「お、お仕置!?」「ああそうだ」お仕置なんて言葉を久しぶりに聞いた。そんなことを言われたら、絶対に間違えられない。ただ名前を呼ぶだけなのに、このプレッシャーはいったい何なんだろう。「き、気をつけます。でも、緊張してしまって、上手く呼べるかわかりません」「何度か呼べば慣れるから」「な、慣れません……きっと」「俺のお願いが聞けないの?」「そ、そんなことはありません。ただ……」「ただ?」「……すみません、よくわかりません」「すみませんなんて言わなくていい。謝るな。藍花はずっと俺の前でも笑ってろ。お前の笑顔は患者さんを幸せにするんだ。だから、いいな」私の笑顔が患者さんを幸せにする?白川先生……いや、蒼真さんは、本当にそんな風に思ってくれているのだろうか?素直に喜んでいいのか、とても戸惑ってしまう。確か、七海先生も私に笑っててほしいと言ってくれた。私の笑顔に何があるのか?今までなるべく笑顔を絶やさずに頑張ってきたのは、笑っていると、きっと良いことがあると思っていたから。そうやって頑張ってきたからこそのご褒美なのだろうか。平凡だった日々、とにかく仕事に一生懸命だった日々、恋愛なんて無理だと思っていた日々……そんな日常が、突然予想もしない方向に進み出している。現実なのか、それとも非現実なのかーー目まぐるしく展開するこの状況を早く受け入れたいのに、なぜかマイナスにしか考えられない。それに、もし、この状況をプラスに考え過ぎて調子に乗ってしまったら、後々とんでもないことになるような気もして……自分に自信がないということは、何だか悲しい。「蓮見 藍花!!」「は、はい!先生」突然のフルネーム呼びに再び驚く。「また言ったな。先生って呼んだらお仕置だって言ったのに」「えっ!!でも今のはちょっと誘導された気がします」「言い訳は無しだ。お仕置だな」「そんな……」「俺の言うことを聞かなかった藍花が悪い。罰として、今度俺の部屋に来て夕飯を作ること」「えっ?!へ、部屋に?」一体どういうことなのか?あまりのことに何が起こったのか理解できない。
「あの、蒼真さんの部屋って……どういうことですか?」「俺のマンションは知ってるな?ここのすぐ近くの」患者さんに何かあった場合にすぐに駆けつけたいと、近くに住んでるのは病院内でも有名な話だ。白川先生はかなり高級で家賃が高そうなマンションに住んでいると、みんながたまに興味津々に噂している。「はい……知ってます」私は、恐る恐る答えた。「仕事終わりに来てくれ。料理は何でもいいし、好き嫌いは特にない。冷蔵庫には何もないから買ってきてほしい。調味料はある」「そ、そんなこと急に言われても困ります」「なぜ困るんだ?」「え……なぜって……」「彼氏がいるから?」「か、彼氏なんていません!私に彼氏なんているわけないです。そ、蒼真さんにこそ彼女がいたりするんじゃないんですか?」流れに任せて聞いてしまった自分に驚く。「彼女……いると思うのか?」蒼真さんは、意地悪そうな笑みを浮かべて私を見た。「そ、それは……はい、きっと素敵な彼女さんがいるんだろうなって思ってます」こんなにイケメンなんだから、彼女がいないわけがない。絶対いる……に違いない。でも不思議だ。知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちが湧き上がるのはなぜなんだろう?「藍花は俺のブライベートを勝手に想像してたのか?」蒼真さんは、長身の腰を曲げて、そのとてつもなく整った顔を私の目の前まで近づけた。フッとさりげなく良い香りがしたその瞬間、私はフラッと倒れそうになった。「べ、別に想像とかしてません。っていうか……その、あの……」言い訳しようとしたけれど、指摘された通りだったせいで上手くごまかせなかった。蒼真さんのことを考えていたと知られたら、とても恥ずかしくなる。「考えてたんだろ?俺のこと」「……蒼真さん、本当に意地悪です」「いない」「えっ?」「俺、彼女はいない。だから……部屋においで」熱い吐息と共に私の耳に流れ込んできたそのセリフは、私の胸を瞬時に熱くし、キュンとさせた。甘く囁く声にドキドキが止まらず、蒼真さんに対して閉ざしていた壁が少しだけ崩れた気がした。
