「す……スタンリー殿下に御挨拶申し上げます」 ハッと我に返ったリシュティナは、慌てて立ち上がるとスタンリーに敬礼をした。(薬、前もって飲んでて良かった……。けど何でスタンリー殿下がここに? ……もしかして……ヴィルを捜して……!?) スタンリーは、リシュティナの声を聞いて眉をあからさまに顰めた。「……ふぅん。ホントに不快な声を出すんだね、君。まぁいいや。兄上はどこ? ここにいる事は分かってるんだけど。ずっと……ずーっと捜してたんだよ」「………っ!!」(やっぱり……! どこで気付かれてしまったの……? 町の人達じゃ絶対にないわ。皆、ヴィルの事を私の兄だって信じてたもの。最近、変わった事は――あ! ……まさか……ヴィルの正体に気付いたロッゾさんが告げ口をした……!? ど、どうにか誤魔化さないと……!) どうしてヴィルを捜していたのかは分からないけれど、スタンリー殿下に彼の存在を知られては駄目……! ――リシュティナの本能が、何故かそう強く警告をしていた。「……スタンリー殿下の兄上とは、ヴィクタール殿下の事でしょうか。何故そのようなお話になっているのか分かりませんが、ヴィクタール殿下はここにはおりません。ご覧の通り、私一人でございます。家の中を探して頂いても構いません。御足労をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません」 そう言い、深々とスタンリーに向かって頭を下げる。 家には二人分の生活用品があるが、母と一緒に暮らしていた時の物だと言えば話の筋が通るだろう。「……兄上はいない、ねぇ……」 スタンリーはそうボソリと呟くと、顔を伏せているリシュティナの方へと歩いてきた。 そしてスタンリーは、リシュティナの頬を平手で強く叩いた。「………っ!」 リシュティナの身体が吹っ飛ばされ、地面に崩れ落ちる。「嘘をつくなよ。王族に虚偽を告げた不敬罪としてこの場で処罰されたいのか? さっさと兄上の居場所を言えよ」「………ヴィクタール殿下は……ここにはおりません。どうかお引き取りを……」「チッ、まだ言うか……。更に痛い目をみないと分からないらしいな」 倒れても尚頭を下げ続けるリシュティナに舌打ちをすると、スタンリーは拳を握り締め、彼女にゆっくりと近付く。「リィナッ!!」 その時、リシュティナを呼ぶ声と共に、一人の男が地面に倒れ込む彼女のもとへと一直線
「ほら、さっさと持ってこないとまた刺すよ? いいのかな? このまま兄上が死んでも、さ?」 スタンリーはニヤニヤとしながら、鮮血の滴り落ちる短剣をリシュティナにわざとらしく見せる。「……わ……分かりました。だから……だからもうこれ以上、ヴィルを傷付けるのは止めて下さい! 約束してくれたなら、その指輪を持ってきます!」「あぁ、いいよ? 僕は嘘はつかないから安心するといい。君らと違ってね? アハハハッ!」 嘲笑いながら肩を竦めるスタンリーにリシュティナはギュッと唇を噛み締めると、家の方へと走っていった。「……フフッ、ねぇ兄上? あの女、兄上の大切な子なの? 随分と趣味が悪いねぇ。老人声だし、ヘビリアと正反対じゃん。彼女に振られたからって趣向替えでもしたの? そうだ、あの女を兄上の目の前で犯せば、兄上は悔しがってくれるかな? 僕の好みじゃ全然ないけど、身体は好みかもしれないしね。あの女が戻ってきたら早速始めようか? ククッ……」 スタンリーがうつ伏せで倒れ込むヴィクタールの傍に屈み、意地の悪い笑みを浮かばせながらそう言うと、ヴィクタールはゆっくりと顔を上げた。 その顔を見て、スタンリーは「ヒッ」と息を呑む。「おい、ゲス野郎……。そんな事しやがったら、オレはテメェを地獄以上の苦しみを与えて殺し、テメェが地獄に逃げて逝っても追い掛けてグッチャグチャになるまで殴って斬り続けるからな……。死んでも絶対に許さねぇ……」 激しく鬼気迫るヴィクタールの表情に、スタンリーの身体が無意識に大きく震える。「ふ……ふんっ! 僕より劣っていて、刺されて何も出来ない癖に何を言ってるんだか……っ」 悪態をつきながら、スタンリーはさり気なくヴィクタールと距離を取った。 その時、リシュティナが小さな箱を持って戻って来た。 スタンリーとヴィクタールが離れている事にホッと息をついたリシュティナは、表情を引き締めるとスタンリーに箱を差し出す。「どれどれ……」 スタンリーはリシュティナから奪うように箱を取ると、中身を確認する。 二つの指輪が、ちゃんとその中に入っていた。「――あぁ、そうだ、これだよ! ハハハッ! これでようやく海獣神を召喚出来る! 『富』と『力』は全て僕のものだっ!!」 スタンリーは大きく高笑いすると、クルリと踵を返した。「目的も果たせたし、僕はこれで失礼す
