私は虚ろな目で床に差し込む光の斑点を見つめていた。 抑えようのない悲しみが静かに心の中で広がっていくのを感じる。 「あなた、この子を望んでいないんでしょう?」 拓海は煙草に火をつけ一口吸い込んだ。 「美穂、屁理屈をいわないでくれ。俺は望んでいないわけじゃない」 煙の向こうから彼が私を見つめる。その瞳には暗い影が漂っていた。 「いつもお前の考えを俺に押し付けないでくれ」 結婚生活で、すでに心が離れた人間はみんなこんな感じになるのだろう。 自分が悪い時ほど、責任を他人に押し付けるものだ。 「でも、本当にこの子を望んでいるなら」 私は彼に微笑み、一語一句はっきりと続けた。 「今、私の前で煙草を吸ったりしないでしょう」 この瞬間彼は口をつぐみ、長い間何も言わなかった。 やっと、橙色に燃えた煙草の火が彼の手を焼いた時彼は反応した。 彼の視線は私のお腹の上に数秒間留まってから、かすれた声で尋ねた。 「美穂、お前はこの子を望んでいるのか?」 空気が一瞬で薄くなったかのように、息苦しい静寂が広がる。 しばらくしてから、私は目を伏せて小さく笑った。 「拓海、はっきり言ったらどう?」 拓海はじっと私を見つめ、その瞳はますます暗く沈んだ。 「ごめん、美穂、和也は嫉妬深いんだ」 「彼は、俺が他の女性との間に子供を持つことを許さないだろう」 「それで?何が言いたいの?」 拓海は顔をそむけ、少しだけ残酷さを抑えるような表情を見せた。 「この子を……堕ろそう」 彼の言葉は、まるで鋭利な刃のように私の心を一刺し一刺しと貫き、何度も抉っていく。 耳が鳴り、大脳が一瞬真っ白になる。 周りの全てが、音を失ったかのように感じられた。 体が激しく震え、苦笑いが浮かんだ。 「もし私が、断ると言ったら?」 彼はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。 「美穂、従ってくれ」 「お前は両親がいない。俺はお前を困らせたくない」 笑いながら涙がこぼれた。 これが、私が十四年も愛してきた人間なのだ。 私は唇を引き上げ、彼に明るく微笑んだ。 「あなたが私の子を殺そうとするなら、私はあなたの和也を殺すわ」 そ
私が階段を出た時惠美が外に立っていた。 私の姿を見つけると彼女は怯えたように顔を引きつらせた。 まるで驚いた兎のように、その目は赤くなっていた。 「美穂さん、どうか私の子供を傷つけないで」 彼女は両手を胸の前で合わせ、懇願するように私を見つめた。 「私は和也を連れて行きます。どうか彼を傷つけないでください」 「馬鹿なことを言うな、お前はどこへ行くというんだ?」 拓海が一歩前に出て、惠美を守るようにその胸に抱き寄せた。 「俺がいる限り、誰もお前たちに手を出させない」 その言葉は誰に向けられたものか言わずとも分かる。 心の中に突き刺すような悲しみが込み上げ、目頭が熱くなった。 「すみません、ちょっとお邪魔しますね」 「和也は自分の母親が愛人で、自分が私生児だと知っているの?」 惠美の顔は一瞬で真っ青になった。 彼女は拓海の袖を掴み、悲しげな目で彼を見上げた。 「和也は違う……和也は……」 彼女は唇を噛みしめ、助けを求めるように脆く無力な姿を見せた。 その涙ぐむ様子は、誰もが同情せずにはいられないだろう。 拓海は彼女の涙を優しく拭い、その後私を冷たい目で見つめた。 その目には、厄介だという気持ちがありありと見て取れた。 「美穂、俺が子供を望まない理由、分かるか?」 私は拳を強く握りしめた。 彼の冷たい笑い声が響いた。 「お前みたいに毒々しくて、狂っている母親から生まれてくる子供なんて、どうなるかわかるだろ?」 私の顔から血の気が引き、一歩後退してしまった。 視界が暗くなり、まるで沼地に沈んでいくような気がした。 もう、光など見えない。 「お前のためにも、早く堕ろしたほうがいい」 そう言って拓海は惠美を抱きながら、私を避けるようにして病室へ向かっていった。 一度も振り返ることはなかった。 夜が深くなった頃、惠美からメッセージが届いた。 震える指先を感じながら、私は深く息を吸い込み、メッセージを開いた。 そこには、一言だけと動画が添えられていた。 「ごめんなさい、美穂さん。彼はあなたの子を望んでいません」 震える手で動画を再生すると、画面には二人の絡み合う姿が映し出された。