この人の言葉のパワーには人を魅了する力がある。魔法みたいに恐ろしく、簡単に他人の心を掴む。蒼真さんのこういう甘いセリフ……もしかしたら誰にでも言ってるのかも知れない。私だけではなく、他の女性にも……疑いや不安な気持ちが溢れているくせに、こんなにも体が熱くなるのはどうしてなんだろう?「蒼真さん。私、どうしたらいいんですか?」「俺、何か難しいこと言った?藍花が俺の部屋に来て食事を作る。ただそれだけだ。簡単なことだと思うけど」「簡単なんかじゃないです。私が蒼真さんの部屋に入るなんて、そんなの有り得ないですよ」「何を言っても無駄だから。お仕置だって言っただろ。俺は部屋に女性を入れるのは初めてだ。でも、それがお前で良かったと思ってる」「蒼真さん……?」「時間が合う時に声かけるから」部屋に入れる初めての女性が私だなんて、そんなこと信じられない。この人を、いったいどこまで信用すればいいのかわからない。「あ、あの!私、やっぱり行けません。こんなの変です。私以外の女性を部屋に入れたことがないなんて、さすがにそれは嘘ですよね?」看護師が医師を疑うようなことを言っていることに戸惑いながらも、つい心に思った言葉をそのままぶつけてしまった。「俺の言うことが信じられないのか?会社で言えば俺はお前の上司だ。命令は絶対だから、断るな」蒼真さんの言い方が少し怖かった。「でも……」「でもじゃない。藍花が俺を信じてくれたら、俺はお前を絶対に守る。それが上司の務めだ」蒼真さんは、上司だから私を守ってくれている?「仕事の上ではもちろん信じてます。だけど、プライベートは……私、蒼真さんのこと何も知らないから……」「だったら教えてやる。俺のこと全部」その瞬間、必死に冷静を装っていたはずのハートが撃ち抜かれた気がして、これ以上、自分の心臓がもたないと体が悟った。厳しかったり、優しかったり、甘かったり……蒼真さんはズルい。この人は、私の感情を弄んで、楽しんでいるのかも知れない。
「私……本当にどうすればいいんでしょうか?」「何も心配せずに来てくれればいい。藍花の作る料理、楽しみにしてる」「えっ……あっ、はい……わかり……ました」ドキドキしながらも、気づけば私は蒼真さんの部屋に行くことを了承してしまっていた。なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。「いい子だ。必ず来てくれ。待ってる」蒼真さんは、私の頭を2回ポンポンしてから、優しく微笑んで立ち去った。白衣のポケットに片手を入れて歩く後ろ姿。その背中を見送っていたら、急にサッと振り返り、もう片方の手をあげて挨拶してくれた。じゃあな――そう言ってくれた気がした。気づけば足音も消え、私はその場に1人取り残された。水を打ったような静寂の中、頭の中は蒼真さんのことでいっぱいになっていた。「私……蒼真さんのためにご飯を作りに行くの?本当にマンションの部屋に入っちゃうの?2人きりになるの?」口に出して頭を整理したかったけれど、到底、現実のこととは思えず放心状態になる。いったい何が起こってるんだ?私は、もう一度大きな窓から見えるキラキラした世界を見つめた。「藍花、落ち着け、お願いだから落ち着いて……」蒼真さんが私を女として見ているわけがない。きっと、ご飯を作ってくれるお手伝いさんか何かみたいに思ってるに違いない。「そうだよ。お手伝いさんなんだ。ただのお手伝いさんなんだから、何も考えずに気楽に行けばいいんだよね。そう……だよね。うん、そうだよ」そう何度も自分に言い聞かせ、私は大きく息を吸い込んだ。そして、目の前に広がる大きな窓にゆっくりと……その息を吐いた。一部分、白く曇った窓ガラスに指で書く。「大丈夫」――と。
今日は、久しぶりに中川師長に誘われて食事をしている。ここは、本格的なイタリアの家庭料理とワインが味わえる、特にパスタの美味しいお店だ。「今日は私だけなんですか?」「そう、藍花ちゃんと2人でゆっくり話したくてね」「あっ、ありがとうございます」中川師長は、一人暮らしの私にたまに声をかけてくれる。いつもは他の看護師や歩夢君がいるのに、今日は私1人。何か特別な話があるのか、少し緊張してしまう。食事が進み、しばらくして、「藍花ちゃん、今、恋人はいるの?」と、改まった様子で聞かれた。「えっ、いえ……残念ですけど、特に決まった人はいません」「そう。じゃあ、好きな人は?」師長にこんな質問をされるとは思わず、どう答えていいのか悩んでしまう。今、1番、私がよくわからなくて困ってることだから。