視界が、真っ黒に染まっていた。 目を開けている筈なのに、一面に塗り潰された黒。 それ以外、何も無い。(――あぁ、本当に見えなくなったんだな……)「レヴァイ? レヴァイ……そこにいる?」「はーい☆ レヴァイ君、ここにいますよ~」「良かった……。ヴィルは? ヴィルは治った?」「えぇ、もうすっかり元気でピンピンですよ☆ けど、盲目の貴女の面倒を看切れないからって、どこかに行っちゃいましたよ。いやぁ、本当薄情ですねぇ。折角貴女が視力を失ってでも治したのに」「……そう……」 リシュティナは小さく頷くと、微笑んだ。「……良かった。ヴィル、こんな私の傍にいたら迷惑掛けるだけだもん。自分の行きたい所へ行って、幸せになってくれるといいな。折角『生きよう』って思ってくれたんだから」「おや? 恨まないんですか?」「え、何で? これは私が決めて勝手にやった事だよ。私は私の大切なヴィルに生きていて欲しかった。生きて幸せになって欲しかった。ただそれだけ」「おやまぁ、何とも健気ですねぇ。そんな絶望的な状態になって、死のうと思いますか?」 リシュティナは、レヴァイのその問いに首を横に振る。「ううん、思わないよ。だってヴィルが生きてるんだもん。離れていても、彼が生きている限り、この同じ空の下で一緒に生きるよ。そう……『約束』もしたから。……でも、何も見えないと本当不便だね……。それに、真っ暗だとやっぱり怖いね、ふふっ……。――ねぇレヴァイ、“対価”を渡すから、歩いててぶつかりそうになったら教えてくれる? あとは欲しい物がある場所とか――」「――そんなモン、コイツに頼む必要はねぇっ!!」 突然割り込んできた馴染みのある声に、リシュティナはビクッと身体を震わせた。「え? もしかして……ヴィル?」「この仮装悪魔がっ! 無理矢理オレに『沈黙魔法』を掛けやがって……! はっ倒すぞ!?」「おやまぁ、強制的に魔法を解除しましたね。流石莫大な魔力を秘めているだけありますねぇ。でも良かったでしょう? リシュティナの本音が聴けたのですから」「……クソ悪魔がっ!!」 ヴィルの悪態をつく声が聞こえたと思ったら、リシュティナの身体がふわりと温かいものに包まれた。「このバカッ! オレがお前を置いてどこかに行くわけねぇだろうが!! オレの幸せはお前と共にあるんだよ! お前がいなき
ヴィクタールは宣言通り、リシュティナから片時も離れようとはしなかった。 歩く時は指を絡めて手を繋ぐ。町で歩く時は勿論、家の中にいる時でもだ。 リシュティナがそっと立ち上がると、直ぐにヴィクタールが反応し、「どこに行くんだ? 一人じゃ危ねぇよ」 と、必ず手を掴まれ指を絡ませてくる。「えっと……ちょっと物を取りに行くだけだよ。場所は分かるから、手探りで行けるよ。一人でも大丈夫――」「ダメだ。そう言ってどこかにぶつかったらどうすんだ。言えばオレが取りに行く。お前はオレの傍で座っているだけでいいんだ」「え……そんな、悪いよ……」「全然悪くない。もっとオレに頼ってくれ、リィナ。オレはお前の為なら何でもやる。人を殺せと言われても、お前がそれを望むなら喜んで殺ってやるさ」「そ……そんな事絶対に言わない!!」「あぁ、そんなの知ってるよ。けど、それだけオレは本気だという事を分かってくれ」「…………」 こんな風に、過保護に拍車が掛かっている。度々不穏な台詞を言ってくるのが心臓に悪いけれど。 手洗いや浴室までついてこようとしたので、それは流石に全力で阻止した。「一人で出来ねぇだろ? オレが手伝う。最初から最後まで」「てっ、手伝……!? 最後まで!? だっ、大丈夫だよ、出来るから! 手探りで何とかなるから! 流石にものすっごく恥ずかしいからっ!」「……あぁ、いいな。オレに対してすごく恥ずかしがるリィナを眺めていたい――」「ヴィルッ!」「……分かったよ。チッ……」 とても不服そうな声を出され、更に舌打ちまで聞こえてきたけれど、そこは絶対に譲れない! とリシュティナは心を鬼にしたのだった。 ご飯はヴィクタールが作ってくれた。リシュティナの料理を手伝ってきたからか手際が良く、味も満点だった。 彼は一度教えたら、すぐにコツを掴んで何でもやってのけるのだ。 だからリシュティナは、町の人がヴィクタールについて噂していた、「何をやっても中途半端」「兄の方が出来損ない」とは全然違う事に疑問を持っていたのだった。 ――そしてそこでも、彼女にとって羞恥の時間が待っていた。「ほら、リィナ。あーんしろ、あーん」 ヴィクタールがリシュティナにご飯を食べさせたがるのだ。「あ、『あーん』て……。じ、自分で食べられるよ。大丈夫だから……」「ダメだ、こぼすだろうか。