私は窓辺に座り外の景色を見つめた。繁華で華やかな街の灯りがさらに家の中を暗く沈ませている。 拓海と一緒に起業した頃は本当に苦しかった。 湿気とカビだらけの暗い地下室で生活していた。 お金がなかったから、湿疹ができても病院に行くこともためらった。 そんなに苦しかったけど、愛する人がそばにいてそれだけで満足していた。 今では苦労も報われたが、人の心は変わってしまった。 私は深く息を吸い込み、胸の中の酸っぱい気持ちを抑え込んだ。 スマホを開きメッセージを書いたり消したりしながら、最後に一言だけ送った。 「拓海、離婚しましょう」 ...... 夕方、拓海が家に戻ってきた。 彼が口を開く前に、私は先に聞いた。 「メッセージ、見た?」 拓海は無意識に携帯を手に取ったが、何かに気づいたようで、すぐに声のトーンが変わり、厳しくなった。 「これも新しい手段か?」 「美穂、また面倒なことを始めたのか。離婚で脅すなんて、どこで覚えたんだ?」 目が痛い。 十四年一緒に過ごした人が、こんなにも遠い存在に感じるなんて。 「私はふざけてない」 私の様子が冗談ではないと分かると、拓海の笑みは凍りついた。 「美穂、本気なのか?」 私はためらうことなく頷いた。 「離婚協議書は弁護士が用意している。サインを忘れないでね」 拓海は険しい顔で拒絶した。 「ふざけるな、美穂。俺は離婚に同意しない」 私は静かに心の中でずっと抱いていた疑問を口にした。 「じゃあ、惠美はどうする? 和也はどうする?」 彼は苛立ったように髪をかき上げた。 「彼女はお前の『奥様』の地位を脅かすことはない」 「お前が嫌なら、今後は彼女をお前の前に出さない」 要するに、関係を断ち切るつもりはないということだ。 彼の反応は、私が予想していた通りだった。 私は冷静な声で続けた。 「彼女を娶らないのは、彼女が役に立たないからでしょ?」 「ただ見た目だけの存在で、金の鳥籠の中で生きるしかないから」 「私は違う。ビジネスの世界では、私はあなたを助けることができる」 私は彼に少し近づき、ゆっくりと言った。 「どっちも欲しがるなん
会社が株式公開した日拓海は舞台の上で感謝の言葉を述べていた。 スピーチの終わりが近づくと、彼は私について触れた。 「ここで特に感謝したいのは、私の妻です」 「彼女がいたからこそ、今の私があるのです」 「そして、皆さんに一つの良い知らせがあります」 私は視線を人々の間から彼に向けた。 その瞬間、私は彼の意図を悟った。 彼は唇をゆるめ、幸せそうな笑みを浮かべた。 「私の妻は妊娠しています」 「今後は副社長を辞め、家でゆっくりと過ごす予定です」 最後に彼は私を愛していると告げ、その目には深い愛情がたたえられていた。 瞬く間に、周りは嵐のような拍手に包まれた。 スピーチが終わると、拓海は惠美を連れて私の前に現れた。 彼の顔には悪意に満ちた笑みが浮かんでいた。 「美穂、お前が言うことを聞かないなら、これからは惠美がその役を引き継ぐことになる」 彼は会社を使って私を屈服させようとしている。 この何年、会社を支えてきたのは私だった。 彼は、私が会社にどれほどの思いを寄せているかをよく知っている。 でも、今夜は彼の思い通りにはいかないだろう。 私は彼の手を振り払い、惠美を力強く前に引き出した。 彼女が抵抗するのも無視して、彼女の髪を掴み上げ、無理やり顔を上げさせた。 「さあ、彼に教えてやって。お前は本当は誰の女なのか」 拓海は一瞬、困惑の表情を浮かべた。 「どういうことだ?」 ステージ上のプロジェクターが一斉に明るくなった。 拓海の顔色が急変する中、私は振り返ってスクリーンを見た。 そこには、彼と惠美が一緒にいる写真が次々と映し出されていた。 会場は一気にざわめきに包まれた。 拓海は怒り狂い叫び声を上げた。 「止めろ! すぐに止めろ!」 残念ながら、バックで操作しているのは私の手配したスタッフだった。 株式公開記念パーティでこんな大きなスキャンダルが曝け出されてしまった。 多くの目が彼を見ている。 拓海は終わった。 彼は狂ったようにプロジェクターを叩き壊した。 プロジェクターは床に落ち、粉々に砕け散った。 まるで、私たちの四分五裂した結婚生活のように。 「美穂!」