急に声をかけてもらうようにはなったけど、それはいわゆる告白ではない。何が何だかわからない状況に未だ謎だらけだ。「すみません。あんまり自分でもよくわからなくて。好きな人がいるって……ハッキリとは言えないです。でも、いないとも言えないというか……。本当に自分の気持ちがわからないんです」「あら、そうなのね。難しいところよね」「難しいとこる?あの……それってどういう意味でしょうか?」「ごめんなさいね。私ね、結構わかるのよ、男と女のこと。まあ、長いこと生きてるとね、いろいろ」師長は、そう言って赤ワインを1口飲んだ。「そ、そうなんですね……」「ねえ、藍花ちゃん。外科の白川先生、どう思う?」あまりにも突然に蒼真さんの名前が出て、思わず叫びそうになった。「し、白川先生ですか?」冷静さを装っているけれど、師長に何かを見抜かれているようでおどおどしてしまう。「ええ。そうよ、白川先生」
いつも明るい中川師長の顔は真剣だった。まさか、今日は私と恋愛話をしたかったのだろうか?「白川先生はちょっと怖い存在です。私のこと、いつも呼び捨てですしね」「そうよね。確かに、藍花ちゃんだけ「蓮見」だもんね。でも、私はね、白川先生が厳しくしてるのは藍花ちゃんに期待してるからだと思うわよ。立派な看護師になってもらいたいと思うからこその厳しさ……つまりは1番気にかけてるってことだと思うわ」「そんなことありません!私を1番気にかけてるなんて。白川先生は、私が失敗したり、ちゃんと仕事ができないから……だから、注意してくれてるんだと思います」本当にそうだ。仕事上、頼りないと思うことはあっても、期待なんてするはずがない。「どうしてそう思うの?」「どうしてって……」「そんなマイナスな感情じゃないわね。私からしたら、白川先生の言葉は、藍花ちゃんに「頑張れ」って言ってるように聞こえるわ」「えっ」「あの先生、あんなイケメンなのに意外と奥手なのよね。私にはわかるの。女性に対してシャイというか。ほら、それに好きな子には意地悪したくなるっていうじゃない。それもあるわね。あれだけ素晴らしい腕を持った無敵の外科医でも、まあ、ちょっと子どもみたいな可愛いとこもあるのよね、きっと。とにかく……白川先生は、藍花ちゃんを気にしてるわ」中川師長の言葉は、一つ一つに重みがあって説得力がある。だけど、あんなに超絶イケメンで、スタイルも頭も良く、ハイスペックな御曹司の白川先生が、私を気にしてるなんて……そんなこと、素直に受け入れられない。病院には私よりすごい看護師がたくさんいるから。「でもね、藍花ちゃん。確かに、白川先生みたいなイケメンがいいかも知れないけど、だけどね……」中川師長は、ひと呼吸おいてから話を続けた。「うちの歩夢のことも気にしてあげてほしいの」
「えっ?歩夢君のことを……ですか?」蒼真さんの次は歩夢君。展開の早い会話に着いていくのが必死だ。「ええ。普段はあんな明るくて元気な子だけど、実はとても繊細でね」それは、本当にそうだと思う。近くで見ていてよくわかる。「歩夢君はいつもあちこち周りに気を配ってて、自分の気持ちを我慢してないかな?って、時々心配になる時があります」「そうなのよね。歩夢は昔から人のことばかり心配していてね。本当にいい子なの。私の妹の子だから身内自慢みたいになるけど、とにかく小さな頃からとても優しくて。私も自分の子どもみたいに歩夢のことが大切なのよ」中川師長と歩夢君は本当の親子みたいな関係で、お互いをすごく信頼し合っているのがよくわかる。「歩夢君はナースステーションに無くてはならない存在です。いつもみんなが元気をもらってます。患者さんからもとても人気があるし、まだ1年目なのに見習うところが本当に多いです」この意見に反対する看護師は絶対にいないだろう。歩夢君の頑張りはみんなが認めるところだ。「ありがとうね。藍花ちゃんにそう言ってもらえて歩夢は本当に嬉しいと思うわ。あの子、他の誰に言われるよりも、藍花ちゃんに気にしてもらいたいと思ってるはずだから」「……?」「歩夢はね。藍花ちゃんのこと、大好きだと思うよ」「えっ!?」中川師長の相変わらず真面目な表情に戸惑う。でも、歩夢君が私を好きだというのは、もちろん人としてだ。それはとても光栄なことだと思う。「歩夢君、私にはちゃんと優しく接してくれてます。でも、それは、他の看護師にも同じことです。歩夢君は、そういう人です」「……うーん、何て言えばいいかしらね。私はね、あの子の顔をみればすぐにわかるの。藍花ちゃんに話す時の顔、本当に幸せそうなの。他の人と話してる時より、もっともっと嬉しそうなの。もう、ここまで言ったから言うけど……春香ちゃんがね、歩夢のことを想ってくれてるみたいでね」春香さんが歩夢君を好きなこと、中川師長も知っていたんだ。