リシュティナには、いつ朝が来たか分からない。 眠りから目覚めて瞼を開けても、ただ一面暗闇が広がっているだけだからだ。 今も脳が覚醒し始め、そっと瞳を開けても、目の前は闇一色だ。 身体から、ヴィクタールの温もりが消えていた。「……ヴィル?」 上半身を起こし、小さな声でヴィクタールに呼び掛ける。 しかし、返事は無い。暫く待ってみても、返ってこない。 リシュティナは、真っ暗闇の中、急に独り取り残されたような疎外感に襲われた。「ヴィル……ヴィル、どこ? どこにいるの……?」 震える声でヴィルを呼びながら、カタカタと小刻みに揺れる手を前に伸ばす。「ヴィル――」 泣きそうになった、その時。「――リィナ」 待ち望んでいた声が聞こえたと同時に、伸ばされたリシュティナの小さな手を、大きく温かな手がギュッと握り締めてきた。 そのまま引っ張られ、いつもの温もりがリシュティナの身体全体を包み込む。 その温もりに、無意識にホッとしている自分がいた。「悪ぃ、手洗いと顔を洗いに行ってた。グッスリ寝てたからまだ起きないと思ったんだ。大丈夫だ、オレはお前に黙って遠くへなんて絶対行かない。死んでもお前の隣にいるって言ったろ?」 ヴィクタールは、リシュティナの震える身体を労るように更に深く抱きしめ、自分の額を彼女の額にコツンと当てた。「怖がらせちまって悪かった。けど、オレを求めてくれてすっげぇ嬉しかった。もう無いようにするが、万が一またこんな事があったらすぐ声を出してオレを呼んでくれ。すっ飛んで来るから」「…………うん、ありがとう」「ん。もっとオレを求めていいからな?」 ヴィクタールは嬉しそうな声音を出すと、リシュティナを抱きしめたまま、その首筋に自分の顔を埋めた。 滑らかなリシュティナの首筋に、ヴィクタールは甘えるように頬を擦り寄せている。(あぁ……どうしよう。私もヴィルに依存しちゃってる……?) リシュティナの心の中で、ヴィクタールを“魅了”から解放してあげたい気持ちと、ずっとこのまま彼と一緒にいたい気持ちがせめぎ合い、心揺らぐ自分が嫌になるのであった……。◆◇◆◇◆◇◆◇◆ “魅了”を解除する方法を探そうと決意したリシュティナだったが、一つ大きな難関があった。 それは、ヴィクタールが文字通りリシュティナから離れない事だ。 朝の件があってか
海獣神ネプトゥーを召喚する決行の日がやってきた。 『召喚の間』には、国王を始め、王国の重鎮達や貴族達、抽選で選ばれた国民達が集まり、魔法陣の上に立つスタンリーを固唾を呑んで見守っている。 第三王子のウェリトは、船に乗り隣国の視察に行っているので、この場には居ない。 スタンリーの隣には、『聖なる巫女』の直系の血を引く、リントン侯爵家の長女であるヘビリアが笑みを浮かべて立っていた。 二人の左手の薬指には『古の指輪』がそれぞれ嵌められ、キラキラと輝いている。 しかし二人共、指輪が少し小さかったようで、指の真ん中辺りで止まっていた。 見守る貴族の中に、海を渡って外交をしており、いつも屋敷を不在にしているリントン侯爵家当主の姿もあった。 ピンク色の珍しい髪に少し白髪が交じり、金茶色の瞳を持つ、穏やかな風貌のリントン侯爵は、静かな眼差しでヘビリアを見ている。 その隣には、リントン侯爵夫人が少し青褪めた顔で夫の様子をチラチラと窺っており、その母の隣でシャーロットは、ウットリとした面持ちでスタンリーを見つめていた。 スタンリーは、海獣神召喚にかなりの自信があった。 自身の魔力はこの城の者達の中で一番高いし、ヘビリアとも幾度となく“絆を結んでいる”。 万が一の為の“保険”もしてある。 失敗する要素が何一つ無い。 先日、王家に言い伝えられている『伝承』を再確認しようと書物を調べていると、興味深い文章を発見した。 “魔力高き王族の者と、『聖なる巫女』の直系の血を引きし者との“絆”が更に強く深まる時、伝説の獣神の召喚が成功するであろう”、と。 今の自分に全て当て嵌まっているので、スタンリーは、海獣神を召喚したら、次は伝説の獣神を召喚を試みようと目論んでいた。 それで更に王国内で自分の評価は急上昇するだろう。 もしかしたら、海を越えて世界中でもその名誉ある評判は広まるかもしれない。 スタンリーはニタリと口の両端を持ち上げると、真面目な顔を作り観客に厳かに告げた。「では、海獣神の召喚を始める」 スタンリーは目を閉じ、詠唱を唱え始めた。「――海獣神ネプトゥーよ、我の呼び掛けに応えよ!!」 詠唱が終わり、スタンリーが最後の言葉を放つと、魔法陣が赤く輝き出した。「赤色……? 儂の時は確か青色だった気が――」 淡く輝く魔法陣の色に、国王が疑問の言葉を
