡してみた。先生はこの前の返事をしたいという言葉を受け入れて、快く会うことを承諾してくれた。何だか、今からとても緊張する。あの時、七海先生は精一杯告白してくれた。だからこそ、私も誠意を持って本当の気持ちを伝えたい。七海先生に会うことは、もちろん蒼真さんにも了解を得た。『2人きりで会うことには抵抗があるけれど、藍花の気持ちをちゃんと七海先生に伝えてほしい』と言われた。そして……次の日の夜、私は七海先生に久しぶりに会った。「こんばんは」先生は、今日はグレーのスーツ姿だった。とてもスタイルが良くて、タイトめのスーツが良く似合っていて素敵だ。そんな眼鏡の超イケメンを、周りの女性達が気にしていないわけがなかった。「あの人、めちゃくちゃカッコ良いんだけど」「うわぁ、色気あり過ぎ、ヤバい」聞こえるように言う女性達は、みんな美人揃いだ。どこにいても目を引くその容姿は、蒼真さんもだけれど、華があり過ぎる。本人は言われ慣れているのだろうか、まるで眼中に無いみたいに振舞っていた。「こんばんは。藍花ちゃん、来てくれてありがとう。会えて嬉しいよ」「こんな素敵なところに誘っていただいて嬉しいです」
確かに私に対する発言はキツ過ぎる。今の春香さんには言葉を選ぶ余裕がなかったのだから仕方がない……とはいえ、やはりまだ胸が痛む。この感覚を表現するのはとても難しいし、今まで味わったことがない。私も、本当なら春香さんの気持ちを理解してあげたいけれど、まだ自分がそれほど強くないことも、残念ながら同時に実感していた。今夜の告白……歩夢君の気持ちを受け入れられないことはとても申し訳ないと思う。歩夢君に対して私はどうすればいいのだろうか?わからない……私にはわかるはずがない。今はただ、与えられた目の前の仕事をしっかり頑張るしかない。きっと、それしか……ないと思う。とにかく、自分ができることを一生懸命頑張っていたら、いろいろなことが良い方向に動いていくような気がするから。大丈夫。絶対、みんな大丈夫――いつか歩夢君も素敵な人を見つけて必ず幸せになれる。七海先生にも、私の気持ち、ちゃんと言わなければいけない。先生にも、幸せになってもらわないと困るから。2人とも、私にはとても大切で、特別な人達。だから、ずっとずっと笑顔でいてほしい。いつだって笑っててほしいんだ。勝手だけれど、そう願わずにはいられなかった。
「どうだか。私は来栖さんには告白しません。フラレるの嫌ですから。あやうくあなたの罠にはまるところでした」「罠にはめるなんて、私、絶対にそんなことしないから」「あなたみたいな男たらしを好きになるなんて、来栖さんが可哀想です。その正体をバラしてやりたいです。早く誰かと結婚してさっさと看護師辞めて下さい。その方が来栖さんは幸せになれます」「春香さん……」「私、あなたの顔を見たくないので仕事に戻ります」言いたいことだけを言って、春香さんはその場を去った。靴音が消え、誰もいなくなり、全ての音が無くなった。ポツンと1人。静寂の中で、どうしようもない深い悲しみに襲われる。どうしてそんなひどいことが言えるのか……?看護師を辞めろなどと、なぜ春香さんに言われなければならないのか?私は、悔しくてつらくて、両手のこぶしを握りしめながら泣いた。冷たい雫がどんどん頬をつたって落ちていく。ほんのしばらく、私は人を責める気持ちに支配された。「……ダメ。こんなことで泣いてちゃ……ダメだよ」私は、自分の心に言い聞かせ、冷静になれるよう数回深呼吸した。無理をして口角を上げ笑顔を作る。脳に、「私は大丈夫、元気だから」と錯覚させるために。今、春香さんに腹を立てても仕方がない。私にはまだ大切な仕事が待っているんだから。患者さんのために、私ができることは「笑顔」で励ますこと。私にはそれしかできないから――その時、頭の中に蒼真さんが浮かんだ。私を優しく抱きしめて微笑む姿。一気に気持ちが晴れていく……そうか……春香さんは、歩夢君を好き過ぎてあんなことを言ってるだけなんだ。きっとそうだ。もし白川先生が私以外の誰かを好きだと聞いてしまったら……私も、春香さんと同じように苦しくなるに違いない。誰かにヤキモチを妬いて、憎んでしまうかも知れない。いや、それだけでは済まない、私はきっと……闇の中に閉じ込められてしまう。気持ちが自分で上手くコントロールできなくて、時々おかしくなることだって……好きな人を想うとは、そのくらい大変なことだ。今、私が蒼真さんを好きな気持ちを考えれば、春香さんの心情もわかるはずなのに、ついカーッとなってしまった自分が恥ずかしい。