「春香さん、私にもそう言ってました。歩夢君のこと、本気みたいですね。とても真剣でしたし、私のことはちょっと苦手みたいです」仕方のないことだけど、嫌われてしまうのはやっぱり悲しい。この重い気持ちを中川師長に話せて少しは気がラクになった。「そうだったのね。春香ちゃん、藍花ちゃんにも自分の気持ちを話したのね……。きっと、あの子も歩夢が藍花ちゃんを好きだってわかったんだね。確かに、春香ちゃんの気持ちもありがたいのよ。だけどね、見てたら可哀想になるのよね。だって、歩夢の心の中には藍花ちゃんしかいないんだから」「えっ……あの……」中川師長が話していることに戸惑いを隠せない。歩夢君が私を……?いったいどう受け取ればいいのだろう?私の頭の中は、色んなピースがバラバラになったまま、さらに混乱してしまった。「春香ちゃんは確かに仕事は出来る。それは認めるわ。悪い子じゃないしね。でもちょっと……大人しいというか。笑顔もあんまり無いしね。歩夢はたぶん、藍花ちゃんみたいに笑顔が素敵な人が好きなのよ」「あの……歩夢君が私を好きだなんて、中川師長の勘違いじゃないですか?私、歩夢君に好きになってもらえるような人間ではないです。まだまだ人としても女性としても全然成長できてなくて……」「藍花ちゃんは頑張ってるわよ。まだ2年じゃない。私だって新人の頃はなかなか大変だったから。これからだよ。あんまり焦ったら余計に良い看護ができなくなるからね。リラックスして患者さんに接する方が相手を安心させられる。もちろん、気を抜いてはダメだけどね。この仕事は奥が深いし、1人前だなんていつまで経っても言えないから。私もまだまだこれからよ」中川師長は笑って言った。師長がまだまだなら、私なんて赤ちゃん同然だ。でも、今のアドバイスは……とても心に響いた。「とにかく、藍花ちゃんも春香ちゃんも、もちろん歩夢も、私にはみんな可愛い後輩だから。みんなで患者さんのために頑張りましょう。歩夢のこと、これからも仲良くしてあげてね」
「嘘っ!またオーナーに怒られたの?」「うん。今月の売り上げがイマイチだったから……。思うようにはいかない」マンションの小さな部屋で、食事中に缶のビールを握りしめ落ち込む太一。「し、仕方ないよ。きっと来月はもうちょっと頑張れるよ。まあ、また気合入れていこー」満面の笑顔でそう言ったものの、実際、経営はかなり苦しかった。実は最近、すぐ近くに同じような店ができ、うちより規模も大きいし、オシャレで、かなりの人気になっている。そのことは、間違いなく売り上げが下がった原因の1つだ。でも……それでも頑張るしかない。弱音を吐いても何も変わらないから。「そうだな。月那のウエディングドレス姿見たいし、新婚旅行にも連れていきたいし」それが、太一の口癖。「それは別にいいって。気にしなくて大丈夫だから。とにかく、心も体も元気じゃないと何も前に進まないんだから、笑顔で乗り切ろうよ。太一はお客さんからの評判いいんだし、頑張ってたら、必ずまたこっちにお客さんが戻ってきてくれるから。絶対大丈夫!」太一と私のマッサージの腕は誰にも負けることはない、それだけは絶対に自信があった。「ありがとうな、月那。俺は、お前がいるから頑張れる。本当に……感謝してる」一瞬で顔が真っ赤になる。私は慌ててビールを喉の奥に流し込んだ。「あ~ちょっと酔っ払ったかも~。そうだ、ベランダ行こっ。太一も一緒に出よう。さっ」私は、太一を無理やり外に連れ出した。「うわぁ、いいね~。気持ちいい風だな、最高~」「ほんとに秋の風って最高~」こうして隣に太一がいてくれる安心感は半端ない。「月……めっちゃ綺麗だ」 「そうだね。いつか連れてってくれるんでしょ、あそこに」私は、腕を空に伸ばして指をさした。「ああ。任せとけ!絶対、行くから。2人であの月に!」そう言って、太一は私のことを抱きしめた。「ちょっと痛いよ、太一。もう、こんなムキムキの立派な腕をしてるんだから、めそめそしてちゃダメだよ。元気出しな。笑おうよ」私も、太一の腰に両腕を回した。このでっかい感じ、これが好き。「ガッハッハッ。これでいいか?」「バカじゃないの?本当に太一はお調子者なんだから」まだ抱き合ったまま、今日は離さないんだね。ちょっと照れる。「なあ、月那」「ん?」「俺、お前と結婚して良かったよ。本当に……大正解。これ