ラエスタッド王国第一王子、ヴィクタール・ワース・ラエスタッドは、貴賓の部屋の前で、呆然と立ち尽くしていた。 扉の中から微かに聞こえてくる声は、聞き慣れた女の声。 そして男の、女の名を何度も呼ぶ、同じく聞き慣れた声。「ヘビリア、ヘビリア……っ」 その名は。――その、名前は。 自分の……『婚約者』の名前―― そして、馴染みのあるその男の声は。 自分の弟である、第二王子、スタンリー・ツーク・ラエスタッドの声――「スタンリー様ぁっ! 好き、大好きぃっ」「僕も好きだ……愛してる、ヘビリア……。兄上よりもずっと……。ねぇ、君もそうだよね? 兄上なんかより、僕を愛しているよね?」「えぇ、勿論っ。あんな堅苦しいヴィクタール様なんかより、あなたを心から愛してるの、スタンリー様ぁっ」 叫びにも似た、二人の愛を伝え合う言葉を扉越しに聞きながら、ヴィクタールは思わず両目を固く瞑って耳を塞ぎ、力無くその場に膝をついたのだった――◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ここ、ラエスタッド王国は、海に囲まれた島にある、小さな王国だ。 海の恩恵を授かっているこの王国では、国民は海獣神『ネプトゥー』を崇拝し、日々生活をしている。 丘の上にある、ラエスタッド城。 その庭園にある椅子に、二人の男女がテーブルを挟んで向かい合って座り、仲睦まじく談笑をしていた。 男は、黄金色の無造作に切り揃えた短い髪と、紫色の瞳を持った美丈夫で。 この国の第一王子である、ヴィクタール・ワース・ラエスタッドだ。 女は、ヘビリア・リントン。リントン侯爵家の長女で、赤茶色のウェーブした長い髪と同じ色の瞳を持った、可愛らしい女性だ。 彼女は、ヴィクタールの婚約者だ。 リントン侯爵家は、代々『聖なる巫女』の血を直系に受け継ぐ家系で、そこで産まれた娘は、王族との婚姻が定められていた。 王家には、こんな『伝承』が言い伝えられているのだ。 “王家の血を引く者、『聖なる巫女』の血を引く者との絆が深まりし時、互いに『古の指輪』を嵌めよ。さすれば海獣神召喚され、“王の器”として認められし者へ、莫大な『力』と『富』を与えん。――但し、過ちを犯した者、海獣神の強大な怒りに触れん” ……と。 王家の血筋を引く者は、代々、精霊を召喚出来る能力を持って産まれる。 最下級の精霊でも、それを召喚出来た者は、『王位継承権』
『召喚の間』は、床に召喚の媒体である複雑な魔法陣が描かれてあり、王子達はいつもここで召喚の習練を繰り返し行っていた。 消費する魔力が多いので、一日に二、三回位しか出来ないのが欠点だ。 『召喚の間』に入ると、後ろで結んだ橙色の長髪と青緑色の瞳を持つ青年が、床に描かれてある大きな魔法陣の上に立ち、見物者達に囲まれながら笑顔を浮かべていた。 彼はこの王国の第二王子である、スタンリー・ツーク・ラエスタッドだ。年は、ヴィクタールより二歳年下の二十二歳だ。 彼の前には、小さな魚の精霊がフヨフヨと浮かんでいる。下級の水の精霊、ナイアだ。 通常、精霊は人の目に見えないのだが、この魔法陣の中にいる時のみ、その姿を見る事が出来る。 上級の精霊だと、自ら姿を見せる事の出来る者もいるらしい。 ちなみに王族は、自分が召喚した精霊は魔法陣の上関係無く見る事が出来る。「すごいですよ、スタンリー!」 思わずヴィクタールが称賛の声を上げスタンリーのもとに駆け寄ると、彼は自分の兄を見てニコリと笑みを浮かべた。「兄上、僕、やったよ! でもごめん、兄上より先に『王位継承権』を貰っちゃった……」「いいんですよ、そんな事は。頑張りましたね、スタンリー」 シュンとするスタンリーをヴィクタールは労うと、彼は一瞬無表情になった後、再び笑顔を見せた。「俺はヴィル兄さんの方が先だと思ったのに……。兄さんがすごい努力をしてること、俺、ちゃんと分かってるからさ」 いつの間に側に来たのか、ヴィクタールの隣には、肩で揃えた黄金色の髪と紫色の瞳をした少年が、ブスッとした顔つきで立っていた。 彼の名はウェリト・サーラ・ラエスタッド。この王国の第三王子だ。 年はヴィクタールより八歳年下の十六歳で、まだ幼さの残る顔立ちをしている。「ありがとう、ウェリト。私もスタンリーに負けていられませんね。もっと鍛錬しないと」 ヴィクタールがウェリトの頭を撫でながら頷くと、それでもウェリトは不機嫌な顔を止めなかった。「ヴィル兄さんは十分頑張ってるよ! それと……俺、やっぱりヴィル兄さんは昔の言葉遣いの方がいい。――ちっ、あの女の所為でヴィル兄さんは……」 最後の方はウェリトの口の中で呟かれ、ヴィクタールには聞こえなかった。 しかし、すぐ近くにいたスタンリーには聞こえたようだ。「ウェリト、今何て言った?