機械の音が「ピッ、ピッ」と響いている中、私はゆっくりと目を開けた。 体のどこもかしこも、針で刺されるような痛みが襲ってくる。 手を伸ばして、すでに平らになったお腹を撫でた。 心の中は、空っぽだった。 冷たい風が吹き込み、全身が震えた。 私の子供だ、痛くないわけがない。 でも私はこの子に幸せを与えられなかった。 次の人生では、幸せな家に生まれますように。 誰かに大切にされ、愛され、一生安心して過ごせますように。 —— 拓海が病院に現れたとき、彼は怒りを抑えきれずすぐに私を探しに来た。 しかし、私を一瞥すると、彼の怒りは一瞬で消え失せた。 彼はほとんど生気のない私を見つめ、口を開けたが、しばらく何も言えなかった。 彼は何度も深呼吸し、奥歯を噛みしめていた。 しばらくして、ようやく震える声で言った。 「お前は俺をそんなに憎んでるのか?」 「自分をこんなふうに追い詰めてまで、俺をやっつけたいのか?」 私は平然と頷き、余計な言葉を挟まなかった。 「そうよ」 拓海は震える手で顔をぬぐった。 そこにはもう婚約指輪の跡すら残っていなかった。 最初の大金を稼いだ時、彼は私に大量の金を買ってくれた。 私たちの結婚指輪も金の指輪だった。 貧乏が怖かったからだ。 彼は言った。「金は価値を保つ。これが一番の保障だ」と。 全力で愛し合っていた時は、一生お互いを守り続けると誓い合っていた。 でも、その一生はこんなにも短かった。 惠美が現れたことでその一生は終わったのだ。 思い出すと、少しだけ目頭が熱くなった。 ただ、それだけだ。 私は分かっていた。嘘が始まればもう戻れないことを。 拓海と美穂の道は、ここで終わる。 私はスマホを彼に向けて離婚協議書を見せた。 「忘れないでサインしてね。お互い、きれいに終わりましょう」 彼は信じられない様子で振り返り、眉間に怒りを浮かべた。 「美穂、お前、まだ離婚したいのか?」 私は彼に微笑みながら答えた。 「そんなこと聞くの?もし私が今この病院にいなかったら、もうとっくに市役所に連れて行ってるわよ」 拓海はその場で怯えたように立ちすくんだ。
私は静かに彼を見つめ、容赦なく突き刺すように言った。 「離婚を拒んでるのは、私に戻ってきてあなたの後始末をしてほしいから?」 彼の拳は強く握られていた。 しばらくしてから、彼は平静を取り戻した。 「俺たちはお互いに知っているはずだ。結婚が何を意味しているか」 「これはビジネスの上での強力な提携であり、俺たちが愛し合っている証でもあるんだ」 「美穂、お前も分かっているだろ」 「離婚すれば、それは俺たちの汚点になり他人の噂のネタにされる」 彼は私の眉に手を伸ばし、穏やかで優しい声で続けた。 「しかも、俺たちはもう十四年も一緒に過ごしてきた」 「美穂、俺以外にお前にふさわしい男なんていないんだよ」 「もう、この話はやめよう、な?」 拓海はさすがビジネスマンだ。 豪華な言い回しや演技はお手の物だ。 私は彼から目をそらし、冷淡に答えた。 「間違ってるわ。人の噂を気にするのはお前だけ」 「そんな古臭い言葉じゃ、私は説得されないわ」 「それに、お前が離婚を嫌がっているのはもう分かってるの」 「お前がもう私以上のパートナーを見つけられないからでしょう?」 私は彼を深く見つめた。 「でも、私には選択肢がたくさんある。選ぶ相手はいくらでもいるわ」 「お前と別れたら、私はもっといい人生を送れる。でも、お前はどうかしら?」 かつての私は、彼に依存する蔓のような存在だった。 私たちは常に共に苦難を乗り越え、愛し合っていた。 こうして対立し、顔を突き合わせることになるなんて初めてだ。 愛の仮面をはがした結婚には、金と人間性しか残っていなかった。 拓海はシーツを握りしめ、その手には青筋が浮かび上がっていた。 「つまり、どうしても離婚したいってことか?」 私は冷たく彼を見つめた。 「そうよ。絶対に離婚する」 そして、お前には相応の代償を払わせるつもりだ。 拓海が去った後惠美が病室に現れた。 彼女は帽子とマスクを着け、誰にも見られたくない様子だった。 私は彼女に問いかけた。 「準備はできた?」 惠美は無表情で私を見つめ、少し戸惑ったように口を開いた。 「美穂さん、あなたと拓海は夫婦だった