「今度はどんな映画を見に行く?」「あっ、そうね。恋愛……ううん、ホラーとか、楽しいかも」「ホラー映画は得意じゃないよ」「そう?結構好きなんだけど、私は」何気ない朝のやり取り。仕事が休みの日はなるべく妻と一緒にゆっくり過ごすことにしている。子どもがいない僕らにとって、2人で何をするかを考えるのは幸せな時間だった。その気持ちに嘘はない。「恋愛映画なんてずいぶん観てないな。何か良いのあるかな?」「恋愛映画は……何だか観ていて苦しくなりそうだから」「えっ?」「あなたは……きっとヒロインを誰かに重ねてしまうでしょうから」「な、何を言ってる?」「ヒーローは……あなたかしら。残念ながら、その相手は……私じゃない」「突然どうしたんだ?いつもの君らしくないよ」こんな妻を見るのは初めてだった。心臓がバクバクと音を立てる。「私、もう……限界かも。できることならずっとずっとあなたと一緒にいたかった。死ぬまで寄り添えたら、どんなに幸せだろうって……。でも、やっぱり……何だか毎日苦しいの」「……」「あなたは優し過ぎる。毎日毎日、慶吾さんに優しくされて、私……」「どうしてそんなことを言うんだ?君は毎日頑張ってる。家事を完璧にして、僕の帰りを待ってくれて。そんな君に優しくするのは当たり前のことだよ」そう、君は頑張ってる。全て完璧というほどに。「ただ優しいだけじゃ、私は嫌だよ。最初は、側にいてくれればそれでいいって思ってた。それは本当。でも、あなたの中にはいつも他の誰かがいて……」「……そんなことは」「無いって言えるの?私はどんどんあなたを好きになるのに、あなたは……ますます違う方を見てる。私じゃない誰かの方を。もう……耐えられないの」泣き崩れる君に、僕は何も言えなかった。結婚の意味なんて、今でも僕にはわからない。それでもこの人と、一生、2人で生きてゆく覚悟はしていたのに。なのに、いつだって彼女の笑顔が浮かんでくる。自分は異常なのか?と悩みもした。でも、結婚してさらに、こんなにも藍花ちゃんを想っている自分に気付かされた気がして……「ごめん。本当に……ごめん」僕は、最低だ。目の前で号泣するこの人の背中に手を置く。すごく震えていて、泣き声が切なくて……僕の心臓はとても痛くなった。いや、この痛みなど、この人に比べれば……この人は
私は今、すごく幸せ――だったら、それでいいのかな?都合良すぎる考え方かも知れないけれど……だけど、月那が言ってくれた言葉だから、私はそれを信じようと思った。七海先生も歩夢君も……絶対「幸せ」でいてほしい。お願いだから、悲しい思いをしないで……心からそう祈るばかりだ。「私の話ばかりでごめんね。月那は太一さんとの新婚生活はどう?楽しんでる?」「う~ん、まあまあだね。仕事も家でも一緒だし、ちょっと飽きてきたかな」また大声で笑う。大きな口を開けていても、美しい人は美しい。「さっき世界一幸せな夫婦って言ってたよね?」「そんなとこ言ったかな?まあ……ね、もちろん楽しくやってるよ。いろいろあるけど、私、太一がいないとダメみたいだしさ。あんなに筋肉バカなのに、嘘みたいに優しい人だし。ちょっと頼りないとこあるけど、私にとっては最高の夫かなって思うよ」「そっか……素敵だね」月那もすごく幸せなんだ。その言葉がとても胸に響いて嬉しくなる。「素敵……かな?」「うん!最高の旦那様だって、素直に太一さんにもそう言ってあげてね」「い、嫌だよ。そんなこと言ったら負けだし」「負けって……。月那、私には素直にって言っておいてズルくない?」「ズルくないズルくない。私はいいの~」自由な月那に苦笑いした。そんな風に、お互いの新婚生活や仕事、子育てのことをしばらく語り合う2人だけの時間は、あっという間に過ぎていった。もっとずっと話していたいけれど、今日はここでおしまい。「今日の晩御飯は何?」「太一が好きだから今日は豆腐ハンバーグ。子どもみたいだからね、あの人。何個も食べるからミンチの大量買いしなきゃいけない」「いいな~美味しそう!豆腐ハンバーグはヘルシーだしいいよね。うちはカレーにする」初めて蒼真さんに作った料理。いつ食べても毎回褒めてくれる「カレーならそっちも子どもだよ」「確かにそうだね」「男はお子さま料理が好きだよね。煮物とか食べないんだから」「煮物美味しいのにね」「まあ、鍛えてるから食事はちょっと大変だけど、喜んで食べてる姿見たら嬉しくなるからね。頑張って作ろうって思えるよね」「本当にそう。美味しそうに食べてくれるのが1番嬉しいよ」女子トークは結局、ドアを閉める瞬間まで続いた。「必ずまた女子会しよう」と約束して、手を振りながら、月