海獣神ネプトゥーを召喚する決行の日がやってきた。 『召喚の間』には、国王を始め、王国の重鎮達や貴族達、抽選で選ばれた国民達が集まり、魔法陣の上に立つスタンリーを固唾を呑んで見守っている。 第三王子のウェリトは、船に乗り隣国の視察に行っているので、この場には居ない。 スタンリーの隣には、『聖なる巫女』の直系の血を引く、リントン侯爵家の長女であるヘビリアが笑みを浮かべて立っていた。 二人の左手の薬指には『古の指輪』がそれぞれ嵌められ、キラキラと輝いている。 しかし二人共、指輪が少し小さかったようで、指の真ん中辺りで止まっていた。 見守る貴族の中に、海を渡って外交をしており、いつも屋敷を不在にしているリントン侯爵家当主の姿もあった。 ピンク色の珍しい髪に少し白髪が交じり、金茶色の瞳を持つ、穏やかな風貌のリントン侯爵は、静かな眼差しでヘビリアを見ている。 その隣には、リントン侯爵夫人が少し青褪めた顔で夫の様子をチラチラと窺っており、その母の隣でシャーロットは、ウットリとした面持ちでスタンリーを見つめていた。 スタンリーは、海獣神召喚にかなりの自信があった。 自身の魔力はこの城の者達の中で一番高いし、ヘビリアとも幾度となく“絆を結んでいる”。 万が一の為の“保険”もしてある。 失敗する要素が何一つ無い。 先日、王家に言い伝えられている『伝承』を再確認しようと書物を調べていると、興味深い文章を発見した。 “魔力高き王族の者と、『聖なる巫女』の直系の血を引きし者との“絆”が更に強く深まる時、伝説の獣神の召喚が成功するであろう”、と。 今の自分に全て当て嵌まっているので、スタンリーは、海獣神を召喚したら、次は伝説の獣神を召喚を試みようと目論んでいた。 それで更に王国内で自分の評価は急上昇するだろう。 もしかしたら、海を越えて世界中でもその名誉ある評判は広まるかもしれない。 スタンリーはニタリと口の両端を持ち上げると、真面目な顔を作り観客に厳かに告げた。「では、海獣神の召喚を始める」 スタンリーは目を閉じ、詠唱を唱え始めた。「――海獣神ネプトゥーよ、我の呼び掛けに応えよ!!」 詠唱が終わり、スタンリーが最後の言葉を放つと、魔法陣が赤く輝き出した。「赤色……? 儂の時は確か青色だった気が――」 淡く輝く魔法陣の色に、国王が疑問の言葉を
リシュティナには、いつ朝が来たか分からない。 眠りから目覚めて瞼を開けても、ただ一面暗闇が広がっているだけだからだ。 今も脳が覚醒し始め、そっと瞳を開けても、目の前は闇一色だ。 身体から、ヴィクタールの温もりが消えていた。「……ヴィル?」 上半身を起こし、小さな声でヴィクタールに呼び掛ける。 しかし、返事は無い。暫く待ってみても、返ってこない。 リシュティナは、真っ暗闇の中、急に独り取り残されたような疎外感に襲われた。「ヴィル……ヴィル、どこ? どこにいるの……?」 震える声でヴィルを呼びながら、カタカタと小刻みに揺れる手を前に伸ばす。「ヴィル――」 泣きそうになった、その時。「――リィナ」 待ち望んでいた声が聞こえたと同時に、伸ばされたリシュティナの小さな手を、大きく温かな手がギュッと握り締めてきた。 そのまま引っ張られ、いつもの温もりがリシュティナの身体全体を包み込む。 その温もりに、無意識にホッとしている自分がいた。「悪ぃ、手洗いと顔を洗いに行ってた。グッスリ寝てたからまだ起きないと思ったんだ。大丈夫だ、オレはお前に黙って遠くへなんて絶対行かない。死んでもお前の隣にいるって言ったろ?」 ヴィクタールは、リシュティナの震える身体を労るように更に深く抱きしめ、自分の額を彼女の額にコツンと当てた。「怖がらせちまって悪かった。けど、オレを求めてくれてすっげぇ嬉しかった。もう無いようにするが、万が一またこんな事があったらすぐ声を出してオレを呼んでくれ。すっ飛んで来るから」「…………うん、ありがとう」「ん。もっとオレを求めていいからな?」 ヴィクタールは嬉しそうな声音を出すと、リシュティナを抱きしめたまま、その首筋に自分の顔を埋めた。 滑らかなリシュティナの首筋に、ヴィクタールは甘えるように頬を擦り寄せている。(あぁ……どうしよう。私もヴィルに依存しちゃってる……?) リシュティナの心の中で、ヴィクタールを“魅了”から解放してあげたい気持ちと、ずっとこのまま彼と一緒にいたい気持ちがせめぎ合い、心揺らぐ自分が嫌になるのであった……。◆◇◆◇◆◇◆◇◆ “魅了”を解除する方法を探そうと決意したリシュティナだったが、一つ大きな難関があった。 それは、ヴィクタールが文字通りリシュティナから離れない事だ。 朝の件があってか