「じゃあ、僕、帰ります。今日、藍花さんと話せて良かったです。ちゃんと自分の気持ちを伝えられたから。ずっとどうしようか悩んでたんで、本当に良かったと思ってます。明日からまた……仕事頑張りますね」歩夢君は、満面の笑みを浮かべて帰っていった。そうやって無理に笑ってくれていること、さすがの私にもわかる。上から目線かも知れないけれど、私は心の中で「好きになってあげられなくて……ごめんなさい」とつぶやいた。「ひどいですよね、そういうの」「えっ!」私の前に、突然出てきて冷たく言い放ったのは春香さんだった。心臓が止まるかと思った。「もしかして……聞いてたの?」「私も今、休憩中ですから。ここは別にあなたのためだけにあるわけじゃないですよね?」確かにそうだ。言い返す言葉がない。「全部聞いた?春香さん、私はね……」「藍花さんの好きな人は白川先生ですか?」「えっ!」「それとも七海先生?」春香さんの冷たい視線が私の胸に突き刺さる。「ごめんね。そういうの、プライベートなことだからあんまり答えたくないの」私は嫌な女だ。もし誰かに言いふらされたらどうしよう……と、春香さんを信じ切れない自分がいる。万が一、私のことで蒼真さんや七海先生に迷惑はかけられない。もちろん、歩夢君にも。「ズルいですよね。ちょっと可愛いからって手当り次第に男を惑わせて。本当に……いやらしい人」「春香さん、その言い方はさすがにひどいよ」「ひどいって……だって本当のことですよね?あなたは実際来栖さんを惑わせてる。色目を使って誘惑しておいて、平気でフッてしまうなんて」「色目なんて……使ってないよ」容赦ないトゲのある言葉に心が痛くて苦しくなる。「蓮見さん、私に来栖さんに告白しろって言いましたよね。来栖さんの気持ち知ってて、私に告白させてフラレるのを見たかったんですよね?本当に最低。信じられない性悪女」「ちょっと待って。知ってて言ったわけじゃないよ。フラレるのを見たいなんて、そんなことして楽しいわけないじゃない」私は、春香さんに、そんなことを平気でする人間だと思われているんだ。だとしたら、すごく悲しい。
「手の届かない人なんて、そんなことはないよ」私は大きく首を横に振った。「藍花さんは高嶺の花ですよ。みんなの憧れだし。あなたは男女問わず、誰からも好かれてます」「や、やめて。そんなんじゃないよ」あまりにも大げさな言葉に、ものすごく恥ずかしくて顔から火が出そうだった。「藍花さんは本当に素敵な人です。側にいるだけで幸せになれる。その笑顔を見ると元気にもなれます。藍花さんは自分がどれだけ美人なのか、わかってないんです。ほんと、もったいないですよ」「そんなこと……」「人気者の藍花さんを独り占めしちゃいけないし、できるなんて思ってません。だから……このままで充分です。ただこのまま……あなたを好きでいさせてください。お願いします」直立不動で顔も強ばって、それでも、瞳を潤ませながら一生懸命想いを言葉にしてくれた。こんな私に「ただこのまま好きでいさせて」なんて……何だか胸がキュッとなった。だけど……私の気持ちは変わることはない。私は、どんなことがあっても蒼真さんが好き。その想いは揺らぐことはないんだ。歩夢君の気持ちはすごく嬉しい。でも、今、ちゃんと言わなきゃいけない。「歩夢君……。そんなこと言わないで。歩夢君のこれからの人生だよ。1度しかない大切な人生なんだから、もっとちゃんと考えてほしい。私のことを想い続けるなんて……ダメだよ、そんなこと」私は想いを必死に伝えた。「すみません、迷惑ですよね。やっぱりそうですよね……僕なんか相手にできませんよね」うつむく歩夢君。「め、迷惑とかじゃないよ。歩夢君がもし本当に私を好きになってくれたなら……やっぱり嬉しいし、有難いって思う。だけどね……」「藍花さんには、誰か他に好きな人がいるんですよね。わかってます。藍花さんみたいな素敵な人に彼氏がいないわけ、ないですから。それくらい、わかってます」悲しい顔をする歩夢君を見てはいられない。誰かの気持ちを拒否することが、こんなにも苦しいことだなんて思いもしなかった。「ごめんね。でも、ちゃんと言わなきゃダメって思うから言うね。私……私ね、好きな人がいるよ。だから……」「だ、大丈夫です!わかってます、わかってますから。もう、本当に大丈夫です」歩夢君は私の言葉を遮って、それ以上続けさせてはくれなかった。心の中が罪悪感で満たされる。歩夢君……ごめんなさい、本