「そっか……。奥さん、毎日側にいてわかったんじゃないかな。七海先生の中には他の誰かがいて、自分を見てないって。最初からわかってたつもりだったけど、実際に側にいると余計につらいと思うからさ」「……」その言葉について、私は何も言えなかった。「大好きな七海先生と別れるのは寂しかったかも知れないけどさ。その分、藍花が幸せにならなきゃダメだよ。奥さんだって、七海先生より良い人に必ずいつか巡り会えるんだから。そのための離婚だよ。絶対に」「月那……」その言葉にほんの少し救われる。七海先生が私のことをずっと想ってくれているなんて、自惚れたくはないけれど、奥さんの、好きな人と別れる決断は、ものすごくつらかっただろうと、今の私には痛いほどわかる。結婚して蒼真さんの側にいて……私はどんどん彼を好きになっていくから。「七海先生はさ、たぶん1人で大丈夫だよ。あの人、結局誰と結婚しても一生藍花を想い続けるから。それが七海先生の幸せなんじゃない?」「そんな……。私、どうしたらいいかわからないよ」「出たね、藍花の迷い癖」「えっ?」「いいんだよ、どうもしなくて。本当にほおっておきなよ。好きにさせてあげたらいいんだよ」「でも……」「でもじゃない。七海先生にとってはそれが1番の幸せなんだって。藍花は気にせずに自分の幸せだけを考えたらいいの。でないと白川先生に悪いよ」「……うん。わかった……」「素直でよろしい!いい子だね、よしよし」月那は私の頭を優しく撫でた。その仕草に少し照れる。「とにかくさ。七海先生と歩夢君はそれぞれに幸せなんだからね。自分のせいだとか考えちゃダメだからね。藍花が幸せになることが、2人にとって何よりも嬉しいことなんだからね」
「うん、今、すごく頑張ってるんだって。蒼真さんが歩夢君をとても可愛がってるみたいで、人一倍動けるし、患者さんからの人気もあるって言ってた」「そうなんだ。歩夢君、やるね~。本当に真面目ないい子なんだね。見た目も可愛くてイケてるしさ。キュートな眼鏡男子って感じで」「うん、そうだよね。本当にみんな癒されてた。歩夢君がいてくれたら職場が安定するというか……」「安定剤だね」「確かに。歩夢君、前にお母さんのために早く1人前になりたいって言ってたけど、十分過ぎるくらい頑張ってる。体を壊さないかって蒼真さんも心配してた。まあ、中川師長がすぐ側にいるから大丈夫と思うけど。ほんと、新人なのに私の何倍も偉いよ。私は……さっさと辞めちゃったしね」歩夢君の頑張っている話を聞くとすごく嬉しくなる。でも、バリバリ仕事ができることが、少しうらやましくも思える。私も、歩夢君みたいに看護師という仕事が好きだから……「藍花が辞めたのは妊娠したからだし、またいつか復帰するって思ってるんだからさ。何も卑屈になる必要はないよ。それまでは白川先生と蒼太君のために「奥さん」と「お母さん」を頑張りな」「うん、そうだね」「そうだよ、藍花は本当に幸せ者なんだからさ」「ありがとう、月那。今は家族のことだけ考えて、いつかまた看護師に復帰できたら、その時はしっかり頑張るね。蒼真さんと同じ病院は無理かも知れないけど、ここの近くにも病院はたくさんあるからね」「うんうん、頑張れ!応援してる」「……ありがとう。すごく心強いよ」「あっ、そうだ。あともう1人のイケメンは?」「……七海先生?」月那がうんうんとうなづく。「蒼真さんにはたまに連絡があるみたいだよ。あれからお見合い相手の人と結婚したんだって。でも……」「ん?」「……七海先生、フラれたみたいで……」「嘘!あの超イケメンが!?」「そうみたいなんだ。残念だけど……」「えっ、七海先生、結婚したお見合い相手にフラれたの?」「……うん」蒼真さんから聞いた時はすごく驚いた。せっかく新しい1歩を踏み出したのに……「でも何で?あんな超イケメンをフルなんて度胸あるよね」「別れた原因はわからないんだって。フラれたとだけ聞いたって。今は1人で、もう一生結婚はしないって言ってるみたい。お父様の病院で産婦人科医として仕事に生きるって……」