一年前、私が流産して入院した時彼女は私を訪ねてきた。 彼女は高価なブランド服を身にまとい、完璧な化粧をしていた。 目が合った瞬間、彼女は私に笑顔を向けた。 その目には哀れみと勝ち誇った表情があった。 「美穂さん、あなたの今の姿は本当にみじめね」 「もしかしたら、これが報いなのかもね」 「それはあなたが拓海をつかって私を解雇させた報いなんだわ」 でも今。 彼女は私に頭を下げて、助けを求めてきている。 運命の輪は回り続ける。 私は彼らを徹底的に追い詰めてやる。 私が経験したすべての苦痛に見合うように。 一夜にして拓海が性的暴行事件に関わっているというニュースがトップ記事となった。 職場での強要、接待の飲酒、そして性的関係の強制。 いくつかのキーワードが一つの物語を作り出した。 長いビデオの中で、惠美は涙ながらに訴えていた。 彼女は拓海に脅迫され、愛人として扱われ、接待に同行させられたと涙ながらに告白した。 拓海の名声は一夜にして地に落ちた。私は約束を果たしたのだ。 警察に呼び出された拓海の姿は、惠美の証言とともに、ニュースの情報を裏付けるものとなった。 拓海はすぐに家に戻ったが、この件はもう確定事項だった。 彼がいくら弁解しようとしても、もう何も言うことはできなかった。 ただ、苦い思いを飲み込みながら悔しさを押し殺すしかなかった。 拓海は怒り狂い惠美に電話をかけ続けたが、繋がることはなかった。 彼は知らなかったのだ。 惠美は警察の調査に協力した直後、すぐに電話番号を変えて姿を消していたのだ。 拓海がこの状況を立て直すためには、私に頼るしかなかった。 彼は花束を持って、私の家の前でずっと待っていた。 私の姿を見たとき、彼のいつもの余裕ある笑顔はなく、代わりに落ちぶれた男の顔をしていた。 「頼むよ、美穂」 私は彼を見つめ、微笑みながら言った。 「これこそ、あなたが追い求めていた刺激じゃない?」 その瞬間、拓海はすべてを理解したかのように顔色が真っ白になった。 「これは全部……君が仕組んだことだったのか」 彼はそう呟いた。 意外と馬鹿じゃないのね。 私は顎を少し上げて、
惠美が欲しかったのは、ただ「金持ちの妻」という肩書だけだ。 誰の名字を名乗るかなんて彼女にとって重要ではない。 そして拓海は単純にこの関係の中で航路を見失っただけだ。 だから彼は私への愛がどれほど深かったかなんて忘れてしまっていた。 新しい家に引っ越した後、彼は家にカメラを取り付けた。 彼はしょっちゅう出張があるため、私を家で一人にするのが心配だったからだ。 皮肉にも彼が忘れていたそのカメラがすべてを記録していたのだ。 私が不在の間に彼と惠美がどれほど親密な関係だったか。そして惠美があの二歳の子供にどうやって階段にシャワー液を撒かせたのかも。 家具が壊れたのもすべて彼女の仕業だった。 その瞬間、拓海はまるで石像のように固まった。 「お前……ずっと知ってたのか……」 私は彼の言葉を冷たく遮った。 「惠美が欲しいのはただの金よ」 彼女は母親としての立場を利用して自分の地位を確立しようとしただけだ。 彼女は長年拓海に付き合ってきたからこそ彼の本質を誰よりも理解していた。 拓海は口先だけの男であり実質的に会社を運営しているのは私だ。 だから彼が彼女たち親子のためにすべてを捨てることなどありえない。 ましてや彼は私に勝てるはずがない。 会社の命運は私の手中にあり、誰もがそれを知っている。 彼女がこの現実を目の当たりにして、人生を賭ける度胸はなかったのだ。 それに彼女には少しばかりの良心が残っていた。 彼女は息子を気にかけていた。 息子が犯罪者の母親を持つような人生を送らせたくないと本気で考えていたのだ。 そんなことになれば息子の一生が台無しになるからだ。 拓海は長い沈黙の後、かすれた声で問いかけた。 「俺はどうしてこんな女に……そして、お前を失うことになったんだ……」 私はゆっくりと首を振りながら離婚協議書を彼の前に置いた。 「もし心があるなら、さっさとサインして」 私は一息つきながら、目の前の十四年間愛した男をじっくりと見つめた。 少し前まで彼は私に大言壮語していた。 「ほんの少し、息抜きがしたいだけだ」と。 彼は十四年の付き合いがあるから私が彼を離れないと確信していた。 だから、