「歩夢君、急にどうしたの?」「すみません、藍花さん。休憩中なのに呼び出してしまって……」この前、ここで蒼真さんと見た景色。今日はかなり曇っていて、星も見えず、空が少し悲しそうに見えた。「ううん。歩夢君、さっき仕事終わったばっかりなのに大丈夫?今日は結構ハードだったから疲れたでしょ?」「確かにちょっと疲れましたよね。新しい入院患者さんも多かったですし」「そうだね。歩夢君、患者さんにずっと笑顔で接してあげてて、みんな絶対安心してるよ。ほんとにいつもすごいよ」「いえいえ。藍花さんもずっと笑顔でしたよ。僕、勝手に藍花さんの笑顔に元気もらってましたから」「そ、そんな……私、色々テンパってしまって、結構失敗しちゃったから。ほんと、ダメだよね。いつも焦ってしまって、なかなか冷静に行動できなくて。あっ、ごめん。変なこと言って。歩夢君、何か話があったんでしょ?」「あっ、は、はい……あの……」口ごもっている様子を見ると、いつもの明るい歩夢君らしくなくて心配になる。「歩夢君?どうかした?」「……藍花さん。僕……」黒縁メガネの奥の瞳がうるうるとして、思い詰めたような表情がすごく切ない。悲壮感もあって、まるで今日の空みたいだった。「僕、藍花さんに迷惑かけたくないのに、だけど苦しくて……もう、我慢できないんです。ダメだとわかってても、吐き出してしまいたくて」「歩夢君……?」「……」「ねえ、何か悩んでるなら話して。一応、私は先輩だし、歩夢君が悩んでるなら一緒に考えるよ」ただならぬ雰囲気に、本気で力になりたいと思った。「違うんです!そういうことじゃ……ないんです」「えっ?」「仕事の悩みとか、人間関係とか……そういうんじゃなくて」「う、うん」「僕の勝手な想いです」「か、勝手な……思い?」よくわからないけれど、歩夢君は私の言葉にうなづいた。「僕……」やはり上手く言葉を続けられずに、落ち着かない様子で眼鏡を触る。「う、うん。大丈夫、ゆっくりでいいから」「……はい。あの……ぼ、僕が……」「……」思わず息を飲む。何を言われるのか、ドキドキしてしまう。「僕が藍花さんのことを好きだっていう自分勝手な想いです」「えっ……?あ、歩夢くん?」突然の言葉に動揺が隠せない。確かに中川師長の話を聞いてはいたけれど、本当なのかわからなかった。病院で
「もう一度……」私は、ゆっくりうなづいて、蒼真さんと同じ思いだと意思表示した。「藍花……」「蒼真……さん。ああんっ!」名前を呼んだ後、私はたまらず節度の無い声を出してしまった。こんなどうしようもない私を、蒼真さんは強く強く抱きしめた。壊れそうなくらいに――お互いの腕が相手の背中を包む。愛おしくて、狂おしくて……私は、蒼真さんの前で泣いた。「藍花、お前を一生離さないから。ずっと側にいろ」「あなたの側にいたい。ずっと……」「藍花、お前は俺の大切な人。俺の彼女。絶対誰にも渡さない」そう言って、蒼真さんは再び腰を激しく動かし、2人は体で愛を誓った。「最高だった。藍花」私を優しく立たせ、シャワーで私の全身を洗ってくれた。柔らかなバスタオルで優しく拭きあげ、ほんのり良い香りがする新しいバスローブを着せてくれた。「今日は初めから藍花を抱くつもりだった。でも、もちろん、体だけが目的なんじゃない。お前の心も体も、俺は全てが欲しかった。だから絶対に誤解するな。体だけなら、俺はお前に告白なんかしない。いいな」その真剣な眼差しを決して疑いたくはなかった。「はい。蒼真さんのこと信じたいって……思います。まだ自分に自信はないですけど、でも、私は蒼真さんのことが好きだって……心からわかりましたから」蒼真さんは、私のほっぺにキスをすると、背中に手を添えて、「明日はお互い休みだから、2人で一緒に眠ろう」と、ニコッと微笑んでくれた。私達は蒼真さんのベッドに横たわった。このまま2人で夜明けを迎えるなんて――夢のような現実を完全に受け止めるのには、まだもう少しだけ……時間がかかりそうだ。