私は病院から少しだけ離れたところに新居を建ててもらい、月那はマッサージ店の近くのマンションを買った。常にいつでも会える距離……ではないけれど、大好きな月那とはたまにはこうして会いたい。月那のアドバイスはやはり直接聞きたいし、そばにいてくれるだけでかなり安心できる存在だから。「ねえ、あれからみんなどうしてるの?病院行ってもなかなか情報聞き出せないしさ」「月那、スパイじゃないんだから」「似たようなもんよ。客商売、情報が全てでしょ」「ダメだよ、病院の内部事情をお客さんに話したら」「当たり前だよ。言っちゃダメなことは言わないようにしてる。それくらい心得てるから大丈夫……たぶんね」「たぶんって、本当にダメだって~」「大丈夫、大丈夫、ちゃんとわかってますよ。だけど、白川先生と藍花のことは当然みんな知ってるよ。患者さん達も喜んでたし。あの子なら仕方ないって、白川先生のファンのおば様達が言ってたから」「そ、そうなんだ……」蒼真さんのファンって……まるでアイドルみたいな扱いだ。「それでもさ。未だに病院じゃ、みんな白川先生のことをハートマークのついたキラキラした瞳で見つめてるから気をつけた方がいいよ~」そう言って、月那は意地悪そうに微笑んだ。「うん。そうだね。でも、病院じゃなくても蒼真さんといるとみんなそんな目で見てるから。本当にどこにいても注目の的で……」あのルックスでは絶対に目立ってしまうから仕方がない。ただでさえそうなのに、最近はますます男性としての魅力に磨きがかかっている。やはり蒼真さんは無敵だ。「うらやましいよね、本当。だってさ、太一といても誰も振り向かないから」月那が大きな声で笑う。だけど……みんなは月那のことを見ているんだ。太一さんには申し訳ないけれど、2人は美女と野獣というか……月那みたいなすごい美人はなかなかいないし、どうしても目を引いてしまう。私達とは逆――視線は全て蒼真さんに向いているから。「ねぇ、それよりさ。歩夢君はどうしてるの?元気なの?」突然、月那が話題を変えた。
それでも「疲れているだろう」と、蒼真さんは私を気遣ってくれる。診察、回診、手術……きっと自分の方が何倍も疲れているはずなのに……その、人を思いやる優しさに、私は心から感謝の気持ちでいっぱいになっていた。***それから1年――1歳になった蒼太に会いに、久しぶりに月那が遊びにきてくれた。月那は今は仕事に大忙しで、旦那様ともラブラブだった。「本当に幸せだよね、藍花。こんな立派な新居を建ててもらって、こんな可愛い蒼太君がいてさ」蒼太を見て微笑む月那は相変わらず美人だ。こんな美しい女性が私の友達だなんて、かなりの自慢になる。「うん、幸せだよ。みんなに感謝しかないよ。月那にはずっと相談に乗ってもらって、本当に感謝してる。いろんなことが月那の言う通りになっていくのがすごく驚いたよ」「当たり前だよ。月那様には全てお見通しだったからね。あの時の藍花はすごく迷ってた。3人のイケメンの間で揺れてたよね」「そう……だったね。あの時の自分は何もわからなくて本当に困ってた。ただ頭を抱えているだけで、前に進むことができなかったから」「まあ、仕方ないけどさ。あんなイケメン達に告白されたら、人間誰だってちょっとしたパニックになるよ。きっと世界が違って見えるんだろうな。その世界が見れた藍花は本当に幸せ者だよ」「世界が違って見えたかどうかはわからないけど……でも、もし月那がいなかったら、私は素直になれてなかったかも知れない。今でもまだ、月那がいう『違う世界』で迷子になってたかも……」本当にそうだ。恋愛マスターの月那がいたから、私は今の幸せを掴めたんだ。月那には、感謝してもし足りない。「ううん、藍花の中ではさ、本当は決まってたんだよ。3人の中で白川先生が1番好きだって。だから……白川先生と上手くいった……」「……そ、そうなの?」「うん。でも、藍花は優しいからさ。みんなに対していろいろ考えてたら何が何だかわからなくなってたんだよ。七海先生も、歩夢君も、みんなを大切に考えて……。私、見てて可哀想なくらいだったから。でもいろいろあった結果、藍花は世界で2番目に幸せになれたんだから、良かったんだよ」ニコッと笑う月那。「世界で1番幸せなのは……月那、だね」「もちろん、その通り。なかなかやるね」2人の笑い声、久しぶりの楽しい時間が嬉しかった。