ヴィクタールは宣言通り、リシュティナから片時も離れようとはしなかった。 歩く時は指を絡めて手を繋ぐ。町で歩く時は勿論、家の中にいる時でもだ。 リシュティナがそっと立ち上がると、直ぐにヴィクタールが反応し、「どこに行くんだ? 一人じゃ危ねぇよ」 と、必ず手を掴まれ指を絡ませてくる。「えっと……ちょっと物を取りに行くだけだよ。場所は分かるから、手探りで行けるよ。一人でも大丈夫――」「ダメだ。そう言ってどこかにぶつかったらどうすんだ。言えばオレが取りに行く。お前はオレの傍で座っているだけでいいんだ」「え……そんな、悪いよ……」「全然悪くない。もっとオレに頼ってくれ、リィナ。オレはお前の為なら何でもやる。人を殺せと言われても、お前がそれを望むなら喜んで殺ってやるさ」「そ……そんな事絶対に言わない!!」「あぁ、そんなの知ってるよ。けど、それだけオレは本気だという事を分かってくれ」「…………」 こんな風に、過保護に拍車が掛かっている。度々不穏な台詞を言ってくるのが心臓に悪いけれど。 手洗いや浴室までついてこようとしたので、それは流石に全力で阻止した。「一人で出来ねぇだろ? オレが手伝う。最初から最後まで」「てっ、手伝……!? 最後まで!? だっ、大丈夫だよ、出来るから! 手探りで何とかなるから! 流石にものすっごく恥ずかしいからっ!」「……あぁ、いいな。オレに対してすごく恥ずかしがるリィナを眺めていたい――」「ヴィルッ!」「……分かったよ。チッ……」 とても不服そうな声を出され、更に舌打ちまで聞こえてきたけれど、そこは絶対に譲れない! とリシュティナは心を鬼にしたのだった。 ご飯はヴィクタールが作ってくれた。リシュティナの料理を手伝ってきたからか手際が良く、味も満点だった。 彼は一度教えたら、すぐにコツを掴んで何でもやってのけるのだ。 だからリシュティナは、町の人がヴィクタールについて噂していた、「何をやっても中途半端」「兄の方が出来損ない」とは全然違う事に疑問を持っていたのだった。 ――そしてそこでも、彼女にとって羞恥の時間が待っていた。「ほら、リィナ。あーんしろ、あーん」 ヴィクタールがリシュティナにご飯を食べさせたがるのだ。「あ、『あーん』て……。じ、自分で食べられるよ。大丈夫だから……」「ダメだ、こぼすだろうか。
視界が、真っ黒に染まっていた。 目を開けている筈なのに、一面に塗り潰された黒。 それ以外、何も無い。(――あぁ、本当に見えなくなったんだな……)「レヴァイ? レヴァイ……そこにいる?」「はーい☆ レヴァイ君、ここにいますよ~」「良かった……。ヴィルは? ヴィルは治った?」「えぇ、もうすっかり元気でピンピンですよ☆ けど、盲目の貴女の面倒を看切れないからって、どこかに行っちゃいましたよ。いやぁ、本当薄情ですねぇ。折角貴女が視力を失ってでも治したのに」「……そう……」 リシュティナは小さく頷くと、微笑んだ。「……良かった。ヴィル、こんな私の傍にいたら迷惑掛けるだけだもん。自分の行きたい所へ行って、幸せになってくれるといいな。折角『生きよう』って思ってくれたんだから」「おや? 恨まないんですか?」「え、何で? これは私が決めて勝手にやった事だよ。私は私の大切なヴィルに生きていて欲しかった。生きて幸せになって欲しかった。ただそれだけ」「おやまぁ、何とも健気ですねぇ。そんな絶望的な状態になって、死のうと思いますか?」 リシュティナは、レヴァイのその問いに首を横に振る。「ううん、思わないよ。だってヴィルが生きてるんだもん。離れていても、彼が生きている限り、この同じ空の下で一緒に生きるよ。そう……『約束』もしたから。……でも、何も見えないと本当不便だね……。それに、真っ暗だとやっぱり怖いね、ふふっ……。――ねぇレヴァイ、“対価”を渡すから、歩いててぶつかりそうになったら教えてくれる? あとは欲しい物がある場所とか――」「――そんなモン、コイツに頼む必要はねぇっ!!」 突然割り込んできた馴染みのある声に、リシュティナはビクッと身体を震わせた。「え? もしかして……ヴィル?」「この仮装悪魔がっ! 無理矢理オレに『沈黙魔法』を掛けやがって……! はっ倒すぞ!?」「おやまぁ、強制的に魔法を解除しましたね。流石莫大な魔力を秘めているだけありますねぇ。でも良かったでしょう? リシュティナの本音が聴けたのですから」「……クソ悪魔がっ!!」 ヴィルの悪態をつく声が聞こえたと思ったら、リシュティナの身体がふわりと温かいものに包まれた。「このバカッ! オレがお前を置いてどこかに行くわけねぇだろうが!! オレの幸せはお前と共にあるんだよ! お前がいなき
「ほら、さっさと持ってこないとまた刺すよ? いいのかな? このまま兄上が死んでも、さ?」 スタンリーはニヤニヤとしながら、鮮血の滴り落ちる短剣をリシュティナにわざとらしく見せる。「……わ……分かりました。だから……だからもうこれ以上、ヴィルを傷付けるのは止めて下さい! 約束してくれたなら、その指輪を持ってきます!」「あぁ、いいよ? 僕は嘘はつかないから安心するといい。君らと違ってね? アハハハッ!」 嘲笑いながら肩を竦めるスタンリーにリシュティナはギュッと唇を噛み締めると、家の方へと走っていった。「……フフッ、ねぇ兄上? あの女、兄上の大切な子なの? 随分と趣味が悪いねぇ。老人声だし、ヘビリアと正反対じゃん。彼女に振られたからって趣向替えでもしたの? そうだ、あの女を兄上の目の前で犯せば、兄上は悔しがってくれるかな? 僕の好みじゃ全然ないけど、身体は好みかもしれないしね。あの女が戻ってきたら早速始めようか? ククッ……」 スタンリーがうつ伏せで倒れ込むヴィクタールの傍に屈み、意地の悪い笑みを浮かばせながらそう言うと、ヴィクタールはゆっくりと顔を上げた。 その顔を見て、スタンリーは「ヒッ」と息を呑む。「おい、ゲス野郎……。そんな事しやがったら、オレはテメェを地獄以上の苦しみを与えて殺し、テメェが地獄に逃げて逝っても追い掛けてグッチャグチャになるまで殴って斬り続けるからな……。死んでも絶対に許さねぇ……」 激しく鬼気迫るヴィクタールの表情に、スタンリーの身体が無意識に大きく震える。「ふ……ふんっ! 僕より劣っていて、刺されて何も出来ない癖に何を言ってるんだか……っ」 悪態をつきながら、スタンリーはさり気なくヴィクタールと距離を取った。 その時、リシュティナが小さな箱を持って戻って来た。 スタンリーとヴィクタールが離れている事にホッと息をついたリシュティナは、表情を引き締めるとスタンリーに箱を差し出す。「どれどれ……」 スタンリーはリシュティナから奪うように箱を取ると、中身を確認する。 二つの指輪が、ちゃんとその中に入っていた。「――あぁ、そうだ、これだよ! ハハハッ! これでようやく海獣神を召喚出来る! 『富』と『力』は全て僕のものだっ!!」 スタンリーは大きく高笑いすると、クルリと踵を返した。「目的も果たせたし、僕はこれで失礼す
「す……スタンリー殿下に御挨拶申し上げます」 ハッと我に返ったリシュティナは、慌てて立ち上がるとスタンリーに敬礼をした。(薬、前もって飲んでて良かった……。けど何でスタンリー殿下がここに? ……もしかして……ヴィルを捜して……!?) スタンリーは、リシュティナの声を聞いて眉をあからさまに顰めた。「……ふぅん。ホントに不快な声を出すんだね、君。まぁいいや。兄上はどこ? ここにいる事は分かってるんだけど。ずっと……ずーっと捜してたんだよ」「………っ!!」(やっぱり……! どこで気付かれてしまったの……? 町の人達じゃ絶対にないわ。皆、ヴィルの事を私の兄だって信じてたもの。最近、変わった事は――あ! ……まさか……ヴィルの正体に気付いたロッゾさんが告げ口をした……!? ど、どうにか誤魔化さないと……!) どうしてヴィルを捜していたのかは分からないけれど、スタンリー殿下に彼の存在を知られては駄目……! ――リシュティナの本能が、何故かそう強く警告をしていた。「……スタンリー殿下の兄上とは、ヴィクタール殿下の事でしょうか。何故そのようなお話になっているのか分かりませんが、ヴィクタール殿下はここにはおりません。ご覧の通り、私一人でございます。家の中を探して頂いても構いません。御足労をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません」 そう言い、深々とスタンリーに向かって頭を下げる。 家には二人分の生活用品があるが、母と一緒に暮らしていた時の物だと言えば話の筋が通るだろう。「……兄上はいない、ねぇ……」 スタンリーはそうボソリと呟くと、顔を伏せているリシュティナの方へと歩いてきた。 そしてスタンリーは、リシュティナの頬を平手で強く叩いた。「………っ!」 リシュティナの身体が吹っ飛ばされ、地面に崩れ落ちる。「嘘をつくなよ。王族に虚偽を告げた不敬罪としてこの場で処罰されたいのか? さっさと兄上の居場所を言えよ」「………ヴィクタール殿下は……ここにはおりません。どうかお引き取りを……」「チッ、まだ言うか……。更に痛い目をみないと分からないらしいな」 倒れても尚頭を下げ続けるリシュティナに舌打ちをすると、スタンリーは拳を握り締め、彼女にゆっくりと近付く。「リィナッ!!」 その時、リシュティナを呼ぶ声と共に、一人の男が地面に倒れ込む彼女のもとへと一直線
「まだ兄上は――『古の指輪』は見つからないのかっ!?」「も……申し訳ございません! ヴィクタール殿下が落ちた海の中や周辺をくまなく捜しているのですが、一向に見つからず……。引き続き探索を致します」「兄上はともかく、『古の指輪』は僕にとって大切な物なんだ。さっさと見つけ出してこいっ!!」「は――ははっ!」 スタンリーに怒鳴られた騎士達は、慌てて深く敬礼をすると、部屋からそそくさと出て行った。「畜生、兄上め……! 一人で勝手に死ねばいいものを、余計な真似をしやがって……!!」 スタンリーは顔を歪めながら、近くにあった椅子を蹴り飛ばす。 ヴィクタールが崖の上で言い放った言葉と、城の者達に宛てた彼の『遺書』の所為で、スタンリーとヘビリアの評判は確実に落ちていた。 懸命に火消しには回ったが、不信感を払拭する事までは出来なかった。 その『遺書』については箝口令を敷いたが、やはり城だけに留まってくれなかった。 人の口に戸は立てられない。 案の定、城の者が家族や親しい者に言ってしまったのだろう。城下町にも漏れてしまっていた。そうなると、早い内に王国全土に広まる事は確実だ。 ヴィクタールが行方不明な事はまだ国民には公表していないが、彼が姿を一切見せないのは、濡れ衣を着せられ、弟と婚約者に裏切られて絶望し、自ら命を絶ったからだという“噂”が信憑性を増して広がっている。 早く手を打たないと、折角築き上げた自分の名声が地に落ちてしまう。 一気に評価を取り戻す一番の策は、『古の指輪』を使い、海獣神ネプトゥーを召喚し、彼から“王の器”として認められる事だ。 その為にも早急に『古の指輪』が必要なのに――「クソッ!!」 ヴィクタールが崖から落ちていく時の、勝ち誇ったような笑みを浮かべた顔が、スタンリーの機嫌を更に悪くさせる。「何だよあの顔はっ! 死ぬんなら悔しがって死ねよ……!」 鋭く舌打ちし、更に椅子を蹴っていると、部屋の扉がノックされ、間も置かずヘビリアが姿を現した。「こんにちは、スタンリー様ぁ。何だかお怒りのご様子ですねぇ?」「……何の用だ、ヘビリア。僕は今君に構っている時間は無いんだ」「つれない事を言わないで下さいよぉ。とっておきの情報を持ってきてあげたのにぃ」「……何?」 動きを止めたスタンリーに、ヘビリアは目を細めてクスリと笑うと、彼の