陣痛も短く、驚く程に安産で、スっと出てきてくれた赤ちゃんに感謝した。この世に生を受け、一生懸命生まれて来てくれた我が子がどうしようもなく愛おしくて、涙が止まらなかった。蒼真さんもパパになることを楽しみにしてたから、小さなその体を初めて腕に抱いた瞬間、大粒の涙をこぼしていた。その顔を見て、私もまた泣いた。あの白川先生が涙を流すなんて……という感じもあったのか、周りにいた女医さんや看護師さんまでみんなもらい泣きしていた。赤ちゃんの泣き声と共に、分娩室は感動の連鎖で温かな空気に包まれた。入院中は代わる代わる中川師長や歩夢君、他の看護師達も部屋に寄ってくれて、赤ちゃんを抱っこして喜んでくれた。中川師長は「孫ができたみたい!」と言ってくれ、歩夢君は毎日「可愛い可愛い」と言って部屋に来てくれた。私への気持ちなんか決して口にせず、私と赤ちゃんを優しく見守ってくれている感じがしてすごく有難かった。赤ちゃんの名前は、しばらくして蒼真さんが決めてくれた。「蒼太(そうた)」元気な男の子にピッタリの名前だと思った。私が絶対に「蒼」という漢字を入れてほしいと頼んだこともあって、ずいぶん悩んでいたけれど、ようやく蒼太に決めたようだった。気づけば、蒼真さんと急接近して、付き合って、赤ちゃんまで授かって、そして結婚まで……こんな人生、私には予想もできなかった。あまりにも嘘みたいな展開に自分でも驚いている。とんでもないシンデレラストーリーに、私はまだ半分夢見心地だ。だけど、いつまでもフラフラしていてはいけない。本格的に子育てが始まったのだから、ママになった自覚はキチンと持たなければ。慣れない家事をしながらの育児に、最初は戸惑いはあったけれど、それでも毎日私なりに一生懸命頑張った。夜泣きしたり、ミルクを飲まなかったり、眠れない日々が続いても、やっぱり我が子はとてつもなく可愛くて、愛おしかった。子どもの笑顔には、疲れを吹き飛ばす偉大な力があるということを、ヒシヒシと実感していた。
まだ少し肌寒く感じる4月初旬。つわりも早めに落ち着いてホッとしていた。「藍花、大丈夫?寒くないか?」「大丈夫です、蒼真さん。ありがとうございます」「体、絶対冷やさないように」「はい」「10月には俺達の赤ちゃんがこの世に誕生するんだな……すごく不思議な気持ちだ」私のお腹をゆっくりとさすりながら蒼真さんが言った。「本当に信じられないです。私がママになるなんて」「俺もパパになるんだな。今から楽しみで仕方ないよ」「蒼真さんがパパで、この子は本当に幸せです。こんな素敵な人がパパで、赤ちゃんびっくりすると思いますよ」「そうだといいけどな。いつまでも素敵なパパでいられるようにしないとな」「蒼真さんならいつまでも若々しくてカッコ良くて、最高の自慢のパパになりますよ」「だったら藍花は自慢のママだな。誰よりも綺麗で、可愛くて、キラキラ輝いて……。この子のママは世界一素敵なママだ」「は、恥ずかしいです」「恥ずかしくないだろ?本当のことなんだから」何気ない日常のやり取り、私は、いろんなことに幸せを感じながら、明日、蒼真さんと婚姻届を出す。前々から蒼真さんの4月の誕生日に出すことを決めていた。妊娠中ということもあり、2人で真剣に話し合った結果、式は挙げないことにして、ドレスとタキシードで写真撮影をすることになった。数日前にカメラマンさんが撮ってくれた写真の中の私達は、2人とも笑顔だった。それを見ていたら、少しずつではあるけれど、本当に夫婦になったんだと実感した。白いタキシード姿の蒼真さんは、世界中の誰よりもカッコ良くて、この人を他の誰にも渡したくないと思った。永遠に私の側にいて、私のことだけを見ていてほしいと心の底から願った。蒼真さんは私の平凡な人生をバラ色に染めて、180度変えてくれた。これからは……「白川先生」と「新人看護師」という関係ではなく「夫婦」として長い道のりを一緒に歩むんだ。***そして、10月――木々の葉っぱが赤や黄色に美しく色づいた秋晴れの日に、私達の待望の赤ちゃんが誕生した。産声をあげたのは元気な男の子。七海先生の紹介で入った女医さんが、赤ちゃんを取り上げてくれた。さすが七海先生の肝いりの先生だけあって、腕も確かで出産時の声掛けも素晴らしかった。女医さんや蒼真さん、周りのみんなのおかげで、私は安心して出産す