新しく耕した畑に、購入した種を植え終わった時には、もう日が暮れようとしていた。 家に入ってそれぞれシャワーを浴び、協力して晩ご飯を作り美味しく戴く。 その間、リシュティナはヴィクタールに対し平常心を心掛けた。彼もいつもと変わらない応対で、内心ホッとする。 後片付けをして歯を磨き、あっという間に就寝時間となった。(……どうしよう……) ヴィクタールへの想いを強く自覚してしまったリシュティナは、彼と至近距離で、更に向かい合わせで眠る鋼の心臓を持ち合わせていない。 そんな彼女の心など全く知る由もなく、ヴィクタールは先にベッドに入ると寝転び、リシュティナを呼んだ。「どうした? 早く来いよ、リィナ」「あ……う、うん……」 リシュティナはオドオドとベッドに入り、ヴィクタールの隣に横になると、すぐに彼と反対側を向いて布団を被った。 今の自分はこれが精一杯だ。「……リィナ、どうした? 何でこっち向いてくれないんだ?」 案の定、ヴィクタールから疑問の言葉が投げ掛けられる。「……えっと、その……。私の顔不細工だから、近くであまり見て欲しくないというか……」「はぁ? 何だよそれ? もしかして、雑貨屋で会った男に何か言われたのか? やっぱアイツ、十発ブン殴っておけば良かったぜ……。――そんなの気にすんな、リィナ。お前は可愛いよ。誰よりもすっげぇ可愛い。オレはいつでも四六時中お前の顔を見ていたい」「…………っ」(む、無自覚なのに殺し文句過ぎる……っ)「う……あ、ありがと……」「だからさ、こっち向いてくれよ。リィナ?」(貴方のその台詞の所為で、顔が異様に熱くて余計にそちらを向けません……っ)「……ご、ゴメンね……。今日はやっぱり……このまま寝るね……? お、おやすみ……」「…………」 リシュティナの一杯一杯の言葉に、背後から深く息を吐く音が聞こえた。 そして、後ろから逞しい腕が伸ばされ、リシュティナの肩と腹に回される。 そのままグイッと引き寄せられ、リシュティナはヴィクタールの腕の中に閉じ込められていた。「えっ!?」 背中に彼の温かい体温を感じ、リシュティナは身体をピシリと硬直させる。「無防備。――襲うぞ?」 ヴィクタールはリシュティナのすぐ耳元でそう“男”の声音で囁くと、突然、彼女の耳朶を甘咬みしてきた。「ひゃっ!?」 ビクリと
ヴィクタールは舌打ちをしながらロッゾの腕を乱暴に離すと、彼が涙目になりながら喚いた。「な、何だお前はっ!? いきなり乱暴を働くなんて野蛮な奴だなっ!」「お前の方が先にオレの妹に乱暴を働いたんじゃねぇか。コイツの手首を見てみろ。こんなに赤くなっちまって……。妹に謝って貰おうか」(……妹……) ……分かっている。最初にそういう“設定”の提案をしたのは私だ。 だから、彼が私を『妹』だと言うのは間違っていない。 けれど、彼が私の事を『妹』と言う度、胸が痛くて苦しくなる……。(あぁ……。こんな自分、本当に嫌だ――)「は? 『妹』……? リシュティナに兄がいたのか……?」「お前にオレの大事な妹は絶対にやらねぇ。聞けばお前、コイツに告白した翌日に浮気したんだろ? お前が働く屋敷の娘と。そんな軽薄男に大切な妹をやるわけねぇだろうが。二度とそのツラ見せんな。次コイツの前に姿を見せたら、問答無用で叩きのめすからな」「ヒェッ……」 ヴィクタールのドスの利いた声音と、怒り全開の気迫に、ロッゾの顔は真っ青になり、身体中に冷や汗を吹き出させながら走って逃げていった。「ちっ、クソ野郎が。――大丈夫か、リィナ? 家に帰ったら、その手首手当てしような」「……あ……。うん、ありがとう……」「……元気ないな? あの男の言った事なんて気にすんな。もしまたヤツに会っちまったら、すぐにオレんとこに逃げてこい。分かったか?」「うん……ありがとう」 無理矢理笑顔を作るリシュティナをヴィクタールは眉根を寄せて黙って見つめると、唐突に彼女の手を握った。そして、その細い指に自分の指を絡める。 温かく大きな彼の指と手に、リシュティナの胸が一気に跳ねた。「会計してすぐに帰ろうぜ。早速新しい種植えてみるか。楽しみだな?」「……うん、そうだね」 会計の時もリシュティナの手を離そうとしなかったヴィクタールに、店主から、「おやおや、仲の良い兄妹だねぇ。まるで恋人同士みたいだ」 と笑われながら冷やかしを受け、「あぁ、恋人みてぇにすっごく仲良いぜ、オレら」「おやおやまぁ、ごちそうさま。ホッホッホ」 その冗談にヴィクタールまでも乗っかったので、リシュティナの顔が瞬時に真っ赤に染まったのだった。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇「何だよ……。リシュティナに兄がいたなんて聞いてないぞ……。アイツが